番外 うたかたの――
※同時更新の後半です。
お先に前話をご参照ください。
――夢を。
長い夢を見ていた気がする。
※ ※ ※
「……ウス。おい、トゥリウス!」
肩を強く揺すぶられ、僕は心地良い微睡みから叩き起こされた。
眠い目を瞬かせつつ見れば、呆れたような表情の兄がこちらを見返して来ている。
……何だろう、妙な違和感があった。
僕の兄、ライナス・ストレイン・オーブニルは、うとうとと舟を漕いでいる弟を起こしてくれるような人だったろうか?
そう疑問を抱いたので、素直にそれを口にしてみた。
「あれ、兄上? どうして貴方に起こされてるんです?」
「やれやれ。ようやく目を覚ましたと思ったら、出し抜けに何を言うか」
などと溜め息交じりに零す兄。
「ようやくヴォルダンに着いたと言うのに、隣の席で呑気に寝息を立てられていたのだ。起こすに決まっておろう」
ヴォルダンに着いた。
その言葉でようやく、寝惚けていた頭が回り出す。
ああ、そうだ。僕は馬車でヴォルダンに向かっていたんだったけか。兄上の領地下向に従って、彼と一緒の馬車に乗って、隣同士の席に座って。
別に何もおかしいことは無い。僕は違う世界の記憶を持っているなんていう変わり種だが、それでも兄上とは唯一血を分けた兄弟じゃないか。共に行動するのに、何も不思議は無いだろう。
でも、何故だろう? どこか、パズルのピースがずれているような齟齬を感じるのは。目の前に広がるは絵図はとても自然な筈なのに、何かが不自然だ。そんな気がする。
僕が小首を傾げていると、向かいの席からクスクスと忍び笑いをする声がした。
「兄弟揃って、相変わらず仲がよろしいこと。婚約者を差し置いて隣同士なんて、妬けるわね」
悪戯っぽい笑みを浮かべて言うのは、兄の婚約者のシモーヌさんだった。
まあ、確かにおかしくはあるだろう。馬車で行く旅路、美人のフィアンセを差し置き、男兄弟同士が隣の席に座り合うなんて、ちょっとどころじゃなく奇異な光景である。
――それこそ、目眩がする程におかしいことなんじゃないだろうか。
僕は胸を小さく噛む違和感を無視し、彼女へ声を掛ける。
「いえいえ、シモーヌさんを差し置くなんてとんでもない。兄上もこの道行の間中、貴方のお顔を見ていたいから向かいにお座り頂いたかと」
「ばっ!? こ、こら、トゥリウスっ!」
「まあ、お上手ですこと」
兄は白い顔を一瞬で紅潮させ、彼女はそれを面白がるようにしつつ満更でも無い返事。
……そんな光景を見ていると、起き抜けに感じたズレのようなものは、気の所為だったんじゃないかと思えて来た。
ああ、そうだ。これがいつもの僕の日常だ。
気難しいけれど照れ屋な兄に、優雅に彼をあしらいつつも上手く操縦する将来の義姉。そんな人たちに囲まれて暮らすのが、僕の生きる日々なんだ。
どうしてか今更のようにそれを実感していると、シモーヌさんは再びこちらに水を向けて来る。
「それにしても、タイミングが悪かったわねトゥリウス卿」
「タイミング、ですか?」
「ええ。丁度、麦畑の辺りを通るところで寝入ってしまっていたんですもの」
彼女の言葉を、兄はフンっと鼻を鳴らしつつ引き受ける。
「まったくだ。自分の手掛けた仕事の成果を、いびきを立てながら見逃す阿呆がいるか。お前はそういういい加減なところがだな――」
「はいはい。お説教は後でもゆっくり出来るでしょう? まずは領地のお屋敷に入ってからにしなさいな」
「あ、あはは。では、そういう訳で。……助かりましたよ、未来の義姉上殿っ!」
そう言って、僕は脱兎のごとく馬車から逃げ降りた。三十六計逃げるにしかずである。背後からはまた「待て、話は終わってないぞ!」だの「そもそも、その行儀の悪い振る舞いは何だ!?」だのと声が飛んで来た。
