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085 揺れる天秤

 

 早朝。冷たく澄んだ空気を引き裂いて、ブゥンと重たい風切り音が響き続ける。その音は狂い一つなく正確なリズムを刻んでいた。心得のある者ならば、実際の光景を見ずとも聞くだけで何が行われているかを察せられるだろう。重い物を振り下ろす音を立て続ける反復行動――


「一五〇……一五一……一五二……っ!」


 ――即ち、素振りによる鍛錬だ。

 勇杜は今、ヴォルダンのオーブニル屋敷、その前庭を借りて剣を握り、朝の修練に打ち込んでいる。この世界に来てからの習慣がこれであった。日本にいた頃は部活の朝練もサボりがちだったが、今となっては心持ちが違う。


「一七四……一七五……一七八……っ!」


 胸の内に巣食うドロリとした黒い感情。不安、憤懣、無力感。ふとした瞬間にそれらが首を擡げ、彼を苛む。じっとしているのが辛かった。遮二無二に身体を動かして、内心の澱を汗と一緒に流し出さなければ、そのままはち切れてしまいそうだった。


「一八九……一九〇……一九一……っ!」


 素振りの回数が二百に届かんとする頃、少年の顔にじわりと汗が滲み始める。温まった身体が、まだ肌寒い高地の涼気を白く曇らせた。この習慣を始めてまだ一ヶ月といったところだが、早くも彼は百や二百程度の回数では物足りなくなってきている。せめて五百まではいかなければ、疲れ切って何も考えずに済む領域には届かない。


「二一一……二一二……二一三……っ!」


 そうやって剣を振り続けるうち、次第に眼前へ立つ敵手の姿が見えてくることがあった。ある時は、聖騎士団長ファントーニ。初めて剣を取って戦い、加減をされた上でコテンパンに打ち負かされた大男の、小面憎い四角四面が目に浮かぶ。またある時は、普段の稽古相手であるエリシャ。鋭剣から放たれる閃光の如き突きや舞い踊るような斬撃は、何度やっても太刀打ちできる気がしない。

 幻視の中の仮想敵に向かって、勇杜は変わらずに同じ技を繰り出し続ける。当然、相手が避け受け捌く様もまた目に浮かぶが、構わず繰り返した。


『まずは一つの技を納得行くまで極めてみろ』


 反復練習ばかりの鍛錬に不平を漏らした彼に、かつてエリシャはそう諭した。


『お前に必要なのは、剣を振るう為の身体を作ることだ。駆け引きを学ぶなどといった込み入った真似は、一丁前に剣風の一つも立てられるようになってからすることだろうに。兎に角、この一撃だけは自信が持てると言えるようになるまで、その型で振り続けろ。その一太刀を繰り出すだけの機械になれ』


 そんな型に嵌った剣が実戦で役立つのだろうか。そう述べた勇杜に、彼女はジロリと一睨みをくれたものである。


『生意気なことを言うなよ、少年。生兵法ほど実戦で役に立たぬものはない。そもそも型とは、その通りに動けば最も効率良く技を繰り出せるようになるものだ。言わば、無数の先達が残した知恵の遺産なのだぞ? まずは型に嵌れ。嵌って、型の中で大きくなり、内側から破れ。それが出来て、ようやく半人前だ。型から離れた一人前を気取る前に、まずは半人前程度にはなれるよう励むがいい』


 以来、勇杜はその言葉に従って黙々と同じ型の素振りを続けている。彼が選んだのは上段からの打ち下ろしだ。眼前を遮る障害を、天辺から両断し切り開くイメージ。黒く蟠る何かを一刀の下に斬り払う、それが最も性に合っていると感じた為に。


「二四七……二四八……二四九……っ!」


 脳裏に浮かぶ景色の中で、繰り出した打ち下ろしが想像の中の敵手に向かっていく。山のようにどっしりと構えたファントーニがそれを打ち払った。エリシャの目も眩むような一突きが、初動からこちらの攻撃を潰す。時には、棒立ちの相手が半身に開いただけで躱されることもあった。どれ一つとして仮想の対手に通用するイメージは無い。

 だが、それも過去に比べれば大分マシだ。この幻影が見え始めたばかりの頃は、訳も分からず失敗する予感ばかりが襲って来て、時には素振りを続ける手を止めてしまったことすらある。翻って今は、敵がどのように対処したか、どういう理由で通じなかったのかが、少しずつ理解出来始めている。ああ、今のは踏み込みが半歩足りなかっただとか、相手がこう言う構えをしている時は振り下ろしでは相性が悪いなとか、はたまた根本的に筋力が足りず剣速が遅すぎるだろうとか――自分の不足、そして相手の高みが見え始めていた。

 進歩は、している。その実感が勇杜の鍛錬に、くたくたになって不安を紛らわす為だけではない、確たる動機を与えている。自分が強くなっていくことへの充足感だ。


「にひゃくごじゅ――っ!?」


 そんな彼の鍛錬の手が、ピタリと止まった。勢い良く振り下ろした剣を中途で止めた為、慣性に引っ張られて蹈鞴を踏む。目標である五百回にはまだ遠い。それなのに素振りを止めた理由は……視線を感じた為だ。

 誰かに見られている。そんな直感を覚え、彼は改めて身構えると周囲を窺った。訓練を監督してくれているエリシャのように慣れた相手ではない。他の神官どものように意識に入れる必要の無い人間でもない。イルマエッラのこちらの集中を乱さないよう気を遣った視線とも違った。喩えるなら、知能の高い肉食獣に物陰から付け狙われている状態。油断ならない相手、それも格上の強者に値踏みされているようだと感じた。


「だ、誰だっ!?」


 上擦った声を上げると、庭園の木陰からぬっと男が一人姿を現す。

 大きい。あのファントーニには見劣りするが、長身の上に全身を隈なく鍛え上げられた、見るからに屈強そうな男だ。顔を見て、勇杜は男の事をハッと思い出す。


「よォ、坊主。邪魔しちまったかい?」


「アンタは、昨日の――」


 昨日の会見でトゥリウスの近侍していた、護衛らしい黒衣の剣士だった。背には十字架を思わせる長大な両手剣を負っている。口元には覗き見を詫びるような苦笑を湛えているが、こちらとしては、その威容に思わず尻込みしてしまうような威圧感を覚えてしまう。


