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061 紋章を継ぐ者<後編>

 

「――この責任は如何されるおつもりですかな、侯爵?」


 鈍痛を訴える頬を押さえながら、ランゴーニュ伯は老人に詰め寄った。

 さる貴族の邸宅で開かれている中央集権派の会合。その席で取り沙汰されたのは、先日に王都で起こったある事件についての議論である。

 事件に巻き込まれたとする男は、開幕から集った一同へと起こったことを詳らかに――自分に都合が良いように――説明し、それが一段落した途端、一座の領袖ラヴァレへと水を向けたのだ。

 老人は、ランゴーニュの刺すような視線に曝されながらも、泰然として顎を一摩りしてみせる。


「責任、かの?」


「ええ、そうですとも。貴方には責任を取って頂きたい! 天下国家を案ずる義士たる我らの内に、あのような輩を加えられた責を!」


 続け様に張り上げられるのは、さも憂慮と義憤とに胸が張り裂けんばかりの表情での熱弁。だが滑らかに長口上を振るう舌、それを押し隠す口元は、政敵を攻撃する愉悦に僅かな歪みを生じていた。

 メアバン伯などはそれを見取って嘆息を漏らす。見え透いた三文芝居だ、と。

 舞台で主役を演じる男は、そんな評価が下されていると知ってか知らずか、更に言い募る。


「侯が信じ難く思われるのも理解は出来ますよ? 私とて、今なお己の耳目を疑う思いです。嗚呼、まさか彼があのような男だったとは……」


「その、ランゴーニュ伯」


 今度は悲嘆に満ちたと声音を上げるランゴーニュに向けて、おずおずと発言を求める者がいた。

 シャンベリ伯である。


「本当に、お話の通りなのですかな? ライナス・オーブニル伯が――」


「元、ですよ。シャンベリ伯」


 間髪入れずに訂正を求める。中年の貴族は微かに鼻白みながらも、素直に応じて続けた。


「――元伯爵が、貴殿に狼藉を働いたと?」


「その通りであると言ったではないですか。この傷が証ですよ」


 言いながら、頬に出来た青痣を指す。治癒の魔法であれば瞬きの内に消せるだろうかすり傷だが、証拠として敢えてそのままにしてあるのだ。この一件が終わればすぐにでも治す気でいるが、本来であれば負う必要の無いものであった。熱い疼きが脈打つたびに、青年貴族の秀麗な眉根がひくひくと震える。

 ……あの日、唐突に狂を発したライナスは、取り押さえようとするランゴーニュの手勢に激しく抵抗した。奇声を発しながら金属製の燭台を振り回し、分別無く暴れる男は、護衛として訓練を積んだ配下でも手を焼かされた。なまじ隠密裏に事を運ぼうと、連れていく人数を絞ったのが仇になったのである。しまいにはランゴーニュ自身も組み付きに掛からねばならなくなり、結果、勢い余った肘を喰らって痣を拵える羽目となった。


(ふん。狂人めが、余計な手間を掛けさせる……)


 痛みが走る度に、苛立ちが胸を噛む。自身の企てに予想外の瑕疵を刻まれたという思いが、顔についた傷を実物以上に大きく感じさせていた。

 ランゴーニュはライナスに要求を呑ませることを、赤子の手を捻るように容易いと思っていた。追い詰め、焦らせ、希望を奪い、そこへ蜘蛛の糸を垂らしてやる。遮二無二になってそれを掴むと思っていた。だが、ライナスが遮二無二になってしたことは……奴隷殺しだ。


(弟が弟なら、その兄も……血は争えぬ、という訳か)


 その弟の方と手を組もうと考えておきながら、胸中でそう吐き捨てる。

 負け惜しみじみた思考であった。そもそも、あの土壇場で醜聞の根源たる奴隷を殺されるなど想定していなかったのは、ランゴーニュなのだ。まさかそんなことをする筈が無い。そう高を括って必要以上に相手を追い詰め過ぎた。また劇的な演出に腐心する余り、あの場に奴隷を連れて来てしまったのも失策である。恐喝に怯える被害者の前に、二つとない脅しの種を無造作に置いたのだ。オーブニル邸から連れ出して、こちらが確保しているぞと告げるだけで十分であったのに。

