077 見よ、勇者は来る
※ あなたが今お読みになっている小説は『ウロボロス・レコード~円環のオーブニル~』で間違いありません。
『――きっとあなたも、勇者になれるんです!』
とある休日、昼過ぎの繁華街、出し抜けに聞こえた突飛な言葉に少年は歩道を行く足を停めた。見れば電器店のウインドウ越しに、展示品の薄型テレビが、ワイドショーらしき番組を画面に映しているのが目に入る。映像の内容はインタビューか何からしい。テロップの文字に囲まれるようにして画面に収まる、色白な若い男。その顔は、確かここ最近で有名になったゲームクリエイターのものだと記憶していた。
『ヴァーチャル・リアリティ技術はここ数年で格段の進歩を遂げました。ええ、画期的なブレイク・スルーですよ、これは。遅くとも二十年以内には、ご家庭でもVRゲームを楽しめる時代が来ることでしょう。はい、必ずです!』
仮想現実。略してVR。前世紀の時代から概念だけはあったものだ。映像や音声を画面越しに観賞するのではなく、電気的な信号を直接脳に送ることで、それこそ現実の物事のように体感出来るという夢のインターフェイス。
現代の技術もここまで来たのかと感心はする。だが、
(勇者になれるんですって言っても、結局ゲームの中だけだろ?)
少年は皮肉げな感慨を胸中で弄ぶのだった。
「よう、衿宮。何見てんだ?」
不意に名前を呼ばれた少年は、画面から視線を切って背後を振り向く。相手は通っている高校で同じクラスに在籍する、友人の一人だった。
「田中か。これだよ、これ」
「何々? 『君も勇者に!? VR技術で変わる未来のゲームとは?』だって? 何だか珍しいなァ、こういう番組でゲーム業界の話すんのって」
「それだけ画期的な話題ってことなんじゃねえの? VRだし」
興味津々な様子で喰い付いてきた友人に、少年――衿宮勇杜は適当な相槌を返す。相手はそれに気付いた様子も無く、楽しげに話しを続けてきた。
「いっぺんやってみてェよなあ、VRゲーム。恋愛ゲーとかオタクっぽいからやったこと無かったけど、現実味のあるVRでってなると、俺もちょっと信条が揺らいじゃうかも」
「そうだな。楽しみなゲームだな」
そう、ゲームだ。どれだけ真に迫ったリアリティがあろうと、仮想現実は所詮仮想。本物の現実を前にしては一時の幻想、慰めに過ぎない。
(十年、二十年は先の話って……その頃には俺も社会人か。多分、普通にサラリーマンか何かにでもなっているか、下手すりゃそれすら無理でフリーターか。出来るなら時間を趣味に使える大学生の頃には発売してくれりゃいいのにな)
楽しみに思う気持ちはゼロではないが、それよりも無味乾燥な将来設計の方が先立って頭に浮かぶ。衿宮勇杜とはそういう少年だった。
勇杜は思わず考え込む。自分がこんな風になってしまったのはいつの頃からだったろうか。子どもの時――幼稚園や小学校低学年の時代は、もっと無邪気で素直な性格であったように思う。テレビや漫画の主人公に憧れ、スポーツ選手の活躍に夢中になっていた。目に映る全ての物が真新しくて、世界の全てがキラキラと輝いて見えていた時代。それが自分の元から去ったのは、いつのことだろう。
教室でルーチンワークのように勉強を詰め込み、クラブ活動のサッカー部では、プロを目指す訳でもなく大会で勝とうという気概も無く惰性で練習へと参加している。家に帰れば授業の予習復習を済ませ、周囲の流行から取り残されないよう、半ば義務的に週刊漫画誌のページを捲る。楽しみが無いということはない。不満も無い。無価値だとも思わない。だが、決定的に情熱や輝きに欠ける日常に、時折叫び出したくなるような衝動に襲われる。
特別になりたい。平凡な高校生である現在、平凡な大学生、平凡な社会人になるだろう未来。そんな誰でも成れるもの、誰でも出来ることを打ち捨てて、自分だけが為せる何かをやり遂げたい。まだ見ぬものを見てみたい。熱くなりたい。人生を懸けてでも邁進すべき目標が欲しい――。
(まっ、そんな物が見つからないから、ゲームだの何だのを代償に、自己満足しているんだけどな)
自嘲するように胸中でそう呟く。そんな本音、クラスメートの前で漏らしたら、もう良い歳なのに夢見がちだと、笑い者にされるのがオチだ。そういえば、こんな風に非日常的な願望を持て余す若者の事を、二十年以上前には中二病とか呼んでいたのだったか。中学二年生程度の年代にありがちな発想というのが由来らしいが、今の勇杜は高校二年。二、三年前には卒業しておくべき考えだろう。
気が付けば、番組は別のコーナーに移っている。どこぞの動物園でシロクマの赤ちゃんが産まれたとかいう、ほのぼのとはするが余り感銘をそそらない報道だ。二人の男子高校生は、どちらともなく電器店の前から離れ、連れ立って歩き出した。