彼の声を聞きながら、僕はおぼつかない記憶を再生する。
……そう言えば以前に、錬金術を用いた領地の改善案を兄に諮ったことがあったっけ。具体的には頭数を揃えた錬金術師の≪錬金≫で畑の土を肥沃な状態にしたりとか、教会に掛かれない貧困層に向けて安価な霊薬を卸したりとか。どれだけの効用が得られるかは出たとこ勝負だったけど、兄らの反応を見るに悪くは無かったらしい。
その我が兄であるが、馬車から降りつつもまだブチブチと続けていた。
「――まったく、お前というヤツは……いつまでも子どものように落ち着きが無いから、浮ついた話の一つも出て来んのだ」
「まだ言っているんですか? 頼みますから後にしましょうよ、兄上」
「ふふふっ、トゥリウス卿もそう邪険にしないの。こうして色々言われている内が華よ?」
と、ここは流石にフィアンセの肩を持つシモーヌさん。
「それにこの人、気を許している相手ほど口が過ぎちゃう性質みたいだから」
「シモーヌ、余計なことは言うな」
と、憮然とした反応。だが、小気味良く回っている女性の口を止めるには、そんな照れ交じりで威厳に欠いた声では力不足だったようだ。
「ところで、まだ聞いてない? この人、ゆくゆくは貴方に領の一部を任せるか、しかるべき筋に婿入りさせるかで悩んでいるんですって。そのことが頭にあるから、今になって厳しいことを言いだしている訳」
「えっ、マジですか?」
それはちょっと困る。僕としては、そんな重責を背負わされてもやっていける自信が無い。精々が兄の下で何年か前まで齧っていた技術を振るって、些少な助けをするので精一杯だ。幼少期から跡目を継ぐ気はゼロだったもので、そういった方面の教育は受けてないどころかボイコットしていた訳だし。今更になって領主級の仕事をしろと言われても……。
思わず嫌そうな顔を浮かべてしまったのだろう。僕の表情を見た兄は、口をへの字にしつつも宥め賺すような声を出すという、妙に器用な真似をやってのける。
「そんなに及び腰になることはなかろう。確かに錬金術などという如何わしい術を用いてはいるが、お前の施策は結果を出しているのだ。能力がある以上、功績に見合った地位に就き、更なる結果を出すことに勤しむのが当然だろう」
「いや、功績に見合った地位というのは、兄上のお膝元では駄目なんですかね……」
「ああ、駄目だな」
きっぱりと切り捨てられてしまった。
「我々貴族が暖衣飽食に恵まれ、民に傅かれているのは何故だ? 高貴な血筋に相応しい義務を果たしているからだ。陛下より賜った領地を守り育て、王室の藩屏を務めるという義務をな。楽な方向に流れ、あたら能力を腐らせると言うのはその義務に反する」
「ノブレス・オブリージュっていうヤツですか」
「そうだ。貴種の義務というものだ」
恵まれた環境を与えられた者の義務。
……それを言われると僕も弱ってしまう。何しろ、特権階級の恩恵を享受するだけでなく、家族に我が儘を言って外国にまで錬金術を学びに留学してきたのだ。それだけ権利を行使してきたのだから、今度はその分の義務を果たせ。こういう切り口から攻め込まれると、抵抗のしようが無い。
僕は仕方なく、軽く両手を上げて降参の意を示す。
「そうまで仰られるなら、ちょっとは考えておきます。……けど、婿入りってのは勘弁して下さい。僕は恋愛結婚が良いので」
「贅沢なヤツだな、お前は。貴族が好いた相手と結ばれるなど、そうそうあるものではないぞ」
兄はそう言うが、その『そうそうあるものではない』ことをやってのけたのは彼本人だ。
