7 メルセデス=ベンツ
「――マノーリンとは、晴海で知り合ったのだ」
慰撫モドキ、いやわが美術部のホープ塚村いのり嬢は、優雅な仕草でアイス・ティーをひと口喉に流し込むと、そう言った。
ゴシック調とでもいうのか、相変わらずの時代がかった黒のドレスと金髪のウィッグをまとったままだから、周囲の視線を一身に受けているみたいだけど、本人はまったく気にしていないらしい。
これはこれで統一感が取れているかもしれないけれど、唯一場違いなのは、アイス・ティーが磁器製の洒落たカップではなく、ファーストフードのストロー付紙コップだった事。
衝撃の出会いの後、僕たちは駅ビルの中にあるハンバーガーショップに場所を移した。
冬にここにある画廊で部の展示会やった時に、文ちゃん先輩と一緒にきた事もあるお店だ。
和服の黒髪美人と…えっと、こういうのはたしかコスプレとか言うんだっけ…のわが僚友の間に挟まれて、僕は周囲の視線が痛い事この上ない。
「晴美?…ああ、即売会か」
「そう」
年二回、晴海の貿易センタービルで開催されるというアマチュア漫画家さんたちの祭典。それは僕も知ってはいたけど、まだ現地に足を運んだことはない。何でも、風聞に夏は室温が40度を超え、冬は5度を下回るという過酷な環境の中催されるという凄まじいイベントだそうな。…場所は本当に晴海埠頭でいいんだよな?ゴビ砂漠とかじゃなくて。しかも参加者は猛暑酷寒の中、深夜から開場までの数時間をそこで過ごさねばならないとも聞く。今のところ遭難者とか出た事はないそうだけど、僕だったら映画「八甲田山」の北大路欣也さんみたく「天は我々を見放した~!」とか早々に叫んじゃいそうだ。
そんな根性無しの僕とは違って、目の前にいるつかむーは筋金入りの絵師さんだ。もう何回も、その苛酷な場所に自分の作品を出展してきたとは聞いている。彼女はまだアマチュアだけど、その技量はプロとしても十分に通用するレベルだという事も。
「じゃあ、えっと、このマノーリン?さんも漫画家さんなのか?」
「いや、彼女は…」
「そのご質問には私が自らお答えしよう」
それまでずっと黙っていた和服美人さんはおもむろに口を開いた。
「残念ながら、私は漫画戯画の類には才が無くてな。そちら方面の才覚は、イノーリンの足元にも及ばない」
あ、つかむー、照れているのか柄にもなく赤くなってる。これはレアな物を見てしまった。
「私が旨としているのは造形でな、人形造りが主体なのだ。ここにおわすイノーリンには、デザインなどで協力していただいている。彼女の類まれなるセンスと才覚には驚嘆させられるばかりだ」
「ま…そんな」
つかむーはもじもじと身をくねらせてる。…誰だこの乙女ちっくな美少女は。僕の知ってる野暮ったいメガネっ子で無表情でホラー&スプラッタマニアでどこか…というかいろんな方向で突き抜けてる美術部員のつかむーはどこ行った?
…というか、つかむーってけっこう美少女だったんだな。高校に入ってから一年近くの付き合いになるけど、これは意外だった。メガネ外したら美人…ってのは、それこそマンガなんかではよくあるお約束だけど、こんなの実際にあるんだな。まあ逆に、このつかむーならマンガじみたスキル?だって持っていてもおかしくはないけど。だってつかむーだし。
それからというもの、このマノーリンさんとつかむーは、お互いの才能を称賛し合いはじめてしまった。もう完全に二人っきりの世界に浸ってしまっている。僕の存在なんか気にしちゃいねー。
「マノーリンの作品には愛がある。愛があるから見る者すべての目を魅了してやまない」
「いやいや、それもイノーリンの魂籠ったデザインあればこそだ。私の持てる技量も、イノーリンからいただくインスピレーションあってこそ活かすことができようというもの」
「いやいや、私なんかそんな」
「いやいや、謙遜する事はない」
「いやいや」
「いやいやいや」
…まあ何だ、若くして才覚溢れるクリエイターさんたちがだ、互いを称え合う場というものは、見ていても気持ちいいものだとは思うよ?この僕も、一応ギターを以て己が内面を表現する立場にあるし、その気持ちは分からなくもない。分からなくもないが蚊帳の外というのもちと寂しい、というか心苦しい。
僕は改めて、目の前の和服美人を見た。…綺麗な人だよなあ。歳は僕よりもずっと上だろうけど。言葉遣いがちょっと大仰だけど、それも人形作家さんなら、逆に雰囲気あると言えなくもない…よな?
