086 憂いの奥山<前篇>
「軽く手合わせをして思ったんだが、坊主の剣には決定的に足りねェもんがある」
朝の鍛錬を切り上げる段になって、練習の相手になっていた両手剣の男はそう言い出した。
……そんなことは言われるまでも無く分かっている。剣を握って一月程度の少年には欠けているものだらけだ。未だ剣士としての身体には仕上がっておらず、駆け引きの妙も知らず、更に言えば型の一つも物になっていない。今更何をかいわんや、である。
「いや、俺が言っているそういうことじゃあねェ。技量、体力、それに経験? 初心者がンなもん、持ってる訳無ェだろ。そうじゃなくてだな、もっと根本的な心構えについてのハナシだよ」
心構えときたか。何とも精神論的なお題目だ。目の前に立つ、豪快に剣を振るうのが似合う戦士の台詞とは思えない。
「そうは言うがな坊主。精神ってのは剣の肝だと俺は思うね。いや、剣だけじゃねェ。槍だろうが弓だろうと、槌だろうと棍棒だろうと、そして魔法だとしても、だ。兎に角、戦う為の手段を学ぶという行い全て、その全部に共通して必要とされるもんがあるだろうが。お前さんにはそれが足りない。……ってのが俺の見解だ」
戦う術を学ぶ者が必要とするもの。そして今の自分には欠けているもの。
……分からない。だが、そう言われると何か、胸の中でもやもやとした者が湧き立つ。
考え込む彼に、男は単刀直入に言った。
「簡単なこった。お前さんの剣にはな、戦う理由ってもんが込められていねェんだよ」
戦う、理由?
「なァに意外そうな顔をしてやがる。てことは本当に今の今まで自覚無しかい。こりゃ重症だな、おい」
男は額に手を当てて天を仰ぐ仕草をする。
少年はそれどころではなかった。彼は頭の中をブンブンと回して、自分が剣を取った動機を必死に探す。初めて剣を与えられた時に負けて、悔しかったから? この世界で初めて親しくなった相手に、学べと言われたから? ……それとも。勇者だと呼ばれたから、それに相応しい武器が剣だとでも思って?
「幾つか理由っぽいことは思い付いているみてェだが、一つ聞くぜ。……今、お前が頭に浮かべてるのは、本当に剣を――人殺しの武器を振るうのに足りる理由なのかい?」
その一言に、ドキリと胸が高鳴った。
思わず自分が手にしている物を見やる。冴え冴えとした冷たさを湛えた金属の刃。肉を切り骨を断ち、命を奪う為の、紛うこと無き殺人の為の道具。そんなものを一心不乱に振っていたということを自覚し、背筋がぞっと粟立つのを感じる。汗が冷たい。身体は暖まり切っている筈なのに、寒さすら覚えてしまう。
今更な気付きに呆然とする少年に向けて、男が続ける。
「俺がおかしいなって思ったのはそこだよ。坊主の太刀筋は習い始めにしちゃ綺麗なもんだが、踏み込みに躊躇が無さ過ぎる。相手への恐れが欠け過ぎている。もっと言えばよ、命の遣り取りを考えているとは思えねェ。真剣での稽古だってのに、恐れていたのは最初だけ。熱中し出すと途端に刃の怖さを忘れてやがる。びびって何も出来ないよりマシ、とか思うなよ? もっと性質が悪いんだからな。だって危なくて仕方ないだろ。てめェが死ぬとも相手を殺すとも理解していねェ輩が、悪戯に剣を振り回しているなんてよ。そんなんで実戦に出たら、周りまで巻き込んでえらい目に遭うことになるぜ」
心当たりは幾つもあった。この剣で誰かの血を流したことは無い。今までに立ち会ったのは全て格上で、一度も相手に傷を負わせたことは無かったのだから。この身が剣で血を流させられたことも無い。今までの経験は全て訓練。打たれる痛みは何度も受けたが、刃の切れ味までは未だに知らないままなのだから。
「だから、何だ……いっぺん、よく考えてみな。何で自分が剣を握ってるのか。何で自分と相手、両方の命を懸けてまで戦わなきゃならんのか。そこんとこ曖昧なままにしておくと、死ぬ時に後悔するし、殺しちまった時はもっとするぜ? ……流されるがままに戦ったって、本当につまらねェことにしかならねェぞ」
柄にもないことを言っちまったな。そう結ぶと男は背を向けて去っていった。
少年は動けないでいる。手の中の金属の重みが、疲労ではない理由で一気に増した気がしていた。あんまりにも重いから、へたり込んだまま動けない。
