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蜂木トケンのファンタジー〜暴食〜  作者: 蜂木トケン
第一章 それを突き動かすは、衝動 
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アイリのお願い


「くぁ……」


 こみ上げてくる眠気が堪えきれず、吐息となって漏れ出てしまう。

 昨日は久しぶりに歯止めが効かなくなってしまった。

 身を苛む熱を鎮めようと躍起になっているうちに、あれよあれよと時間が進んでしまい、ベットで横になったのは夜遅くになってからだった。

 おかげで食事の準備をしている今でも、頭の中の靄は晴れてくれない。


「昨日はお盛んでしたこと」

「…………」


 静かな朝の水面に、メイヤが小石を投げ入れる。

 事情を知っているくせに、この女は……

 靄を掻き乱す感情の赴くままに振り返ると、彼女はこちらに目もくれず、髪の水気を拭きながらクォゥシィを飲んでいた。

 その姿を見た途端、盛大に息を吐き出す。先程とは違って眠気より呆れを多分に含んだものを。

 食器が擦れた音で顔を上げれば、ふざけた恰好とは似ても似つかない真剣な顔の彼女と目があった。


「ねぇそれ、新しいの作ってあげようか?」


 メイヤはカップを持っていない左手で、同じ側の片目を指さす。つられて俺も眼帯の凹凸を指でなぞった。

 それだけで彼女の意図が理解出来た。

 そして微量の優しさも……だが、なんでこう一々上から目線で、俺の心を逆撫でするようなことしか言えないのだろう、このスギの木体型の童女は……

 素直に応えるのも癪だ。少し剣のある言葉を返す。


「いらない。それより服着なよ」


 俺の返事が予想外だったのか、メイヤは数度瞬きをすると、瞳を弓なりに歪めてイスの上でしなを作り始めた。


「ん、あたしの下着姿が気になる? このマセガキ――」

「――ハッ!? 色気なんて微塵もない、その身体が、気になる? 冗談は止してよ。肩紐のない胸当てに、どうやって興奮しろっていうのさ?」


 メイヤの笑顔に罅が入る、ピシッという音が聞えた気がした。それを機に、朝が静けさを取り戻す。

 不穏な空気を伴って……まずい、これは想定していなかった。つい、売り言葉に買い言葉で――


「うぉわ!?」


 トムトのように真っ赤な顔で黙り込んでいたメイヤが、突然俺を突き飛ばすという暴挙に出た。

 腹部に受けた衝撃が強すぎて、キッチンの収納を背に尻餅をついてしまう。

 はっとなって元凶を見やれば、無駄な肉が付いていないスラリとした短い脚が、イスから降ろされているところだった。


「あんたは――」


 ゆらり、ゆらり、と立ち上がって近づいてくる姿は、事典で読んだアンデットの様子そのもので……決して早い動きではないのにも関わらず、何故か俺はダイニングの隅まで追い詰められてしまう。

 足元から忍び寄ってくる怖気だけで、立ち上がることすらままならない。

 淡い水色の下着から、徐々に上へ目線をずらしていくと、なだらかな二つの丘の向こうから、光の消えた双眸が、俺を見下ろしている。


「――あんたは、言っちゃいけないことを言った……だから、もうそんなことを言えないように…………その身に刻み付けてやる! この魅力をっ!!」


 メイヤが俺を跨ぐように一歩を踏み出す。僅かな皺すら分かってしまうほど近くまで迫ってきた布が、突如、俺の腹に落ちた。

 馬乗りになったメイヤ。思考が追い付かない俺。緩やかな時の流れの中で、メイヤの両腕だけが本来の速さで動き、俺の頬を包み込む。俺は、思いもしなかった柔らかさに戸惑い――

 ――顎の内側に指がねじ込まれる痛みで、声にならない悲鳴をあげた。


「あんたが! 泣くまでっ! 押し付けるのを! やめないッ!!」

「やっ、ヤメロォォォォおおおお!?」


 痛いっ痛いっ痛い!? 骨っ! 溝って言うのもおかしいけれど、そこに押し付けられても、感じるのはもっと平らな骨の感触だから! あっでも、温――いやいやいや、姉貴分にこんなことされても一切嬉しくないしっ、どうせだったらアイリ――わぁぁぁぁああああ!?

 一瞬頭を過った妄想が、思考力をごっそり持っていく。もう、俺には、やたらめったらに暴れるしか、この呪縛から逃げる手段がなかった。


「ほれほれ、どうよ? あたしだってないわけじゃないのよ? ほら柔――んぅ!? こらッ触っていいなぁんあっ――「ヴァシルぅ」」

「「!?」」


 時が止まった。

 身を寄せ合う俺達は、同時に身を強張らせ、揃って声のしたほうを覗き込む。

 傍から見れば、油の切れた錻力細工のような、ぎこちない動きだった。

 染み一つない白い肌の向こうに、涙ぐむアイリが見える。不味い。さっきよりも、もっと酷い。この際固まったままのメイヤは放っておいて、どうにかアイリの誤解を解かないと……!


