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069 アジテーター

 

 アルクェール王国ヴォルダン州ヴォルダン市。

 石造りの壁で周囲を囲まれたオーブニル家二百年の采邑(さいゆう)は、この歴史ある国では平均的な地方都市である。豊かな大地の実りを元に陸上交易の拠点として栄え、発展し、そして停滞した。古ぼけていて、どこか牧歌的な街。

 平時であればこの時期には、特産物である葡萄やワインを買い付けに来た商人、秋の収穫祭をささやかな楽しみとする農民たちの祭りの準備の買い出しなどで賑わう頃だろう。

 しかし、今は違った。

 隣国ザンクトガレン連邦王国が国境の山脈を兵を挙げて突破。州内の各所を制圧し、略奪を働いている最中である。当然、州内の民は安全を求めて避難を始めた。その最有力の駆け込み先は、この州都ヴォルダン市だ。頑丈な城壁、領主直轄の兵隊、備蓄された食料から割かれる食事。そんな物を目当てに、ヴォルダン州中から避難民が集まって来ている。

 当然、集まって来られたところで、市の側に受け入れの余裕など無い。ヴォルダンの防備は本来、人を襲う野生の魔物に対しての物。森や山から散発的に平野部に迷い込んで来る、ゴブリンやオーク、コボルトやオーガなどを相手取る為の物だ。後は、他ならぬ農民たちの一揆などか。想定される敵勢の数は、いいところ千といったところ。籠城策を採るとしても、万余の軍勢に何週間何ヶ月と攻囲されるなど、想定外も大概なものであった。

 確かに食い物はある。麦の収穫期であるのだ、敵に略奪される前に手早く畑から刈り入れてしまえば、当座の食糧には事欠かないだろう。

 しかし、人を住ませる場所は無い。

 そも、こうした城塞都市というのは、一朝事あった時に敵兵や叛徒に占拠されることを防ぐ為、敢えて入り組んだ造りになっている。また領主にその気が無くとも、城壁の中で建物を新しく建て壊しする内に、自然と市内は複雑化し狭隘(きょうあい)になっていく。初めに言った通り、ヴォルダン市はこの国では平均的な地方都市だ。アルクェール王国では――いや、この大陸では――大概の城市はそうなっているものであり、それらの特徴はこのヴォルダンにもそっくりと当て嵌まる。例外は国の顔であり諸外国の目にも触れる、王都ブローセンヌのような華やかな大都市くらいだろう。

 そんな込み入った構造の狭い都市に、許容量を超えた大人数が詰めかけたらどうなるか。

 溢れ返るに決まっている。

 難民たちは身を守る為と当て込んでいた城壁に拒絶され、門外に(わだかま)るようにして寄り集まっていた。どこからともなく切り出してきた木材で建てた、屋根だけの粗末な小屋が彼らの住処である。雨風も満足に防げない住居で身を寄せ合い、互いの体温で辛うじて夜の間の凍死を免れていた。

 彼らの衛生状態は最悪である。トイレすらない為、汚物は垂れ流しとなり、病を媒介する蠅たちはその餌に事欠くことが無かった。力無く蹲る人々には頭の上の羽音を逐う気力も無く、まだ一週間も経たない内に伝染病が蔓延している。体力に欠ける幼児や老人たちから気の早い死神の鎌に掛かっていき、あちこちで野晒しの死体をまま見ることとなった。

 心の荒んだ人々は暴力と犯罪とに憤懣の捌け口を見出し、辻々には引っ切り無しに口論の声が上がる。男たちは、女と見れば小汚い身なりだろうと構わず組み敷いていった。女たちは、どうせ暴力で奪われるのならせめてと、子どもの小遣い程度の対価で春をひさいでいる。今はまだ潜伏期であろうが、いずれ性病が難民たちを苦しめる病のリストに仲間入りすることだろう。

 今やヴォルダン城外の難民溜まりは、戦争という災厄が引き起こした、退廃と貧窮の巣窟と化していた。吟遊詩人が謳い少年たちが憧れる戦記の、決して描かれることは無い影の側面である。




  ※ ※ ※




 で、僕ことトゥリウス・シュルーナン・オーブニルは、そんな混沌とした退廃の坩堝に赴いて一仕事しなくてはならないらしい。州都に入ってこの地で起こっている戦いを指揮する。それが領主の義務だからだ。

 勿論、気乗りなど一切しなかった。何だってまた、不衛生で治安最悪の世紀末かつ末法なスラムが出来ている街なんかに、わざわざ自分から乗り込まなくてはいかないんだか。健康にも悪いし身の安全だって保障されていない。長生きをしたいのが望みの僕にとっては、好みの正反対とも言える状況じゃないか。


