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蜂木トケンのファンタジー〜暴食〜  作者: 蜂木トケン
第一章 それを突き動かすは、衝動 
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異変


 新しい一日が始まるごとに、空気はその冷たさを増していく。

 つれない態度の空気を、薪の爆ぜる音が揺さぶった。

 油が跳ねるリズムにのって鉄鍋を振るうと、どこかしらから湧き上がってきた鼻歌が口をつく。

 普段と変わらない。それぞれが、思い思いの方法で、時間を浪費する気だるげな空気。

 俺は彼女達の朝食を忙しなく用意し、メイヤは紙面から世上を眺め、アイリは期限付きの至福を貪――


「おはよう」


 いつもどおりの朝。その決まり切った譜面をなぞるその旋律が、一つの要素を踏み外す音を俺は、聞いた。


「おはよ――アイ、リ?」


 はて、階段の上り口で亡羊と佇む彼女は、いったい誰なのだろう。

 寝癖が残る金髪、尖った耳、見慣れた寝巻は所々に皺がよっていて、左肩がむき出しになっている。

 確かに、両目に浮かぶ深刻な隈以外は、常日頃のアイリと変わらない。

 だからおかしい。まず前提条件から見直さなければいけない。

 昨日はただでさえ寝るのが遅かったのだ。俺の身体に纏わりつく倦怠感が、それを事実だと言っている。

 なら、尚更アイリはギリギリまで寝ていたいはず、ということは、目の前に居る彼女は幻覚で、それを見てしまった俺はそうとう参っている――


「ねぇ……ヴァシル…………ううん、やっぱり何でもないや」


 現実が飲み込めず、意識が夢の世界へ羽ばたいていた俺を呼び起こしたアイリは、起き抜けとは思えないほどしっかりとした瞳で俺の視線を受け止めると、何かを言いかけて、止めた。

 そそくさと、足早で脱衣所へ向かう背中を見て、唇が震える。


「め、メイヤ? アイリが、アイリが一人で、起きてきた」


 動揺のあまり、身体が言うことを聞いてくれない。


「……そうね」


 ゆっくりと視線を向けると、自分のイスで、新聞に目を落とし、クォゥシィを飲んでいる、いつも通りのメイヤがそこに居た。

 彼女は文字を追う瞳を細めながら、気にしていないといった風に、そっけなく、そう言った。


 ☆★☆★☆


 食器が擦れる不協和音が耳に着き、視線を上げる。

 いつも通りとは、とても言えない朝。アイリの異常な行動もさることながら、会話が続かない食事も非常なことだ。

 食事に集中しているメイヤの音だけが、固い空気の流れる部屋で、やけに大きく響く。

 アイリはフォークに手を付けようともしていない。

 視線は終始伏せられていて、対面の俺には窺うことが出来なかった。

 気になる、何がアイリをこうさせるのか。

 彼女を追い詰めた副業は終わる目途がついていたから、すぐに候補から外す。

 せめて、もう少し情報があれば……会話の糸口を掴もうと、蠕動ぜんどうしていた俺の唇を縫い留めたのは、アイリが唐突に零した言葉だった。


「今日、学園休むから」

「え?」


 その一言がたてた大きな波で、今までの思考が押し流される。

 今、アイリは何と言ったのだろう。

 メイヤが食事の手を止めた、食べかけの朝食から視線を離さずに。それが混乱する俺の背中を押し、一言、飾りっ気のない、純粋な、疑問が、口から飛び出した――なんで?


「……言いたくない」


 ぽっと出た言葉に、明確な拒絶が返ってくる。

 なら、仕方がない。少し回りくどいが、段階を踏んで引き出そう。


「分かった、まずはご飯食べよ? 冷めちゃうからさ」


 呼びかけに応えはない。

 固く引き結ばれた唇は左右に揺れ、アイリはいやいや、と何度も首を振った。

 取り付く突起すら与えてもらえず途方に暮れる。メイヤに動きはない。その時、トナルさんとのやり取りが頭を過った。

 もう、それしか考えつかなかった。身体中の血が沸き立つのを感じる。

 俺の呼吸を読んだかのように、黙っていたメイヤが口火を切った。


「アイリ、あなたそれで良いと思ってるの?」


 彼女は手に持っていた食器をテーブルに置くと、身体の向きを変え、アイリに言葉を投げる。


「…………」

「ちゃんとこっち見て」


 会話を拒み続けるアイリの顔を、痺れを切らせたメイヤが、両手を使って自分の方向へ無理やり向かせた。

 動揺して震える瞳が、メイヤの真剣な眼差しに釘付けになる。

 メイヤは捉えた視線を決して離すまい、と強い光を瞳に宿して、諭すように言った。


「ねぇ、いい? アイリは講師でしょう? 曲がりなりにも教え導くことを志すあなたが、逃げ出すのは駄目よ。それはアイリも分かっているわよね?」

「……ッ」


 メイヤの言葉が連なるにつれて、アイリの眦に光の粒が浮かぶ。

 そのような言い方はないんじゃないか。追及すべきは諸悪の根源だろう。

 奥歯が軋む。

 行き場を失い胸中で渦巻いていた怒りが飛び出すのを、意思の力で押さえつける。


「アイリはヴァシルの先生なんだから、教え子に、そんな姿を見せてもいいの?」


 話の水を向けられ、溜めこんでいたものが鼻から抜け出てしまう。

 いつの間にかメイヤの両手から解放されていたアイリと目が合った。彼女はパチパチと数度目を瞬かせると、瞳に決意の火を灯す。

 頬に流れる一筋の涙。アイリは憑き物が落ちたような、どこかさっぱりとした表情を浮かべ、微笑んだ。


「――そうだよね、駄目な先生だなボクは……ありがとうメイヤ。ボク、頑張るよ」


 ヴァシルも、応援してね。アイリはそう言って意気込むと、食事もとらずに席を立ち、二階の自室に駆け上がっていった。

 どうやら、手つかずだった今日の用意をしに行ったようだ。


「不満そうね」


 メイヤの言葉に頬が引きつる。

 階段から目線を外しそちらを見ると、彼女は頬杖をつきながら俺を眺めていた。

 まるで勉強の出来ない教え子を見るかのような目つきで。

 当たり前だろ。そう言葉にすると、顔の各所に余計な力が入った。

 俺にはメイヤのようなことが出来ない。

 アイリの不調に気づいても、助けを求められなければ、手をだせない。

 無理に聞き出すのは憚られるから。

 でも、出来ないものは仕方がない。だから、支える。その他の方法で、明日からもまた笑い合えるように――

 そう言葉にしてメイヤに伝えると、彼女は苦しそうな笑みを浮かべて、アンタは過保護なのよ、と呟いた。

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