Inning8 No man is an island
青々と天然芝が広がりみずみずしい黒土はきっちりと整備されている。
ここは都内にある社会人チーム「太陽生命」の所有する球場。
休日の午後、このグラウンドで今から紅白戦が行われようとしていた。
40数名がグラウンドに散らばり準備運動を行う中に俺の見知ったアホヅラがあった。
タツミはこのチームの練習に時々混ぜてもらいたまに紅白戦に出してもらっていた。
今井さんが卒業してから1年。俺たちは大学4年の春を迎えていた。あれからタツミは柔道部での練習を続け、また森里さんに扱かれ、漸く野球の実力が人様の目に触れてもいいレベルになった数ヶ月後彼女の兄の所属する太陽生命の練習に招待されることとなった。またそこでは森里兄が主に面倒を見てくれたらしい。
森里家は兄妹揃って野球には厳しいらしく月数回の練習参加ではあったがタツミは毎回ボロボロになって帰ってきた。未だにこの頃の練習の内容について尋ねると「地獄だった……ただただ地獄だった……」そう言ったきり口を噤んで語ろうとはしない。
そのような猛特訓の甲斐もあったのだろうか。タツミは1年前に比べるとふた回りほど身体が大きくなり体重も5、6キロ増えた。野球の実力ももはや草野球レベルでは無くなっていた。
今日はこの社会人チームの紅白戦に3度目くらいの出場をすることになっている。過去2回はいずれも代打で計2本のシングルを打っている。球場の電光掲示板には「白組 6番サード 道免達海」の文字があった。
「オイオイ、スタメンかよ……やるなあアイツ」
ここ1年の努力は知っていたが思わずそう呟く。無理もない。太陽生命といえば毎年プロ選手を輩出している名門チームだ。
その紅白戦でゲストとしてスタメン。大したものである。
「無様な姿を晒したら……どうしてくれようかしら」
観客席に座る俺の隣には森里さんもいた。はい、では今日の解説よろしくお願いします。
5月の真っ青な空に雲が二、三浮かんでいる。爽やかな春風が心地よく絶好の野球日和だ。
準備運動とストレッチを終えたタツミがこちらを見て近づいてくる。そしてそのままフェンスを乗り越え俺たちの座席までやって来た。
周りの観客からクスクスと失笑が漏れ出る。ごめんなさい、この人ちょっとおかしいんです。俺たちはいい面の皮だ。
「……おい、何やってんだよ。はよ戻れやバカヤロウ」
タツミの相変わらずの無軌道さ加減に森里さんは呆れたのかもはや何も反応しない。
「あー、うまそうなもん食ってんのが見えたからよ」
そう言ってこのアホは俺の持ってた唐揚げの残りを全て摘み上げ口に放り込んだ。
「テメ、バカヤロー!後で弁償しろよな!」
「まあまあ、慌てんなよ。今日はいいもん見せてやっからよ、おうゆかこも見とけよこのヤロー」
「いいから早く戻りなさい。カチ割るわよ」
アホは俺たちを指差すと再びフェンスを乗り越えグラウンドへと戻っていった。
「ほんっとどうしようもないな……あのアホは」
――――――――――
試合が始まり2回裏に早くも得点圏にランナーを置いてタツミの打席が回ってきた。
ヤツが右打席に入ると軽く両チームからヤジが飛んできた。
「しっかりしろよビッグマウス‼︎このバカヤロー!この野郎‼︎」
「この試合スカウトも見てるぞオイ!」
これは愛されてるんだろうか、揶揄われてるんだろうか。よくわからない。
まずは1球目、外高めのストレートを見逃してボール。
2球目、外スラを全力で空振ってストライク。
3球目インハイストレートは外れてボール。
そして、4球目。再びストライクを取りに来た外へのスライダーを全力で打ち返す。ガシィィ!という木製バットと硬球のぶつかる音が聞こえる。
打球はライト方向へ高々と上がってやがてライトのグラブへと収まった。ライトフライ。
「あーーあ」
「まあ全力で打ちにいったのは評価できるわね。反応も悪くなかった」
1年前のタツミなら右方向へあそこまで飛ばすことも出来なかっただろう。レベルの高い外スラもバットにすら当たらなかっただろう。やはり成長している。
タツミはこちらをチラッと見るとベンチへと小走りで帰っていった。
――――――――――
試合はレギュラー中心の紅組優勢で淡々と進んでいった。
その後のタツミの打席はというと
2打席目 フォアボール
3打席目 三振
4打席目 セカンドゴロ
と未だシングルすら出ていなかった。
「大きな口を叩いた割には大したことねえな……」
まあこんなもんだろう。後は最終回裏の白組の攻撃を残すのみ。もう今日はタツミに打席が回ってきそうにない。帰りにどこであのバカに夕飯を奢らせてやろうか、と算段し始めたころだった。
マウンドには8回から投げているプロ注目の山田投手。9回もツーアウトまでこぎつけたところで内野のエラーが2つ出てあと1人出ればあのバカに打席が回ってくる、という状況になった。
紅白戦とはいえマウンドに選手が集まっていた。
