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060 紋章を継ぐ者<前編>

 

 夏が終わった。

 ライナスらを乗せた馬車は今、懐かしい王都ブローセンヌの通りを走っている。領地における政務を一段落させると、このまま同地に駐屯するという騎士どもを残し、そそくさと王都へと帰って来たのだ。

 そう、帰って来たのである。

 生まれて以来、初めて過ごしたヴォルダンでの日々は、やはりというか、他人の家で寝起きしていたような居心地の悪さが拭えなかった。見知らぬ部屋、初めて会う部下、慣れない風土、会う者全てから感じるどことない野暮ったさ。どれをとっても気分を落ち着かなくさせる。二月ほどの滞在で、田舎暮らしにはうんざりとさせられていた。

 所詮自分は王都の人間なのだ、とライナスは思う。流行の衣服や音曲、華やいだざわめきの中にこそ安らぎを見出してしまう。この街の外に生きる場所は無いとさえ感じるのだ。齧りつくようにして都に居座る、中央集権派の連中の事ももう笑えない。そう思うと、郷愁の中に若干の憂鬱が混じる。

 ……あの後、結局トゥリウスを再度呼び出すことは出来なかった。そろそろだ、今日こそは、いや明日にはと思いを巡らすうちに、時日は虚しく消費される。それでも意を決しようとすると、あの男の胸の悪くなるような顔が頭に浮かび、躊躇いを覚えてしまう。そうこうしている内に、いつの間にやら時宜を逸してしまったのである。


(あの爺、またぞろうるさくなるであろうな……)


 それとないほのめかしだったとはいえ、ラヴァレの指示に違約してしまった。明確な指図ではなかったと強弁できなくはないが、王国一の陰謀家に含むところありと疑われるのも堪らない。

 どう対処したものかと思案し……すぐに止めた。

 ずっしりと両肩にのしかかるような疲労感が、若い筈の彼から気力を奪い去っていく。

 土台、帰領中の執務をこなしながら、トゥリウスにも対処せよと言うのが無茶なのである。ただでさえ不在の間に山積した諸問題を捌いていかなくてはならないのだし、土地の有力者とも顔を繋ぐなどしなくてはならない。地方領主というものは、傍から想像されるよりも煩瑣な仕事が無数にあるのだ。

 神経を使う仕事と長旅とで身に染みた疲れが、ライナスに思考を放棄させる。とにかく屋敷に帰りたかった。ベッドに潜り込んで、暫しの間惰眠を貪りたかった。生真面目な彼にしては珍しい、怠惰な思考が頭を占め始めている。

 それと、女。

 滞在中、ついにシモーヌは公然と同衾を拒むようになってしまった。最初は病に罹ったと申告した為に、部屋を分けていたのだが、どういう訳か快癒した後も夫婦の寝室には戻ろうとしない。仮病だったのである。それを知った時、ライナスは激怒して堪らずシモーヌを組み敷いた。抵抗は無かった。ただ、自分の下の彼女は、見下げ果てたような冷たい目をこちらに注いでいたのを憶えている。彼はそれで萎えてしまった。

 仕方なく彼はメイド数名に、摘まむように手を付けた。不義の後ろめたさは勿論あったが、その前にライナスとて若い男である。触れれば落ちる果実を前に、一人寝を耐えられるほど枯れてはいない。そも、女使用人に麗しい乙女を揃えるのは、そうした役割も求めてのことである。貴族社会はそれを十分に容認する筈であった。無論、正妻より先に子どもが出来でもすれば、妻や仲人の顔も潰れるだろう。シモーヌやラヴァレの顔など、出来れば自分の拳で潰してやりたいが。

 しかし、満足は得られなかった。確かに事は滞りなく済ませられる。毎夜不自然なほどに昂る心身を持て余し、朝まで眠れない日々からは解放された。だが、そこに解放はあっても充足は無い。堪った物を仕方なく吐き出しているだけの、味気無い交わりである。安い菓子で空腹を埋めるようなものだった。選んだ相手が悪いのかと、何度か女を替えてみてはしたものの、結果は同様である。


