ミスと修正
壁にぶつかることを厭わずに、廊下を曲がった。
俺が発する物音だけが、静まり返った学園に木霊する。
それは止まった世界に一人、取り残されたようで、外に出んと暴れる獣の狂騒に、拍車をかける。
俺が、悪い。このようなことになったのは、俺が彼女に甘えていたからだ。
俺を嗤い、責めたてる足音が、反響して背後から追ってくる。
一つずつ上る気になれず、俺は跳ぶように階段を駆け上る。
角を曲がると、目指していた場所が見えた。
廊下に掲げられる札には、医務室の文字。
辿り着いた俺は荒れる呼吸もそのままに、その扉に手をかけ――
「――アイリッ!?」
☆★☆★☆
二人を学園に送り出し、溜まった家事を片づけて、ソファに倒れ込む。
身体で隙間が空いたような喪失感と、悪寒、頭痛が仲良く手を取り踊っている。
少しでも温もりを逃すまい、と丸くなる。暖炉に薪をくべる気力すら湧いてこなかった。
「無理をしすぎた……魔力がすっからかん、だ」
通常の二倍。たったそれだけの魔術行使が生んだこの状況は、疲労が倍になる、なんて簡単な等式が存在しないことを如実に物語っていた。
いや、それは正確ではない。実際のところ、仕事量に比例して求められる力は増える。
だから、嘆くべきなのは己の非力さで……。
漏れ出るままの呼気に、寄り添う毛並みが身じろいだ。それを梳き、沈む気力を慰める。
焦ったって仕方がない。嘆いたってしょうがない。事実、この身は矮小で、非力で、無力。
なら、これは通る道だ。急激に自力が向上するなんてあり得ない。
だったら、楽しむしかないだろう。
元々、魔力欠乏症という情報は持っていた。が、重度となると、ここまで酷くなるなんて認識していなかった。
知識が増えたのだ、喜ぶべきだろう。
それに今回で自分の限界も知ることが出来た。
素晴らしい。一つの体験で二つ、見識が深まった。
この体調じゃなければ、歓び勇んで小躍りする事態。
起き上がり始めた気分を感じれば、呆けていた舌が口寂しさを訴える。
確かロメルダさんのフロムが残っていたはず、と動き出すと、毛玉が支えになるように足並みを合わせて付き添ってくれた。
これは、夕食に一品追加しないといけないな。
優しき友の背を撫でる。するとロンメルは満足そうに一つ、息を吹いた。
☆★☆★☆
中と外とを隔てるガラスが寒そうに鳴く。それを聞きながら、右手を置いて煙を薫らせる。
間もなく、昼の鐘がその重い腰を上げるころか、と頭の片隅で思いつつ、右目で敷き詰められた文字の列を追う。
次第に薄く、軽くなっていく右手と、逆に厚くなっていく左手の重みを感じながら、昨夜の成果を確かめた。
ついに右手の紙が無くなり、無手となった右腕がパイプを求めて宙を這う。
少し、休憩しよう。
燻る小さな火種を吸い、香りを鼻へと通していく。
闇を弄ると、左手に固い感触がぶつかった。
形を手探りで確かめ、口元に運ぶ。
仄かな苦みと酸味を飲み込めば、未だ体内に居座る倦怠感が溶けて消えていった。
「ご飯は……後でいいかな…………」
誰に向けてでもない呟き。それに反応する律儀な友は、食事の要らない使い魔。
さっき食べたばかりだろ、と彼に笑いかけ、俺は尽きかけの燃えさしを灰皿に捨てた。
「さて、残りはアイリの分か」
視界に残るもう一つの紙の束に手を伸ばす。
先程よりも薄いそれは、確かな重みをもって右手に圧し掛かってきた。
今すぐ街へ出て、買い出しをしたい。夕食の食材が心もとないし、この時間であれば軽食にありつけるかもしれない……
飛び立つ助走をつけ始めた意識を、イスを掴む左手で、無理矢理この場に縫い止める。
これはアイリのため。確認作業はとても面倒だが、しっかりとした成果は彼女の実績になる。
だから、この作業は無駄ではない。
