5 「冬の散歩道」ならぬ「春の遊歩道」だね。
お会計を済ませて摂津屋さんを後にした僕たちは、また駅に向かった。
「志賀君たら、にやけてますよ」
「へ?そう見えますか」
「ええ、とっても、まるで我が世の春みたいなお顔です」
「まあ、もう春ですしねえ」
「ふふ」
そりゃあそうですよ。美味しいお蕎麦でお腹も膨れたし(無茶苦茶お値段が張るだけの事はあった!)、横には愛しいまいはにーさん。おまけに小姑のごとく煩い慰撫の奴もロッカーの中となれば、思わず顔だって綻んでこようというものだ。…お財布の中身はずいぶんと軽くなったけど。
弥生三月、夢見月。今年は春から、あ、縁起のいいコトだ、なぁ~。
心無き人よ、どうか浮かれてやがると言うなかれ。木の芽時にゃまだ早い。
カノジョと過ごす春休み…は明日からだけど、現にこうして一緒に歩いているのだから、フライングだとしてもよしとしよう。こうして一緒に春先の街を歩くのがこんなに楽しいだなんて思いもよらなかったな。少なくとも、1年前の僕だったら考えもしなかったろう。
そういえば去年の春休みにも、たしかこっちに遊びにきた覚えがあったっけ。あの時も高校に合格した後だったから、やっぱずいぶんと浮かれていた気がする。でも、あの時横にいたのは悪友森竹と幼馴染の小木曽君で、一緒にプラモデル屋さん巡りしたんだったよな。今にして思えば何と色気のない、オコサマじみた事だろう。でも今年は違う。もはやわれ呉下の阿蒙に非ず。男子三日会わざれば、括目してみてほしいものだぜべいべー。僕はもうオトナの階段を登り始めている…はずだよな?
「くす。志賀君たら、蕎麦湯を何杯もお代わりしてましたね」
「だって本当に美味しいお蕎麦を出すお店は、蕎麦湯だって美味しいんですよ?それにウチの父に言わせれば『蕎麦の本当に旨い部分は、蕎麦湯の中に溶け込んでる』そうですし」
「志賀君のお父様も、お蕎麦がお好きですものね」
「ウチは代々、遺伝子レベルで蕎麦好きなんです」
「ふふ」
しかし楽しい時間という物は、えてして長続きしないものだ。
コインロッカーを開けてスポーツバッグを取り出して、「おい慰撫、ちゃんと大人しくしてたか?」なんて言いながらファスナー開けてみたそこには。
『…………』
僕をじっと見据えてくる、首だけの美少女の人形の、それはそれは怨嗟に満ち満ちた視線があったのだった。
「ひっ!」
『……』
これは怖い。小さな美少女の生首モドキが、無言でじっとこちらを睨みつけてくるのだ。まるで江戸川乱歩のセカイじゃないか。
「あ…あの…慰撫ちゃん?もしかしてご機嫌ナナメさんかな…?」
『……』
「そ…そんなに怖い顔するなよ。お前さん、ただでさえ異形で怖いんだからさ」
僕は恐る恐る、こいつの髪を撫でようと手を伸ばした。
『…ギャウ!』
すると突然、慰撫は大きな口を開けて、僕の手に噛みつこうとしてきた。
「わあっ!」
思わず手を引っ込める僕。間一髪だった。
『ふーっ、ふーっ』
「ま…まあ慰撫、落ち着いて!いい子だから、ね、ね?」
文ちゃん先輩も慌てて間に入る。
「あ…え、慰撫…貴方、泣いてるの?」
え…まさか…って、あ、本当に泣いてる。
『寂しかったですマスター・アヤ…本当に寂しかったのです…わ…ぐすん』
「…ごめん。さすがに僕が悪かった」
『…ヨシハルさんなんて嫌い!大嫌いですわ!』
慰撫は涙声でそう言うと、バッグの中で器用に外方を向いてしまった。バッグの中から、くぐもった嗚咽が聞こえてくる。
…これには僕も流石に反省した。たとえ異形とはいえ、メンタリティは女の子。女の子を泣かせちゃうのは恥ずかしい事だ。何が大人の階段だよ。女の子の気持ちも分からない奴がよく言えたものだよ。
「…ごめんな、慰撫」
自己嫌悪に苛まれる僕の謝罪に、慰撫は答えてはくれなかった。
「あ…あの、そろそろ新幹線も着く頃でしょうし、ホームの方に行ってみませんか?」
気まずくなった場の空気を読んでくれたのか、文ちゃん先輩が話題を切り出した。
「え…あ、そう…そうですね。とりあえず入場券買って……あ」
僕は制服のポケットからお財布を出して、ある事に気がついた。
……。しまったなあ。
「…どうかしましたか?」
「あ…いえ…ちょっと…」
「?」
「ちょっと…その…お金が…」
