062 嵐の前に
収穫を目前に控え、木々も赤や黄に彩りを変え始めた秋。領主が政務を行うこの部屋も、多少装いを変え始めていた。壁にはタペストリーの代わりとして家伝の紋章を刻まれた旗が掛けられ、細々とした調度も今までの物より一段ほど価値の高い物に置き換えられている。
そんな風に心持ち豪華さを増した執務室で、僕は一人の来客を迎えていた。
「トゥリウス卿。この度は当主就任及び伯爵位叙爵、誠に祝着至極ですな」
「どうも、ドルドラン辺境伯閣下。こちらこそ遠路遥々お祝いに駆けつけて下さり恐縮です」
僕ことトゥリウス・シュルーナン・オーブニルの気の無い返事を聞いて、客人である少壮の貴族は目に見えて苦笑した。余程不本意そうな顔をしてしまったのだろう。
マルランくんだりまで来て貰った彼には悪いが、この出世は全然目出度くない。何せ、先代当主である兄上が発狂し前後不覚になった挙句での事なのだ。世間からはさぞ薄気味悪く見られていることだろう。
僕個人としても、全然喜ばしいことではない。こっちは錬金術の研究に専念出来ればそれでいいってのに、畏くも一州を預かる伯爵家の当主だなんて、良い迷惑だ。余計な仕事が多過ぎる。幸いにも、収穫期が近いので王都に伺候するのは年が明けるまで待つ、という御沙汰は出ている。正月までに領地を安定させる為、やるべきことはやっておかねばならないだろう。
「新伯爵にあらせられては、どうにもお疲れのご様子」
「ええ、本当に堪りませんよ」
言いながら、このところ連日の務めを思い出す。
正式な爵位を認める旨の勅使への歓待。州全体の行政に関わる書類の掌握。現家臣団とオーブニル家直臣たちとの統合。エトセトラエトセトラ……。
特に家臣団のことは頭が痛い。僕が元々抱えていたルベールやヴィクトル、それに武官筆頭のドゥーエなどと、旧来のオーブニル家家臣団とが、どうも折り合いが悪く、しっくりいっていない。彼らからすれば僕の家臣など、今まで次男のお守をしていた連中、という侮りもあるだろう。また、自分たちの縄張りや既得権を侵されることへの忌避感もある。そう上手くやっていける筈が無かった。
憂鬱さにこめかみを揉みながら、辺境伯に椅子を勧め、僕自身も執務机に着く。
「そう言えば、ヴォルダンの方には移られないので?」
「まさか。僕にはこのマルランの方が合ってますし、第一面倒でしょう」
伯爵になったからといって州都ヴォルダンに移動しなければならないという義務は無い。僕は今もマルランに留まっている。折角時間と労力を掛けて、錬金術師としての研究に向いた土地へと仕上げて来たのだ。今更ワインしか見所の無いヴォルダンに移っても、良いことなんて無いだろう。
「それに、ここを行政の中心地とした方が家臣団の再編も捗りますし」
「確かに。この地から指示に従わねばならぬとなれば、ヴォルダンの者どももいずれ貴殿に服しましょう」
そういうことだ。マルランにいる僕、或いは内政担当の筆頭たちから裁可を得なければ、あらゆる行政が進まない。こんな風に行政を処理する為のシステムを構築してしまう。そうすれば反抗的な新しい家臣団も、内心はどうあれマルランに頭を下げることになる。裁可を得ずに行動したら? 領主の権威を侵す、許し難い独断専行だ。粛清するのに格好の口実ということである。無能であればルベール辺りが嬉々として証拠を押さえ、解雇だ。有能だったり使い道があるのなら、譴責という名目でマルランに呼んで、例のごとく素直に従ってくれるよう僕が手を尽くすことになるのだろう。
拠点を動かさないことに、僕の我儘程度の理由しかないのであれば、ルベールたちももっとうるさいことになっていたことだろう。加えて冒険者向けの都市として急速に発展を始めているマルラン。この街は、担当を替わって昨日今日程度の不慣れな内政官には手に負えない。しばらくルベールやヴィクトルが手を掛けてやらなきゃならないだろうし、成長率を見るにそれだけの労苦に見合う将来性があると思う。
と、そこまで話したところで、
「失礼します。辺境伯様にお飲物をお持ちしました」
台車にワインとグラス、それとちょっとしたツマミを乗せてユニがやって来た。
辺境伯の目がチカッと輝く。
