表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
68/91

066 ヴォルダン、燃ゆ<後編>

 

 その小さな村は、朝から慌ただしさに包まれていた。

 人々はありったけの荷物を荷車に詰め込み、或いは背に負い、一刻も早く村から逃げ出そうとしている。戦禍を避ける為だ。


「急げ急げ急げ!」


「早く、早くしないと奴らが来るぞっ!」


「ザンクトガレンの鬼畜どもめ……!」


 荷物を抱えて村の広場に集まる村人の顔は、一様に恐怖と焦燥とで彩られていた。

 山を越えてこの地、ヴォルダン州へと侵攻してきた隣国・ザンクトガレン連邦王国。彼の国の軍が周辺地域で為してきた蛮行は、この山間の農村にも伝え聞こえている。

 曰く、村人を殺して田畑の実りを奪う。

 曰く、村娘を組み敷いて凌辱を行う。

 曰く、見目さえ良ければ対象は男児であろうと構わないらしい。

 曰く、また曰く、またまた曰く……。

 彼らが耳にした話には事実と誇張とが入り混じっていたが、一つだけ確かなことがある。一度ザンクトガレン軍に捕捉されれば、決して幸福とは言えない顛末に至るだろうということだ。

 だから脇目も振らずに逃げ出すのである。農民の命綱たる、収穫前の田畑すら投げ出して。


「大丈夫なのかな……畑を放っておいて逃げるなんて」


「言ってる場合か!? 命あっての物種だぜ!」


「じゃがのう、逃げ延びたとして、戦争の後に帰ってきても畑が目茶目茶になっていては――」


「い、嫌なことを言うなよ、爺さん……」


 しかし、やはりというか、手を掛けて実らせた収穫物と田畑への未練は残る。何しろ、彼らの生活の基盤だ。農作物を税として納め、残りを元手に売るなり自家で食糧とするなりして食い繋いでいく。それが農民の暮らしなのだ。今日の命を繋ぐ為に逃げたとて、明日明後日に飢え死にしては意味が無い。

 後ろ髪を引くその危惧を振り切るようにして、彼らは避難の準備を続ける。


「領主様だって、戦じゃしょうがねえって分かって下さるさ。多少は税の目溢しとか、手当とかもあるかもしれねえ」


「そ、そうか? でもよ、お貴族様にそんな度量を期待できるってか?」


「じゃあ、ここに残って鍬鋤を持って、ザンクトガレンを迎え撃つってのかよ? それこそ、良い結果は期待出来ねえぜ」


「わ、分かったよ……」


 そう自分たちに言い聞かせながら、後方の城市への脱出を急ぐ。

 窮余の時である。こうなっては領主の慈悲に縋り、免税や炊き出しなどの手当てを乞うしかない。田畑を捨てて逃げる以上、生き延びる為にはそれしか無かった。

 もし、それが受け入れられなかったら? ……そもそも、自分たちが逃げ出さねばならなかったのは、領主が守ってくれなかったからだ。この上、素寒貧の身を更に絞ろうと言うのなら、こちらとしても覚悟を決めることも辞さない。

 一揆である。

 今は戦争中、お上も領内の民を味方に付けたいとは思っている筈。少なくとも敵に回したくはないだろう。そこで一揆をちらつかせれば、多少の無理は通る。なに、自分たちが日頃から献上している税を、ちょっとばかり還元して貰うだけだ。それに少なくとも、鬼のように強いザンクトガレン軍よりも、そいつらに連戦連敗を喫している領主軍の方が、余程組みしやすい相手ではないか……。

