避けられなかった衝突
時折爆ぜる火をじっと見つめる。
薪を舐める赤い影は、ゆらり、ゆらりと形を変えながら、鍋の底を炙っていた。
今日もメイヤが帰ってくる気配はない。
顔を仄かに照らす光が、暗い家の中で唯一の温もりとなってしまった。
ぐつぐつと煮え立つ音に耳をすませる。
スープの中で乱舞する具材に思いを馳せていれば、何もない自分のことを考えずに済んだ。
感覚だけを頼りにパイプを咥え、煙草の煙を喉の奥に通す。
喉元を灼く香りが、塞ぎかける意識を外に向けさせた。
このままじゃいけない。明日の確認をしよう。
瞼を閉じ、真っ暗の世界で魔力を探る。
頬にかかる釜戸の息吹を意識から締め出し、先日の成果をきっちりと把握する。
「少し、減ってる」
ここ数日で行使した魔術を鑑みれば当たり前のことだが、ここからすぐに増えることはないと思うと、とても痛い。
身体の限界を超えるほど食べたんだ。異状が続けば、それに適応するのも人体の神秘。
とはいえ、保険を考慮すれば、準備している奇策が使えるのは十数回がいい所。
どれだけ効果的に使えるかが、決闘の勝敗を決めるといっても過言ではないだろう。
アイツは、アロゲイン・フォン・セプトリアは、自信過剰、傲岸不遜を絵に描いたような奴だと聞いている。
つけこむのなら、そこだ。俺は士徒じゃない、逆にアイツはその中でも優秀な部類。必ずそこに拳をねじ込む隙があるはず。
ふと気が付けば、鍋の蓋が癇癪を起していた。
焦らずに、煙を吸い込み鼻から抜く。
何を、怖がっているんだろうな。俺は。
手の平を打ち鳴らし、明かりを灯す。室内から瞬く間に暗闇が追い出され、息を潜めていた家具達が顔をだした。
パイプから灰を捨て、大きな呼吸を繰り返す。普段通りを、強く意識しながら食器を取り出し、その一つにスープをよそった。
一人分の食事を盆に載せ、階段に向かう。
一歩一歩がとても重く、そして一段がとてつもなく高く思えた。
明るい居間から暗がりへ、少なくとも雑音があった部屋から、息が詰まりそうな二階へ。
そして俺は、固く閉ざされたアイリの部屋へ辿り着いた。
「アイリ、ご飯を持ってきたよ?」
抵抗なく動いたドアを疑問に感じながら押し開くと、暗闇で佇む使い魔が俺を待っていた。
彼の後方に丸まった布団が見える。
ロンメルは彼女を隠すように身をずらし、再び俺の右目を見つめた。
「……話があるんだ。そこをどいてくれないかな」
沈黙がこちらへ一歩踏み出した。冷たい空気が頬を舐める。
棒立ちになる俺を、品定めするようにぐるりと見て回った彼は――
トンっと意図していなかった一歩に、思考が抜け落ちる。
言語を持たない彼からの回答。それを理解するまでに幾ばくかの時間がかかった。
「ありがとう、」
呟いた言葉が暗い部屋に溶ける。
それを聞いたロンメルが、その場で横になった音が耳に届く。
俺は、彼女の元へ辿り着くための一歩を踏み出した。
「ご飯だよ」
声をかけ、サイドテーブルに盆を置いても、塞ぎこんだ布団は動かない。
ベットに腰掛けて、その端に手をかける。
「昨日から丸一日、何も食べてないよね? 無理は身体によくないと思うんだけど」
「…………」
何を、どのように、言葉にすればいいのだろう。
暗がりに光る眼を見つめても、答えは返ってこない。もちろん、俺の中にだってそんなものは在りもしない。
唐突に想起される、吹きこぼれそうな鍋。
俺はイメージの鍋にそっと蓋をして、唇を開く。舌の根が張り付くほど、口の中が乾いていた。
「ねぇ、何か言ってよ。アイリ……俺は何をすればいいの?」
「……」
