078 異邦人
春を迎え、光輝の弥増す歴史と信仰の国・オムニア皇国。
先年に聖騎士の叙任を受けたエリシャ・ロズモンド・バルバストルは、未だにこの国で修行を続けていた。騎士として最高の栄典を受けることは類い稀なる誉れ。とはいえ、その為に消化しなければならない課程は、想像を越えて辛かった。音に聞こえた【姫騎士】といえど、堪らずに音を上げたくなるほどである。
「ではバルバストル卿。昇歴七八二年に列聖された聖者は四名いるが、その全てを答えよ」
「はい、枢機卿猊下っ! ……一人も分かりませんっ!」
真っ直ぐと挙手し、胸を突き出して降参を宣言。その態度に、畏れ多くも直々に教鞭を取るジャンフランコ・パオロ・ファントーニ枢機卿は、巌のような顔を罅入るように硬直させた。
「……なあ、バルバストル卿」
「何でありましょう、枢機卿猊下?」
「この問題は、先日も出題した筈だが」
「はっ! 私もそう記憶しております」
ファントーニが頭痛を堪えるように額へと片手の拳を当てる。
「では、何故答えられぬ? この前に分からなかったのならば、書物を紐解くなり人に訊ねるなりすれば良かったではないか」
「はっ! 私もそのように思い、シスターに質問しました」
「ならば何故、分からぬと言う?」
「……聞きはしましたが、忘れましたっ!」
エリシャは視線を上向け、背筋を伸ばしつつ大声でそう答えた。彼女は問題を投げ出して開き直った――訳ではない。これは近衛第二騎士団時代、彼女が新入りの平団員であった頃より、目上の団員に自分の非を謝する時の態度として叩き込まれたものだ。自分の何が悪かったかを明瞭に説明し、ピンと背を張ることで上役に頬を張られるのに備える。間違いを正す時は身体を張って文字通りに叩き直す。それが作法だった。
が、ここオムニアでは些か勝手が違うらしい。エリシャとしては、この武断派と評判の枢機卿が、岩石から削り出したようなその拳で罰を加えて来るのかと覚悟していたが、彼がそんな挙に出る気配は無い。寧ろ、懇々と説き伏せに掛かられてしまう。
「貴卿、どうしてこのような簡単な問題が分からぬのかね? 人名を四人ほど諳んじるだけではないか。これより難解な神聖魔法の祭文は、容易く暗記しておったであろうに」
「はい、猊下。戦いに関わらぬ分野の学問は、どうにも苦手でして」
「教史においても、聖戦の年号や諸々の合戦は憶えておると言うのに」
「はい、貴重な戦訓を学べます故」
「……本当に戦のことしか考えておらぬな」
「はっ! 私は己を戦う為に生まれた人間であると考えておりますので!」
「胸を張って言うでない、いい年をした女子が。……良いか? そもそも聖騎士の役目とは、単純に魔物や背教者と戦うだけでなく、その姿勢によって衆生に教義の何たるかを示すことも――」
そしてこの尽きること無いお説教である。これがまた彼女の天敵であった。朗々と紡がれる言葉の洪水が頭の中を撹拌し、気が付けばうとうとと眠気を誘われてしまう。新手の催眠魔法かと疑ったことも一度ではない。
「――異端の討伐とは、戦闘によってこれを排除するだけでなく、悪魔に惑わされた民草に正しい教えを説いて正道に服させることを以って完了とする。それを思えば、神聖魔法を覚えるだけでなく、教史や神学、弁論術なども聖騎士に必要な――」
(いかん……今日は一段と眠気が酷い……)
気を抜けば頭が前に沈みそうになるのを、舌を噛んで我慢する。エリシャとて無為無策で今日の教練に挑んだ訳ではない。先日に回答出来なかった、或いは不正解だった箇所はしっかりと復習し直し、夜を徹して勉強した上での参加だった。それでこの結果なのである。最早、本質的に向いていないとしか思えなかった。
そんな考えを抱く彼女を見透かしたように、ファントーニはじろりと白い目を向けてくる。
「――聞いているのかね、バルバストル卿?」
「は、はっ! 聞いております、枢機卿猊下!」
「そうかな。どうにも気も漫ろであったように見受けられたが」
誠心誠意話を聞いているか疑わしいのなら、まずは一発ぶん殴ってみるべきだろう。十代の大半を荒くれ者どもの中で揉まれて育ってきたエリシャとしては、皮肉ではなくそう思う。
しかし、見かけだけなら熊でもオーガでも殴り殺せそうなこの男は、教えを授ける相手に暴力を振るうことを好まないらしかった。ひょっとすると、この身が女性であることから遠慮を抱いているのかもしれない。教育役としてはそこが惜しいことだ。世の中には頭ではなく身体に聞かせなければ分からない者も、性別に関係無くいるであろうに――などと、不遜にもその張本人が考えていると、
「む、時間か」
遠く鐘楼から聞こえる鐘の音に、ファントーニは今日の教練の終わりを告げる。
「では、バルバストル卿。後日、再度同じ問題を出す故、もう一度勉強して来るように」
「はっ! 本日もご指導、ありがとうございました!」
「うむ。良い返事だ。……返事は良いんだがなあ」
そう言って太い指で短髪を掻きながら退出していく枢機卿。その背を見送ると、エリシャはへなへなと力無く講堂の長机に突っ伏した。
「つ、疲れた……ここはヴォルダン以上の激戦区か?」
血の気が足りなくなった唇から漏らした言葉は、正直な本心である。頭のつむじが痒くなりそうな勉強に、いつ尽きるとも知れぬお説教。そんなものと向き合うくらいなら、戦争でもしていた方が余程に気楽である。世の人は十人が十人「いや、それはおかしい」と否定するだろうが、エリシャは心底からそう思っているのだから救えない。
(聖騎士の称号は素直に嬉しいのだが……ひょっとして、私には向いていないのではないか?)
などという不安が頭を擡げるが、今更な自覚である。
流血を忌み、それを最小限に抑えるのが聖騎士の役目であるのに、彼女の嗜好はその真逆なのだ。血で血を洗う泥沼の戦場と聞くと、心が痛む前に胸が高鳴る。無辜の民草が巻き込まれることには悲憤を感じないでもないが、剣を手に戦地に飛び込めば三秒でそれを忘れて、斬り合いに没頭してしまう。こんな血腥い人間が聖騎士候補など、世も末というものだ。
「お疲れ様です、バルバストル卿」
そう言って声を掛けて来たのは、去年にブローセンヌからここまで付き添って来た例のシスターだった。知り合った当初こそ妙な硬さや暗さがあった女性だが、今はすっかりと打ち解けた相手である。そういえば昔、彼女から「貴女はユニコーンを愛馬としていると聞きましたが、誠のことですか?」などと妙に真剣に聞かれたのだが、あれはどういう意図だったのだろうか。
眠気の余りに脳裏を過ったどうでもいい疑問に蓋をし、エリシャは力無く片手を上げてその声に応じた。
「ああ、シスターか……私はもう駄目かもしれん……やはり聖騎士の任は難しい。くっ、どんな辛い修行にも耐えて見せると覚悟していたつもりだが、まさかこれ程とは……」
「だ、大丈夫ですよ。普通でしたら、剣術や魔法の修練で挫折される方が大半ですが、貴女はそれを三ヶ月で修了したのでしょう? 学問の試験も、きっと大丈夫ですわ。……多分」
知人の励ましを受けて、尚も情けない姿を晒すというのは好みではない。パァンと一つ自分の両頬を張ると、忽ち気分を入れ替えてケロリと立ち直ってしまう。
「……うむ! それもそうだな。多分、きっと、大丈夫だ。……こんなところで油を売っているのも私らしくない。そうと決まれば、気分転換に剣でも振ってくるとしようか」