戦う理由。そんなものは分からない。勇者として魔王を倒し、そして元の世界に帰る? 何とも実感の湧かない話だ。自分は勇者と呼ぶには弱過ぎるし、魔王なんてまだ影も形も見えない。なのにそれを使命と実感出来るほど、少年は夢見がちではなかった。人々を苦しめる魔物と戦い、みんなを救う? 何を言っているのだろう。この世界はまだ人間同士で戦争したり内乱したり、争っていられるだけの余裕があるではないか。その力を魔物との戦いに向けてから言うべきだろう。そしてそれを説くのは自分の仕事ではない。この世界のことはこの世界の人間で解決してくれ、異世界人の自分はそんなこと知らない。
考えれば考えるほどに、剣を取る理由から遠ざかっていく。強いて言えば護身の為だが、危険にさえ近づかなければ、その必要さえ無くなるだろう。本当に、彼にはその為の理由が無い。
何の為に戦うのか。そして何の為に自分はここにいるのだろうか。答えを出すのは、いつになるのだろうか。
途方に暮れて見上げた空は、憎らしいくらいに見事な五月晴れ。空はこんなに青いのに、胸中を閉ざす雲は晴れる気配すら無かった。
※ ※ ※
オムニア使節団一行は現在、ヴォルダン東部の山脈の裾野を行く道を進んでいる。出立前の一週間の猶予で彼らは懸念される山脈越えの為の物資を万端に用意出来た……訳ではない。というのも、準備の買い出しを担当していた神官どもが、この一週間の間すっかりと遊び惚けていた所為で、必要となる品々を買い揃えるのに資金も時間も足りなくなってしまったのである。
(まったく……無能なだけなら救いようもあるものを、こやつらときたらその上に強欲で厚顔ときているからな)
と頭痛を堪え切れないように頭を抱えるエリシャ。彼女とて騎士として勤めて長い。当然であるが、出会う人間の全てが有能で廉潔という訳ではなかった。去年まで在籍していた近衛にも第一騎士団のようなお飾りがいたし、知り合う貴族の大多数は欲得ずくの連中である。だとしても、このカランドラ枢機卿の息が掛かった連中ほど酷くはなかったろう。何しろ、一国の外交使節という大任を受けていながらにして、この惨状なのだから。
(こやつら、ランゴーニュ伯あたりとでも構わぬから、取り替えられぬものかな……)
半ば本気でそんなことを考えてしまうような始末であった。何しろこの売僧どもときたら、一週間の間に一度も逗留先である屋敷に帰り付かず、ヴォルダンの悪所で過ごしていたのだという。ヴォルダン戦役での戦災に加え、トゥリウスの進めているマルランを行政の中心に変更する政策のお陰で寂れ始めている街で、よくもまあ飽きずに遊べたものだと、逆に感心してしまいそうである。
さて、そんな連中に買い付けの為の金を使い込まれてしまい、どうしたのかというと、
「いやはや、一時はどうなるものやと思われましたが、侯爵閣下の更なるご喜捨を頂けるとは」
「御身も誠に今時珍しいほど信心に篤きお方ですなあ、オーブニル侯爵?」
「いえいえ。山脈の向こうには僕も領地を持っている身。丁度、視察の為に向かうところだったのですよ。であれば、皆様をお連れするには寧ろ丁度良いかと」
忌々しいことに、山向こうのエルピス=ロアーヌを目指すトゥリウスに便乗して移動することになったのである。春も深まり雪も融け、山道の通過が可能となった以上、そろそろ新領地の視察に向かいたい……それが彼の意向だった。筋は通っているし、こちらとしても渡りに船ではあるのだが、正直に言ってトゥリウスという男は借りを作りたい相手ではない。開けた口へと放り込まれる餌に、どんなえげつない針が仕込まれているものだろうか。
それに四大国の一角にして最古、聖王教の総本山でもあるオムニア皇国の使者が、路銀に窮して他国の貴族の慈悲に縋るというのも頂けない。所詮は見栄、実利には敵わないだろうと思われるかもしれない。だが、外交というものにはその見栄と格式が重要なのである。これから内戦の勃発している隣国に向けて停戦を勧告し和平を仲介するのが彼らの仕事だ。その為の使者が、よちよち歩きの子どものように他人に連れられて参上となったら、相手方はどう思うだろうか? それこそ子どもの使いも同然と、舐められるに決まっている。餓鬼の囀る甘ったるい言葉で内戦が止まるなら、戦争などとっくの昔にこの世から無くなっているだろう。