「そういや、まだ名乗ってなかったな。俺ァ、ドゥーエ・シュバルツァーってんだ。一応、このオーブニル家で武官の筆頭、騎士の真似ごとみてェなことをやらされてる。よろしくな」


「あ、ああ……えっと、ユート・エリミヤです。こちらこそよろしく」


「タメ口で構わねェよ。そっちの方がお互い話しやすいだろ? こちとら平民上がりの元冒険者だからな。片っ苦しい言葉遣いはどうにも舌が攣りそうにならァ」


「はあ……んじゃ、これからは遠慮無しってことで……」


 思ったよりも気安い応対に、逆に戸惑った。見るからに強面の男に馴れ馴れしくされても、安心より先に取って食われるような不安を抱くのだ。少し不良っぽい体育会系の先輩との付き合いのようなものだ。

 ドゥーエと名乗った男は、勇杜の怯みにも構わず話を続ける。


「お前さん、随分と熱心に稽古していたじゃねェか。俺も思わず昔を思い出しちまったぜ。餓鬼の頃ァよ、そうやって飽きもせずにブンブンと素振りばっかしていたもんだ」


「そうなんで、……そうなのか」


「応っ。見ての通り、教養なんざ空っきしだからな。他の連中に舐められたくねェ、いつかコイツで成り上がりてェって、四六時中剣の稽古さ。そのお陰――ばかりでもねェが、こうやって一廉には成れたってことさ」


 要するに、勇杜の姿を見て苦労していた頃を思い出していたらしい。


(何て言うか、爺むさいこと考えるんだなー……)


 若者の姿に青春時代を回顧するなど、どうにも年寄りじみているように思える。ドゥーエの見てくれは、厳つさの所為で老けて見えるが、まだまだ二十代の半ばだろう。老兵じみた感慨を抱くのはまだ早いのではないだろうか。

 いや、そうでもないかもと考え直す。部活の上級生だって、一つ二つしか歳が違わないのに、何かと「俺らが一年の頃はよ……」などと零していたではないか。年下の苦労にかつての我が身を振り返ってしまうのは、年代を問わない共通の習性なのかもしれない。


「ところで話は変わるけどよ、一つ聞いて良いか?」


「何だ?」


「昨日、ご主人――侯爵に呼ばれて、随分と話し込んでいたみてェだけど、何の話だったんだい」


 ドゥーエに言われて、昨晩のことを思い出す。アルマンド公爵が捕まったことで彼の領地に反乱の兆しがあり、そこを通過することが困難になったのを告げられた。結果、使節団は行き先であるザンクトガレンへ向かうのに、急遽山越えへのルート変更を余儀無くされ、その為の準備と英気を養う目的でヴォルダンに逗留せざるを得なくなった。それもあって、あの若い侯爵は遠慮無く勇杜を談話に誘ったのだ。


「……別に大したことは無かったよ。俺みたいな人種は珍しいからって、色々聞かれただけさ。俺の暮らしていたのはどんなところだとか、どんな人がいるのだとか、食い物はどうだとか――」


 何時間も根掘り葉掘りと質問責めにされたことを思い出し、辟易としながら言う。あれには本当に参った。何しろこちらはトゥリウスのことなど気に食わないのだ。そんな相手と同じ部屋で長い間喋り続けるなど、拷問にも等しい。オマケにこの世界の人間にも分かりやすいよう、日本についてのことをこちらの事物に喩えて話そうともしたが、


『ああ、無理に翻案は加えなくていいよ。こっちの方で後から検証するから、君は君の言葉で向こうのことを教えてくれればいい』


 などと言われた。正直、気遣いを無駄にされたようで良い気分はしない。元から気持ちの良い相手ではなかったのだが。

 また、トゥリウスは勇杜の持ち物についても異様に関心を寄せていた。この世界に来て以来、充電の当ても無く沈黙していた携帯端末を、嫌に熱心に調べていたのが記憶に残る。≪ディテクト≫とかいう魔法を掛けたり、しまいには勝手に分解しようとしたり……何とか元の世界へ帰りたい勇杜としては、帰還後も使う予定の大事な品物を壊されそうで、気が気ではなかった。

 それと、


「――変わったところじゃ、年号まで聞かれたかな」


「年号だァ?」


「この大陸とは違う土地に暮らしていたってことは、文化も違うだろうってさ。異大陸の人間がどんな風に年を数えているのか興味があるとか何とか」


 今年の年号を西暦で教えたら、指折り数えるような仕草の後、妙に納得したような表情をされたのが気に掛かった。意味を訊ねても、向こうは答える気が無いようだったが。

 思い返すだに気疲れする時間だったと項垂れると、ドゥーエの大きな手がバンバンと肩を叩いた。慰めているつもりらしい。


「何だかよく分からねェけど、災難だったなァ坊主。大変だったろ、あの野郎の相手は」


「ああ、本当に疲れた……って、良いのかよ? 仕えている人のこと、そんな風に言って」


「普通なら良かァねェだろうが、俺とアイツの場合は良いんだよ。色々と縛りがある身分だが、口だきゃ縛られてねェのがせめてもの救いだぜ……」


 嫌気が差しているのがありありと分かる表情だった。どうやらあのトゥリウスという男は、部下から見てもあまり仕え甲斐のある主ではないらしい。


「悪ィな、朝っぱらから辛気臭くなるような話ィしちまってよ。侘びと言っちゃなんだが、稽古に付き合ってやろうか?」


 突然、そんなことを申し出て来るドゥーエ。横から話し掛けられたことで素振りを中断してしまった身としては、有り難い話ではある。同じ剣を振るにしても、経験者のアドバイスがあれば為になるだろうし、もっと色々なタイプの剣士の技を見憶えるというのも魅力的だった。