「で? 衿宮はもしVRゲームが出来たらどんなのがやりたいのよ?」
と道すがら話題を振って来る級友。勇杜は少し考えてから答えた。
「やっぱRPGじゃないかな。どうせなら現実だと出来ないようなこと、やってみたいし」
「かーっ、駄目駄目! 最近のはムービーばっか観せられて遊んでるって感じしねェし、そうでないのもDLCっていうの? 課金して追加シナリオ買わないと話の筋が分かんねェのばっかじゃん。格ゲーとかスポーツ系とか、そういう動かしてるだけで楽しいのが安牌なんじゃね?」
「……そ、そうだな」
なるべく平静を装って返事をする。実は勇杜はRPGが好きだった。ゲーム中のイベントムービーを見たり、追加シナリオで「実はあのキャラの過去は――」とか「主人公たちが、とある中ボスと戦っていた頃、別の場所では――」とかいった舞台裏や隠れた設定を知ることが出来る物が特に、である。勿論、通常のパッケージのみでは話が成り立たない程に露骨な課金推奨であったり、実際のプレイ時間とムービーの再生時間の比率が極端に後者に偏っている代物には、遠慮無くクソゲーの烙印を捺すのであるが。
「あと、ファンタジーものとか正直飽き飽きだし。どれもこれも美形の主人公とか区別つかねー女の子とかばっか出ていてさ。異世界とか言われても、何買ったって似たような展開や雰囲気ばっかで――」
本音を上手く隠せたのも善し悪しか、友人はペラペラと批判めいた話を続ける。コイツとはもうゲームの話をしないようにしよう。そう心に決めた。悪い奴ではないのだが、どうしても趣味の合わない部分というものはやはりある。
あまり愉快な気分ではないので、多少強引に話題を切り替えることにした。
「異世界、ね。そう言えばさ、もしそんなのがあったとしたら、お前は行ってみたいと思うか?」
「全っ然」
即答だった。
「俺、普通の旅行とかも好きじゃねェし、違う世界とか言われても興味無いわー」
「ははっ。そんなのよりドラマの続きとかが気になる口か」
「て言うか、俺的には今の暮らしでけっこー満足な訳よ。わざわざ余所様に首突っ込むほど、刺激には飢えてねェっつーか――」
友人が、訳知り顔で続ける。
「――第一、別の世界に行ったからって、今より面白くなったり良いことがあったりするとは、限らねェじゃんか」
※ ※ ※
巌のように角張った拳が円卓に叩きつけられ、腹に堪える音を響かせる。列席した高位の聖職者と思しい法衣姿の男たち、その幾人かがビクリと身を震わせて一点へと視線を集めた。注視されているのは音を立てた拳の主、聖職者というよりは合戦で名を上げた武将然としている偉丈夫。大きく分厚い体躯を包むガウンは質素な作りであるが、首から提げたストラ――聖職者の権威を示す長い帯――の存在から、余程高位の神官であると知れた。
その厳めしい顔は、剣呑な眼光を走らせると共に奥歯を噛み潰して強張っており、聖人らしからぬ激しい怒りの念を覚えていると見える。
「……今、何と仰ったのだ? エミリオ・ラザッロ・カランドラ僧兵団長」
声は存外に静かであったが、沸々と湧き出る溶岩めいた熱と震えを孕んでいた。奔騰する寸前の憤怒を辛うじて堪えている。耳にした者はそんな印象を抱き、もしその感情が爆発したらどうなるものかと怖気を感じざるを得ないだろう。
しかし、その言葉を向けられた張本人は、小馬鹿にするように鼻を鳴らして肩を竦めると、皮肉を込めた笑いと共に返答した。
「おやおや。御坊としたことが、耳が遠くなられたかな? ジャンフランコ・パオロ・ファントーニ聖騎士団長殿」
ねっとりと耳朶を這う蛞蝓を連想させる粘着質な声に、悪意を持つ冷血動物が擬人化したような下卑た目付き。煌めきが目に痛い白というよりは銀色の分厚い法衣といい、祭礼でもないのにこれ見よがしに被った司教冠といい、正に絢爛たる聖人のいでたち。なのに、先述したような負の人間性ばかりが印象に残る貧相な小男である。
権威の象徴で自らを飾り立てた男、エミリオ・カランドラ僧兵団長は、邪な愉悦もあからさまな表情で言葉を続けた。
「三百年ぶりに勇者召喚の儀を執り行うべきではないか。そう申し上げたのですよ」
「ふざけたことを申すでないっ!」
怒声と共に再び、今度は両の拳がテーブルに叩き込まれた。円卓の間を震わせたのは声か、はたまた打撃の余波だったのか。怒れる聖職者、オムニア皇国聖騎士団長を兼任する枢機卿ファントーニは、激情の余り腰を浮かしながら捲し立てる。
「勇者とは、そもそも魔王討伐の聖戦が為に呼ばれる異界の戦士ではないか。それを確たる兆候も無しに召喚するだと? 貴様、三大国を纏めて敵に回す気か!?」
「お、落ち着かれよファントーニ殿」