この人には昔、亡き父が決めて来た縁組の相手がいたのだが、ある時パーティーで知り合ったシモーヌさんに惚れ込んでしまった。それで婚約が破談になって先方に迷惑を掛けるは、よくよく聞けばシモーヌさんの実家は末席とは言え中央集権派だはで、方々に混乱をまき散らしたのがこのカップルなのである。
まあ、それを領地経営の手腕だの何だので跳ね返せるのがこの人なんだが。僕も少しは手伝いをしているし。
それは兎も角、
「良いじゃないですか、夢を見るくらいは。具体的に話が決まっている訳でもないんですし」
と抗弁すると、思わぬ方向から奇襲があった。
「あら、トゥリウス卿がその夢を見るお相手というのは、どなたなのかしらね?」
興味深そうに言うのは勿論シモーヌさんである。この世界でも女の人は色恋にまつわる話が大好きであるらしい。それは聡明な未来の兄嫁も例外ではないようだった。
「例えば、ご学友だったザンクトガレンのお嬢さんとか?」
留学先で同じゼミだったフレデリカさんのことを言っているらしい。
「いや、それは無いです。あの人、ちょっとキツくって」
「どうかな。お前のような男には、多少は直言の出来る女性の方が合っているのではないかと思うが?」
兄上までニヤニヤしながらそう言う。
割と物言いが率直なのはシモーヌさんも同じなんだけれど、この人、単純に自分の好みを言っているだけなんじゃないだろうな?
「彼女にそんなことを言ったら、鼻で笑われますよ」
僕は乾いた笑いを漏らす。
何しろフレデリカさんときたら、学友と談笑中に恋愛について話が及んだ時、「オーブニルだけはあり得ませんわ」とキッパリ言ったらしいくらいだ。僕は貴族としての常識に欠けるところが大なので、そういうところにキッチリとした彼女には、そこが気に食わないらしい。悪い人ではないんだけれど、何というか、たとえ世界が変わっても親密になれる気がしない女性だ。
「それより、僕のことなどよりも、お二人の婚儀を片付ける方が先でしょう。この領地視察から帰ったら、すぐなのでしょう?」
どうにも形勢が不利なので、強引に話題を変えた。
夏が終わり、秋になれば、兄たちの結婚式が開かれる予定である。
「そう、だな」
兄はそう言い、照れ臭そうな微笑を見せる。
「領地は恙無く治まり、秋には奥を迎えて名実ともに家の大黒柱だ。色々あったが、ようやくここまで来れたのだな……」
感慨深げな言葉に触発され、僕も思わず今までのことを思い出していた。
奢侈に流れて身を持ち崩していた父の急死。留学先からのとんぼ返り。兄と協力して家中のゴタゴタを鎮める為の中途退学。その後も内政に謀略にと知恵を尽くしての丁々発止。で、一息つけるかと思ったら、兄が何を思ってか中央と繋がっている女性に入れ上げちゃって……いや、それについては深くは言うまい。シモーヌさんには罪は無いのだ。普段は真面目な癖に、よりにもよってクリティカルなところで暴走した兄の所為なのだから。
「ええ、本当に色々ありましたね。色々と」
「……おい、トゥリウス。何だか妙に含みのある言葉ではないか」
「ふふふ、気の所為ですよ気の所為」
そう、気の所為だ。笑顔を作る為に吊り上げた口角から疲労感の滲んだ吐息なんて漏れていないし、顔に影が掛かったりなんてこともない。もしそんな風に見えるのだとしたら、それはその人に思い当たる節があるからだろう、きっと。
などと心温まる会話を繰り広げていると、
「はいはい、玄関口もくぐらないうちからお喋りはお止しなさい。続きはお部屋で一息入れてからでも遅くはないでしょう?」
「「……はい」」
二人してシモーヌさんのお叱りを受けることになってしまったのだった。
締まらないなあ、ホント。
夜になった。
「……うー、飲み過ぎたあ……」