「荷駄車での旅となって最初はどうなるかと思いましたが、慣れれば乙なものですなァ。こうして春風に吹かれながら茶を喫するのもまた一興」
「……粗茶にございますが、そのようなお言葉を頂けて光栄と存じます」
「ほほっ、愛い愛い。侯爵閣下は良い奴隷をお持ちだ。……如何かな、一晩お貸し頂く訳には?」
「それはご勘弁願えませんか。彼女には色々と仕事を頼まないといけないので」
だというのに、初手どころか盤に着く前から失点を犯した連中は、呑気に魔法で沸かした茶の給仕を受けてやに下がっていた。あまつさえ、接待を行っているユニに手を出そうとまでしている。その奴隷がかつて伯爵一人を蹴落としてまで手元に留めた代物だと知ったら、主人がどう出たものかと恐れ慄くことになるだろうに。
「この成り行きが漏れたら、先方から見縊られることになるな」
「……それだけではありませんよ」
隣に座るイルマエッラが弔辞を読むような陰鬱な表情で言う。
今、彼女らが腰掛けているのは馬車ではなく荷駄車だ。別に性悪なトゥリウスが意地悪をした訳ではない。彼も同じような代物に乗っていた。オムニア本国からここまで乗って来たような大きく車体の幅が広い馬車では、狭く険阻な山道は通れない為の措置である。外交特使である以上、それを示す紋付の馬車が使えないのは困るが、そこはそれ。分解して荷駄として積み込み、山を越えた後で改めて組み立て直すとのことだ。
それは兎も角、
「侯爵様と同行していることが知られたら、オムニアの姿勢がアルクェール寄りであると認識されかねません。現状でさえ同盟国だというのに、先年の戦いで活躍された方と仲良く旅をする訳ですから」
「ああ、そういえばそれもあったか」
一回り近く年下の少女に指摘されてようやく気付いた。それは確かに、ザンクトガレンも良い気はしないだろう。国内を引き締める為に内戦を行っているのに、体制が揺らいだ原因と手を繋いでいるような輩に口を挟まれるのだから。いや、同行しているのが単なる英雄――というのも妙な表現だが――であるなら、強者を尊ぶ気風を持つ彼の国は、そこまで気にしないかもしれない。それがトゥリウスであるという一点が拙いのである。
ヴォルダン戦役では戦地の田畑や村々が派手に焼かれたが、アルクェール王国をこれを敵国の残忍な略奪行為が原因と、ザンクトガレン連邦王国側は現地領主の行った焦土作戦の為だと、それぞれ主張しているのだ。この件の責任問題は早期講和の為に一旦棚上げになっているが、解消はされていない。現地民の大部分は敵国人が火を着けたと主張しているのだから、世論はザンクトガレンが悪い方に傾いてはいる。しかし、ザンクトガレン側からすれば、トゥリウスが侵攻軍を形振り構わない形で飢餓状態に叩きこんだ卑劣な指揮官なのだった。そんな不倶戴天の敵と手を取り合う者の要求だ。呑める筈が無い。
エリシャからすればどっちもどっちである。ザンクトガレンは略奪をやっただろう。あの戦いでは彼女自身も不足した物資を、強奪まがいの方法で徴収しているのだ。長駆遠征する侵攻側は尚更そうしなければ補給できまい。そしてトゥリウスなら焦土作戦だろうとやりかねない。王都すら焼いたと言われる噂もあるし、扇動した民草を戦場に叩きこんで死なせ、平然としているような男だ。貴族の飯の種である自領を焼くという、蛸が自らの足を喰らうような愚行とされる策も、必要とあらば幾らでも実行するだろう。
それは置いておくとして……つまり、前方の荷駄車でへらへらと上機嫌に振舞っている連中は、自分たちが本国から仰せつかった役目を台無しにしかけている訳だ。路銀を無駄遣いせずに大人しくしてさえいれば、独力で山を越えたという格好を付けられ、こうもトゥリウスに深入りしてしまうことは無かったのだから。
「……いっそのこと――」
ボソリと、三人目の同乗者が口を開いた。勇杜である。
「――いっそのこと、もう帰ってしまっても良いんじゃないか?」