「こんなことだったら、兄上を当主に据えたままの方が良かったかなあ……」


「何を言っているんです、閣下。彼が無事でいたら、そんな仕事は真っ先に貴方へと回してきたに違いないではありませんか」


 移動の馬車に揺られながら愚痴を零すと、同乗しているヴィクトルが即座にそう切り返して来た。こういう時くらいは、素直に慰めの言葉を掛けても良いと思うんだけどなあ。


「言われてみりゃそうだけど、もうちょっとこう、言い様ってものがあるんじゃないかい?」


「言い方を取り繕っても、何も変わりはしませんので。そんな労力は、閣下のお嫌いな無駄の代表格でしょうに」


「嫌な仕事を前にしてやる気を殺がないっていうのは、十分に有益なことだと思うんだけど」


「はあ……ああ言えばこう言われるお方だ」


 などと露骨に溜め息など吐いてくれるヴィクトル。

 普段であればこの辺でユニが絶妙なフォローを入れてくれるところなのだけれど、今回それは期待できない。あの子には色々と工作の為に働いて貰っているので、今ここにはいないのだから。

 ……まあ、プラス思考で考えよう。ここにルベールの奴までいたら、お説教だの茶々だのが二倍になって堪らなくなっているところじゃないか。あの腹黒で吝嗇でゴシップ好きな男は、僕らの本拠マルランからの兵站線を維持する役目を振って向こうに残している。僕への援護も無いが、敵への支援も無いと――、


「諦めろよ、ヴィクトル。舌先三寸で人を乗せるのが悪魔ってもんだ。当然、この悪魔みてェなご主人も、口から先に生まれて来たに決まってらァ」


 ――思っていたところで敵に回ったのが、このドゥーエである。彼は性格的にも性能的にも細かい裏方の仕事が苦手だし、表向きの身分は僕の配下で武官の筆頭だ。なので、州都に入る僕に護衛として付き従って貰っている。

 ちょっぴりムッとしたので、僕も少し言い返してやることにした。


「赤ん坊が口から生まれるなんて、逆子でもない限り当たり前だろう? 人間、呼吸しないと生きていけないんだからさ」


「はんっ……そう言う屁理屈ばっか捏ねるから、ヴィクトルにも言われるんだぜ」


 しかし、彼も相変わらず口が悪い。僕の身分も伯爵に進み、これからは今まで以上に貴族のお偉いさんと顔を合わせる機会も多くなる。その下で働いているドゥーエも、それに従う筈だ。もうちょっと柔らかい口の利き方を覚えて欲しいものだが。


「はいはい、僕が悪ぅございました。兄上がおかしくなったのもザンクトガレンが攻めて来たのも、全部僕の所為ですねー」


「いや、実際その通りじゃねェか……」


「まったくですな。兄君が狂したのは我らの謀略故ですし、敵国が開戦に至った原因である窮状は、閣下の魔物狩りと王都焼き討ちに端を発しております」


 ちょっと拗ねてみたら、文武のトップ二人から挟み撃ちを喰らってしまった。

 実戦にしろ論戦にしろ、孤立無援というのはやはり具合が悪い。僕は大人しく白旗を上げることにした。


「まあ、それもそうだけどね……止そう、これ以上ああだこうだ言っても仕方ない。僕が悪かった、だから切り替えて仕事の話をしよう。ね?」


「最初にああだこうだ言い出したのは貴方ではないですか……良いですけれどもね。閣下がきちんと責務をお果たしになるのであれば」


「まァ、その心配は無いだろうよ。何だかんだでここがご主人の正念場だ。負けたり逃げたりで失くす分を考えりゃ、意地でも勝ちに行く。そうしねェと、今までの苦労が無駄になるからな」


「ふふん。分かっているじゃないか、ドゥーエ」


 言われて一瞬、機嫌を良くする僕だが、


「もっとも、その勝つ為の方法ってのが碌でもねェんだけどな」


 すぐにそうして水を差されてしまう。どうしてこう、スッキリと話を終わらせてくれないだろうか、コイツは。


「そう言うなよ、これでもドルドラン辺境伯のお墨付きの作戦じゃないか」


「……状況が詰みに近いので、仕方が無く嫌々ながらお墨を付けた、という気もしますがね」


 恨みがましく言うのはヴィクトルである。彼はルベールと共に州の内政を見るのが担当だ。僕の立案した作戦の基本骨子――焦土作戦による敵兵站破壊が、気に喰わないのは当然だろう。何せ、これから手を着けていくべき州各地の税収源が、一挙に駄目になってしまうのだから。


「その辺については、わざわざ僕の領土に攻めて来たザンクトガレン軍に文句を言ってくれよ。もしくは、それを見越して開戦を煽った爺さんに、かな」


「心の中で既に百万回は言っていますよ。後者には特に念入りにね」


「……お、おう」


 その返事に、ドゥーエが頬を引き攣らせる。

 溜め込むタイプだなあ、ヴィクトルも……。いつか僕の兄みたいにポッキリといってしまわないか、少し心配になる。性格的に似たところもあるし。同じ金髪だし。まあ、こっちの方が幾分かタフだとは思うけれど。