「あ、アイリ、これはね――「ヴァシルどうしよう、このままじゃお仕事なくなっちゃうよぉ!」――え?」


 その場で崩れ落ちたアイリが、わんわんと大声で泣きだす。俺とメイヤは一度視線を交わすと、突発的なこの事態に対応するため、それぞれの成すべきことに取り掛かった。


 ☆★☆★☆


 両手で持っている紅茶とクォゥシィのカップが、用意されていたソーサーの上に置かれ、それぞれ音を鳴らす。

 いつもの服に着替え新聞を読んでいたメイヤが、間を置かずクォゥシィを飲みだす。

 俺はイスを移動させて、紅茶に手を付けようともしないアイリと寄り添うように座った。

 起床の鐘が王都の空に鳴り響く。今日はいつもより大きく聞こえた。もしかしたら昨日より冷え込むかもしれない。

 落ち着いたアイリがぽつぽつと話した内容を反芻してから、俺は口を開いた。


「仕事が終わらないみたいだけど、どれが?」


 アイリは仕事の納期に間に合わないとしか言わなかった。

 これまでもこのようなことがなかったわけではない。

 俺は手伝うことを前提に、彼女が兼業している学士課程の講師と写本、代筆業を思い浮かべた。

 アイリはぜんぶ、と零してから右手を力なく開いた。思わず右頬が引きつる。五つか――


「お得意様の代筆が三件。イルムさんの四通と、モッコさんの二通、ギルベルさんの七通。授業の教材作り……二回、予備含めて百三十人分。ナルちゃん導士せんせいから頼まれた写本。新装版、魔素の分布とその傾向――」


 アイリが仕事ごとに一つずつ順に指を折っていく。一本に対しての仕事の量で疑問が浮かんでしまうが、ここで止めても仕方がない。最後の一件の内容を聴こうと、アイリの手に視線を落としたその時、折りたたまれていた指が時間を巻き戻すように二本伸ばされた。

 終わってなかった、だと……?


「――論文、階梯向上技術の草案、新属性の考察と検証…………の三冊を二冊ずつ」


 余りの多さに頭を抱えてしまう。確かにアイリの処理能力を大きく超える量だ。これでは終わるものも終わらなくなってしまう。こうなってしまっては仕方がない、急を要するものから順に――


「ねぇ、アイリ…………一応訊いておくけど、前金貰ってないでしょうね?」


 俺の先を越してメイヤが訝し気に放った言葉で、項垂れていたアイリが身を強張らせる。

 通りを行く人々の生活音が、やけに目立つ。そろそろ一日の準備を始めるべきだろう。

 軽めの朝食を用意しようと席を立つ。たしか、おやつ用のアポルのタルトが棚の中にあったはず。

 取り出した食器を並べ、タルトを切り分けながら考える。あの反応から見るに、どうやらアイリは報酬を前借していたみたいだ。

 だけど、どうして? アイリの仕事はどれも、依頼人との信頼の上で成り立っているものばかりなのに、何故、自らの首を締めるようなことを……?

 切り分けたものを皿に載せ、残った四分の一程のタルトを大皿のまま、ロンメルのために床へ置く。

 タルトを配膳すると、メイヤが視線だけで礼を述べてきた。俺はなんてことはないと、鼻を鳴らしてから言葉を紡ぐ。アイリを手伝うよ、と。


「それでアイリ、俺は――「駄目よ。アンタは黙ってて――」」


 困っているアイリを放って置くのは嫌だが、メイヤのただならぬ雰囲気を感じて、口を噤む。


「――アイリ、コイツが分かってないみたいだから、ちゃんと説明して」


 メイヤが叱るようにそう言うと、アイリは目線をあちこちに彷徨わせた挙句、両手を胸の前で何度も組んだり離したりを繰り返す。その動作はまるで子供のそれだった。

 可愛いな、なんて考えていたら、気持ちが決まったのかアイリがやっと口を開く。


「こんなはずじゃなかったんだ。ボクはただ……ううん。プレゼントをね、買おうと思って、銀行に行ったんだ……そしたら、今月分のお給料が、全部なくなってて…………だから、なんとかしようと、頑張ったんだ……でも……」

「終わらなかったのね?」

「……うん」


 話が進むにつれてアイリの瞳に涙が溜まっていき、最後は言葉に詰まってしまう。それを引き継ぐようにメイヤが補填し、俺は事の全容を把握した。

 胸の内が温かくなる。反面、どす黒い感情が胸の奥から噴き出した。あのババア……っ!

 元を正せばアイツの給料だが、自分で講義を行わず弟子に丸投げしておいて、その仕打ちがこれか!?

 

「まったく、この娘は計画性がないんだから」


 メイヤが大きく伸びをしてから、これで分かったわね、とそう言外に伝えてくる。

 一度視界を閉ざして、深く息をする。瞼を開けば、二人が俺を見つめていた。

 メイヤの視線と右目を絡み合わせて訴える。

 まったく、小指の先ほど、理解できない。最初から俺には、アイリを手伝わないという選択肢なんてない、と。

 メイヤの目が見開かれる。俺はアイリに視線を移して、言った。今度は、遮られないように強く。


「何を手伝えばいいのかな、アイリ?」


 俺の言葉に二人はそれぞれ違った反応を示す。俺の視線は、雨露で濡れてもなお咲く笑顔の花に釘付けになった。

 

「ありがとうっヴァー君大好き!」


 柔らかい温もりに抱きすくめられる。そのままこちらを見ていたメイヤに笑いかけると、彼女は溜息とともに頭を抱えてしまった。


「……アンタ、アイリに甘過ぎ。この娘がこれ以上駄目になったらどうするのよ……」


 メイヤが赤いカーテンの向こうから、恨めしそうな視線を向けてくる。俺はその時はその時さ、と嘯いて続ける。


「さっ、二人とも今日は早く出るんだから、それ食べて準備してね。ロンメルに三人は乗れないんだから!」


 その言葉を聞き、はっとしたアイリとメイヤが急いで食事を始めた。俺も食べた後に余所行きの服に着替えないといけない。家事は…………明日にまわしても大丈夫だろう。

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