064 軍靴の如く <後編>
開戦から三日が経っていた。
ザンクトガレン連邦王国軍の奇襲を受けたヴォルダン州は、各地の散発的な抵抗も虚しく、瞬く間に数々の拠点や村落を失っていた。元よりこの地の軍備は脆弱。それが練度においてはるかに勝る敵勢に先制されては、一溜まりも無い。野戦に出ては蹴散らされ、籠城を選んでは瞬く間に抜かれと、何をしても勝ち目の見えない惨憺たる戦況である。
このままでは、一週間もせずにヴォルダン全土を失陥しかねない。この地の民も、戦っては敗れ続ける兵たちも、そんな不安を抱かざるを得なかった。
だが――、
「……ええいっ! あの砦はまだ抜けんのか!」
眼前に聳える小さな砦を前に、ザンクトガレン軍の指揮官は歯噛みした。山越えの成功から続く快進撃に、思わぬ形で水を入れられてしまっている。州の東部を電撃的に制圧し、首府である州都ヴォルダンに手を掛ける間際、この孤塁を前に足止めを喰らったのだ。
吹けば飛び、揉めば潰せそうな程のチャチな防備。それが精兵を以って鳴るザンクトガレンの鋭鋒を挫き続けている。
屈辱に顔を紅潮させる指揮官に、砦の塁壁上から声が掛かった。
「これが音に聞こえた東国の兵か?」
兵士たちがひしめき、草生す屍が臭うような戦場にはそぐわぬ、涼やかな女の声。これが街路で聞こえたのならば、鼻の下を伸ばして声の主を目で追いたくなるような魅力的な響きである。
しかし、この場にあってそんな呑気な感想を抱く者はいないだろう。別してザンクトガレンの兵であれば、だ。
「……思ったよりも、大したことが無い!」
続けて放たれたのは、痛烈な罵言。物を知らぬ人間なら、何を馬鹿なと鼻で笑うような台詞だ。燎原の火の如き勢いで侵攻を遂げている軍勢。それに対して、如何にも浅墓な物言いではないか。
が、この場の誰もがそう言い返すことは出来なかった。勢いに乗って一挙に州都を落とそうと意気込んでいたこの軍勢、その総数三千。それを眇たる砦に依って跳ね返し続けているのが、この女なのだから。
「おのれ……何故、最精鋭の近衛騎士がこんな辺境におるのだ!?」
軋るように歯噛みして、指揮官は毒吐いた。
――エリシャ・ロズモンド・バルバストル。女だてらにアルクェール王国近衛騎士となり、中でも最強の聞こえの高い近衛第二騎士団を束ねる女傑。本来なら王都ブローセンヌにあって国王に侍っているべき人物が、どういう訳か国境の山国で防備に当たっていたのである。
そうとは知らずに無防備の州都を攻略する前哨戦と、軽い気持ちで攻め寄せた。その結果が、三度の攻勢その全ての失敗だ。
山越えを経た故に数の乏しい攻城兵器は、機先を制し打って出て来た第二騎士団の攻撃で破壊された。人数に物を言わせての寄せ手は、精鋭百人の迎撃を前に打ち砕かれている。相手の武威を避けようと重囲し、砦を針鼠にせんばかりに矢を射込んでも効果が見えない。
攻め手のザンクトガレン軍は、貴重な時間を近衛第二騎士団とちっぽけな砦を前に空費し続けていた。
(このままでは……他の隊に戦果で水を空けられてしまうではないか)
砦を囲むこの部隊は、複数の攻略経路をそれぞれ担当する別動隊の一つだ。当然、他の部隊は各々の戦場で戦っている。そこにこの女騎士と配下どもに、比肩するような難敵がいるだろうか?