彼の声は掠れ切って疲労が滲み、聞くだに徒労感を催す。まるで老人のそれだった。異世界から召喚されて初めて、この世界を体験する旅をしている。だが、そこに広がっていたのは夢も希望も無いイトゥセラ大陸の実情だ。魔物という共通の脅威を前にしながら国々は互いにいがみ合い、内戦すら起こっている。人々の範たるべき貴族は民から搾取し、教え導くべき神官もまた腐敗堕落の極み。人心は荒廃し、弱者が更に弱いものを見つけては虐げる。それを目の当たりにして、打ちひしがれていた。
旅の目的である外交交渉は、もう無理なのだろう? だったらもう良いじゃないか。嫌なものはたくさん見た。もう十分過ぎるほどに。これ以上はもう御免だ。だから、こんな旅なんて止めてしまおう――そんな気持ちなのだろう。
だが、それは出来ない。
「無理だな。結果が出ていない内に引っ込んでは、失敗したとき以上に悪影響が大きい。外交で朝令暮改をやらかす者は、単なる無能以上に不信を買うであろうよ」
政治に疎い方であるエリシャにもその程度のことは分かる。無理な要求を口にするのは馬鹿であろう。だが、馬鹿とはいえ遣いを出せる者と、遣いすら碌に出せない者、果たしてどちらの方がマシだろうか? 天下のオムニアが失敗しそうだから交渉には向かえませんでしたとなると、沽券に関わるというものだ。それに向こうが要求を突っぱねたのなら、それはそれで構わない。各国外交の盤面を動かす材料にはなる。……使節団の正使であるイルマエッラは、手酷く顔を潰されることになるだろうが。
「……それに失敗すると決まった訳ではありません。この件が先方に漏れたりしなければ、通常の交渉と同じになる筈です」
そのイルマエッラが自分へと言い聞かせるように言う。彼女自身、信じ切れていないだろう口ぶりだった。それもまた、随分と希望的観測だろう。エルピス=ロアーヌは国境の地にして旧ザンクトガレン領だ。新領主がオムニアの使節を連れて参上となれば噂になるだろうし、それが隣国に漏れるリスクもある。だが、その可能性を無視しないとやっていけないのが実情だった。
せめてトゥリウスの一団とは別口で行ければ良かったのだが、そうすると今度は別の問題が出て来る。山越えのタイミングをずらすと時期がずれ込んで交渉の期限を逃すであろうし、何より彼からは既に一度、喜捨の名目で路銀の提供を受けている。戦災に喘ぐ本領と、未だ統治が定まらぬ新領の経営に喘ぎながらの喜捨である。貰った分は使い込んでしまったからもう一度費用を下さいなどとは、恥ずかしくて口が裂けても言えない。新領地視察の一団に便乗させて貰うことでさえ、普通ならばあり得ない程の厚意なのだ。あのトゥリウスの行いとは思えず、薄気味悪ささえ覚えるが、これも同盟国であり宗教的権威でもあるオムニアの威光あってのことだろう。
「人にお願いしに行くのに、隠し事かよ。大した聖女様だな」
少年は拗ねたようにそうボヤいた。言われたイルマエッラは、彼女にも自覚はあったのか顔を伏せる。二人揃って潔癖なことだ、とエリシャは呆れ混じりに感嘆した。交渉の席で自分側を大きく、瑕疵の無いように見せるのは基本だろう。要は剣から言葉に武器を変えた戦なのだ。戦場で自分の弱みを見せる馬鹿はいない。素直に内実を晒すというのも、単なる美談ではなく、度量の大きさを喧伝する形で話を優位に進める為の手段に過ぎないのではないか。それで交渉が纏まるなら幾らでもやるべきだろうが、今回の場合はその内実が些か酷過ぎるのだ。明かしたところで信用を失くすのがオチ。であるなら隠すべきだろう。隠し通せるかどうかは、また別として。
(酷いと言えば、この二人の間の空気もだな……)
勇者として召喚された勇杜とそれを導くべき契約者イルマエッラの関係は、この旅の間も一向に改善を見ていない。いや、確実に悪化している。元より彼は自分を異世界に召喚した彼女を嫌っていたが、同行する神官団が乱行を繰り返すだに、その悪印象が同僚であるイルマエッラにも伝播している形だ。一方、少女は時折おずおずと彼に話し掛けるものの、その度にけんもほろろにあしらわれている。これでは勇杜の側に関係改善の意思が芽生えでもしない限り、永遠にそのままだろう。
