海の風邪
あまり気にすることのなかった藍沢家の事情。
けれど思い出せば、ふと寂しそうな横顔で黙り込む海の様子に、私は知らず焦って、笑わせようとしたっけ。随分、馬鹿な真似もした。それをぽかんとして、ちょっと引きつつ、笑い出したら成功だとホッとしたり、ただ寒くなるだけだったり。
幼馴染の大切な友人。
それでも、異性だから、いつの間にか踏み切ることのできない一線ができていて。
寂しいなと思ったり、でもだからこそ一緒にいる時間が楽しかったり。
私が海を特別な人だと認識したのは、多分あの時だと思う。
私が小学4年生のころ。
何故か、クラスの男の子たちに揶揄われたり、苛められることが多くなった時があった。
決定打となったのは、体育館裏の倉庫に閉じ込められたことだ。
春先で、まだ寒い時期。叫んでも誰も来ない。次第に喉がかれ、温度は着々と下がって、空腹と疲れが孤独や悲しみ、恐怖を更に助長させて、ただただ座り込んで震えて泣いていた。
どのくらい時間が経ったのかも分からない。夕陽が去ったことだけが分かるだけ。
このまま誰にも気づかれなかったらどうしよう。
ここで死んじゃうんだろうか。
涙は枯れ果てたのに、恐怖だけは重くのしかかったときだ。
倉庫の扉を叩きながら、海の声で私の名前を呼んだのだ。
「真衣!真衣!そこにいるのか、いるなら返事しろ!!」
「海!!ここにいるよ!閉じ込められて、出られないの!!」
彼はすぐに動いて、保護者と担任に連絡をとり、無事に救出されたとき、私は嬉しさと安堵とで海に抱き付いて泣いた。
海はビックリしつつも、たどたどしく私の頭をポンポンとして、泣き止むまでずっとそばにいてくれた。
その時、同じくらいの身長でいつも一緒にいた海は男の子なんだと強く認識したのだ。
後から聞くと、いつも一緒に帰るはずの私の姿が見えず、用事があるなら一言断るはずなのになんとなく嫌な予感がして探していたという。
母は母で、いつも時間に帰宅しないことを不審に思い妹は留守番で母からの連絡を待つ担当、母が捜索担当として乗り出し、そこで海とばったり遭遇。同じく探していることを知ると二人で協力することになった。
あと数十分遅かったら、警察に通報しようと思っていたと母が言う。
だが、すぐに海が来て「見つけた。すぐに担任と学校に連絡して体育館の裏の倉庫を開けて!」と必死の形相だったと。
その子達は後で校長から直々に説教1時間、彼らの両親の呼び出しも行われ、私に謝罪しに来た保護者がいるなかで、最後まで苛められる方が悪いんだと駄々をこねて謝ることなどなかった保護者もいる。
でも、彼はもう私に近寄ることはなくなったから、どうでもよかった。
それも後で知ったことだが海が、私に近寄るなと何か言ったらしい。
遠くで睨んでいることがあっても、海がいるとそそくさと逃げていったところからして、確実だろう。
私と海は、クラスが同じになったり離れたりしていたけど、同じところに帰るんだから一緒に帰ろうと私が言い出して4年目でその事件が起こって、彼は毎日、私に今日の予定を聞きにくるようになったし、一緒に帰れるか確認を取りにくるようになった。
心配だったんだろう。
そんな些細な変化が嬉しくて、大事にされていると感じるたびに胸が締め付けられるような喜びがあった。
そんな彼が寂しいなんて思う瞬間がなければいい。そばにいたい。そばにいて彼の笑顔を間近で見ていたい。
ずっとそばに。
そう願うようになって、初めて私は自分の胸の中で育った想いを恋だと気づいた。
気づいたら、たまらなく愛おしい気持ちが膨れ上がって。
それでもいつも通り接するために女優になって。
でも、彼がもし自分と同じように誰かを想うときがきたらと想像して切なくなって。
告白して、振られて、誤魔化して怒らせて。
海が妹を気にするようになったとき、血の気が引いた。
一番大好きな人が、一番大切な妹を好きになったら。
祝福できるという自信は、私にはなかった。
いっそ、それぞれから一歩一歩離れていって、私一人だけになって孤独の道を選んだほうが楽なんじゃないかと思った。
そうこうしているうちに、永遠に終わらないでほしいと思っていた日曜が当たり前のように終わり学校が始まった。
それぞれの想いを抱えて、重い足を一歩、二歩と進んでいく。
海はいつにも増して静かだし、妹は俯いて緊張している。
私はというと、一人でなにかアホなこと言いながら、両隣の二人の様子にピリピリしてた。
学校に着くと、三人とも自分のクラスに行くのだが、海が珍しく私を呼び止めた。
「真衣、今日用事あるか?」
「ううん、ないよ。」
「なら、ちょっと相談があるんだ。」
「相談?いいよ。」
でも、なんだろう?