いるとは思えない。
元よりヴォルダンくんだりで敵国の最精鋭と遭遇するという想定がナンセンスなのだ。或いはこの戦略的奇襲を読まれた為の配置かと思うが、それは否定すべきだろう。最初からザンクトガレンに攻められると分かっていたなら、虎の子の近衛騎士百人を、こんな場所へ無造作に配置する訳が無かった。普通ならば、騎士団を中核とした数千人単位の兵力を組織し、以って防戦に当たらせる。
それが為されていないということは、ここにエリシャらがいるのは偶然である公算が高かった。恐らくは地方での演習なり巡検なりでこの地を踏んだところを、偶さか今回の開戦に巻き込まれたのだろう。でなくば、奇襲を見抜いた者がいたとして、その者が宮中で賛意を得られなかった為に、仕方なく少数の精鋭のみを派遣したかだ。
どちらにせよ、他の兵団はこれ程までの抵抗を受けてはいないだろう。自分たちのみが貧乏くじを引いたかと、指揮官は顔を苦らせる。
「何を手を拱いておられるか?」
背後から、苛立ちに満ちた声が飛んで来た。彼が振り向くと、そこにはあの忌々しい女と同じくらい、戦場に不似合いな人物が立っていた。
矢玉が飛び交う鉄火場にあって、鎧も着けずにローブ一枚を身に纏うのみという出で立ち。骨相も肉付きも薄く、おおよそ暴力とは無縁な風情ながら、どことなく得体の知れない雰囲気を持った男だ。
この隊に同道している魔導師である。
「斯様に小さき砦、我ら魔導師ならば掘立小屋も同然。瞬く間に更地にしてご覧に――」
「馬鹿者っ! 何故、前に出て来たっ!?」
厭味ったらしい口上を遮って怒鳴りつける。魔導師たちには待機を命じていた筈だった。
果たして、魔導師は不服げに肩を竦める。
「戦う為に決まっているでしょう? 何、雑兵ばらが手古摺る相手だろうと、アカデミーで魔導の深淵を極めた私ならば――」
「時が来れば呼ぶと申し付けたであろう! それに、意見具申ならば伝令を使え! 何の為に待機を命じたと――」
口論は、長くは続かなかった。
「……魔導師、見つけたぞ」
――ヒヒィィィインっ……!!
ザンクトガレン兵の鬨の声を押して、甲高い馬の嘶きが響く。
聞こえたのは砦の方からである。反射的に振り返って仰ぎ見た指揮官。彼の眼に、度肝を抜くような光景が映った。
「その首、貰ったァ!」
いつの間にやら馬上の人となっていたエリシャが、なんと砦の上からこちら目掛け、乗騎ごと飛び込んで来たではないか。幾ら包囲の一角とはいえ、砦からは距離にして百メートルは超えている。それが見る見るうちに詰まり、気が付けば女とも思えぬ狂喜の表情がつぶさに見えるまでに近寄られていた。
「ひっ!? ふぁ、≪ファイアボール≫っ!」
魔導師が咄嗟に魔法での迎撃を試みるも、無駄であった。
放たれた炎の魔弾は、迫り来る女騎士に命中する直前、見えない壁にでも弾かれたように無効化される。
指揮官は、目を瞠った。
「ユニコーン……!?」
女騎士を背に頂く白い馬体。その正体は、希少な幻獣種の一種である。
ユニコーン。馬の身でありながらも額に霊験あらたかな一角を備え、主と認めた存在に加護を齎すという瑞獣だった。成程、これだけ高位の幻獣ならば、塁壁から一飛びでここまで来れるだろうし、生半な魔法など一瞥で無力化してしまうだろう。
そして、強力な敵騎士に詰め寄られた魔導師の末路など、一つしか無い。
「ぎゃあっ!?」
馬上から繰り出された鋭剣の斬り下ろし。それだけで迂闊な魔導師は脳天を割られて絶息した。
「うわぁあああああぁっ!?」
「で、出たっ! 化け物女だァ!?」
どころか、勢い余って周囲の兵たちをも馬蹄に掛けて、字句通りに蹴散らしていく。大惨事である。
(だから、魔導師たちは待機していろと言ったのだ……!)
身に走る戦慄を誤魔化すように、指揮官は思った。
仮にも一国の最精鋭である近衛騎士だ。対魔法用の装備は最優先で配備されているはずである。ユニコーンなどという高位幻獣の存在は想定外としても、こんな別動隊に回される魔導師では荷が勝ち過ぎる相手だった。だから、万が一にもぶつかり合わぬよう待機を命じていたのに――。
そんな現実逃避を打ち切るように、背後から冷たい刃金が首筋に当てられる。
「物のついでだ。兜首も頂いていこうか」
いつの間にやら馬首を返していたエリシャが、こちらに剣を突き付けていた。この剣も何かの礼装の類なのか、単なる鉄の感触とはまた違った、凍えるような冷感を刀身から伝えてくる。
この間合いでは、碌な抵抗も出来ない。自分は討ち取られるだろう。彼はそう観念すると同時に叫んだ。
