すれ違うふたりと思い出
麗華の家に泊まった翌日は休日だった。
けれど、午前中にはお暇し、自宅に戻ることにした私は麗華と両親にお礼を言って去った。
お陰で一晩、友人と過ごせたことで頭のなかが冷静になれた。
帰宅途中、自宅までの避けては通れぬ坂道の途中で、海とばったり遭遇した。
ちょっと時間をずれていれば対面しなくて済んだのに。と、意味もなく悔やむ。
でも、いつも通りに演じる自信ならある。
数年前から、ずっと続けているから。
「おー、おはよー。」
「おっす、お前昨日どっか泊まったの?」
「あぁ、うん。そうだよ。友達ん家にね。」
ふーんと言った海は、どこか都合の悪そうな顔で私を見ている。
あんなに真っ直ぐな瞳の海が、こんな眼差しを向けてくるなんて。きっと、妹との交際を私に言いにくいんだな。
「お前さ…」
「うん?」
「その…、昔…いや、なんでもない。」
嫌に気になる止め方をする。
だが、それ以上に気になるのは私を見る目が更に揺れるようになったことだ。
昔…ああ、きっと私が告白したことを言いたいのかな。やっぱり、私の恋心に気づいていて、妹との交際宣言を私に気を遣って言い出せないのだ。
でも、そんなことで負い目を感じさせるのも想い報われず可哀想な子扱いも御免だ。私は可愛げがない勝気な性格を持ち上げて、自分を取り繕う。
「ちょっと、気になるから言いなさいよ。」
いやだ。聞きたくない。言わないで。そんな本心をねじ伏せたのに。
「いや、今度にする。」
と、言うと彼はそそくさと下って行く。その背中を見つめ私は倦怠感に襲われた。
きっと彼が言えなくても、妹が言うかもしれない。聞きたくないのに、あまり気を遣われるのも惨めだという不思議な心境にまで至っていた。
家に入ると、妹は毛布を頭からくるまりリビングのソファに雪だるまのように座りこんでテレビを見ていた。
「ただいま。」
「…おかえり。真衣ねえ。…どうして昨日、お泊まりなんてしたん?」
「どうしてって、したかったから。どうして?」
「んー…だって、一緒に居たかったんだもん。」
何をこんな可愛いことを言い出すんだ。
昨日のうちに二人揃って伝えたかったとか?まったく、妹はなぜこうも可愛いんだ?
でも、どうしてだろう。俯きがちな妹の目の下が泣いたように赤く、どこか浮腫んでいる。
嬉し泣きでもしていたのだろうか。
「な、何かあったの?」
「ううん。大丈夫。」
「…そ、そう?」
「もう少し後になったら、教える。」
そうか、もう少し後になるのか。
それなら私はその間、心の準備を固めていくしかないのだな。
いつか、こんな日は来ると決まっていたようなものだ。それが妹だったってだけ。
他の知らぬ女子よりは…きっと、それよりはマシだと思える日が来るだろう。
美結がすくっと毛布をかぶったまま立ち上がり、部屋に去って行く。残された私はキッチンに寄り、飲み物を拝借して部屋に戻った。
妙な違和感のことなんて気づかないふりをして。
その日の夜、海からラインが届いた。
彼はあまりラインやメールを好まない。滅多にないメッセージが来ただけで、私は激しく動揺した。誰もいない自室だということ良い事に、思い切り顔を歪ませたり、突然赤くなってドキドキしたり挙動不審し放題だ。
人が見たら、情緒不安点だと引かれるだろう。
やっとの思いでメッセージを読む。
『お前って、小さい頃の記憶とかまだ残ってる?』
なんだ?小さい頃の記憶について問われるなんて思ってもいなかった。
返事をする。
『あんまりハッキリとは覚えてないかな。海と幼稚園で仲良くなったころくらいからなら、ぼんやり覚えてるけど。』
すると思いのほか早くに返事がくる。
『んじゃ、これは?「あかいゆうひがむかえにきても」って何か覚えてない?』
あかいゆうひがむかえにきても?