隣席の枢機卿が両掌を向けて宥めるように声を出した。
「これなるは神聖なる枢機卿会議の場でありますぞ。激することなく、静謐を保って議論を為されるべきかと」
「ぐむむっ……」
その言葉に、ファントーニが口を引き結んで唸り、カランドラはそれ見た事かと唇を吊り上げる。
イトゥセラ大陸が四大国が一角にして最古の国、そして聖王教の総本山であるオムニア皇国。国家、そしてそれと不可分の存在である教団の方針を決定づける場が、この枢機卿会議だ。出席者は国と名を同じくする皇都オムニアにて、それぞれ枢要を占める十八人の枢機卿たち。十八という数字は、聖王昇天の際に地上へ残された使徒の人数にちなむ。太古の聖人に倣い、イトゥセラの大地と信徒たちの命運を決める重要な席という意味合いを会議に与える意図があるのだ。
そんな厳粛な場にそぐわぬ風体の男、エミリオ・ラザッロ・カランドラ枢機卿。彼の提唱した勇者召喚実行の可否という議題が、今回の会議を紛糾させている。
「やれやれ。私の提案は、そもそも御坊の危惧された事態への対策である筈なのだがね?」
「然り然り。アルクェールとザンクトガレンの戦争、そして戦場に現れたという魔物の軍勢。そも、開戦の遠因は東方で生じた魔物の異常発生にある」
「アルクェール国内でも、A級の冒険者パーティですら生還の叶わぬ新たなダンジョンが現れたとか。これだけの凶事の連続、尋常ならざる出来事の前触れと取るのも不自然ではないでしょうに」
カランドラとその賛同者たちが、口々にファントーニを論う。普段から僧兵団らの慎重居士な姿勢を指弾し、近年の大陸情勢が不穏であること、より強く諸国へ介入することを強硬に主張していた男が何を。そのような趣旨であった。
「その対策が極端であるというのだ……!」
強面の聖騎士団長が、苛立ちの滲む低めた声で反論する。
「勇者の力とは、妄りに振るうべきものではない。現世にあっては諸国の均衡を崩しかねぬ程に強大であるのだ。魔王復活の確たる証も無しに召喚して何とする!?」
「ファントーニ殿の言こそもっともかと。勇者とは天上の主が地に遣わす使徒。悪戯に呼び出すべきではないというのが、正論でありましょう」
「いや、まったく。第一、魔王の復活は人心の乱れに端を発すると相場が決まっておる。まずは民に教えを説き、世に和を広めるのが先決にして本道かと存じ上げる」
召喚反対派の目は、揃って推進派の中心であるカランドラを非難する色が仄見えていた。枢機卿の特権を濫用して俗悪な贅沢に塗れ、その癖今の今まで聖俗の壁を理由に国外への介入に及び腰であった者が、今更になって言う事か、と。
(大方、勇者の武力を取り込むことと、召喚という大儀式を差配することで己が立場を強化する心積もりであろう。腐れ売僧めが……)
厳しい表情で対面の席に座る政敵を睨みつけるファントーニ。彼は昔からカランドラのことが気に入らなかった。権力に飽かせて財貨を貪る性根といい、かつて隣国アルクェールの陰謀家に踊らされ勝手に外交関係を深めた軽率さといい、またその事例がありながらも先の戦役では頬かむりを決め込んだ不義理さといい、質実剛健なるを好むファントーニとは反りが合わないこと甚だしかった。宗教家としては俗の面が強過ぎ、政治家としては私の面が表に出過ぎた小人物……それが【灰色の枢機卿】ことエミリオ・ラザッロ・カランドラという男であった。
では、何故そのような人間が聖王教団枢機卿の椅子に座っているかというと――、
「ふむ。では、どうして私がこの壮挙を諸兄に諮ったか? その理由を開陳しようではないか」
パチン、と気取ったように指を鳴らす音。それを合図に会議の間の扉が厳かに開かれる。
「失礼いたします」
鈴を鳴らすような、という形容がしっくりとくる耳に心地良い声。背を張り姿勢を正しながらも、楚々とした奥ゆかしさの匂う佇まい。そして白百合にも喩えるべき花の顔。一見すると長年の功徳を積んでこの地位に至った聖職者たちの会議には、似つかわしくない若い女……いや、少女だった。
供の僧兵を連れて入室してきた娘は、些か奇妙な服装をしている。額を飾るサークレットは別として、首から下の露出を隠すような青の尼僧衣、そこには何かを厳重に封じるようにホーリー・シンボルや聖なる文言の記された護符が、幾枚も貼り付けられていた。そして彼女が歩を進める度、いや未熟な胸が呼吸に上下する度にも、儚い明滅を繰り返している。
「イルマエッラ・オレリア・カランドラ。僧兵団長のお招きに応じ参上仕りました」
身に宿す法力の強さ、莫大さ故に、幾重にも封印を施さねばならないという破格の聖性を宿す姫巫女。それが彼女であった。そして何の因果か、名乗った姓が示す通り、この少女こそ僧兵団長エミリオ・カランドラの娘なのである。