 それが民たちの算段であった。


「母ちゃん、み、水……」


「我慢なさいっ! すぐにでも出なきゃ、おっかない兵隊に追いつかれるのよ!?」


「で、でも、のどがかわいて――」


 ふと、村の青年の一人が、母子の言い争う声を聞き咎めて足を止めた。どうやら喉が渇いたと水を欲しがる子どもを、その母親が急かしているところらしい。


「おばさん、飲ましてやりなよ。ここから最寄りの街まで歩き通しになるんだ。水は、今の内に飲ませておいた方が良いぜ」


 彼が親切ごかしてそう言うと、母親はバツが悪そうにそっぽを向く。


「べ、別にこの子に意地悪してた訳じゃ――」


「そうかい、じゃあ俺も井戸から汲むのを手伝うよ」


「おじちゃん、ありがとう!」


「……坊主、俺はまだおじさんなんて年じゃねえよ」


 無邪気に喜ぶ子どもを後目に、男は村共用の井戸に向かい、手早く水を汲んでやった。そして、柄杓で掬った水をその口元へと差し出す。


「ほら、飲みな。少しだけだぞ? あんまり飲み過ぎると、歩いてる途中で腹が重たくなるからな」


「うんっ!」


「すみませんね、子どもの我儘に付き合わせて……」


「いや、良いってことよ、このくらい――」


 危難の最中の助け合い。隣人同士の篤い情誼に、村人たちは過剰な緊張が解れるのを感じた。

 自分たちは上手くやる。他の村の連中のように襲われたりはせず、逃げ果せて見せる。こんな風にお互いに助け合い、励まし合いながら進めば、きっと。

 そんな楽観的な希望さえ浮かんで来た。

 だが、異変が起こったのはその直後である。


「ごく、ごくっ……うぐっ!? ……お、おごぉぉおおっ!?」


 夢中になって水を飲んでいた子ども。それが唐突に苦しみ出し、胃の中身をぶち撒ける。異常な色に染まった吐瀉物が、大気に触れて酸味のある臭気を放った。


「――えっ?」


「ぼ、坊やァ!?」


 呆然となる村の青年と母親を余所に、子どもは海老のように身を丸めてビクビクと痙攣しだす。嘔吐は止まらず、間欠的に酸い液体を口から溢していた。


「おぶっ、あぐっ、おえぇぇえっ……!」


「な、何だ!? どうしたんだ!」


「おい、餓鬼が倒れているぞっ!」


「な、何でだ……? お、俺はただ水を汲んだだけ……」


「坊やっ! しっかりおしっ! 坊やァっ!?」


 騒ぎを聞き付けて井戸端に群がる村人たち。呆然と立ち尽くす青年。半狂乱で我が子に声を掛ける母親。彼らの目の前で、倒れた子どもの痙攣は次第に激しさを増し……やがて止まった。

 死んでしまった。


「あ、ああ……! ど、どうして……どうしてウチの子が、こんなっ!?」


「ち、違う……俺じゃないっ! 俺は何もっ!」


「お、落ちつけよ。誰もお前が何かしただなんて、思っちゃ――」


「じゃあ、一体誰がやったんだよ!? 何が起こったんだよォ!?」


「……ザンクトガレン軍だ」


 パニックを引き起こしかけた村の中で、誰かがポツリとそう呟く。

 凝然とした視線が集中する中で、その村人は震えながら言葉を続けた。


「ザンクトガレンだ。あいつらが、俺たちの気付かない間に、井戸に毒を入れてやがったんだ……」


 ザンクトガレン連邦王国軍。山の向こうから現れてこの地を襲い、他の村々で略奪を働き、人を殺し、女子供を辱める鬼畜ども。その名前は、不気味な波紋が広がるように、村人たちの中に浸透していく。


「ざ、ザンクトガレン……?」


「ま、待てよ。連中にだって、村の井戸に毒を入れても得は――」


「じゃあ、他の誰になら得があるってんだよ?」


「やりかねねえ……あの連中ならやりかねねえっ!」


「奴ら、俺たちを皆殺しにする気なんだあっ!!」


 一度は静まりかけたはずの狂乱は、前震の後の本震のように、震度を増して民衆を揺さぶった。


「に、逃げろ……! 早く逃げろォ!」


「奴ら、もう近くまで来ているぞォ!?」


「む、村に忍び込んで、井戸に毒を入れやがった! 絶対に近くにいるゥっ!」


「嫌……嫌ァァァアっ!?」


「どけ、邪魔だ! お、俺は嫌だぞ! アイツ等に殺されるなんてっ!」


「や、やめろっ! 押すなっ! 荷物が――」


「突っ立ってるんじゃねえ、ノロマァ!」


「は、早く逃げなきゃ……!」


「ぐあっ!? や、やめろっ! お、俺を踏むな――ぎゃあっ!?」


 恐慌に陥った村人たちは、我先にと村の出口へと駆け出す。そこには隣人への労わりや奥ゆかしい協調性など、欠片も存在しない。

 ある者は、ただ自分だけが助かろうと、荷物すら捨てて他人を押しのけ駆け出していた。またある者は、荷物を抱えて右往左往しているところを押し倒され、後続の村人に踏み躙られていた。そしてある者は、呆然としたまま井戸の傍から動けなかった。


「坊や……私の坊や……」


 事態を飲み込めないように、事切れた息子の亡骸を揺さぶる母親。彼女を気に留める者は、最早誰もいない。先の青年ですら、他の村人に続いて一目散にこの場を離れている。

 村人たちを苛んでいた、ひたひたと背後まで迫っていた戦禍の恐怖。限界近くまで水位を上げていたそれが、いたいけな幼児の突然の死という形で具体化された瞬間、余りにも呆気無く決壊したのだ。人波は山津波めいて流れ去っていく。その後に、動けなくなった者たちを置き去りにして。


「い、痛い……なんで、俺を置いて……同じ村の、仲間じゃ――」


「坊や、早くお起きなさない? でないと、怖い人たちが――」


 こうして、一つの村が廃村と化した。

 そして、間もなく、廃墟と化すのだ。







 村で一番背の高い建造物、教会。

 その屋根の上から哀れな民が逃げ惑い狂奔する様を、高みの見物と見下ろす二つの影があった。揃ってフードの付いた黒いローブをすっぽりと被り、容姿は判然としない。だがそのシルエットに存在する凹凸から、恐らくは共に女性と見分けられるだろう。

 その姿を見咎める者は誰もいない。村人たちが逃げ惑い、或いは前後不覚となっているのも原因ではあるが、それよりも彼女らが身に纏うローブが曲者であった。

 身隠しの礼装。索敵に長けた達者でもなければ、目の前にでも現れない限り存在を看破出来ないであろう、隠蔽の魔法が掛かった装備である。これを纏った者を屋根の上に見つけるなど、辺境の農民風情に出来る筈も無い。いや、かつては生来聞き耳など探知に優れているはずの、エルフたちの隠れ里にさえ、全く気付かれずに侵入することを可能にしていたのだ。その実績を思えば、たとえ今すぐザンクトガレンの軍勢がこの村に踏み込もうと、誰一人として教会の上に存在する二人を発見出来ないということも有り得る。