(やはり、アレでなければ駄目か)


 想起するのは、王都の屋敷で彼を待っている筈の奴隷の顔。

 鈍臭く、気が利かず、容姿も飛び抜けて目を引く点がある訳でもない。けれどもひたむきに自分に尽くす女だ。シモーヌのように拒絶もせず、メイドどものように欲得ずくの媚を見せもしない、彼を満たす為だけに生きているような奴隷である。

 どんな仕打ちも黙って受け入れる従順な瞳。可愛げのある服従を囀る唇。猛りを鎮めんと懸命に尽くす身体。この旅の間に他の女を幾人経ようと、それらをまざまざと瞼の裏に描けようとは。思わず溜め息すら漏れそうになった。

 長く自分の指から離れていたその肌を求める心地は、或いは恋焦がれる思いに似ているかもしれない。


(……今夜ばかりは、少し趣向を変えてみるのも悪くない)


 気紛れに、そう思う。

 たとえば、一度だけ優しく抱いてやってはどうだろう。留守を守っていたことを褒めてやりながら、今日ばかりは殴りも罵りもせずに及んだとしたら?

 喜ぶだろうか。戸惑うだろうか。乱れるだろうか。物足りないのだろうか。

 何しろ、手荒く扱っても満足の兆しを見せるような手合いである。ひょっとしたら、罰を欲してわざと粗相する、ということもあるかもしれない。

 想像するだに、愉快だった。


「ふふっ……」


 無意識のうちに笑みを漏らすと、ガタリと音がした。

 シモーヌだ。ライナスが笑ったのを、何を勘違いしてか大きく身じろぎしたらしい。この女はこのところずっとこんな調子だ。押し倒せば軽蔑の眼差しで見返してくるが、そうでない時は逆にライナスの一挙一動に怯えたような反応を示す。言わばハリネズミのようなものだ。触れれば刺し返してくるが、その実傍に近寄られることさえ恐れる臆病な小動物に過ぎない。

 可愛げの無い置物から目を逸らし、窓外に広がる久方ぶりの王都の景色を眺める。一年前の大火からの復興も進み、表通りからは惨劇の残滓は見受けられない。それでも寂れた区画に回れば焼け跡生々しい住宅地跡だの大きく版図を広げた貧民街だのが目に入るだろう。が、それもあと数年のことだ。復興と合わせた都市計画により、一度焼かれた街はより逞しく、美しい景観を取り戻す筈である。

 ライナスは脳裏から憂鬱の種を全て追い出し、愛する街と自分を待っているだろう女の姿に耽溺していた。







 夕暮れ時、王都の居館に到着した馬車を迎えたのは、不気味なほどの静寂だった。

 痺れを切らしたように下車しつつ、ライナスは訝しむ。幾ら領地下向に家臣を伴っていたとはいえ、この屋敷にも留守居役くらいは残していた。当主の帰着となれば、彼らが門前に出て迎える筈である。

 だというのに、停車した際の馬の嘶きに応えるのは沈黙のみ。オーブニル家本邸は、人っ子一人いないように静まり返っていた。


「どういうことだ、これは?」


 不機嫌も露わに執事を睨むと、ビクリと硬直しながらこちらも困惑の体で見返してくる。


「わ、分かりません。お帰りになられる時日は、事前に書簡で報せた筈なのですが……」


「間違い無いのだな?」


「は、はい。間違い無く、予定は書き送りました」


 旅の間中随行していた従者は、顔を汗で濡らしながら答えた。

 ならば、この館の静まり返った様子は何なのか。留守居どもが全員揃って、夜逃げでもしたというのだろうか。そんな馬鹿げた想像さえ浮かんできてしまう。


「……とうとう愛想を尽かされたのではなくって?」


 幽霊じみたか細い声で、シモーヌが言う。こんな皮肉を聞かせられるのも久しぶりの事であるが、勿論のこと喜ばしく思える筈が無い。


「馬鹿を言うな」


 ライナスは一言下に切って捨てた。

 このところ頑なを通り越して陰気の領域に差し掛かっている妻に、彼は辟易し切っていた。夫とはこんな調子である癖に、エリシャなどと会話に興じる時は以前の明るさを取り戻すというのが、また癇に障る。