僕は部屋の窓を開けて清涼な空気を取り入れながら、脱力しきって桟に寄り掛かる。
領主不在の間、代官を務めていた家臣連中による歓迎会。その席でヴォルダン名物の赤ワインをしこたま飲まされてしまったのだ。
こちとらお酒が苦手だっていうのに、酷いことをしてくれる。何処の国でも異世界でも、いちいち飲まなきゃ話一つ出来ない輩がいるのは、どういうことなんだか。世の中はもっと飲めない人間に優しくなるべきだと思う。
「ふふっ。災難だったようだな、トゥリウス」
そうして世の無常を嘆く僕に向けて、面白がるような顔をしつつ言う兄。弟が顔を青くして苦しんでいるっていうのに、酷いお人だ。
「良いんですか、兄上? シモーヌさんと一緒にいないで」
反撃の為に軽く当て擦ってやると、彼は心外そうに顔を顰める。
「馬鹿を言うな。将来を誓い合った仲とはいえ、未婚の男女だ。こんな夜遅くに会うなど、考えられぬ」
「あっ、そうなんですか……」
僕も思わず口元が引き攣った。
かったいなあ、この人は。廉直な聖王教徒らしく、婚前交渉は罪深いとでも考えているのだろう。けれど、お互い二十を過ぎた男女なのだ。多少の過ちくらいは大目に見られるだろうに。彼女の方も、釣られたまま餌を貰えない魚のような気分なんじゃないだろうか。
まあ、それは下種の勘繰りかもしれないが。
……言葉が切れた。
そのまま兄弟二人して、並んで外の景色を見やる。
青褪めた月光に照らされるヴォルダンの草原。高原を撫で付ける夜風に夏の草々が波立つ風景は、見る者の心に落ち着きとも寂寥ともつかぬ思いを抱かせた。
不意に、兄が再び口を開く。
「なあ」
「何です?」
短く反駁すると、彼は口幅ったそうに一度目を逸らしてから続けた。
「――思えば、お前には苦労を掛け通しだな」
「それを言うなら、こちらこそ」
真面目くさった彼の緊張を解すつもりで、おどけて言う。
とはいえ、その全てが冗談という訳ではない。僕の存在が兄の――ライナス・ストレイン・オーブニルの重荷であったことは確かなのだから。
自分は贅沢に溺れながらも家名を高める為に優秀な子を欲した愚かな父。その彼が妻の死と引き換えに得たのは、何の因果か別世界の人間の生まれ変わりというこの僕だ。
前世より持ちこした記憶と経験から、子どもながらにさかしらげに振舞っていた僕へ、父は異常なまでに期待を掛けた。一時は、幼時から厳しい教育を受けていた兄を差し置いて、次期当主にとまで願うほどに。それが兄に取って負担でなかった筈は無い。
「本当であれば、お前こそがこの地位にあったものを……」
ほら、父からの冷遇と僕という異分子は、今もってこの人の心に影を落とし続けている。
彼から苦衷を酌むだに、嘆息の衝動を堪え切れなくなった。
「はぁ……その話は止しましょうって、何度も言ったじゃないですか。第一、僕に惣領なんて務まりませんよ。僕は他人なんてどうでもいい男なんですから。そんな輩に、家臣や領民を背負って宮廷や諸侯とやり合う気概があると思います?」
「『兄上の方が向いていますから』、か。それがお前の口癖だったな」
兄は遠い目をして実感が無さそうに言うが、実際その通りだ。
何百キロメートルも離れた王都から地方の采邑を切り回すなんて離れ業、僕には到底出来ない。他家の貴族との付き合いにしたってそうだ。どうでもいい修辞にばかりかまけた会話ゴッコなんて、一時間どころか半時間も我慢しきれないだろう。
人の上に立つ者へ求められる素養とは、前世知識だの錬金術だのといった如何わしいものではない。もっと真っ当でシンプルな答え。責任感と忍耐、そして少しばかりの寛容さ。それだけあれば良いし、逆に僕にはそれすら無い。だから兄が上に立ち、僕が下から些少な知恵を貸す、今の状況は決して間違いじゃない筈だ。