 そんな高度な隠れ身によって潜んでいた二人の内、片方が我慢しきれないと言うように口を開いた。


「きゃはははははははっ♪ 見て見て、ドライさぁんっ! 人間さんたちが、蟻ん子さんみたいに逃げ惑ってますよーっ? やっぱり巣を突っつかれた生き物ってぇ、どれも似たよぉな反応をするんですねー?」


 無邪気に喜び、無慈悲に嘲る女の声。その言葉はすらりと伸びた長身や、ゆったりとしたローブを内から押し上げる実りに比して、目眩がするほど不釣り合いな幼さである。

 だが、応じる片方にそれを気にした様子は無い。既に慣れた、と言わんばかりに。


「フンっ。所詮は下等な毛無し猿、その中でも一等下層な屑どもの群れだ。知能が虫けらと変わらなくとも、驚くには値せん」


 フードの奥から発せられたのは、逃げ出した村人たちに容赦無い侮蔑を浴びせる言葉だった。自身の優越への確信と、人間という種に対する憎悪。その二つが入り混じった蔑視の視線は、肌がひり付くように熱く、同時に血も凍るように冷たい。

 二人は村人たちが十分に村から離れたことを確認し、示し合わせたようにフードを払い除けた。

 現れたのは、共に余人の想像を懸絶した人外の美貌である。

 銀髪に褐色の肌。琥珀色の右目と眼帯に覆われた左目。精悍な野性美と蠱惑的な女性美とが混在し両立した、ダークエルフの女。

 金髪に白皙。空色の双眸は眼鏡のレンズ越しに好奇と嗜虐とに輝く。優美にして放埓な肉体美と無垢で残酷な精神性を兼ね備えた、エルフの娘。

 オーパス03ドライ。そしてオーパス06セイス。この地に新たな支配者として君臨する悪魔、彼が誇る『作品』たちである。


「さて、ご主人様のお指図通りだ。猿どもに山猿どもへの恐怖を植え付けて逃がした。後は……分かっているな?」


 そう言いセイスの方へと視線を向けるドライ。この生まれたてに等しい同輩に対し、彼女は未だその真価を計りかねているところがあった。確かに魔力量に限れば自身を上回る物を感じてはいる。しかし、普段の行動ときたらまるで子どもであり、何も無いところで転んで泣きだすところはそれ以下ですらあった。


「今回の任務は貴様の性能試験も兼ねている。いつまでもラボでご主人様のお手伝いだけしていれば良い訳ではない。それくらいは理解出来ているだろう?」


 故に、この村での工作を兼ねてセイスへのテストの監督役を買って出た。果たしてセイスの価値は如何程なのか。単に主の助手の一人に留まるのか、それとも戦力として水準以上の評価を下せるのか否かを確かめる為に。

 そんな意を含んだ確認に、セイスは、


「はいはーいっ! よぉするに、わたしの力を実験するんですよねっ? わぁーい、楽しみっ!」


 空に向かって両腕を広げ、豊かな胸を突き出しながら、無邪気に快哉を叫んだ。

 その緊張感の無い態度に、ドライが毒気を抜かれたように目を瞬く。ついで、喝を入れるように声を低めた。


「……お前な。少しは神妙にしようとか、逆に怒るとかはしないのか? お前の技量に疑義を呈されているんだぞ?」


「ふぇ? でもでも、実験ですよ実験! 今まで使ったことのない魔法を使ったりしてー、わたしのスペックをきっかりばっちり確かめるっ! 面白そぉとかは思いますけどぉ、こわいとかムカっとするとかは、あんまりないですねー」


 おとがいに指を当てたりしながら、他意も無さげにそう言ってのける。

 ああ、コイツはこういう奴だった、とドライは思い返した。製造する際の調整に当たって、好奇心などを強く抱くようあらかじめ擦り込まれた、人の手で培養されたエルフ。そんな彼女にとって実験とは、何よりの娯楽である。それが今まで持ち腐れていた能力を発揮する機会となれば、喜びも一入というものだろう。


「フンっ……まあ、良い。やる気ならば構わん。では、始めるぞ」


「はいはーいっ! それじゃあ、オーパス06セイスの、ちょぉっと本気! 御観覧あれーっ♪」


 セイスは能天気な掛け声とともに一歩を踏み出し、眼下の光景を眺めやる。

 人気の絶えた村落。その外に広がる、ほぼ手つかずの麦畑の穂波。それらを一望し――対象に収めて魔術を行使する。


「……≪天の火精、地の炎霊。今ここに合い結びて、煉獄を現出させよ≫――」


 薄っすらと細められた眼に、形良い唇から瓏々と紡がれる呪文。足元から噴き上がる膨大な魔力が旋じ風を生じ、着衣をはためかせる。その姿は普段の幼稚な振る舞いとは一線を画し、精霊に祈りを捧げるエルフの巫女らしい厳粛さを醸し出していた。

 ドライは密かに感心する。


(ほう。やれば出来るではないか)


 莫大な魔力を持て余すだけの餓鬼かと思っていたが、呪文の詠唱速度、魔力制御の精度、そして発動させんとしている魔法の位階、全て超一級だ。無論、ドライでもやろうと思えば出来る事であるが、造られて一年も経ていない身でここまでやってのけられるというのは、瞠目に値する。