それにしても、本当に父親に足を引っ張られ続ける娘である。イルマエッラの父エミリオ・カランドラの選んだ使節団随員の所為で、ザンクトガレンとの交渉の見通しは暗くなり、勇者との関係も聖王教への心象を悪化させることで拗れさせている。子の七光りで出世しておいて、随分な仕打ちではあるまいか。
(それを思うと、我が父は大変出来た人だったのだなあ)
今頃、王都で地方分権派と中央集権派の間で必死にバランスを取っているだろうバルバストル侯爵のことを思う。こちらは逆に娘が家出同然に敵対派閥に就くという事態になっているが、何とか中央と地方のパイプ役という難しい役どころを果たしているようだ。彼には迷惑を掛け通しである。エリシャは今更になって親不孝な我が身を自省した。人の振り見て我が振り直せというやつである。今度、土産でも持って久しぶりに会いに行こうか、などと考えてみる。
そんな時だった。
耳に馬蹄の音が聞こえる。荷駄車を牽く駑馬のものではない。軽快で、それでいて力強い騎馬の足音だ。見ると、周辺の哨戒に出ていたらしいオーブニル家麾下の武官たちが、一団に合流しようとするところだった。
「おーいっ、ご主人!」
声を上げて報告に戻るのは、ドゥーエ・シュバルツァーである。冒険者上がりとのことだったが、中々に良く馬を乗りこなしていた。見れば武具のところどころに返り血らしき斑点が散っている。
「どうしたんだい、ドゥーエ。えらく派手な恰好じゃないか」
「哨戒に出た結果がこれだぜ。……この辺り、やけに魔物の数が増えていやがる。雑魚ばかりとはいえ、ちょっと林を探るだけで結構な規模の群れに行き当たるぜ」
「それは、本当ですか?」
主従の会話に割って入ったのはイルマエッラである。トゥリウスらは軽く顔を見合わせるが、遮る訳でもなく先を促した。
「おや、イルマエッラさんには何か気になることでも?」
「ええ。もしや昨年の戦災の影響で、魔物の勢力が増したのでは、と」
「……そう言えば、ザンクトガレンにもその件で内戦を止めに行かれるのでしたよね」
戦乱などで人心の荒廃が起こる度に、大陸に闇が伸長し魔物が蔓延る。聖王教が常々説いていることだ。実際、大きな戦争の後には魔物が大発生しやすくはあるのは事実だった。一部の研究者などは、戦死などで人口が減り生活圏が一時後退したことで、結果的に魔物の縄張りが広がる為だ、などとしたり顔で言うものであるが。しかし、死人が変化することで生まれるアンデッドなどは戦争の所為で生まれるのだから、あながち教会の説くことに嘘が無い訳ではない。
それに、今は表沙汰に出来ないことではあるが、勇者召喚の必要が叫ばれるほど不吉な予兆が存在することもある。昨年の主戦場であったヴォルダンにも、闇の勢力が忍び寄っているのはあり得ることだろう。
「ルベール。冒険者ギルドへの討伐依頼の件数に、目立った数字の変化はあったかな?」
「そうですね、ヴォルダン州全体でも例年より多めではありましたが……しまった、州の東部は住民にも余裕は無いんでした! ひょっとすると、経済的事情から依頼が出されていない為に、未確認の魔物出現例があるかもしれません」
随行している家臣がそう言うと、俄かに動揺が広がった。主にオムニアからの使節の中に、だ。
「そんなっ!? 魔物の発生している中を進むのですか!?」
「き、危険ではないかと思われませんかな、それは?」
……これが仮にも退魔を生業とするオムニアの神官が言う台詞だろうか。エリシャは思わず呆れ返ってしまった。
「なあ、イルマ……」
「あの、その……僧兵団長も、外交使節ということで弁の立つ方を主に選んだのかと」
恥ずかしそうに縮こまりながらそう言うイルマエッラ。要するにあの【灰色の枢機卿】猊下は、この使節派遣を政治劇の具としてしか見ずに、自分と同類の派閥員で固めたということだろう。ちなみにあの男は、娘に似ず僧兵団でも平均以下の法力しか持っていないことで有名だった。
「……そう心配することは無ェよ。さっきも言ったが、今のところはゴブリン程度の雑魚が大量に湧いているだけだ。ポーションなんかの備えさえ万全にしていりゃ、駆け出しの冒険者でも何とかなる相手だよ」