(相も変わらず、似ても似つかぬ父子よ)
教団中の軽侮を買いながらもふんぞり返る父に対し、絵に描いたような聖女ぶりを示すその娘。何かの冗談のような対比に、ファントーニは目眩を催す。実際、この親子は全てがまるで正反対だった。イルマエッラが教団史上空前とも言える法力を宿すのに対し、父のエミリオは凡百の僧兵にも及ぶかどうかという力しか持っていない。カランドラ家は三代前に教会上層部の権力争いに敗れて没落した元名家。それが稀代の法力を持って生まれた娘を売り込み、聖女に祭り上げることで返り咲いたというのが実情だった。僧兵団長の職も枢機卿の位も、親の七光りならぬ娘の七光りという訳である。
だがそれは同時に、このような措置を取らねばならない程に、イルマエッラの影響力が強いということも意味していた。
娘の威光を笠に枢機卿の椅子を尻で温める男は、尊大な口調で命じる。
「我が娘よ。聖騎士団長殿を始めとするお歴々に、お前の知るところを聞かせて差し上げるがいい」
「……はい」
自身を政争の具にされていることに何をか思ったのか、微かに表情へ陰を落としつつも従容と肯くイルマエッラ。その姿には、ファントーニらのようなカランドラに反発を抱く者たちも胸を衝かれる思いを味わう。何度も言うが、この父子は何から何までが対称的だ。親が権威と権力を恣にする俗物なら、子である彼女は一途な程に敬虔な信仰者。それが血の繋がりという一事のみで、下衆の専横に利用されていることに、世の儘ならなさを感じずにいられない。
ともあれ、皇国の聖女の述懐が始まった。
「先のアルクェールとザンクトガレンの合戦より、私は毎晩悪夢を見るのです」
「悪夢、とな?」
出席者の一人が、眼を瞬かせながら反芻する。
「はい。西の最果て、砂漠を越えた先の地。彼の地より不浄の青い炎が立つ光景を見ました」
俄かに広間をざわめきが支配した。
西の半島。果てしない砂漠が広がり、屈強な魔物が蔓延る禁断の地。そこはかつて、イトゥセラ大陸全土を脅かした最悪の災厄――魔王が君臨していた場所である。
魔王の存在が初めて歴史に刻まれたのは七百年前。聖王の昇天により人類が加護を得、魔物の駆逐が進むようになってから三百年ほど経った時代のことであった。当時、オムニアは北進を続け、現アルクェール王国領を支配し、北海に浮かぶマールベア諸島の諸部族を服属させ、大陸の統一国家として繁栄の絶頂期にあった。人類が魔物に滅ぼされんとしていた時代はとうに過ぎ去り、地の果てどころか海の向こうまで聖王教の威光が行き渡っていた頃である。当時、神聖オムニア帝国への編入と教化が進んでいた西の半島にて、突如として魔物が大発生。瞬く間に現地の民を、オムニア本国から派遣されていた騎士や神官を、エルフやドワーフも、家畜も野の獣も、鳥も魚も草花すら――闇の存在の爪牙に掛かって殺し尽くされた。その日、人類は世紀を越えて思い出す。かつての神の加護無き時代、自分たちが滅亡の危機に瀕していた時の記憶を。そして無尽蔵の魔物の中心にあって、人類亡滅の呪詛を唱えながら、邪悪の尖兵たちを支配していた存在。それが魔王だった。
魔王との戦いは熾烈を極めた酸鼻なものであったと史書に残されている。傘下にあった強大な魔物たちは従来のそれとは異なり知性を持ち、喰う為でも身を守る為でもなく、嬲り虐げ殺す為に人間を襲った。ゴブリンやオーク、オーガといった、亜人種の中でも特に野蛮な者どもも麾下に収まり、闇の洗礼を受けて魔物となったという。オムニアの送った討伐軍は、その軍勢と三度戦って三度とも大敗を喫している。
最終的には当時の皇女に召喚された最初の勇者が、魔王と相討ちになり命懸けで封印することで混乱は平定されたが、旧オムニア帝国は深刻な弱体化の時を迎えることになった。戦災による被害は言うまでも無く多大である。のみならず、戦場から帰ることの無かった夥しい戦死者たちの中には、神聖な血統から高位の神官を兼ねていた為に従軍していた、オムニア皇族たちも含んでいたのだ。魔王討伐から百年ほどで旧オムニアの皇統は断絶し、皇帝の臣下であった諸王は独立。神聖オムニア帝国は崩壊し、かつての統一政権の領土はその発祥地である半島を残すのみとなった。
人類滅亡の危機にして旧神聖帝国崩壊の元凶。それが魔王なのである。
「貴女の見た夢が、魔王復活の予兆であると?」
「畏れながら、そうであると申し上げます。正確には魔王の僕たる魔族であると思われますが」
「魔族……!」
またもや動揺の小波が諸人の間に走った。
魔王の手足であり、その復活の為に暗躍する高位の魔物を魔族と呼ぶ。主へと捧げる目的で人間を唆し堕落させ、生贄となる魂を奪う悪魔。極大の破壊を齎し数多の人命を喰らう邪竜。どれをとっても冒険者たちが相手取るような魔物を超えた、規格外の怪物どもである。