なにかのなぞなぞだろうか。でも、どこかで聞いたことがあるような、心の片隅で何かが揺れる。
赤い夕陽が迎えに来ても…。
もう少しで、何かに辿り着く。
モヤモヤしたまま、ふと絵本のイメージが過る。
ああ、そうだ。
あれは昔、よく読んでいた絵本。「おかえりなさい」というタイトルで優しい絵だった。
:::
主人公は男の子。温かいお家、温かい愛情をくれる両親。でも、そんな幸せは長く続かなかった。父がいなくなり、母は泣く日々。男の子は一人取り残される。その子は心から願うのだ。もう一度、あの幸せな日々を取り戻したい、と。
そして彼は旅に出る。どこかにそのヒントが隠れていないか、彼は目を凝らして探した。
でも、簡単にはいかないし、ヒントもない。ただ闇雲に歩くだけで、途方に暮れるのだ。
公園では、子供を迎えに来る親たちが集い出し、彼の目は自然と自分の母の姿を探していた。
孤独に苛まれ、彼は涙で前が見えなくなった。
転んで動けない。
そんな時、彼の前に女の子が現れて、彼と一緒になって泣いた。
ビックリした彼は、どうして泣くの?と聞くと、彼女が言った。
「あかいゆうひがむかえにきたら、おかあさんがあなたをむかえにいくわって言っていたのに来ないの。」
わんわん泣いた。彼女のなかには不安があった。そのお母さんになにかあったのだろうか。そして自分は忘れられてしまったのだろうか、と。
「あなたもおなじでしょ?だからね、ふたりでいたらこわくない。そしてね、おむかえがきたら、『おかえりなさい』って言ってくれるし、わたしも言うわ。そしたらただいまって言い合うの。」
彼女の言葉に、彼はこくんと頷く。
はらはらと零れる彼女の涙を見ているうち
そして彼は自分の本当の望みに気づく。
――おかえりなさいって、言ってほしいだけなんだ。
やがて彼女の母が迎えに来て、そして彼にはパトカーが迎えに来た。
警察官が彼を家に送り届けると、取り乱した彼の母親が彼に気づかず泣きながら警察官に詰め寄る母の姿を見て、彼は罪悪感と一緒に安堵を感じた。
ああ、泣いてても悲しくても、お母さんはぼくのこと愛してくれてる。
そして彼は一つ、あの女の子から学んだことがあった。
言われたいこと、やってほしいことを相手に望むだけじゃなくて、自分もその人に向けて発していくことを。
「おかあさん、おかえりなさい。」
そう言うと、母は彼に気づき、抱きしめた。
「おかえり」「ただいま」
そしてふたりは、見失いかけていた温もりを思い出して親子の絆を深めていく。
:::
この話しを聞いたとき、私は幼かったからお父さんはどうしたの?という疑問もなく、ただ男の子が幸せになってくれればいいの一心で見守っていた。
母の朗読を終わった私と妹は、良かった良かったと母を抱きしめて、そして私は妹のことも抱きしめた。
なんとなく、互いの存在が自分を孤独にすることはないと感覚的に掴んで嬉しいと思ったからだ。それを伝えないと、相手には分からないことなのだとこの絵本で教えられていた。
そんなことも忘れていた。
年子の姉妹。幼い頃は見目も同じくらいで、そっくりで可愛いと言われていた。
でもある時から、妹はこんなに美人さんなのに、可哀想にと言われるようになった。
妹のことは可愛い。姉としてもみても、ひとりの女子としてみても可愛くて優しい、自慢の妹だ。
でも他人の余計な言葉に惑わされて、どことなく心の中で一線を引くようになった。
なんとなく、都合悪そうに私の顔色を見る妹に対して申し訳なくなって恥ずかしくて、情けなくて悔しくて悲しかった。そんな感情から遠ざかりたかったのだ。
大好きなままでいたいから。
でも、避けたくても避けられないことがあるなら、一線を乗り越えていく必要があるのだろうか。
『やっと思い出した。確か絵本の「おかえりなさい」の中の台詞に出てくるやつかも。』
そう返事を送る。
数分後に再び海からラインが届く。