「そ、そこは嘘でも、図書館で教史を覚え直すと言うべきでは?」
「何を言うか。全教徒の規範たる聖騎士候補が、嘘など吐いてはいかんだろうに」
「いえ、そう言う問題じゃなくて――」
「ところでシスター」
ふと思いついて、話題を転じるエリシャ。
「今日の聖騎士団長猊下の教練は随分と短くなっているように思うのだが、気の所為だろうか? 普段であれば、鐘の音が鳴ったとしても四半刻から半刻は説教が続いていた筈だが」
シスターの顔が苦笑のまま強張る。それはもしや貴女の授業態度に愛想を尽かしたのでは、という言葉を飲み込むように。が、口に出しては別の事を言った。
「恐らく、先頃に聖騎士団で預かられた方のお世話を為さっているからかと」
「? 何だか妙な物言いだな」
微妙な違和感を孕んだ言葉選びに、首を傾げる。聖騎士団で預かる、とはどういうことだろうか。預かると言うからには、エリシャのように聖騎士候補に推薦された訳ではあるまい。アルクェールだろうとザンクトガレンだろうと、はたまたマールベアや他の小国であろうと、イトゥセラ大陸の国々は全て聖王教を国教としている。故に聖王教徒の中から選ばれた聖騎士は全員がオムニア聖騎士団に籍を置くのだ。預かる、という言い方をする筈が無い。
「それが私にもよく分からないのです。さる高貴なお方が、修行の為に聖騎士団の力添えを頂いておられるのでは、とも言われておりますが」
「だとしても釈然とせんな。あのファントーニ猊下が、名家のボンボンづれなどに依怙の沙汰を下すとは思えん」
エリシャも半年近い付き合いで、あの良い意味で聖職者らしからぬ大男の人柄は把握している。自他共に厳しく律するを良しとする聖騎士中の聖騎士が、幾ら修行の為だとはいえ正規の候補でもない相手に、そこまで時間を割いてやるだろうか。そんな特別扱いなど、易々と肯定するような男とも思えなかった。
だが、もしそうだとしたら、
「……そいつが飛びっきりの特例だから、であるかもな」
「バルバストル卿?」
ニタリと笑みを浮かべた女騎士に、シスターが不安げな声を漏らす。だが、エリシャはそれを聞いていないように勢い良く立ち上がった。
あのファントーニが特別扱いせざるを得ないような人物。それは如何なる者なのだろうか。贔屓をしてまで気を引いておきたいような猛者なのか、それとも将来を楽しみにして鍛える甲斐のある若武者か、はたまた目を着けていないと何を仕出かすか分からない爆裂弾か。
いずれにせよ――、
「面白そうだな、興味が湧いた! 少し修練場の様子を見て来るぞっ」
――エリシャとしても、好奇心を掻き立てられる対象だった。彼女は居ても立ってもいられず、飛び出すように講堂を後にする。
「……これは次のご講義も駄目みたいですね」
背後で嘆息混じりに零された言葉は、彼女の耳に聞こえなかった。
※ ※ ※
召喚から一日経った現在も、勇者ユート・エリミヤこと衿宮勇杜は困惑の最中にあった。それもその筈、一体何処に、突如として異世界に連れ去られた挙句に「貴方は勇者です。この世界を救う為に、魔王と戦って倒してきて下さい」と頼まれ、二つ返事で引き受けられる男子高校生がいるというのだろう。当然、自他共に認める普通の少年である彼は、そんな希少例とは程遠い性格である。
(幾ら可愛い女の子の頼みだろうと、無理なもんは無理だろ)
未だ唇に残る柔らかい感触を振り払うように、軽く首を振る。契約の儀式の一環とはいえ、ファースト・キスの相手。彼女に言われても無理だ。何しろ縁も所縁も無い土地と人間の為に命懸けの戦いをしろというのである。可憐な乙女の唇の価値は、それは確かに重いだろうが、しかし向こうから押し付けておいて命と引き換えというのは、流石に押し売りが過ぎるだろう。
(向こうとしちゃ、そんなことをしているって自覚は無いんだろうけれど……)
自分をこの世界に呼んだという少女、イルマエッラの様子を思い返す。彼女は勇杜が召喚に応えてくれた――彼女の視点では、だ――という一事だけで、こちらに一方的に好感を抱いているらしい。一度などイルマエッラさんと呼んだ時に、
「そのようにご謙譲なさらないで下さいませ、ユート様。私のことはどうか気安くお呼び捨て下さい」
「いや、それも何だか横柄な感じがして……」
「では、貴方様がよろしければ、イルマと愛称でお呼びになられるのは如何でしょうか?」
などというやり取りがあった。女子にニックネームで呼んでくれ、と言われたのも、初めてのことである。ともあれ、こうも下に置かれない扱いをされると、尻の据わりが悪くなるような気分だ。丁重に恭しく接されている所為で、いきなり異世界に拉致されたという落ち度を追求する気も鈍ってくる。狙ってやっているなら大した悪女だ、などという皮肉な感想も湧いた。
「どうなされました、ユート様?」
先立って歩いていた当人に声を掛けられ、勇杜はバツが悪くなる。
「いや、何でもないよイルマ」
「そうですか。ふふっ、ちゃんとその名で私を呼んで下さるのですね」
たかだか愛称で呼ばれただけだというのに、何が嬉しいのか心なしか足取りを弾ませるイルマエッラ。勇杜は今、彼女に案内されて、オムニアの大聖堂とかいう建物の中を歩いている。石造りの大きな教会は、やはりというかヨーロッパの聖堂に似ていて、それに加えて何処となくイスラム教のモスク的な意匠も備えているように見受けられた。一般的な高校生である彼の知識には無いが、ユダヤ教のシナゴーグに通じるところもある。要するに一神教的宗教の教会、それに対するイメージが節操無く混淆したような建築物なのだ。
「この大聖堂は、聖王教一千年の歴史の中で、何度も改築と拡充を繰り返したのだそうです。その影響か、時代ごとの建築様式が入り混じって、区画ごとの特色になっているのだとか」
勇杜の抱いた印象を見越したように、そう補足するイルマエッラ。
「慣れないと戸惑われるかもしれませんが、逆に広い内部を歩く時の目印にもなるのですよ」
「ふ、ふーん……」
そんなことを言われても、建築家でも宗教学者でもない身としては、生返事を返すしかない。興味が湧くことも無かった。荘厳な宗教施設で貴重な歴史遺産だろうとは思うが、それ以上の感情は抱けずにいる。元が信心などに不熱心な現代の少年だ。余りにも情熱的な信仰に触れると、感動や改悛よりも先に、多分に先入観の混じった胡散臭さを覚えてしまう。
無論、周囲を神官や修道女らに囲まれた現状で、それを口に出す勇気もまた無いのであるが。
「あ、着きました。こちらです」
イルマエッラが彼を連れて来たのは、大聖堂の東側の外れ。天井が無く頭上に青空が見えるが、高い石壁に周囲を囲まれた庭のような場所だ。いや庭というには語弊がある。踏み固められた土を剥き出しにした殺風景な広い空間。勇杜の知っている中で感覚的に近いのは、小さな運動場か学校の体育館といった程度の広さか。身体を動かす場所として設計され、それ以外の要素を埒外として取り除かれたような雰囲気である。
「ここは?」
「聖騎士団の方々が、日頃の訓練を行う為の練兵場です。今日はここで、聖騎士団長様とお会いになって頂くことになっております」
そう聞いて、勇杜は嫌な予感を覚えた。
(何で会う為の場所が訓練するところなんだ?)