「おお、そのワインはヴォルダンの。いや、出来れば賞味したく思っていたが――」
「貴方もお好きですねえ。また肝臓を悪くしても知りませんよ?」
「そう言う貴殿の方は飲まぬのか? 蒸留酒などなら兎も角、ワインなど水代わりのようなものであろうに。いや、これだけの銘酒にそのような言は無礼か」
「僕はちょっと弱い性質なんで……ユニ、僕にはお茶で」
「はい。只今」
僕は口調に呆れが滲むのを抑えられなかった。一応、真面目な話の最中なのだが。元日本人としては、まだ日も高いうちからワインというのは感心しかねる思いもある。まあ、文化の違いというヤツだろう。
ドルドラン辺境伯は暫くこの州の名物を賞味していたが、まず一杯を乾すと緩んでいた相好を引き締め、
「で、今後としては中央集権派と歩調を合わせると考えてよろしいのか?」
むきつけにそう切り出してきた。
この人がわざわざ西方から駆け付けて来た理由がこれだ。僕の派閥の取り纏め役として、普段の通信では出来ない込み入った内容を話し合いに来たのである。面倒なことではあるが、大きな組織を運営するには緊密なコミュニケーションという物も必要になのだ。大掛かりな作戦の後、オーパスシリーズ総出で反省会をやったりするのもその為だった。
無駄な会議が多いのは問題だが、一切の話し合いが無いと言うのも問題だろう。幾ら脳味噌を弄っているとはいえ、一方的な通達だけで動いてくれるほど、人間というのは機械的な存在ではない。会話によって育まれる連帯感も重要だろうし、頭ごなしの命令を受け続ければストレスも溜まる。それに大事な指示は、顔を合わせて噛んで含めて伝えた方が齟齬が少ないのだ。
それは兎も角として、
「一応そのつもりです」
「ほう? 貴殿らしからぬ濁した答えであるな」
「それがどうも、王都の方の進捗が捗々しくなくって」
肩を竦めつつ言う。
あのラヴァレが兄上の件での責任を取らされて失脚し、替わってランゴーニュ伯が集権派の主導権を握った。彼はラヴァレを追い落とした穴を埋めるため、あの爺さんと揉めていた僕を、今回の兄に対する下克上の件で恩を着せ、引き入れるようと――考えるように僕らに誘導されている。
それは上手くいった。ランゴーニュ伯は僕らと組んで地方分権派を圧するよう、仲間たちに説いて回っている。だが、その後がどうも思わしくない。
「ランゴーニュ伯傘下の若手は、戸惑いつつも概ね乗り気らしいんですがね。しかし、それ以外の連中に渋られている様子なんですよ」
「ふむ……」
辺境伯は顎に手を当てつつ少し考える素振りを見せる。ついで、グラスを持ち上げてワインのお代わりを催促――って、おいおっさん。
彼はユニが注いだ二杯目にちょっと口を付けてから言った。
「解せぬな。メアバン伯ほど強硬な仁は分かるが、シャンベリ伯などの利に敏い層の動きが鈍い」
「シャンベリ伯、ですか?」
確か小利を貪る蝙蝠だとかで、僕ほどではないが評判の良くない貴族だった筈だ。この人がそんな人物に注目するとは、ちょっと意外かもしれない。
そう思っていると、辺境伯は小さく笑う。
「貴殿は彼を小物と思っておるのだろう?」
「違うのですか?」
「……違わぬさ。シャンベリのような男こそ、正しく小物よ」
「はあ」
ちょっと話が読めない。じゃあ、どうしてその小物に注目するんだろうか。
「アレは言わば風見鶏の如きものさ。風に吹かれるがままにしか動けぬが、その動きによって人に風向きを教えるであろう?」
「あ、成程」
言われてようやく合点が入った。勢いに流されるだけの小人物が、どういう訳か流れに逆らっている。そこに不自然さを見出した訳か。
「つまりはランゴーニュ伯とは逆向きからも風は吹いていると?」
「であろうな。如何に貴殿が悪名高かろうと、盟を結べば集権派が分権派を圧倒する好機。それを不意にしかねないにもかかわらず、となれば……相当な逆風であろう」
僕は少し考え込んだ。
ランゴーニュ伯はこちらに靡いている。メアバン伯には嫌悪感を抱かれているだろうが、政治的に合理性のある判断が取れなくなるほどの恨みを買ってはいないはず。シャンベリ伯は自力でランゴーニュ伯に対抗するほどの流れを作る力は無い。となると、この状況を作っているのは?