「え…お金を…?まさか落としちゃったとか…」
「いえ…その…足りなくなっちゃって…」
「…は?」
「あ、いやその、帰りのバス代くらいは残ってるんですけど、入場券買っちゃうとなると…ちと足らないかな…?なんて」
「まあ」
そうなのだ。駅の構内に入るには入場券が必要だという事を、僕はすっかり失念していたのだった。摂津屋さんでは、ちゃんとお財布の中身と相談したつもりだったのだけど、あの時はまあバス代は残ってるから、ちょっと高いの頼んでも大丈夫くらいに考えていたんだよなあ。迂闊だった。
わが群馬という土地は、公的交通機関が絶望的に脆弱だ。電車の路線はまばらだし、バスだって市内と郊外では行って帰ってくるくらい運賃が違う。ここ駅前から郊外のウチの近くの停留所まで乗ったら、それこそ700円は下るまい。タクシーなんてもっての外、アレはお金持ちか、身内に急な一大事が起こった時に仕方なく乗る物だ。
…あの時、天ざるでなく、せめて文ちゃん先輩とおなじくもりにしておけばよかったか…とも考えたけど、いやいやそれでは蕎麦好きの名が廃る、僕の選択に誤りはなかった…と言いたい所だけれど、現に過ちがあったからこうなったわけで…。
「まったく、志賀君たら、しょうがありませんねえ」
「…面目次第もございません」
呆れた様な文ちゃん先輩のお言葉に、僕は返す言葉もなかった…って、あれ?どこからか笑い声が聞こえるぞ?…む、この声は慰撫か?
『ぷーくすくす。ヨシハルさんたら、お馬鹿さんの愚か者さんですわね。お勘定もできないなんて』
泣いた異形がもう笑ってやがる。まあ、機嫌が直ったのならいいか。
それはそれとして、さてどうしよう。
「くす。あんなに美味しいお蕎麦を前にして志賀君に我慢しろというのも、まず無理な事かもしれませんでしたしね」
…「まず無理な事」とまで言われてしまいました。僕はお預けくらったワンちゃんですか。そこはせめて「酷な話」くらいにしておいてください。…たしかに文ちゃん先輩の仰る通り、否定できない仮定ではありますが。
「いいですよ、そのくらい、私が出してあげますってば。そもそも、今日は私のお付き添いでここまで来ていただいたのですし」
「あ、いいえ!それじゃあ申し訳ないですよ。どうせそのマノリさん?をお迎えしたら、またここに出てきますよね?」
「ええ」
「じゃあ、それまで僕、ここで待ってますよ。ほんのちょっとの間ですし」
「そうですか。志賀君がそう言うのなら…じゃあ、ちょっとだけ待っててくださいね?慰撫、行きましょう?貴方も早く真礼に会いたいでしょう?」
『もちろんですわ』
文ちゃん先輩は慰撫の入ったスポーツバッグを手に、駅の階段を登っていった。
…まったく、ヘンな所で恥ずかしい所を見せちゃったなあ。でも文ちゃん先輩に「お金にルーズな奴」と思われたくもないし…自分の蒔いた種だ、ここは大人しくきちんと反省していようではないか。
…とはいえ、彼女たちが戻るまで手持無沙汰だよなあ。どうする?相棒。
僕は背中に背負ったギターケースに向かって話しかけた。
時間があるならとりあえずギターを手にしてみる。これは僕の、ごく日常的な事だった。
それに、ここにはちょっと前に空中歩道もできた事だし、ちょっとベンチに腰かけてギター弾いてようかな。
先のライヴ出演以来、僕は人前でギターを弾く事に、何の抵抗もなくなっていた。
これは大きな変化だと思う。これも師匠と…それに鮎子先生のお蔭だ。
《ううん。君の努力の賜物だって》
頭の中でいつもの声が聞こえた気がしたけど、今回は素直にありがとうございましたとお礼を口にした。
階段を登って空中歩道に出て、僕は空いているベンチに腰かけた。慣れた手つきでケースからギターを取り出して、音叉を鳴らしてチューニング。道行くヒトたちが何がはじまるのかと目線を向けてくるけれど、今の僕には気にもならない。ただ黙々とギターを弾きはじめるだけだ。
思いつくままにサイモン&ガーファンクルの曲を数曲弾いてみる。歌は入れたり入れなかったり。こっちも気分次第だ。
はは。考えてみれば、ここって「冬の散歩道」ならぬ「春の遊歩道」だね。
次第に気分ものってきた頃には、僕の周りにはけっこうなヒトだかりができていた。
…あれ?