「……良いのか?」


「ああ。俺も坊主に触発されたっていうか、初心を思い出しちまったんでな。邪魔した詫び兼その御礼ってヤツさ。……ほれ、構えな。一丁揉んでやる」


 黒ずくめの男は、言いながら背中の両手剣を抜き放つ。ギラリと朝日を照り返す輝きに、心臓がドキリと跳ねた。


「真剣試合、か?」


 普段は刃引きのしてある練習用の模造剣しか使わないし、使われたことも無い。抜き身の刃物を突き付けられたのは初めての経験である。

 ついで自分の手にする長剣に目を落とす。この旅度に際して護身用にと、イルマエッラから買い与えられたものだ。実際に使える武器――即ち、こちらも真剣である。

 一手間違えればどちらかが死ぬ。いや、下手をすれば相討ちで二人とも倒れるかもしれない。その可能性を危惧する彼に、ドゥーエはニヤリと笑った。


「安心しな。ちゃんと寸止めはしてやるし――ひよっこに斬られるような俺じゃねェよ」


 そうまで言われては勇杜も引き下がれなかった。


(コイツ、軽めとはいえ鎧を着込んでるしな)


 相手に防具がある以上、万が一自分の剣が当たっても、そうそう惨事にはなるまい。そう思うとすんなりと覚悟も決まる。


「じゃあ、ちゃんと避けてくれよ? 自慢にはならないけど、俺はまだ寸止めとかできないからな」


 長剣を青眼に構えつつ言うと、相対する両手剣の男は笑みを深める。


「ハッ! ンなこと考えんのは十年早ェよ。……来な」


 ……朝の空気を裂いて、刃金同士のぶつかり合う音色が響き渡った。




  ※ ※ ※




「しかし、参ってしまったな。山越えの準備の為に、一週間も足止めを喰らうことになるとは」


 朝食を済ませた後、オーブニル屋敷の客間。エリシャは、イルマエッラの逗留する部屋に押し掛けていた。女同士であるし、何よりオムニア、いや大陸でも指折りの要人をこの家――トゥリウスの縄張り――の中で一人にして置くわけにもいかない。

 もう一方の警護対象である勇杜は、訓練後の休憩と食事もそこそこに、使節団の男手と共に街に下りて必需品の買い出しに回っていた。出来れば同じ部屋に詰め込んで二人一緒に守りたいところだが、彼の今の公的な身分は、イルマエッラの世話役でこの一団の中では下っ端。VIP扱いはしたくてもできないのが現状だ。

 一応、ただの賊には後れを取ることはないだろうし、常に他の人員と行動を共にしろとも命じている。……それと、万一の時には他人を盾にしてでも逃げ帰って来いとも。


(あの【両手剣】といきなり立ち会い始めた時には肝を冷やしたが、止めに入る必要がある大事に至らなくて何よりだったな)


 起きがけの鍛錬の時を思い出して、嘆息を漏らす。ドゥーエ・シュバルツァーは元Bランク冒険者にしてヴォルダン戦役で武名を轟かせた男、そして悪名高き【人喰い蛇】トゥリウス・シュルーナン・オーブニルの懐刀、その一本でもある。まさか勇杜がそんな相手に真剣同士で試合を始めることになるとは思わなかった。大の男に四六時中、過保護に付き纏うのも具合が悪かろうと遠慮し、遠目に見守るのに留めたのが裏目に出た格好になる。

 幸い何事も無かったから良かったものの、もしも向こうに勇杜への害意があったらと思うと気が気ではない。ただでさえ彼は、どういう訳かあのトゥリウスの興味を引いている様子なのだ。流石に勇者であると勘付かれているとは思いたくはないが、研究の為と称して多数の奴隷を殺戮した男である。もしかしたら異人種の身体はどうなっているか解剖してみたい、などと思っていても不思議ではなかった。


(油断出来ない相手のテリトリーで一週間も過ごす。オマケにこっちの護衛対象は二人。考えただけで気が滅入るな……)


 警護を担う者にとっては、悪夢のような事態である。せめて勇杜が勇者であると公表出来れば、イルマエッラと纏めて護ることも出来るだろうに。だが現状は政治がそれを許さない。加えて、エリシャが勇杜の正体を知っていることも漏らすなという、面倒な縛りまで付いているのである。ファントーニが鞭、エリシャが飴の役割を担当して彼を鍛える為に、彼女には『何も知らない善意の協力者』を演じて貰った方が都合が良いとのことだ。はっきり言って今は非常事態なのだから、そんな余計な条件はさっさと捨て去りたいところである。

 こんな羽目になると分かっていなくても、ヴォルダンなど通りたくはなかったのだが……嫌でもここを通過するルートを取らねばならない理由があった。山を越えるにしても、王国の東部から北部に掛けて抜ける事前の経路にしても、オムニアからはここを通るのが最短なのだ。それを意図的に外すとなれば、トゥリウスに対し含むところがあると大声で叫んでいるようなもの。仮にも同盟国の大貴族に対し不信感を覗かせるなど、問題の種でしかない。要するに政治だ。


(こればかりは、ファントーニ猊下に頼んでも無理だったからなあ)


 自分を見込んで勇者召喚の秘事を明かしたファントーニに対し、エリシャもまた王国の――いや、ラヴァレとトゥリウスの暗闘について事情を話している。生前のラヴァレと繋がりが深かったのは、同盟を主導したカランドラ枢機卿の方だった。が、今は亡き老策士もアレが恃むに足る相手とは見なかったらしい。エリシャが出国する間際に手渡された彼女宛ての遺書にも、最終的には彼女に任せるが、組むのならファントーニが妥当だろうと書かれていた。


(ヴォルダンの最前線に放り込んでくれたことといい、あの爺も無茶を言う)


 オムニアと連携し、王国最大の内憂であるトゥリウスを絶つ。何もオムニアにヴォルダンを攻めさせる必要は無い。それではことが大きくなり過ぎる。聖王教の教理を用いて、あの男の後ろ暗い部分を抉り出すのだ。カランドラでは駄目だ。アレは手駒として使うにも不足過ぎる。俗物の欲得で国土を蚕食されては本末転倒、寧ろ清廉で鳴るファントーニをこそ用いるべし、云々。

 生きている内ならまだしも、死んでからもこれである。

 ラヴァレといいファントーニといい、まったく、どうして自分の頭を悩ませてくれるのか。上から無茶を振られてキリキリ舞いになるのはアルフレットの奴の役割ではないのか。それとも、彼を散々こき使って来た罰が今更になって回って来たとでも言うのか。エリシャは半ば真剣にそう考えてしまう。

