降り続く雨
夢を、見た気がする。あの時の夢を。
やけに冷たい蛇口の水も、寝惚けた思考を覚ますためには少しばかり、刺激が足りなかった。
柔らかな瞳と伸ばされた女性の手、欲望と悪意で変色した痕に涙の跡が残る冷たい肢体。
幼い頃に覚えた衝動は薄れるどころか、逆に、今の自分を形作るほどにまで色濃く、心にこびりついている。
許せなかった。それをなした男を、殺してやりたいとすら思った。激変した現実は受け入れがたく、なによりも、それに甘んじていた自分自身が許せなかった。
貧民街の裏路地が、俺の始まりだ。あの頃がなければ今の俺はないといっても過言ではない。それこそ、今でも夢に出てくるほどに――
「なんであたしがこんなことを……」
朝食を後片付けの手を止めると、アイリの荷物から目を逸らしているメイヤがそこに居た。
溜め息をつく彼女に冷ましたクォゥシィを差し出せば、灯のない瞳が黒い水面に釘付けになる。
食器を片づけなければ、とメイヤに背を向ける。
しばらくすると、水の音に紛れて、陶器やスプーンがかちゃかちゃ、と動き出した。
いたずら心に唆されて、あめ、と声に出せば、大人っていた彼女が派手な音を立ててスプーンを落とす。
「なっなによ、き、急に話しかけないでくれる? びっくりしたじゃない」
「いや、雨がなかなか止まないな、と思ってね。傘は用意しておいたけど、メイヤ、外套も必要?」
愉悦を噛み殺し、サトウの壺に新しいスプーンをいれる。
落ちていたものを拾って顔を上げれば、不貞腐れているようなメイヤと目があった。
「…………いる」
「じゃあ、それ飲んだら服着てきて、その間に荷物とか諸々の準備は済ませておくから」
とびっきりの微笑みを残して、彼女の支度にとりかかる。
背後で嚥下する音がした。きっとメイヤは、苦虫を噛み潰したような顔をしていることだろう。
湧き上がる快感で頬が歪む。
嗜虐的な思いとは裏腹に、両手で書物が濡れてしまわないよう、荷物を丁寧にくるんだ。
☆★☆★☆
乾いたシャツが心地良い。
階段に干された洗濯物を潜り抜けて、朝食をアイリの部屋に持っていく。
すでに目が覚めていたのだろう。部屋に入ると、額に髪を張り付けた彼女が笑顔で迎え入れてくれた。
「調子はどう?」
アイリはゆっくりと上体を起こす。
身体の向きを変えたり、起きる際によろめき手をつく様から、体調はあまり思わしくないことが見て取れた。
それでも彼女は笑みを崩さない。
こんな時だからこそ、もっと頼ってもらいたい。アイリは溜めこみすぎだ。
あれだって早い段階で言ってくれれば、こんなことにはならなかった。
持っていた盆の悲鳴を聞いて、両手に力が入っていたことに気が付く。
「ありがとう、ヴァシル。おかげで随分楽になったよ。今から用意して授業をしてもいいくらい――」
「絶対、ダメ。馬鹿を言ってないでご飯食べて、言うこと聞かないと無理矢理着替えを手伝うよ」
アイリは身を掻き抱くと、激しく咳き込む。ほら言わんこっちゃない。
新しい水差しからコップに水を注ぐ。
擦れた呟きは適当に相槌を打って聞き流し、片手で背中をさすりながら、咳が収まるのを待つ。
頃合いを見計らってコップを彼女の唇に近づけると、お礼の言葉とともに喉が艶めかしく音を鳴らした。
ヴァシルはさ、とアイリが熱っぽい唇を波打たせる。
「ボク達、混血種のことをどこまで知ってる?」
生まれ方のことかと思ったが、彼女の表情がそれは違う、と言っていた。
脳内の書架から最適な物を広げる。題名は、国家と種族。
その中で混血種の項目を見る。
ヒトと他種族の子。親の特徴を半分ずつ継承することが多いが、時として、片親の血を色濃く受け継ぐ個体が生まれることがある。前者は外見――特筆すべきはエルフとヒトの――
「この耳はね……お母さんの国では…………ううん、やっぱり何でもないや」
