復帰と忘れ物
嵐が過ぎ去った王都の空は晴れ渡り、窓から差し込む陽光が、細かく煌きながら光の柱を作る。
「じゃあ行ってくるよヴァシル」
「ちょっ、待って、待ちなさいアイリ! なんでこんなに早いのよ、今日は!?」
朝食を半端に残して着替えていたメイヤが、荷物を引っ掴み閉まりかけた玄関のドアに体当たりをかます。
すると、外から朗らかなアイリの笑い声が伝わってきた。
アイリは、ローラさんが言ったとおり三日で元気になった。
一応大事を取ってもう一日休んだら? と声をかけたものの、早く起きた彼女は、これ以上寝たらベットに根っこが生えちゃうよ、と言って聞かず、細枝のような腕を力ませてアピールされれば、こちらは二の句を継ぐことが出来ない。
「いってらっしゃい……」
届くことのない送る言葉は、舞う埃とともに宙で踊った。
齧りかけのパンと白く濁ったクォゥシィ、投げ捨てられた新聞が目に入る。
メイヤのカップを手に取り口をつければ、ドロリとした液体が舌の上を転がり、喉に絡まる。
「あっまぁ……」
これはもうクォゥシィではない。淀み、限界まで白く染められたこれは、もはや新種の液糖。ヒトが飲むものじゃない。
いがらっぽい喉を鳴らして席を立つ。メイヤの皿を床に下ろして、流し台に向かい、友に声をかける。
「メイヤの食べさしだけど、食べてくれないかな?」
排水口の上でカップを傾ける。
起きてきたロンメルが腰の辺りを鼻で突き、食後のデザートを食べに行く。
そうか、嬉しいか、お前もこれは飲みたくないよな……タイルにへばりつく残滓を大量の水で洗い流しながら独り言ちる。
英断だ、とばかりにパンを頬張る音を聞きつつ、こみ上げるままに溜め息を吐いた。
詰まるんじゃなかろうか、これ……
嗚咽をあげる排水口に情け容赦なく水を注ぎこむ。
せめて早く楽にしてやろうと、更に蛇口へ魔力を流し込んだ。
排水管があげる断末魔の叫びを背中越しに聞いて、空になった食器たちを迎えに行く。
今日は二日分の洗濯をして、滞っていた家事を一気に終わらせてしまおう。
どれから手をつけようか、リビングや風呂場の掃除、そういえばメイヤの部屋の掃除をしばらくやってないな……きっと悲惨なことになっていることだろう。
せめて、足の踏み場があると良いな……なんて考えていると、視界の端に、脱ぎ散らかされたサイズの小さい衣服を集めるロンメルが映った。
いつもだったら急ぎ仕度をするのはアイリなのに、今朝は逆だったな。アイリも今日だけではなくていつもこうだったらいいのに。
彼にお礼を言いながら、食器で水の流れを妨げる。
不満を露わにした水が、タイルの上を跳ね回り、胸元を濡らした。
何だか今日は忙しくなるような気がする。
☆★☆★☆
「これで洗濯は終わりっと」
顔に着いた水滴を払って一息つく。
こちらを心配して侍るロンメルの喉を擽る。すると彼は気持ちよさそうに唸り、目を細めた。
フユにしては珍しい、汗ばむような陽気に頬を緩ませながら、脱いだ上着をはためかせる。
さぁ――
「――あとは干すだけ……何だけど、場所足りるかな?」
底の浅い水桶で山積みになっている洗濯物を目にして、脱衣所から室内干し用の紐を持ってくるべきか、と不安になる。
腰を落ち着けていたロンメルが一つ喉を鳴らした。用意しておいて損はないのではないか、と。
「そうだね。ありがとう、ロンメル」
「……ヴ」
もっと褒めろとばかりに頭を反らし、喉元を晒す彼をその場に残して、玄関に足を向ける。
不満そうな声が聞えて思わず笑ってしまう。
お礼は別のものでしたほうが、きっと喜んでくれるだろう。
だが、そんな上昇傾向にあった気分を引き留めるものが、ドアを開けた先に、あった。
それは布に包まれた大きめのバスケット。
微かにパンの香りを纏うそれは、今朝方、意気揚々と家から出ていった二人の昼食。
さっきは視界が洗濯物で塞がっていたから気が付かなかった。でなければ、こんなにも堂々と鎮座する彼女達の弁当を見落とすわけがない。
「珍しくしっかりしていると思ってたのに、変なところで抜けているんだから……」
でも、メイヤが慌てていたから仕方がないかな。俺も滅多にないことで、今まで一度もなかった状況に驚いて、声をかけられなかったし――
『報告しなきゃなんねぇことがある――どうやら学園で……』
その時、恥ずかし気に眉を顰めていたトゥーヤの顔が頭を過る。
待てよ……おかしくはないか?
思考が加速し、汗が頬を伝う。
なんで気が付かなかった、どうして気にも留めなかった?
鼓動とともに頭の中を駆け回るのは、ここ最近で目にした、アイリの異変。
今朝の様子は明らかにおかしい。それだけではない、倒れたことから始まり……いやもっと前だ。
「仕事に行きたくないって、愚図ったのだって初めてで、その前も…………」
大量の仕事を請け負った。贈り物のためだけじゃないとしたら――
『どうやら学園で』
再びトゥーヤの言葉が繰り返される。学園で、学園で……学園に?
彼の輪郭が朧げになり、変わりに、糸目の仮面が浮かび上がる。
それが徐々に大きく、近くなっていき、間近に迫る糸目の片割れ。太線のような隙間を通り抜けて、その向こう、ドロドロと渦巻くイメージが、見えた。
「ッ!?」
右腕に爪を立てた。シャツの白が血で滲む。
まだ、駄目か? もういいだろう? アイリも、メイヤも、何も言わなかった。
――確かに、言われなかった。
また見てるだけなのか? 限界を迎える、その時まで、傍観者を気取るのか? 今も、そしてこれからも……。
――だけど、待つと決めたのは、俺だ。むやみやたらに手を出さないと、決めたのは、他でもない俺自身だ。
なら、間違いを認めるべきだろう。このやり方は、駄目だ、と……。
理解できたか? だったら、何をするべきかも、分かるよな……?
右目が、忘れ物のバスケットに釘付けになる。
分かっている。理解っているとも。言われなくったって、認知っているさ。
忘れ物の布に左手をひっかけて、家を飛び出す。
この中身も、後ろから聞こえた声も、今は気にしていられない。早く、ただ只管に、速く。
この流れを断ち切るんだ。もう、あんなことにならないよう、止めるんだ――
「俺がッ!」