 らしくもない無為な思考を振り切り、意識を目の前の相手に戻す。


「貴女も中々役目が果たせずにお困りであろう、イルマエッラ殿」


「え、ええ。そうですね……」


 話を振られたイルマエッラは、だが半ば上の空のように生返事を寄越す。昨日のトゥリウスとの会見から、彼女はずっとこの調子である。思い詰めたような表情で考えごとに耽り、悩み込み続けていた。ヴォルダン州の奴隷問題に関して、トゥリウスに言い負かされたのが余程に堪えたのだろう。何しろ彼女がオムニアの教会で育み続けた聖王教の理想と、その外で繰り広げられている現実とのギャップを、これ以上無い形で叩きつけられたのだから。

 希代の法力、そして美貌も相俟ってのカリスマを持つ当代の聖女と言えど、所詮は十代の少女。綺麗事だけでは回らない実際の社会を前にして、相当に無力感に苛まれていると見える。

 こうなっては何かを成し遂げた達成感、抱いた理想と自分の力が無価値なものではないと、そう実感できる経験が必要だろう。そうでなければ、折れるしかない。現実への妥協だ。が、困ったことにそれが許される立場に無いのが勇杜とイルマエッラである。少女は聖王教の期待を担う女司祭、人々に理想を説き伝導する者。少年に至っては数百年に一人の勇者、危難にある人々を救うために戦うという、まさに理想の具現者たる救世主なのだから。


「内戦の停止を勧告すると言うのなら、このアルクェールでもそれをやれば、早々に国境を越えることが出来るのであるがな」


 半ばヤケな気持ちでそう言ってみる。人心が乱れて世界に魔王復活に足るほどの闇を齎されたくないのが聖王教のスタンスなのだ。今回のザンクトガレンへの派遣もその一環である。ならばアルマンド公の捕縛――今の段階では公的な発表が地方までは及んでいない――に端を発する内乱の予兆も、王都なりアルマンドなりに乗り込んで鎮めてしまえばいい。ついでにヴォルダンなどという危険地帯から早々に足抜けも出来るのだから、願ったり叶ったりだ。

 が、イルマエッラは力無く首を横に振る。


「残念ながら、それは出来ません。……私たちはあくまでザンクトガレンに向けての使者。アルクェールに対して交渉を行うだけの権利は無い、のです……」


 このアルクェール王国に対する和平勧告は、王都に詰め他国で言う大使の役を担う大司教なり、この国を担当する別口の使者なりの仕事。本国からの許しも無く乱の気配に対して内政干渉を行えるほどの特権など、枢機卿の娘にして司祭職にあるイルマエッラとて与えられるものではない。彼女らがこの問題に手出し口出しをすることは出来なかった。


「やれやれ。では山を越えられる一週間後までは、大人しくここで穴籠りか。色々と気が詰まりそうだな」


 屋内に閉じ籠っているのはエリシャの気性に合わないし、護衛対象を抱えたまま危険人物の所領に留まり続けるのも具合が悪い。二重の意味で気が詰まるというものだ。


「……いえ、それでは駄目です」


 唐突に、イルマエッラがそんなことを言い出す。


「駄目、とは?」


「ここで何もせず、閉じ籠り続けることがです」


 そうして彼女は立ち上がる。悩みを抱えたまま、それでも何かを為そうと足掻くように。


(ふむ、これは……意外と芯が強い女性やもしれぬな)


 うじうじとああだこうだ頭を抱え続けるような相手は、遠慮願いたいと思っていたところだ。警護の観点からすれば一か所に留まってくれていた方が楽なのであるが、身体の危険より先に精神の方が参ってしまわれるのも、それはそれで都合が悪い。どうせこの屋敷は厄介な危地であるということもある。ならば多少動こうが自分が傍にいれば問題は無かろう。エリシャはそう決を下すと、喜んで彼女に同道することに決めた。







 イルマエッラが向かったのは、城市の近くに広がる農場だった。多くの奴隷が過酷な労働を課されるその現場、彼女はそこで、己に出来るせめてものことをしようとする。


「……≪ワイドヒール≫」


 祈りの形に組まれた両手。そこから溢れる温かな光が周囲に広がり、群れ集った人々に降り注ぐ。鞭打たれた者、殴られて頬を腫らした者、足を痛め引き摺るようにして歩いていた者、その全ての傷が布で汚れを拭い取るようにして消え去っていった。彼女は奴隷を癒しているのだ。


「お、おお……!?」


「痛みが、消えた?」


「す、凄ェ!」


 治癒を受けた奴隷たちは苦痛から一時解放されたことに、歓喜の声を上げる。次いで、我も我もと残る傷病者らが詰め掛けて来た。この農場だけでも、あと数十人は治癒を必要とする者がいる。


「お、俺にも治癒を下され! この前に打たれた肩が上がらなくなって――」


「片目が潰れちまったんだ、元通り見えるようにして下さいますよね!?」


「傷が膿んで熱が下がらねえ……は、早く助けてくれ……!」


「……はいっ。私の力が続く限り、皆様の傷をお治しします」


 近付いて来る者らは、皆着古した粗末な衣服を垢じみさせた、不潔な奴隷たち。なのに彼女は嫌な顔一つせずに傍に寄らせ、声を掛け、時には触れ合って、回復の魔法を掛け続ける。何回も何回も、何人にも何人にも。

 すっかり即席の治療場と化した田畑。その周囲に立って遠巻きに様子を窺っているのは、奴隷たちを所有している筈の農民たちである。


「けっ……奴隷どもにはお優しいな、尼さんはよ。まだ作業の途中だったってのに」


「オムニア人が……同盟国だってのに、去年の戦争じゃこっちには何もしなかった癖してな」


「何で野蛮なザンクトガレン人なんぞに治療を施してやがるんだかなっ!」


 口々に漏れるのはそんな不満ばかりだった。聖王教徒である以上、高位の神官であるらしい尼僧に、表立って手を上げることはしない。だが、それでも憤懣は残る。どうして奴隷なんかが神の恩恵である治癒の秘蹟に与ることが許されるのか。そもそもその奴隷どもは、元はと言えば戦争を仕掛けて来た罪深い敵国人ではないか。肝心な時に自分たちを助けてくれなかった同盟国人が、何故そいつらを助けてやるのだ。煮立った泥のように熱く粘り気のある黒い感情が、周囲に湧き起こるのが見て取れる。