 苛立ちと困惑、それと初秋の夕刻の肌寒さに背中を押され、ライナスは館へと歩を進めた。家臣の出迎えも無しに玄関をくぐるなど、当主の面目を損なう行いである。かと言って、いつ姿を見せるかも分からぬ連中を待って、涼気に震えているのもみっともなかった。

 留守居の者には、後でたっぷりと罰をくれてやる。俸給の削減などという生温い処置で済ますつもりは無い。鞭打ちに処した後で、叩き出してやろう。そして回状を回して奉公構えだ。主人をもてなすイロハも知らぬ従者など、元家臣として他家に仕えられでもしたらいい恥なのだから。

 ぶちぶちと不満を鳴らしつつ、玄関の扉を開く。

 屋敷の中は、暗かった。照明の類が灯されていない。窓から差す沈みかけた夕陽の日差しだけが、辛うじて光源として機能していた。

 まるで幽霊屋敷といった風情であるが、呼吸する空気に埃っぽさは無い。掃除などで人の手が入っていた証しだ。ごく最近までは、家臣や家僕たちがしっかりと屋敷を管理していたのだろう。では、何故姿を見せないのか。これでは留守を預かっていた連中が、ライナスが帰ってくる段になって姿を消したようである。


「おいっ! 誰か居らぬのか!?」


 声を張り上げるも、返ってくるのは谺ばかりだ。やはり誰も姿を見せない。

 埒が明かないと見て、備え付けの燭台をひったくるようにして手に取り、点火する。薄暗い邸内にボォっと頼りない明りが灯った。


「……付いて来い」


「は……はっ!」


「…………」


 人の気配を求めて歩き出したライナスに、忠実な執事と不貞腐れたように俯いたままのシモーヌが続く。部下は兎も角として妻が従ったのは、情愛や信頼ではない。夫の傍にあるべしという常識に縛られ、機械的に嫌々歩を進めているだけである。

 ともあれ、彼らが屋敷にいた者と出くわすまで、そうそう時間は掛からなかった。

 二階の一室。応接間の一つ、その扉から、薄っすらと明かりが漏れている。


「――ははははっ……」


 のみならず、愉快そうな笑い声まで聞こえて来た。

 ライナスは蝋燭の火に照らし出される顔を、苦み走ったように顰める。


(何だ、あ奴ら。当主への迎えも忘れて、遊んでおるのか?)


 だとすれば、虚仮にするにも程がある所業だった。腹立ちのままに歩調を早め、扉の前に立つ。そして怒りが度の過ぎたものとならないよう深呼吸を一つ。癇の虫に手綱を掛けてから、ドアを開け放った。


「貴様ら、何をして――!?」


 難詰の意を込めた声は、しかし中途で断ち切られる。部屋の中に広がっていた光景に、意表を突かれた為だ。

 そこにあったのは、ライナスが想像していたような、留守居の家臣たちが当主の帰着を忘れて遊び呆けている姿ではない。


「ははっ。どうしたのだね、ライナス・オーブニル伯爵? 何をそんなに呆けた顔を晒しているのかな?」


 応接室のソファには一人の貴族が、留守居に残した家臣たちに傅かれながら、酒杯を片手に我が物顔で陣取っていた。戸口で呆気に取られている本来の主をせせら笑うように、愉悦に満ちた微笑をこちらへと投げ掛けている。

 知っている顔だった。

 ブラウンの髪と瞳、若々しい容貌へせめてもの威厳を添えようとしてか、良く整えられた顎鬚を蓄えている。三十代も半ばという年齢もあって、笑みには柔らかみが強く見受けられる。が、その裏にある感情は、傲然とした自負と燃えるような野心であると、見る目のある者には知れるだろう。