 だが、ランゴーニュには不幸中の幸いと言えることが、一つあった。


「しかし、詮議も無しに元伯爵呼ばわりかね。少しばかり性急過ぎぬかの、ランゴーニュ伯?」


「それがそうとも言えぬのですよ、ラヴァレ侯。そのライナス・オーブニルですが、今どこにいると思われますかな?」


「はて、いずこにおるのかのう? 通例ならば、この会合にて貴公と対面し、対決するのが筋じゃが」


 本人不在の場で一方的に非を鳴らすことを、暗に責めてくる。派閥内の揉め事であれば、この会合で双方の主張を聞いてから調停する。それで収まらぬようなら高等法院に持ち込む。普通ならば、そうするべきであろう。

 そうは運ぶことの出来ない理由に、ランゴーニュは小さく鼻を鳴らす。


「……修道院ですよ」


「なんと」


 座中の貴族の一人が、目を丸くする。

 修道院とは、祈りと教会への奉仕の為に出家信者たちが暮らす場だ。だが貴族社会にとってその言葉は、聞こえの悪いもう一つの意味を持つ。


「狂しておるということか……」


 即ち、爪弾き者の受け皿だ。

 家で養えない職にあぶれた庶子。認知を受けられなかった子。身体に何らかの障碍を持ち、貴族としての勤めが果たせないと判断された者。……そして狂人。

 人の社会に見捨てられた者たちを、無限の慈悲を持つとされる神の懐へ放り込み、後は知らぬと蓋する為の施設である。

 人権思想家からすれば噴飯者の発想であるが、生憎この世界にそんな先進的な考えを持つ者はいない。厳密に言うなら、理解している者は一人いるが、その男はそれに対して特に価値を認めてはいなかった。

 とまれ、ライナス・ストレイン・オーブニルは修道院の敷地を除いて、居場所を持てない存在となり果てているということだ。


「いや、彼の狂態ときたら、思い出すだに怖気を振るいますな。客人たる私の前で奴隷を殺したかと思うと、我らが取り押さえるまで暴れる暴れる。それで落ち着いたかと思ったら、今度は唐突に笑ったり泣いたり怒ったり。口にする言葉も支離滅裂でして」


「それはそれは……お可哀そうなことになったものよ」


「家人の方々も、落ち着かれるまで静養をと、急ぎ彼の身柄を世俗から離れた修道院へと運んだ次第。気を静められれば、日を改めて本人から謝罪させたいと伺っておりますが――」


 その日は決して訪れないだろう、とランゴーニュは確信していた。

 暗澹とした気持ちで、最後に見たライナスの姿を思い出す。引っ切り無しにあーだのうーだのと唸り、箍の外れた声で陽気に笑ったかと思えばさめざめと陰鬱に泣き出す。ようやく落ち着いて意味の通る単語が聞き出せたと思ったら、子どものような口調で訳の分からないことを喚く。キョトンとした表情でこちらを見ながら、そこのおじさんはだれですか? などと聞かれた時には、不気味さに肌が粟立ったものだ。先程までやりあっていたランゴーニュすら、誰なのかも分からなくなっているのである。

 そんな有様の男が、会合に出席したり裁判で証言したり出来るとは思えない。それが可能となるまで回復する可能性も、まず無いだろう。


「神官の見立てでも短時日での回復は見込めぬようでして……恐らくは引退、という運びになるでしょうな」


 そう。結局のところ、ライナスは当主の座を追われることとなった。世間から隔離された修道院で政務を取る貴族などいない。遠からずあの悪名高い次男が立ち、伯爵の位もこれへと移る。

 奴隷という材料が潰された時にはこちらの肝まで潰される思いであったが、如何なる天の配剤か、ライナスの方も壊れた。過程はどうあれ目論見通り、オーブニル家の当主交代という陰謀は成立したのだ。


(提案を呑ませた場合よりも、大事になってしまったがな)


 舌打ちしたくなるほどの忌々しさを押し隠すランゴーニュ。

 本来であればライナスには恫喝を以って仮病を使わせ、それを口実に隠居させるという計画だった。世評への障りも無く、あの薄汚い奴隷も生かしてやれたというのに。だが、あの恥晒しはあたら血を流した上に、派閥へ狂人を輩出したという悪評を振り撒いていった。つくづく救えぬ男である。


「で、侯爵。話は戻しますが、斯様に胡乱な者を我が派に引き入れられた責、如何にしてお取りになられるのでしょうな?」


 それでも、悪いことばかりでもない。アレが不出来な存在であればある程、閥に組み込み共に謀議を企てていたラヴァレの過失は大きくなる。発狂して奴隷を殺し、同派閥の貴族を傷つけ、挙句に修道院送りになったような男を手引きした盟主など、どこの誰が信任出来ようか。

