『幸福な人生』
平成が終わりに向かい、新たな元号令和を迎える大型連休中。
都内の外れにある、周りを緑に包まれたどこにでもあるアパート。その取り立てて特徴のない簡素で質素な六畳ひと間の部屋にて。
昼下がりの陽光が差す中、俺は横になってボーッと天井の木目を見つめながら考え事をしていた。
(幸福な人生って、なんだろうな…)
この世に生まれ落ちて二十五年、現在の俺は独りだった。
しかし、今日びそんな奴は珍しくもないだろう。俺の場合は一人っ子で両親は既に他界、親戚とも関わりが薄く友人も作ろうとしなかった結果だ。日常はアパートと職場とスーパーで完結し、趣味も読書や音楽鑑賞となれば、独りになったのも必然と言える。
そんな俺が本も読み終わり、音楽を聴くでもなくテレビを観るでもなく、余りある時間を贅沢に持て余して考える、幸福な人生。
開け放った窓からはサワサワと過ごしやすい風が流れてくる。ベランダには暖かな陽の光に晒され干された布団が気持ちよさそうに垂れていた。ああ、もうそろそろ押し入れから扇風機も出さないとな、とボンヤリ思った。
さて、幸福な人生と言ってまず思いつくのは、今の年齢プラス五年以内の内に結婚し、子供をこさえ、孫を見て家族に囲まれて老衰か病気で穏やかに死ぬ、といった感じだろうか。
子孫を残して死ぬ、というのは生物的に正しいし、この考えの人もきっと多いハズだ。
しかしこの『幸福な人生』を俺が歩むためには、些かハードルが高いと思われる。
大前提としてパートナーが必要だということ。もうこの時点で詰みである。恋愛経験は人並みにあったハズだが、関係が長続き(一年以上とする)した相手は居ない。俺は甲斐性がないのだろうか。
子どもは欲しいが、子育ての自信はまるで無い。いや、きっと自信を持って子育てしている人間なぞ居ないだろう。皆が子育ての達人なら、今頃世界はもっとイイ世の中になっているはずだ。もっとも、子どもが育つ要因は親以外にもあるが。
…話が逸れた気がする。俺が幸福な人生を歩むためには、だったな。
とりあえず結婚云々は除外だ。となれば、個人の幸福に絞られる。
では、個人の幸福とは何か。
真っ先に考えつくのは、富と名声。その内の富、金があればどう足掻いても絶対に幸せだと言える。
ただこれも難しい。一時期、俺は株やFXに夢を見た。そしてやった。そして惨敗した。よくある話である。
まあよく考えなくても、誰でも始められるのに「成った人間」がネット上にしか居ないのが全てを物語っている。もし成った人間が本当に存在するならば、それは相応の正しい努力と忍耐、ノウハウを経ているという事だ。俺にはそれが出来なかった。
だったら真っ当に、今務めている会社でキャリアを積む、という手もあるが、それは絶対にイヤだ。上司の姿を見ていると管理職は絶対なりなくないと思う。あの人、いつ家に帰っているんだろう…
会社の事は家で思い出したくない。次行こう、次。
名声…は、言わば承認欲求だ。情報社会のこの時代、個人が注目を集めるのは比較的簡単だと言えよう。
SNSや動画配信で、相手の顔は見えずともコチラの知名度を上げられるご時世。現に、テレビに映る芸能人レベルで有名になっている一般人が溢れている。
上記の『幸福な人生』に比べれば容易に達成出来そうな部類ではあるが、しかしムリだな。
有名になっている人たちには、何かしら突出した一芸があるのだ。
対して、俺には何も無い。単純な話である。
そもそも人見知りでもある俺に動画配信は荷が重い。却下だ却下。
ならば、『俺』が有名なるのではなく『作品』で有名になるのはどうだろうか。例えば、絵が描けるだけでSNSでは神の如く扱いを受けられる。これは名案だ。
っが、難しい。
これは本当に単純に難しい。やってみたから分かるんだ。
まず、今この時から絵を描き始める難しさ。承認欲求欲しさに始める絵の練習は苦痛以外の何物でもない。絵を描く行為が全く、まっっっったく楽しくないのだ。
加えて、俺は目が肥えている。
絶えず流れる神絵を流し目で見ているせいで、自分の描いたモノが見るに堪えないのだ。初心者なのだから絵は下手で当然なのだが、志がムダに高いばかりに下手なのが耐えられないのである。結果、向上心が絶える。
神の如く扱いを受ける彼らの絵は、正に神の如し所業なのだ。
俺はため息をついた。結局、何をするにしても相応のプロセスが必要だという事を再確認しただけである。
そもそも、今まで何も成してこなかったクセに一丁前に欲を通そうというのがおこがましいのだ。現在進行形で凄い人間は、ソレに応じた努力をしてきた人間であって、のほほんと生きてきた俺は今この状態が『幸福な人生』の天井なのだ。
しかし、こうして考えてみると、幸せというのは他者との関わりが必須なんだなと思う。完全な『個人』としての幸せは存在しないんじゃなかろうか。
それを考えると俺はこの先…
…。
俺は思考を一旦切った。どうも不毛な考えに気が重くなったのだ。
なにより喉が渇いた。俺はひとつ伸びをすると立ち上がり、冷蔵庫から野菜ジュースを取り出した。