会見して話をするだけなら、室内でも問題無いのではないだろうか。どうしてわざわざ騎士の練兵場などを選ぶというのだろう。
が、彼がそのことを深く考える前に、
「……お初お目に掛かる、勇者殿」
二人がくぐって来たのとは別の入り口から、むくつけき大男がぬうっと姿を現す。
大きい、四角い、そして分厚い。総体としてはそのような印象。ガチガチに固まった岩を思わせられる、見るからに筋肉質な体躯の持ち主だった。袖を通している質素な白いローブに、辛うじて聖職者らしい意匠を見出せなければ、格闘家の入場場面とでも錯覚しかねない。
巨漢はずしずしと音のしそうな重い足取りで二人に近付くと、右掌に左拳を当てながら跪いた。
「拙僧、オムニア皇国聖騎士団長の任と、聖王教会枢機卿の位を預かる者であります。名をジャンフランコ・パオロ・ファントーニと申す。天上の主のお導きにより御身の知遇を得られたことへ、感謝を」
決して大声でも脅しつけるような響きでもないというのに、こちらの腹がビリビリと振るわされるような重低音である。向こうが礼を払っていなければ、勇杜など一溜まりも無く逃げ出していただろう。
ゴクリと生唾を飲み込む。彼は迷っていた。名乗られたからには、勇杜の側も挨拶を返す必要があるのは当然のこと。が、相手がこうも腰を低くしている時に、どのように応対すれば良いのだろうか。こちらも相手同様、地に膝を衝く? だがファントーニと名乗った熊みたいな男は、こちらに謙っているような素振りだ。最敬礼で応じても、果たして大丈夫なのだろうか? どうするのが正解か分からない。一応はサッカー部員として体育会系の端くれに位置する少年としては、見るからにおっかなそうな見た目をした、年上で目上の相手には、一先ず頭を下げておきたいところだが……。
硬直しかけた彼の背を、イルマエッラの細い指が突く。
「お気を楽に。ユート様の普段為さっているやり方で大丈夫だと思います。勇者とは異界の地よりお越しの方なのですから」
と囁くような助言。無理に向こうに合わせる必要はないとのことだ。そう言われて、一気に安心した。勇杜は肩の力を抜いて、軽くお辞儀する。
「ど、どうも。ユート・エリミヤです。ええっと、何か勇者らしいです」
ついでに仏像を拝むように合掌して。この聖騎士団長の厳めしさに、何となく仁王様や力士像を連想したからだ。
ファントーニは、勇杜の挨拶からきっかりと三秒後、腰を上げローブの裾に付いた土埃を払ってから改めて正対する。
「此度は急な召し寄せにお応え頂き、誠に有り難く存ずる」
「はあ」
応えたも何も、イルマエッラが呼び掛けてきたから、何も分からないままその通りにしただけだ。が、強面を前に、当の本人を横にしながらそれを表に出せる勇杜ではなかった。
それを知ってか知らずか、目の前の大男はにこりともせずに続ける。
「召喚より一晩経ったが、如何かな? 見知らぬ世界へ呼び出され、戸惑われることも多いのではないかと存じ上げるが」
「いや、皆さん良くして下さってますんで、そんなには……」
勿論、お世辞である。異世界に拉致されて戸惑わない程に神経が図太い学生など、そうそういないだろう。晩の食事は肉が乏しく、調味料も足りない為に味が薄くて甚だ不満だった。結局、半分ほど手を着けた段階で残してしまっている。もっとも、慣れない環境からくる心労で、食が細っていたこともあるかもしれないが。風呂にも入れず、トイレも不便で汚い。ベッドこそ豪華な天蓋付きで身体が沈むようにフカフカだったのが救いだが、昨晩は目が冴えきったこともあってその恩恵を堪能出来なかった。別段冷遇されている訳ではなく、回りの人々がこちらに気を使ってくれていることが、はっきりと感じられてもこれなのだ。今まで暮らしてきた二十一世紀の日本が、どれだけ恵まれた環境だったことか、改めて理解出来るというものである。
殺したつもりの不満の気配を察せられたか、ファントーニがチカリと目を光らせた。
「遠慮は無用。我らは皆、貴殿のお力を借り受ける者であります故。ご所望の物があらば、忌憚無く要求されても結構」
「え? それじゃあ、風呂に入りたいと言っても?」
「了解した。早速今日の分の準備をさせよう。無論、毎日という訳にはいかぬが、三日に一度といった程度であれば」
「食事の方なんだけど、もう少し肉が多いと嬉しいです。あと、パンよりも米の方が。香辛料も、もう少し欲しいかも……」
「肉と米はすぐにでも手配を。が、香辛料は……異大陸が主な産地である故、難しいやもしれぬな。予算だけではどうにもならぬこともある」
言葉に甘えて不満点を述べたところ、驚いたことに、ほとんど丸呑みである。粗末な身なりをしているが立派な風格の人物が、こうも丁重にこちらを扱おうとする姿勢。勇杜がそこに感じたのは、喜びや満足ではなく不安と恐怖だった。
(ぽっと出の俺を相手に、そこまでするのかよ……イルマだけじゃなかった。この人たち全員、本気で俺の事を勇者として扱う気でいやがる)
ここに来て何度目か、固い唾を喉に押し込む。厚遇という形で逃げ道や言い訳を封じられ、相手の用意した一本道へと誘い込まれているようだった。サッカーで言えば、ボールは持たされているものの、相手のプレスにパスの出しどころを次々と潰されていく場面に似ている。それとも、キーパーのど真ん前で、敵の狙い通りのコースにシュートを撃たせられた時か。下手にガツガツとこちらを追い詰めてこない辺りに、余計嫌らしさを感じた。
「それじゃあ、もし……俺が元の世界に帰りたい、って言ったら?」
覚悟を決めて、肝心要の要求を口にする。昨晩は召喚直後の混乱と見慣れぬ場所への委縮から、ついに言い出せなかった言葉だ。ピクリと、傍にいるイルマエッラが小さく震えた気がした。
勇杜はじっとファントーニの顔を見つめ、答えを待つ。勇者として魔王を倒す為に異世界に呼び出されました。では、その目的を果たした後はどうなる? いや、場合によっては召喚直後に「そんなことは聞いていない」と戦いを拒まれることもあるだろう。勇杜がそんなことを言い出したら、どうするつもりなのだろうか。
召喚したのはいいものの、勇者には相応しくなかったと分かった、などと掌を返されればマシな方だ。最悪、不適応な勇者を呼んでしまったという間違いを認めない為に、こちらを殺すということもあり得る。
そんな過激な反応を引き出したくなどないが、事が事だ。この部分をなあなあにしておいたまま、状況に流される方が危険ではないか。
「帰りたいと望まれるならば、帰られるがよかろう」
「……えっ?」
予想外の反応に面食らう。が、その直後、
「無論、御身が魔王を打倒した後のことであるが」
そう続けられたことで、帰還への期待は糠喜びに終わった。
失望と落胆に、勇杜の身体が小さくよろめく。だが脱力はすぐさま苛立ちへと変わる。嬲るように言を左右して見せたファントーニに対して、ではない。
(間抜け! 向こうだってこっちを見定めようとしているのは、当たり前だろうが!)
苛立ちの矛先は、心底を容易く見透かされるような真似を仕出かしてしまった自分自身だ。
剛直そうな外見をしている相手だが、確実に二十年以上は年上で、対人経験も相応に豊富だろう。聖騎士団長だの枢機卿だの、偉そうな肩書を担ってもいる。そんな大人が、今日出会ったばかりの人物、それも己の半分以下の歳の学生などに、易々と胸襟を開くほど能天気である筈が無い。勇者として呼ばれた衿宮勇杜とかいう小僧はどんなたまかと、虎視眈々と見計らっていたと思うべきだったのだ。そんな相手に一番の望みである帰りたいという思い、その程を見せつけてしまう形となってしまった。
後悔に臍を噛む勇杜に向けて、喰わせ者の巨漢は悠々と告げる。
「勇者召喚は莫大な法力を用いる大儀式。短時日の内に、そう何度も行えることではない。元の世界へと御身を帰す送還もまた同様。……が、こちらには倒した魔王から還元される魔力を使うという、抜け道がある。それ故に、帰還を願われるのであれば魔王を倒すことが何よりの近道と存じる」
恥ずかしげも無く、良く言えたものだ。結局のところ、日本へ帰りたければ魔王を倒せという主張には何も変わりが無いではないか。少年は不貞腐れた心境でそう思う。
「……何で、俺なんだ?」
慣れない敬語混じりの口調を打ち捨てて、唸るように呟く。
「何故、とは?」
「だって、おかしいだろ……俺はただの学生で、戦ったこともなくて、それどころかこの世界の人間でもないじゃないか。なのにどうして、わざわざ呼び出されて、勇者として戦わなきゃならないんだ!?」
ついには、声は叫びの域にまで高くなる。
