ヴァシルの日常
本日二話目です。
食器の擦れる音が作業の終わりを告げる。
それと共に旋律を奏でていた水音も止むと、代わりとばかりに遠くから鐘の音が届いた。
二つ続くものが五回。始業の鐘は本格的に町が動き出すことを民に教えている。
まぁ、皆が皆働いている訳ではないけど。
鐘の余韻が消えると、無償に彼女達が心配になってくる。
「アイリとメイヤは間に合ったのかな……」
いつもなら視線で応えてくれる彼は、まだ任務から帰ってきていない。
遅れても俺のせいじゃないし、と嘯いた言葉は、音がない家の奥に吸い込まれていった。
独り言に続いて長い溜息が漏れ出る。
「脱ぐなら脱ぐで、ひとまとめにしてくれれば片付けも楽なのに……」
視線の先にあるのは、脱ぎ散らかった衣服。もはや、誰のものかなど火を見るより明らかだ。
俺はそれを端から拾い集めていく。
ソックス、ブラジャー、ズボン、ショーツ、ソックス、シャツ、ブラ――
「ん、んん?」
右目を数度瞬かせても、目の前に突き付けられた事実は変わらない。
疑問、なぜ胸当てが二つあるのか。
答えは一つ、アイリが付け忘れたからだ。
もしかしたら、俺が間違えて余分に一枚用意していたのかもしれないが……いや、多分、その線はメイヤの胸部より薄い。
そして、思い浮かべてしまった。今日一日学園で起こりうるであろうことを……
遅刻ギリギリのアイリは、廊下を必死に走るだろう。ロンメルは学舎の中へは入れないから。
それに今日は学士課程の授業だと、メイヤが言っていた。
おぉ、神よ。あなたは迷える子羊たちに、更なる試練を与えようというのか……。
彼女の一挙手一投足ごとに揺れる果実。けっして大きいとは言えないが、確かに質量を持ったそれは、彼らの視線を掴んで離すことがないだろう。
悶える姿が目に浮かぶ。未来の苦悩と溢れる若さ、二つの意味で……。
ま、今更届けに行くのも憚られるし、別に困るのは俺じゃないからどうでもいいか。
彼らの成績に冥福を祈り、止まっていた手を動かす。
両腕に微かな温もりを感じつつ、脱衣所の籠の中に綺麗に畳まれ、積んであったメイヤの服の上にそれを放り込む。
三人分の衣服を収め、結構な重さになった洗濯籠を抱えて、俺は玄関へ向かった。
「んー今日もいい天気だね」
裏庭で気持ちのいい日差しを浴びながら、鼻歌を交えつつ、いつものように洗濯の準備をする。
物置から桶を二つ取り出し、片方を蛇口の下へ用意してから、青空印の水道パイプに魔力を流し込む。
すると蛇口からくぐもった音が聞こえ、勢いよく飛び出した地下水が重力に従って桶に溜まった。
「ほんと、この二年で便利になったよね」
水位から必要な量に達したと分かり、素早く桶を交換し、魔道具に追加の魔力を流す。
そして水が溜まった桶を洗濯籠のところまで慎重に運ぶ。
かぞえて15になった身体にはまだ桶が大きく、動くたびに縁まで揺れる水で、歩みは遅々として進まない。
なんとか水位を保ったまま桶を置き、大きく伸びをする。
「肉体強化が使えれば、軽々運べるんだけど」
視線を落とせば、足元で水面が嘲るようにその身を揺らしていた。
正直に言えば、楽が出来るならするに越したことはないのだけれど、それをやってしまうと仕事が滞ってしまう。それでは本末転倒だ。
「まぁ仕方ないね――」
誰が聞いているでもない呟きを漏らしてから、深い呼吸を意識して魔力を高める。
今から行うことを明確にイメージしながら、試行錯誤して編み出した言葉を紡ぐ。
【おいで水の子、小さな子らよ。一緒に遊ぼう、みんなで楽しく。私が歌って、キミらが踊る。廻れ、廻れ、調べに乗って、みんなで楽しく一緒に舞おう】
桶に入った水が宙に浮き、それが呼び水となって空気中のものを取り込み、水球が大きくなっていく。
ゆっくりと回転し始めた水球に、急いで洗濯物を突っ込んでいく。
一息つくころには、洗濯物がぐるぐると、目にもとまらぬ速さで回っていた。
【♪~♪ッ♪~】
続く声で水球を操作する。声量で速度を、抑揚で方向を変えながら、洗濯物のダンスを継続させる。
一度水を切って、踏み洗いを挟み、もう一つの桶の水を使って同じ魔術で汚れを濯ぐ。
洗濯の終わりが見え始めた。その時、脱力感に襲われて身体が後ろへ倒れ――る前に、背中がもふもふの毛に沈んだ。