不思議に思いつつも、僕は弾いていた曲を最後まで弾いた。
するとあちこちから拍手が起きてしまった。…あれ…あれれ?
「にーちゃん、お前さん、上手いなあ」
拍手してくれたオジサンたちの一人が、僕に話しかけてきた。
「あ…いえ、それほどでも…ただ練習してただけですし…」
「何かもう1曲やってくれよー」
はは。周囲の誰から、リクエストもいただいてしまいました。
「あ…じゃあ、今練習してる奴を…」
僕は2フレットにカポタストを取り付けて、すぅ…と一回深呼吸。
Amのポジションから、一気加勢に高速アルペジオを展開。曲はもちろん「アンジー」だ。
周囲からおおー、という歓声が沸いた。曲を知っている方はもちろん、知らなくてもこの曲のインパクトは大きいと思う。
演奏時間、わずか2分間ちょっと。しかしオーディエンスを意識しての集中プレイは、意外に汗をかいてしまった。
「…ご清聴、ありがとうございました!」
一礼する僕に、みなさんは暖かい拍手で応えてくれた。図らずもストリートライヴになってしまったみたいだ。
「いやーよかった!オジサン、感動したぞい」
最初に声を掛けてくれたオジサンが、僕の肩を叩きながら言った。…ちょっとお酒臭いな。
「ほれ、これ取っとけ」
オジサンはポケットから五千円札を一枚出して、僕の手に握らせた。
「へ?あ、いえ…こんなにいただくわけには…」
「いいんだっていいんだって。こいつぁお前さんの今日のギャグって奴だぞい」
「ギャグ…?えっと…もしかしてギャラの事ですか?」
「おうそれそれ!」
「でも…」
「いーから取っとけって。実はな、今日は娘の結婚式の帰りでなあ」
「あ…それはおめでとうございます」
「ありがとうよ!だからこいつはご祝儀ついでだぞい。縁起物だぁな…んぁ?」
ふと、オジサンは僕の顔をしげしげと見つめると、急に顔を近づけてきた。
「お前さん…前にどこかで…」
へ?どこかで会った事あったっけ…このオジサン。覚えがないけど…
「おおそうだ!、お前さん、この前、市の日曜コンサートに出てた子だろ?」
「あ…もしかしてこの間のふれあい公園の…観てくれたんですか?」
「おうよ!観た観た!あン時もよかったけど、今日はもっと良かったぞい」
オジサンはがはは、と笑いながら去っていった。僕は思わず、その後ろ姿に向かって一礼したのだった。
嬉しいなあ。こんな所で僕の演奏を評価してくれるヒトに出会えるなんて。
やっぱ、独りで黙々と学校の屋上とか家の中で弾いてるだけじゃあ、見えてこないモノもあるんだなあ。
ちょっとした感動に包まれながら、僕はギターをケースに片付けて空中歩道を後にした。
そろそろ文ちゃん先輩も戻ってくる事だろう。