ドゥーエが複雑そうな表情で言うと、神官どもは露骨に安堵の表情を見せる。
「さ、左様か! であるなら、まずは一安心であるな」
「先年に武勇で鳴らしたオーブニル侯の家臣団と同伴しておれば、万に一つも心配はあるまいて」
「はあ……」
これには流石のトゥリウスも、溜め息とも生返事ともつかない声を出すよりないらしい。ドゥーエの報告が確かなら、相手はゴブリンか強くてもオーク程度だろう。そんな雑魚を相手に護衛へ全てを任せるほどに怯えるとは。駄目だ駄目だとは思っていたし何度も思い知らされてもいたが、ここまで駄目とは。カランドラ枢機卿は、本当にこれで使節派遣が成功すると思っていたのだろうか? エリシャとしては深甚に考え込まざるを得ない。
「一先ず、この先にある村へ急ぎましょう。山に入る前の最後の補給地です」
トゥリウスはそう言って、地図の一点を指差す。州の東の外れにインクの跡も真新しく記されている開拓村。そこが今日の宿であった。
その村はヴォルダン州の中でも最も新しい村だった。というのも、ザンクトガレン軍の山越えによって発見――正確には再発見か――された、分断の山脈を越えてエルピス=ロアーヌへと至る山道。そのルートを安定して使用する為には、旅人が宿を取ったり物資を補給するなり出来る拠点が必要になる。ましてや山向こうの土地は領主の新領地でもある。そうした需要があって開かれたのが、この山間の開拓村なのである。今は戦災で以前暮らしていた村々を失った民が、肩寄せ合うように集まった小集落に過ぎない。だが、この道が整備され流通が整えば、十年の内に宿場町にまで成長できる可能性はあるだろう。
……その可能性は、無情にも閉ざされかけているようであるが。
「こ、これは……!?」
神官の一人が、うろたえたように声を漏らす。
今年に拓かれたばかりの村は、既に煤け切っていた。真新しい生垣は乱暴に切り倒され、入口である門扉は焼け焦げている。新築である筈の家々は既に破れ窓を幾つもこさえており、壁に血とも煤ともつかぬ黒い染みが浮かぶ。まるで賊にでも襲われたか、去年に終結したばかりの戦争、その時にまで時間を巻き戻したかのようだった。
やがて、ボロボロの丸太小屋の一つが軋みと共にその扉を開ける。
現れたのは、顔に腕にと包帯を乱雑に巻いた中年の男。着ている服は汚れてこそいるものの、村人が買える品の中では上等な部類と見える。恐らくは、この開拓村の村長だろうか。
「皆様は……領主様のご一行にございまするか?」
青黒い顔、その落ち窪んだ眼に疲弊の色を浮かべながら、彼は口を開いた。
その声に応じて、トゥリウスが一行の中から前へ出る。
「はい、如何にも。僕が今代のオーブニル家当主、トゥリウス・シュルーナン・オーブニルです」
「おお……」
村長らしい男は顔をくしゃくしゃにして跪く。いや、脱力に抗い切れずに崩れ落ちたのだろうか。どちらとも取れる動きだった。
「み、皆の衆! 顔を出すのじゃ! りょ、領主様がいらっしゃったぞ!」
その声に応じて、他の建物からもぞろぞろと村人が姿を現す。
(少ないな)
エリシャは家から出て来た人々の数にそんな感想を抱く。確かにこの村は小さな集落だが、それにしても棟数と頭数とが釣り合わない。見る者見る者、みな大小の傷をこさえてもいる。これはやはり……何者かに打ち減らされたものか。
「ほ、本当だ! 貴族様だ!」
「騎士様もいる……! 神官様もだ!」
「お、おらたち、助かるんだか……?」
希望に縋り付くような言葉が唱和する。俄かにざわめき立った山村の広場、トゥリウスは一団を代表して村長に質問した。
「何やら只ならない事態が起こっているようですが、事情をお聞かせ願えませんか?」
「こ、これはやんごとないお方がご丁寧に――」
「ああ、前置きは結構です。それで、貴方が村長さんでいらっしゃる?」
「――し、失礼を! 申し遅れてしまいましたが、私が村長です」
粗忽ではあるが純朴そうな村長は、トゥリウスの下問にとつおいつ答えた。
「ありゃあ、三日前の晩のことでした。村の者がみんな寝静まった頃、真夜中だってのに急に門の方が騒がしくなりまして。それで目を覚ました者がなんじゃろうと思って様子を見に行ったんです。そ、そうしたら……そこに、ま、魔物の群れが」