僕は人形作家さんなんてよく知らないけど、こんな感じのヒトが多いのかな?そういえばあの憎々しくも愛しい慰撫を作った文ちゃん先輩の従妹さんも変わり者だそうだし。
文ちゃん先輩、そろそろその従妹さんと会えた頃かな?従妹さん、名前何て言ったっけ。
えっと…
「お、私はそろそろお暇させていただこうか。ではマノーリン、また後日、積るお話は改めて。しがんもよい春休みを」
慰撫モドキなつかむーは、腕時計を見るとおもむろに立ち上がって一礼した。
「お、おう、つかむーもな」
何だか急だなあ。
「つかむーは不可」
彼女はそう言い残すと、そそくさとお店の外に出ていってしまった。
「つかむーの奴、何慌ててんだ?」
「彼女にも色々と都合があるのだろう?なあ、シガヨシハル君?」
「…え?」
いきなり心臓を鷲掴みにされた気がした。そうだ。このマノーリンさんは、初対面のはずの僕の名前を何で知っていたのか?ついさっきまで一緒にいたつかむーだって、僕の事は一度たりともフルネームでは呼ばなかった。仮に彼女との手紙のやり取りで僕の事を知っていたとしても、さっき階段の下で会った時も、このヒトは最初から僕の名前を呼んだのだ。
…まったくの初対面の、僕の名前を。
「ま…マノーリン…さん?」
「何だい?シガヨシハル君」
彼女の口元が、また上弦の月の形になった。
「あ…貴方は…何者なんです…」
「くす。ただの人形作家だよ」
「な…何で僕の…その…名前を…?」
「くくく。それはだな、あそこにいる彼女に聞いているから、と言っておこうか」
マノーリンさんは、その細くて長い繊細な指先で僕の後ろ側を指差した。その指先の方向を追って振り向いた先には。
怒りの表情でガラス窓に貼り付き、こちらをきっ!と睨んでいる文ちゃん先輩の顔があった。
まあ怖い。
「どういうつもりですか真礼っ!」
店内に入ってくるなり、文ちゃん先輩は、ドン!と僕たちのテーブルを叩いた。
「どういうつもりとは、どういうつもりだ?」
「質問を質問で応えないでください!」
「まあそう喚くな当代殿。ほれ、キミの恋人君も委縮してしまっているではないか」
「へ…?志賀君?どうしてキミが真礼と一緒にいるのですか」
…気づかなかったのですか。一点集中型の文ちゃん先輩らしいけど。
「くくく…あーっはははは!やれやれ、当代殿も相変わらずだ。善哉、善哉」
いきなり大声で笑い出すマノーリンさん。こちらもまったく周囲の目を気にしてない。
ん…?真礼?…まのり。まのりん。まのーりん、マノーリン。
鬼橋真礼。
…そうか、このヒトが文ちゃん先輩の従妹さんなのか。文ちゃん先輩の事を「当代殿」と呼ぶし、やはり彼女も鬼橋一族の方…なんだろうなあ。
僕は改めて、涼しい顔でアイス・ティーを飲んでいる真礼さんを見た。何だか納得。
言われてみれば、彼女も文ちゃん先輩とよく似ている。彼女と最初に会った時、どこか懐かしさを覚えてしまったのも道理だろう。…ただしスタイルとか身長は全然違うけど。
「何が善哉ですか!時間通りにホームに足を運んでも貴方いませんし、よもや慣れない駅で迷っているのではないかと、私はあちこち探し回ったのですよ?」
「16時38分。私は約束の時間通りにきちんと駅にやってきたのだが?」
「でも、その時間に到着する新幹線には、貴方乗ってなかったじゃないですか!」
「…誰が新幹線などに乗ってくると言った?」
「はぁ?…だって時刻表には、ちゃんと16時38分、11番線着の電車が…」
「知らんな」
「知らないって…」
「それはキミの単なる先入観に過ぎまい。私は一度たりとも、『新幹線に乗ってくるからそこに迎えに来てほしい』などとは言わなかったはずだが?」
「む…それはそうですけれど…だって普通…」
「くくく。これは異な事を。稀代の魔導師の名を受け継ぐキミが、よもや『普通』などとは!常識という領域から最も遠くにいる魔導師のキミの口から、まさか『普通』などという単語が飛び出すとはな!これは滑稽な!あーははは」