一日置いて、当初の戸惑いが去ったことが裏目に出ていた。落ち着いて心境と状況を整理するだに、現状の理不尽さに苛立ちが募る。異世界? 召喚? 勇者? 何だそれは、どうして自分が。確かに日本での変わり映えしない、確たる目標すら無い生活は退屈だった。日常に何か新しい要素が、新鮮で驚きに満ちたものを欲してもいた。だが、それは欠けている部分を埋めたいという願いである。今までの自分を構成していた全てを投げ出して、引き換えても良いということとは違う。いや、断じてない。この自分が、衿宮勇杜が、どうしてそんな無茶な契約を結ばされることになるというのだ。何が聖王だ、悪魔だってもう少しまともな契約を持ち掛けるだろうに――初めて深く言葉を交わした訳知り顔の大人、ファントーニとの対面によって、そんな憤懣と鬱屈が一気に爆発した。
「そ、それは……ユート様が聖王様のお導きによって――」
「止すがいい」
堪らずと言った様子で口を挟んで来たイルマエッラを、ファントーニが分厚い掌を挙げて制した。
「どうして御身が勇者と選ばれたか。それを知りたいと願っているのはこちらも同じこと」
言いながら、踵を返して練兵場の壁際へと向かう。そして立て掛けられていた訓練用と思しき剣を一本、軽々とした手付きで持ち上げた。
「元より、勇者とは召喚直後から魔王に打ち勝てるほどの強者という訳ではあらぬ。日々の鍛錬、そして魔物どもとの戦いによって、力を着けていくもの。今日を鍛錬の始めというつもりでお呼びしたのだが――」
自由な片手で、こちらに向かって手招きを一つ。
「――憤懣遣る方無いとあらば丁度良い。拙僧も御身を量らせて頂く故、憂さ晴らしも兼ねて参られよ」
要するにこの場で試合でもしようと、そういうことらしい。
「……今度は、言葉だけじゃなく暴力に訴えようって言うのか?」
「せ、聖騎士団長猊下はそのような方ではありません」
「よい、イルマエッラ殿。……そんなにも拙僧が怖いというのなら、この身に制約を課そうではないか。こちらはこの勝負、決して利き腕ではない側しか使わん」
言って、剣の握りを左手に持ち替える。
……そういう問題ではない。勇杜は十分な了解も無いまま、イトゥセラ大陸とかいう異世界に連れて来られ、お前は勇者だと決めつけられて魔王とやらと戦わされる羽目になるのが不満なのだ。この上、どうして勇者として選ばれたのか知りたい? 力を量りたいから戦え? 何だそれは、馬鹿にするにも程がある。こっちは戦うとか殺すとか、そんな野蛮な暴力沙汰が嫌なのだ。
「だからって、俺にそんなつもりは――」
「怖気づいたと申されるなら、それはそれで結構」
常に固い仏頂面だったファントーニの顔に、初めて変化が生じる。笑みだ。人を小馬鹿にした、見下すような薄ら笑いである。
「勇無き者を勇者と、無理に祭り上げるつもりは無い。召喚は何かの手違いということにして、御身には市井で捨扶持でも貰いながら生きて貰おう。何、気にすることはない。弱者救済も聖王教の教えであるし、そこのイルマエッラ殿は慈悲深い女性でもある」
戦うのが嫌なら、ハンデをくれてやっても挑んで来る気概が無い弱虫なら仕方ない。男の風上にも置けない青瓢箪らしく、女のスカートを傘に全てをやり過ごしていろ……。
露骨な挑発である。こちらを怒らせる意図は明け透けだ。こんな下らない誘いに乗るなど馬鹿げている。
「ふざけるなよ、オッサン……!」
なら俺は馬鹿で良い、と勇杜は思った。
身柄を拉致され、危険な役目を押し付けられ、挙句それが出来ないなら臆病者と軽蔑される。こんなに勝手なことは無い。そのような真似をして平気な顔をしている奴など、許せるものか。ここまで頭に来る相手は、十七年生きてきてこれが初めてだ。
「良いぜ。そんなに暴力がお好みなら、俺が嫌ってほど振舞ってやる……!」
「善哉」
勇杜が挑発に乗ったことに、ファントーニが獰猛な笑みを浮かべる。気に入らないことに、ここまでは相手の思惑通りに事が進んでしまった。だが、最後までそのままで行くとは限らない。
(……絶対、吠え面かかせてやる)
滾るような怒りと共に、勇者と呼ばれた少年は初めての戦いに挑もうとしていた。
「あの、ユート様? お怒りはごもっともですが、猊下にも何かご考えが――」
お前はどっちの味方なんだ。そんな感慨と共に、窘めるように声を掛けて来るイルマエッラを無視。勇杜は軽いストレッチをするなどして試合の準備を整えていく。
同時に思った。どちらの味方かといえば、当然ながら向こう側に決まっている。彼女は勇者召喚の儀式を実行した張本人であるし、聖王教とかいう宗教団体で結構な高位に就いてもいるらしい。勇杜に対して親身に振舞って見せてはいるが、立ち位置はやはりファントーニと同軸だ。
苛立ちの滲む粗暴な手付きで、彼も相手と同じく壁際に備え付けられていた武器を取る。そして手にして初めて理解した。巨漢のファントーニは悠然と片手で携えていたが、この剣は元来両手持ちで使用するべきものだ。右手一本で構えるには、そして振るうには、刃渡りが長大に過ぎる。
同時に、
(何だ。思っていたより軽いな)
重そうな見た目に比べて呆気無く持ち上がったその手応えに、拍子抜けめいた思いを味わった。よくよく見れば、切っ先や刃の部分などが丸められており、切れ味など期待できそうにない。つまりは訓練用の模造剣のようなものなのだろう。だからこんなにも軽いのか、と解釈する。
「準備はよろしいか?」
「ああ」
悠々と剣先を垂らしたまま左に体重を預けて棒立ちのままの相手。それに向かって、昔見た時代劇を思い出しつつ、構えらしきものを取って相対する。そんな勇杜の姿を目に入れたファントーニは、ハァっとこれ見よがしに溜め息を吐いた。
「……剣を両手持ちする時は、拳同士を離すのがよろしかろう。そんなにくっ付けていては、返しが遅れるし腕の力も入らぬ」
「う、うるさいな! これが俺のやり方なんだよっ!」
言い返しつつも、内心相手の指摘に舌を巻く。道理で肩などにぎこちなさが残っているのを感じる筈だ。こんなことなら体育の選択武道は剣道を選べば良かった、と今更な後悔が湧く。他人の汗の臭いが染み付いた使い回しの防具を嫌って、身体のぶつけ合いならサッカーで慣れていると、柔道の方を選んだツケ。それがこんなところで回って来たようだ。
「まあ、良い。では、勇者殿のやり方を見せて貰おうか。……始めいっ!!」
ファントーニが初めて大声を上げる。空気の震えだけで、鼓膜のみならず肌にまで痛みを感じるほどの大喝。平凡な少年としては、怒りに身を任せてでもいなければ、到底耐えられなかっただろう。実際、五メートルほどの距離を置いて向かい合っているだけで冷や汗が止まらない。重みの無い模造剣とはいえ、武器の形をした物を手にした人間を相手取っている。その状況は思っていた以上に強いプレッシャーを感じさせた。
勇杜は動かない。いや、動けない。一歩でも踏み出した瞬間、野生の熊を思わせる巨体が躍りかかって来る姿が目に見えるように予期出来る為に。
開始の合図からしばらく、まんじりともしない時間が流れる。十秒? 三十秒? もしかしたら一分程は経ったかもしれない。やがてファントーニの方から何の気なしに声が掛かった。
「参られぬのか?」
「ハンデの礼だ。先手は譲るよ」
嘘である。勇杜の狙いはカウンター、図らずも彼の詳しくない剣道で言う、後の先の形だった。
格闘技に限らず、スポーツというものは基本的に、先手を取って主導権を握るのは上級者の戦術。動けば構えやフォーメーションが乱れ、隙が生じるのであるから、それを相手に突かせず一気に勝負を決めるのは難しい。対してカウンターは、弱者に残された数少ない勝ち筋というのが定説。防御重視で試合に入り、相手の動きに合わせて隙を窺って、ここぞと言う場面で一撃を喰らわせる。それは終始アドバンテージを維持し続けるよりかは、相対的に労力が掛からない。その特徴は一点が重いスポーツでこそ顕著だ。勇杜の得意なサッカー然り、ポイント一つでガラリと流れの変わるテニス然り。そして――一本で勝負が決まることもある剣の道も同じだろう。
無論、始めて剣を取ったような素人でも考え付く理屈だ。聖騎士団長とかいう、いかにもな肩書を持つファントーニとて、百も承知の筈。だが、彼はそこを混ぜっ返しもせずに真面目くさって告げた。
「その意気や良し。では改めて――参るっ!!」
言うや否や、巨体の左足元が爆発した。常人離れした怪力が地面を踏み締め、蹴って跳んだ反動。それだけで踏み固められた堅い地面が弾け、土煙が舞う。
(は、速――っ!?)
