不穏の始まり
アイリは起きてこない、と織り込み済みの朝。
手持ち無沙汰な手を、少しだけ空いた時間が惑わせる。
結局読んでいなかったな、と昨日の新聞を手に取って、細かな水音が止むのを待つ。
「む?」
見出しに、幹部に向けた重要な情報を示す印を見つけた。
何かあったのだろうか、と思いながら右目を滑らせ、紙面にちりばめられた欠片を拾い集めていく。
会議、本部、明日、昼。内容、新しい、喧嘩、敵、中途半端、不確定、力――。
件の魔術師達が明確な敵となったようだ。
それにしても、”敵”は”中途半端”で”力量”も”不確か”、か……穿って読めば、敵勢力は発展途上ながらも、こちらで把握できないほどの武力を持っている、と解釈できる。
明日の会議で直接、詳細を聞くべきかもしれない。
明日、明日は特別急な予定はなかったはず。後はアイリの看病をどうするか……ん、明日?
「やっぱり気になる?」
「――え?」
思わぬ言葉をかけられ、心臓を鷲掴みにされた。
すぐさま顔を上げれば、上気した頬にタオルを当てながら立っているメイヤと目が合う。
水音はいつの間にか聞こえなくなっていた。
彼女は何よ、と言いたげに両目を歪めると、広げられた新聞を指さして、言った。
「何も隠すことはないじゃない。私も呼んでるのよ、その――」
いつから、いったいいつからバレていたんだ。あられもない姿のメイヤが近づくごとに、身体を緊張の膜が覆っていく。
余計な心配をかけたくないから、彼らとの関わりは知られずにいたかったのに……。
メイヤは視点が定まらない俺の横に立つと、覗き込むように屈んで、紙面のある部分に指を付けた。
「――恋愛小説」
「…………」
力が抜け、イスの上を滑ってしまう。なんだ、心配して損した。
彼女は何を勘違いしたのか分からないが。ひとしきり笑うと、恥ずかしがることないわよ、と続ける。
「それ昨日の? 面白いわよね、粗暴な彼とお嬢様の恋。彼女の親に主人公が啖呵を切る、ここの部分 『心配しないで下せぇ、お嬢は、俺が守ります』 。くぅっ、痺れるわぁ、これ読んだとき背中がゾクゾクしちゃったもの」
「メイヤはこういう男性が好みなの? 紹介してあげようか?」
身近に一人、近い印象の青年が居る。年下の俺を兄と慕ってくれている彼を思い浮かべながら話を振れば、メイヤはそれに溜め息を返した。
「分かってないわね。こういうのは他人の恋路だから楽しいのよ。私はもっとがっちりしてて、家族をちゃんと守ってくれそうな人がいいわ」
「ふーん」
いる。渉外行為を真面目にこなし、家族経営の組織を取りまとめる男性を知っている。
シャツに押し込められている彼の肉体なら、メイヤのお眼鏡にも叶うだろう。
彼女さえ良ければ、今度引き合わせてみるのも良いかもしれない。
当てもなく彷徨わせていた右目をメイヤに向けて、気になっていたことを問いかける。
「こんなことしていていいの、そろそろ出る時間だけど?」
「ん、言ってなかった? 今日は私も休むのよ」
あの子を置いていける訳ないでしょ、とメイヤは隙間が目立つ肌着を張って言う。
殊勝なことを言ってはいるが、その実、たださぼりたいだけかもしれない。
角度的にこちらを見下ろすような彼女の瞳を窺いながら、言葉を選んで唇を揺らす。
「……お願いがあるんだけど、いいかな?」
☆★☆★☆
乗り合いの馬車から過ぎていく街並みを眺めた。
貴族街の堀を周回するこの馬車は今、東町の繁華街を横目にして走っている。
この調子で行けば、そう時間もかからずにギルドへ着きそうだ。