別に健康に気を遣っているワケではない。この味が好きなのだ。他にも、特濃豆乳や百パーセントのフルーツジュース、ブラックコーヒーなどが俺の飲物のラインナップである。酒はあまり飲まない。
一息ついでにコーヒーも飲もう。
俺は豆を取り出してコーヒーミルに投入し、ゴリゴリと削っていく。朝のランニングの後にもモーニングコーヒーを飲んだが、一日二杯までの自分ルールだ。時間的におやつをつまむのも丁度いい。
コーヒーをドリップしている間に、戸棚からカカオ七十二パーのチョコレート二粒と、開封済みの乾パンを取り出す。
コレも俺の好物だ。七十二パーのチョコレートは絶妙な甘さと渋みがイイ。乾パンは素朴な、それでいて噛めば噛むほど甘くなる味わいはコーヒーによく合う。腹にそこそこ溜まるし、食感もパキパキ、ボリリと小気味よいアクセントを奏でてくれる。非常食としても優秀であるし、いい事ずくめの品だと思っている。
ちなみに昔の友人に乾パンを勧めたところ、「頭おかしいんじゃねぇの?」と罵られた。解せぬ。
そんな最高のお菓子たちを机に広げ、隣人の迷惑にならない程度に好きなCDの音楽をかけドリップを待つ。
それでも暇なので軽く筋トレやストレッチをしていると、コーヒーの芳しい香りが漂ってきた。やったぜ。
俺は筋トレを切り上げ、流れる曲に鼻歌を添えながらポットからマグカップにコーヒーを移していく。トポポポ、と良い音が注がれた。
マグカップぎりぎりにまで注がれたコーヒーを少しだけ啜り、舌を火傷しながら机に戻る。座椅子に腰掛け、机に積まれた本の上に鎮座するスマホを手に取り、コーヒーが冷えるのを待つ。
チョコレートをひとつ口に運んだ。パキパキと口の中で破砕し、その甘さと渋さを堪能する。
俺は件のSNSを開いた。一言呟くのを旨としたそのアプリだが、俺は呟くことなく他人の投稿を追うばかりだ。フォロー数ばかり増えて、フォロワーなど相互してくる奴しか居ない。当然の帰結である。俺にとってこのアプリは情報収集アプリなのだ。
好きなアーティストや漫画家、先の神絵師など、フォローするのはそんな感じだ。俺みたいな持たざる者、いや、持てなかった者──…これも語弊があるな。
──『持つことすらしなかった者』は、ハートを送るか拡散するか、感想を送って好意を示すしか、する事がない。
だが、今日の俺は黄昏ていた。このアプリの名前に基づいて、俺は何の気なしに呟いた。
『幸福な人生ってなんでしゃうね?』
コーヒーを一口啜り、気付いた。誤字った。俺は恥ずかしさを感じて消そうかと思ったが、まあ俺みたいな底辺アカに反応するヤツは居ないかと思い放置した。
その後はいつも通り画面をスクロールしながら、乾パンを食べコーヒーを飲み、一休みした後、布団を取り込んだ。畳の上に敷き早速ダイブする。ポカポカしてて気持ちが良かった。
しばらくゴロゴロした後、手持ち無沙汰になった俺はバイク・車の順で給油・洗車しにガソリンスタンドに出掛けた。その足でスーパーに寄り買い物を済ませ家に帰ると、夜の帳が下り始めていた。
綺麗になった車とバイクを一通り眺めた後、買ってきた米を炊いて豚肉を焼いて、ビールのプルタブをカシュッと開けた。特に祝い事はないが、何だか無性に飲みたい気分だったのだ。ムシャムシャ食べた。
晩餐の後、風呂を沸かしてシャワーを浴び、広げた布団の上で軽くストレッチをして布団に潜った。
ひとつだけやっているカードゲームアプリにログインして一通り遊び、本を読み漫画を読み漁った後、最後に件のアプリを開いてスマホを眺めた。
「ま、そうだよな」
俺は自嘲気味な笑った。
淡い期待は見事に打ち砕かれた。澄ました顔をしていたが、ちょっとだけ期待していたのだ。
コレが物語だったなら、いつも感想をくれる俺の唐突な暗い呟きにどこかの誰かの名のある有名人が反応して、誤字を茶化されながら相談なり雑談なりしてなんやかんや現実で会うことになり、恋が始まるか友情が芽生えるかという壮大で活劇チックな出会いが始まる…──と密かに妄想していたのだが、所詮妄想だったワケだ。
「………寝るか」
明日は、綺麗にしたバイクで何処かに出掛けようか。連休だし、キャンプしてもいい。
車でもいいな。好きな音楽をかけながらドライブ。通勤はいつもそんな感じだが、知らない道でそれをやるからこそ意味があり、楽しいのだ。
『幸福な人生』なんてスケールの大きいことを考えても仕方がない。俺には能力もなく、努力もしなかった。その現状で、出来うる最大限の幸福を噛み締めよう。
『明日の楽しい一日』を考えよう。
それを考えるとちょっとだけ気が持ち直された。よし、明日どこに出掛けるか調べよう。俺は地図アプリを開いた。
が。
「予約が…ッ!」
何事も、行動は迅速的に。
その後、ムシャクシャした俺はジャケットを羽織りバイクに跨ると、近くのラーメン屋に突撃した。旨かったが次の日風邪を引いた。風呂上がりで夜風に晒されたからだ。俺のゴールデンウィークは終わった。