とある一面だけを見ても、それを理解したとは言えない
「どうしよう……」
言われるがままに来てみたはいいが、医務室のドアは、開けるに開けられない、分厚い壁と化している。
学園の士徒でも、ましてや職員の親族ですらない俺が入っていいのだろうか?
鈍い熱を持った右手が何度も宙を彷徨う。
「あ」
「おや……中々入ってこないと思ったら、また会ったね」
騎士君、とローラさんがドアにもたれながら笑う、狼狽える俺を、楽し気に見ていた瞳が不意に歪んだ。
何事かと彼女の視線を辿れば、血の雫を滴らせる両手。
「こ、これは……」
「なにをどうすればそうなるのか詳しく聞きたいが、まぁ、いい。入りなさい、ここはそういう場所だ」
白衣を翻して颯爽と部屋を進む背中。急激な展開に追い立てられ、部屋に足を踏み入れると、鼻をツンと突く匂いがした。机を挟むイスの片割れに座ったローラさんが手招きする。俺はそれに従い、おずおずと残りの一脚に座った。
早く見せろ、と言う視線に促され、両手を机の上に置く。すると、不信感に染まっていた彼女の瞳を、真剣な色が塗り替える。
「――ちょっと失礼」
ローラさんは壊れ物のを扱うかのように俺のシャツを捲ると、左右の手首を掴んだ。自分とは違う体温、それも細く、長い指に包まれて、思わず身を強張らせてしまう。
これから診察が始まるのだ。魔力の揺らぎを感じて、そう、思う。
冷たい感触とは正反対の、魔力の温もりが、穏やかにその範囲を広げていき、ローラさんの両手が震えた。
不審に思って手元から視線を上げれば、彼女の頬を一筋の汗が伝っていた。
「どうして、こんな……歪な形を……それに、この親和性。魔力で補強? すまない、騎士君。他の骨も診せて貰うよ」
うわ言の続きのような問いかけは、こちらの答えなど関係ないのだろう。現に今も何かを言う前に、ローラさんの魔力は身体を冒している。
「……左の一の腕、右の二の腕……右肩……惨いな、胸は柱以外全てか――」
異常だと列挙される個所が、苦い記憶と重なった。爪先まで進んだ魔力が、行き場を求めて首を這い上がる。
咄嗟に両手を振りほどいた。虚ろだった瞳に意思の光が戻ると、ローラさんはすまない、と目を伏せ、唇を揺らす。
「端的に言おう。――君の骨は異常だ。無理矢理に継いだのだろう? 折れる度に、魔力で……ただ、私はそれと同じものを、前に一度診たことがある。君が師事していた導士。ミスティル・ウルべニア、彼女の骨だ」
余計なものが刻まれている分、あちらの方が、もっと悍ましいけどね、とローラさんは眉を顰める。
それ以上は聞きたくなかった。だから、口を挟む。言葉を紡ぐ。あれは忌むべき記憶だ。
「……それで、怪我は、私の両手は治るのですか?」
「あぁ、勿論。折れているのは両手の甲と、同じく二指から五指の根本だけ。歪みも、とは言えないが、挫滅だって綺麗に治してみせるさ。待ってて……【鎖よ、汝は命の螺旋、我は紐解き、促す者――」
思い出したかのように両手が疼きだす。それを意識しないために、目の前の女性に集中する。
風のない室内で揺れる髪。艶のある唇は、言の葉を歌い上げるたびに形を変える。魔術に意識を傾ける彼女の双眸からは、表情が抜け、生来の美しさが際立っていた。
その時、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。美を堪能していた思考にさざ波が立ち、苛立ちを覚えた眉が引きつる。
その足音はだんだんと近づき、そして――
「ここにヴァシル君はまだ居るかい!?」
焦燥と驚愕に吊り上げられた眉が飛び込んできた。
余程急いできたのだろう。間隔の短い呼吸が、再び訪れた静寂の邪魔をする。
両手を差し出しているため振り向くことが完全に出来ないが、無理して巡らせていた右目が、焦る糸目とぶつかった。
安堵の吐息を漏らすトナルさん。もう十分だろうと姿勢を元に戻せば、美術品に皺が刻まれていた。近づいてくる間の抜けた声は、それに気が付かない。
「よかった。驚いたよヴァシル君。導士メルクーリから聞いた時は、瞼が限界まで開くかと――おおっとこれは失礼……治療中でしたか」
ローラさんは詠唱を続けながら、器用にトナルさんを睨みつけていた。今更それに気が付いた彼は、申し訳なさそうに声を潜める。彼女がまた魔術行使に集中しだすと、トナルさんは俺の右側に立ち、なおも会話を続けようとする。
「それで、いったい何が起きたんだい? そこまで詳しいことは聞いていないんだ。それに、アイリスさん達の姿も見えない……ヴァシル君。説明してくれるかな」