 さあどうする、とでも言いたげに、老陰謀家へと向き直る。

 往生際悪く言い逃れをするが良い。周章狼狽する様を見せてみろ。その醜態で以って、老人どもの時代の終わりを告げるのだ……。

 ラヴァレは、どこか気怠そうにランゴーニュを見返す。


「……伯の言、いちいちごもっとも。儂としても弁解の言葉すら無い。皆より信を受けし盟主として、余りにも軽率に振舞ってしまったようじゃ」


 切り出されたのは、寝業師らしからぬ素直な言だった。

 座中にどよめきが満ちる。


「責任をお認めになるので?」


「うむ。事ここに至って、重責ある立場を私することは出来ぬ。……盟主の座を降りよう」


「何と!?」


 驚いて腰を浮かしたのは、メアバン伯だ。

 あのラヴァレが、生き汚い老醜の陰謀家が、責任を認めて地位を降りる? 切り出したランゴーニュですら面喰ってしまう。

 顔を寄せ合い囁き交わす同志たちを余所に、老人は静かに続ける。


「気付けば儂ももう八十。本来であればとうの昔に子へ爵位を譲り、今頃であれば孫が立つかという歳じゃて。引き際というものが来ておるのだろう。それを知るのが、斯様な仕儀が起きた故となるは無念――」


「ま、待たれよご老侯」


 メアバンが目を白黒させつつ語りを遮った。


「此度の一件、誠に由々しき事態ではあり、侯の心痛も察するに余りある。なれど地方が不穏である昨今の政情、御身の知恵を要する事大であると存ずるが……」


 今回の責任は別として、まだラヴァレが要るということだ。

 ランゴーニュは失笑を堪える。これでラヴァレが失脚すれば、次に派閥内で権を握るのは、その絵図を描いたこの自分。そうなればメアバンは二回りも三回りも年少の男に抜き去られることになる。

 それが幾ら耐え難いからといって、今更この古狐に縋ろうとは、滑稽にも程があるというものだ。第一、そちらとて下剋上を狙ったことは一度や二度ではあるまいに。


(メアバンも所詮は旧世代の遺物か)


 胸中でせせら笑う新鋭を余所に、侯爵は小さく首を振った。


「――時代は確実に流れておる。若い中からも、時局を動かす知恵を持つ者は出てこようて。儂はここらで舞台を降り、それをとっくりと見物させて貰うよ」


「ええ。お任せ下さい」


 知恵ならばこの自分にある。その自負を覗かせつつ恭しく首を垂れた。

 まずはライナスを排除し、ラヴァレを降ろしたことを手土産に、あのトゥリウスと組む。そうすれば集権派とアレの派閥を併せて分権派を圧倒出来よう。その功を以って領袖の座に就き集権派内で地盤を固め……用済みの【奴隷殺し】を排除する。なにせあの兄と血を分けた弟にして、先んじて悪名を知られていた男だ。真正の狂人とはどういうものかは、既に教訓を得ている。今度は手早く片付けてくれよう。そうして骨抜きになった旧トゥリウス派を併呑すれば、王国最大の勢力をこの手に握ることが出来るのだ。

 ほくそ笑むランゴーニュを余所に、ラヴァレは立ち上がり中座する。


「ではの。儂も孫への引き継ぎなど、隠居前にこなさねばならぬことがあるでな。この辺でお暇させて頂くとするわい」


 侯爵の嫡子が父を残して早世していたのは周知の事実だ。幸い嫡流の孫は健在であるので、これに地位を譲るのであろう。もっとも、この歳でなお艶めいた噂の絶えぬ妖怪爺のことだ。仮にその孫に何かあったとて、どこからともなく世継ぎのご落胤が幾らでも湧いて出てくるに違いない。

 正直、こうも呆気無く退陣されるとは拍子抜けではある。が、蹴落とす相手の見苦しさなど、これより握る権力の甘さに比すれば、安い食前酒の如きもの。味わえずとも惜しむものではない。ランゴーニュは老侯の退場を見送ると、すぐさま意識を切り替える。


「……侯に代わって、私が議事を進めよう。異議のある方はいらっしゃるかな?」


 言いながら、油断ない目付きで周囲を見渡す。

 顔を伏せているメアバン。曖昧な笑みで茶を濁しているシャンベリ。事態の変転に付いていけず、右往左往している有象無象。

 問題無い、いけると確信した。この場で主導権を握っているのは自分だ。ラヴァレを追い落とした自分に、逆らう者はいない。


「異論は無い、と判断して良いのかな? では、続けようじゃないか。まず――」


 この勢いに乗って、トゥリウス派との盟を決議し、以って己の功として、暫定である指導者の地位を確定のものとする。そうして自分が中央集権派を握ったら、領地が広いだけの凡愚どもである分権派を粛清してやろう。爺が手を拱いていたからといって、あの田舎者どもを図に乗らせ過ぎた。若く勢いのある盟主を戴いたからには、これまでのようにはいかぬと思い知らせてくれる。