 ライナスは呻くように男の名を口にした。


「……ランゴーニュ伯。何故、貴方がここへ?」


 中央集権派貴族、その中でも若手の衆望を集める気鋭の旗手である。心ならずとはいえ同じ派閥に属する者同士だ。会話を交わした数は二度三度ではない。

 だが、事前の約束も取り付けずに当主不在の居館に押し入り、早めの晩酌を嗜むことを許すほど気安い仲でもなかった。

 寧ろ、この男との関係は険悪に近い。若手の纏め役であるランゴーニュにとって、自分より一回り若く、爵位は同格で、その癖地方に広い所領を持つライナスのような存在は目障りであるのだから。ライナスの持つ潜在的な実力は、例えあの愚弟の所為で家名に傷を負っていようと、この男の地位を十分に脅かしうる。

 ランゴーニュはライナスの動揺を楽しむように、ねっとりと爪先から頭頂まで舐め上げるような視線を送ってきた。卑しい目付きである。弁舌の冴えと行動力は認めないでもないが、絹の衣の下に隠した品性に関しては、高い評価を与えられない人物だった。


「まあ、そんなところに立っていないで座りたまえ。長旅で疲れているだろう? おっと、そこにいるのは奥方ではないか。貴女もどうぞ、ささっ」


 更には親切ごかしてそんなことまで言い出す。


(ふざけるな、ここを誰の屋敷だと思っている……!)


 手にした燭台を投げつけてやりたい衝動に駆られるが、辛うじて自制には成功した。相手は仮にも年長であり、派閥においては先達だ。むきつけにどういうことだと胸倉を掴むような真似は出来ない。業腹ではあるが、まずは勧めに従ってから非を鳴らすべきだろう。

 燭台の火を吹き消し、テーブルに置きつつ対面のソファに腰を下ろす。会釈はしなかった。無礼な振る舞いへの、せめてもの抗議である。シモーヌの方は、精彩を欠いたぎこちない会釈をしてから、ライナスの隣……というには少し離れ過ぎた位置に座った。