 そんな不安を抱かれていると知ってか知らずか、ヴィクトルはコホンと咳払いを一つ。


「兎も角、前準備の段階でここまで盛大にやってしまわれたのです。何としても敵軍を打ち払わなければなりません。その為にも、州都での務めにあっては、おしくじりになられぬよう」


「分かってるってば。第一、君はその為の補佐として出向いているんだろう? 後続の馬車の、辺境伯閣下と一緒にね」


「それはそうですが……」


 言って、馬車の後ろ窓から後続の車列を確認する。僕らのすぐ後ろには、西方鎮定で功のある武人、ドルドラン辺境伯閣下の馬車が走っていた。派閥では僕の配下だが、王国貴族の序列としては何段か上に位置する人だ。伯爵になったばかりの若造と同乗して舐められたりしないよう、彼の家の家紋入りの馬車の方に乗り込んでいる。当人は申し訳なさそうにしていたが、これも貴族社会の秩序の為だとか。戦争中だって言うのに、そんな場合だろうか。

 しかし、僕らに続いているのは彼の馬車だけではない。


「こうして見ると、中々に壮観な眺めじゃねェか」


「確かに。これほどの輜重段列を実際に見たのは、私も初めてですよ」


 行き道は丁度坂に差し掛かり、その所為もあってかなり後方まで車列を見渡せる。僕らの後ろには馬車、馬車、馬車、また馬車……目の届く限りの距離に馬車の縦隊が続いていた。

 これがルベールを向こうに置いて来た理由。マルラン郡から州都ヴォルダンまで軍需物資を届ける、大規模な輸送ラインである。


「昵懇の仲の商人たちに手当たり次第を声を掛け、荷馬車から何から徴発して作った輸送部隊……やれやれ、どれだけの出費が掛かったものだろうね?」


「お知りになりたいのでしたら、具体的な試算を聞かれますか?」


「……遠慮しておくよ。また長くなりそうだし」


「どうせ戦争の後にも聞かなきゃならねェんだ。今の内に聞いておいたらどうだい」


「つまりは戦争に無事勝てるまで必要のない情報ってことじゃないか。なら、後でゆっくり聞くことにするよ」


 そう言い、手をひらひら振って断りを入れる。家臣二人は揃ってまた呆れた風に溜息を吐くが、特に何かを言い募ろうとはしなかった。

 僕は黙って後方の車列を見やる。アレに積載して運んでいる武器は、僕から見れば玩具も良いところの出来ではあるが、この一戦に限りザンクトガレン軍には覿面には効くだろう。きっと大いに驚いてくれるに違いない。

 僕は戦争なんて嫌いだ。人から命を狙われ、貴重な資源や資金を山ほど消費し、それでいて見合った報酬が得られることはほとんど無い。まったく人間って生き物は、何をそんなにムキになってこんなことに入れ込むんだか。

 だが、まあ。僕を戦争なんかに巻き込んでくれた連中に、思う存分礼が出来るって趣向は悪くない。ザンクトガレン軍の連中や、裏で糸を引いて悦に入っているだろうあの爺さん。彼らの驚く顔が見れるというのなら、本腰を入れて戦争をしてやるってのも良いだろう。

 ……というか、無理矢理そうとでも思わなければ、素面(しらふ)でやってられないんだけれども。

 ああ、本当に嫌だなあ。




  ※ ※ ※




 州都ヴォルダンの政庁。市外の丘陵に建てられた当主居館とは別に、市内での政務を司る建物である。普段ではオーブニル伯爵家傘下の役人が詰めて恙無く仕事し、開戦からは憂鬱と溜め息の住処となっていたここであるが、今は少しばかり趣を変えていた。


「一体、どういうことですかな!?」


 がなり立てながら齧りつくようにデスクに手を叩きつける役人風の男。彼が怒声を上げ、険しくつり上がった視線を向けている対象は、あろうことか仕える筈の主である。

 トゥリウス・シュルーナン・オーブニル伯爵。突如として狂を発し引退とあいなった先代に替わり、オーブニル家当主の座とヴォルダン伯爵の位を占めた青年だった。

 開戦以来、子爵時代の拠点マルランから動かずにいたかと思えば、今日唐突に前触れも無く州都ヴォルダンに乗り込んで来たのである。そんな振る舞いに関して言いたいことは幾らでもあるが、役人はそれを呑みこんでいた。だが、それを差し引いても我慢ならないことを、この新伯爵は言い出して来たのだ。


「どういうことって言われてもねえ……」


 トゥリウスは困ったように笑う。


「その令状に書いてある以上のことは無いよ。読めなかったのなら僕が読んであげようか? 『右の者ら、徴税に関して横領の疑いあり。今日、当州未曾有の危機につき、斯くの如き者に重職を預けること能わず。よって――』ああ、面倒な文章だなあ。要するに、これに名前が載ってる人は汚職の容疑でクビってこと。……そう言えば、君の名前も載っているね?」