 やがて一通りの治療を終えたイルマエッラは、次にそんな農民たちに向き直った。


「皆さん」


「お、おう……?」


 大声を上げた訳ではない。だが、数十、下手をすれば百にも届くだけの患者を治癒して一向に堪えた様子も無い、力ある神官の言葉だ。群衆は若干怯んだように、一様に半歩を後退った。


「……まずは貴国と同盟の間柄にあるオムニアの司祭として、先年の戦災に十分な力添えの叶わなかったことに謝罪を。本当に、申し訳ありませんでした」


 彼女はそう言って、畑の土の上に跪き(こうべ)を垂れる。手足が、尼僧衣の裳裾が泥で汚れるのも構わずにだ。民たちはまた動揺した。奴隷に厚く報いるという気に入らない行いをされたとはいえ、有り難い聖職者が自分たちに頭を下げているのだ。その光景に、自分たちが不敬なのではと感じてしまったのだろう。


「え、あ、その……」


「か、勘弁して下せえ! 徳の高いお方にこんな真似をさせたなんて噂されたら、俺らは――」


「謝罪をお受け取りいただけるのでしょうか?」


「――う、受け取ります! 受け取りますから! な、なあっ!?」


「あ、ああっ! ……去年の領主さまの時もそうだが、これじゃ脅しも同然だぜ」


「しっ! 罰当たりなことを言うでねえ!」


「……良かった。ありがとうございます、皆さん」


 イルマエッラが顔を上げてホッと息を吐く。心からの安堵からか、口元が微かな笑みに綻んでいた。


(狙ってやってるなら大層な役者だが……これはほとんど天然だろうな)


 同行していたエリシャはそんな感想を抱く。どこぞの誰かと違って、イルマエッラは温室育ちのご令嬢も同然だ。無論、若さに見合わぬ立場の持ち主として相応の苦労もあっただろうが、信仰と教義という真綿に包まれたものでもある。腹芸めいた芝居を行えるだけの経験には乏しいだろう。


「そして、皆さんに一つお願いがございます」


 次いで彼女はそう言い出す。農民たちは再びどよめいた。今度は何だ、まさか奴隷どもを解放しろとでも言うのではあるまいか。彼らの顔には、口には出さずともそんな危惧がありありと浮かんでいた。


「奴隷として働かれている方々を、少しだけ気遣って差し上げて下さい」


「はっ?」


 群衆は一様に口を丸くして反駁する。予想よりは軽いが、受け入れ難い要求だったろう。敵国人を自分たちの手足として働かせ、腹が立ったら好きに虐げる。それこそが苛烈な侵略に晒された自分たちに出来る応報の形だと、彼らはそう思っているのだ。気遣いなど、毛の先一つほども恵んでやりたくはないだろう。

 彼らの反応に、長い睫毛をそっと伏せつつもイルマエッラが続ける。


「復讐は何も生まない、などとは申しません。かつて私たちの主たる聖王様も、人々を虐げる魔物に対する義憤から剣を取り戦われたのですから。しかし、彼の御方はこうも仰っています。『自らをも貧しくてまで行う復讐に、どれほどの価値があるのでしょうか。怒りに目を曇らせたまま人を傷つける行いは、心を貧しくし、天の光から自らを遠ざける行いでしょう』と」


 その言葉は昇天記の――何章何節であったか。エリシャはすっかりど忘れしていた。


「怒りを捨てろとは申しません。今すぐ許せとも申しません。ただ、感情の赴くままに行動する前に、ほんの少しだけ堪えて頂きたいのです。一時だけ考えて貰いたいのです。その行いは今をより良く生き、生をより良く全うするのに本当に必要なことであるのかどうかを。そして本当に目の前にいられる方を終生許すことが出来ないのかを。……それだけが私の望みです」


「うっ……」


「わ、分かりましたよ……少し考え……てはみます」


 気圧されたようにそう言う人々に、イルマエッラは安堵の息を漏らして微笑んだ。


「ありがとうございます、皆さん。貴方方に、天より下る光が共にありますように」


 そうして祈りの言葉と共に説話を結ぶ。

 ……やがて、農民たちは奴隷たちに命じて中途であった農作業を再開させ始めた。見渡してみる限り、殴られる者や鞭で打たれる者、或いは物陰に引き込まれる女奴隷などはいない。負わせられる荷物も今までよりは軽い物にされたようだ。奴隷たちの待遇は確かに改善されていた。

 少なくとも、今は。


「バルバストル卿、次の農地に向かいましょうか」


「それは構わぬが、一つ聞いてもよろしいか?」


 どうぞ、と衒い無く促す少女に向けて女は問いを発する。


「彼らは今、御身の説かれた教えを守る気でいるようだが、どれだけ持つと思われているのかな」


 農民たちはイルマエッラに言われた通り、奴隷を無為に虐げることを今は止めている。だが、彼女がここを去ってしまったらどうなるだろう。もしかすると数日もすれば言われたことをケロリと忘れて、今まで通りに虐待を始めるかもしれない。いや、ひょっとしたら自分たちの姿が見えなくなったら、途端に前言を翻すこともあり得る。人間は嘘を吐く生き物であるし、それ以上に恨みを忘れられない業の深さをも持つ。有り難い説法一つで戦争の恨みを捨てられる出来た人物などそうはいないし、逆に理由さえあれば他人を傷つけることを躊躇わず、どころか喜んでそれをする者は幾らでもいるのだ。

 現にエリシャ自身、聖地オムニアで教えに触れながらも戦いを好む気性を矯められずにいる。説教を垂れられただけの農民など(いわん)や、というものである。


「治癒を受けた奴隷たちにしても、だ。今はそのことに満足している。しかし、時が経てばこうも思うとは考えられぬかな。『あの尼僧は、どうして自分たちを解放しようとはしなかったんだ』と」


 満足するということは中々に難しい。一つの恩恵を(こうむ)っても、次第に新しい別の施しを求めるようになる。特に現状が不満だらけであれば尚更だ。奴隷であれば、この最底辺の身分から解放されたかろう。それが最大の願いだろう。そこに手を付けられなかった彼女に対して、筋の違う不満を向けることもあるかもしれない。いや、エリシャの見立てではそう思う者が多数だ。自分たちを桎梏の下に放置しておいて、何が聖王の教えだ、と。所詮は良い子ぶりたいだけの偽善だろう、と。そう吠え始める者が遠からず現れる。救いの手を差し伸べた相手にそう思われることは、覚悟出来ているのだろうか?