……何だか嫌な予感がしてきた。
「ラヴァレ侯爵」
口の中が渋くなるほどの忌々しい名を吐き出す。兄に連座して派閥の盟主の座から追われたはずの、老陰謀家。
ああ、そうだ。何かをやらかすとしたら、あの陰険な策謀爺しかいないだろう。
「あの老人、貴殿の兄の一件で追及された際、拍子抜けするほどにあっさりと下野したそうであるな」
「ええ。今思えば不自然過ぎますよね」
兄を追い落とす切っ掛けとなった情報を持ち込んで来た時、ルベールは何と言っていた? この件はラヴァレも知らないはず、だ。つまりは先の謀略は完全な奇襲だった筈。それを受けてうろたえもせずにあっさりと負けを認めたのである。普通であれば、何かの間違いと言い抜けて頑強に抵抗するだろうに。
貴族らしい潔さ? そんな馬鹿な。僕の前世と今生を足した以上の年月を陰謀家として生き、派閥の領袖として振舞って来たような人物だ。執念で言えばこの僕にも引けを取るまい。
それがどうして、飛ぶ鳥後を濁さずとでも言うべき引き際を見せたのか? ……決まっている。濁っていると、舞い戻って来た時に自分が困るからだ。
「ユニ」
「はい」
「ルベールに、ラヴァレに関する調査の書類をもう一度検証させるんだ。特に金と物の流れを重点的に」
「畏まりました。直ちに」
まさかとは思う。だが、同時にあの爺さんならやりかねない。
もしルベールの言っていたことが間違いで、実はラヴァレが兄のスキャンダルを掴んでいたら? それを座視して僕らの陰謀が行われるがままに任せたとしたら? その件を追及されて、ランゴーニュに追い落とされることすら予想し、かつ許容していたとしたら?
果たして、その目的は何なのか。
「目暗ましと、足止めしかない」
――水面下で別の陰謀を進行させており、それを察知させない為。そして、それが発動するまでの時間稼ぎ。つまりは兄上すら捨て駒に過ぎなかったのだ。
僕の渋面に合わせた訳でもないだろうが、ドルドラン辺境伯も顔を顰める。
「ラヴァレの企みだとしたら、今の状況は拙いな。派閥内に未だ影響を残しているのだから、事がなったらランゴーニュから盟主の座を奪い返す算段は付いていると見える。そして、一時地位を明け渡してでも遂行しようとするのだ。それに見合うだけの大仕掛けに相違あるまい」
全くだ。兄に加えて自分の地位まで犠牲にし、僕の権力が増そうとお構い無しで実行しようという策なのである。ちゃちな政略結婚のついでだった去年の騒動などとは桁の違う、何かスケールの大きな企みに決まっていた。
無論、まだ爺さんが良からぬことを仕出かそうとしているとは決まっていない。僕と辺境伯の取り越し苦労という可能性もある。僕の平穏と心の安らぎの為にも、是非ともそうであってほしいものだが……。
しかし、そんな薄甘い希望は直ぐ様打ち砕かれた。
ノックもそこそこに、さっき送り出した筈のユニが戻ってくる。
「ご主人様、ルベール卿が参られました」
「随分と早いね。頼んだ仕事はもう済んだ――」
「そ、それどころではありませんっ!」
連れられてきたルベールは、今まで見たことも無いほどの焦慮を顔に浮かべている。一応、彼にとって雲の上ほど目上な辺境伯が客としているのに、気に留めた様子すら無い。それほどの焦りである。
嫌な予感が、更に強まった。
「王都の諜報員より連絡がありました! 隣国ザンクトガレンが我が国へと宣戦を布告! 同日、国境を突破して進軍しているとのことです!」
「――何だって?」
宣戦布告? 既に国境を突破?