時折、突き上げてくる衝撃や、悲鳴をあげ始めた尻に唇の端を歪めながら、今朝のことを思い浮かべる。
あの後メイヤは、アイリの世話はどうするんだ、私の食事は、今日の家事は、となんだかんだ言いながらも、俺が出かけることを了承してくれた。
無頓着に見えて、色々と心配してくれているのだろう。
休んだくせにアイリの世話すら渋るのはどうかと思うが。
そして、出かける旨を伝えるためにアイリの部屋へ向かうと、すでに起きていた彼女に迎えられた。
アイリは昨日より幾分か調子が良さそうで、頬や耳を火照らせながらも、笑顔で許してくれた。
療養中のアイリとものぐさのメイヤを一緒に残していくのは、気が引けたが、食事も温めるだけだし、ロンメルだっているのだから、そこまで神経質になる必要はないはずだ。
「おっとと……?」
突然身体に力が加わり、思考を取りやめる。
同乗していた婦人が驚きよろめいて、彼女を慮る男性の声と、馬の嘶きが聞こえた。
なんだなんだの声を背に席を立って、覗き窓から御者に問いかける。
「どうかなさいましたか?」
「あぁ。いえ、どうかご心配なさらず、ただの喧嘩です。男どもが急に飛び出してきたので無理に止めましたが、自警団の方達も来ていますし、すぐに収まりますよ」
御者は振り返ると不思議そうに首を傾げたが、気を取り直すように笑みを浮かべると、丁寧な対応で現状の説明をしてくれた。
彼にお礼を言ってそこから離れ、騒動を目に収めようと木枠から身を乗り出す。
落ち着かない様子で首を振る馬の向こうに、組み合う男達が見えた。
かたや筋肉を膨らませて猛る大男。同じくそれを組み伏せるのも、筋骨隆々の偉丈夫。
ただ、後者の男はファミリーの紋が記された上着を着ていた。
ただの喧嘩ではなさそうだ。
構成員が拳で男の意識を沈めると、すぐさま引き摺り、馬車の道を空ける。
彼から事情を聴こうか、どうするか迷っているうちに、御者が馬を走らせた。
仕方がない。会議に遅れてしまうから、機会を見つけてトゥーヤに、報告が上がってきていないか訊こう。
客室に戻るのと同時に現場を通り過ぎる。
その時、複数人の男を縛り上げる集団と目が合った。
「「「ゥオッス!!」」」
手を止めて礼を尽くす彼らに黙礼を返す。轟いた声に集まる視線をその場に残して、少しだけ揺れた馬車は歩みを進めた。
同乗者や御者の視線が痛い。少し居心地が悪くなった荷台で、俺は愛想笑いを浮かべた。
荷台の外に目を向けて、唇を湿らせる。
「やっぱり、何かおかしい」
馬車が進むにつれて、気になることがどんどん増えていく。
大部分が頻発する喧嘩。それらは口論から乱闘まで多岐にわたり、そして、そのどれもで自警団の姿を目にした。
最初の一件以来、馬車が止まることはないにしても、南町が近づくほどに目にする頻度が多くなっている。
残りは町の人々の表情。ただでさえ東町はヒト通りが多いのだ、一人二人、世の終わりに立ち会っているような顔をしていてもおかしくはない。
だが、町ゆく衆人が、程度の違いこそあるにしても、みな一様に沈鬱な影を張り付けているのはどういうことだろうか。
何か、何かが、引っかかる。
これだってそう、もしかしたらあれだって…………頭の中を数々の出来事が過る。そのどれもが繋がりそうで、繋がらない。
気付けそうかと思えば、たちどころに思考は滞り、喉元を掻き毟りたくなるようなもどかしさだけが残る。
「……あれ?」
頭の中を入れ替えようと深く息を吸いこむと、鼻が湿った匂いを嗅ぎつけた。
新たな疑問に思考を浚われて顔を上げれば、暗雲垂れ込める西の空から、石材を引き摺るような雷鳴が鳴り響いた。