冗談のような速度で迫りくる大男の姿に、堪らず目を見開く。見るからに目方の重い相手だが、同時にはち切れんばかりの筋肉の持ち主だ。瞬発力も只ならないだろうとは思っていたが、ロケットめいた加速の程度は想定より遥かに上。これではカウンター狙いなど覚束ない。
大振りの横薙ぎ。敵の仕掛けをそれと見て、勇杜は屈んでやり過ごした。直後、頭上をゾッとしない心地のする重たげな風切り音が通過。黒い髪の毛が数本、パラパラと顔の前を落ちていく。掠めた際に切られたのだ。刃の無い模擬剣でこの威力とは、何という剛腕だろう。本当に同じ武器を振るっているのか、などという畏怖混じりの疑問まで湧いてくる。
だが、
「――隙ありィ!!」
突進と剣撃の勢いは凄まじいが、それが逆効果だ。ファントーニの巨体は勢い余って勇杜の横を通り過ぎ、地面に左足を着けて背中を晒している。腕の剣は完全に振り切られて戻りが遅れていた。要するに隙だらけ。体格の差もあり、小回りならばこちらの方が効く。先に振り返って一撃を見舞えば、確実に入るという局面。
勇杜の大上段からの振り下ろし。相手は背中を見せたまま。これは決まった――
「惜しい」
――普通ならば、だが。
「……はっ?」
ゴンっと、重たい金属同士がぶつかり合った鈍い音が響く。勇杜の眼前、彼の振るった剣は空中でもう一本の剣に受け止められ、敵の背中を目前にして受け止められていた。
ファントーニが左腕で持った剣は、肩越しに背中に回され、正確にこちらの一太刀を防いだのである。恐ろしいことに、背後を振り返ることもなく一瞥とて寄越さないままに。まるで背後に目が付いているか、それとも最初から勇杜の太刀筋を予見していたかのよう。いずれにせよ、とんでもない技巧と読み。先の力に任せた粗雑な攻めは何だったのか。……三味線を弾いていたのに決まっている。この程度の一撃、躱して反撃出来なければ、試合を続ける価値も無しと、何の気無しに振るっただけだ。
オムニア、いやイトゥセラ大陸の全聖王教徒の武力の頂点、聖騎士団長ジャンフランコ・パオロ・ファントーニ。その彼が、術理を省みずして体躯と膂力のみを恃む猪武者などであろう筈が無い。
「だから先程、剣の握りは両拳を離すべきと申したであろう。肩が縮こまり太刀筋の範囲も狭まる。故に至極読みやすい。力も籠らぬから、この無理な体勢、左腕一本でも十分耐えうる」
「コイツ……っ!」
「切り替えも遅い。腕力に勝る相手と鍔競り合いを続けるなど、愚の骨頂。敵を仕留められなんだ一撃に未練など残さず、素直に剣を戻して次の手を打つがよかろう」
そうして振り返り様、受け太刀を通して勇杜の身体を押し戻す。仮にも人間一人の体重を、まるで掃除の際に教室の机をどけるように、苦も無く軽々と押し退けたのだ。勇杜は堪らず数歩、蹈鞴を踏むようにして距離を取る……いや、取らされる。次の手を打てと告げた通りに、その為の猶予を与えられたのだ。
「舐、めるなァアアアアっ!」
気合一声、お望み通りの次撃を見舞う。ファントーニは変わらずに剣を地面へと垂らして構えを取らない。その必要は無いと無言で主張するように。
「ほう、握りは直されたか」
気に入らない相手の忠告に従うのは癪ではあるが、兎に角一太刀を浴びせたい一心で、言われた通りに柄を握る拳を離していた。成程、確かにこの方が僅かに肩の自由が利き、また添えた左手が梃子の支点の役割を果たしてより威力が出るのが分かる。一撃目よりも鋭さを増した二撃目は、しかし変わらず余裕で防がれる。
「が、今度は上体が力み過ぎている。力を入れるのは足腰だ。肩、肘、手首は寧ろ脱力して靱やかに。その方が速度が乗る」
「うる、せぇええええっ!」
「また上段か。攻め手が一辺倒だな。斬るのみではなく、状況に応じて、薙ぐ、払う、突くと使い分けるべきかと」
三、四、五、六――。
七から先は面倒になって数えるのを止めた。その全てが適当に振っているとしか思えない剣で、受けられ、弾かれ、防がれる。まるで悪い夢だ。勇杜の攻撃は嫌々ながらも送られてくるアドバイスを守った結果、稚拙な初撃とは比べるべくも無く上達していた。速さも鋭さも重さも、更には攻め方のバリエーションさえ、同じ人間が繰り出しているものとは思えないくらいだ。
なのに、嗚呼、だというのに、
「足が止まっておるぞ。もっと動き回られるが良い。御身は拙僧より小柄である故、小回りを活かして間隙を窺うのが得策である」
(ふ、ふざけんなよ、この野郎ォ……!)
鼻で荒く息をしながら、歯を剥き出しにする勇杜。その表情は、内心の思いを強くきつく噛み殺しているかのようだった。が、そうまでして押し留めている感情の正体は、怒りではない。それならば隠す必要無く存分に表へ出せば良いのだから。彼が感じているのは……それよりもなお、強い恐怖。
(そう言うアンタは……言っていることを何一つ守っていやしないじゃないかっ!?)
ファントーニの剣は、当人の口にする恐ろしいほど的確な助言とは裏腹な代物だった。
両手持ちの握り方はこうだ? ――左手一本で剣を取っていながら何を言う。
上体ではなく足腰で振るえ? ――そっちは肩から先しか使っていないじゃないか。
攻め方を、一辺倒にするな? ――先程から繰り出される攻撃は突進からの大振りだけだ。
もっと足を使って動き回れ? ――攻撃時の踏み込み以外は棒立ちである。
これは彼が口だけは立派な半可通ということを意味する……訳では勿論ない。寧ろその逆。これまでの人生で培ってきただろう剣の鉄則。その全てを無視し、ありとあらゆる技の使用を自ら封じていてもなお、読みと最小限の動作だけで、勇杜からの攻撃を一撃たりともその身に受けることなく渡り合い続けているのである。相手の技量を向上させるのに適切な助言を、一回の攻防ごとに送り続けるというオマケ付きで、だ。
まるでじゃれ付く赤子か小動物を、大人が余裕を以ってあしらっているかのような光景。同じ人間を相手にしているとさえ思えない。勇者として魔王と戦えと言われたが、勇杜の知る限り最も魔王らしい存在は、いま正に目の前で相対している化け物だ。
……勝てない。それどころか当てられる気さえしない。
そのことを実感した瞬間、少年の中で何かが切れた。
「――うぁああああああああっっっ!!」
「ぬっ?」
この試合中初めて、ファントーニが意表を突かれたように目を瞠る。勇杜が土壇場で素晴らしい技を繰り出してきたからではない。逆にこれまでで一番拙劣な動き、下手をすれば握りに関するアドバイスを無視した初手にも劣る出鱈目さで剣を振るったからだ。設定されたハードルを越えるのではなく、くぐることで通り抜けたようなものである。
ともあれ、その意外さにファントーニは僅かに反応が遅れた。その為に想定した受け方とは異なり……右足に重心を移しながら、我武者羅な一振りを受け流す形となったのだ。
一方の勇杜は、無茶な体勢で剣を振るい、そのベクトルを流されたことで、ファントーニと擦れ違うようにその後方へと雪崩れ込む。そして顔面から地面へとぶつかってしまう。昨日に初めて経験したそれとは全く違う、血と土の味がするキスだ。
「ユート様っ!」
剣の届かない位置で見守っていた筈のイルマエッラが、堪らずといった様子で駆け寄って来る。勇杜は動かない。頭を打ったとか、顔から突っ込んだ所為で鼻血が出たからとかいう訳ではない。交錯の瞬間、彼は気づいてしまったのだ。
……擦れ違い様、ファントーニが身体を右に傾け攻撃を防ぎながら、一瞬だけ浮かべた表情。あれは罪悪感によるものではなかったか。では、その原因は何だ? 勇杜がこうして怪我をしてしまった所為か? 違う。ファントーニは技巧を用いなかったとはいえ、当たれば負傷は免れられない勢いで攻撃してきた。刃の無い剣で髪が切れるほどの一撃だ。避けられずにまともに喰らっていたら、骨折は確実だったろう。
「た、大変ですっ、血が……いま治しますからね!? ≪ヒール≫っ」
加えて、イルマエッラがやっているように、この世界には負傷を即座に治せるだけの回復魔法が存在するようだ。ならば余計、後ろめたさは少ないだろう。
では、ファントーニの抱いた罪悪感、その本当の理由とは。
「……右足」
「えっ? 右足にもお怪我を? ね、捻挫でしょうか!?」
漏らした呟きにトンチンカンな反応を返す少女を余所に、少年は体を起こすと、再び巨漢に向けて視線を送る。だが、その目に最早戦意は無い。そこにあるのは敗北感と、恐れ。暴力が怖いのではない。たった今、気付いてしまったことを事実だと認めることが恐ろしいのだ。