アイリの耳が震える。それを機に彼女は話を切って、陰りのある花を顔に咲かせた。
まだ、駄目なのか。唇を痛いほど噛み締めて、鉄の味を舐める。でも、追及はしない。
この欲求を晴らすのは、今じゃなくてもいい。
アイリから話すその時まで、この気持ちには蓋をしよう。
「そっか……じゃあご飯食べる? それとも昨日みたいに食べさせてあげようか?」
努めて明るい声を出そうと、アイリのためだけの笑顔を作る。
提供した話題が彼女をからかう内容なのは、朝から元気な嗜虐心となんら関係ない。
彼女は耳の先まで真っ赤になると、何かを言おうとしてまた、激しく咳き込んだ。
俺はもう一度アイリの背中をさすることになった。
☆★☆★☆
最後の食器を重ね、溜息を零す。
微かな吐息は耳に届くでもなく、外の激しい雨足に飲み込まれた。
残る家事は今朝の洗濯物だが、今はそれをやる気分じゃない。
揺蕩う視線が見つけたのはテーブルにあった新聞。
パイプを取り出し、ポーチに入っていた道具で簡単な掃除をする。
具合を矯めつ眇めつ確認しながら、煙草を掴むと、肌が確かな湿気を感じた。
「これだから雨は嫌なんだ……気を付けないと、すぐに駄目になる」
苛立って失敗しないよう、慎重に煙草を詰める。篝火を近づけて、一つ。魔術を消した手でダンパーを押し込んで、もう一つ吸い込み火を点ける。
たちまち視界を埋め尽くす紫雲を掻き分けて進めば、晴れた視界に新聞の見出しが、絵のない見出しが目に入った。
「?……!?――これは」
まさか……と呟きながら新聞を開く。
いつもなら絵が飾られる場所は空欄で、一面をざっと見ても、暗号を示す記号が見当たらなかった。
戸惑い。焦燥感に駆られながら、一枚、また一枚、と捲っていく。そして、やっと見つけた。
最後の頁、終わりの終わり、一番下の段落に、それはあった。
緊急を示す記号と一つの単語、それは――
「――ッ!」
――敵襲。
「ヴ……」
意味を理解し、乱暴にパイプから火の点いた煙草を捨てる。
それが水場に落ちた音を置き去りに、外套を引っ掴み、玄関の前で佇んでいたロンメルと目線を合わせる。
「急用が出来た。留守は任せるよ」
友の返事を待たずにドアを押し開くと、重い衝撃が腹部を襲った。
立っていられず、ロンメルの毛に沈み込む。
いったい何が――
「アニキッアニキアニキアニキ、アニキ!」
胸元で息を荒げるスーリャと目があう。いや、彼女は見えていない。
焦点があっていない瞳は常に揺れ、震える唇は同じ言葉を繰り返している。
この雨の中を雨具を使わずに駆け抜けてきたのか、スーリャを抱きかかえる俺の服は濡れていき、じっとりとした温もりを肌に伝えてきた。
「スーリャ、スーリャッ! 落ち着いて、俺の目を見るんだ。そう、何があったのか、ゆっくりでいいから、教えて?」
「あ、あ……あぅ…………」
俺の顔を通り越し、遠くを見ていた彼女の瞳が、次第に正気を取り戻していく。
段々と呼吸が落ち着いていき、何か言葉を発しようとしていた彼女は再び瞳を震わせて――
ぎゅっと俺の胸に顔を埋めた。
上体を起こして、縮こまったスーリャを覗き込むと、濡れた髪の間から紅潮するうなじが顔を出した。
「お、おーい、スーリャ?」
ぺちぺち、と音を立てて彼女の背中を叩く。
密着した互いの肌が、ピクン、とスーリャの示した小さな反応を伝える。
叩くのをやめ、まずは安心させるべきだろうと頭を撫でた。
彼女はこちらを窺うように、顔を上げて大きく息を吸い込む。
濡れたスーリャの手が震えを抑えるために、胸元の服を握り締める。
細い首、その喉が蠢き、口が開いた。
耳を澄ませる。騒音とも呼べそうなほど強い雨の中で、彼女の言葉を聞き漏らすまいと。
だから、気にはならなかった。
スーリャが唇を波打たせた、その時。
遠くの空から、連続する乾いた音が、雨に沈む北町へ届いたことに。