 そうして国内の憂患を片付けたら、宰相の位を狙うのも悪くない。ラヴァレですら就くことの叶わなかった位人臣の極みだ。或いは王室と姻戚関係を結ぶという選択肢も魅力的ではあるまいか。そうすれば、ひょっとしたら何かの弾みで、我がランゴーニュ家の血筋を引く者が至尊の座を占めるやもしれぬ。

 想像するだに、得も言われぬ快感が背筋を走った。

 ランゴーニュは自身の描いた未来図に酔い痴れる。それが実現可能であると、心底信じ切っていた。頬で疼く痛みも忘れたその脳裏からは、ライナス・オーブニルがごとき男など、すっかり忘れ去られていた。




  ※ ※ ※




「おめでとうございます、義姉上」


「ええ。ありがとう、トゥリウス卿」


 僕が満面の笑みで寿ぐと、シモーヌさんも照れ臭そうに微笑み返してくれる。王都では色々とショッキングなこともあったようだけれど、ひとまず元気になってくれって良かった。

 ここはマルランの僕の居館だ。ブローセンヌの館で兄上が事件を起こしたため、この義姉はまた身寄りを無くしてしまった。元よりオーブニル家の家人たちと折り合いが悪かったらしく、彼女は頼る宛て無く途方に暮れ、僕を頼って来たという。

 で、すっかりと意気消沈し体調も崩していた彼女を、あれこれ世話して一週間。今日の検査である事実が発覚した訳である。

 ……何がって? 幸せそうに、まだ膨らみの見られていないお腹を撫でる彼女の姿で、察しは付くだろうと思う。


「これからは一層ご自愛下さいませ、奥様」


 頭を下げつつ言うのはユニである。何しろ女性ならではの事に関するの検査だ。同性である彼女の方が適任ではある。

 それを受けて、シモーヌさんも小さくはにかんだ。


「勿論ですとも。大事な大事な、新しい家族が宿っているんですもの」


 そう、おめでただ。

 当然ながら、お腹の中の子は正真正銘兄の胤である。僕に兄嫁を寝取るだなんて悪趣味は無いし、万が一余計な噂を立てられては事だ。女性関係での醜聞というものは、たかだか奴隷で人体実験をするよりも余程に聞こえが悪い。僕としても、自分の立場が危うくなるほどの悪評は御免だった。


「それにしても、これで僕も叔父さんですか。まだまだ若いつもりだったのですけれどね」


「うふふ。そうは言っても二十歳でしょう? 甥姪と言わず、そろそろ本当のお子が出来てもよろしいんではなくって?」


「ははは、そうですね。考えておきます」


 軽口に対しての思わぬ反撃に、頭を掻いて誤魔化す。

 そうなんだよなあ、もう二十歳なんだよな。それに加えて、前世と合わせれば既にオジサンと言われても当然の精神年齢でもある。今更甥や姪の一人や二人、出来ていて当然か。結婚適齢期が早いこの世界では尚更である。僕自身一人くらい子どもがいても不思議ではないし、どころか浮いた話すら……というのは奇異に映るだろう。

 だが、まあ、子どもというなら既にいるようなものだ。ユニは僕が育て、フェムは僕が作った。セイスなんて、そのものズバリお父様だなんてこっちの事を呼んでくる。まあ、シモーヌさんと面識があるのはユニだけだが。


「ですが、そう焦る必要も無いでしょう。オーブニル家は、二人の御子が継いでいくのですからね」


「トゥリウス卿……」


 僕の言葉に彼女は感に堪えないように目を潤ませる。

 彼女の子には、ゆくゆくはこの伯爵家を継いで貰う。そう発表する手筈となっていた。修道院に送られた兄に代わって、僕がこの家の暫定的に当主の地位と責務を受ける。しかし嫡出の血が存在する以上、やがてはこれに返すのが道義、という訳だ。


「本当によろしいのかしら。それでは貴方に酬いるものが――」


「お気になさらず。伯爵家当主など、僕の手には余る……兄が、いや父が健在であった頃から散々言ってきたことです。僕にはこのマルランがあれば十分ですよ。勿論、将来その子が苦労しない程度には、代役としての任を果たす所存ですが」