「……おかえりロンメル。それとありがとね」
「ヴ……」
そのまま蹲り、寝る体勢に入ったロンメルを背もたれにして、一緒に座り込む。
「あーまだ駄目かー」
「……ヴォ」
「うん。この前、少年期における魔力量の増加と使用頻度についてって論文を読んでから、今日こそは休みなしでいけるんじゃないかなと思ってたんだ。駄目だったけど……」
「……ヴァ」
ロンメルが慰めるように鼻先を擦りつけてくる。
感謝の意味を籠めて耳の付け根を掻いてやった。
そのままの体勢で数回、深呼吸を繰り返してから、桶に落ちた洗濯物に脱水の魔術をかける。
ロンメルとともに飛沫を浴び、宙を舞う洗濯物を眺めながら、俺は思考の海に潜った。
俺には魔術の才能がない。
それを知ってからというものの、俺は様々な文献を読み漁り、知識を自分のものにしてきた。
効率的な術の構築方法、各属性の代用理論、魔道具の作成など、古いものから最新のものまで、頭の中に知識の本としてすべて入っている。
そう、知識は必要以上にある。
でも、それだけじゃどうしようもない。
だって、それを形にする魔力が少ないから。だから俺は魔術の才能がない。
同年代の少年少女と比べることができないほど……。
どうやら、魔力を生成する器官と魔力を貯蔵する機能が著しく欠けているらしい。
さっきみたいにいじましい努力を続けてはいるが、結果はあまり芳しくない。
肌の感触と、再び襲ってきた虚脱感で洗濯の完了を察知し、意識を思考から引き上げる。
「うじうじしても仕方ないね。なるようになるさ。さっロンメル? 干すから手伝って」
「……ヴ」
燦々と降り注ぐ太陽の光を味わいながら、ロンメルと洗濯物を干していく。
今日は掃除の日じゃないから、午前中はこれで終わりかな、と呟けば、ロンメルは眠たそうに一つ欠伸をした。
☆★☆★☆
朝食の残りに手を加えたもので、昼食を済ませた俺とロンメルは、リビングでゆったりと過ごしていた。
薪がパチパチと弾ける音と、鞴のようなロンメルの寝息、近所の子供が遊ぶ声を聴きながら、短い猫足のテーブルに広げた新聞を読んでいく。
今朝、サーリャが届けてくれた新聞は、見出しを飾る大きな絵や、各項目ごとにデフォルメされたイラストのマークがあったり、連載小説、町の声など他紙とは違った面白さがある。
今日の連載小説は貴族令嬢とチンピラの恋物語で、読むとチンピラの物言いが知人の青年とかぶり少し笑ってしまった。
そっかぁ、へぇ~、ふふふ。
その時、下の方に載っていた尋ね人の欄に目が留まる。
「『兄さん、どこに行ってしまったのですか? 家族全員であなたの帰りをまっています。兄さんが楽しみにしていた物も出来上がっています。早くあなたに喜んでもらいたいです。兄が大好きな四男坊より』かぁ、その内行こうと思ってたし、ギルドは後回しで今日はフォンのところに……けど、西町は遠いなぁ」
頭の中で地図を開く。ここ王都ユグドラムは、王城と貴族街を中心に城壁の中を東西南北で区切り、職と地位によって住み分けがされている。
東は商人の町、問屋や小売店が軒を連ね、それらを生業とする人達の集合住宅が乱立している所。
西は職人の町、鍛冶屋から洋裁工房なんでもござれの混沌とした場所。
北は中級市民の町、俺が住んでいるアイリ達の師匠の持ち家は、ここの外れにある。
南は下級市民と旅人の町、宿屋や色町、賭博場などがあり、王都の中でも一番治安が悪い。貧民街も存在している。
これから東町の食料店街に行こうと思っていた。
食材も主だったものが心もとないし、買い出しは最優先事項だ。でも、荷物を抱えて訪ねるのはいい考えではない。
フォンには悪いけど、ワン経由で都合の良い日を聞いて、それから行こう。そうしよう。俺はあの二人を飢えさせるわけにはいかないんだ。
新聞を閉じて、戸棚から食費の入った革袋を取り出す。中から銀貨を三枚と銅貨を七枚取り出し、三つに分けて羽織った外套にしまう。
物音で起きたロンメルと目があった。
「ちょっと買い物いってくるね」
「ヴァ」
ロンメルに留守を任せ、家を出る。
途端に冷たい風が吹きつけ、本格的なフユの到来を感じた。
第三話 ヒトが行き交う町、みち溢れる笑顔の更新は二十二時を予定しております。