思い出すだに恐ろしいのだろう。彼は語りながらぶるりと大きく身震いをする。
「魔物ですか。それはどんな? この辺りに出そうなものというと、ゴブリンでしょうか?」
「ち、違います。あの獣臭さ、星明かりでも分かる太さ、何より鼻をふごふごと鳴らす音……あ、ありゃあオークでした! オークの群れです!」
「んだんだ! ありゃ、あの忌々しい豚鼻どもだァ!」
村人の中からも、そう声を上げる者が出た。
「オークが、群れだと?」
腑に落ちないものを感じてエリシャは独り言つ。耳ざとく聞き取ったらしい勇杜が不思議そうな顔をした。
「それって、何か変なんですか?」
「ああ。オークという魔物は欲深で知能が低い。餌などの分け前を巡って仲間割れをするのが常だ。つまり普通なら同族同士で群れるような習性は持たん。ゴブリンどものような、自分より弱い魔物を傘下に収めることはよくあるが、オークの群れとなるとな」
「じゃあ、見間違い――」
「んなことァねえ! ありゃ確かにオークだべ! 見間違いはしねえだよ!」
勇杜の言葉を聞き咎めた村人が、さも心外だと言うように声を荒げる。
「第一、ゴブリンみてえな弱い魔物なら、すぐに追い払えるべさっ! いっくらオークが頭でもだ。知りもしねえで適当ぶっこくでねえ!」
「――わ、悪かったよ……つまり、どういうことなんですか?」
「見間違いでないなら、本当にオークの群れなのだろうよ」
「あの……それは先程のお言葉と矛盾しているのではないでしょうか?」
とイルマエッラ。
「矛盾はしていないさ。普通なら同族同士で群れないと言ったろう。要するに、普通じゃない事態が起こっているのさ」
「「?」」
女騎士の言葉に、揃って首を傾げる少年少女。こういう時は息がぴったりである。普段もこのようであれば良いのだが。
「結論を言うとだ、通常であれば纏まりの無いオークの群れを、纏められるような魔物が現れたということだな。オーガやジャイアントのような、より強い魔物か。いや、村人がそれらしい影を見ていない以上、オークの上位個体だろうか」
「上位、個体?」
「時折現れるのだよ、そう言う変わり種がな。他の個体より戦闘力の高いハイオーク。知能が高く魔法も使えるオークメイジ。統率の才能を発揮するオークチーフ。最悪の場合は複数の群れを支配下に治めるオークロードか。いずれにせよ、悪戯に放置しておけば村の二つか三つは滅ぶな」
所謂、突然変異だ。長く生き延びた者が変化したか、それとも生まれつきの変種だろうか。いずれにせよ、通常の個体とは一線を画す能力と性質を示す強力な魔物である。
そのような長に率いられた群れは厄介だ。オークはゴブリンと違い体格に優れ、膂力にも秀でる。雑魚と扱えるのは冒険者や騎士がそれよりも強く、装備も整っているからだ。雑兵や、ましてや村人などでは戦うのは難しい。しかもそれが群れを為すと来ている。人間以上の馬力を持つ人型の生き物が徒党を組んで襲ってくるなど、辺境の民にとっては悪夢であろう。
村人たちはガクリと肩を落とした。エリシャの説明で、改めて自分たちを襲った脅威の程を理解した為だ。
「お、お願いです領主様! 村の女衆も魔物どもに攫われちまってるんです! な、何とぞ、何とぞこの村をお助け下されっ!」
「それはまあ、当然ですけど……女衆が攫われた?」
勢い込んで土下座しようとする村長の言葉に、トゥリウスが少し考え込む。そして、チラリと村民の顔ぶれを見渡した。ほとんどが男で、女性は大人も子供も数が少ない。開拓村に送り込まれる民は男である場合が多いだろうが、それにしてもこれは比率が極端だ。となると、これは――
「……ご主人様」
「ちょっと拙いんじゃねェか、これは?」
ユニとドゥーエ、冒険者の経験もある二人が揃って言う。エリシャと同じ結論に辿り着いたようだった。言われた主も、重々しく肯く。
「分かっているよ。これは早々に対策がいることになる」
「ちょ、ちょっとお待ちを!」
そこへ使節団の神官が余計な口を挟んで来た。
「我々は先を急いでおるのですぞ? ザンクトガレンへの使節という、崇高な使命を帯びてです。一刻も早く山を越えねばなりますまい!」