「……者ども、退けェいっ! 退却して、他の部隊との合流を――」
最期の命令は、蒼銀の一閃によって中途で断ち切られる。
州都ヴォルダンを指呼の距離に置いた侵略者は、斬首を以ってその罪を購った。
彼の目は、身体から分かたれ宙を舞う間、麾下の者たちが開門した砦から出撃した騎士どもに蹂躙される光景を見ていた。
「見ろ! 逃げ帰っていくぜ、あの連中!」
「ざまァみやがれ、東のかっぺどもが!」
「我らが姐御、万歳っ! バルバストル団長、万歳アァいっ!」
砦を囲んでいた敵兵が、潮の引くように離れていく光景。それを目にして、近衛第二騎士団の猛者たちは大いに快哉を上げた。何しろ五十年ぶりとなる対外戦争だ。その緒戦において味方が総崩れする中、自分たちのみが敵を撃退したのである。それも怜悧な美貌を持つ女団長が先陣を切って敵を壊乱させ、一方こちらには被害らしい被害は無いという完勝なのであった。これぞ我らに相応しい武勲と、誇らかな思いでいるだろう。
だが彼らの首座であり、この勝利を齎した張本人でもある団長、エリシャ・バルバストル。馬首を返して砦に戻ろうとしている彼女の表情は、倦み飽いたようにつまらなさげである。
「お疲れ様です、団長」
「この程度、何が疲れたものか」
いち早く傍に寄り、労いの言葉を掛けた副団長へも素気無い返事を寄越すのみだった。
「それよりも浮かれている馬鹿どもを引き締めろよ、副団長。所詮は局地戦の小競り合いで拾った、小さな勝ち星に過ぎん」
「……手厳しいお言葉で。局地戦と言えど、無防備な州都を背にしての防衛戦。大事な一戦での武勲です。もう少しお喜びになっても――」
「おい、アル。お前まで馬鹿になってしまったのか?」
斬りつけるような厳しい一言に、副団長アルフレット・シモン・プリュデルマシェは凍り付く。
「それとも、この期に及んで私を試しているつもりかな。……州の首府への攻略など、向こうは何度だって挑んで来るだろうさ。それも今度は、本格的に体勢を整えてな」
「――ええ。今日打ち払った相手は先遣隊に過ぎません。それも大方、物資徴発部隊のようなもの。こちらの防備の弱さに気を抜いて出したのでしょう」
速やかに再起動を果たしたアルフレットが滔々と述べる。
山越えという補給路の確保が困難な形での進軍、そして開戦の動機となるほど深刻な食糧難と経済危機。これらが為にザンクトガレン軍は、必要となる物資を敵地であるヴォルダンに依存していた。今頃州の各地では、敵兵が麦畑で刈田狼藉を働いたり食糧庫に押し入ったりと、略奪紛い――いや、略奪そのものの形で兵糧確保に勤しんでいる筈である。
今回、州都への途上にあるこの砦に押し入ったのも、そのような目的で進発した一団だろう。ところが予想以上にヴォルダン州兵が脆弱であった為、あわよくばと手柄に逸り州都を直撃しようと図った。恐らくはそんなところだ。
「なんだ、解っているじゃあないか」
エリシャはそう言い放ちながら、ヒラリと身軽に下馬する。唐突に軽くなった背中の感触が不服なのか、ユニコーンがぶるると唸った。
「それに、だ。負け戦の中で拾った勝ちを誇れるほど、卑しくはなれんよ。こんなものは時間稼ぎにも入らん。精々が点数稼ぎと言ったところか」
「点数稼ぎですか。それは我らをここへ送った御老体の?」
「ああ、そうだろうよ。騎士団の派遣を先見の明と言い立て、このつまらん勝利を勲功であると摩り替える。赤髪の坊やを批判する口実としてな。あの爺のやりそうなことさ」
オーブニル伯爵家傘下の州兵が連戦連敗する一方、ラヴァレの口利きにより送り込まれた騎士たちが気炎を吐き勝利を挙げる。この構図こそ老陰謀家が期待していたものだろう。伯爵家を継いだばかりの青年トゥリウス・オーブニルは、部下たちの敗北によって評価を落とし、逆にラヴァレはエリシャらの戦果を自身の功績とするのだ。
「困ったものですな。隣国との戦争だけでも大変だというのに、自国の政争まで絡んできますとは」
溜息を吐きつつ零すアルフレット。
先年の王都大火への関与や貴族たちへの洗脳など、トゥリウス・シュルーナン・オーブニルという男を取り巻く疑惑は、確かに深刻であろう。真実であるのなら、すぐにでも斬首すべきだ。かといって国内が割れているままで勝てるほど、戦争とは容易いものではない。
そんな危惧を漏らしたのだが、エリシャは首を横に振る。
「勝つだけなら何とかなるさ。見てみろ、敵兵の装備の程を」
言って、砦の周囲に散らばった敵の骸を顎で示す。
見ればザンクトガレン兵の装備は、いずれも軽装だった。それもその筈、彼らは山を越えて攻めて来たのである。重たい甲冑など着けていては、峠道の上り下りで体力を大きく奪われ、国境を越える前に山中で力尽きてしまうだろう。