「――申し訳無いわ。何から何まで、貴方にお任せして」


「何を言いますか。これも罪滅ぼしのようなものですよ。兄上があんなことになったのも、僕が苦労をお掛けしたことも影響しているでしょうし、せめてこれくらいの事をするのには吝かではありません」


 本当に、この人があれこれ気を揉む必要は無いのである。僕にだって兄上の子が立つことで得るメリットがあるのだから。

 この家に正式な後継ぎがいれば、欲深な連中から政略結婚を仕掛けられずに済む。僕の言いなりである派閥の連中は兎も角として、それ以外の貴族どもは腐っても伯爵家という箔と、所領の利権を目当てに色めき立っているらしい。この赤ちゃんは、そうした輩をかなり抑えてくれることが期待出来るだろう。仮に僕と姻戚関係を結んだとしても、将来的に権限を握るのは兄の子になるのだから。

 政略結婚の何が嫌かって、新しく親戚が増えるというのが気に喰わない。付き合う相手が増える上に、下手に蔑ろにすると何かとうるさいことになるだろう。僕らしいやり方で抑え込むにしても、手間とコストはゼロにはならない。

 ただでさえ兄上があんなことになって、これから忙しくなるのだ。些事に煩わされるのは嫌なので、お腹の赤ちゃんには防波堤として役立って貰おう。


「長話というのもお身体に障りましょう。まだまだ疲れを残しておいででしょうし、ゆっくり休まれては?」


「……。そうね、そうさせて頂くわ」


 シモーヌさんはどことなく名残惜しげに立ち上がると、ドアの前で歩く。

 おっと、そうだ。その前に一つ確認しておかないと。


「シモーヌさん」


「? 何かしら?」


 不思議そうに振り返った彼女に、問いを投げる。


「今、幸せですか?」


 今の彼女に対して、これ程馬鹿げた質問も無いだろう。奴隷に夫を寝取られ、その夫は発狂した。若い身空でこれから大きくなるだろう腹だけを抱えているのだ。いかに義弟から子の将来を保証されようと、それで良しと出来るほど取り巻く状況は軽くない。

 だというのに、


「ええ、幸せよ」


 彼女は大輪の花を咲かすように、見事に笑ってのけた。


「新しい家族がここに……こんなに近いところにいてくれているんですもの。これを幸せと言わなくて、何と呼べばいいのでしょう?」


 そうして身に宿した愛し子に向けて、情感の籠った愛撫を一つ。この姿を見ただけで、彼女を不幸と憐れむことのできる者など、いはしないだろう。

 母は強し、か。僕は納得と共に肯きを送る。


「それは良かった。では、お大事に――」




  ※ ※ ※




 ヴィクトル・ドラクロワ・ロルジェは、前伯爵夫人と入れ替わるようにして主人の執務室に入室する。そこでは、主たるトゥリウス・シュルーナン・オーブニルが、自慢の奴隷から茶の給仕を受けているところであった。


「閣下。夫人にはお茶をお出しにならなかったのですか?」


「……別に意地悪をした訳じゃあないよ。妊婦にカフェインなんかの刺激物や、効果がキツ過ぎるハーブは悪影響があるからね。あの人にはちゃんと、健康な子どもを産んで貰わなきゃ困る」


 言いながら、ユニの手から渡されたカップを口元に運ぶ。香気を楽しみつつ悠然とする姿には、余裕しか見受けられない。

 つまりは、上手く事が運んだのだろう。


「彼女へのご処置は成功ですか」


「でなきゃ、もうちょっと慌てているさ」


 処置――そう、洗脳である。

 どこの世界に、あのような憂き目に遭ってなお幸福そうな表情を晒せる女がいるものか。マルランに辿り着いた当時のシモーヌは、それは酷いものであった。打ちひしがれた幽鬼のような佇まいは、それこそ夫と共に修道院へ送ってやった方がよいのでは、とまで思わされた。そんな状況から短時日で回復してみせるなど、頭を弄りでもしない限り不可能だろう。

 そしてその手の外法は、この呑気に茶を嗜んでいる錬金術師の十八番だった。


「ドライや君たちに処置した時に比べれば、簡単なものさ。シモーヌさんは寂しがり屋だからね。ちょいと認識にバイアスを掛けて、孤独感や愛情への飢えをお腹の子どもに向けてやる。それで若く強かな慈母の完成さ」


 紅茶に舌鼓を打ちながら、何でもないことの言う。

 ……聞いた話では、彼女はあの夏の日、ライナスからの無体を受けた翌朝、トゥリウスに泣き縋っていったのだと言う。家に帰して、両親のところに帰して、と。

 とはいえ、如何に主が卓越した錬金術師だとしても、既に死んでいる彼女の両親を生き返らせてやることは出来ない。いや、或いは彼ならと思いはするが、流石に世人はそれを許さないだろう。だから代わりに、新しい家族を作ってやった。