 そして、一転して温かみの無い冷たい視線を注いできた。新当主の目には、情けも憐れみも無い。処分を決めた道具が場所を取り続けるのを嫌うような、鬱陶しいという思いしか現れていなかった。

 突然に罪状を突き付けられ、地位を追われる危機に瀕した役人は、汗を流して狼狽する。


「ば、馬鹿な……!? わ、私たちの長年の奉公を、何と思し召されるか!?」


「奉公、ですか」


 主の傍らに控えていた青年貴族が、冷然とした失笑と共に言う。

 ヴィクトル・ドラクロワ・ロルジェ。マルラン子爵時代から仕えるトゥリウスの股肱の一人として知られている男だ。先代、先々代より伯爵家に仕えて来たこの役人からすれば、新参も良いところの青二才である。それが右も左も分からぬ新当主の恩寵を嵩にきて、家中を壟断しようとしていた。古参の伯爵家家臣からすれば、小面憎いことこの上ない相手である。

 その貴公子然とした容姿のいけ好かない男は、渦中の役人に向けて見下げ果てたような顔を向けていた。


「税を私曲し、それを以って市内に別邸を建て、女を住まわせることが奉公とは。はて、この国の辞書はいつの間に改定されたのでしょうな?」


「なっ……」


 言葉に詰まる。

 ヴィクトルの台詞は、実に的確に男が隠している行状を指弾していた。

 だが、それを認める訳にはいかない。認めれば罪ありとされて何もかもを失ってしまうのだから、どうあっても認めることは出来ないのである。


「こ、これは讒訴(ざんそ)っ! 根も葉もない言いがかりですぞ! 信じてはいけません、伯爵閣下ァ!」


「讒訴ねえ――」


 役人の訴えに、トゥリウスはうんざりとした表情をしながら書類を投げ放つ。


「――これ証拠の書類。州の出納の記録と君が担当した案件の矛盾、それと君が物件を買った際に交渉した商人の爪書。他には……まあ、いいや。兎に角、讒訴ではないってことは知っているよ」


「な、ななな……」


「ちなみにこれは写しですので、引っ手繰って破ろうと燃やそうと意味はありません。原本はマルランの方で保管させて頂いております」


 ヴィクトルの捕捉に、役人はがっくりと項垂れた。

 実際その通りにしようかと言う考えが、チラリと頭を過っていたのである。


「し、しかし……! そ、そうだ裁判! せめて裁判を受ける機会を! 証拠はあると仰せですが、閣下のご一存で臣下の進退を左右するとは余りにも無法! 法理に照らして――」


「いつもなら、そうするんだけれどね」


 面倒臭そうに言い募る役人を遮るトゥリウス。


「生憎と今は戦時中だ。まどろっこしい裁判なんて、そうそう何度もやってられないよ。あんな長ったらしいのは、去年の一件だけで十分だからね。……確か、戦争中は領主が略式即決で罪状と刑を確定して問題無い筈だろう、ヴィクトル?」


「はい、閣下。王国の法典は貴族に対し、戦時中の自領土・自領民に対する全面的な専断権を保障しております。何分、合戦は王家の藩屏たる貴族にとって、最大の義務ですので」


「そういうこと。じゃ、諦めてここの牢屋に入っていてよ。……出番が来たら、呼ぶからさ」


 そうして、部屋の隅に向かって手振りで合図を送る。そこに控えていた男がうっそりと立ち上がり、役人に向かって腕を伸ばした。


「ドゥーエ。彼を案内してあげて。それが済んだら、リストに載っている他の人もよろしく」


「ちっ、つまらねェことで扱き使ってくれるなァ……」


 ドゥーエ・シュバルツァー。冒険者上がりの武官でトゥリウス新伯爵の側近の一人。そして、何を隠そう出身地は、今現在この地を攻め立てているザンクトガレンなのである。

 役人は最後の悪足掻きにと叫んだ。


「か、閣下っ! 貴方は騙されておるのですぞっ! そこな青二才と、この敵国人に!」


「へえ? それがもし事実なら大変だね。一応聞いておくけど、そうなのかい?」


「いいえ」「いいや」


 二人は揃えたように否定の返事を返す。トゥリウスはそれに満足げに肯いた。まるで彼らが自分の問いに嘘を吐くことなど、絶対に有り得ないと確信しているように。


「じゃあ、連れてって。これ以上は時間の無駄だよ」


「おう。……ほら、キリキリ歩け」


 犬猫のように首根っこを掴まれ、ドゥーエに運ばれていく元役人。彼は部屋から連れ出され、扉が閉まっても何事かを喚いていたが、室内に残る二人は一切気にも留めていなかった。

 トゥリウスが凝りを覚えた首を軽く回しながら口を開く。


「さて、後はドゥーエに任せておけば、この庁舎の掃除は一段落かな」


「はっ、直ぐにもそうなりますかと」


「領主の戦時専断権のお陰で、家臣団の不要な連中が一気に片付いて行く。数少ない、この戦争が起こって良かったと思うことの一つだね。良くないことの方が大分多いってのがアレだけど」