 だが、次の瞬間、


「――≪……ええっと、何だっけ?≫……めんどいっ! 詠唱省略ぁくっ♪」


「ばっ、馬鹿者っ!? 暴発させる気か貴様っ!?」


 セイスは大魔法の詠唱を大幅に省略するという暴挙に出た。

 魔導とはその発動に際し、精緻な制御を必要とする。それを詠唱の短縮、或いは完全無詠唱で省略してのけるのは熟達の魔導師の証でもあるが、それも最初から工程省略を企図していればこそのこと。詠唱の途上で思いついたように残りを破棄すれば、暴発により己が身を焼きかねなかった。

 しかし、


「これでぇ、発動ぉ! ≪インフェルノ・ストーム≫うぅっ!」


 機能不全を起こしかねない不完全な術式を、膨大な魔力を注ぎ込んで強引に完成。その魔の暴威が、眼下に結実する。


 ――劫火。


 建物も、野原も、森林も、田畑も、何もかもが炎に巻かれていく。

 灼熱の舌にくべられ、炭化し灰化し消えていった。それはまさに地上に現出した煉獄である。違いがあるとすれば、燃え盛るのが罪を清める浄火などではなく、単にあらゆる生命の存在を許さない魔の炎であることのみ。

 その灼熱地獄を演出した張本人は、自分の手により生み出された光景を前に、満悦の表情で高笑いを上げていた。


「あはははははははははははははははははははははっ!! 凄い凄ぉいっ! わたしの魔法って、こんなに凄いんだぁ! ここから見えるところ、全部ぜぇんぶ燃えちゃってるぅ! きゃは、きゃはははははははははっ!」


 眼下を舐め尽くし、村の景色を赤一色に塗り替えて敷かれる、炎の絨毯。それを眺めながら哄笑を上げる女など、余人が見れば、自然の守人たるエルフであるなどと信じられはすまい。悪魔の手先か、或いは悪魔そのものである。

 非力でいじましい人間たちが、長い年月を掛けて野を切り拓き、家を建て、畑を耕して作り上げたちっぽけな村落。哀れな下等生物にして実験動物たちの巣が、自分の魔法一つで灰燼に帰していく。彼女はとても楽しかった。見知らぬ子どもが砂場で一生懸命作った砂の城を、横から思いっきり蹴り潰して台無しにしてやったような背徳的爽快感。嗜虐心を大いに満たす悦楽が、幼い頭脳を焼いていた。身震いすら引き起こす程の恍惚は、産まれて間もない彼女が初めて味わう官能であったのかもしれない。

 が、そんな得意絶頂なセイスに、


「馬鹿かお前はっ!?」


「ぴゃんっ!?」


 ドライが思い切り振り降ろした拳骨が、頭へと叩き付けられた。

 法悦の極みから、衝撃と痛覚とで現実に引き戻されたセイスの目に、怒りも露わな先達の顔が飛び込んで来る。


「扱いの難しい高等呪文、それも初使用だというのに思いつきで省略など加えるな! 何を考えているのだ? 死にたいのか? 横にいた私を巻き込んで、その馬鹿魔力で自爆したかったのか? それとも単に阿呆なのか貴様っ!?」


「ご、ごめんなさいぃ~っ! つ、つい呪文をド忘れしちゃってぇーっ!」


 一転して小動物めいて縮こまり、平謝りになるセイス。だが、ドライの怒りは収まらず、そのままセイスのこめかみを両拳で挟んで圧迫していく。


「忘れただとぉ? ……忘れたならっ! 一度詠唱を中断してっ! 最初から術式を練り直せぇぇえっ!」


 魔導師らしい細身とはいえ、生体改造の加えられたドライの腕力である。手加減をしなければ、人間の頭を西瓜割りのように砕くなど造作も無い。そんな力で頭を圧迫されたセイスは、忽ちの内に頭蓋一杯に満ちた苦痛で泣き叫んだ。


「ぴぃいっ!? 割れちゃう! 割れちゃうです! わたしのおつむが割れちゃうぅ!? 脳味噌が右脳と左脳にっ! あっ、それは元から!? ……あ、ごめ、ちょ、痛い痛い痛いぃ~っ!?」


「反省の気配が無いな、あぁん!?」


「ごべんにゃざい゛ぃ~っ!」


 時間にして四、五分ほど経過した。足場にしていた教会の屋根が火災で崩れ始めた為、場所を空中に移して折檻が続けられる。


「――ったく、お前というヤツは、使えるのか使えないのか分からんな。04かお前は」


 ようやく気が済んだと言うようにセイスを解放するドライ。一方、制裁から逃れることの出来た人造エルフの少女は、痛む頭をさすりながら涙目で口を開く。


「う、うぅ~ん……わたしとしては、シャールさんは使える方だと思いますけど」


「兎に角、今度からは魔法の扱いは慎重を期せ。どれだけ強力だろうと、いつ暴発するか分からん魔導師など、恐ろしくて使えたものではない」


「はぁ~い……で、でも強力さは認めてくれるんですよね? ねっ?」


「フンっ。そこだけはな。もっとも、あまりにも制御に向上が見られないようであれば、魔力爆弾として敵に特攻させるよう、ご主人様に意見させてもらうが」


「ぴゅいぃ~っ!? が、がんばりますっ! お父様に見捨てられないよう、せぇいっぱい努力しますですっ!」


「最初からそうしろ、戯けが」


 そうこうしている内に、地上の大火災は鎮火に向かっていた。余りにも強力な火炎魔法の超高温に、地表の可燃物が速やかに燃え尽きた為だ。先程まで広がっていた喉かな田舎村があった場所には、黒々と焦げ付いた大地だけが広がっている。