そう思っていると、兄は苦々しげに頭を振った。
「だとしても……私の非力さで、お前の夢すら奪ってしまった」
彼が言っているのは、父の急死を切っ掛けに僕が留学先の魔導アカデミーを中途退学したことについてだろう。錬金術の研究、不老不死の探求。僕が生まれてから――生まれ変わってから、ずっと追い求めていたそれ。その願いが兄へ助力する為に中途で断ち切られたことを、彼なりに悔やんでいるのだろう。
でも、今やそれもどうでもいいことだ。
「別に構いませんよ。……どうせ、先が見えていたことなんですから」
夏にしては冷たい夜気を震わす声は、我ながらぞっとするほど乾いていた。
錬金術による不老不死の実現。荒唐無稽なその夢は、近づけば近づくほどに遠ざかる逃げ水のようなもの。先達の知恵を学び、新鋭として新たな試みを行っても、まるで手掛かりを掴めない。屋敷の地下に籠って実験に明け暮れても、アカデミーで教授の下に学んでも、その遼遠さに途方に暮れるばかり。
ハッキリと言うと、疲れたのだ。人に馬鹿にされ軽蔑されながら、自分を一人の永遠の存在にしようと血道を上げることに。
「何がどうなろうと死にたくない。不老不死の境地に立ってみせる――我ながら馬鹿なことを考えていたものです」
生きている者はいずれ死ぬ。それが世界を違えても変わることの無い定理で摂理。偶さか生まれ変わることが出来た程度で、それを覆せると自惚れ続けられるほど、僕は傲慢ではなかった。
いや、強くなかった。
何度突破しようと厚みと堅さを増して立ち塞がり続ける壁に、僕は折れたのだ。
「トゥリウス……」
兄が漏らした声は、辛そうに湿っていた。
そんなに悲しそうにしないでほしい。僕は寧ろ、真っ当な方に立ち返った筈なんだから。
それもこれも兄のお陰で、だ。
……もう十二年も前になるだろうか。父に言われて初めての奴隷を買った僕は、半可通の錬金術の実験台としてそれを使い潰してしまった。無論、そんなことを仕出かしたという話は、すぐに父にも知れる。当然、父は烈火のごとく怒った。怒気かそれとも酒気を帯びているか分からない赤ら顔で感情論を繰り返す父親を前に、当時の僕はぬけぬけと屁理屈を繰り返していたものだ。
『そんなに怒らなくてもいいじゃないですか。だってこの国の法律では、奴隷は人間じゃなくて物なんでしょう?』
『父上だって兄上だって、奴隷を殺したことくらいあるじゃないですか』
……我ながら可愛くない餓鬼である。いや、それどころか頭がおかしくなってたんじゃないかと思う。
父ときたら、そんな理屈にもなっていない無理筋に反論出来ず、顔を赤紫色に変えて口をパクパクとさせていた。が、兄は違った。
パァン、とふくれっ面を晒していた僕の頬を張り、こう一喝したのである。
『遊びで殺す阿呆がいるかっ! 戯けがっ!!』
そうして膝を詰めて懇々と説教を始めた。
奴隷が人間扱いされないのは、罪があるからだ。厳密には違うが、税を払えなかったり罪を犯したりという非があって、それで人としての権利を制限されているに過ぎない。父や兄の手で奴隷が手討ちに遭うのは、そこへさらに非を重ねたからである。言ってみれば刑罰の執行だ。殺すという結果は同じでも、それへと至るまでの過程が違うであろう。それをお前は何だ、実験と称して無為で軽弾みに奴隷を死なせるなど、断じて貴族の振る舞いではない……。
このような理屈を滔々と、時間を掛けて聞かせられた。