「前回見られた魔王復活の予兆は三百年前……その折りは、当時の勇者が魔族を討ち果たすことで復活の阻止に成功したのであったな」
「とはいえ、魔族――中でも指折りの怪物である四魔将の恐ろしさは侮れぬ。ザンクトガレンの成立を座視することになったのも、あの戦いでアルクェールが衰微したが故であるからな」
「では、目覚めておるのが配下の魔族のみである内に、先んじて勇者を呼び出しておくと?」
「……それも致し方無しか」
議席に着いている者たちの視線が、さっと一点に集まる。勇者召喚の儀も致し方無しと、反対派の急先鋒であった筈のファントーニが口にした為だ。当然、彼に同調していた反カランドラ派の枢機卿たちは不快げな色を目に浮かべる。
「しかしな、聖騎士団長。所詮は女子供の夢見でありますぞ?」
「左様。根拠とするには些か薄弱に過ぎるかと」
ここに来てファントーニに翻意されては、恥ずべき【灰色の枢機卿】エミリオ・カランドラをますます調子付かせることになるではないか。如何に聖女と名高いイルマエッラの言うこととはいえ、結局はあの男の娘であろう。これもエミリオの立場を強化するための方便に違いない。なのに譲歩しようとは、相も変わらず娘の方には甘いことだ、絆されでもしたか? ――声にならない言葉が、そう言っているようであった。
が、聖騎士団長の岩から削り出したような顔は小揺るぎとてしない。
「無論、夢がどうのという理由では掛かる大儀式を執り行うには不足。が、聖女イルマエッラに託宣が下ったことは一度や二度ではない」
実際、先立ってのザンクトガレンにおける魔物の大量発生も、彼女は事前に予知していた。森から魔物が溢れて人々を襲う、東の黒い森から死が押し寄せて来ると、不安に涙ぐんで訴える彼女の相談に与ったのは、何を隠そうこのファントーニである。
「……かつては、それもどこぞの誰かに握り潰された気がするがな」
言って、対面の席でほくそ笑んでいる男を睨み付ける。東国への介入に己への利分無しと見切ってか、自身を高みに押し上げた功ある実の娘の言葉を、戯言と切って捨てた過去のある男を。
流石にこの返しには勝利への確信に瑕疵を刻まれたと思ったか、エミリオ・カランドラは醜悪にその細面を歪める。
「そのような過失を悔いたからこそ此度の提議であります。斯くも揚げ足を取られるとは、少々不愉快に――」
「なればこそ」
娘の尻馬に乗るだけの木端から視線を切り、ファントーニは続けた。
「なればこそ、彼女の見た悪夢が単なる夢か、それとも真に託宣であるのか。この点を確定しておく必要がある」
「――と、言いますと?」
「次の満月、儀式を行い正式に託宣が下るのを希う」
複数の神官の祈りを捧げて天上の主に願いを届け、託宣という奇蹟が示されるよう計らう。その内容がイルマエッラの夢と一致すれば、改めて勇者召喚の件を進めれば良い。不用意な勇者召喚は慎むべきであるが、魔族の跳梁を座視するのはそれ以上に忌むべき。ならば召喚の必要性をより確実なものとするのは、当然の成り行きだった。
「また祭祀は、公正を期すために誰ぞ中立の者を立てる必要があるかと思うが、如何か?」
そして託宣の内容が歪められることのないよう、推進派でも反対派でもない者に儀式の差配を担当させることもだ。
「ふんっ……妥当な線かと」
苛立たしげに鼻を鳴らしつつ言うエミリオ。恐らく、ファントーニが強硬に反対するだろうと見越し、その時は自分から言い出して、こちらの儀式でも主催者にならんと企てていたのだろう。愚かなことである。最初から娘が託宣を受けたかもしれぬと切り出しておけば、とっくの昔にそのような運びで会議は決着していたのだ。ファントーニら反対派を炙り出すか吊るし上げるかを目論んで、論拠の後出しなどというせせこましい真似をするから、こうなるのである。
胸が空く思いに鼻息を荒くしつつも、いかんいかんと軽く首を振るファントーニ。政敵の失態に暗い優越感に耽るなど聖職者の、ましてや聖騎士の長にして枢機卿の座を占める者の振る舞いではない。彼は咳払いを一つして気を引き締めた。
「ゴホンっ……我ら二人は合意に達したが、諸卿らには異存はあるか?」
「いえいえ、滅相も無い」
「他ならぬ聖騎士団長殿と僧兵団長殿らが共に推されるのです。何をか口を挟む必要が御座いましょう?」
「左様」
「託宣の儀の結果はどうあれ、オムニアが世の乱れを危惧していることは諸国に周知させるべきでしょうな」
「然り然り。近年は富みに人倫に悖る行いに耽る輩の多いこと。例えば先立って侯爵に列されたアルクェールの――」