正論である。だが、正論とは正しい論理に過ぎず、必ずしも正しい人間の言葉という訳ではない。この場合がその好例だ。辺境の村などよりも、国家の命運にも絡んだ外交の方が優先度は高い。しかし彼らは外交を担う使節であると同時に――いや、それより前に、魔物から人々を救わねばならない聖王教の神官なのだ。仮にも人類の守護を謳う身でありながら、堂々と「他に優先事項があるからお前たちなど身捨てたい」などと公言して良いものか。見れば村人たちの顔に不安や恐れ、不信と怒りが見る間に湧いてきたではないか。そもそも今回のザンクトガレン行きの名目は、人心の安定だ。それが通りすがらに民衆の心を乱していってどうするのか。
またか、という思いに顔が渋くなっていくのが自分でも分かる。
もう面倒臭くなってきた。いい加減、こいつらをぶった斬ってやろうか……エリシャの指が無意識に腰の剣に伸びるのにも気づかず、神官どもは更に言い募る。
「このような辺鄙な村で足止めなど――」
「口を慎みなさい」
固い声でそう言うのはイルマエッラだった。
「魔物の脅威に晒される人々を置いて先に進むなど、正しい行いではありません」
「し、しかしですなお嬢様――」
「お嬢様、ではありません。聖王教会が高等女司祭にしてオムニア皇国の使節としての判断です。この村の方をお助けしましょう」
顔を上げて、宣言する。これまでの道のりでしていたような俯き加減などではない。これが正しいことなのだと、恥じ入るものなど無いと、確固とした意思で宣ったのだ。
エリシャは柄に伸びていた手を引っ込める。
「うむ。それがよかろう。というより、実を言うとそれ以外の選択肢など無いのであるが」
「……はっ?」
「な、何を言うか聖騎士の見習い如きが!」
神官団の連中は、意味も飲み込めずに喚き出す。
彼らに説明をしてやったのは、トゥリウスだった。
「エリシャさんの言う通りですよ。元々ここには水や秣、明かりや暖を取る為の燃料を補給に来たんですからね。それがオークの襲撃で村の中まで攻め込まれているんです。これじゃまともに仕入れられるのは井戸水くらいですよ。他の物資は、後方に使いを出してここに持って来て貰わなければいけません」
つまり、山を越えたければここで足止めを喰らうことになることは、最初から確定している。この村を見捨てるということは、道半ばで野垂れ死ぬか、諦めて帰るかの二択なのだ。前者は当然として、後者を選ぶことも出来まい。役目を果たせずに帰国などしたら、この人事を行ったカランドラの面子は丸潰れだ。恥を掻かされた枢機卿にして僧兵団長殿が何をか思い、しでかすか。察するに余りあるものがあろう。
「まあ、僕らはここで魔物退治と最初から決まっていたのですが。何しろ、国王陛下からヴォルダン復興の為に鋭意奮励せよ、と仰せつかっている身ですので。領内に湧いた危険な魔物など放置は出来ませんよ」
彼が言うのは、先年の戦勝式典の際のことだろう。国王に願い出て復興までの免税を勝ち取った時の言葉だ。直後にラヴァレの置き土産を喰らいもしたが、畏くも国王陛下の意思を大義名分として得ているのは大きい。現にそう言われた途端、愚図っていた連中の目にも諦めの色が浮かんだ。幾ら世界宗教の神官とて、独断で他国の国王の言を枉げさせるだけの力は無いのだから。
「さて、そうと決まったらさっさと準備を整えないとね」
言って、トゥリウスは一団を眺めやる。
オーブニル家筆頭武官、【両手剣】ことドゥーエ・シュバルツァー。及びその部下数名。
トゥリウスの所有する最古参の奴隷にして元冒険者のメイド、【銀狼】ことユニ。
元アルクェール王国近衛第二騎士団団長、現オムニア聖騎士候補、【姫騎士】ことエリシャ・ロズモンド・バルバストル。
聖王教会女司祭、勇者召喚者にして当代の聖女と異名を取るイルマエッラ・オレリア・カランドラ。
そして……未だ目覚めざる今代の勇者、ユート・エリミヤ。
小なりと言えども錚々たる面子である。豚どもを料理するには、贅沢に過ぎるほどの肉切り包丁とも言えよう。トゥリウスはこの手札をどのように配するか、少し玩味しているようだった。
 