「アンタ、今初めて右足を使ったよな? ほんの少し、体重を掛けたくらいだったけど」
「えっ?」
「…………」
ファントーニは否定しなかった。
「思い返せば、最初っからおかしかったんだ。アンタは試合が始まって最初の一撃……軸足だった筈の左足で地面を蹴って、その後も左足で着地していた。馬鹿げているよな? 普通、左足で踏み切ったら次に地面に着くのは右足だろ。蹴り足が後ろに回って、逆にそっちが前に出るんだからな」
「…………」
ファントーニは否定しなかった。
「……何で、そんなことをした?」
「それが最初の約定であるからな」
ファントーニは勇杜の推測を肯定した。出来れば外れていてほしかった推測を。
『……そんなにも拙僧が怖いというのなら、この身に制約を課そうではないか。こちらはこの勝負、決して利き腕ではない側しか使わん』
それが勝負の前に告げられた内容だった。
利き腕ではない側しか使わない。『腕』ではなく『側』。それはつまり、腕のみならず足までもその範疇に含めるということ。こちらは単純に言い回しの問題と思って利き腕を封じただけだと思っていたが、実際は違った。ファントーニは字句通りに、右腕と右足を用いずに戦っていた訳だ。右足は地面に着いてこそいたが、ただ着けていただけ。歩行に使うことは勿論、体重さえ掛けられていなかった。裏を返せば、この男は左足の曲げ伸ばしだけで、人外じみた速度での移動すら可能にしていたのである。人間とは思えぬ身体能力であるが、それが何の慰めになるだろう。勇杜が片足片腕の相手に良いようにされていたという事実には、何一つ変わりは無いのだから。
心が折れる。座り込んだ状態から立ち上がれない。手前勝手な理屈を押し付けて来る大人の、せめてその鼻を明かしてやろうと意気込んだ結果がこれだ。ハンデとして使わない筈だった右足を使わせた? だから何だ。寧ろ両足を使って歩く、踏ん張るといった、当たり前のことすらしなかった相手に圧倒されていたこと。それをより重く感じてしまうだけである。
「ふむ。それにしても……この戦いぶりからすると、勇者召喚の事実。公表せなんでおいて、正解であったか」
完全に負け犬の態の勇杜に、顎を摩りながら零す勝者の言葉が追い打ちをかけた。
「どういう、意味だよ……?」
反駁の声にも張りが無い。一押しされるだけで泣き崩れそうな、弱々しい響きがそこにある。
「ああ、イルマエッラ殿からは聞いておられぬのか? そも、勇者召喚は世界を揺るがす一大事。魔王復活の兆候ありと言えど、オムニア独断で行っては周辺諸国に差し障りもあろう。故にしばらくの間は、御身を鍛えることに専念し、人類の危機が周知となってから勇者の存在を公表する計画だったのであるが――」
そしてそこへ、最後の一押しが。
「――これが召喚された勇者の実力かと世人に知られれば、世界中が大騒ぎであろうよ」
「……っ!」
「ユート様!?」
介抱するイルマエッラの手さえ振り払って、二人に背を向けて駆け出す。
もう我慢出来なかった。唐突に連れ去られ、役目を押し付けられ、それに反発して相手に挑んだ結果、惨敗。自分が惨め過ぎて生きているのが嫌になる。
日本に帰りたい。でも、帰る為には魔王と戦わなければいけない。それが出来ないから自分を呼び出した連中、その中の一人にも勝てなかった。つまり、勇杜は絶対に日本へ帰ることが出来ないということ。
屈辱の苦みと絶望の酸味とに顔を歪めながら、少年は練兵場から逃げ出した。
「はあっ……はあっ……!」
どれだけ走ったことだろうか。勇杜はいつの間にか見知らぬ区画へと入り込んでいた。大聖堂は広い。昨日今日訪れたばかりの彼にとって、憶えの無い場所の方が多いだろう。
(キレて、負けて、逃げて……オマケに迷子かよ。ははっ……)
返す返すも情けない我が身に、乾いた笑いが漏れる。乾いているのは声だけだ。目からは涙が溢れ、洟をすする音がひっきりなしに鳴る。
「――様ーっ……ユート様ーっ!」
後ろの方から、イルマエッラが自分を呼ぶ声が聞こえた。逃げる彼を追いかけて来たのだろう。だが、今は顔を合わせたくない。女子に涙で濡れた顔を見せたくは無かった。ズタズタにされたプライドの欠片が疼くのだ。そして何より、彼女は自分をこの世界に呼んだ召喚者である。善良な気性の持ち主であることは知っているが、それでも気持ちの揺れている現状、対面すると自分が何を言い出すか分からない。
そんな思いから、廊下に立ち並ぶ円柱の一つの影に身を隠す。
「ユート様ーっ! どこですかーっ!? ……ううっ、こちらの方へいらしていたと思ったのですけれど」
柱の陰から窺うと、イルマエッラがしょんぼりと肩を落とす姿が目に入った。胸が痛む。昨日、召喚成功の喜びに、あんなにも輝いていた表情を曇らせてしまった。思えばあんなにも誰かから期待を寄せられたのはいつ以来だろうか。迷惑に思う気持ちもあるが、彼女からの信頼を裏切ってしまったことは心苦しかった。加えて、それを知りながら、こそこそと隠れていることへの後ろめたさも。
その時である。
「……騒がしいな、イルマエッラ」
何処となく癇に障るような声がした。声の主は、コツコツと殊更に大理石の床を鳴らしながら、廊下の向こうから歩いてくる男。勇杜は居場所がばれないようにこっそりとそちらを窺う。そして思わずポカンと口を開けた。何とも派手やかで絢爛な、宝石をそのまま衣服としたような成金趣味の格好。さっきの熊みたいな大男とは真逆の意味で、高位の聖職者らしくない。首から提げた飾り帯――正式にはストラという――だけは、あのファントーニのそれと同じもの。ということは、おそらくあれと同格の地位にある者なのだろう。
「お前が慎みにかけた振る舞いをすれば、その悪評は巡り巡って私にまで及ぶのだぞ? んん?」
声を掛けられたイルマエッラの方がビクリと強張る。
「お、お父様……」
(お父様、って……イルマの? コイツが? ……ええっ!?)
口に手をやって声が漏れるのを防ぐ勇杜。片や清純、可憐といった言葉を形にしたような、ある種非現実的なまでの美少女。片や着ているものの金ぴかさしか印象に残らない、地味で陰険そうな男。父子というには、驚くほど似ていない。
イルマエッラの父とかいう男は、おどおどと伏し目がちになる娘へ向けて、ネチネチという擬音が聞こえてきそうな程に粘着質な声を放つ。
「ところで、勇者殿はどちらへ向かわれたのであるかな? 予定では今頃、あの聖騎士団長殿と面会していると聞いたのだが……」
「それは、その……」
「歯切れが悪いぞ、しっかり答えよ。この父の問いではないか。んんっ? 父祖への感謝と親への忠孝も、聖王教徒の義務であるぞ? ……まあ、その反応からすると、どうにも不首尾であったと見えるがなァ。くくくっ」
如何にも愉快で堪らないと言うような声。
「良いか、イルマエッラよ。勇者召喚を主導し成し遂げたのは、我らカランドラ家だ。断じて、そう断じて、あの汗臭い野蛮人に率いられた聖騎士団などではないっ! この功績の重大さは、お前にも分かっておろう?」
「……勿論です、お父様。勇者様を御呼び奉り、その聖務に力添えするは、聖王教徒の誉れ……です」
「そうだろうとも、そうだろうとも! 故に、魔王討伐に余計な差し出口が挟まれるのは好ましくないというもの。事の発議から関与している我々こそが、勇者殿を要らぬ雑音から遮り、その聖性を貶めることのないようにせねばならん。……お前は召喚を執り行い契約を交わした聖女として、あの異世界人の傍役を務めるのが役目。しっかりと張り付いて、お守りをしてやれよ?」
聞いていてまた胸が悪くなるような思いだった。とてもではないが聖職者とは思えない野卑な語り口に、耳が穢れる気さえする卑俗な内容。そして何より、自分が異世界くんだりまで呼び出された理由が、そんなことを恥ずかしげも無く謳い上げるような男の、卑近で身勝手な出世欲に根差したものであったことが堪えた。
(何だよ、それ……)
ただ声が聞こえて、手を伸ばしただけ。それだけのことで異世界に召喚され、勇者などという役目を押し付けられた。力を量るなどと称して嬲られた。この上、更にこれか。勇者とは名ばかりで、高尚な理想も切なる祈りも無く、薄汚れた政治屋が興じるパワーゲームの駒扱いである。
(何が勇者だ。何が……!)