蓋が、暴れる。逃げ場を失ったその中身が、ここから出せと沸く。
布団を巻き込んでいた拳に、知れずと力が入った。
「いい加減に――」
思いを噛み潰し、身体のばねを使って布団を剥く。
「…………!?」
それでも抵抗を止めようとしない涙目と、視線が交錯した。
未だに布団に噛付く分からず屋を、俺はベットに押し倒す。
くぐもった悲鳴とともに、アイリがやたらめったらと暴れだした。
俺を打つ拳。乱打、乱打、乱打。
そのどれもが力なく、それがとても、痛ましい。
「いつまでこんなこと、死んじゃうかもしれないんだよ!?」
打ち付けられる両腕を組み伏せ、体重を乗せて布団に押し付ける。
泣き、腫れていた瞳は揺れていた。
俺が一心に見つめても、それは一向に目を合わせてくれない。
「教えてよっ何がアイリをそこまでさせるの!? アイツはアイリの――」
キッと、強い意志の籠った視線が、下から突き刺さる。
「ヴァシルは何も分かってない!」
「分からねぇよ! …………分かるわけないだろ、言ってくれないと分からないんだよ。俺は、何も」
思わず強くなってしまった語気を弱める。
こんなはずじゃなかった。漏れ出た言葉を御することが出来ない。
それはアイリも同じようで、お互いの間に、再度沈黙が横たわる。
長くなりそうな静寂を退かしたのは、アイリだった。
「もう、嫌なんだ。キミに迷惑をかけるのも――」
彼女が、ぽつぽつと言葉を零す。悲し気に。
その時、眼帯の下で左目が疼く。
アイリを悲しませているのは、苦しめているのは、俺なんだ。そして――
この短期間で、彼女が涙を見せた場面とその原因が、頭の中で明滅する。
――最後に浮かんで、居座り続けていたのは、憎たらしい、嘲笑。
「死んでしまいたい――」
脳裏で火花が散る。
もう、それ以上、聞きたくなんて、ない。
「それだけ、あれは、キスはボク達にと、ん!?」
ぼやけた視界の中で、アイリの左目が限界まで開かれた。
無理矢理塞がれた彼女の唇は、蠢くものの、くぐもった音を漏らすだけで、それは言葉になっていない。
戒めを解かれたアイリの両手が、俺の身体を押しのけようとする。
弱すぎる、力で。
「んー! んむっん゛ん、んぁ――んう!?」
唇を離すつもりはない。それは、彼女の顎に添えられた両手が物語っている。
押し入れた舌の先に、痛みが生じた。次いで鼻を突く鉄の香り。
それでも気にせず、俺は溢れ出る想いを、言外に伝え続けた。
抵抗が無くなり、水音だけが聞えるようになった頃、俺はアイリから顔を離す。
忘れていた呼吸を繰り返し、潤んだ空色、肩で息をする彼女の瞳を見下ろした。
濡れた口元を袖で拭い、強張る顎を力ずくで動かす。
「キスが、なんだっていうんだっ。こんなのはな……挨拶なんだよっ!」
そう嘯く男の顔が脳裏を過る。今まで会ったことのない、壮年の男。
「だから、アイリい゛!?」
気にする必要はない、と続けようとした言葉が喉元で詰まる。
シャツの襟を強い力で引かれ、倒された俺が見たのは、視界の端を掠める白い体毛。
「ろんぇる?! もうちょっぉまっ、まだ――」
有無を言わせぬ力で引き摺っていくロンメルは、俺を部屋の外に放り出す。
間を置かずに、派手な音を立てて閉められるドア。
俺は、暫しの間廊下で放心していた。火照った頬に床の冷たさが心地よい。
気持ちの整理がつかず何とはなしに立ち上がると、階下でヒトの気配がした。
「……?」
恐る恐る、音を立てないように降りる。
すると、見知った面々が俺を待ち構えていた。
「ようヴァシル。なかなか面白いことになってるな。俺達にも一枚噛ませろよ」