 そんな意を孕んだ問いに、イルマエッラは静かに口を開く。


「分かりません」


「ほう?」


「私の願いを聞いて頂いた方々、私の治癒を受けられた方々が何を思われるか。神ならぬ身では知ることは出来ませんし、決めつけることも許されないでしょう。ですから、分かりません」


 人の心を(ほしいまま)に操ることは出来ないし、出来たとしてもしてはならない。だから答えることは出来ないと彼女は言う。

 しかし、


「分からないから、信じます。今日、私の言葉を聞いた方々の中から、ご自身の意思で己を省み、行いを改め、良き道を歩まれる方が現れることを。疑う前にまず信じる。……それが私に出来るせめてものことで、やらねばならないこと。そして、したいと思うことなのですから」


 イルマエッラはそう続けた。誇らかに、ではない。訥々と途切れ途切れに、迷いながら揺れながら、それでも今の自分に出せる答えを懸命に搾り出している。


「今日の一度では足りぬかもしれぬぞ?」


「では、何度でも繰り返します」


「その度に裏切られるということもある」


「何度裏切られようと、続けるでしょう」


「その言葉は一生を懸けても届かぬかもしれん」


「元より一生を賭して声を上げ続ける所存です。それでも及ばぬ時は……主に非力を詫びる外無い、のでしょうか」


 答える度に表情を不安に翳らせながら、しかし彼女は意志を枉げない。

 それにしても、何ともまあ、甘ったるいお言葉であろうか。言葉を聞いた者が自分を騙し裏切るかもしれないと示唆され続けながら、それでも信じ、説き続けるなど。敵と味方をスッパリと分け、敵なら殺すのが性分のエリシャには、到底馴染めそうにない考えだ。

 だがそれでも――、


「……これではご質問の答えに不足でしょうか、バルバストル卿?」


「エリシャ、だ」


「はい?」


「そう他人行儀にせずとも良い。これからは名前だけで呼べば良かろうよ」


 ――それでも、細々と頼りないながら自身の信念を謳い上げるような人間は、嫌いではない。こそこそと本音を隠して立ちまわる輩よりは、よっぽどに性が合うし信が置ける。だから、その評価の印に名前呼びを許すくらいは良いだろうと、エリシャは思うのだった。


「畏まりました。では、これからはエリシャさんと。私のこともイルマとお呼び下さい」


「うむ。それでよろしい……では、次に向かうかイルマよ。法力の残りが心許ないなら、次からは私も手を貸すか?」


「ええ、まだ大分余裕がありますが、念の為よろしくお願いしますねエリシャさん」


 一週間後には山を越える。その時に法力を使い果たしてくたくたになられて難儀したくはない。そう危惧していたのだが、イルマエッラの様子からすると余力は十分らしい。流石は聖女と呼ばれるだけのことはある。

 そう、ここに留まるのは一週間だけ。彼女はその間に出来る限りのことをしようとしている。それがどれだけ人々の為になるかは分からない。大したことではないかもしれない。が、年下の少女がひたむきに事を成し遂げようとする姿は、目に爽やかに映るものだった。


「やはり閉じこもっていては駄目だな。果報は寝て待てなど、私には合わん」


「? 何ですか?」


「気にするな。独り言だよ」


 言って、先導するように先立って歩き出す。

 空は青く晴れ渡っていた。地は緑が広がっていた。心躍るような希望に溢れる風景。その先には人の業が渦巻く場所が待っていたとしても、今だけは素直に前途の景色を楽しめる。

 ……そうであれば、良かったのだが。


「ん? あれは――」


 耕地の途切れた辺り、ヴォルダンの城市の門を出たところから、とぼとぼと歩く人影が見える。目を凝らせば、知っている顔だった。


「……ユート様?」


 イルマエッラも気付く。あそこにいるのは勇杜だ。使節団の神官たちと一緒に山道を行く為の準備、その買い出しに向かっていた筈の少年が、一人っきりでオーブニル邸への道を進んでいる。


「アイツめ。一人で行動するなとあれほど言っただろうに……行くぞ」


「あっ、はいっ!」


 二人で急ぎ彼へと駆け寄る。この辺りの治安は戦後間もなくということもあって、良くはない。加えて、何をして来るか分からない相手の懐でもあるのだ。早く合流して、事情を質さなくてはいけないだろう。

 果たして、勇杜にはすぐさま追いつくことが出来た。歩みは疲れ切っているかのように遅く、足取りも震えているかのように頼りない。見失う訳が無かった。


「少年。何故一人で歩いている? 他の神官どもはどうした?」


 相手が言いつけを破って単独でいることに、我知らず声がきつくなる。それでやっとこちらに気付いたのか、勇杜はやはりのろのろと顔を上げた。酷い顔だった。血の気が失せたように青褪め、それでいて唇からは歯で噛み切ったのかじくじくと血を垂らし続けている。目は赤く、しかし涙の気配は無い。……やり場の無い怒りを堪えている表情だった。


「ゆ、ユート様っ!? 血が出て、何処かにお怪我を!?」


「……。エリシャさんか」


 少年は、全くの自然に駆け寄ってきた少女を無視して言う。どころか、差し伸べられた手を穢いものを厭うように払い退けさえした。


「アイツらはどうしたかって……?」


「……ああ。危険だから一人でいるのはよせと言った筈だ。揉め事に巻き込まれたなら、そいつらを盾にするつもりで良いともな」


「……アイツらなら、遊んでるよ」


 予想だにしなかった答えに、流石のエリシャも面食らう。

 遊んでいるだと? 公務の最中、不慮の事態で予定を変更し忙しい只中で? ……如何に堕落していようと、仮にも聖職者が?

