4 「盛り」と「ざる」。
終業式の後という事もあって、校内に残っている生徒も少なく、今学期最後の校内見回りをあっと言う間に終わらせた僕たちは、そのまま校舎を後にしてバスに乗った。
向かうは終点の高崎駅西口。今日こっちにやってくるという文ちゃん先輩の従妹さんをお迎えするためだ。
もちろん、スポーツバッグに詰め込ん…隠したままの慰撫も連れて。
こいつがいなければ話が始まらない。何となれば、その従妹さんがこっちにくる目的が、まさにこの慰撫を修理(?)するためだったりするのだ。
普段、僕の顔を見れば猛毒の罵詈雑言を浴びせてくるとはいえ、こんな姿になったのは、他ならぬ僕を守ってくれたからだと思えば、それなりに申し訳なさとか憐憫の情とかいった物がわいてこないわけでもない。いやそれ以上に、こんな姿になったこいつを目にした時の文ちゃん先輩の動揺が、僕にはとても痛々しく思えた事もあった。
あの時の文ちゃん先輩は、かなり取り乱していた様に思う。
考えてみれば不思議な物だ。この慰撫の「基」となった異形が文ちゃん先輩の身体を乗っ取り、その後で自身を取り戻した文ちゃん先輩の手で破壊されたのだって、ほんの1ヶ月ちょっと前の出来事だ。それが今や、彼女にとってこの「慰撫・弐式」というリメイク物の異形は、お母さんの唯さん(と僕!)の次くらいに身近な存在となったのだから。
少年マンガなんかでよくある、「死闘をかわした相手だからこそ、無二の知己となる」って奴なのだろうか?とも思ったのだが、どうやらそれとも違うらしい。
彼女に言わせれば、「魔導師とその使徒は一心同体」なのだという。それがどういう意味なのかは分からなかったけれど、まさしくあの時の彼女の取り乱し様は、あたかも我が身を切り裂かれたかの如くだった。
周囲から「鉄血宰相」とまで揶揄されるだけあって、文ちゃん先輩という2年の女子は、一般的にはとてもクールに見られがちだ。でも、その内面はとっても情熱的で一途、けっこう熱い感情だって渦巻いているのだ。それを知る者は数少ないけれど。縁あって彼女とお付き合いをはじめてから、僕はこれまで様々な場面でそれを感じてきた。その度に僕は「鬼橋 文」という女の子に惹かれ続けていって…気がつけば今日に至るわけなのだ。
「…ところで、その従妹さんってどんな方なんですか?」
『とっても気高い御方ですのよ、マエストロ・マノリは。ヨシハルさん如きがおいそれと近寄れる方ではないのですわ』
スポーツバッグの中から声がした。お前にゃ聞いてない。
「まあまあ慰撫。そう言わないで。真礼は…えっと、その…。何と言いますか、うん、とても風変わりな子…ですね」
何でしょうか、その、言葉を慎重に選びながら、結局、なぜかひたすら大雑把な結論に達したかのような口調は。
…「風変わり」、かあ。まあ、文ちゃん先輩の従妹さんだしなあ。
これは別にヘンな意味ではない。彼女の実家である「鬼橋」家は、その昔、異教審問を逃れて日本にやってきたスペインの異端派の一族の末裔なのだ。その御先祖様たちは、数々の魔法を自在に操る「魔導師」だったという。
今から半世紀ほど昔の昭和初期。この一族の中でも、とりわけ秀でた魔導師の女性が現れた。
帝都東京の夜を震撼させたというその女魔導師は、やがて彼女を追ってやってきた一人の女性に屈服して忠誠を誓うに至ったという。その女魔導師こそ、文ちゃん先輩たち末裔が「御初様」と呼んで敬っている初代「鬼橋 文」だった。
文ちゃん先輩はその四代目に当たるけれど、直系の子孫だというわけでもない。彼女によれば、「『鬼橋 文』の鋳型継承とは、何も血筋の濃さに依るというわけでもないのです」との事だった。先代の「鬼橋 文」が亡くなると、その鋳型は次に生まれてくる一族の少女の誰かに受け継がれるのだという。その証は、生まれた時から下腹部に刻まれているという紋章なのだそうだ。
…僕はまだ見た事はないけれど。
そりゃあそうだ。いくら何でも、恋人のスカートをまくり上げておパンツの中身をじろじろ見れるほど、僕は破廉恥な男ではないのだよ。そういうのはまだ早い…あ、いやいや。
…でも、もし仮に――あくまでも仮にだよ、もしも僕がそんな行為に及んだりしたら、文ちゃん先輩はどんな反応を示すだろうか?
