6 続(しょく)「百合の花」が咲いておりましたとさ。
思いがけず開催する羽目になってしまった遊歩道ライヴを終えた僕は、地上への階段を下った。地上への、何て言うと大仰な気もするな。だって、せいぜいが30~40段くらいしかない緩やかな階段だもの。
とはいえ、予想外に盛り上がったライヴ・パフォーマンスを披露してしまった身としては、内心では、あたかもファンの歓声を背にステージから楽屋に戻るスター・ギタリストの気分だったのも否めない。ふぅ、いい汗かいたぜ。
…もっとも、現実にはそんな歓声なんて聞こえなかったけれど。
いいじゃないか、今はそういう気分に浸りたいんだ。
〇に「長」がトレードマークの長島屋デパートが見える。あそこの屋上って、たしか夏にはビヤガーデンなる物をやってるんだよな。たしかあそこにはちょっとしたステージがあって、地元のミュージシャンさんたちが酔客さんたちの耳を楽しませているとも聞く。お酒を呑んじゃいけない高校生の僕には縁のない場所だけどね。…あ、でも家族連れのお客さんも多いみたいだな。世のお父さんお母さんたちがアルコールで盛り上がっている間、連れのオコサマたちはいったい何をご摂取されておられるのだろう?…お水?いやいや、それではあんまりにも不憫すぎる。まあ何だ、きっとジュースとかもあるのだろう、きっと。
わが家では、親父様はもっぱら家でお酒を嗜むだけだし、これまでああいう場所には縁がなかったから、ここは妄想…いや想像を働かせるしかないのだ。
妄想を働かせてみたら、取り放題のご馳走がわんさか並んでいる光景が頭に浮かんだ。
鶏のから揚げにフライドポテト…辺りは定番かな。ほかには…そうだなあ…お酒のおつまみなのだから、きっと枝豆とか冷ややっこもあるだろう。アレ好きなんだよな。僕はまだ法的にビールは飲めないから、親父の晩酌にはもっぱら麦茶でお付き合いしている。原材料が同じせいなのか、これらは意外に麦茶にも合ってると思うけど如何だろうか。ここは専門家の方々のご見識を窺いたい所だな。
後は…おつまみなんだから、きっとお刺身とか鍋物もあるに違いない。夏に鍋物?という疑問も浮かんだけれど。お刺身…いいなあ。ちょっとした料理屋さんみたいじゃないか。何だか凄いぞビヤガーデン!そんな場所でライヴできたら、さぞ気持ちのいい事だろうて。
僕はいまだ足を踏み入れた事のない未知の領域に思いを馳せながら、駅の方に足を向けた。
すると、ついさっき僕が降りてきた階段の下の影に、女のヒトが立っているのが見えた。
すらりとして背が高く、長くてきれいな黒髪がとても印象的だった。淡い桃色の日傘を差して、お召しになっているのは藍色の生地に紫陽花の柄を染め抜いた和服。歳は…二十歳くらいだろうか?とてもオトナびて見える。切れ長の目に品の良さそうな小ぶりの唇。
どことなく神秘的な雰囲気を漂わせた女のヒトだった。
あれ…?どこかで会った様な気がするのはなぜだろうか。とっても近寄りがたい雰囲気なのに、どこか懐かしさも覚えてしまうのは何故だろう。
僕が思わず見入ってしまっていたせいか、その女のヒトと目が合ってしまった。
…くす。
あ、こっち見て笑った?
すると女のヒトは、急にうずくまってしまった。どうしたのだろう。気分でも悪くなったのかな?…まさか僕のせい?え…ええ…?
僕は思わず、その女のヒトの所に駆け寄った。
「あ…あのう…だ…大丈夫ですか?」
「え…いえ、ちょっと持病の癪が」
癪…?ああ、胸とかお腹の痛みの事だっけか。そのくらいは僕でも知ってる。時代劇とか落語ではよく耳にする言葉だもの。それにしてもこのおねーさん、見かけもそうだけど、何だか古風な感じの言い回しをするなあ。うん、今では失われつつある大和撫子さんそのものじゃないか。僕は不謹慎にも、このおねーさんの漂わせている雅た雰囲気に酔いしれてしまいそうだった。
えっと、女の人にこんな事言われた時、男は何て言えばいいんだっけ?ええっと…
《そいつぁいけねぇ、あっしがさすって進ぜましょう、だよぉ?》
僕の頭を時折電波ジャックしてくる、いつもの美人養護教諭風カミサマの声が聞こえた気がした。ああそうだったそうだった…って、ええっ!?
えっと、何だ、目の前にはきれいなおねーさんが、辛そうにうずくまっている。
そのおねーさんは、胸だかお腹だかが痛いと苦しんでらっしゃる。
さてここで問題。ではそこに居合わせた男はどういった行動に出ればよいのでしょうか?
A.「優しくさすってあげる」のが吉。これぞ日本の伝統芸、ついでにカミサマのお墨付き。
…って、純情な高校生(年上の可愛い彼女持ち)にそんなんできるかぁ!