 子どもという、格好の情愛の受け皿を。


「それにしても皮肉なものですね。夫と通じていた奴隷と、同じやり方で孕まされるとは」


 ヴィクトルはおかしみを覚えつつそう言った。

 今回の騒動の引き鉄たる、女奴隷の懐妊。これもトゥリウスの手配りだった。そして、同じ手法を用いてシモーヌにも子をくれてやったのである。


「同じやり方で孕まされる、ってのも妙な表現だよね。普通は子どもの作り方なんて、そうバリエーションのあるものでもあるまいに」


「確かに。ですが閣下のお取りになった手段は、常識的なものではないでしょう? ならばそう表現するにしくはないかと」


「ああ言えばこう言うね、君もルベールも……そりゃまあ、人工授精なんて手法、僕のところ以外で使ったなんて話は聞かないけどさ」


 人工授精。男女の精を取り出し掛け合わせ、全くの人為で赤子を作り出す技法。

 EEシリーズ、そしてオーパス06セイスを製造するに当たって用いられている技術だ。長命種たるエルフですら、畑に種を蒔くような気軽さで増やすことが出来るのである。それが人間に用いられないなどという道理は無い。

 例のヴォルダンの領館を不意打ちで訪れての歓待。あれは秘密裏にライナスの精を採取する為に行ったのだ。それを目的として気力を充溢させる佳肴で持て成し、あの関係が冷え切っていた夫婦が房事を行うよう計らって、翌朝の洗濯物から残滓を回収する。

 そしてライナスが領主としての政務でヴォルダンに釘付けとなっている隙に、王都から彼が囲っていた奴隷を拉致。これに胤を仕込む。

 標的の確保には、洗脳の魔眼を備える上に、転移魔法で移動に融通が利くドライが動いた。如何にトゥリウスの常套手段が洗脳であると看破していても、関係者の全てに対策が講じられる訳ではない。防護の為の礼装も値が張るのだ。主要な家臣はヴォルダンに伴って来ている。礼装もそちらに優先して回されていたのだろう。ましてや、当主の愛人とはいえ、たかが奴隷に洗脳除けのアミュレットも厳重な警備も着けられる筈が無い。ライナス・オーブニルとは、そんな非常識な振る舞いが出来る人間ではなかった。……弟とは違って。

 準備が整い、奴隷を王都の屋敷に戻したら……後はそれとなく、ライナスやその背後のラヴァレを煙たく思う貴族に、自然と情報が渡るように計らう。嫡子も無しに奴隷を孕ませたライナスを、排除に動くように。それが今回の計略である。


「それにしても、ヴィクトルもやるじゃないか。兄上が咄嗟に奴隷を殺した、って聞いた時はしくじったかと思ったけど、結果としてみれば概ね大成功だ。大したものだよ、ほんと」


「いえいえ。私などまだまだ未熟。今回ばかりは不幸中の幸いに助けられましたよ」


 ヴィクトルは瑕疵を残したまま終わった計画に、不満の溜め息を漏らす。

 ルベールが仕入れた情報を元に、トゥリウスが持つ人工授精の技法を活かす、この策略。立案したのは何を隠そうこのヴィクトルである。あの忌まわしい老醜ごと何かと目障りな男を除けると、精魂を注いで考え出した策であるが、問題は詰めの段階で用いた手駒だ。


「……ランゴーニュ伯。彼の御仁も、とんだ見かけ倒しでしたな」


 まさかライナスが奴隷を殺せるような状況で話を切り出すとは、夢にも思っていなかった。幸運にもライナスが発狂した為に失態はうやむやとなったが、そうならなかったらと考えると気が気ではない。下手をすれば奴隷を孕ませたのも殺したのもランゴーニュの方だ、と強弁して水掛け論に持ち込まれる可能性すらあった。いや、ヴィクトルが彼の立場であれば絶対にそうする。奴隷が生きていれば、服従の魔法で誰が父親なのかを聞き出せるのだから。逆に殺してさえしまえば、全ては闇の中に葬られてしまうのだから。