今日一日だけで何度となく繰り返した悪罵を、再び胸中に刻む。
件の勇者から失望と軽蔑を買っているとは知らぬげに、カランドラは上機嫌に続けた。
「そうそう。何だったら、行きつくところまで行ってしまっても構わんぞ? 聖職者が婚前交渉というのは聞こえが悪いが、相手は何せ、誉れ高く有り難ァい勇者殿だ。徳の高い子を為せるとあらば、周囲もそう強くは言えまい。当家との鎹にもなろうし、お前も小さい頃からおとぎ話の勇者様に、大層憧れていたではないか――」
もうやめろ、沢山だ。勇杜は柱の陰に膝を抱えて力無く座り込み、目を瞑って耳を塞いだ。
……その為に彼は見逃してしまう。父親の聞くに堪えない戯言に対して、娘が尼僧衣の裾を固く握りしめて耐える姿を。彼女が力無く、
「もう、やめて下さい……」
と反駁した時の、辛そうな顔を。
どれだけ時間が経ったろうか。いつの間にか、カランドラとかいう見下げ果てた男は立ち去っていた。廊下には、只中で立ち尽くす少女と柱の裏に隠れる少年だけが残されている。
やがて、少年はのっそりと立ち上がって廊下へと出た。
「っ! ユート様、こちらにおいででしたのですね!」
一転して、ぱあっと明るい表情を見せるイルマエッラ。勇杜はそれに白々しい、とマイナスの感想を抱く。今や彼には、その顔は裏側に別の感情を隠す腹黒いものにしか見えなかった。
その洞察は半分だけ当たっている。ただ、笑顔の裏に押し込んだ感情が何かについては、彼の理解が及ばなかったのであるが。
「……話は聞いていたよ、イルマエッラ」
「……えっ?」
少年の言葉に、少女は当惑の色を顔に浮かべる。それは聞かれたくない話を聞かれてしまったことに由来するのか、……それとも彼に呼んでほしいと願った愛称が、用いられなかったことに対してなのか。
「家の名誉の為、ファントーニのオッサンに手出しされない為……ははっ、自分で自分が笑えるよ。そりゃそうだよな。昨日今日会ったばかりの女の子が俺なんかに、何の考えも無しに優しくしてくるる筈なんて無いか」
腹の底からくつくつと、屈託した笑いが湧き上がってくる。思えば随分とおめでたい考えをしていた物だ。異世界に勇者として召喚され、ただそれだけの理由で美少女にチヤホヤされる? 何と陳腐で夢見がちなシナリオだろう。日本にいた頃にそんな物を見たとしたら、リアリティに欠ける子ども騙しだと鼻で笑うところだ。何より笑えるのは、自分がまんまとそれに騙されかけた子ども以下だということだろう。
自棄っぱちの笑みを浮かべる少年に対し、少女はカタカタと震えながら喘ぎ喘ぎ言葉を紡ぐ。
「ち、違います……そんな、私は、私はそんな――」
「じゃあ、何で俺を呼び出したんだよ!?」
ドンっという音と共に、イルマエッラの身体が柱に叩き付けられた。彼女の襟首を掴んで、締め上げ続けている手。それが自分の物であるということを、どこかぼんやりとした心地で悟る。頭に血が上っちまったな、と他人事のように思った。激昂のあまりに体が勝手に動いて、まるで自意識が理性と衝動とに分裂したような感覚。そんな中で勇杜は、自分の口が気ままに垂れ流す罵言を聞いていた。
「俺はっ! ただの高校生で、日本人でっ! 戦いなんてしたことも無いんだよっ! お前ら異世界人の為に戦ってやる理由もだ! それを勝手な都合で呼び出して、弱かったら見下して……! なあ、お前は何様のつもりだったんだイルマエッラ? ああン!?」
「あ、う……」
「ははは、聞くまでも無かったよな? お前の親父はここの宗教のお偉いさんで、ご本人は聖女様だもんな!? 文字通りに違う世界の庶民のことなんざ、知ったこっちゃなかったんだろっ!! そうなんだろ、ええっ!? ……何とか言えよっ!!」
馬鹿だな、俺は。やはり他人事のようにそう思う。何とか言えと言われても、首を締め上げられ、柱に押し付けれているのだ。喋るどころか呼吸すらままならないだろうに。それにしても、これは所謂、火事場の馬鹿力というヤツだろうか。興奮で脳味噌のリミッターが外れた状態だ。ほっそりとした女とは言え、人一人を持ち上げているなんて、とても自分の腕力とは思えない。どうせならファントーニの奴と戦っている時にこうなってくれれば良かったんだが……。
思考が現実逃避を続けている間にも、肉体は止まらずに目の前の少女を苛み続けている。下手をすれば、このまま相手を殺してしまうのではないだろうか? そう思った瞬間、
「――とおっ!」
ゴキリ、と横合いから飛んで来た何かが顔にぶつかり、勇杜の身体は床に転がった。
「がっ!?」
「かはっ……けほっ、けほっ……!」
自分の上げる間抜けな悲鳴と、拘束を解かれたイルマエッラの咳き込む声を聞きながら、痛む身体に鞭打って立ち上がる。
廊下にはいつの間にか、新たな人物が現れていた。長い金髪をポニーテールに纏めた、長身の美女。顔立ちや体つきから二十代の半ばといった大人の女性であろうが、表情には溢れんほどに稚気が滲んでいる。そんな人間が長い脚を掲げ、ハイキックで振り抜いた姿勢で見事に静止していた。どうやらこの女性が勇杜の顔面を蹴飛ばして、イルマエッラを助けたらしい。
呆然とする少年少女を前に、唐突に現れた女はようやく蹴り足を下ろしつつとぼけた顔で言う。
「うーむ、よもや大聖堂の廊下で女司祭が若い男と痴話喧嘩とは……最近のオムニアは随分と進んでいるのだな」
毒気が抜かれるような、何ともズレた言葉である。
(次から次へと……何なんだよ、今度は?)