「それじゃ、まるで戦争じゃないか」
「まるでも何も……戦争そのものですよ!」
現実感を伴わないままに漏らした呟きに、悲鳴のような返事が返ってくる。ドルドラン辺境伯は、僕たち主従の体たらくに痺れを切らしたか、口を挟んで来た。
「落ち着かれよ、若いの」
「はっ……これはドルドラン辺境伯閣下。とんだご無礼を――」
「よい。どうやら、それどころではなさそうだ。恐らく突破されたと言うのは、北辺のアルマンドではあるまい?」
彼が口に出した地名は、ザンクトガレンと唯一平地で続いている国境の地だ。常識的に考えれば、彼の国はそこから攻略を始める筈である。だが、攻められたのがそこではない?
おいおい、それじゃあまさか、ひょっとするとひょっとしてしまったのか?
「――はい。敵国はエルプス=ロアーヌより山越えを敢行しました。侵攻を受けているのは、このヴォルダン州です」
ルベールの答えに、僕は天を仰いで目を覆った。
ヴォルダン。兄を排除して手に入れたばかりの僕の領地。軍備どころか、知行を運営する官僚組織まで再編途中の無防備な土地。そして、領主として国王から預かるという名目で与えられている、死守が義務付けられている場所。
そんなところに、前触れも無く敵が攻めて来たって言うのか。
室内に暫し沈黙が流れ、無音の衝撃が僕らを打ちのめしていた。
※ ※ ※
同日、時を僅かに遡る。
アルクェール王国ヴォルダン州とザンクトガレン連邦王国エルピス=ロートレルゲン州――旧名エルプス=ロアーヌを隔てる山脈。その峠道を大挙として渡り歩く集団があった。
軍隊である。
山の気候は寒く、また厳しい。空気は秋でありながら平地の真冬を思わせる冷たさで、同時に吹き付ける風は酷烈だ。
厳寒の強風の中、兵士たちは心もとない防寒着の前を合わせながら、歯の根を震わせつつ歩き続ける。その中の一人が軽く蹴躓くと、足元の小石がカラカラと音を立てて谷底に落ちていった。耳を聾さんばかりに風が吹き付けているというのに、その不吉な音だけは嫌にハッキリと聞こえる。幾人かはそれに耳を澄ませ、尾を引く悲鳴が伴わなかったことへと安堵を示す。既に五十人以上の兵が、空中にポッカリと口を開けた死神に飲まれていたのだ。
山中の進軍は苛酷である。気候、転落事故、移動や輸送の困難、加えて山は魔物の領域である為、敵軍の前にこれと戦わねばならない。難易度を上げる要素は幾らでもあった。山越えによる奇襲の成功者は戦史に輝かしい武名を残しているが、後進の多くがそれに倣うに二の足を踏んでいるのも分かろうと言うものだ。
多くの兵は、軍勢の先頭を行く馬上の者に恨みがましい視線を向けている。彼らにこの無謀な進軍を強いる将へと、だ。憎悪に満ちた眼光からの程からして、次の瞬間には兵たちが手に取る武器を構えて叛いたとして、何らおかしくはなかった。
そうならないのは、偏にその将が一分の理を……筋を通しているからだ。自ら立案した作戦に同行し、先頭に立ち、兵と同じ食事を摂り、薄さの変わらぬ毛布に包まって寝ている。騎乗しているのも単に指揮官の威を示すのに必要だからだ。その証拠に、頭を下げ身を伏せたくなるような烈風の中にあって、芯が入っているのではと思わされる程に背筋を伸ばして佇立している。だからこそ、兵もまた寸でのところで耐えていた。恨みを溜め、休憩に立ち止まる度に不満を鳴らそうと、最後の一線は保っていた。
不意に、先頭の将が馬を止める。疲れで細った嘶きが響き、兵士たちが何事かと顔を上げた。そして、注目が十分に集まるのを待っていたかのように、将は佩剣であるサーベルを前方へと向ける。
そこは峠の頂だった。
馬が立つ辺りから下りが始まり……平野へと続いていた。灰色の雲が切れ、合間から注ぐ秋の日差しが照らす、ヴォルダンの大地へと。
「……兵たちよ、見ろ! 我らの約束の地だ!」
山間の風をも押して響く声が張り上げられた。
「見えるか、太陽に照らし出される大地が!? 我々はついに辿り着いたのだ、黄金の穂波を海と湛え、葡萄酒の川流れるヴォルダンに! アルクェール王国に!」
