一日の終わり、ありふれた幸福
短いスタートダッシュ期間は、今回で終わりです。
次話は八日の土曜日、十時投稿となります。
ついさっき増えた右太腿の違和感が嬉しい。
ついつい手に取って眺めたいという欲求と闘いつつも、まな板とナイフで奏でる演奏を止めることはしない。
スーリャ達の企みが成功した後、買い出しをしながら帰ってくれば、既に時刻は夕飯時一歩手前になっていた。
釜戸があげる合いの手で拍子を取り、野菜を手頃な大きさに切っていく。
ふと窓から外を見れば、他所の煙突が、忙しなく煙を吐き出していた。
細切りのベーコンから焼けた合図を受けて、薄切りのオニオと乱切りのキャロルを同じ鍋に放り込む。
具材を混ぜるヘラの操作を魔術に任せ、水を切ったトムトのへたを、一つ一つちぎり取って別の器に移していく。
アイリとメイヤはまだ帰ってきていない。きっと彼女達は街灯が灯る頃に帰ってくるはずだ。
今朝、今日は遅くなると言っていたから。
下ごしらえが終わったトムトを素手で潰す。
底の深い器の中で赤い皮が次々と破れ、瑞々しく、その中身をぶちまけていた。
赤が弾ける様を見て、先程の報告を思い出す。
「……ワンが言っていたこと…………」
贈り物を渡される前、ワンが読んでいた書類は、ただ、彼の手持ち無沙汰を紛らわすものではなかった。
それも少し雲行きが怪しまれる内容だったのだから――
『……ヴァシル……オジキが探ってる件のことで報告がある』
失敗してしまったパイプを何とか楽しもうと試行錯誤していたら、ワンが真剣な眼差しを向けてきた。
ゆっくりと吐き出した煙が、徐々に下へと落ちていく。
何があったのか、と視線を合わせれば、その直前まで部屋の中に満ちていた明るい空気が一転し、音が消えた中でワンが口を開く。
『実は――』
「旅行者の増加と、闇取引、ね……」
彼から見せられた書類の内容は、ここ一、二週間に全ての門で出入りした旅人の人数と、過去の記録との比較。
そして青空組から上がってきた騒動の詳細な報告書。
確かにワンが言う通り、滞在者の数が多かった。昨年の記録と比べれば異状とも思える。だが、偶然だ、と言われてしまえばそれまでだ。
でも、闇取引の件と合わせて考えるとまた違ってくる。
単に取り締まりを失敗したというものだったが、重要なのは押し入った時に、構成員が被害にあった”目にも留まらぬ魔術”と、それを”無詠唱で放った複数人の術者”の部分。
構成員が受けた傷の傷口はどれも小さく、それでいて肉を貫通するなど深いものばかりだと聞いた。
俺もそんな魔術は知らない。
それに無詠唱が出来る集団。
無詠唱なんて高等技術、使えるのは一握りの才能ある魔術師だけ。
そんなのが徒党を組んで南町に居る……。
「まぁトトさんが動いているらしいし、報告を待つしかないんだよね……」
高位魔術師の集団は彼に任せて、俺は高速の魔術について調べよう。魔術大全に載っていればいいんだけど…………見たことはないんだよな。
出来上がっていたトムトのペーストを鍋に流し込む。
程なくして気泡が底から浮かび上がってきた。
釜戸を弄り火の調整をしていたとき、玄関のドアが家族の帰りを知らせる。
「「ただいまー」」
「おかえりアイリ、メイヤ。もうすぐご飯できるから、それまでに湯浴みと着替え、済ませておいて」
今朝より多い荷物を抱えた二人は思い思いの返事を返しながら、家の奥に入っていく。
「さて、パンを炙って、緑豆とケーンの塩茹でを作らないとね」
思っていたより早く帰ってきた二人のために、手早く用意しなきゃ。
☆★☆★☆
「――でさぁ、そのときそいつはなんて言ったと思う? そんなものはあり得ないザマス。大体、既存の理論から外れているザマスよ? ですって、ばっっっっかだと思わない!? 証明出来ない時点で、そんなもん破綻してんのよ!」
夕食は一門の時間の中で一番賑やかになる時だ。その日あったことを互いに共有して一門の絆を深める。
小さなことだけど、こういうことの積み重なりが、他人の寄せ集めを一つの集団にまとめ上げるには必要だと思う。
メイヤが時折、芝居がかった声を織り交ぜながら、いけ好かない導士の愚痴をこぼす。
それをアイリと二人で笑い、時に窘めながら聞くのが、いつも繰り返される日常の一幕。
ただ、今日はちょっとだけ、違った。
「――ちょっと! ヴ――「ねぇヴァー君それはどうしたの?」――るの、うん?」
俺を咎めるメイヤの声を遮ったアイリの言葉。それは酷く平坦で、いつもの柔らかな人となりからは、到底、想像できないものだった。
横を見たメイヤの笑顔が引きつる。
対面から突き刺さる視線で右頬に余計な力が入り、肌に痛みが走った。
「す、少し転んだだけ――「ヴァー君?」――ごめんなさい、喧嘩しました」