「成程。奇襲に特化した編成の相手ならば、完全に充足した状態で来援する本隊が如何様にも料理できる、と」
街道を進軍するアルクェール王国の援軍に、山越えの為に軽装を選択する必要など無い。完全装備に身を固めた軍勢ならば、素肌と大差無い奇襲部隊など一蹴出来よう。
「完全に奇襲が決まっていたなら、国内も動揺して好き放題されていただろうがな。ところがあの爺、これを読んでいたどころか、相手が開戦したくなるよう追い込んでいた節すらある。であれば、この戦争への備えは万端さ。今頃王都に返り咲いて、しこしこと援軍の準備を整えていることだろうよ」
もしも完全な奇襲であれば、動員の遅れから冬までにヴォルダン全土が陥落し、王都からの救援が雪で進軍できないまま、来春まで戦争が長引く恐れがあった。そうなれば越冬した奇襲部隊は、アルマンド方面を攻めている本隊と呼応して北上し、同地を挟撃。ヴォルダンのみならずアルマンドまで奪えただろう。そうならずとも、戦況は最低でも拮抗し、どう転ぶか分からなくなる。
だが、恐らくアルクェール王国の援軍本隊は、今秋中にヴォルダンに到着する。それが出来るようラヴァレが手を打っているのだから。またアルマンド公爵領も、秋から冬までという短時日で落とせるほど柔な防備はしていない。国防上の要衝である彼の地を陥落させるには、恐らく半年以上は掛かると想定されている。ザンクトガレン本国軍とヴォルダンへの侵攻軍による挟撃策は、この地を占領して春まで粘れなければ画餅に過ぎないのだ。
アルクェール王国軍は勝つ。そしてラヴァレも、ヴォルダンを碌に守り切れないであろうトゥリウスを、戦後処理に乗じて粛清する機を得るだろう。
恐らくは、とアルフレットは成り行きを想像する。あの老人の悲願は五十年前の敗戦に対する雪辱だ。講和の条件として、かつて失陥したエルピス=ロアーヌの地を要求するだろう。この功績を背景に中央集権派の発言力を高め、地方分権派更に追い込む。ただ、何が起こるか分からないのが戦争だ。もしかすると地方諸侯の軍が手柄を立てるということもあるかもしれない。その場合はトゥリウス粛清が効いてくる。彼を更迭したらヴォルダンの地は領主不在だ。そこを恩賞として切り分けてやれば良い。何しろ戦禍でボロボロになっているのが目に見えている土地である。与えられた諸侯は内政面の回復に力と時間を取られ、集権派に抗うどころではなくなるだろう。或いは取り返したばかりのエルピス=ロアーヌに押し込むというのもありかもしれない……。
考えれば考えるだに、良く出来た策であるとアルフレットには思われた。希代の策謀家が生涯を賭して練り上げただけの事はある。
だというのに、
「団長はご機嫌麗しくないようですね? 戦争には恐らく勝てる、加えて国家の内憂をも排除する好機でしょうに」
それを指摘してのけた女騎士は、不興げに顔を顰めているのであった。
彼女は言う。
「事を仕組んだ爺なら兎も角、何故私が喜ばなければならんのだ。王国の精華である近衛騎士、中でも最強と謳われた我ら第二騎士団は、今どこで何をしている? 勝っても負けても大して変わらん辺鄙な戦場で、小兵を相手に手緩い戦だ! ……ああ、糞っ! 面白くないっ」
つい先程、敵包囲陣三千人の一角へと、単騎で斬り込んでおきながらこの発言である。果たしてこの猛女が手緩くないと評する戦とは、どれ程の地獄なのであろうか。
「大体何なのだ、あの敵兵どものひ弱さは。大陸一の精兵を誇るザンクトガレンの軍勢だろう? それと存分にやり合えると聞いて胸を高鳴らせていたというのに、いざ戦ってみればふやけた駄菓子のような歯応えの無さだ! 幾ら装備に劣り山越えの疲労があったとはいえ、程度というものがあるだろう!?」
「この奇襲作戦も投機性の高いものですからね。ザンクトガレンの方も、精鋭の投入を惜しんで二線級の兵を回したのではないでしょうか。向こうとしても、アルマンド方面へ手抜かりは出来ないでしょうし」
「ええい、東国の将はうつけか!? 緒戦こそ合戦の分岐点だぞ。最精鋭は切り札の予備兵力とするにしても、先触れにはせめて一線を張れるだけの兵を当てるのが定石だろうがっ!」
ついには地団太まで踏み始めてしまう。手綱を引かれる彼女の愛馬も、飼い主に倣うように前足で土を掻いた。
彼女はこう言うが、アルフレットとしてはザンクトガレンがそれほどに悪手を選んだとは思えない。何しろヴォルダン州を守る戦力は、この砦に詰める騎士団以外、揃って総崩れに陥っているのだから。