兵たちの顔に理解が広がり、次いで歓喜がそれに取って代わる。先頭に近い者たちから、我先にと待ち望んだ光景を目にしようと行き足を速めた。
ようやく、ようやく労苦が報われる時が来たのだ。寒さに凍え、粗食を食み、棒のようになった足を動かし続ける苦役から、解放されるのだ。
「あれが、アルクェール王国……」
「見ろ、紅葉だ! 森が黒くない!」
「お日様だ、暖ったけえ……見てるだけで、暖ったけえ……!」
「麦畑だ! まだ収穫前だぞ!」
歓呼の声が次々に上がり、それはやがて峠の先を見ることも出来ない後列にまで伝播していく。軍勢の瞳が一斉に爛と光った。希望と欲望の光だった。
将軍の扇動は続く。
「我々は来た。何の為にだ!? あれなる地を馬蹄に掛け、軍靴の足跡を刻み、奪い、征服する為であろう!」
「「お、おおおおぉぉぉ……!」」
「全て我々のものだ! 田畑の実り、牧場の肉、商家の金貨、酒、女! 遠慮は無用ぞ、奪い取れ! 妨げる者は、構わぬ殺せっ!」
「「うおぉおおおぉぉぉっっ!!」」
秋の山麓に野太い怒号が谺し、驚いた野生のカモシカが逃げるように崖を駆け降りていく。
今や兵たちは、先程まで自分たちの将へと向けていた負の念を、未だ見ぬ敵勢へと叩きつけていた。
将は叫ぶ。
「……進撃ィっ!!」
号令一下、ザンクトガレン軍の先鋒は動き出した。
疲れた身体を禍々しく燃焼する魂で動かしながら、眼下で無防備に横たわる大地へ向けて雪崩れ込んでいく。
同時刻、王都ブローセンヌでは計ったように宣戦布告の文章が読み上げられていた。
宣戦布告同時攻撃である。
※ ※ ※
――そして場面は、マルランへと戻る。
「……これか」
僕は実感と共に湧き上がって来た戦慄に、思わず顔を歪めてしまう。
「え? 何ですか閣下。どうなさいました?」
「近衛第二騎士団は、夏からまだ駐屯している」
あのエリシャ・ロズモンド・バルバストルとかいう、非常識な女性騎士に率いられた連中。彼らは巡検を終えても、演習だの調練だの何だのと、なんだかんだと理屈を付け、領内に居座っていた。
「あ、はい。不幸中の幸いですね。彼らと連携して敵に対処すれば――」
「幸い? 何が幸運なんだよ?」
自分のものとは思えない程の冷たい声に、ルベールが引き攣りユニがはっと顔を上げる。
「ということは、ご主人様」
「ああ。これも布石の一つだったってことだよ……!」
隣国の動きが不穏であるとの名目で、巡検にやって来た近衛騎士団。当時、僕らはこれを兄に付けた護衛か何かだと思っていた。いや、それも兼ねてはいたのだろう。だが、派遣した側の真意は違った。本気でザンクトガレンが攻めて来ると思っていたのだ。
辺境伯が顎髭を撫でつつ口を開く。
「近衛による国境巡検……言いだしっぺは――」
「ラヴァレだ。近衛は集権派が味方に付けやすい武力組織として、あの爺さんが口を出して拡張していた。一個騎士団の巡検を捻じ込むくらいは出来る」
「――であろうな。彼奴め、この不意打ちの開戦を読んでおったと?」
宣戦布告と同時の奇襲攻撃に備えて戦力を動かし、これに当たらせたという功績。失脚した中央集権派から再評価を買い、盟主の座に返り咲く為の足掛かりには十分だ。
「それどころじゃないですよ。恐らく、読んでいただけじゃあ済まない」
相手に都合良く事が運んだら、まず作為を疑え。あの爺さんもその思考法を経て、僕が王都大火の仕掛け人だと気づいているのだ。あの後、余りにも僕に利するように状況が動いたのだから。
今回は逆に、とんでもない一大事がラヴァレの奴に利するタイミングで起きた。なら、僕としてもその考えをなぞるまでである。
「と、言うと?」
「積極的に開戦させたに決まってます」
僕は確信を持ってそう言うと、ドルドラン辺境伯は目を瞠った。
今更、何を驚いているのだか。あの爺さんが太公望よろしく、自分の望んだ結果が来るまで気長に待っている姿なんて想像出来ないだろうに。寧ろあちらも決して安くない対価を払い、低くはないリスクを負っているからには、投資を無駄にしない為にも、寧ろ開戦させようと煽ったのに違いない。