 その惨禍を無感動に眺めながら、セイスは呟いた。


「……それにしても、お父様の言い付けも不思議ですねぇ。どぉして村の人間さんたちを逃がしてから火を着けるのですか?」


「決まっているだろう、あの毛無し猿どもを利用する為さ」


「? 利用? あっ、もしかして生け捕りにして何かの実験に――」


「だったら、こんな手の込んだことをしなくても良いだろうが。もう少し頭を使わんか馬鹿娘め」


 実際、ドライがこの村で行った工作は少々手が込んでいた。

 わざわざ毒を井戸に投げ込んだ上で適当な村人に飲ませ、これまた適当に洗脳した村人に、これはザンクトガレンの仕業であると言いふらさせる。どうにも迂遠過ぎて、ドライの好みとは程遠い。彼女自身が策を考えるのであれば、ザンクトガレン軍を直接洗脳して同士討ちさせるか、もっと直接的に魔法で薙ぎ払うかしている。

 とはいえ、主の立場上、今回はそういった策を使えないらしい。強力な魔導師の存在を隠していたり、洗脳の手段を持っているのではという疑惑。その可能性を毛無しどものボス猿に気取られると、少々厄介なことになるのだとか。

 自分の仕えている偉大なる主が、低俗な猿の如き人間どもの布いた、下らないルールに煩わされている。ドライはそのことに若干の苛立ちを覚えないでもない。だが、彼女は主人に忠実な道具であり『作品』だ。主に何らかの成算があって引いた絵図ならば、それを完遂する為に全力を尽くすまでである。


「さて、いつまでもここで時間を食う訳にはいかないか。次の任地に向かうぞ。愚図愚図するな、行動は迅速にしろ」


「は、はいぃ! 今度は失敗したりせず、ちゃんとやりまぁすっ!」


 先んじて飛び立ったダークエルフと、遅れてその後を追うエルフ。二人の長命種は魔法の力で空を疾走し、煤煙立ち上る焼跡を後にする。彼女らには、井戸端で逃げ遅れたままでいて炎に巻き込まれ命を落とした哀れな村人の存在など、認識すらされていなかった。いや、認識していたところで何も思わなかっただろう。主によって指令された『一定の数の村人に、ザンクトガレン軍の凶行を吹き込んだ上で逃がす』という目標は、既に達成されていたのだから。それと関わり合いの無い些事になど、意識を割くつもりは毛頭無かった。




  ※ ※ ※




 黒ずんだ煙が辺り一面に立ちこめ、晴天の筈の空を灰色がかって霞ませている。未だに埋み火を残した燃え止しが、そこかしこでパチパチと音を立て爆ぜていた。焦がれきった地面に実る物は無く、寂寞とした荒廃だけが広がっている。

 全てが死に絶えたような焼け野原を、少数の騎馬が所在無げに、虚しく馬蹄を鳴らしつつ彷徨い歩いていた。周囲には供回りらしき徒歩の兵卒が連れ立っている。彼らは騎兵から一定の距離を保ちつつも、焼け野原へと変わった麦畑跡を検分していた。


「これで六件目、か」


 馬上の男、ザンクトガレン連邦王国軍ヴォルダン侵攻軍司令官、ユルゲン・バウアー将軍は、厳めしい顔で呟く。彼の軍がこのように焼き払われた畑の跡地に出くわすのは六回目。先日の物資集積地の焼失により失われた兵糧、その補給の当てであった農村は、全てが先回りしたように潰されている。ザンクトガレン軍の泣き所である食糧の乏しさを、いっそ見事な程に突かれた形であった。

 供をする騎兵の一人が、馬首を並べつつ質問する。


「将軍は、これをアルクェール側の作為的な行為であると?」


「だろうな」


 即答するバウアー。


「いわゆる焦土作戦だ。辺境の農村部で、異常発生した魔物を抑える為に使われる手ではある。人類同士の戦争にも用いられるとは、寡聞にして知らなかったが」


 例えばゴブリンのような人間と同じ食べ物を食する雑食性を持ち、そして繁殖力の強い魔物。これが数百数千の単位で大発生し、農村部を襲う。そうすると、どうなるか? 通常なら食い扶持が足らずに間引かれる魔物の子にも、安定して供給できるほど大量の食糧を奪われてしまう。これにより魔物どもが飢えから解放され、自然淘汰が正常に働かず、ただでさえ異常な数が更に増えることになる。それを防ぐ為に、魔物に奪われるくらいならと、人類自らの手で田畑や食糧庫を焼き払っておくのだ。そうすれば敵の腹を満たすことはなくなり、異常増殖した魔物は共食いの果てに消える。

 勿論、これは窮余の一手。諸刃の剣であり、苦肉の策だ。収入源である畑を潰されれば、農村は死ぬ。貴族の税収の基盤、民の食い扶持、共に消し飛んでしまうのだから当然だ。たとえ再生しようと志しても、どう少なく見積もろうと十年二十年単位の時間が必要となってしまうだろう。


「人類同士の戦争では使われないんですか?」


「当たり前だろう。土地の上がりで食う貴族が、勝つ為だからといってそれを焼くか? 土地で暮らす農民が、それを肯んじるとでも思うか?」


「はっ。愚かな質問でありました」


 部下はバウアーの答えに、納得を得て引き下がる。

 そう、焦土作戦など尋常な戦争では決して用いられない。封建貴族が権力を握るイトゥセラ大陸の諸国では、絶対にだ。貴族にとっては自らの地盤を掘り崩すような愚策であるし、その上に立つ王にしても、一度これを命令すれば全ての地方貴族たちからの支持を失う。更にその下の民も、戦争の為に自分たちの田畑を焼かれるとしたら、敢然と筵旗を掲げて一揆に打って出るだろう。戦争には勝てても、後は根腐れを起こして反乱なり革命なりで勝手に自滅していくのだ。