この環境で会話を求める胆力に脱帽したい。恐る恐るローラさんを見やると、片方だけ開いた瞳でこちらを見ていた。
どうやら、彼女も気になっているようだ。なら、説明しなければならない。一から十まで、全部、包み隠さず、事の始まりを――
☆★☆★☆
「ほんっとうに申し訳ないッ」
「顔を上げて下さいトナルさん。なんでそうなるか私には理解できません」
話の途中から顔面を蒼白にさせたトナルさんは、俺が口を閉じた途端、由緒正しき謝意の表現、土下座をその場で敢行する。響き渡った鈍い音で頬が痙攣する。
「いや、僕に非がある。僕に仕事を寄越してきたのは、導士メルクーリなんだ。それに彼は士徒セプトリアの後見人……この件に関わりがあるに違いない。だから、アイリスさんを追い詰めたのは、紛れもなくこの僕なんだ。たとえ間接的であったとしてもね…………」
僕が不甲斐ないばかりに、とトナルさんの言葉が床から跳ね返ってくる。確かに彼がアイリに仕事を回さなければ……秘めていた炎に薪がくべられ、思考が加速し始める。
だが、それを断つ言葉があがる。知らない間に、怪我は、影も形もなくなっていた。
「――でも、おかしくはないかな? そうなると、メルクーリが君や、騎士君にしたことに説明がつかなくなる。トナルが言う通りなら、騒ぎは揉み消され、騎士君がここに来たことも君に伝わりはしなかった」
それもそうだ。だが、そうなると余計訳が分からなくなる。
敵と認識し始めた導士メルクーリの輪郭が朧げになり、それでも思考は、不格好なまま走り続けた。
答えが見つからない問いに三人で唸っていると、外からノックの音が投げ込まれた。
「失礼いたします」
「――これはこれは、今日は本当に珍しい日だね。どうしたのかな、氷結令嬢? 目立った怪我はないようだけど、さぼりかい?」
「その呼び方は止してくれませんか……それにさぼりではありません。体調も悪くありませんが、ちゃんとした理由があってここに来たんです」
ローラさんを拗ねたように睨む女子士徒は、見るからに貴族然とした少女だった。毛先がカールした豊かな金髪と、二の腕に挟まれて形を歪める立派な双峰。
突然の来訪に言葉を失っていると、彼女の視線とぶつかった。そのまま外されることのない蒼眼を不思議に思い、首を傾げると、士徒は微笑みを浮かべて歩み寄ってくる。
「はじめまして、私はカリア。カリア・ルーファス。カーラと呼んでください。アニキ?」
「お初にお目にかかります。私はヴァシル。ただのヴァシルです。それに、フォン、を、お忘れですよ。侯爵家のお嬢…………ん?」
引っかかりを覚えた俺がおかしかったのだろう。いたずらが成功したかのように彼女は笑った。
「いつもうちのヒトがお世話になっています。あなたに会える日を楽しみにしていたんです。あのヒトったら、アニキはすげぇんだぞって、耳に残るほど繰り返し、繰り返し言うんですよ? それなのに会わせてくれないし、だから今日は来ちゃいました」
身体に突き立った驚きの雷で、開いた口が閉まらない。まさか――
「――あなたのことだったとは……思いもしていませんでした」
「……それ、止めてくれません? あと敬語もダメです。いいですね?」
「ですが、そういう訳にも――」
「ツーン」
「――分かった。分かったよカーラお姉さん……これでいい?」
「ええ、これからよろしくお願いしますね……ヴァシルさん? うふふ。私、夢だったんです。お姉さんと呼ばれるの。うちには兄か姉しか居ないので」
嬉しそうに両手を重ねるカリアさん。その結果、スカートの裾が揺れ、窮屈そうに挟まれる巨乳。
交友関係が広がったことを喜ぶべきか、悩むべきか……判断しかねていると、左側から震える声がかけられる。
「常々思っていたけど、底知れないねヴァシル君は……それで、いったい二人はどういう関係なのかな?」
どういったものか……仮にもカリアさんは侯爵家のヒト、庶民との色恋沙汰は公にすべきではないだろう。あ、いや? 確かもう面通しは済ませてあるのか? いやしかし…………
新たな謎に懊悩している俺を尻目に、カリアさんが答えを先に出してしまう。
「ヒ・ミ・ツ、ですっ」
「そ、そんなぁ……」
なんでそんなに残念そうなんですか、知って広めようものなら、頭と身体がさよならするかもしれない案件なんですよ…………
間の抜けたトナルさんの声を押し出すように、ローラさんが盛大な溜息を吐いた。
「それで……どうするのさ、こんな悠長なことやっている場合じゃないだろう?」
「「…………」」
「?」