 トゥリウス・シュルーナン・オーブニルは効率主義者である。本人はそう指摘されると、アカデミー時代の恩師ほどではないと否定するが、彼の配下たちは概ねそう思っていた。

 そんな彼が戦争という突発事を、ただ災難だと嘆いて終わりにする筈が無い。不幸な出来事はそれとして、利用できる点は利用する。たとえば非常時故の権力集中を援用して、家臣団内の不穏分子を粛清するには、良い機会ではないだろうか。

 ヴィクトルがくすりと笑みを漏らす。


「そも、合戦とは凶事。良くないことの方が多いのは仕方がないことでしょう」


「それもそうだけどね……さて、ルベールの作ったリストによると、今回の逮捕者で残しておくのは、ある程度使いでのある三割くらい。残りの利用価値の無い者は――」


 ギシリとトゥリウスの凭れた椅子が不吉に軋んだ。







 翌朝。

 ヴォルダン市城壁外の難民窟。粗末なバラック屋根が立ち並ぶ難民たちの仮の住処は、時ならぬ喧騒に包まれていた。急速に発生したスラムの中心に当たる小さな広場。そこへと領主配下の奴隷たちの手で、次々に何やら運び込まれ、何かが組み立てられていたのである。


「一体、何だ? 何が始まるってんだ?」


「さあな……」


 遠巻きに作業を見守る人々の顔に浮かぶのは、好奇心というより警戒心の色が強い。それもそうだろう。彼らは今日までヴォルダンの城壁から締め出されていたのだ。領主や役人たちから見捨てられたという思いがある。今更になってこの難民窟に手を着けられても、その手段について良い想像を浮かべることは出来なかった。


「にしても、奴隷の癖に良い物着てやがるな」


「まったくだ」


「糞……俺らなんざ、着の身着のままで何日目だ?」


 難民たちが恨めしそうに見るのは、オーブニル家の奴隷たちの格好だ。新たに伯爵となったばかりの青年貴族、それに飼われる下僕たちは、果たして何の酔狂だろうか、男は執事服、女はメイド服に袖を通している。それも随分と上物の素材で作られ、洗濯も良くされているらしい。太陽を反射してキラキラと輝く様は、それこそまるで貴族の衣服だ。

 翻って見て、自分たちが身に纏う襤褸は何なのか。敵国軍の侵攻を前に、野良着のままで逃げ出してここまで歩き通した。その為、着替えなどある訳が無い。着衣は垢じみ始め、体臭がすっかりと染み込んでいる。袖だの襟だの各所がほつれ破れ、秋風が吹く度に寒い思いをしなければならない。

 何故、平民である自分たちがこんな惨めな思いをして、見下げられるべき奴隷どもなどが良い思いをしているのか。難民たちの間に、ゆっくりと反感が燻り出した。

 そうこうする内に、奴隷たちの作業は異様なほどの早さで終了していた。

 小さな広場に現れたのは、組み立て式の演壇である。高さにして三メートルほど、壇上の広さは幅十メートルといったところか。ちょっとした舞台と言ってもいい大きさである。上に立てば集まった物見高い難民たちを見渡せ、また下からも壇上の人物を満足に見上げられるだろう。

 やがて一人の貴族が、護衛に伴われて演壇上に現れた。

 赤銅を思わせる色合いの赤に近いブラウンの髪に、碧眼。目鼻立ちは整っているものの、押し出しや覇気に欠けた、印象の薄い、だが人の良さそうな顔立ち。歳の頃はようやく二十に至ったばかりといったところか。

 貴族は壇上に立って周囲を見渡すと、声を張り上げる。


「皆さんっ!」


 その声に、広場中から演壇へと注目が集まった。のみならず、それまで粗末な屋根の下に潜り込んで知らぬ顔をしていた難民も、何事かとうっそり這い出して来る。

 貴族は周囲に人が増えだしたのを確認してから続けた。


「はじめまして、皆さんっ! 僕はヴォルダン州領主、王国伯爵トゥリウス・シュルーナン・オーブニルと申しますっ!」


 その言葉に、民たちは一様に目を瞠り、どよめきの声を上げる。

 領主? 伯爵? そんな雲の上にいるような存在が、小汚い難民窟に現れたというのか?