 魔物相手ならばというのは、それが相互理解不能な種族間での生存競争だからである。自分たちが滅ぼされるかどうかの瀬戸際で、いちいち手段を選んでなどいられない。辺境の村を焼いて怪物ども止められるなら、幾らでも焼くだろう。

 逆に人間同士となるとそうはいかない。同じ種族であるなら、戦争は所詮外交の一手段だ。暴力を以って相手に要求を容れさせるのが目的で、破壊や殺戮はあくまでも一過程に過ぎない。国が滅ぶほどの戦争などナンセンス。人類全体の力が低下し、魔物だけが喜ぶ結果となる。

 その観点から見ると、今回のザンクトガレン軍の侵攻は、些か過激に過ぎるかもしれない。だが、略奪とはいえ奪うのは所詮一年分の蓄え。今後数年、十数年と収穫に打撃を与える焦土作戦に比べれば、大分穏健なのだ。語弊を恐れずに言えば、反則すれすれか反則そのものかの違いである。五十歩百歩と言うなかれ。講和会議や戦後外交といった政治劇の土俵際、足を踏み外す手前で踏み止まれるかそうでないかは、大きな差だ。

 仮にこのような策を取れる国があるとするならば、侵攻を受けた地方を焼き払って切り離しても生き残れるような地力のある、常識を超えて国土面積が広い国。加えて中央の権力者に、地方へと無理な命令を呑ませられるだけの強大な支配力が必要となる。そんな国はイトゥセラ大陸には無い。王室の権力が強いマールベアや宗教的求心力で君臨するオムニア、これらの国でも無理だ。片や島国、片や半島国家。双方、地方を焼いても持ち堪えられる体力は望み得ないだろう。

 では、全土を上げて抗戦する小国なら? ……国を焼いてまで滅びを免れたいというのは理解出来るが、そこまでするほどのものかとも思う。亡国と一口で言うが、滅ぼされた国の王侯貴族は、大抵の場合征服者側の体制に組み込まれ、その国の新たな貴族と化すのが通例。平民に身を落として命を拾う、というケースもある。族滅だの三族郎党に至るまでだのといった苛烈な仕置きは、余程のことがない限り科されないものだ。新領土の統治に根深い恨みというしこりを残すのは下策だろう。それが見え透いていれば、国土を焼き払ってまで抵抗などはしない。そして、民もそんな真似を試みる指導者に、大人しく付き従いはしないだろう。

 ……バウアーは、いや聖王教があまねく信じられているイトゥセラ大陸の人間は知らない。異なる宗教を奉じる国、異なる民族の国同士が戦う場合、たとえ彼我の国力差が莫大であろうと、苛烈な焦土作戦を展開してまで一丸となって決死の抵抗を試みることがあるということを。だが、これは異世界の事例。あくまでも余談に過ぎない話である。

 或いはバウアーが策定中のアルクェール王国軍本隊を迎撃する作戦。そのオプションにある後退戦術案のように、遠征軍が敵国から占領した地で行うのならば、似たような事例はある。いずれにせよ、自国内で自らの土地を焼き払うなど狂気の沙汰だ。


「しかし……どういう男なのだ、この作戦を指示した領主は?」


 時期的に考えて、王都よりの増援はまだ到着していない。伝令すら届いているか怪しいものだ。つまり、この焦土作戦はヴォルダンの領主が主導しているに違いないのである。戦争という非常時とはいえ、躊躇い無く自分の領地を焼き払う領主。その心根とは一体如何なるものなのか。

 敵はザンクトガレン軍四万を賄うに足る食糧を焼いた。つまりは四万人の食い扶持を自ら捨てたことになる。仮にこの戦争を勝ち抜いたとしても、荒廃した領土と飢えた領民を抱えて、途方に暮れるのが関の山ではないか。領主ならば絶対に取るべきではない愚策である。

 だが、その愚策は、確実にバウアーらザンクトガレン連邦王国軍を追い詰めていた。折角集めた兵糧を失い、補填の当てであった手付かずの農村部も焼かれている。このままでは冬を乗り切るどころかこの秋中に枕を並べて飢え死にする羽目になる。これ程までの犠牲を払った捨て身の一手に対し、打開策は事実上無い。敵領主は自領諸共、この軍と刺し違える覚悟であろうか。

 そう考えた時に背筋に走った悪寒は、果たして遮る物無く吹き付ける秋風の所為だったのかどうか。


「……狂っているとしか思えんな」


 狂気の作戦を実行するのであれば、その動機もやはり狂気なのだろう。自領に放火してまでザンクトガレン軍を瓦解に追いやろうというのだ。諸共に地獄へ沈むことも辞さない程、ザンクトガレンに対して憎悪を抱いているか。それとも自領や自身の立場を投げ捨てるほど国に忠誠を誓っているか。