慌てて取り繕ったが、アイリの目は笑っていなかった。
凄みの効いた声で念を押され、すぐさまに訂正する。
アイリを本気で怒らせてはいけない。あのババアですら手に負えないのだから……。
その後、アイリの咎める視線に促されて、今日あったことを包み隠さず話した。女性であることは伏せてだが。
「ヴァー君…………まさか……」
「大丈夫。アレは使ってないよ」
応えながら顔の左側を隠す眼帯へ手をやる。
世界に通じる残りの目が、物憂げに影を落としたアイリの顔を映した。
しばしの間、言葉を探すような素振りを見せた彼女は、意を決したように顔を上げて言った。
「ヴァー君。いつも言っているけど――」
「魔法は大人になってからでしょ? 分かってるよ。これのおかげで前みたいなことにはならないし、使うつもりもないから」
「――そう……」
「…………」
アイリの言葉を遮り、会話自体を終わらせる。
ついさっきまであった温もりは、食卓の何処を探しても見つからなくなってしまった。
そんな中、メイヤが視線を彷徨わせて落ち着かない素振りを見せる。
「んんっ……あーと、そう! 今日はヴァシルに渡したいものがあるの! ねっ? アイリ?」
メイヤはアイリを席から立たせると、はっとなったアイリを引っ張って二階に上がっていった。
「はぁ…………なにやってんだかな……」
詰まっていた息を吐き出し、イスに深くもたれた。
どれほどの間、そうしていたのだろう。
眼帯越しに暖かな存在を感じて、やるせない気持ちが溢れてくる。
「ありがとね……あんな言葉を使うつもりはなかったんだけど……さ」
首を巡らすとそこには、心配そうに覗き込むロンメルが居た。
白い毛が波打つ喉を撫でながら、鼻先についた赤い汁を布巾で拭う。
綺麗に拭い終わると、ロンメルは俺の膝に顎を乗せて一息ついたように落ち着いた。
ついさっきまで気にもならなかった隙間風がやけに耳につく。
「――ヴァシル?」
呼びかけで、項垂れていた上体が跳ね上がる。
目の前にはアイリとメイヤが揃って並んでいた。
アイリの瞳は見開かれている。先程の痴態は余程滑稽に映ったことだろう。
それを自覚した途端、頬の下で血液が暴れだした。
その時、会話の糸口を探していた俺の目が、アイリが持っている紙の包みを見つける。
「それは……」
何を意味するか、すぐに理解出来た。
泳いだ右手が太腿にあるなめした革に触れる。
「今日、誕生日だよね…………ごめんなさい!」
今度は俺が驚く番だった。
勢いよく頭を下げたアイリの横で、メイヤも慌てふためいている。
「本当はヴァシルに心の底から喜んでほしかったのっなのに、私は……」
顔を上げたアイリが紡ぐ言葉は、次第に尻すぼみになって最後は聞き取れなくなってしまう。
震える眦は涙が溜まり、言葉を紡ごうとする口が何度も開閉を繰り返す。
ついには影を落とし始める表情が、俺の心を締め付けた。
そんな顔はして欲しくない。なら、やるべきことは一つだ。
イスから立ち上がり、二人の前まで歩み寄る。
「謝るのは俺の方だよ。心配をかけて、不出来な生徒でごめん」
「そんなっ!?」
反論の芽を摘むように、アイリの涙を掬う。揺れる彼女の瞳を離さないように、今度はしっかりと、真っ直ぐ見上げた。
せっかく用意してもらったんだ、こんな空気は早々に消し去るべきだろう。
「ねぇ、これ、開けてもいい?」
「う、うん……」
アイリが抱えていた物を受け取り、その場で包装を外した――
「これって……」
☆★☆★☆
「とてもよく似合ってるよっヴァシル!」
先程までの空気は何処へやら、ウルべニア宅に明るいアイリの声が響く。
あまりの変わりように、呆れたロンメルはテーブルの下で丸くなってしまった。こちらを見ようともしていない。
「ありがとう。大事にするよ」
新しい外套の具合を確認したくて、その場でクルリと回る。
広がる裾を気にしていると、にやけるのを我慢できていないメイヤと目があう。そこにはあまり良くない光が多分に含まれていた。
「何……?」
「いいえー? なんでもないわよ」
んふふ、と流し目を送ってくるメイヤ。年上の女性特有の色気を醸し出すような仕草だが、俺より頭一つ小さい体躯のせいで、壊滅的に似合っていない。
こちらを小馬鹿にしたようなメイヤの態度にアイリが咬みついた。
「なにさ、メイヤだって本当は嬉しいくせに大人ぶっちゃって」
「あっ!? それは言わない約束じゃない!」
揶揄うアイリに慌てるメイヤ。
二人がやいのやいの騒いでいる姿を見て、一先ず安心する。
与えられ続けるこの幸福を、自ら壊したくない。そのためにも、もっと頭を使って上手く立ち回っていかないと……。
奥底に渦巻く欲求を抑えるように眼帯の刺繍をなぞり、俺は、今夜の読書量を増やそうと決めた。