 勇杜はボソボソと続けた。


「まずは酒場だった。山越え用の新しい馬車の手配になんて、見向きもしないで。……ワインは神の血だから、これを乾すのも徳を積む行いの内、だってさ。こんな真っ昼間からだぜ? 信じられるかよ。そうかと思ったら、今度は女だ。飲んでる途中で声を掛けて来た女の人に、鼻の下伸ばしながら、金を恵んでやろうかって笑いながら言ってた。今は喜捨を受けて懐が暖かいから、恵まれない者に施しをしてやろう、だとか。ケツに手を回しながら言う事かよ……」


「……」


「そうかと思ったら、酔っ払った一人が外に出たんだ。で、道端にござを敷いて座ってた子どもに声を掛けてた。また金を恵むとか言いながら何かするのか、って思ったけど、違った。……髪の毛を引っ掴んで、その辺の路地裏に連れ込もうとしやがったんだ。あんな、あんな小さな女の子に。頭に来たから、ぶん殴ってやったよ。酒場で飲んだくれてる奴らも、ぶん殴ってやった。そしたら街の兵隊が来て、黄色い異民族が神官様を害したぞとか喚き出して――」


「分かった。もう良い」


「――見ていた筈なんだよ、あの兵隊どもも! 糞坊主どもが昼間から飲んだくれて、女に手を出して、子どもにまであんなことをしようとするのを! だって、だってアイツらだっていたんだよ! 真っ昼間から、同じ酒場にっ、兵隊が! それだけじゃない、それだけじゃないんだ! 助けた筈の子どもが、まず何て言ったと思う? 余計なことをするな、だってさ! ひょっとしたら終わった後で金をくれるかもしれなかいんだ、って! そんな訳無いだろう!? どうなるか分かるだろあんな手付きで無理やり――」


「だから、もう良いっ!」


 一喝して黙らせる。聞いていて気分が悪いのもあるが、それ以上に彼に言わせ続けるのが何より憚られた。勇杜の言葉は血を吐いているのも同然だ。神官たちや治安機構の腐敗。戦争の傷跡も生々しいヴォルダンの街の現状。それらから受けた衝撃を追体験して、自分を傷つけているだけだ。

 少年は耐え切れなくなったように道へ崩れ落ちた。ぎりぎりと歯を噛み締めながら、今まで流し忘れていた涙をようやく目から零している。

 異世界に呼ばれて、事あるごとに叩きのめされ失望を味わってきた少年が、また新たなどん底を味わわされて泣いていた。

 イルマエッラは動けないでいるようだった。父の選んだ使節、その面々がまさかこのような堕落を呈しているとはと、彼女もまた深甚な衝撃を受けているようである。

 やがて彼は、俯きながらポツリと零す。


「……なあ、エリシャさん」


「何だ」


「こんな世界に、救う価値なんてあるのかよ……?」


 いずれ蘇る魔王と戦い、世界を救う勇者。そんな使命を負っている彼は、それこそ誰かに救ってほしそうな眼をしながら、その価値はあるのかと吐き捨てた。


「……残念ながら、それは私に答えられる問いではないな」


 言って、呆然と立ち尽くすイルマエッラの方を見る。勇者に寄り添い導く役目を担う聖女を。或いは、小さくともようやく一歩を踏み出したところで、同じ教えを信じていた仲間に思いを裏切られたばかりの少女を。彼女は戦慄く唇から言葉を発せられずにいる。世界すら越えて呼び出した少年の傷心に、その張本人である自分が何を言えるのかと悩むように。

 新たな問いに確たる答えが出るまでは、まだしばらく時が掛かりそうだった。




  ※ ※ ※




 ヴォルダン市郊外のオーブニル屋敷。年内に取り潰す予定の寂れた館の執務室で、トゥリウスは忠実な下僕の言葉にじっと耳を傾けていた。


「――以上が、本日にヴォルダン市街で起こった騒動の顛末です」


 主人のデスクの傍に侍るユニが、そう言って報告を結ぶ。

 ユート・エリミヤと名乗っていた使節団の少年が起こした乱闘騒動。その詳細に脇で拝聴していたルベールは、頭を痛めたようにこめかみを揉む。昼間から酒を飲み女を買おうとする、あまつさえ幼い子供にすら手を着けようとする腐敗した神官。それを咎め立てもせずに同じ酒場で管を巻いていた警邏の兵士。どれを取っても領内全土の内政を預かる官僚にとっては嫌な話題である。

 それを聞いていたトゥリウスの感想は、


「ふぅーん? まあ、ヴォルダンの治安も、結構改善してきたんじゃないの?」


 ただそれだけだ。

 奇妙な発言かもしれないが、間違ったことは言っていない。実際、戦中の市内は難民でごった返していた為に犯罪発生率は今日の比ではないし、講和直後も荒廃した農村からあぶれた人で同様のことが起きていた。トゥリウスの採った奴隷ばら撒きによる復興政策は、領土の治安を最悪の状態から「悪い」の一言で済むレベルにまで向上させてはいる。褒められた話ではないのも、確かであるが。

 神官のモラル欠如は、それこそこちらの知ったことではない。彼らはあくまでお客様、対策をしなければならないのは、その出所であるオムニア皇国だろう。領地の教会にも似たような手合いがいたら困るが……その時はちゃんと対策をすれば良い。この主人らしいやり方で。


「けど、兵士がサボっているのは頂けないね。ここだけは何とか手を着けておかないと。教育するなり、使える奴と入れ替えるなり、ね」


 どのように教育し、或いは何と入れ替えるのか。それを聞くのは野暮というものだろう。答えは問うまでも無く明瞭なのだから。ルベールも勿論、無駄な質問などしたりはしない。


「ああ、言うまでも無いと思うけど、揉め事を起こしたっていう彼の手配は――」


「はい。詰め所の者に命じて既に解除させております。奴隷の指示には従えないとのことでしたので、説得するのに鼻薬を嗅がせることになりましたが」


「――流石ユニ、仕事が早い。けど、香水のことも鼻薬って言うのかな?」


「どちらかと言うと、色香で惑わしたってのが正解に近いんじゃないんですかね」


「お上手ですね、ルベール卿。……それよりもご主人様、よろしいのですか?」


 良く出来たメイドは冗談をさらりと受け流しつつ、主へと問う。


「その気になれば、あの少年を確保することも可能である筈だったのですが」


 言葉の通り、ユニは今日、ユートとかいう少年を尾行していた。街で起きた出来事の報告や後始末など、その副産物に過ぎない。彼はルベールから見ても随分と主人が入れ込んでいる対象だった。部屋に招いて話を聞いたり――何故か付いて来た要警戒対象のエリシャにすら入室の許可を出して――、態々ユニほどの手札を割いて監視させたりしているのがその証拠である。そんなにも興味を抱いているのなら、今頃拉致してマルランの研究所に送っていてもおかしくないと思うのだが。


