悪夢 #1
悪夢1
いつの間にか、汽車に乗っていた。どこまでも続く春の野を分けて敷かれたレールの上を汽車は音も立てずに滑っていく。左右に広がる野原には、名前も知らないような小さな黄色い花が、ぽつぽつと空の星のような感覚で散りばめられ、遠くの方ではその花の黄色が草の緑を抑え込んで、照り映えていた。
「これはどこに着くんですかねえ?」
常には決して持ち合わせない積極さで、私は向かい合わせの席に座っている人に尋ねる。しかし、その人もどうやら行先については知らないらしい。「さあ?」とだけ唸るような声で返してから窓の外に目をやった。よく見るとその顔は小学校の頃によく遊んだKにそっくりだった。今では全くといっていいほど会っていない。話しかけて久闊を叙したい気持ちが俄かに沸き起こったが、何故だか、ぐっと抑え込んだ。ここでは、お互いがそのような背景を持ち合わせないのだ。
それから少しばかり待つと、汽車が停まった。そこは何処かのグラウンドのようだった。日差しが巻き上げられた少量の砂塵で照り返し、私の目を烙いた。春の野はいつの間にか消えていた。周囲の汽車に乗っていた者達がそこに降りていく。どうやらここがこの汽車の目的地らしい。つまりは、私の目的地もここだということだ。
周りの者について歩いているといつの間にか、体育の授業の直前のような整然とした列ができ始めていた。私も、手ごろな列に割り込んでそれに倣う。後ろの者に少し迷惑そうな顔をされた。その列の前に、教師のような人物がどこからともなく現れ、喋りだした。
「みなさん、お疲れ様です。ここまでの旅は長かったでしょう。もう、遠慮はいらないのです。さあ、始めて下さい。さあ、さあ」
そのような号令が発せられるやいなや、列は突如として乱れ、それぞれが思い思いの行動を取り出した。駆け回る者、座り込む者、飛び跳ねる者、誰かと談笑をするもの、それまでの秩序は搔き消えて、混沌が私のいるグラウンドを飲み込んだ。その中には正視に堪えないような行為をする者もいた。思いを寄せる異性に告白をするならまだ可愛い方というより、それだけでは別段糾弾されるべきではないのだろうが、思いが実った彼らのその後の行為が…、ああ、ここに記すこともためらわれる。
私とてモラルに生きることを貫徹できている類の人間ではなし、多少の逸脱くらいならわが身に照らし合わせて何これくらいと一笑に付すこともできるのだが、この状況はいかがなものだろうか。もっと目を凝らして眼前の痴態を見ると、何やら腕ずくで思いを遂げている者もなくはない気がするのだ。
この惨状をどうにかしたいと考え、私はこの場を統括していると思しき、件の教師風の男のもとへと行き、胸の内を訴えた。すると、男は無慈悲にもこういった。
「そんなことを言われましても。ここは全てが許されるんですよ。過ぎ去った時間の中で悔やんでいる事、やりたかった事、全てを実体験として得ることのできる場所なんです。この場所には一貫した倫理や理屈はございません。だからこそ、何をやっても許されるんですよ。その証拠にほら、あれをごらんなさい」
見ると、あちらの方で複数の男に凌辱されている女性と全く同じ顔をした女性が、別の場所で見目麗しい男性と談笑している。これは、前者の出来事を望む願望と後者の出来事を望む願望が同時にこの場に存在したことによって起こった現象なのだろうか。しかし、この場合は、どちらが男の願望を、どちらが女の願望を反映したことになるのだろう?
「ああいった矛盾を内包できるのが、この場所なんです。納得して頂けましたか?」
「ええ。しかし……」
この場所が理屈の存在しない、全ての矛盾も、正当性も包み込む場所ならば、一つだけ、納得できない点があった。
「ああいった景色を見せることによってしか、私にこの場所の持つ特徴を納得させることができないのなら、この場所に、理屈が存在していることになりませんか?」
「ええ、その通りです。ですが、あなたの言うその「理屈」は本当に理屈たりえているのですか?それは、あなたの世界の話ではないのですか?ここではすべての問に対して、その外側の問いが存在します。結局、無駄なんですよ。どんな思考も。さあ、あちらに行って満たしてください。あなた自身の欲望を。あなただけが持つ、あなたにしか理解できない欲望を。帰りの汽車はもうすぐ出発しますよ」
そういわれて、はたと気づいた。私自身の欲望?そんなものは持ち合わせていない。私には、並一通りの、欲求しかない。生きていく上で仕方がなかったために持たざるを得なかった、本当の意味でくだらない欲求しか、ない。あの日の差す場所に行って自分の欲望をぶちまけろ、だと?今更そんなことを言われても無理だ。私にはできない。私には、できない。叶えたかった欲望なんて、ないのだから。
「…どうしました。あと少しで本当に帰りの汽車が出てしまいますよ?」
立ち尽くす私に向かって男が声を掛ける。それでも、私はその場から一歩も動くことができなかった。
「なるほど。わかりました。あなたは●●なんですね。たまにいるんですよ。●●なのにここへ来てしまう人が。すみません、ここに来てしまった●●に対して、私たちはある処置をしなければならないことになっています。本当に、ごめんなさい」
気づいた時には、私は線路の上に居た。目の前には行きと同様にたくさんの客を乗せた汽車。先ほど来た道を引き返そうと出発するところなのだろう、けたたましい警笛がなり、眼前で立ち尽くす私の耳をつんざいた。そして、動き出す。巨大な黒い鉄の塊が。幾千、幾万もの欲望を乗せて。音もなく、滑るように。数瞬後、それは何者でもなかった男を容易く踏みつぶした。