無論、当初は分かったふりだけして心の中で舌を出していた。お説教はごめんだ、あんたに僕の何が分かる、自分が明日には死ぬかもしれないという可能性に怯えたことも無い癖に……そんな悪罵を内心で繰り返し、裏では次の実験の算段に取り掛かる。本当に、どこへ出しても恥ずかしい糞餓鬼だった。
けれども、そう息巻いていられたのも二、三年が限度。研究に行き詰まり、実験で思うような結果が出せず、不老不死になる方策は五里霧中で雲を掴むよう。そんな時間を過ごすうちに、いつしか僕の中の永遠へと焦がれる情熱は薄れていた。
諦め切れずに最後の挑戦と、無理を言って隣国にまで渡ったものの、そこで得られる成果は不死には繋がらないものばかり。そうこうしている間に……父が死に、兄は突然の当主交代に忙殺され、僕はそれを手伝うことになる。
「これで良かったんですよ、きっと」
回想を打ち切って、未だに愁眉を開かない兄に微苦笑を向ける。
今生のほとんどを懸けて学んだ錬金術の知恵は、不老不死に至るには程遠いが、兄に従って仕事を片付けるのに随分と役に立った。土の成分を弄って農地を再生したり、井戸などのインフラを改善したり、治癒魔法の代替となる霊薬のコストダウンが実現したり――自分一人を永らえさせるよりも、他人の為に用いる方が余程に有用だったのだ。
いつしか、自分の手による物が誰かの役に立つことに、喜びを覚えている自分がいた。
それはきっと、我が身可愛さに永遠へとひた走るよりも、ずっとずっと全うで人間らしい生き方だろう。
だから、そんな道へと僕を戻してくれた兄には、いくら感謝してもし切れない。
……酔っていても素直に言えるようなことではないし、素面では尚更無理だけれども。
僕は茶化すように切り口を変えた。
「逆に訊きますけれど、兄上はご不満なんですか?」
「冗談はよせ……何を不満に思うことがある」
言って、まあ、ラヴァレのごとき妖怪爺に煩わされるのは大いに不満だが、などと冗談めかして結ぶ。
それは自業自得だろう。王国一の陰険老人と噂の中央集権派首魁を前に、末席と言えど彼の派に属する家の娘へと懸想するなど、陰謀に嵌めて下さいと言っているようなものだ。これから当分、あの皺くちゃの古狐がくたばるまでかかずらわされるなんて、それこそ悪い夢である。
それは置いておいて、
「なら、良いじゃないですか。幸せならば」
家族が幸せで、僕も安穏と日々を過ごせるならば、これに過ぎたることは無い。
言いながら、気付く。
(ああ、そうか……)
僕と兄は、家族なんだ。
生まれ変わって、以前の記憶に引き摺られて、心のどこかで今が偽物なんじゃないかって思っていた。本当の家族は別世界に置いて来てしまって、この世界に生きる父や兄は不出来な代替なのでは、なんて。
本当に馬鹿げている。僕はイトゥセラ大陸に生きるトゥリウス・シュルーナン・オーブニルだ。もう日本に生きていた××××なんかじゃない。この世界で生きるには、まずはそれを認めなくてはいけなかったんだろう。
そんなことに今更思い至るなんて、本当に僕という男は馬鹿だった。
「……私も酔いが過ぎたようだな。詮無いことを言った」
自嘲に浸る僕の背中を、兄の呟きが叩く。もう夜も遅い。そろそろ床に就く時間だろう。
「お前も早めに寝ろ。夜風に当たり過ぎると、身体に障る故な」
「ええ、分かっていますとも。僕は出来るだけ長生きするのが信条なので」
「ふっ。度々夜更かしをするような輩が言っては、説得力に欠けるな」
少しの間、そんな冗談口を叩き合って、
「おやすみ、トゥリウス」
「おやすみ、兄上」
軽い挨拶を交わし、その夜は別れた。
僕は一人、窓の外を眺め続ける。
寂寞とした月下の原野。そんな寂しい風景を見ていると、心の隙間へまた不意に、死への恐怖が顔を覗かせた。
けれども、もうそれに囚われることは無いだろう。