『絵本だったのか。よく思い出したな。』
『好きな本だったからかな。私もすごく久しぶりに思い出したよ。ところで、それがどうかしたの?』
『いや…、俺のなかにずっとある言葉だったんだ。でも絵本だとは知らなかった。』
突然思い出して、その台詞がでる本は何か知りたくて私に聞いたわけじゃないのか。
不思議に思いながら私は更に返事を書いた。
『んー、海が読んでなくても、その台詞を知ってるとしたら私のせいかもね。』
『どういうことだ?』
『あれ、それは覚えてないか。海と初めて会ったときのことだけど、公園のブランコで海が一人でいるとき、私から話しかけたのよ。それで、海の話しを聞いたときにその絵本のことを思い出してね、話して聞かせたの。でも私、子供だったし拙い上に台詞もちょいちょい間違えてるかもね。それで、絵本のタイトルも教えて、推しまくったの。覚えてない?妹も一緒にいたんだけど。』
それから海のラインがぴたりと止まった。
更に不審に思いながら、私は妹の様子を見に行くことにした。
「美結。」
声を掛けながらノックをする。
「はい。」
返事を確認して部屋にはいると、やっぱり毛布をかぶった妹がベッドの上で転がっていた。
「それで、話す気になった?」
「気になるの?」
「当たり前でしょ。妹のことなんだから。」
「…座って。」
私はベッドの端に移動した妹の横に座った。
「私が昨日おしゃれして学校に行ったのって、ある人に告白するためだって、噂聞かなかった?」
「そう言えば、友達が言ってたわ。」
「それ、本当なんだよね。」
うん、それは見たから知ってるとは口にしなかった。
そして妹は、つらつらと今までの事を話してきかせた。
「ずっと好きな人がいたんだ。恥ずかしくてお姉ちゃんに言えなかった。それで、それは小学生のころだったんだけどね…ずっと目で追うようになって、お話しして仲良くなれてるかなって思えてた。でもね、その人には好きな人がいて、そしてその相手が私の大切な人で、そして二人が実は両想いだって分かったの。」
と、言うことは海の好きな人って、美結の友達だったってこと?あれ?
それなら海が誰かと付き合ったり両想いになった経験があるってこと?結構近くで幼馴染してたけど、気づかなかったよ。
混乱しながら美結の言葉を待つ。
「でも私、そのことに気づいても二人にそのこと伝えなかった。」
私って、ほんとは性格悪いんだよ。と泣き出す妹に私はそれは違うと言った。
「二人の恋路は二人のもの。美結が何かしなくてはいけなことじゃない。間違ったことなんてしてないじゃない。」
「でも、私が一言、同じ気持ちみたいだよって伝えれば彼の恋はすぐに報われた。」
「一歩を踏みだすべきは、その想いを抱いている本人。美結のせいじゃないよ。それで、どうなったの」
「うん、私ねやっぱりどうしても彼が好きで、黙って友達のままでいたくないって思ったの。せめて、女の子だってこと意識してほしいって。」
「それで、告白したのね?」
「……だめだった。私、どうしよう。意識してもらえるならって告白したけど、今度からどう会えばいいの?」
私は、ちくりと傷む胸に奥に、ある幻影が過る。
「……いつも通り、笑顔でおはようって言えばいいよ。最初はきっと、すごく苦しいかもしれないけどね。なかったことにしたら、きっと後悔するから。」
「なかったことに?」
「うん、嘘だよとか、冗談だったんだよとか、そんな感じではぐらかして無理矢理いつも通りの友達として付き合っていても…辛くなるだけ。最悪の場合、嫌われるかもしれないしね。そんな風に人を騙すやつのなのかって。美結の告白に相手がどんな反応をしたのか分からないけど、真剣に答えてくれたなら、その真剣な気持ちを受け取るの。その上で、いつも通りに接していれば、きっといつか気まずさは解消されていく。」
「私、このまま気まずいのは嫌だけど、…諦めたくない。」
「うん、美結の気持ちは美結の心次第だよ。」