アイリのためならば、この程度、苦ではない。
「……よし」
深い呼吸でやる気を吸い戻し、字の羅列に目を落とす。
端から文を読んでいき、表記を頭の中の本と照らし合わせる。
左から右へ、左から右へ、それを何度も繰り返していく。
一枚目の裏面がもうすぐ終わるころ、右目が一つの記号を見つけて止まる。これは――
「廃棄っと」
字が記号に変わり意味の分からない塊を、忌々しく思いながら紙を脇に捨てる。
紙の無駄だが、訂正する方法がない以上、仕方がない。仕方がないが、何とかできないものだろうか。
何か、こう、インクだけ消し去るような方法があれば…………
意思の外で動いていた右目が、二枚目の中程で脱字を見つける。
これでは単語の体を成していない。
あらかじめ決められていた動きのように、左手がそれを横へ滑らせた。
新たに出てきた三枚目の上を右目がなぞる。
インクは液体。ならば、水の魔術でどうにか……いや、乾いてしまうとインクは変質する。では、紙面に残るインクは何なん――
またしても右目が止まった。
これまでと同じように右手が誤字のある紙を捨てる。
右目が紙の上を走る、また、捨てる。読む。また、捨てる。また、また、また…………。
「ちょっと待って、いくら何でもこれは――」
――多すぎる。
進んでいく作業に疑問を持ち、思考の波間から意識を掬い上げ、両手の感触を確かめる。
右手の束は随分と薄くなった。だというのに左手は空しく指の腹を擦るのみ。
意識的に記憶の本を想起する。現在は四十五頁まで確認が進んでいた。
すぐに二十枚以上無駄となっていることを知る。
どういうことだ。
訳が分からない、と零して、床に散らばる紙を見る。
立ち上がりその中の一枚、二十二頁の紙を手に取って確かめる。
読むまでもない。一目見ただけで間違いを見つけた。
それも、一行目で、二つも……。
逸る気持ちを静めて、順に読み進めていく。
二十三頁……二十四、二十五……六、七、八…………。
進むごとに誤字脱字の頻度は増加していった。
眠気、体調が思わしくなかったのか……そうじゃないな。
見つけ出した一枚目と二十二枚目を見比べた。字の形、線の美醜。何一つとっても変わりがない。
身体に異常があったらこうはならないだろう。
持っていた紙を放り捨て、テーブルの上から一番最後の紙を抜き取る――
「これは…………」
流麗な字の羅列。一つ一つの字は正確で、誰が見ても勘違いすることはないだろう。
遠目に見れば、文章に見えなくもない。だか、並べられたそれらは、どのように読んでも意味を理解することが出来ないものだった。
まるで暗号文のような…………もしこれが暗号だったら、うちの新聞とは比べることも出来ないほど、高度なものだろう。
「何がアイリに起きているんだ」
擦れた声が、散らかった床にポトリ、と、落ちる。
鼓動がうるさく走り回り、呼吸を求めて喘ぐ。
世界が狭まっていく感覚に囚われていた俺を正気に戻させたのは、腰辺りを小突かれる感触だった。
「……ロンメル?」
「ヴ」
ロンメルは我に返った俺の目を、じっと見つめると、おもむろに首を振って玄関を指し示す。
彼に促されてそこに近づけば、緩急をつけて鳴き続ける鳥の声が、耳に届いた。
これは、聴いたことがある鳴き声だ。確か学園の――
ドアを開けると、それは、そこに居た。
学園が所有する伝書鳥。最後に見たのは、アイリに急な知らせが来た時だ。
「まさか……」
ついさっきの拍動を思い出す。
首を傾げる鳩の脚から、小さな紙を抜き取って、これまた小さい文章に目を通していく。
頭が真っ白になった。
地面が揺れる。
そこには――
『しきゅう アイリ たおれる むかえ もとむ』
――と、見知った乱雑な筆跡で、書いてあった。