トゥリウス・シュルーナン・オーブニルは転生者である。だけれど、その前にこの世界を生きる一人の人間だ。有限の生を生き、生きられるだけ生きたらいずれ死ぬ。安らかに最期を受け入れる気はまだ無いけれど、全てを捨ててまで永遠に縋るつもりもまた、無い。
それで良いじゃないかと、この世を生きて二十年、初めて心の底から思えたのだった。
※ ※ ※
――そうしてライナスは長い夢から目覚めた。
身を起こして辺りを見回せば、壁は剥き出しの石造りで床は粗末な木板が敷き詰められた狭苦しい一室である。簡素な寝台の横には、古びた便壺が悪臭を放つ。居続けるだけで精神が鑢掛けされるような、癒しとも安逸とも程遠い押し潰されそうな密室。
狂人や恥多い罪を犯した者、貴族社会からの落後者を収める為の、修道院の一室である。
「あー……?」
彼は胡乱な表情で夢の内容を思い出そうとする。
何だか、絶対にありえないような、けれどもそうであってほしかったような、そんな夢を見ていた気がした。だが、思い出せない。元より、夢とは覚めてしまえば途端に朧げになるもの。加えてライナスの思考は、狂気による減退の霧が掛かっていた。長い長い夢について想起するなど、雲を掴むような話だ。
彼はしばらく、あーだのうーだの唸りながら夢について呻吟していたが、
「…………」
やがてそれにも飽いたように、パタリと再び寝台に横になる。
もう、何も考えたくない。誰にも煩わせることなく、一人きりで静かにしていたかった。
ライナスはそのまま目を閉じて、膝を抱えながらもう一度眠る。過去も今も、現実すら忘れて惰眠を貪るのだ。頭の中だけにある幸福な境涯。そこが彼の最後の逃げ場だった。
※ ※ ※
「……ご……さま。ご主人様」
――長い長い夢から、そんな声に呼ばれて現実に引き戻される。
頭が重たい。思考がふわふわする。瞼が貼り合わされたようで目を開けるのが億劫だ。
でも、起きないと。彼女が僕を呼びに来た以上、もう目覚めの時間なのだから。
未だにぼんやりとした心地ながら、半ば反射のように重い身体を起こす。冷たく柔らかな手がその背に助けるように当てられた。僕は彼女の手に体重を預けながら、腫れぼったい瞼を何とかこじ開ける。
「……」
朝の光に目の眩む思いをしながら、僕を助け起こす手の主を見やった。
緑色の瞳を真っ直ぐにこちらへ向ける、メイド姿の少女。
「ふあ……おはよう、ユニ」
「おはようございます、ご主人様」
欠伸交じりのだらしない挨拶にも、彼女は――ユニは気を悪くした様子も無く返事をする。いつも通りの目覚め、いつも通りの朝だ。
「随分とお疲れのご様子ですが、いかがしましたでしょうか」
「ああ、うん……ここしばらく、忙しいことの連続だったからさ。どうにも寝足りなくて」
言いながら、最近の多忙な日々を思い返す。
兄を蹴落として伯爵の地位を奪って以後、引き継ぎの雑事に振り回されっぱなしだった。伯爵家の家臣団を掌握するだの、新たな知行地の内政書類の把握だの、煩瑣で面倒臭く面白くもない仕事の連続。お陰で研究に割く時間も満足に取れず、疲労とフラストレーションが溜まるばかりだ。そりゃあ、寝起きの一つも悪くなろうというものであろう。長い夢を見るってことは、眠りの浅い時間が多くなっている証拠だ。あんまり健全な状態じゃあない気がする。
「少し、魘されておいでのようでしたが」
「そう? なんか変な夢でも見ていたのかな……」
ユニに言われて、夢の内容を思い出そうと試みる。とはいえ、夢なんて覚めてしまえば途端にあやふやになってしまうものだ。どうにも、詳しい内容を思い浮かべることは出来なかった。