「……彼はまだ泳がせておくよ。僕の予測が確かなら、その方が保険として有用に動いてくれるさ」


「左様にございますか」


 メイドの方はそれで納得して引き下がるが、ルベールとしては物足りない回答だった。吹けば飛ぶような小間使いとはいえ、オムニアからの使者団に手を出さないというのにはホッとした。それはそれとして、そんな人物がこうもトゥリウスの興味を引き、更には保険だの有用だのと意味深長に仄めかされると、却って気になってしまう。


「随分と高く買っておいでですが、あの少年にはどんな価値があるんですかね?」


「教えないよ。まだまだ確定事項じゃないし、万が一にも外に漏らしたくない情報だからね」


「閣下、そんなに勿体付けなくても良いじゃないですか」


「あのね、ルベール。僕は勿体付ける必要があるから勿体付けているんだ。そうでもなければさっさと話しているよ。こんな不確定事項を話して、君を混乱させたってしょうがないじゃないか。内政官の仕事には関係無いし、諜報周りでもあの少年を洗う必要は無い。絶対に裏は取れないからさ」


 流石のルベールもムッとした。混乱させても仕方がないとは言うが、今でも十分に混乱している。それに諜報で裏は取れないとはどういうことか。情報分野はルベールが特に心血を注いでいるのである。入魂の自信作を公然と腐されたような思いだった。


「そんなことはありませんよ。彼は異大陸人のようですが、それでもこの大陸には船で来た筈でしょう? 各地の港、特にカナレス辺りで聞き込みをすれば、必ず何か情報が――」


「……そこからズレていると思うんだけどねえ」


 トゥリウスは呆れたように肩を竦める。何なのだ、一体。自分を洗脳した主君が訳の分からない男であることはよく知っているが、今回は極め付けだ。肝心の情報のピースを秘密の箱に仕舞い込んで、決して見せようとしないでいる。脳を改造し反逆出来ない手駒であればと、耳を塞ぎたくなるような言葉を垂れ流すのが常であったのに、あのユートという少年に関しては例外であるらしい。唯一訳知り顔であるのは、最も主の信を得ている最古参の奴隷だが……まさかこの女が、主人の意に反して情報を漏らすことなどありえまい。お手上げである。


「それよりも、君には今やらなきゃならない仕事があるでしょ。日頃嫌がる僕をせっついて仕事させているんだから、まずは自分が働いたらどうだい?」


「……まあ、良いでしょう。いくら訊いても、どうせ無駄なんですからね。閣下のお嫌いな無駄です」


「分かっていられるのなら、その無駄口から慎まれては如何かと」


「チーフメイドまで酷いことを言う。……分かってますよ、エルピス=ロアーヌへの視察の件ですね? しかしこの時期に行っても大丈夫なのでしょうか。ひょっとすると、アルマンド公爵領が反乱して、閣下に鎮圧が命じられる恐れもありますけど」


「ヴィクトルは問題無いって言っていたよ。僕は去年に功績を挙げ過ぎたからね。反乱が起こった場合は、パワーバランスを取る為にも、主力となって事に当たるのは他の連中だろうってさ。寧ろ、隣接する新領地に飛び火しないように向こうをしっかり押さえておいてくれ、ともね」


 ならば良い。加増された新領地を引き締め直し、完全な統治下に置く好機だ。侯爵へと上った新生オーブニル家の双璧として、存分にこの腕を振るってやろう。……先の話題について上手く流された気がしないでもないが。


「具体的な運びにつきましてはお手元の書類をご確認頂くとして――話は変わりますが、例の計画についてなのですが」


 ルベールが口にしたのは、トゥリウスがオーパスシリーズを動員して企んでいるという大掛かりな作戦のことだ。研究の為の時間を奪う度し難い敵を叩く為だという、一大作戦。規模といい周辺への影響といい、一昨年の王都大火か下手をすればヴォルダン戦役並の惨劇を呼ぶ企て。


「アルマンド領の動きもありますし、中止――いえ、延期される訳にはいきませんか? 現状ではどのような影響が起こるかが不透明過ぎないかと」


「何を言っているんだい、ルベール? だからやるんだよ」


 トゥリウスの答えは、やはり揺るぎないものであった。

 情勢が不穏であるのなら、尚更それを行わなければならない。何故ならそこに障害があるから。不老不死への研究を妨げる者が存在するから。敵がいるから。絶対に失いたくないこの命を、脅かす者がいるから。

 だから、そんな奴はこの世から消し飛ばしてしまえと、異様な輝きを宿す瞳が言葉以上に明白に語っていた。

 ゴクリと喉が鳴る。


(しかしこれは……少々閣下らしくないのでは?)


 ルベールの知る限り、トゥリウスが攻撃する相手は基本的に、押さえるべき研究対象か、そうでなければ向こうから殴り掛かって来た相手だ。ライナス、カルタン、ザンクトガレン軍、そしてラヴァレ。いずれも先に仕掛けてきたからこそトゥリウスの防衛本能を刺激し、苛烈な報復を呼んでいる。だが、今回は違う。脅威だからという理由だけで、こちらから先制攻撃を仕掛けようとしているのだ。

 確かに今後の危険を未然に摘むという予防措置かもしれないが、しかしそれにしても……拙速に過ぎる。この変化の原因は何なのだろうか。

 それでも事ここまでに至ればルベールに否やは無い。官吏としての頭脳が、若干の危惧はあれどこの策の有用性を認めているが故に。主の方針の変化を危ぶめど、計画そのものには文句のつけようがない為に。

 なので彼はこう言うに留めた。


「貴女はどうお思いなのですか、チーフメイド?」


 主ではなく、彼の信任厚い手駒に向けて確認の意思を放つ。

 返ってくる答えは、半ば以上予期してはいたが。


「ご主人様の御意のままに」


 ほら、やっぱり。一切ぶれることの無い回答に、ルベールは小さく溜め息を吐いた。

 

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 白人がアジア系人種と初めてであってからかなり長い時代白人の亜種と考えてたので 初遭遇からその侮辱はあり得ないですね 侮辱、差別として適切なのはダウン症関連かな
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