「む…そう言われてしまうと、返す言葉もありませんが」
いや、そこで納得しちゃいけないでしょ、まいはにー。
「と…とにかくっ、今日はようこそ高崎に。真礼」
文ちゃん先輩は深々と頭を下げた。うん、こういう律儀な所はいかにも彼女らしいよな。
「うむ。では外に車を待たせてある。そろそろキミのお住いにお邪魔させていただこうか」
なるほど。真礼さんはここまで車でやってきたのか。
真礼さんの車は、駅からほど近い場所にあるコイン・パーキングに駐車してあった。
たしかここって、前は映画館だった様な気がするけどな。それもオコサマお断わりの。
子供の頃、近くの模型屋さんに行く度にこの前通って、何となくドキドキしたっけな。
前を通るだけでも気恥ずかしくて、そのくせ上映中の映画の、やたらと煽情的なポスターの絵面だけは、視線の端にちゃっかりと焼き付けてね。だってさ、あの頃って、オコサマがヌード写真みたいなのを拝める場所なんて限られていたからね。ここを通れば、いやでもそういうのが目に入ってしまうのだから仕方がない。だって目に見える場所に飾ってあるんだもん。終いにゃ、用事がなくてもわざとこっち側通ってみたりしてね。すべては好奇心旺盛なマセガキの持ち合わせたる業という奴だ。
…文ちゃん先輩にも内緒だけどね。
「…志賀君?」
「あ、いや何でもございません」
「そういえば、ここって昔、映画館でしたよね、たしか」
「うぇっ?そ、そうでしたっけ?この辺りは、あっしみたいな田舎者にゃてんで疎くて」
「どうしたのだシガヨシハル君。キミはどうしてそんなに動揺しているのだ?」
「へ…?あ、いえそんなコトないですよ?それと、僕の事は志賀でいいです」
「承知した…ああ、あの車だ」
真礼さんが指差したのは、いかにも高級車!といった黒塗りの外車だった。
「うわあ…ベンツだ…」
ボンネットの先端に堂々と掲げられているスリー・ポインテッド・スター。
あんまり詳しくないこの僕でも、あのエンブレムくらいは知っているぞ。
僕はこの歳まで、国産車以外乗った事はない。正確には乗せてもらった事がない。
しかもその車の横では、黒スーツの男のヒトが、羽箒か何かで車の汚れを掃っているではないか。運転手さん付?ああ、そういえば真礼さんは車を「待たせている」って言ってた。
「しかも運転手さん付だ…」
自分で運転してきたわけじゃないんだな。まあ和服で運転するのも大変そうだし。
「それはそうだ。私は当代殿と同い年だよ?まだ運転免許を持てる年齢ではない」
「ええっ…?!」
さもおかしそうに笑う真礼さんに、僕は思わず文ちゃん先輩を見てしまった。
「志賀君?キミが言いたい事は分かりますよ?」
あ。顔が笑ってない。
「…どーせ私はチンチクリンですよーだ」
「あ、いやそういう事でなくて」
「じゃあどういう事なんですか」
「うーんと…お二人ともよく似てるなあって」
「それはそうですよ。従妹同士ですもの」
「うんうん、なるほどなるほど」
「身長とスタイルはぜえんぜんっ!違いますけどね!」
「まあまあ当代殿も志賀君も…やあ内藤、待たせたな」
「お帰りなさいませお嬢様。それに当代様とご友人様も。鬼橋本家の運転手を務めております、内藤頑太郎と申します。以後お見知り置きを」
真礼さんに声を掛けられた黒スーツさんは、深々と一礼した。
運転手さん付の高級外車に「お嬢様」ときましたよ?
…もしかしてもしかしたら…「鬼橋家」って、実は相当のお金持ち…だったのか?
“ねぇカミサマ、私にベンツを買ってよ 友だちはみんなポルシェに乗ってるの”
思わず頭の中に、どこかで聴いた覚えのあるしゃがれた声の女性歌手の歌の一節が浮かんでしまったではないか。
…これはやっぱ、粛然たるクラス・ギャップへの庶民のヤッカミなのだろうか。
…いや、とても社会的で政治的重要な問題だな、うむ。