「ランゴーニュ伯、これはどういうお積りか?」


 席を温める間もなく発した問いに、ランゴーニュは苦笑を漏らす。


「おいおい、挨拶も抜きかね? 気忙しいな。もう少し雅な会話を楽しもうではないか」


「挨拶も抜きに、と仰るのなら、そちらの方でしょう」


 ライナスはじろりと、卓を挟んだ相手が持つ酒器に視線を向けた。

 断りも無く人の家で酒を飲んでおいて、今更何を抜かす。そんな意を含んだ所作であるが、


「ん? ……ああ、そういえば空にしてたな。お代わりを頼むよ」


「は、はい」


 ランゴーニュは気にも留めずに、グラスを掲げて催促を始める。

 しかも、家僕は求めに応じて遅疑せずに酒を注いだ。

 ライナスの忍耐は、早くも限界を迎えた。


「……どういうつもりだと聞いているっ!」


 両の拳をテーブルに叩き付け、身を乗り出すようにして吠え掛かる。怒声と衝撃とに、シモーヌがますます強張り、ライナスと距離を取った。

 そんなことにも頓着せず、彼は続ける。


「当主不在の館に押し入り、酒をせしめ、我が物顔で席を勧めるなど、どういう料簡でしていると聞いているのだっ!」


 次いで、不作法な闖入者の側に立っている家臣どもにも矛先を向けた。


「貴様らもだっ! 私への出迎えを怠り、このような輩を歓待するのにかまけるなど、不心得にも程があるっ! お前たちの主人がだれであるかも忘れたかっ!?」


「ひっ!?」


 怒気をまともに浴びた家臣の一人は、一瞬背筋を伸ばして畏まったものの、直後には曖昧な笑みを浮かべてランゴーニュに擦り寄る。

 何なのだ。この状況は何なのだと、ライナスは肩を喘がせながら思った。

 家臣たちは自分を無視して前触れも無く現れた男に従い、当人はおよそ礼に適うとも思えぬ態度で自分に接してくる。

 これでは……これでは、まるで――


「――自分が貴族と扱われていないようだ、かね? ライナス・ストレイン・オーブニル」


 対面で舐めるように酒を呑んでいる男が、ピタリと彼の内心を的中させて見せた。

 ランゴーニュは完全に寛ぎ切っている。ライナスの舌鋒も、その糾弾の内容も、全て無意味と言いたげに、駘蕩とした風情でこちらを眺めている。

 そして、出し抜けにこう言った。


「ところで君、まだ気付かないのかな……館の留守居に残した者は、もっと大勢いた筈だろう。ここに全員で揃えば、部屋が窮屈になるくらいにはね。果たして、彼らはどこへ行ったのだろうか」


「……?」


「どういうことですの? ランゴーニュ伯」


 息が整わず、また困惑に支配されているライナスに代わって、シモーヌが口を開いた。

 対する男は、さも心配ごかした表情で答える。


「いやいや、お聞き苦しいことだとは思うがね……彼らは出て行ってしまったのだよ」


「……は?」


「今、この部屋にいる者を除いて、全て辞めてしまったと言ったのだ。ああ、困ったことだね、本当に」


「そんな馬鹿な!?」


 ライナスは目を剥いて再び卓を叩いた。流石のランゴーニュも、今度は煩わしげに眉を顰める。その小癪な表情に、怒りが再燃するのを感じた。


「当家の者が、私の部下が、届も無しに家を辞することなど有り得るものかっ! 出鱈目を申すのも大概に――」


「有り得るだろう? ……何しろ、ここはオーブニル家であるからな」


 その言葉に、冷水を浴びせられたような心地を味わう。

 そうであった。この家から逃げるように人がいなくなるなど、近年ならばいざ知らず、かつてであれば珍しいことでもない。

 屋敷の地下に、あの忌まわしい異端児の実験場があった時代。夜毎に漏れ聞こえる悲鳴や断末魔、枯れ木を燃やすように死体が荼毘に伏される光景と臭気。それらに心を病んで、主に辞意を示すこともなく退転する者が後を絶たなかった。

 またか、とライナスは思った。またトゥリウスめが何かをしでかしたか。王都から遠く隔たったマルランの辺境にありながら、この屋敷から人が逃げるようなことをやらかしたというのか。

 ランゴーニュは、硬直して考え込むライナスへと苦笑をひらめかせる。


「もしかして、弟御のことを考えているのかな? だったら、それは的外れであると言っておこう」


「え」


 思わず目を丸くするライナスに、笑みに隠した侮蔑の視線が注がれた。

 出来の悪い子どもを憐れむような、愚図な使用人を嘲笑うような、対等な人間には間違っても向けられはしない感情が。


「そろそろ本題に入ろうかね。そもそも、私が今日ここを訪れたのは、だ――」


 男はそう言って、パチンと指を鳴らす。

 外に控えていた彼の家臣が合図を受けたのだろう。背後で扉が開く音がした。

 コツコツと、足音がこちらに近付いてくる。何事かと振り返ったシモーヌが、息を呑んで固まった。ライナスは動けない。

 嫌な、嫌な予感がした。

 今ここで振り返ってしまったら、この身に破滅が訪れるような不吉な気配を感じている。その感覚に頭を押さえられて、金縛りに遭ったように身動きが取れない。

 それは正しく錯覚だった。実際には、幾ら振り向くのを拒もうと無駄なことであった。

 背後から、喜色を帯びた女の声がする。




「……お帰りなさいませ、ご主人様」




 その声に髪を引っ掴まれたようにぎこちなく、ガチガチと震えながらライナスは後ろを見る。嫌だ、駄目だ、見てはいけないと思いながらも、身体が勝手に動くのを止められなかった。

 ……振り返った先には、彼が飼っていた奴隷が、介添えの男に支えられながら立っていた。


「あ、あ……」


 ひび割れた声が、喉を裂くようにして漏れる。

 目にしている光景が信じられない。自分の奴隷が、幸せそうな表情を浮かべて佇んでいる。それは良い。だが、その様変わりした姿は何だ。

 微かに、しかし粗末な衣服を押すようにして目に明らかに膨らんだ腹。孕んでいる。身籠っている。その中に新しい命を宿していると、誰が見ても判るだろう。

 では、誰の子か? 嫡子の生まれていない伯爵の、その奴隷との間に子を為した、恥知らずな男は誰なのだ?