 トゥリウスは興味無さげながらも聞いてくる。


「そんなに駄目な人だったのかい? 仮にも集権派の若手筆頭でしょ? 有能だから使ったんじゃないの?」


「違いますね。策に用いるのに、他の貴族より丁度良かったから使ったのです」


 ヴィクトルは解説する。


「まず私の実家ということになっているロルジェ伯爵家。これは論外でしょう。何せ、妾を物のように押し付けられた挙句、その腹にいた子を認知するほどのラヴァレの犬です。兄君を失脚させる情報を吹き込んでも、尻尾を振りつつ飼い主に相談するのがオチでしょう」


 母を持て余した挙句に冷遇し、ついには死を迎えさせた仮初の実家を、口を極めて罵る。トゥリウスも流石に鼻白んだが、ひとまず肯いて先を促した。


「次にシャンベリ伯。彼は蝙蝠です。ぶら下がる枝が無くしては生きていけない生き物に、自ら朽ち木を倒して道を拓く器量はありますまい。これもまた相応しくないと愚考します」


「となると、ラヴァレの爺さんを追い落とせるだけの集権派における実力者は、メアバン伯って人とそのランゴーニュ伯だけか。メアバン伯の方を選ばなかったのは、何でかな?」


「彼のお人は中央集権派では古参に属しますからな。あの死に損ないを疎んじると同時に、力量を買って恃む面もございましょう。長い年月、アレの傍にいたのですから。乗るかどうかは良く言っても半々です。危うい賭けはお嫌いでしょう?」


「当然。フィフティ・フィフティなんて低確率、選択肢がそれしかない時以外は乗りたくないね」


 主は即座に返答する。彼にとって、リスクとは無駄以上に避けるべき概念であろう。何しろ死を厭い不老不死を目指しているのだから。


「ほら、残るはランゴーニュ伯だけでしょう? だから彼を使うしかなかったのですよ。勿論、派閥内の若手を纏める顔役ですから、それなりの能力は期待していたのですが――」


「ところが、まるで見込み違いだったと」


「――はい。所詮は油を注した舌だけが取り柄の男でしょう」


 言いながら、ランゴーニュの経歴を脳裏に反芻する。親の地位を恙無く継ぎ、周りに担がれるまま若い貴族たちの顔役に収まった男。誰かに敷かれた赤絨毯の上を歩み続け、それがどこまでも伸びていると、本気で信じ込んでいるような手合いだ。ヴィクトルのように妾腹の出自に苦しんだことも、ルベールのように靴底を磨り減らして職を求めたことも無い。トゥリウスのように兄弟との相克に苦心したことも無かろう。三十路を過ぎても、苦労知らずのお坊ちゃんのままなのだ。


「ですが」


 黙って両者の話に耳を傾けていたユニが、初めて口を開く。


「そのような方であるからこそ、簡単に操れるのではないでしょうか?」


「ただの無能なら、そうなのでしょうがね……」


 ヴィクトルは苦笑した。


「操られる側がなまじ自分を有能だと思い込んでいられると、操り手としても苦労が絶えぬのですよ。今回のように、余計なことを次々しでかしてくれるのですから」


「つまり無能な働き者、ってことかな」


 そう要約するのはトゥリウスだ。この主は、普段はいい加減なくせに、時折こういう的を射た言い回しを聞かせてくることがある。出来るのであれば、いつもしっかりと物を言ってほしいものだ。


「成程、得心がいきました」


「問題はその無能な働き者であっても、騙し騙し使っていかねばならないことですな。貴重な中央集権派との伝手ですから。洗脳出来れば話は早いのですが、王都に根を張る大身となると難しいでしょうし」


「面倒事っていうものは中々無くならないものだね。兄上からの引き継ぎに、家臣団の再編、集権派連中との和解交渉。研究に専念できるのは、いつになるのやら……ユニ、お代わり」


「はい、只今」


 憂鬱げに不平を鳴らすトゥリウスの表情に、兄を狂気に陥らせてまで追い落としたと言う負い目は無い。寧ろ、そこまでさせた兄への不平すら見てとれる。

 我ながらとんでもない主を持ったものだ、と思う。だが、ヴィクトルにしても怨恨があったとはいえ実の父親に対し、失脚に追いやる策謀を立案したのである。ならば似合いの主従と言えるのではないか。


「……とはいえ、一番大きな厄介事は片付きましたからな。贅沢は言えないでしょう」


 かつて己と母を見捨てた男へと、今度こそ痛打を見舞ってやったことに暗い愉悦が背筋を這うのを感じる。派閥盟主の地位から追いやった程度では今一つ物足りないが、現状はこれが手一杯であった。とはいえ、この主人を輔弼していけば、それだけであの老人へ煮え湯を飲ませることになるだろう。