 とても考えられたことではなかった。何せ貴族ときたら、民のことなど同じ人間とすら見ていない者が圧倒的多数なのだ。このように民衆の前に自ら姿を現して声を掛けるなど、前代未聞である。大概は家臣を通して意思を伝え、それで終わり。貴族が平民と言葉を交わすとしたら、商人や富農といった、実力を持つごく限られた層に過ぎない。それがどうして、市内への入城を拒まれるような下層の農民、流民たちに声を掛けるというのだろう。

 困惑に追い打ちを掛けるように、あり得ない出来事は更に続いた。


「この度、非道なる隣国ザンクトガレンの侵攻に際し、皆さんヴォルダンの民の安全を保証出来ず、今日のような不自由を強いたのは、誠に僕の不徳の為すところであります。よって、ここに深く陳謝させて頂く運びと相成りました。……本当に、申し訳ありません!」


 トゥリウスはそう言って、深々と頭を垂れたのである。

 民たちは困惑した。

 貴族が……農民たちから税を絞り、取れぬとあらば奴隷に落とし、徹底的に搾取する支配者が、頭を下げる。それも支配の対象である筈の民に向かってだ。晴天の霹靂とはこのことだろう。

 難民たちは驚き、戸惑い、そして、


「……ふざけるなっ!」


 怒号を上げた。


「急に出て来て、何言いやがる!」


「そうだそうだ!」


「今更言葉だけで済む問題か!」


「あたしの子どもは飢えと病気で死んだんだよっ!?」


「食い物を寄越せよ! 住むところを寄越せ! 俺たちの村を返せェ!」


「とっととザンクトガレン軍を倒せよ! その為に俺たちから税を取って、軍を持ってるんだろうが!?」


 民たちは怒る。怒って、そして罵声を浴びせ続ける。

 彼らは我慢を強いられ続けていた。侵略者に村を追われ、家や田畑を失い、飢えて凍えて、不潔な環境で暮らすことを強いられ、病気になり、そして死んでいった。

 そんな境遇に何日も置かれていながら、言葉一つの謝罪で貴族の失態を許すことが出来るだろうか? 出来る訳が無い。寧ろ、具体的な怒りの矛先が目の前に、手の届きそうな距離に現れたのである。溜め込んでいた不満を一挙に噴出させるのが自然であろう。

 これが威徳を持った聖人か、或いはドルドラン辺境伯のような地域に長年密着し功績を上げ続けた名君なら話は別だ。民たちも幾分か素直に耳を傾け、続く言葉を待つくらいはしただろう。だが、今ここで演壇上に立っているのは、この秋に当主へと立ったばかりの若造だ。加えて民たちは知らないが、貴族社会では奴隷を虐殺する狂人として悪名高い男である。彼がほぼ一から再建したマルランならばいざ知らず、ヴォルダン中から集まった難民たちを相手にして、言葉のみで宥めることなど不可能である。

 そう、言葉のみなら。


「……静まれェいっ!!」


 民衆の罵詈雑言を突き抜けるようにして、腹の底に堪えるような一喝が響く。

 護衛に着いていた黒ずくめの武官――ドゥーエが、大声を張り上げたのだ。

 人々はビクリと震え、一転して静まり返る。たった一人とはいえ見るからに力強そうな、長大な両手剣を携えた男だ。暴力など村人同士の喧嘩が精々であった民たちにとって、幾多の魔物を屠ってきた歴戦の元冒険者の醸す威圧感は、抗い難いものであった。

 トゥリウスは民を脅かし付けた家臣を窘めるように手を翳すと、再び続ける。


「皆さんのお怒り、誠にごもっとも! 治績に乏しく、この危難の時に遅れて現れた者の言葉など、そうそう信じられることではないでしょう。ですので――」


 そうして一度言葉を区切り、背後に向けて何やら合図をした。


「――まずは誠意の証しをお見せしたいと思います」


 続いて、奴隷たちに引っ立てられるようにして、数人の男女が壇上に上がる。

 役人風の男たちと、如何にも婀娜(あだ)っぽい容姿の女だった。彼らはいずれも後ろ手に縄を打たれ、口には猿轡を噛まされている。まるで罪人のような扱いだった。

 トゥリウスは嘯く。


「この者たちは長年に渡り貴方たちの税を横領し続けて来た俗吏であり、女はその愛人として市内に囲われておりました。当然、汚職によって税から得られた、後ろ暗い金によってです」


「な、なんだって!?」


「俺らの税を……女の為にだとォ!?」


 再び、怒りの声がそこかしこから上がる。ただし、対象をトゥリウスから縄を打たれた者たちへと変えて、だ。

 トゥリウスはさも嘆かわしいといった風情で眉間に手をやる。


「当州開闢以来の未曽有の危機に際して、このような不心得者が現れたこと、重ね重ね申し訳無く思います。何より憂慮すべきは、この街へと避難に詰めかけた皆様を受け入れる余地が、罪深い金で購われた私邸によって奪われたことでしょう……」


 扇動者は囁く。

 お前たちがこんなところにいるのは、コイツらの所為だ、と。税から手癖悪く金を摘まみ、市内に女を囲った為であると。

 民たちの視線は、今や明確な殺意すら伴って壇上の汚職官吏らとその愛人に注がれている。


「皆さんに問わせて頂きたい! 僕はこの者らをどう処するべきでしょうか、と!」


 問いに対する答えは、直ぐ様返って来た。


「殺せ!」


「首を刎ねろっ!」


「死刑だ、死刑っ!」


 死刑、死刑、死刑!