 当然の疑問への答えを、悪意と優越感の滲んだ声が告げる。


「――とまあ、こういう訳だ。初子のご懐妊、おめでとう。ライナス・オーブニルくん? ははっ! つまりは祝辞を述べに来たという訳なのだよ!」


 パチパチと、空々しい拍手の音が響いた。

 ランゴーニュは手を叩いて喜んでいる。同じ派閥、同じ爵位を与る人間の致命的な醜聞の暴露。その瞬間を満面の笑みを湛えて喜んでいる。ライナスの醜態を晒す姿を、高い酒を味わいながら特等席で見物出来る愉悦に、全身で酔い痴れている。


「どういう、ことなの……?」


 シモーヌの呟きが、遠い。

 冷え切った関係を表すように空けられた距離よりなお離れ、まるで隣の国から聞こえて来たように胡乱な響きだった。


「おや、失敬。笑いごとではなかったな。……ああ、お可哀そうにシモーヌ夫人。婚儀から一年を迎えようというこの時期に、斯様な憂き目に遭われるとは」


 過剰に芝居掛かったランゴーニュの声も、耳を右から左へと突き抜けていく。

 呆然とするライナスを余所に、事態は止めようも無く進行していった。


「お聞き苦しいとは存ずるが、説明させて頂こう。ライナスくんはね、そこな奴隷の女と密かに関係を持っていたのだよ」


「関、係? まだ……まだ嫡子も得てないというのに!?」


「確かに信じ難いことではある。私としても、初めて耳にした時は根も葉もない出鱈目だと思ったとも。しかし、念の為にと君らが不在の間に内偵したところ、この有様だ。……若い主人に飼われる、大きな腹を抱えた女奴隷。二人の間に何があったかなど、火を見るより明らかだろう?」


「そ、そんな……嘘でしょう、ライナス!?」


 誰かが肩を強く揺さぶっている。それでもライナスの視線は一点に吸い寄せられたかのように動かなかった。

 大切な宝物を丁寧に磨くように、己の腹を撫で続ける女。彼女は夢見るような表情でライナスを見つめ続けている。

 見知らぬ貴族の得々とした語りも、動揺も露わにする本妻の姿も意識に入れず、ただただ主人に視線で乞うている。

 貴方の子が出来ました、と。

 私を褒めて下さいませ、と。

 それが何を意味するかも知らないままに、無邪気に彼の言葉を待っていた。


「これがせめて平民相手ならば、或いはお世継ぎが既に立っているのであれば、御家中の問題と知らぬ顔も出来たのだがね……奴隷はいかんよ、奴隷は。民草の中より功成り名を挙げた者が、貴族に列されることはままあるのだけれども、首輪付きとなると、なあ? どこの誰が、人間に飼われる動物の血を引く者に従うというのか。貴族社会全体にとっても、由々しき問題だよ。事実を知った家臣たちが逃げ出すのも、無理は無い話さ」


 得々と語るランゴーニュの言うとおりだった。

 もし万が一、この奴隷の子が生まれた後にもライナスとシモーヌの間に後継ぎが生まれなかったら? ……オーブニルの嫡流は、平民からも見下げられる身分の血を引いた者に受け継がれてしまう。貴族とは認められない貴族の成り損ない。貴族社会の根幹を為す血の貴さを、生きながらにして否定する存在の誕生だ。奴隷と子を作るということは、まして最初の子として設けるということは、即ちこの国、この大陸の秩序そのものへと、唾を吐いたに等しい行いである。