「兄上もラヴァレも、表舞台から引きずり降ろしたからね。……しかし爺さんは兎も角、兄上はちょっと惜しかったかな」


「ほう?」


 意外な言葉である。常に角突き合わせ相克を演じて来た兄を、今更惜しむ思いがあるとは。

 いや、先程からの口振りからして同情などではあるまい。何か手駒として有為な点があって、それを手中に出来なかったのを悔んでいるのだろう。

 トゥリウスは懐からこぶし大の小さな塊を取り出し、こちらに放った。


「おっと。何ですかな、これは?」


「芋だよ。異大陸渡来の作物の一種さ。荒れた土壌や寒い土地でも良く育つらしいよ? ……兄上が、救荒作物として領地に植えようとしていたんだってさ」


「ほほう」


 それはまた興味深い話だった。錬金術で土を弄れるトゥリウスとて、天候を変えるのは難しい。ドライやセイスの魔法を使えば無理ではなかろうが、それにしたって負担が大きいのだ。麦の不作や天災に備えて、救荒作物の類はあっても困らないだろう。


「ライナス・オーブニルとは内政の人でありましたか。思えば、統治のほとんどを王都より行っておきながら、遠く隔たった領地に目立った破綻もありませんでしたな」


「よくよく考えたら凄い話だよね。書簡での報告から細かい矛盾を見つけ出して修正して、過不足無い手立てを講じているんだからさ。まあ、それが出来るんだったら、僕が来る前のマルランにも手当てをしておいてほしかったけれどね」


 卓越した行政手腕の持ち主。そのありようは領主というよりは辣腕の官僚に近い。王都からの命令で地方を動かそうとする集権派にとっては、中々に得難い人材であった筈だ。

 確かにこれは惜しかろう。だが、同時に、


「とはいえ、内政面では既にヴィクトル卿らがおります」


 ユニがそう評す通り、ここにはヴィクトルもルベールもいる。もう一人ライナスが加われば、確かに楽になるであろう。が、ラヴァレと組んだ以後では、抱え込むメリットに対しデメリットが釣り合っていない。所詮は鶏肋の類である。


「そうだね、過ぎたことを悔やんでもしょうがないか。……それよりこの芋、マルランでも栽培する計画を立てておいてよ。麦畑に適していないけど芋は植えられそうな土地、無かったっけ?」


「はっ。配下をやって調べさせましょう」


「ユニも、ラボの食料部門に種芋を分けてやって。これで地下の自給率にも改善がみられる筈だ」


「畏まりました」


 そう決まると、後はそれまでだった。ライナス・ストレイン・オーブニルの名は、それきり上がらなくなる。彼らにとって、主の兄とはその程度の存在だった。


「話は変わりますが、閣下。例の物が出来上がりましたので、持って来させております――入れ」


「失礼致します」


 合図と共に、Bシリーズの一体が筒状に巻かれた布を小脇に入室してくる。ヴィクトルとしては、こういう格式ばった品を奴隷に運ばせるのは好まないのだが、主はとんと気にしない。

 その点に気を揉みつつ、受け取った品を広げてみせる。

 ばさりと音を立てて翻ったのは、旗だ。

 そこに描かれているのは赤と黒のシールドと、その内で尾を加えた蛇の紋章。


「――こちらがオーブニル家当主の紋章になります。これより、家中で使用する印璽や装飾も、順次こちらの図柄と取り換えていくことになりましょう。この旗は閣下の御威光への彩りとして、この部屋にお飾り下さいませ」


 主が(きざはし)を一歩進めたことを分かりやすく示すイコンに、ヴィクトルの語りにも微かに熱が籠る。しかしトゥリウスの方はというと、


「ん。ユニ、やっておいて」


「はい。直ちにお飾りいたします」


 多くの貴族が血眼になって欲するであろう、そして彼の兄が必死になって守ろうとした伯爵家当主の象徴は、それほどにはこの新しい持ち主の感銘を誘わなかったらしい。


「……前々より思っていたのですが」


 手早く掲揚を行い、何度か角度を手直ししつつユニが呟く。


「やはりこの紋章は、ご主人様にこそお似合いになりますね」


「そうかい? まあ、僕にとって縁起の良い図柄ではあるね」


 飾られた旗にチラリと目線を向けたトゥリウスは、その言葉自体には悪い気はしないようであった。

 二百年前、この意匠を考えた主の祖先が、何を思っていたかは分からない。だが、不老不死を欣求する狂える錬金術師にとって、これ程似つかわしい紋章もあるまい。

 完成、或いは永劫を表す、円環の蛇。

 オーブニルの象徴は、ついにその意に相応しい担い手へと渡ったのだった。

 

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