頬が腫れ上がっていくのを感じつつ警戒の視線を送る勇杜。そんな彼に向けて、謎の金髪女は面白がるようにニヤリと微笑んで見せた。
※ ※ ※
時間を十分ほど遡る。
勇杜と彼を追い掛けたイルマエッラが去った後の練兵場。ファントーニは彼らが通った出口の方をしばらく見つめていたが、やがて深々と息を吐くと手にした剣を放した。
「……本当に、他国の者には知られたくなかったな、アレは」
――ズンっ。
腹に響く重い音と共に、剣が地面にめり込む。
実は彼は、口にした制約以外にも通常より重たい武器を持つことをハンデとしていた……という訳ではない。何度も言うが、オムニアの聖騎士団は護法の為に大陸各国の騎士から選抜された選りすぐり。騎士の中の騎士が集う集団なのだ。当然、その訓練は極めて過酷である。例えば、訓練時には実戦で用いるよりも重く扱いづらい模造剣を使う、だとか。
勿論、同じ訓練場に区別無く置かれていた以上、勇杜が手にした剣もファントーニが使った物と同種である。聖騎士候補として意気揚々と初めての鍛錬に取り掛かった者が、あまりの重さに構えを崩してよろめくような、重い剣……。
衿宮勇杜は、知らずにそれを手に取って戦い、あまつさえその重量を「軽くて頼りない」とまで評していたのである。
「勇者の力、か」
オムニア皇国の武の象徴、聖騎士団長の呟きに、畏怖の色が混じる。
あの少年の恐ろしさは無自覚に発揮された膂力だけではない。試合の間、ファントーニが送ったアドバイスの数々。嫌々ながらそれに従った彼は、一撃ごとに威力と精度を向上させた攻撃を繰り出して来た。だがしかしだ。一体何処に、手本も反復練習も無しに、更には模擬戦とはいえ戦闘の最中、助言のみを頼りに技を覚え、使いこなせる者がいるというのか。
そんなことを可能とする人間を、人は使い回された言葉でこう呼ぶ――天才、と。
才を持つが故に勇者として召喚されたのか、それとも勇者として召喚された際に天から与えられたのか。いずれにせよ、彼が成長し力を蓄えた姿を想像すると空恐ろしいものがある。
本当に勇者の召喚を公表しなくて良かったと、しみじみと思う。今の大陸情勢は、火種の傍に置かれた油壷が如きもの。アルクェールの拡大、雪辱を期すザンクトガレン、虎視眈々と両者の間隙を窺うマールベア……こんな状況下でオムニアが魔王再来の危機を訴えたとして、まともに受け取る国がどれほどあるだろう。
ましてや、勇者という人間兵器を抱えたことを公表していたらどうなるか。アルクェールは同盟を盾に自分たちの陣営に組み込もうとするだろうし、ザンクトガレンも魔物の脅威を大義名分にやはり身柄を奪おうと試みるだろう。マールベア? あの国の連中は心底が知れない。良く回る舌に注した油を火種として、碌な事をしないだろうという確信だけはあるが。
そんな連中が犇めく中で、人類が国を越えて一致団結し魔の脅威に対して戦えると信じられるほど、ファントーニはお目出度くはなかった。第一、このオムニアでさえ政治的対立は、クレバスのような亀裂を刻んで人々の間を裂いているではないか。
頭が痛いことである。そして困ったことに、頭痛の種は勇者の扱いだけではなかった。
「……ところで貴公。覗き見などして、はしたないとは思われぬのか?」
練兵場を囲む壁、その一画へじろりと鋭い視線を送る。そこには壁の縁を足場として、青空を背に高みの見物を決め込んでいた女がいた。
「ふーむ、どうにも私の周囲には、そのように仰る年配の方が多くて困る。去年に一人減ったと思いきや、今年また一人増えてしまうとはな」
言いながら、ヒラリと飛んで地面に降り立つ女――エリシャ・ロズモンド・バルバストル。女性ながらアルクェール王国から推挙された聖騎士候補にして、実技面での比類なき優等生。そして学業面ではこれまた未曾有の劣等生でもある。
ファントーニは大股で彼女に近付き、険しさの増した眦で見つめた。
「バルバストル卿、あの少年についてのことだが――」
「いやいや、私はただ見ていただけ。猊下らが何を話しておられたかまでは、一向に聞こえませなんだな」
そう言い、斜め上方向に視線を泳がせるエリシャ。
嘘だな、と直感した。教練の時に回答で詰まった際と同じ反応である。その仕草の裏にあるのは、素直に答えるに憚りがあるという思いだろう。彼女が得意とする魔法は水、そして風。空気の震えを拾って遠くの会話を聞く程度は可能な筈だった。オムニアが勇者を召喚していたという秘事、それを既に聞き取っている筈だ
だが、この場ではその点を追求するのは止めておく。
「――よろしい。では、ここから先は独り言だ」
「はっ」
エリシャが飄げた態度から一転、流れるような所作で跪き顔を伏せ、こちらの話を聞く姿勢を取る。彼はそれを目端で認めると顔を逸らした。これから漏らすのは独り言、傍にいる人間は恭しく内容を伺う姿勢をしているが、それはこちらの関知するところではない、と。
「ユート・エリミヤ卿――あの少年は今、怒りと挫折感、そして当惑の只中にあるのだろう。望まずしてこの国に招かれた挙句、大任を押し付けられ、反発した挙句に叩き伏せられたところなのだからな。オムニア上層部への不信感は、相当なものであろうよ」
「ふむふむ」
何故か相槌が返って来るが、あくまで独り言である。
「そのような時、悪感情を吐き出す相手や共有できる者がおれば、どれだけ気が休まるのであろうな? おっと、そう言えばであるが、実力こそあるが学業面が評価されず、オムニアの聖騎士団で冷や飯を喰わされている他国人が何処かにいたような覚えが」
「そうですな。斯様な人物であれば勇者、……ゴホンっ、あの少年も心を開き易いのではと思います」
「拙僧としても、あの聖騎士候補のことは心苦しく思っておる。なまじ才覚があるだけに、不得手な面に足を取られて藻掻く様を見ているのは、少々じれったい。何ぞ手柄でも新たに立てれば、候補の二文字を外すに足る特例となるのであるが」
「成程成程。例えば、迷える少年の蒙を啓いて善導し、立派な若者に育てて見せるとか……ですな?」
勇杜と接触し、信を得て、親身に彼を鍛え上げよ。非公式なものではあるが、成功すれば正式な聖騎士叙勲という見返りはある――要するにそういう指令なのだ。
「枢機卿猊下も大変ですな。わざわざ憎まれ役を買って出られるとは」
「いつの時代も、若者とは憎らしい大人に立ち向かうことで成長していくものよ。……おっと、これは中年男の独り言であるぞ」
我ながら手の込んだことをしている、とファントーニは自嘲した。
そも、異世界の人間を召喚し、勇者へ任命して戦わせるというやり方には無理がある。実際、過去二回の召喚時にも大小の揉め事は存在したらしい。過去の教訓を無視して、エミリオ・カランドラが如き輩のように、見目良い娘を宛がってやれば言うことを聞かせられるだろうと楽観するなど愚の骨頂だ。いずれ感情面で拗れるのは目に見えている。
ならば、それを逆に利用すべきだろう。ファントーニが見たところ、勇者として呼ばれた少年は、幼いとはいえ一人の男だ。青さと向こうっ気を持つ若者とは、叩けば叩くほどに伸びる。無論、折れたり歪んだりといったリスクがあるのは百も承知。故にそうならぬよう、親身に接する指導者としてエリシャを向かわせるのだ。
(出来れば、イルマエッラ殿に任せたいところなのだが……)
まず無理だろう、と却下する。あの少女には召喚を実行したという負い目があるし、まだまだ若過ぎる上に世間知らずで経験不足。聖女としてのカリスマ性が発揮されるのは聖王教徒限定で、見たところ信心の類と無縁そうな少年を導くのは難しい。
「しかし、中々に無理難題を仰る。件の聖騎士候補とやらは己の思う通りにしか動かないと見えます。そのような奔放な人間に、将来ある若者を託してもよろしいのですか?」
ファントーニは、自分で言うな、という言葉を喉元で押し留める。
「窮屈な程に模範的な手合いより、多少は型破りな方が馬も合うだろう。あのくらいの若者とはそういうものだ」
特に今は、説教臭さも抹香臭さも御免こうむりたいと思っていることだろう。だから、破天荒の生きる見本とも言えるこの女こそが適任なのだ。アルクェール人であり、勘当同然とはいえ侯爵家の縁者というのが気にならないでもないが、本人の気質は政治から遠い。隔離しておいて知らぬ間に他者と接近されるよりは、取り込んで味方につけておくべきだろう。
「……さて、お互い仕事に戻る時間ではないかな。時に、だ。荒れた精神と体力とを持て余している若い男というのは、何をするか分からんと思わぬかね?」
「経験の浅い新兵にはよくあることですな。考えも無しに手近な人間、それも女に当たり散らす。もしも皇国の聖女様などに、その手が伸びたら大変ですな」
「バルバストル卿。『良い大人』としては、そのような過ちは矯めてやらねばなるまい。これは『悪い大人』からの忠告だ。……急げよ」
「ははっ」
言うや否や、エリシャの姿は風の如く掻き消えた。急いで勇杜らの元へ向かったのだろう。
一人残されたファントーニは、憂いに満ちた渋面で天を見上げた。
「若者らを、あたら謀り事に掛けてまで、焚き付けねばならんとは……主よ、貴方も罪深いことをお命じになられる」
きっと、己は死後、地獄へと落ちるだろう。その確信を得ても、彼は嘆息を一つ零しただけだった。
空は地に生きる者の思いなど知らぬげに、変わらぬ青さを湛え続けている。
※次回の更新は2月5日(金)、23時の予定です。