「……まわってくるかもしれないわね」
「え、マジで」
ランナーを出してしまったとはいえ、山田投手の調子は悪くない。少なくとも俺の目にはそう見えた。
しかし、選手が守備位置に戻り再びゲームが再開された時、捕手が立ち上がってミットを構えた。敬遠だ。
「タツミ勝負の方が確実でしょ」
「クッソ舐められてんじゃん」
スコアは5-1で紅組リード。満塁にしてでも素人のタツミを打ち取れる自信がある、ということか。
両チームのベンチからはクスクスと小さな嘲笑がおこる。まあ笑えるよな。
しかしタツミはいつものアホヅラで意気揚々と打席に入る。土を均してバットを高く掲げ、そして構えた。
マウンドではプロ注目の投手山田がセットポジションに入った。
1球目 インハイストレート ファウル
スピードガンでは「145㎞」という表示が出ていた。
2球目 インコース スライダー ボール
3球目 アウトハイ ストレート ファウル
4球目 インハイ ストレート ファウル
5球目 アウトロー スライダー ボール
直球狙いだろうか。ここまでは変化球に対して反応していない。ヒット狙いならストレートに絞った方が確率は高いような気はする。しかしもうすでに投手有利のカウントを作られてしまっていた。そろそろ決め球がくる。
やはりプロ注目の投手だけあって球威が違う。特にスライダーがキレキレだった。
そして6球目。
投じたボールはストレートの軌道を描き打者の手前で急激に落下した。
――SFFだ。
このボールは三振を取りたいときに決め球として採用されやすい。そしてキレのあるストレートと混ぜられると見極めは難しい。
シュコォォォン‼︎
しかしタツミはすくい上げるようにバットを振りきった。
気持ちのいい打撃音が球場に響くと打球はみるみるうちに空へと吸い込まれていく。
やがて白球はアーチを描くように自由落下していくとバックスクリーンへと突き刺さりその運動を止めた。
――同点満塁弾
一瞬球場の音が消えたかと思うとワッと観客席から歓声が上がった。
両手を掲げバカヤローはダイヤモンドを一周する。ホームベースでは両チームからの手荒い祝福でもみくちゃにされていた。
「……やっぱりなんかもってるわね。あの顔は腹立つけど」
「え、もしかして今褒めた?めずらしい……」
森里さんがタツミを褒めたのをはじめて目の当たりにした。
「いや全然」
真顔で否定された。頑固だな。
「褒められると調子こくし。あいつは踏まれて伸びる子だから。すごく吸収率の悪いスポンジだけど」
森里さんはそう言って微かに笑っていた気がした。
◇
「でよお、そこで大槻に会ったぜ。俺の勝ちだったがな」
「ベスト8投手じゃないか。へえあのレベルでもプロテスト受けにくるんだな」
月日は巡り、9月の半ば。秋の夕陽が緋く窓に反射している。俺たちは共に都内へ向かう電車に揺られていた。
俺はある企業の就職面接を受けるため、タツミは明日のプロテストを受けるためだ。所謂前乗りである。
こいつは夏から秋にかけ関東で行われたプロテストを片っ端から受けている。先ほどの会話もプロテスト時に対戦した相手のことだ。今夏テレビで見たことのある好投手も受験に来ていて驚く。
「しっかし森里兄も冷たいぜ。兄妹揃ってあれだけ俺を扱いておきながら『太陽生命の就職口はあると思うな。死ぬ気でプロテスト受けてこい』だぜ⁉︎信じらんねーよな?」
タツミが眉を顰めながら窓をコツコツと叩く。それは発破をかけてくれているんじゃないか、という言葉を呑み込む。この気の回らないバカにはいい薬かもしれない。
「ジャイアンツ、横浜、西武、ロッテ……今日は5球団目か?」
「おう、今日こそはつば九郎に卍固め掛けてプロ入り決めて来るわ」
「絶対にやめとけ」
マスコットをKOしてどうする。掛けられるのはドラフト候補ではなくおそらく手錠だろう。
そろそろ俺の降りる駅が近づいてきた。
小学校からの腐れ縁。こいつと違う駅で降りるのは何年ぶりだろうか。これからはこういうことも増えていくだろう。改めて数ヶ月後には俺たちの道は分かれるんだな、と実感する。
人生ってのは電車と駅みたいだな。いろいろな人が乗り合い、束の間の空間を共有しいずれそれぞれがどこかの駅で降りて、そして別れと出逢いを繰り返す。
周りの面子が変わる中でもこのアホヅラとは変わらず長い間同じ列車を共にしてきた。たまには背を向け合うことはあったがお互い同じ席を降りることはなかった。
同じ旅路を行くのはあと数ヶ月か……
結局こいつのバカは治ることはなかったな、もっと厳しくするべきだったか?なんて思ってると急に後頭部に衝撃が走り「ブグッ!」と思わず変な声が出てしまった。タツミテメエコノヤロウ……!
「いってえな!この野郎‼︎何すんだよ⁉︎」
「いやあ、なんか辛気臭え顔してやがったからなんとなく」
「なんとなくで人の頭にフルスイングするな……」
本当に痛かったので俺は目頭を押さえ顔を顰めた。