「敵の不手際は、責めるよりも喜んでおきましょうよ。何しろ負け戦の只中です。もし敵が有能であれば、最終的には我が国の勝ちとしても、それまで我ら騎士団が生き残れるとは限らないのですから」
「ふんっ、分かっているとも。弱兵に押し包まれて死ぬというのも詰まらん話だ。アル、敵が退いている今の内に、兵糧と秣を集め直させろ。王都の援軍さえ来れば冬まで縺れるとは思わんが、どうなるか分からんのが戦というもの。最悪の場合は今の備蓄では物足りん」
エリシャは軽く鼻を鳴らしつつ、そう命を下す。
「徴発する際に手段は問わぬ。略奪だろうと構わんと伝えろ。民が飢えるのは同じだが、敵国の兵の腹を満たすよりはマシだろうよ」
苛烈な意見ではあるが正論ではあった。食糧や物資が奪われるのは変わらないが、やるのがザンクトガレンとなればそれに放火や強姦、ともすれば虐殺などの嬉しくもないオマケが付いてくる。ある程度の情けは掛けてくれる同国人の方がマシだろう。五十歩百歩ではあるが、百の損益を五十にまで減らせるのは大きい。
なのでアルフレットもその点には異論を挟まず、話題を転じるように別の意見を述べる。
「おや、州都ヴォルダンには入られないのですか? 都市に入って州兵を糾合するなり民を徴募するなりなされば、今少し派手な戦も出来ると愚考しますが」
「駄目だな。先代の伯爵を悪く言いたくはないが、この地の軍は心根からして負け犬だ。直に大軍と対面すれば、すぐにでも尻に帆を掛けて逃げ出す。急場に武器を持たせただけの民兵は、それに輪を掛けて頼り無い。味方の壊走に巻き込まれるのは趣味ではないし、それに我らが砦で踏ん張る姿を見せれば、連中も多少は持つだろう」
下手に合流して騎士たちの持ち味を殺すよりも、ある程度距離を保って連携する素振りを見せる。その方が州軍の奮起を期待できると言う。
一理はあった。団体行動というものは二人三脚に似た側面がある。複数人が共同で動く際の能率は、大概の場合、早い方が遅い方に合わせられてしまう。精鋭の騎士団も凡百の雑兵と混じれば、その武威を殺がれるのは確実だ。ならばこちらに注意を集めて敵兵を割かせ、他方面へ向けられる筈だった脅威を受け持つ方が良い。これなら第二騎士団に余計な枷を付けないまま、味方の負担も減らすことが出来よう。
「言われてみればそうですね。加えて伯爵との間に指揮権の問題が生じる場合もありますし」
未だに姿を見せていない、オーブニル伯爵家新当主トゥリウス。彼が戦地に到着した際に兵の指揮権を主張されれば、要らぬ揉め事が起きる可能性がある。船頭多くして船山に登るの喩え話通り、命令を下す頭が二つもあっては混乱の素だ。ただでさえ劣勢の状況で、統制を危うくするような可能性は避けたい。
アルフレットに言われて、エリシャはふと思い出したように口を開く。
「そういえば、その新伯爵はまだ出てこないのか?」
開戦から三日。幾ら軍務経験の無い新当主といえど、そろそろ何らかの動きを見せても良い頃合いである。また最終的にあの男がザンクトガレン軍に敗れるとしても、多少の抵抗を演じて時間を稼いで貰いたいところだ。そうすれば王都からの増援も有利な形で戦えるし、第二騎士団の方も幾分かやりやすくなるというものである。
だが、州の南東部マルラン郡から、あの狂人の手勢が動いたという報告は無い。
「分かりません。伝令がこちらに辿り着いていないだけなのか、それとも本当にまだ動いていないのか。どちらもあり得ると思います。ならば――」
「――ならば、悪い場合の方を想定すべき、か。あの坊やには期待しないでおこう」
「それがよろしいかと」
何しろあの男は、自分が助かる為に王都を焼いたのではとすら推測されているのだ。出撃したらしたで、エリシャら近衛第二騎士団ごと敵を薙ぎ払うくらいはやりかねない。到底味方だとは思えない相手なのだから、動かなかったという前提で行動しても、特に損は無いだろう。
そんなことを考えながら、アルフレットは上司と共に砦へと戻った。
※ ※ ※
王都ブローセンヌのメインストリート。表向き先年の大火の名残を消し去ったかのように見える通りを、何台もの荷馬車が休み無く行き交っている。満載されているその積み荷は、麦などの穀物や燻製などの日持ちする加工食品、ラム酒のような飲み水代わりになる酒などだ。が、それらが運び込まれる先は市場や問屋などではない。
軍である。
この王都より南東に隔たったヴォルダン州に来寇した、隣国ザンクトガレンの軍。これを打ち払わんが為に編成を行っている王国軍本隊へ、必要な物資を搬入しているのだ。