真っ赤になって俯いちゃうだろうか?――そういうのは彼女らしくない…よな。
笑いながら「やめてくださいよう」なんて抗議してくる?――ないない。絶対にない。
問答無用でブン殴られる?――うん、それが一番ありえそうな結末だ。くわばらくわばら。
「――それで志賀君…志賀君?」
「え…あ、はい?」
不意に名前を呼ばれたものだから、目が合っちまったい。見れば、きょとんとした顔でこちらを見つめる愛しのまいはにーさんの、とってもぷりてぃーなお顔があった。
「どうかしましたか?何だか顔が赤いですけれど」
「い…いえ、何でもありません。まったく何でもありませんのですよ、はい」
『ヨシハルさんの事ですから、どうせ如何わしい事でも考えていたのですわ』
五月蝿いなこの首だけ人形。お前という奴は、どうしてこうも的確に僕の気持ちを見抜きやがるんだ?お前は鮎子先生か?
《あは、呼んだ?》
呼んでません。呼んでないですから、こちらの事はしばらくおかまいなく。
《ぶー。つまんない》
頭の中で、よく知っている美人の養護教諭の声が聞こえた気がしたので、僕はその声さんには丁重にご退場していただいた。…まったく、こっちも油断できないな。
「くす。まったく慰撫ったら。志賀君がそんな破廉恥な事を考えるわけないじゃないですか」
…すみません。そんなにピュアな笑顔を向けないでください。僕ぁ汚れたヤローです。
僕は心の中で深く懺悔した。
《あーいーよいーよ?許す許す。カミサマが許しちゃうんだからノープロブレム!》
また頭の中で声がした。何だか、その「カミサマ」が親指をぐっと立てているイメージも浮かんでしまった。
…色々と問題があるような気がしないでもなかったが、まあいいか。はい、懺悔終了。
「…で、そのマノリさんって…どう風変わりなんです?」
「えっとですね、傀儡師としての才能は申し分ないのですけれど…性格に難あり…と言いますか、言動がちょっとエキセントリックと言いますか…」
む?ちょっと気難しそうなヒトみたいだな。芸術家肌という奴なのだろうか?まあ、この慰撫をこしらえたってくらいだからなあ。ある程度は予想もつきそうだけどね。そもそも「エキセントリック」って「風変わりな」って意味なんだけど…才媛たる文ちゃん先輩をしてそこまで慎重に言葉を選ばせてしまうというその従妹さんには、正直ちょっと興味がわいてきたのも事実だった。
僕たちがそんな他愛もない会話を交わしているうちには、バスは駅の西口に着いた。
バスを降りると、急にお腹が減ってきた。ああ、そういえば今日は、まだ昼食取ってなかったっけな。
「…えっと、マノリさんがこちらにくるのは何時頃でしたっけ?」
「たしか…16時38分にここに到着するって、今朝ご本家から連絡があったのですが」
うーむ。じゃあまだ全然、時間があるじゃないか。
「ねえ文ちゃん先輩。まだ時間に余裕もあるみたいですし、どうせならお昼食べて行きませんか?」
「ああ、いいですね!じゃあ『摂津屋』さんにゆきましょう!」
「さんせーい!」
摂津屋さんというのは、ここから歩いてすぐの所にある、老舗のお蕎麦屋さんだ。正確には「無頼庵摂津屋」という。父の代から遺伝子レベルで蕎麦好きの僕はもちろんの事、先日文ちゃん先輩と一緒に行ったら、彼女もすっかりお気に召したみたいだ。ただし、彼女があの日あそこで食したのは、あろう事か冷やし中華だったはず。季節外れの上、そもそもなぜお蕎麦屋さんで冷やし中華なのかという根本的な問題も多分に含まれていたはずなのだが、まあこの際、それは不問といたしませう。「お客の期待にゃ意地でも応える」というのが、あの店の当代店主・善養寺宗佑衛門さんのポリシーらしい。何というか、「意地でも」という所に彼の気骨を感じる。「是が非でも」などといった軟弱な言葉は彼には相応しくない。
そう、彼には軟弱なイメージは似つかわしくないのだ。2mに届こうかという巨躯からにゅっと伸びた丸太の様な腕で豪快に打つお蕎麦は豪快にして繊細、絶妙の喉越しを誇る剛と柔を兼ね備えた極上の逸品。これに絡まるツユがまた…あ、いかん。涎が出てきそう。
そんな名店で、彼女がなぜ「冷やし中華」なんて場違いなオーダーをするに至ったかは、あえて触れないでおく。彼女の名誉にかかわる事だからだ。まあそれはそれとして、ちゅるりちゅるりと幸せそうに麺を口元に含んでいた彼女は可愛かったなあ。
「…おい慰撫」
僕はスポーツバッグに話しかけた。
『何ですの?』
「お前に、ちょっとお願いがあるんだけど」
『…嫌な予感しかしませんですわ』
「僕たちちょっとお昼取ってくるから、お前さんはそれまでちょっとコインロッカーで大人しくしてろい」
『…!?』
おいこら、バッグの中で暴れてるんじゃない。周りからまた不審に思われるじゃないか。
じたばたと暴れるバッグを無造作にロッカーの中に放り込んで扉を締め、百円硬貨を三枚連続投入。後は番号札の付いたキーを抜いてはいおしまい。この間わずか10秒。自分でも掘れ惚れするほどの手際ですべての行程を済ませた僕は、ぱんぱんとてのひらを叩いた。
正直、予定外の出費は万年金欠症に悩む高校生の懐事情には痛かったけれど、文ちゃん先輩との楽しいたのしいブランチを過ごすためと思えば、300円というお金は、その金額以上の価値を生んでくれるはずだ。うむ、これぞコスト・ベネフィット・パフォーマンスって奴だな。費用対効果はじゅうぶんだ!
