もう一つのかぞく
備えられたカーテンが日光を遮り程よく明るい室内で、カップから行き場を失って消える湯気をただただ眺めていた。
建物の最上階に位置するここで、産声を上げる音は二つのみ。
俺が身体を預ければソファが一声唸り、彼が情報を得ると書類が伸びをするように鳴く。
ぼうっとしているのも飽きていたので、湯気の先に座る大男。しばらく待ってくれと言ったきり、紙面の文字を追い続けているワンの容姿を観察する。
艶のある黒髪は後頭部へ流すように梳かしつけられ、凹凸の少ない顔がはっきりと見える。
シャツは腕捲りされ、頭と同じぐらい太い首と筋が浮き出る程の逞しい腕が覗く。
それでいて、カップや書類を扱う所作に荒さはなく、余人を黙らせる眼光にも、今は真剣な色が浮かんでいた。
出会ってから八年、ヒトはここまで変わるのか……あの頃はスラムで拳を振り回していた少年だったのに……今では一つの組織の立派な長だ。
そう、この世に変わらぬものなんてない。ヒトも、組織も、国も、世界だって……不変など在りはしない。
それは誰の言葉だったか。本棚で見つからないということは、別の記憶なのだろう。
何の由縁もない道標だけど、何もないよりは良いはずだ、とみんなで昔に掲げた祈り。
それを胸に、俺も、彼も、他の家族達も、今まで頑張ってきた。
そしはこれからも――
「どうやら来たようだ」
書類から目を離し、カップを煽るワンの呟きを皮切りに、階下が騒がしくなる。
別に何かが起きた訳ではない。ただ、ある人物が訪れただけのこと。
踏みつけられる板材の悲鳴が近づいてくる。
毎度毎度あいつは…………とワンが溜息混じりに零す。
俺は好きだよ、と口の端を吊り上げれば、ワンはこちらを一瞥した後に、より一層深い溜息を吐いた。
「兄ぃ! 先月の定例会ぶりだな――っと!」
弾けるドアを置き去りにして駆け寄ってくる男が、再会を喜んで大声を出し、向かいのソファを飛び越えて、どかりと腰を下ろした。
「ひさしぶり、トゥーヤ。今月で十八だよね? また大きくなったんじゃない?」
「多分な!」
三才年上のトゥーヤは歯を見せて笑うと、抱えていた包みをテーブルに乗せ、こちらに押し出してくる。
「今月のだ! 今回は飛び切りいいヤツが手に入ったぞ!」
「ありがとう。そろそろ先月のが無くなるから助かるよ……あぁ、良い香りだ」
取り出した紙袋の封を切れば、中から刻まれた煙草と芳醇な香りが飛び出してきた。
ひとしきり楽しんだ後、開け口を折りたたんでいると二人の様子がおかしいことに気が付く。
彼らは顔色を目まぐるしく変えながら、互いに肩などを小突いているのだ。
「どうしたの?」
「ん? おぅ、いや……」
俺の問いかけに、目線を逸らし口ごもるワン。
彼が視線を宙に彷徨わせているのが面白いのか、トゥーヤは笑いながらワンの言葉を繋いだ。
「いつもだったらすぐに詰め始めるのによぉ、兄ぃ、今日はどうしたんだい?」
あぁ、そんなこと……。
「忘れたんだよ。今日、ここに来るとは思っていなかったからさ」
五年もの間、苦楽を共にしてきた相棒とも呼べるそれは現在、残りの煙草と一緒に、自室の机の上で横になっている。
俺の言葉を聞いた二人が顔を見合わせた。
だからなんだというのだろう?
視線の応酬をしていたワンが、意を決したように口を開く。
「……予定より早いが。まあ、いいだろう――ミーチェ、あれをここに」
ワンの呼びかけで、彼の傍仕えが部屋に入ってくる。
彼女は射殺すような視線でトゥーヤを睨みつけながら、俺の横まで来て、あるものを机の上にそっと置いた。
それはとても精巧な木工品。
乾燥防止の加工で表面は艶やかに光り、独特な木目が、自分は世界でたった一つの作品だと声高々に訴えてくる。
手に取ってみても? 口には出さずに目でワンに問う。
すると彼は満足げに頷いた。
それを掲げて見ると、施されていた細かな装飾が俺を驚かせる。
ボウルトップに俺のイニシャルとみんなで決めた誕生日、シャンクには”家族へ贈る”の一文が彫られていた。
なにより特筆すべきは、三つ重なった円を包む大きな丸印。青空組、晴天新聞社、雨霧製造所を擁するスカイファミリーの紋章。
製品ならば構成員が着る外套など、組織内で作られたものに限って印すことが許されるこれが、何故?