それだけではない。街のあちらこちらには、地方から上って来たと思しい兵隊や、傭兵らしき薄汚れた武具を纏った無頼漢、それらへの誰何や案内に駆けずり回る警邏の兵の姿が見受けられる。ヴォルダンへの援軍に参加する為に集まった人員たちが、王都の人口を一時的に嵩上げしていた。
物見高い都の市民たちは、遠巻きに馬車の行列や見慣れぬ土地の兵たちを冷やかし、話題の種としていく。どこそこの貴族の軍勢は中々立派だっただの、逆に何とかというお偉方の手下は弱そうだだの、あの傭兵風の男は腕が立ちそうだの……特に根拠も無く、そう噂するのである。
商人の中でも目端の利く者たちは、王都のあちこちに急拵えの出店を構えていた。出征する兵士に向けた武器防具や回復の秘薬、魔法の掛かった礼装。果ては食いもの屋の屋台までもが軒を連ねている。急に人の増えた街では、特に食い物が良く売れた。都に上って来た兵たちだけでなく、それを見物しに現れた市民も買っていくからだ。
人や物が飛ぶように行き交い、ざわめきや香具師の呼び込み、揉め事を起こした酔漢の怒号などの騒音が引っ切り無しに上がる。無秩序な活気が街を支配する様は、どことなく祭りの雰囲気に似ていたかもしれない。
だが、これより始まるのは戦争だ。五十年前の敗戦以来となる、ザンクトガレン連邦王国との戦い。既に往時の惨敗を知る者は多くが身罷っている。民、貴族、軍人を問わず、戦禍の無惨も敗北の悲惨も知らない者が多勢を占めていた。しかし、これより挑むは紛うことなくかつての雪辱戦。かつて敗れた相手への挑戦だった。
この躁的な活況は、敗北の歴史から来る不安と、勝利に対する根拠なき楽観とが混淆した結果生じた、集団ヒステリーの一種ではないだろうか。
そんな浮ついた街の様子を、通りに面した建物の二階から見下ろす目があった。
「混雑の発生も程度の範囲内……ふむ、これならば一週間の内に発てるかの?」
深い皺とほうれい線が刻まれた顔。裸の胸に肋が浮き、痩せた腹もまた皺が寄っている。しかし、爛々とした眼光から窺い知れる英気の程は、壮者をしても瞠目させることであろう。青く浮き上がった静脈の不気味さもあって、妖怪じみた印象を与えるような老翁である。
ジョルジュ・アンリ・ラヴァレ侯爵。開戦の報と同時に王都へと舞い戻り、今日の状況を作り出した張本人だった。
「いけませんわ侯爵様。秋風がお身体に障ります」
開け放たれた窓際に立つ老人の背後から、艶っぽく掠れた女の声が上がる。裸の胸にシーツを巻いて慎み深く隠していた。老いさばらえた痩躯を晒す男との取り合わせは、祖父と孫ほどにも離れているこの二人が、日も高い刻限から秘密の行いに耽っていたと悟るに十分である。
彼女は寝台から降りると、絹の内掛けを彼の肩へとそっと掛けてやった。
「おっと、いかんのう。もう年だというに、こんな恰好で風に当たるとは……いや、先程までついつい若返った気分でいた所為やもしれぬな」
内掛けに袖を通しながら冗談めかして言うと、女の顔にぽおっと朱が差す。
「まぁ……」
彼女は赤らんだ頬を冷ますように頬に手を当てた。そろそろ三十路というところの見た目に似合わず、少女めいた含羞の仕草。余人が見れば、世間知らずの禁欲的な貴婦人が、老醜の毒牙に掛かったかと思いかねない光景である。
が、その推測は半分しか当たっていない。女の身分は貴婦人と呼べるものではなかった。
「おぬしとの逢瀬は常に無く昂るの。ほほっ。見目麗しさは当然のこととして、背徳の彩りが華を添えておるからかのう?」
ラヴァレは感慨深く述べながら、意味深長な視線を女の背後に向ける。丁寧にもハンガーに掛けられて壁から吊られている、丈の長い女物の衣服がそこにはあった。紺色に染められた、上下に継ぎ目の無いワンピース。白く広い襟が楚々とした印象を与える――尼僧衣。
女は聖職者だった。それも禁欲と求道を旨とする出家信者。半世紀も年の離れた男に溺れるなど、言語道断な筈の身の上だった。
彼女は老人の指摘に対し、拗ねたように唇を尖らせる。
「お止め下さいまし。そんな、ああ、罪深いことですわ……」
そして嫌々と頭を振った。口では拒むようにそう言うが、潤んだ目元と熱い溜息は、自覚は無くとも誘っているも同然である。ラヴァレがあと二十年、いや十年若ければ、のぼせ上ってそのまま二戦目へと挑みかかったことだろう。
彼はくすりと笑って、部屋の隅に用意させていた品物を取り出す。
「では、神の血で罪を禊ぐとするかね?」
言いながら見せびらかすように掲げたのは、ワインのボトルだった。狐狸だの策士だのと評される老人とは思えぬ、茶目っ気に満ちた仕草である。女はそれに呆れを滲ませながらも笑みを返す。