「くす。ごめんなさいね、慰撫」
文ちゃん先輩までもが、ちょっと悪戯っぽく笑いながらロッカーの中の使徒に謝っていた。
まあ、何年か前に惜しくも亡くなった天才的マジシャン引田天功ならぬ身、さすがの異形サマといえども、こんな二重密室からは抜け出せまい。そんなトリックがあったらぜひ知りたいものだ。…そういえば彼の名前は、前に彼の代役でテレビに出てた、弟子の女性タレントさんが継いだそうだっけ。落語家とおんなじで、名人の名跡が次世代に受け継がれてゆくというのは素晴らしい事ではないか。
わが志賀家においては、今のところ父から受け継いだものと言えば、この「蕎麦好き」という嗜好くらいだけれど。…いいじゃないか。これだって立派な日本文化の醍醐味だい。
駅前からほんの数十メートルほど歩けば、摂津屋さんの暖簾の前にたどり着く。この暖簾もなかなかの曲者で、何と赤い色に染められていたりする。普通、お蕎麦屋さんの暖簾と言えば紺色だろうけど、そんな些細な事はどうでもいい。店内はもっと凄いから。
「らっせーい!」
暖簾をくぐって店内に入ると、奥から耳心地の良い野太い美声が聞こえてきて、髪をクィッフ・リーゼントに決めたダンディーな宗佑衛門さんの巨体が姿を現した。
「こんにちはー」
「お、志賀さんトコのボンと文ちゃんじゃねぇか」
「その節はお世話になりました」
僕と文ちゃん先輩はお辞儀した。
「いやいや、いいって事よ。信太郎ちゃんも、今頃あの世で喜んでるだろうさ。人生最期で、いい弟子に出会えたってな」
そう言うと、宗佑衛門さんはお店の壁に飾ってあるレコード・ジャケットに目を向けた。
そのジャケットには、革ジャンを着たバンドのメンバーたちが映っていて、「無頼庵摂津屋さん江」なんてサインも添えられている。
その筆跡の主こそ、今は亡き本郷信太郎さん…僕の師匠だった。
僕は、若き日の師匠の面影を、ただ無言で見つめるしかなかった。目頭が自然に熱くなる。
師匠が壮絶な最期を遂げてから、まだほんの半月も経っていないのだ。
…迂闊だった。
あえて考えない様にしていたけど、こうしてあの写真を見れば、忘れよう、忘れようとしてきた感情がどうしても蘇ってきてしまう。
ふと、小さくて温かな手が僕の手を握ってきた。文ちゃん先輩だった。
「あ…あの…ごめんなさい…私が軽率でした…ここにこようなんて言い出しちゃったから…その…」
僕は震える彼女の手を、優しく握り返した。
「…あ」
僕を気遣ってくれる、その気持ちが嬉しかった。いいんですよ。むしろ忘れちゃいけない、大切な気持ちを再確認する事ができました。
「おうおう、相変わらず仲いいねぇ!今日はデートかい?」
がははと宗佑衛門さんが笑った。彼は師匠の古くからの友人だった。もちろん、その死だって、おそらくは僕なんか以上に大きな影を落としている事だろう。しかしそんな素振りも見せず、宗佑衛門さんは豪快に笑う。きっとそれは、年下の僕たちの気持ちを察しての事だと思う。同じ悲しみを背負った大人が暗い顔をしていたら、きっと僕たちはどうしていいか分からなくなってしまう事だろう。
なんという意志の強さなのだろう。これが人生経験の重さって奴なのだろうか。
うん。一言でいうと「大人」…なんだよな。
僕は師匠と同じくらい、彼の事も尊敬できる。彼の様な、とても広くて大きな心を持った大人になりたいと思う。
「…えっと、まあ、そんな所です」
「そっか。高校生さんたちゃ、明日から春休みだもんなあ。上々、上々。善き哉、善き哉。青春を謳歌せよ若人よ」
宗佑衛門さんは、またも豪快に笑った。握ったままのてのひらに、さっきよりも温もりを感じた気がして目線を下ろしたら、真っ赤になった文ちゃん先輩の小さな顔があった。
「ところで文ちゃんよ?」
「は…はい?何でしょう」
「悪ィけど、生憎今日は冷やし中華切らせてるんだ。ご期待に応えられなくてすまねえけど」