何しろ宮廷人と繋がりの深い中央集権派だ。失脚前から――いや、きっと王都大火の頃から、お隣を激発させるような政策を採るよう、コネのある官僚や大臣を唆していたのだ。
僕が、このドルドラン伯をはじめとする貴族たちを籠絡するのを、止められないと気付いたから。だから一撃で僕を仕留めるような秘策を、あの時からずっと考え、検討し、そして実行に移していたのだろう。なのに、こっちはそうとも知らず、策謀ごっこに夢中になって一喜一憂していたのである。陰謀爺にとっては、後で幾らでも取り返しの付く程度の痛打を与える為だけに。
……完全に、してやられた。
余りにも忌々しくって、乱雑に髪を掻き毟ってしまう。
「ああ、糞っ……!」
自分のものとは思えない程、荒んだ響きの声が漏れる。
戦争だって? 冗談じゃない。大勢の人間がこっちを殺しに掛かってくる鉄火場なんて、僕の好みから掛け離れているにも程がある。この僕は、どこの誰が死のうと、僕自身だけは絶対に殺されたくないっていうのに。死にたくないということだけが僕の望みだというのに、どうして次から次へとこんな面倒が降りかかるって言うんだ。
僕は何気なく窓外の景色に目をやる。ヴォルダンの外れであるマルランの原野には、まだ敵軍の姿は見えない。けれど、地平線の向こうには僕をこの窮地に追いやった敵の姿が――皺だらけの顔に、ニンマリと邪悪な笑みを浮かべているあの老人が、どうだと言わんばかりに佇んでいるのが見えた気がした。
※ ※ ※
「さて、大変なことになったのう新伯爵」
数年ぶりに王都を離れての自領。王都に馴染んだ身では既に懐かしさすら褪せた地の館。その一室で、老人は一人茶を啜っている。
彼は全てを泰然と受け止めていた。ライナスという手駒を失うのも、派閥の首魁の座から追われるのも、忌むべき【人喰い蛇】が伯爵へと地位を進めるのも、そしてこの開戦の報も。
何もかも、最初から知っていたのだから。どうしてそれに驚き、心動かされる理由があるだろうか。
「ザンクトガレンは強いぞ? 何せ、我が五十年来の怨敵であるからのう……」
そも、ラヴァレが中央集権派という組織を必要とした理由は何だったのか?
五十年前の敗戦だ。あの戦争でザンクトガレンに敗れたからこそ、富国強兵の手段として中央集権化の必要性を説いたのだ。
つまりは彼の隣国こそ、この老人の最大の敵。地方に割拠し怪しげな動きを見せるトゥリウスを、排除しようと目論んだ端緒もその為だ。あの強大な敵と戦うのに、自己の権益を目論んで国を蝕む貴族や、得体が知れず背中を預けられるほど信を置くことのできない者は、邪魔だからである。
いや、ひょっとすると今やトゥリウスの方が、より恐るべき存在になったのかもしれない。貴族を洗脳し、内側から国体を腐らせ、蚕食する寄生虫。それでいて奸智に長け、一度ならずこちらを翻弄してのけたという、知性を持つ怪物。
片や外、片や内にと、度し難い敵が二つ。これらに対しどう処するべきであろうか?
老人の出した答えは二虎競食――敵同士を、喰らい合わせれば良い。相討ちに倒れれば、それで良し。片方が残れば、温存しておいた力を利して自らこれを討つ。それがラヴァレの策だった。
わざわざ永年の地位を擲ち、加えて戦争という不安定で危険性の高い手段まで選んだのである。そして、これ程までに大掛かりな仕掛けは、この妖怪じみた老翁としても初めてのことだ。正に血の滾るような大博打であった。
枯れ木のような肢体に、妖しい気力が充溢していくのを感じる。老骨に血潮が巡り、かあっと体温が上がっていた。
「この爺の一世一代の大仕掛けじゃ。はてさて、この舞台でどう足掻いてくれるかの?」
空席の対面に向けて、窺うような視線を飛ばす。
老人の眼には、あの油断ならない小僧が渋面を浮かべている様を空中に見て取れるようだった。
※更新の再開は8月中旬~9月中旬となる予定です。
 