内心はどうあれ、他の出席者たちも賛成し、全会一致で提案は可決された。
後は次の満月に行われる託宣の儀、その結果次第である。
「あらかじめ断っておきますが、勇者召喚の提案を行ったのは私ですぞ? その点につきましては、どうかよくお憶え頂きたい」
エミリオは会議の終わり際にそう念押しする。発案の功績を主張することで、後に行われる勇者召喚の儀式の主座を占めようというのだろう。何しろ、執り行われるのが三百年ぶりという大儀式だ。余程にその大任を受けたいらしい。
「……ああ。御坊がその儀を遺漏無く為し遂げようとご執心であることは、よく記憶しておく」
思わず、皮肉な言葉が口の端から割って出た。果たしてそんな大事な儀式を、法力に劣り功徳も乏しい生臭などに、任せても良いものなのであろうか? と。
「っ! 失礼する……!」
言われた相手は、余程に堪えたのか顔色を紅潮させて身を翻す。溜め息を漏らしつつそれを見送っていると、
「あの……いつも父がご迷惑をお掛けして、申し訳ありません」
おずおずとした声で言い、ぺこりと頭を下げるイルマエッラ。
「……構わん。そちらこそ、私など及びも付かぬほど苦労しておろう」
「い、いえ。そんなことはない、です」
少女は萎縮し切って困ったように視線を足元に落とす。聖女だ何だと持ち上げられながら、彼女もまだ十代の半ば。公務から離れると、ふとした瞬間に内気で弱々しい子どもの顔が覗き見える。
(このようにいたいけな娘へと重責を押し付けねばならんばかりか、下らぬ争いの出汁にするとは……)
改めて彼女の立場の難しさと、その父親の愚かさを噛み締める。そして己の立場では、イルマエッラをフォローするにも限界があるということも。何しろ、ファントーニは彼女の父カランドラの政敵なのである。多少の親切を施した程度で要らぬことを騒ぎ立てる連中は幾らでもいるのだ。
(もしもイルマエッラの言に偽りが無くば――いや、嘘の言えるような娘ではないから、まず真実だろうが――人類は再び危機に陥ることとなる。なのに救世の総本山オムニアでさえ、この様か)
魔族調伏、勇者召喚ですら政治のパワーゲーム、その手札の一枚となる現状。それを思うと、豪胆で鳴らす聖騎士の長とて一抹の不安を禁じえない。
(……果たして勇者を呼び出したとして、無事に魔王復活を阻止することが出来るのか?)
声に出されることの無い疑問は、分厚い胸板の下でいつまでもとぐろを巻き続けていた。
一週間後、魔王の眷族たる魔族復活の予兆は正式に託宣として下され、ここに三百年ぶりとなる勇者召喚の儀が執り行われることとなる。
※ ※ ※
道すがら、二人の話題は学校の課題についてのものへと移り変わっていた。
「――マジでたりィよなー、日本史の吉永センセのレポート。『いいですかぁ? ネットからの丸写しでは駄目ですよぉ~。大学に進学したらぁ、ちゃんと図書館で調べ事とかしなきゃいけないんですからねェ~』……なんてよ」
しなを作り、無駄に間延びした裏声を使って言う友人。どうやら今年赴任したばかりの女性教諭を真似たつもりらしい。
勇杜はげんなりとした表情でツッコミを入れる。
「悪い。全っ然似てなかったわ、今の」
「ははっ、やっぱし? うむ、もう少し色気が必要か」
「お前が色気出すなよ……で、その課題なんだけど、お前は何を題材にするんだ?」
レポートの課題は『江戸時代の郷土史』。博物館や図書館に取材して、この町の歴史について調べ、小論文を書き上げよ、とのことだ。高校の日本史の授業にしては少々敷居が高く感じる。今年の日本史担当は、新任らしい熱意が空回って、こうした課題の難易度を上げ過ぎる悪癖があるのだ。
クラスメートは少し考える素振りを見せてから言う。
「うーん、ここら辺で江戸時代にあったことと言えば……例のキリシタン武士が大暴れしたって話? それとか題材として無難っぽくね? 何て言ったっけな、そいつ」
「ああ、吉谷主水のことか」
返す言葉に少々苦みが混じる。勇杜もその人物を題材に書こうと思っていたのだ。
吉谷主水は三百年ほど前、この近辺で事件を起こした侍の名前である。ある時、仕えていた殿様の下から前触れも無く姿を消し、一年近く行方をくらました。そしていなくなった時と同様に、突然戻って来たかと思うと、彼は以前とはすっかり様変わりしていたという。十字架にも似た金の首飾りを提げ、南蛮式と思しき甲冑で身を固めた姿。主水はキリシタンになっていたのである。
殿様は激怒した。無断で逐電された恥辱もあったが、それ以上にキリシタンへ被れられた衝撃が大きい。当時の日本は江戸幕府の鎖国体制の下、禁教令を布いていた。キリスト教はご法度である。もし家臣の中からキリシタンが出たとお上に知られれば、領地の召し上げや御家取り潰しもあり得るだろう。殿様は家臣から腕利きを選りすぐり、主水の暗殺に踏み切った。