疑問が新たな疑問を呼び、言葉を選ぶ暇もなく口を突く。
「ファミリーの紋…………これはどうやって……というかどうしたの、突然?」
俺の様子を見て、二人は形こそ違うものの子供が悪戯を成功させたような笑みを浮かべた。
「本当はみんな揃った時に渡そうと思っていたんだが、スーリャは遅刻、フォンは急用、オジキは別件でな……言い出したのはスーリャだぞ。ヴァシルに新しいパイプを贈ろうってな。ま、言い出しっぺが遅れてたら締まるもんも締まらないけどよ」
「兄ぃ。誕生日、今日だろぅ?」
「あ――」
ワンもトゥーヤも、最近は見せなくなった昔のような口調と笑顔を見せる。
思わぬ不意打ちに身体の奥が温かくなった。
いつもなら普通に言える言葉が出てこない。そんなむず痒い感覚を紛らわしたくて、家族の文字をなぞった、その時――
「――だぁっ! ゴメ、ワ、ちこっまだっアニ……キ?――」
ドアが先程よりも大きな悲鳴をあげた。
痛めつけた張本人は、前に倒れそうになる身体を膝に手をついて支え、肩で息をしながら、途切れ途切れの言葉を紡ぎつつ、顔を上げ、そして硬直したように固まった。
彼女の視線が、手元のパイプと俺の顔を行き来する。
紅潮していた両頬は、一度血の気が引いたように真っ白になったが、ヒュッと息を吸った途端、火が点いたように真っ赤に燃えた。
「――あ、あぁぁぁぁああああ! ワン! なんでっなんでー!?」
信じられないものを見た、と叫ぶスーリャがワンに詰め寄る。
ワンは憮然と溜息を吐いて、突っかかってくる彼女の額を押さえた。
スーリャが繰り出す訴え空しく、彼女の拳がワンの身体に届くことは決して無かった。
「どうもこうも、お前が遅れたのが悪い」
普段の温度に戻ったワンの言葉が、スーリャにトドメを刺す。
「そ、れは、そうだけど…………うぅ、ウチが渡したかったのにぃ……」
彼女はビクリと震え、へにゃへにゃとその場に座り込んでしまった。
俺が近寄り傍にしゃがみ込んでも、スーリャは反応を示さない。
声をかけようと優しく触れた小さな肩が、震えの代わりに強張るのが分かった。
「話は聞いたよ。スーリャが考えてくれたんだって? ありがとう、とても嬉しいよ」
「…………本当?」
「あぁ、嘘は嫌いなんだ。それはスーリャが一番知っているだろう?」
恐る恐るといったように見上げてくる顔に笑顔の花が咲く。
ハンカチを手渡しながら手を引いて立ち上がらせれば、彼女の口からは言葉にならない喜びが溢れていた。
☆★☆★☆
横に座るスーリャが終始、嬉しそうに贈り物の制作過程を語っている。
俺はそれを聞きながら、同じく贈られた不思議な形のポーチからダンパーを引抜き、丁寧に煙草をパイプに詰めていく。
アクセサリーも全部一から作ったのか……へぇ、太腿につけるポーチなんて初めて見た……。
パイプを楽しむためには、この工程が一番重要だと思う。
どれだけ高級な煙草を使おうとも、ここで力加減を間違えれば全て台無しになってしまう。
材料の調達はスーリャが、デザインはワン、木材の加工がトゥーヤで、金属類はフォンが……
そう、普通ならこんな風に、話半分でやっていい作業ではないのだが、右手に染み付いた感覚を頼りに何とかする。
目では早く感想が聞きたいと訴えているのに、口は聞いて欲しいと説明が止まらない。
そんなあべこべの彼女のためには、何とかするしかないのだ。
この様子をニヤニヤと見つめる二人を、空中に灯した小さな火に重ねて睨みつける。
小さく円を描きながら二、三度、浅くパイプを吸い、煙草に火を点けた。
ゆっくりと吸い込んだ煙を楽しみつつ、ボウルの中心で盛り上がった煙草をダンパーで押さえる。
「ね、ね? アニキ、どう?」
焦りは禁物だよ、と言いたい”気持ち”を、ここは彼女の期待を咎めるべきではない、という”理性”で押し込める。
「…………最高だ。こんなに美味しい煙草は生まれてこの方、初めてだよ」
不完全燃焼だったのだろう。いつもより、ヤニのきつい煙が目に沁みて、自然と泪が出てきた。