 満場一致で上がる死を乞う声たちに、その対象である罪人たちは震え上がった。

 トゥリウスは奇妙に優しげな表情を作ると、罪人の一人から猿轡を外してやり、こう言う。


「皆さんはこのように仰っておりますが……何か彼らに返すお言葉は有りますか?」


 その役人は色を失くして叫んだ。


「私の何が悪いっ!?」


 ピタリと、民たちの怒号が止まった。だが、それはドゥーエに威圧された時とは様相を異にしている。沸騰し吹き零れる鍋に無理矢理蓋をしたような、爆発寸前の危うい均衡。猿轡を外された男はそれに気付いた様子も無く喋り続ける。


「多少税から摘まんだところで、それが何だ!? 女を囲って悪いことがあるかっ! それを何故、このような汚らしい流民たちから指弾されねばならんっ! ええい、何を睨んでおるか賤民どもがァ!」


 状況を弁えているとも思えない、見苦しい罵言の数々。

 それを垂れ流す様は、心得のある者が見ればこうも思えただろう。まるで、心に思ったことを正直に話すよう、暗示でも掛けられているみたいではないか、と。

 昨年のある裁判を傍聴した者には、その被告人の様子を思い出させるかもしれない光景である。

 だが、今ここにいるのは無知な大衆に過ぎない。一年前の裁判など、起こったことすら知らないに違いなかった。単純に下級貴族の役人が、この期に及んで自分たちを見下しているとしか思えないのである。


「ふざけるなァ!!」


「俺たちを何だと思ってやがるっ!」


「死ねっ! 潔く死ねっ!」


 怒りに油を注がれた民たちは、ついには足元の小石を拾って壇上の罪人たちに投げつけ始めた。中には汚物すら投げ込もうとする者もいる。トゥリウスも流石に顔を顰め、ドゥーエに対して手早く刑を執行するよう指示を送った。


「さあ、ドゥーエ」


「……おう」


 両手剣を抜き放った彼が軽く素振りをする。空気が不穏に唸る音に、民たちは物を投げる手を止めた。それを見届けると、未だに喚き続ける猿轡を外された男を足で踏んで押さえ付ける。


「ぐわっ!?」


「おい、最後に何か云い残すことは?」


「さ、裁判を! 王国の法に照らして――」


「その王国の法が、僕に貴方たちを処断する権利を保障しているんですよ。……もういい、早く済ませて」


 新伯爵が冷徹に告げた直後、断頭の一撃が罪人の首へと叩き込まれた。

 断末魔の悲鳴すら無く首が飛び、血が勢いよく壇下に流れ出る。

 処刑は、一度始まるや流れるように次へ進んだ。

 共犯の男。汚職で得た金と知りつつそれで囲われていた女。次々と罪を糺され、首を刎ねられていく。その度に民衆は歓呼の声を上げ、溜飲を下げた。


「ざまあみろ!」


「天罰だっ! 悪いことは出来ねェもんだぜ!」


「万歳! 領主様万歳!」


 彼らは口々に斬首された者たちを罵り、刑を執行したトゥリウスを褒め称える。娯楽に乏しい農民たちにとって、罪人の処刑とは格好の余興だ。悪を為した者が惨たらしい形で裁かれ、善なる自分たちは傷一つ負わずにそれを眺めやる。勧善懲悪というテーマを端的に表現した、血腥い即興劇である。

 興奮し爽快感に浸る人々は、今やそれを齎したトゥリウスを盲目的に称えている。少し前まで罵声を浴びせる対象としていたことを、すっかりと忘れたように。

 壇上の伯爵は、民の変節激しさを気に留めた様子も無く続ける。


「皆さん、今や悪は裁かれ、彼らの私していた財産は公共の物に還りました。只今、それらを元手にして炊き出しの準備を進めております。また、罪人たちから没収した家屋や政庁の一部を開放し、皆様方の仮の住処として提供する用意もございます!」


「おおおおおっ!」


「食い物も、住処もあるのか!」


「至れり尽くせりだぜ!」


「万歳っ! オーブニル伯爵様、万歳っ!」


 万歳っ。万歳っ! 万歳っ!!

 熱狂する流民たちの上げる歓呼の声が、ヴォルダン市に谺する。それを浴びて、照れ臭そうに片手を上げて応えるトゥリウス・オーブニル。巷間に【奴隷殺し】、【人喰い蛇】などと仇名される男は、今この瞬間だけは万民に支持される名君として君臨していた。

 そして彼は、何も知らずに陶酔する人々に、そっと毒を流し込む。


「……ですがっ!」


 大袈裟な身振りで手を振るとともに、人々は静まり返ってその言葉に耳を傾ける。

 続け様に放たれる。彼本来の目的に。


「ですが現在、ヴォルダンは侵略者の魔手に脅かされています。これに立ち向かう為の兵力は……僅かに二千人」


 忽ち、どよめきが生じた。彼が告げた兵の数は余りにも少ない。このヴォルダンの城市を守備するにも事欠くだろう人数である。これで安心しろというのが無理な話だ。


「艱難辛苦を耐え忍んで来られた皆さんに、このようなことを申し上げねばならないのは、僕も心苦しく思っております。ですが、敢えてそこを枉げてお願いしますっ! どうか、どうかこの僕と共に立ち、ザンクトガレンとの戦いに加わっては頂けないでしょうか!?」