凄まじいのはこれからである。
「聞いた話だと、殺しに来た相手を十人だか二十人、揃って返り討ちにしたらしいけど」
子どもの頃に祖父母から聞いた昔話を思い出しつつ言う。
藩から差し向けられた刺客は、必殺を期して十人以上。それが悉く主水の振るう二刀に掛かって討ち死にしたと伝わっている。姿を消していた間にキリシタンとなっただけでなく、何処の誰に師事したものか、武芸の腕前も桁外れに高めていたのだ。
吉谷主水は槍や刀では止められなかった。その最期は火縄銃まで持ち出してようやく撃ち殺せたとも、肩に鉄砲傷を負いながらも追跡を振り切り、長崎まで逃げ南蛮船で国外に脱出したとも伝わっている。勇杜としては前者の方が信憑性が高いと思う。現実的に考えれば、武士が鎖国を破って亡命するという大事件など、本当にあったとしたら郷土史どころか日本史の教科書にも載る筈だ。そうなっていないということは、やはり鉄砲には勝てず、あえなく殺されたというのが真相ではないだろうか。
「二刀流で十人斬りとか、あり得ないよなァ、ふつー。どこの無双ゲーだっつーの」
「ま、派手な事件ではあるよな」
「レポートの題材としちゃ申し分無いわな。けど、ここら辺の昔話としちゃ有名過ぎだろ? 他の奴らと被りそうなのがちょっとなァ……」
「そうだな」
実際、勇杜も丁度同じ題材を選ぼうとしていたところである。あの先生のことだから、似通った内容のレポートなどを上げれば減点の対象にされるだろう。それを思うと頭が、
――ズキリ。
頭が、痛い。
「? どうしたのよ、衿宮」
「いや、ちょっと頭痛が……」
こめかみを押さえて、立ち止まる。不意に生じた刺すような痛みに、勇杜はよろめいた。友人が気遣わしげに背中を支え、すれ違い様の通行人が何事かとこちらに視線を寄越す。そうする間にも苦痛はますます酷くなっていった。視界が眩み、冷や汗が吹き出て、キィンと甲高い耳鳴りが鼓膜を刺す。膝に力が入らず、最早立っていられなくなる。
「おい、大丈夫かよ、おいっ!? 本当に具合、ヤバそうだぞ? 救急車、呼ぶか!?」
「ぐ、あ……」
友達の声が遠い。肩を揺さぶりながら耳元で喋られている筈なのに、まるで広い川の向こう岸から呼びかけられているようだ。そうこうしている間にも、変調は更に進んでいく。目の前が白い光で一杯になり、何も見えなくなる。頭痛は悪化して、脳味噌をスプーンで掻き混ぜられているかのように気分が悪い。
そんな中で、
≪応……たまえ……≫
誰かの声が、聞こえた。
傍にいる友人のものではない。高く、涼やかで、耳にしているだけで心の安らぐような、少女の声だ。
≪我が求めに応えたまえ。遥けきところにおわす者。聖王の加護を担う者よ。汝、招来に応じるをよしとするならば、その声を上げ我に応えたまえ……!≫
声の主は切々と訴えかけ続けている。応えよ、と。声を上げ呼び掛けに応じよ、と。
勇杜は迷った。果たして、この声に応えて良いものだろうか。吐き気を催すほどの頭痛に、立ち上がることも出来ない脱力感。これは急な失調に伴って生じた、ただの幻聴では? そんなものに応答するより、今も傍で心配してくれている筈の――知覚が混乱して周囲の状況が分からない――友人に、大丈夫だと言ってやって安心させた方がいいのではないか? 彼の中の常識が、非現実的な現象に拒絶の思いを抱かせる。
だが、
≪お願いです、どうか――≫
そんな思いも、脳裏に響く声が泣き濡れたような哀切を帯びた瞬間、融けて消えた。
「誰、だ……? お前は、誰なんだ……?」
息も絶え絶えに声へ向かって告げた瞬間である。白光に満ちた視界の中に、変化が生じた。
宇宙そのものが渦巻くような、煌めきを帯びた暗紫色。まるで空間そのものに空けられた穴だ。勇杜はそれを『門』のようなものだと直感する。此処と何処かを、現実と非現実の間を隔て、そして繋げる門であると。
≪手を……伸ばして。私の手を、取って……!≫
呼び掛けは、祈るような響きから縋るようなそれへと変わっていた。或いは、定型を守る儀礼ばったものから、純粋でひたむきな願いを吐露するものへ。彼はその意味を考える前に、反射的に『門』へと右手を伸ばし――、
――その瞬間、世界が変わった。
まず感じたのは、右手が誰かの柔らかい手に包まれた感触。次いで跪いてる地面が、砂利混じりでざらついたアスファルトから、磨き抜かれて滑らかな石のそれに変わっていることに気付く。そして何より空気が違う。自動車の排気ガス、過多な人口の齎す雑多な人いきれ、そんな都会らしい匂いや味の無い清澄さを、初めて味わった。
(どこだよ、ここ?)