急に鼓動が早くなる。
今から心の準備をしたいから、せめてどんな話なのか大まかなことを教えてほしい。
そう思ったのも束の間。
海は、通りがかった友人に連行されていった。
「相談、かぁ。今の真衣の心境、推測できるわ。」
背後から麗華の声がした。
「いきなり背後で喋り出さないでよ、ビックリする。それで、私の心境ってどういうことよ。」
「恋愛相談なの?いや、聞きたくない、でも知りたい、でも知りたくない、ってところでしょ。」
「もう!勝手に決めつけないでよ!」
図星だった。
悩んでいる暇はない。
またしてもぼうっとしている間に体育の授業がやってきて、隣クラスと合同バスケになった。
そのクラスには海がいる。
だが、その海は朝見た時より青白く、見るからに具合が悪そうだった。
「ねえ、藍沢君、顔色悪くない?」
「うん、私もそう思った。」
麗華の囁きに、私も肯定する。
海は具合が悪い時、自分からは絶対に言わない。弱みを見せるのが嫌なのか、心配させたくないからなのか、多分どちらも当てはまるのかもしれない。
でも結局、こじらせるのだ。
走る足がふらつき始めている。
私は、見ていられずに教師の元に行った。
「先生、藍沢君、今日具合が悪いそうです。休ませてはもらえませんか?」
そう言うと教師は顔を歪めて。
「なんだ、お前。そういうことは本人がいう事だ。それともお前はあいつの妻のつもりか?」
そうそう、この体育教師は皮肉屋で歪んだ性格の持ち主だった。そして潔癖。
「はい、そうです。それにボールを嘔吐物で汚されたくなかったら、休ませたほうがいいですよ。彼は強がりなので何も言わずにおぇーです。」
「……。分かった。保健室に連れていけ。」
「はい。」
選手交代の合図を鳴らし、海が外される。
その隙を狙って、私は海の腕を掴んで保健室に連行した。
背後からからかうように口笛を吹かれたり、女子のいやぁ~!藍沢君~~!という悲鳴を聞きながら。
保健室に連れていくと、保健の先生がすぐ体温を計ったり具合の悪い箇所を訊きだしてベッドに寝かせて休ませることになった。
「それじゃ、藍沢君、今日はお昼までここで寝て。午後になったら帰って病院に行くこと。良いわね。」
「病院行かなきゃダメっすか?」
「当たり前でしょ。」
というやり取りをしている横で私は自分のやるべきことを考えた。
「それじゃ、私海のクラスに行って荷物持ってくるから。それと担任にも伝えておく。」
「悪い。真衣。」
「いいよ、お互いさまでしょ。」
「…二人って本当に仲が良いわよね。」
「あ、幼馴染なんですよ。家もお向い同士。」
そう言うと保健の先生は何かひらめいたかのようにパっと笑顔になった。
「それなら緑川さん、藍沢君がちゃんと病院行ったか、家に見に行って監視してくれないかしら。きっと、あなたのいう事なら聞くと思うから。」
「え、私の言う事なんて聞きゃしませんよ。」
「ううん、絶対大丈夫。あなたに任せるわ!!」
まあ、いいか。どの道お見舞いしにいくつもりだったし。
そうでもしないと、彼はご飯も水もろくに摂らずに、薬だけ飲んで治ってもないのに治ったと言い張るだろう。
「…分かりました。」
うんうん、といささか上機嫌に鼻歌を歌いながら先生は「私から担任の先生に伝えておくわね♪」と去って行った。
静かになった保健室で横たわる海の横に立って、私は彼をじっと見て言った。
「今朝から具合悪かったの?」
「…いや。急にだよ」
「そう。」
「……それより体育の村橋にあんなこと言って。後で後悔するぞ」
「何よ、お前は妻のつもりか~、はいそうです~の件?…だって、腹が立ったんだもん。それに、あいつひねくれてるし押し問答してるより、海を早く下がらせたかったのよ。……あ…でも、ごめん。…本当」
急に思い出したのだ。
海には好きな人がいる。その好きな人にきっと誤解されてしまう。
「海、好きな人いるんだよね。…その子が聞いたら誤解させちゃかもしれない。頭に血昇ってて冷静な判断じゃなかった。ごめん。……とんでもないこと言っちゃったよね。ごめん。」
「いや、そうじゃなくて…」
「もし弁解が必要になったら言って!!ちゃんと違うんだって力説するから!!それじゃ、荷物持ってくるから、ちゃんと寝てるんだよ!!」
私は勢いのままで飛び出して、保健室の前で立ち止まる。
どうという意識のないまま、立ち竦んでいる状態だった。
海の好きな人に誤解させてしまったら…。
もしそれで海が苦しむことになったてしまったら。
あの時点でヒューヒューと囃したてていた。
海も、これからきっと私のせいで同じ目に遭ってしまうことになる。
フラフラした足取りで海のクラスまで行き、荷物をまとめる。
まだ体育の授業は終わっていないようだ。
保健室までの道中、職員室の前で海のクラスの担任の先生に声を掛けられた。
「あ、荷物まとめてくれたんだ。なら、今日配るはずのプリントも用意が既にあるから渡してしまうよ。藍沢君に渡しておいてくれ。」
「はい、分かりました。」
プリントを受け取り、保健室に向かう。
海が寝ているかもしれないことから、音もなくするりと入って行く。
案の定、寝ていた。
どうして、海は辛いときに辛いと言ってくれないのだろう。それとも私にだけ?
ちくりと胸が痛んだ。
心配かけたくないという気持ちのほうが彼は強いのかもしれないが、傍から見ているとそうやって遠慮されてしまうことのほうがずっと寂しくて辛い。
久しぶりに見る幼馴染の寝顔に、私は一時、時間を忘れて見入っていた。
綺麗な顔立ち。濃く長い睫毛、通った鼻筋。
私とはまるで違う。
友達であることが不思議に思えるくらいに。
「……海、辛いときは言ってよ…。寂しいじゃない……ばか…」
小さく囁いて、私は彼のバッグを枕元に置いて授業に戻った。