ぜいぜいぜい。
「…さすっては下さらないの…?」
おねーさんは、さも辛そうに僕の目に訴えかけてきた。どどど、どうしよう…
切れ長の目に、ほんの少しだけ青みがかった瞳が潤んでいる。本当に辛そうだな。
「え…?あ、でもその、それはちょっと…人の目もありますし…」
「むー、じれったいですね!ここですよここ」
おねーさんは僕の手を取ると、そのまま自分の胸の辺りに触れさせた。
むにゅっ。
そこには男のロマンがあった。
着物越しにもはっきりと感じ取れる、柔らかくておっきくて、てのひらの中でとろけてしまいそうな、とってもせつない感触。
…この感触は知っている。いや、僕にとって、身内を除いて一番身近な女性である、まいはにー文ちゃん先輩にはない、まずありえない感触だけど。
《…でもわたしよりはちっちゃいと思うなー》
僕の記憶の中にある、その感触の持ち主たるカミサマは、どうやらこの感触の元に、それなりに脅威をお感じになっておられるみたいだった。
《…そんなことないよ?》
…いーから少し黙っててくださいませんか?
《むー。わかったわよぅ》
若干不平めいた声を残しつつも、カミサマは「信者」の祈りに応じてくれたみたいだった。
おん敵退散…なんて言ったらばちが当たるだろうか?
あれ…?指先の真ん中辺りに、何だか小さなしこりの様な感触が…?
えっと…その…先っぽが…硬くなってきてる…?
「あ…ああっ…あ…あはぁん…」
気がつけばおねえさんの頬が紅潮してきて、息も粗くなっていて…って、僕は何でおねーさんの胸を揉んでいるのでしょうか…?
「そこ…だめ…あ…」
あああ、あのその…こ…これは…えっと、その…何でどうしてこうなった?!
瞳を潤ませたおねーさんは、狼狽するばかりの僕の耳元に唇を近づけてきてこう言った。
「…場所を変えて…もっと…する?」
い…いいいっ…!?
耳元をくすぐる熱い息が、どうにも艶めかしい。
このおねーさんの言っている言葉の意味が、僕にはまるで理解できなかった。
いや、言葉の意味は分かっているはずなのに、単語がばらばらになってしまった感じがして、僕の頭の中で、それをどう組み立てればいいのかが分からない。これもゲシュタルト崩壊って奴なのだろうか?
僕はともかく、彼女に掴まれたままの手を放そうとしたけれど、おねーさんは意外に力が強くてどうにもならない。
「…だめ。逃がさない、シガヨシハル君」
…え?
おねーさんの小さな口元が、上弦の月のカタチになった。
さっきまでの夢見心地な感触は一気に消え去って、背筋に冷たい汗が流れた。
このおねーさん…何で僕の名前を…?
再びこの女のヒトと目が合った。切れ長の目が、すぅっと細くなった。
「ふ…ふ…ふ…ふ…」
このヒトの声が怖い。目線が怖い。笑顔が怖い。
いまだに感じ取れる、胸元の柔らかな感触さえ、今の僕には恐怖だった。
「…君はいい傀儡になりそうだな」
え…今、何と…?
「マノーリンっ!」
その時、突然近くで誰かの声がした。あれ…?こっちもどこかで聞いた様な声だな…?
見ると、そこには、何と慰撫が立っていた。それも等身大の。
このおねーさんと同様、日傘を差しているけど、おねーさんのが和風の番傘っぽい物に対して、等身大慰撫のは洋風っぽい感じの物だった。
たて巻きロールの金髪に黒のゴシック風なドレスがよく似合う。
うん、これ、まさしく慰撫…だよな?
む…よく見ればちょっと顔つきが違う様な気もするけれど、この慰撫だって十分すぎるくらいの美少女には違いなかった。
「イノーリンっ!」
その声に反応するがごとく、おねーさんは僕をさっさと突き飛ばして、その等身大慰撫に走り寄っていった。
等身大慰撫も目を潤ませて、おねーさんに抱きついてきた。
「マノーリン!ああっ、マノーリンなのですね!」
「イノーリンっ!会いたかった!」
二人は互いにその名(?)を愛おしそうに呼び合いながら、熱い抱擁を交わしている。
…おいおい、今日はいったいどういう日だ?わが校の生徒会室に続いて、ここ高崎駅西口でも百合の花が咲いているなんて…まさか県知事さんが「今日は県下一斉に百合を広めようキャンペーンの日っ!」なんてこっそり決めちゃったのだろうか?
わが上州群馬は、昔から「かかあ天下」なんて言われてはきたけれど、ウーマンリヴにも程って物があろう。そんな、女性だけでイチャイチャされたりしたら、僕たち男の立場はどうなる?
和装の美女とゴシックドレスの美少女が、互いを愛しみながら抱擁を交わす姿という物は、絵的にはとっても美しくて、ほのかなエロスすら漂わせてはいたけれど、それを認めてしまっては男の立場がない。セカイ的には「同性愛」という物も徐々に認知されてきてはいるとは聞くけれども、僕は認めない。「男同士の愛なんて生産的じゃない」なんてのは、たしか「風と樹の詩」に出てきた台詞だけれど、それは何も男同士に限るまい。
狭量だ保守的だと言いたければ言うがいい。どうせここ群馬は怒涛の保守王国のお土地柄、サヨクなんてお呼びじゃないのだ…って、そういう話じゃないのか。
それはそれとして、この二人は知り合いみたいだな。互いの名前を呼び合ってるくらいなのだから。「マノーリン」「イノーリン」って。
…………あれ?
それはどこかで聞いた覚えのある名前だぞ…?
和服の「マノーリン」。
ゴシックドレスが「イノーリン」。
「マノーリン」と…「イノーリン」。
「イノーリン」…?
いのーりん。いのりん。いのり。
…僕の知っている…というかごく身近に、そんな名前の変わり者がいるぞ。
「……まさか、つかむー?」
「や、しがん。息災らしくて上々、上々」
金髪の等身大慰撫モドキ、いや、わが校の美術部員、塚村いのり嬢は、器用にも無表情に会釈してきたのだった。