「あ、いえっ、いくら何でも、毎回毎回、そんな我儘は言いませんです!きょ、今日は普通にお蕎麦をいただきます」
先手を打たれたのが恥ずかしかったのか、それとも前の一件の事を思い出したのか、文ちゃん先輩の顔はさらに真っ赤になった。熟したトマトだねこりゃ。
「がはは。まぁいいさね。とりあえず腰降ろしてくんない」
うながされるまま、僕たちはカウンター席に座った。ただでさえそんなに広くないお店の上に、僕たちのすぐ後ろにはでっかいハーレー=ダビッドソンのバイクが置いてある。これも宗佑衛門さんの私物らしい。おまけに壁にはグレッチのギターの古い広告とか飾ってあるし、店内に流れるBGMはプレスリーときた。
…本当にここはお蕎麦屋さんか?と思ってしまうのは僕だけではないと思う、絶対。
ところがこのお店のお蕎麦は、市内でも屈指の味と喉越しを誇るというのだから頭が下がる。代々受け継がれてきた老舗の味の上、聞けば宗佑衛門さん自身も昔、東京の杉並にある超有名店で修業した経験を持つという。そのお店には、日本各地から蕎麦職人さんたちが修行にくるとかで、蕎麦をどれだけ細く切れるか?なんて腕比べもあるそうな。…そんな話を耳にすると、一介の蕎麦好きとしてはぜひ一度行ってみたくもなるというものだ。
僕はお財布の中身と相談して…相談したうえで、あえて天ざるを注文した。千円超えちゃうけど、ここの超一流のお蕎麦を目の前にして妥協せよ、というのは蕎麦好きの名が廃る。
文ちゃん先輩は普通にもりそばをお願いしていた。
「そういえば志賀君。お蕎麦の『盛り』と『ざる』って、どう違うのですか?」
「へ…?そういえば考えた事ありませんでした。…どう違うんだろ」
「え?志賀君も知らないのですか?」
「…面目もございませんです」
ちょうどその時、注文したお蕎麦が運ばれてきた。
目の前に並んだ、おんなじ様なせいろの上に載ったお蕎麦の山。僕たちはしげしげと見比べつつ、しばし違いを考えてみた。
「蕎麦好き」を謳いながら、そんな基本的な事も知らないというのは恥ずかしいぞ?
「…おや、どうしたんだい?食べてくれねえのかい?」
宗佑衛門さんが不思議そうな顔でこっちを見てる。
僕が頼んだ方には天ぷらが添えられているけど、これは関係ない…はず。
量だってそんなに変わっている様には見えない。
「…あの、宗佑衛門さん?ちょっと教えていただきたい事が…え?」
そういう文ちゃん先輩を制して、僕は再びお蕎麦を観察することにした。
むむむ…これは誰の力も借りずに、僕自身の力で解決させたい。これは蕎麦好きの意地を掛けた問題なのだ。
違いと言えば…文ちゃん先輩の方には刻み海苔が載せてあるなあ。僕の方には乗ってないけど…って、まさか、これか?これなのか?
「あの…宗佑衛門さん」
「ん?何でぇ」
「『盛り』と『ざる』の違いって…海苔、ですか?」
あ。宗佑衛門さんの目が点になった。
「ん…?あ、ああ。その通りだけど、そいつが何か?」
「…いえ、私が気になった物ですから…」
「そういう事だよ文ちゃん。それにしても志賀さんのボンはさすがだなあ」
「へ?僕が…ですか?」
「お前さんの親父さんも、いつも盛りじゃなくてざるを注文して下さってるんだよ」
「ウチの親父も…ですか?」
「おうよ。喜栄さんは『海苔なんて香りの強いの載せたら、せっかくの蕎麦の香りが台無しになる』なんておっしゃってたよ。あのヒトぁ、ちゃんと蕎麦の事を分かってくださる。ああいうヒトに食ってもらえりゃ、蕎麦打ち冥利に尽きるってモンだぁな」
へー…ウチの親父がねえ。そんな事知らなかった。
意外な所で知った父のエピソードとともに呑み込んだお蕎麦は、いつもよりもいっそう美味しく感じられたのだった。
今なら落語の「そば清」に出てくる「蛇含草」がなくとも、どんどんいけそうだな。
…もっともあの噺には、トンデモない「オチ」があったけど。