 だから民たちから兵を募り、これを軍に併せて戦うと言う。


「お、おい、どうするよ……?」


「無理に決まっているじゃねェか」


「軍隊が二千人しかいないって……負けたからそんなに減ったんだろ?」


 当然、民たちは不安な顔で二の足を踏む。

 彼らのほとんどは戦う術を知らない農民、そして敵は彼らを圧して来た正規の兵すら寄せ付けないザンクトガレン軍。幾ら領主の頼みであると言っても、はいそうですかと戦列に加われる訳は無い。

 汚職官吏の粛清で盛り上がった熱狂が、水を差したかのように引いて行く――直前、


「俺はやるぞっ!」


 難民の中から、一人の若者が声を上げた。


「たとえ領主様から食い物を貰って、城壁の中に入れて貰ったとしても、ザンクトガレンに負けたらおじゃんだ! またアイツらに何もかも奪われて、寒空の下に放り出されちまう!」


 周囲の人間が、その声に痺れたように竦み上がる。

 人々は思い出していた。ある日村へ訪れた、ボロボロになった近隣の住人達。彼らは一様に声を揃えて言った。

 敵が攻めて来た、と。ザンクトガレン人が現れて、田畑の実りも牧場の恵みも奪っていった、と。抵抗した者は殺された、と。

 自分たちが村を捨てて逃げ出し、この州都へ駆け込んだのもその為だ。ザンクトガレン軍から免れる為ではないか。もし領主の軍が小勢のままこれに挑み、破れたとしたら、どうなる? 敵軍は今度こそヴォルダン市に雪崩れ込み、自分たちに給される食糧も仮の住処も、また奪われてしまう。


「そうだ……このままじゃ駄目だ」


「戦わなきゃ、駄目だ……」


「アイツらを、ザンクトガレンを叩き出さないとっ!」


 男衆を中心に、戦えという声が次第に高まっていく。

 侵略者を許すな、と。自分たちの村を、畑を、取り戻せ、と。

 その中で、ある避難民がこう漏らす。


「そうだ、アイツらを放っておくわけにはいかねえ! 奴ら、攻め落とした村には火を放って行きやがるんだっ!」


「何だって!?」


「それは本当かい!?」


「ああ! 連中には見境が無ェ。家から畑まで燃やしていきやがった! 罰当たりにも、教会までだ!」


「う、ウチの村じゃ、井戸に毒を投げ込まれた……村の子どもも一人、それで死んだんだっ!」


「ひ、ひえぇ……それじゃまるで、皆殺しにするつもりみたいじゃ――」


「みたいで済むかよ、実際その気なんだろうぜっ!」


 ある者はこう言う。村の娘が拐され凌辱を受けた。またある者は妻を奪われたと叫ぶ。戯れに子どもを奪われ殺されたと嘆く女性もいる。

 次々と上がる、ザンクトガレンから受けた被害の行状。改めて周知されたそれらが、人々の防衛本能と憎悪に新たな燃料を注いだ。

 結果、


「戦う! 俺も戦うぞ!」


「領主様! 儂らも軍勢に加えて下せェ!」


「俺たちの村は、俺たちが取り戻すっ!」


 従軍を乞う声が爆発的な勢いで上がる。

 今まで、彼らは何も持たない難民であった。だが、そこにトゥリウスが囁いたのである。食事と住処は用意しようと、空手形を切ったのだ。

 そして彼らは、自分に守るものが出来たと信じた。今日明日の食事に、秋風に凍えないで済む家。実際には見た訳でもないそれらを与えられると思い込み、そしてその全てが迫り来るザンクトガレン軍に奪われようとしているという危機感に囚われたのである。

 だから戦う。守る為に。そして奪われない為に。

 そう決意した人々の中には、幾人か異様な表情を晒した者がいた。まるで悪い酒か薬かに酩酊したような、胡乱な目つきをした者である。だが、難民たちは今や躁狂の只中。自分たちが酔っているというのに、他人が何に酔っているかなど、気にする筈も無い。

 群衆の狂奔する声に、壇上の男は微笑む。


「ありがとう……ありがとうございます、皆さんっ! これよりは互いに力を合わせ、必ずやこの地に平和を取り戻しましょうっ!」


「「おぉおぉおぉおぉおぉおぉおぉおぉおぉおぉおぉおぉおおおぉぉぉっっっ!!」」


 扇動を受けた民たちの雄叫びに、トゥリウスは身を屈して顔を覆った。

 それは感に堪えず咽び泣くようでもあり……或いは、悪魔が人々の愚かさを、腹を捩って笑い飛ばしているかのようにも見えた。

 

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