 或いは、戦いに負けて死ぬよりはまし、という考えからの行動だろうか。いや、それも無いだろうとバウアーは内心で否定する。勝敗は兵家の常、一敗地に塗れたとしても、命さえ繋げば再起の可能性は残る。武運拙く、衆寡敵せず敗れたとて、こんな手立てで千載の汚名を残すよりは余程に評価される。それに負けの一回ごとに家を取り潰していたら、貴族などあっという間にいなくなる。一時の恥を忍んで落ち延び、頼るべき筋を頼れば、家格を落とそうとも家は残るし自身も生き残れる見込みがあろう。他家の貴族とて明日は我が身、それを思えば溺れた犬を棒で叩くような真似は、普通ならしない。そんな可能性に怯えて暴挙に走るということは、それほどまでに政治的に孤立しているのか、王国上層部に全くの慈悲を期待出来ない程の不審を抱いているのか――まさかその両方だったとは、この時のバウアーには予想もし得ないことであった。

 ひょっとすると、単に分別というものが無いのかもしれぬ。どちらにせよ、ここまでやるとは正気ではない――それもまた、図らずも正解である。


「将軍。その狂っている敵へ付き合って、素直に戦争を為さることはないかと」


 表情は変わらないまでも慄然としているバウアーに、配下の一人がそう提言する。

 要するに、撤退してはどうかと言っているのだ。


「……言うな。兵に動揺が走る」


 端的な返事は、拒絶の意を強く含んでいた。

 ここで退却してどうなるというのか。アルクェールはザンクトガレンを撤兵に追いやったと喧伝し、講和会議の席でどんな条件を突き付けてくるか分からない。そも、この戦争の目的はアルクェールの貿易における傍若無人な振る舞いを是正する為のものである。たかが一州を焦土としたところで、その目的は果たせない。どころか、例の王都大火の件と合わせて、食糧の輸出を渋る格好の口実にしてくるだろう。その原因を作ったザンクトガレンを徹底的に非難するのも見え透いていた。これでは戦った意味が無いどころか、戦う前より情勢が悪化している。

 そしてザンクトガレン側にも撤退を許せない事情がある。窮状に陥った領邦諸国から兵を集めて出兵しておいて、碌な成果も無しに撤兵すれば、連邦全土から不満の声が上がるのは目に見えていた。兵力や軍資金、そしてなけなしの食糧をも含んだ物資を、何の為に供出したのか。そう責められれば、返す言葉も無い。何か目に見える成果が必要だった。こんな田舎の守備隊を蹴散らした程度では足りない。たとえばアルクェール王国軍の主力を壊滅させ、有利な条件での講和が望める情勢になっただとか、身代金の当てに出来る貴族や王族を大勢生け捕りにしたなどだ。

 この奇襲作戦についても、もっと活用すべきであったという意見が上がるだろう。山越えによる宣戦布告同時攻撃は一度限りの策だ。敵に反抗の余力がある内に早期撤退ともなれば、以後のヴォルダンの守りは今とは比較にならない程固められるだろう。余程の阿呆でない限り。例の峠を使ったルートを念頭に置いて、新たな防衛計画を練られる。そうなれば、二回目の奇襲攻撃など成功する筈が無い。そして山越えなどという過酷な強行軍は、奇襲のメリットが無ければ採る必要すらありはしないのだ。故にこの戦いでは、たった一度の切り札を切るのに見合うだけの成果が求められる。

 何より、撤退路の問題があるのだ。エルプス=ロートレルゲンからヴォルダンに続く道が山道しかない以上、帰る時もこれを通ることになる。峻嶮で寒冷な山道を、食糧や身体を温める為の火酒も無しに行軍する。自殺行為以外の何物でもない。飢えと寒さで、生半な戦闘を行う以上の被害が発生するだろう。せめてこれまでの略奪で集積した物資があれば話は別だが、それも何者か――おそらくはアルクェール側の工作員――の手で焼き払われた後だ。そして物資が焼き払われる前であれば、そもそも撤退案を俎上に乗せる必要性は無いのである。

 以上の理由から、現状での撤退はあり得ない。少なくとも、ユルゲン・バウアーにとっては考えることが出来なかった。


「せめて、州都を落とす必要がある」


 州都ヴォルダン。この地方と同じ名を冠された、同州の中心地。税として納められた穀物や交易路に乗って運ばれてきた品々が、集められているに違いない場所。そこに存在するだろう物資が、ザンクトガレン軍にとっての必要性を増していた。

 物資を抱えて山道を戻るにしても、物資を食い潰してこの地で持久するにしても、いずれにせよ州都は避けて通れない。


「ひ、疲労を抱えた軽装の兵で、城攻めですか……」


 部下が今更になって怯えたようにそう言う。本当に今更である。バウアーなどは、集積地を焼かれたとの報告が入った時からその可能性を想定し、否定しようとし、拒絶し切れなかったというのに。


「ヴォルダン州兵は数も少なく脆弱。城市に籠られても、こちらが押しまくれば、或いは」


 言いながら、口が腐る思いであった。真っ当な将が考えるような策ではない。兵の損耗どころか状態すら考慮しない、兵力を単なる数と考える者が最後に辿り着いて縋り付く、破滅的な作戦。泥沼の消耗戦である。

 だが、後背の拠点に蓄えた兵糧を焼かれたという、有り得ない失態。それを犯した時点で、この暴挙以外に取れる手立ては無い。四万の兵を屯することの出来る拠点を得なければ、いずれ来るアルクェール軍本隊に抗することは出来ないだろう。物資を得なければザンクトガレンに帰ることすら不可能だ。ならば戦って勝ち取るしかない。それがどれだけ凄惨で、地獄のような戦いだとしても。