「今度はお酒……いけませんよ、まだお昼ですのに」
「ほっ。固いことを申すな。先程まで、身体の芯からあんなに解してやったろうに」
「また、もう……ふふっ」
野卑な戯言と共にコルクで栓された口を向けると、彼女は降参するように肩を竦めた。
「では、不作法なれどご相伴に与りましょう」
「うむ。それで良い――今日は儂が酌をしてくれよう。ささっ」
ベッドサイドの小卓にグラスを二つ並べ、赤い液体をゆっくりと注ぐ。寝台を椅子代わりに、男女並んで座った。
このような備えが予めされていることから分かるだろうが、ここはただの安宿などではない。平民が多く利用する表通りに建っていることから、貴族の邸宅でもなかった。ラヴァレが王都復興に際して密かに建てさせた、隠れ家の一つである。
普段は侯爵家の陰働きをする者が諜報の拠点として利用しているのだが、時折悪戯心を出した当主自身が、このように人目憚る目的で使うこともあった。今日の場合は彼女との密会と、ついでに出征を控えた王都の視察を兼ねての来訪である。
ワインを湛えたグラス同士が、軽く打ち鳴らされる。チンっ、と涼やかな音色が心地良く響いた。
「さて、これは何の為の乾杯であろうかな?」
「それは勿論、天に坐します聖王様に。未熟な私をお叱り給わんことを、と」
女の答えに、ラヴァレは小さく吹き出した。禁欲を謳う聖王教徒でありながら、男女のことで行き着くところまで辿り着いた者の言葉とは思えない。しかし、心中に何度肌を合わせても侵せぬ聖域を持つ女というのも、この男にとっては乙なものである。新雪に足跡を刻みたくなるのに似た征服欲と、その純粋さ故にそそられる庇護欲。相反する欲望の狭間に遊ぶ心地は、この道に人並み以上に通じている老人にとっても、新鮮な刺激であった。
彼はワインに舌鼓を打ちながら、唐突に話題を変える。
「ところでオムニアは、此度の戦に際してどう動かれるのかね?」
オムニア皇国。大陸の南に突き出た半島に位置する国であり、七百年前までは大陸唯一の国家であった歴史ある国だ。聖王教の総本山として知られた宗教国家でもある。そして国民のほとんどが聖王教徒であるアルクェール王国とは、長年に渡り共同歩調を取る友邦でもあった。
「本国からの書簡によると、枢機卿会議も紛糾しているようでして……ですが、アルクェール王国にお味方するという方針は一致しておりますわ」
「当然じゃろ。でなくば永年の友好の意味を疑う羽目になるわい」
「はぁ……それで、主な顔触れの意見ですが――」
女はラヴァレの問いに唯々諾々と答える。彼女は五年ほど前に、オムニア本国からブローセンヌの聖堂へと派遣されて来た尼僧であった。何でも一門の男に有力な司祭がいるとのことで、その伝手からの情報を得んが為に近付いたのが馴れ初めである。当初は身持ちの堅さに苦労させられたが、こうして籠絡した今となっては、偶の寵愛を対価に楽しく囀る可愛い小鳥だ。
もっとも、女性を諜報の為に口説き落とすのであれば、何も老境の当主が自ら出張る必要など無い。配下の男衆に任せれば済む話だ。本人は趣味と実益を兼ねてのことと嘯いているが、かなりの度合いで趣味に寄っているのは自明であった。
(ふふっ、愛いやつ……)
ほくそ笑みつつ、重要な報告を終えた頃合いを見計らって、悪い手を伸ばす。一度は鎮めた筈の昂りが、口にした酒精と隠避な会話とに刺激され、再来していた。女は少し目を丸くしたが、肢体を這う節くれだった指を払い除けたりはしない。
「んっ、またですか?」
「どうした? 嫌なら止めるが」
「そうではなくって、あっ、侯爵様のお加減が……」
途切れ途切れに漏らす言葉から、どうやらラヴァレの健康を案じてのことらしい。彼の半分程度の年齢であっても、一度目で疲れ果てる男は多い。いわんや八十にならんとする老人にとって、どれ程の負担だろうか。そんな心配が頭を過るのも当然であった。
しかし、事に慣れ切っている彼は薄く笑う。
「心配は要らぬ。これが儂の養生法じゃて。若やいだ肌に触れておると、ほれっ、一撫でで皺一つ消えるような心地でな……?」
「そんな、私ももう――」
早婚の傾向にあるイトゥセラ大陸において、三十路前は適齢期を逃したと言って良い。とはいえ、結婚に適した年齢と、心身が成熟しパートナーと存分に楽しみ合えるようになる時期は、必ずしも一致しないものだ。それに生涯未婚の筈の修道女が、適齢期を物差しに若さを測るというのも妙な話だった。
(いや、尼僧がこのような悪戯に耽っておる方がおかしいかの?)