何だか、妙にリアルで、その癖辻褄の合わないこと甚だしい筋書きだった気がするけれど……ああ、そうだ。
「何か足りないって思ってたけど、そういえば君がいなかった所為かな」
夢の中で感じた不足、その正体を僕はそう推量した。誰かが出て来たことは憶えているが、それは少なくとも目の前の彼女ではないし、夢の中の僕は彼女の存在すら忘れていたように思う。
まったく、どうかしている。僕の手足とも言うべきこの最高傑作のことを思い出せないなんて、夢とはいえ馬鹿げた限りだ。
「私がいない、ですか?」
「ああ、気にすることはないよ。所詮は夢の話さ」
真面目くさって僕の呟きを受け止める彼女に、そう言って軽く手を振る。
そう、寝ながら見る夢なんてどうでもいい。たかが睡眠中の脳味噌が適当にひり出した、記憶と思考との排泄物だ。そんなものより、起きている間に思い描く夢の方が大事に決まっているじゃないか。
が、ユニは尚もそのことが気に掛かって仕方ないようだった。
「ご主人様、もしや何か私に至らないところが――」
「だから気にしなくていいってば」
僕は苦笑して肩を竦める。まったく、夢のことなんかをいちいち気にするなんて、この娘にも随分と乙女チックなところがあったものだ。まあ、年齢的には十代の少女なのだから、仕方ないことかもしれないけれど。
「それより、さっさと着替えて今日の仕事に取り掛かろうじゃないか。今日の予定は?」
「――はい。本日はドルドラン辺境伯が伯爵就任の祝賀に訪れる筈だったかと」
「……あの人もマメだねえ。そんなの、祝文の一つで十分だっていうのにさ」
ドルドラン辺境伯も洗脳されて絶対服従の駒に過ぎないが、歓待には手が抜けない。感情を奪った訳じゃないのだから、粗略に扱うとストレスを溜めて不調に陥るかもしれないし、何より格式だの礼儀だのにこだわるヴィクトル辺りがうるさいだろう。
さて、どう持て成したものだろうか。
その算段を付けながらも、僕は改めて今朝見た夢を思い返す。
内容のほとんどは思い出せないし心底どうでもいいと考えているが……もし、ユニがいなかったらというIFだけは気に掛かった。
僕の最初の『作品』。錬金術を習って得た初めての成果。もし、それが存在しなかったとしたら?
手駒がいない、というのも問題だろうけれど、それより何より……きっと、今ほど自分の技量に自信が持てなかったに違いない。
たった一人、理解者も協力者もいない中で、不老不死に至るという遠大な目標に対して、果たしてどこまで信念を持って挑めたものか。
想像するだに、うそ寒いものがある。ユニは寝ている僕が魘されていたと言ったが、それもそうだろう。彼女の助力の無い生活なんて、悪夢にも程がある。
それを思うと、夢の中に自分がいなかったと言われて気に病む彼女の気持ちも、少しは分かる気がした。
僕は着替えの手を一旦止めて、ユニの方に顔を向ける。
「改めて言うけどさ」
「はい」
「僕には君が必要だよ、ユニ」
その言葉に、彼女は息を止めて目を丸くした。
……何もそこまで驚くことはないだろうに。
僕にだって、ここまで尽くしてくれる君に感謝する気持ちくらいはあるんだから。
などと思っている僕に向けて、ユニは大袈裟なほど深く頭を下げた。
「大変、勿体無きお言葉です。ご主人様」
※ ※ ※
思いも距離も、今や立場すら隔たった二人の兄弟。
彼らが異なる床で見た同じ夢は、果たして偶然の一致故のものだったのだろうか。
もしかするとそれは、違う可能性を辿った別の世界を、何かの拍子に垣間見たものであったかもしれない。
しかし、その正体は神ならぬ彼らには理解し難いことだろう。
いや、この世界の神にも、この事を知る由は無い。
そうであるに違いなかった。