「伝令ーっ!」


 ふと、灰と土埃とに煙る地平線。その向こうから伝令の騎兵が駆けて来る。

 バウアーは目を眇めて、その伝令の表情を見て取った。

 ……笑みである。


「伝令っ! バウアー将軍、朗報です! まだ焼かれていない麦畑がありましたっ!」


「何っ!?」


 さしものバウアーも、その報告には耳を疑い、次いで目を瞬き、最後には口元を綻ばせた。食糧が、ある。手付かずの畑が、新たな補給源が見つかったのだ。備蓄を失い補う当てを潰され、ついには悲惨な消耗戦すら覚悟したところでこの報である。正に旱天の慈雨であった。


「その報告は、確かなのか?」


 逸る気持ちを抑えつつ、先を促す。伝令は千切れそうなほどに勢い良く首肯して続けた。


「はいっ! 東部と西部の境に存在する村落は、未だ手付かずです! どころか、強行偵察を行った者によると、州西部では麦の刈り入れを行っているらしいとのこと!」


「西部、か」


 考えてみれば、焦土作戦の犠牲と供された土地は、全て州の東部寄りの地域だ。ザンクトガレン軍の勢力圏に近く、加えて地形が険阻な割に砦などが乏しく守り難い。省みて西部はというとヴォルダン州の人口が集中している地域である。食糧が不足すると忽ち暴動が多発する恐れがある。数の少ない上に打ち減らされてもいるヴォルダン州兵では、これを抑えきれまい。

 政治的な事情で州西部には焦土作戦を行えなかったのか。それともアルクェール側は西の麦で自足しつつ、東を制圧したザンクトガレン軍は飢えさせるという戦略か。

 いずれにせよ、西には麦が残っており、また手の届く範囲にも補給出来る拠点が存在する。それは確かであった。

 バウアーは傍らの幕僚へと新たに指示を飛ばす。


「急ぎ徴発部隊を再編成し、報告にあった村から食糧を得ろ。その後は当初の戦略に立ち返る」


「はっ! 直ちに!」


 これで何とか、元の方針に復す目途が付いた。食糧を補給して兵を休ませ、気力十分な軍隊でヴォルダンの西側を切り取りに掛かれる。そうすれば来援するであろう敵本隊にも余裕を以って迎撃に出られるというものだ。


「ふっ……物資の焼き打ちに焦土作戦。こんな策を採られた時には肝を冷やされたが、それを貫徹出来なかったのが仇となったな」


 やるのであれば、西部も丸ごと焼いてしまえば良かったのだ。そうすればザンクトガレンは補給を完全に断たれ、征旅の中途で野垂れ死にする羽目となっていた。自領を焼いたのなら戦後の禍根は必定。ならば逆に徹底的に全てを焼き、残った食糧を手元に掻き集めて、見せ金として飢えた民衆を抑え込めば良い。十中八九は瓦解への道を辿るだろうが、裏を返せば九死に一生でより有利な状況を作れよう。なのに中途半端に西を残すという欲目を出すから、こちらの逆襲の余地まで残してしまうのである。

 勝てる。と、バウアーは思った。スケジュールに狂いが生じ、兵の休養に当て込める時間が短いものなった為、来月には到来する敵本隊との戦闘は厳しいものとなるだろう。だが、この窮地を乗り越えた時、兵たちは飢え殺しなどという策を講じたアルクェール王国への敵意を更に募らせ、士気を高める。何かと緩みがちな結束を、敵憎しの一念で固められるのだ。差し引きであればプラスと考えていいだろう。勝ち目はある。

 少なくとも焦土作戦などという馬鹿げた真似を仕出かした輩は、決して生かして返さない。

 彼はアルクェール王国が嫌いだった。ふざけた貿易、ふざけた外交、そしてこのふざけた戦争の仕方。ザンクトガレンを舐めるにも程がある。グランドンブルクのハイデルレヒト大王家などどうでもいいが、その傘下である祖国バハリアは、この問題の尻拭いに四苦八苦してきた。

 その借りを、纏めて返してやる。ユルゲン・バウアー将軍は、硬い表情の下で熱い戦意を煮え滾らせるのだった。




  ※ ※ ※




「ご報告いたします、ご主人様。お客様は予定通りにお越しになられる見込みです」


「へえ? じゃあ、張り切って歓迎の準備をしなくっちゃね」


「また、サプライズ・プレゼントの方も無事にお見つけになったご様子」


「ふふっ、そうかい。彼らもきっと驚くと思うよ? アレには僕らも工夫を凝らしたからね」


「問題は、プレゼントのみで満足されてお帰りになられる場合ですが――」


「それは無い、ってドルドラン辺境伯が言ってたよ。お客さんたちも、出来れば沢山のお土産を持って帰りたいだろうから、必ずここに来るだろうってさ」


「――左様で御座いますか。準備が無駄にならないのは結構なことなのですが」


「うん。正直面倒臭いんだよね。あーあ、さっさと帰ってくれないかなあ……あの人たち。もしくはさっさといなくなる、か」


「僭越ながら、ここが正念場と存じ上げます。今回を以ってご主人様のご憂慮を一挙に断ち切る好機かと」


「まあ、ね。それは分かってるんだけど、やる気が出るかどうかは別問題というか」


「では、せめてもの英気を養われますよう、本日のお茶を馳走したく」


「……今日は砂糖とミルク、多めでお願いするよ」


「畏まりました、ご主人様」

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