今更なことを思いつつ、更に指を進める。片手で変わらずグラスを口に運びつつ、残る片方のみで相手を翻弄していた。自身の技量が錆びついてはいないことに、軽い満足を覚える。
完全に手中であしらわれていることに、女が抗議の声を上げた。
「きょ、今日の侯爵様は、い、意地悪ですっ」
「ははっ、今更じゃな。儂はいつも意地悪爺と呼ばれとるよ」
「そうでは、なくってぇ……!」
いつに無く意欲的とでも言いたいのだろうか。そうかもしれない、と老翁は密かに納得する。何しろ、五十年来の宿願成就まで後一歩のところまで来たのだ。
隣国での魔物の大発生にこの国を襲った王都の火災。二つの変事に乗じて両国間の物流を操作し、忌々しいあの国を開戦にまで追い込んでやった。
戦場となる場所はオーブニル伯爵家領ヴォルダン州だ。これを利して国内最大の癌である【奴隷殺し】の小僧を始末出来れば万々歳である。
ヴォルダン奪還とアルマンド方面の抑えに差し向ける軍勢も、着々と整ってきている。侯爵家の私財、そして王都復興にかこつけて集めた物資と資金によって、編成は迅速に進んでいる。
その功績から、中央集権派の領袖の椅子も既に取り返している。何も出来ずに右往左往していたランゴーニュの若造を蹴落とした時は、胸がスッとする思いだった。
後はザンクトガレン軍を蹴散らして、返す刀でトゥリウス・オーブニルを除くだけ――あの小僧のことだ、敵軍風情に首を取られることはないだろう――である。オムニアは思ったより腰が重いが、流石に戦争後にはアルクェールに援軍を入れている筈。彼らと合わせればトゥリウスとその派閥を駆逐出来る。そうすれば残る地方分権派を如何様にでも料理して終わりだ。
何もかもが順調に進んでいる。その万能感と達成感とが、老いた肉体に滾々と活力を湧かせていた。
「それとも、矢張り戦争の空気故、かの? 五十年ぶりの戦に、儂もあの頃に戻ったようじゃて」
或いはそうなのかもしれなかった。だが、五十年前と今とでは明確な違いがある。
彼はもう、うだつの上がらない三男坊ジョルジュ・アンリではない。世人がラヴァレ侯爵と言えば、それは彼を指しての言葉というのが常識になっていた。
何も考えず前線で戦う匹夫でもない。後方にあって戦争計画全体を描いているのは、他でもないこの自分なのである。
そして、戦う前から根拠の無い楽観論で勝利を確信しているのではない。五十年前から今日の為に戦い続け、今まさに勝利を得ようとしているのだ。期待と希望とで胸が躍るようだった。この身が張り裂けそうな程の煥発な衝動が、捌け口を求めて目の前の女体に向かったとしても、おかしくはない。
「ほれ、儂の胸に触れてみせい? まるで若返ったように跳ね回っておるわい」
ふと思いついた戯れで、女の手を自分の左胸に重ねさせる。きっとこの高揚感が伝わるだろうと、らしくもなく無邪気に考えて。
だが――、
「こ、侯爵様……!?」
彼女は紅潮していた顔色を、一転してサッと青褪めさせる。ラヴァレは相手の急激な表情の変化を訝しんだ。
「? どうした? 何を驚いておる?」
「い、今すぐにお休みになって下さいっ! お身体が、貴方様のお身体がっ!」
「だから、何を――」
そう問いを重ねようとした瞬間である。
――ドクン……っ。
心臓が、生涯でかつてないほど大きく高鳴った。
身体がカッカと熱くなり、その癖、冷たい汗が収まらない。
「何、じゃ……?」
胸が痛い。息が苦しい。……目の前が、暗い。
四肢から力が抜けて、持ったままだったグラスが指から滑り落ちる。
横になる視界。零れたワイン。シーツを穢して広がる赤い染み。……完全な暗転。
(わ、儂は……どうな、って――)
「侯爵様っ!? しっかりなさって下さい、お気を確かに! 侯爵様、ジョルジュ様ぁ!」
暗闇の中で、女の悲鳴と自分の不規則な心音だけが耳鳴りのように響く。
だが、それも次第に遠く朧げなものへと変わっていき、やがて不気味な程の静寂が訪れた。
そして、ジョルジュ・アンリ・ラヴァレ侯爵の意識は――――――。