「お姉ちゃん、ありがと」
「…うん。」
でも、そうなると海の好きな人は他にいることになる。
それが気になるが、誰なのか名前は聞けなかった。
話して泣き疲れた妹が、いつの間にか寝落ちしていたから。
私はそっと布団を掛けて部屋を出る。
すると、階段を昇って母親が来た。
「美結は?」
「美結、寝たよ。」
「あら、珍しい。それなら、お隣のおばちゃんからのおすそ分け、こっそり私たちだけで食べちゃおうか。」
父は接待が入って帰りが遅いという。
私は久しぶりに母と二人で、語らいながらお隣のおばちゃん特性おはぎを食べた。
「おはぎ、久しぶりだね。」
「ね。やっぱりおばちゃんの作るおはぎのほうが美味しいからね。他の買う気になれないし。」
「分かる。」
「おばちゃん、長いこと調子悪かったからねぇ…。でも、長年の腕は落ちてないわ。」
「おばちゃん、病気だったの?」
「うん、でも入院したり治療をつづけたかいあって、快方したって。今日、こうしてリハビリ代りに作ったからって。」
「そっか、良かった。おばちゃん、裁縫とかもすごい上手だもんね。昔、私のリカちゃん人形のお洋服も作ってくれたりしたし。」
「そうそう。あんたが生まれる時も産着を作ってくれたり、何かと面倒見てくれて、本当助かったのよ。」
ふと、幼いころの残像が脳裏を過る。
『あかいゆうひがむかえにきたら、わたしがかいをむかえにいくわ』
小さな手で、小さな手を掴んだ。多少拒む力を振り切って、掴んだ手を離さなかった。
そのうち、拒む力が弱まって。
「おばちゃんったら本当に人の困りごととなると、自分のことみたいに助けたがる性分でね。自分の困りごとそっちのけになっちゃうのよ。息子さんは心配してたけどね。そうそう、海くん家が引っ越してきて少し経ったとき、海くんのお母さんが病気になってね、おばちゃん腰を痛めていたんだけど、私が面倒みる!って、家を行ったり来たりして家事をして、入院先にお見舞いがてら換えの下着を届けたりしたっけ。でも、海くんのお母さん、そのまま入院先で亡くなってしまって。あの時は、私も辛かったわ。子を残して去る親の立場の心情も、残された者の心情も理解できる立場になっていたからね…。」
海とよく遊ぶようになったのは、海のお母さんが亡くなった後だった。
引っ越してきたばかりで、挨拶しに来たときに同い年の子供ってことで対面しただけで終わっていた。
でも、ある時公園で遊んでいると、海が一人で座り込んでいた。夕方になっても帰ろうとしない姿に、「夜になったら恐いおばけが迎えにきて連れ去ってしまうんだよ。だから夕陽がお空を赤く染めて、おうちにかえりましょうの音楽が街に流れたら絶対におうちに帰ってくること」と聞かされていた私は、海が心配でたまらなくて。
「ある程度、海のお父さんが料理できるように仕込んだのもおばちゃんよ。子供を育てていくためには必要なことだからって。それで料理はお父さんが中々上達したからって、おばちゃんが度々お菓子作って、あなたと海くんが調度仲良くなっていたから子供たちにって振る舞ってくれて。」
「おかげで和菓子はおばちゃんの味でないとと思うようになってしまった。」
「思い出の味って感じね。お母さんも、こんな風に作りたいわ。味の継承ってやつ。」
「うん。私もそう思う。」
いつか、この味が本当に思い出になってしまったら。
そんなことがふと過って、鼻の奥がツンとした。
海は、お母さんの味を懐かしいと思って、悲しくなる日があるのだろうか。
私がいつか、という悲しい別れを海は乗り越えてきたんだ。
でも、私は海を支えられていただろうか。私が海に支えられていることは確かだ。
それを失うとき、私はどうしたらいいだろう。
妹に言ったように、何事もないように普通に振る舞って。
また、なんでもないふりをし続けていくのだろうか。そうしたらいつか。
それが本当になるときが来るのだろうか。