若干の怯みを感じつつも、いつの間にか固く瞑っていた目を恐々と開く。
……目の前には、天使がいた。白百合を思わせる清楚かつ可憐な顔立ちに、気品を湛えた表情。今まで暮らして来た二十一世紀の日本では見たことも無い、浮世離れ――いや現実離れした美貌を持つ少女である。彼女の背中に翼があるかどうか、一瞬本気で確かめたくなったほどに。
「……Υιβγη δΛωεσαμ?」
天使が口を開き、気遣わしげな声を漏らす。勇杜には、彼女が何を言っているのか、何処の言葉なのかすら理解出来ない。天使らしく天上の言葉なのだろうか。ただ、その声は何となく、先程まで聞こえていた声と似ているような気はした。
「えっと、ここはどこ? 君は一体?」
戸惑い気味に問うと、少女は意外そうにパチクリと目を瞬く。その人間的な仕草に、天使のように思えていた相手が一気に身近な少女である風に感じられた。悪い意味ではない。寧ろ、可愛らしくて好感と親近感が湧くように思える。
「Δτρ,Гξολμ Θνζψγ……」
また理解不能な言葉で囁かれ、同時に少女の目を伏せた顔が少しずつこちらに近付いて来る。互いの口唇の高さをピタリと合わされて。このままでは、ひょっとすると、もしかして、所謂――
……チュ。
――小さく、濡れたような音を立てて、柔らかい部位同士が熱烈に触れ合う。
(キ、キスっ!? 何で!? 俺が、こんな女の子と、会ったばかりでそんな、ええっ? な、何でっ!?)
突然の成り行きに目を白黒させる勇杜。普段は一丁前にクールさを気取っている彼だが、女性と深い仲になった経験は無い。ましてやその相手がこの世に実在するとは思えない美少女で外国人(?)となれば、尚更だ。
が、初心な少年に初めての経験を堪能する猶予は与えられなかった。
「ん、む、んんっ……!?」
口付けを通して、見えない何かが身体の中に、頭の中へと流れ込んで来るような感覚。声が、文字が、知識が……言葉が、本人の学習に依らず超自然的な力で刻み込まれていく。得も言われぬ感覚の奔流がやがて収まると、それを見計らったかのように結びついていた口唇も離された。
「んっ……如何ですか? 私の言葉が、お解りになりますか?」
「え、ええっと……う、うん。え、何? 実は日本語話せたのか?」
ファースト・キスの直後とは思えない、素っ頓狂な感想を漏らしつつ、自然、彼の視線は先程まで自分と触れ合っていた少女の唇を追う。
そして、気付いた。
「ニホンゴ? それはもしかして、貴方様のお国で使われていらっしゃる言語なのでしょうか」
(唇の動きが……?)
勇杜の耳に聞こえる彼女の言葉と、その唇の動きが全く繋がっていない。まるで洋画の吹き替えだ。実際の映像に後からアフレコで声を入れたような光景。
(ひょっとして超ハイテクな同時通訳か何か? もうすぐVRも実用化だって言うもんな、そんな技術が発明されていたって不思議は――いやいや、大ありだろ。声に出して時間差無しに日本語で聞こえているし、逆に元の言語で喋ってる声はどうして聞こえないんだ? ていうか、俺だってイヤホンとかそんな機器を身につけてない。……じゃあ、目の前で起こっているこれは、何なんだ?)
くらりと目眩を感じる。先程までの何かから無理矢理に干渉を受けていたそれとは違う、純粋に内心の混乱から生じたものだ。
勇杜の変調に気づいているのかいないのか、少女はどこか陶酔したように目を潤ませながら彼の傍に跪く。
「……ともあれ、ここに契約は結ばれました。改めまして、お招きに応じて頂き感謝いたします」
「は? 契約? いやそれより……招い、た?」
陶酔も混乱も、頭から冷水を浴びせられたように消し飛ぶ。それでは、やはり街中で聞こえた声の主は彼女なのか。
「御身を御呼び奉り跪きますは、オムニア聖王教会高等女司祭、イルマエッラ・オレリア・カランドラと申します。畏れながら、ご尊名を伺いたく存じ上げます」
「……ゆ、勇杜だ。衿宮勇杜。えっと、外国の人にはユート・エリミヤって言った方が良いのか?」
戸惑いながらも、そう名を告げる。イルマエッラと名乗った少女は、ますます頬を紅潮させながら続けた。
「ユート・エリミヤ様……ご尊名、確と承りましてございます。何とぞ、どうか何とぞ――」
「――魔王の脅威からこの世界をお救い下さいませ、勇者様」
「………………はっ?」
現実感を欠いた単語を飲み込めずに、間抜けな声を漏らしてしまう。
この女の子は何を言っているんだ? 魔王とは一体? そして、勇者とは自分のことをそう呼んだのか? こう考えたくはないが、ひょっとすると頭がおかしいのか? ゲームやアニメと現実との区別がついていないのでは?
そして同時に、狼狽しながらもようやく周囲の様子を見渡す。自分たちが立っているのは白石で造られた祭壇。それが置かれている場所は、ドキュメンタリーで見た海外の大聖堂のような立派な教会らしき建物の中。何処をどう見ても、先程まで級友と歩いていた日本の街並みでも、倒れた後で運ばれた病院にも、ましてや夢から覚めた後で見える自分の部屋の光景ではない。
急に変わってしまった景色。聞いたことも無い言語が唐突に日本語として理解出来てしまう現象。……そして自分を勇者などと呼ぶ謎の少女。
様々な要素を叩き込まれた思考回路は、やがて馬鹿馬鹿しいほどに突飛な答えを、少年へと齎した。
もしかして、自分は――、
(――俺は、異世界に来てしまったのか?)
こうして第三の勇者ユート・エリミヤは、イトゥセラ大陸へと降臨した。
三百年前、そして七百年前の先達と変わらず、深く色濃い困惑に支配されたままで。
 