「酷い話だよ、ライナスくん。こんなにも美しい花嫁を娶り、ラヴァレ侯ほどの御方の媒酌を受けながら、こんな不祥事を起こしてしまうとはね」


 そしてこの問題は、確実にシモーヌとラヴァレにも波及する。

 貴族の令嬢でありながら、奴隷に夫を寝取られた妻は、以後の人生において常に軽侮と嘲笑に晒されていくことだろう。

 妻を差し置いて奴隷に手を付けるような男に、婚姻を周旋した仲人は、周囲からその見識を疑われるに違いない。

 トゥリウスの奴隷殺しなどとは比較にならない、特大の醜聞だ。


「う、嘘よ……嘘……」


「悲しいが、本当のことだよシモーヌ夫人。それでも嘘だと思うなら……ライナスくんに頼んでみれば良い。『その奴隷に、お腹の子の父親は誰かと聞いて頂戴』とね。首輪に掛かった服従の魔法を用いれば、決して嘘など吐けないだろう?」


 ランゴーニュは親切に背中を押すようにして、その実、処刑台の十三段目へとライナスを突き飛ばす。さあ、罪を認めろ、と。大人しく認めて裁かれろ、と。


「あ、有り得ない……」


 唇をわななかせて漏らした声は、誰に向けた訳でもない独り言であった。


「で、出来るはずが無いんだ、子どもなど……わ、私は、私はちゃんと――」


 無我夢中であった最初の一度を除いて、常にその点には心配りをしていたはずだった。どうあってもこの女を使わないことには我慢出来ないと気付いてより、このような事態に陥ることを避ける手段は講じていたのである。

 だが、弾劾者はそんなことには斟酌しなかった。


「何だね? 魚の浮き袋でも使ったのかな? それとも怪しいまじないを信じて薬でも飲ませたとか? ……馬鹿馬鹿しい。それが功を奏さなかったから、この有様なのだろうよ。そろそろ観念したまえ」


 ライナスは軋みを上げるような動きで、苦労してランゴーニュの方へとまた向き直る。


「何が……」


「ん?」


「何が、望みなんだ?」


 訊ねる声には、身を投げ出して縋りつくような響きがあった。

 このようなスキャンダルは、単に派閥内の競合相手を蹴落とす為だけに暴露するには、余りにも影響を及ぼす範囲が広過ぎる。下手を打てば、中央集権派自体の求心力が地に落ちる可能性すらあった。若手貴族の旗頭として派閥内派閥の一角を占めるこの男が、その点について思いを致さない筈は無い。

 単に派閥の風評を守る為、内密に処理をしようと動いているとも思えなかった。それならばラヴァレに報告して、その意を受けてから動くのが筋だろう。ランゴーニュの態度からは、そうした意図は読み取れなかった。

 ならば、この秘密の取り扱いについて、何らかの取引をライナスに持ちかけようと言うのではないだろうか。

 果たして、ランゴーニュは肉食獣めいた笑顔を浮かべる。


「人聞きの悪いことを言うではないか。だが、まあ、正鵠を射てはいるな。確かに、確かに私は、君に対して望んでいることがあるとも」


「それは――」


「オーブニル家の、当主交代」


 背筋に冷水を浴びせられるような言葉が飛んで来た。


「な、に?」


 当主交代? 誰と?

 ……考えるまでも無かった。ライナス・ストレイン・オーブニルから当主の地位を奪える人間は、現時点でこの世に一人しかいない。


(トゥ、トゥリウスに……跡目を譲れと言うのか!?)


 トゥリウス・シュルーナン・オーブニル。【奴隷殺し】、【人喰い蛇】と忌み嫌われる血塗られた狂児。あの男に対して、二百年の栄華を誇ったオーブニル家の伝統を売り渡せと迫られている。

 有り得ない、有る筈が無いと思いながらも、この二十年間危惧し続けてきた可能性。それが突如として実態を得て、ライナスの両肩を掴んでいた。


「くくくっ。そんなこの世の終わりでも来たような顔をしなくてもよかろう? まあ、聞きたまえ。私の描いた筋書きはこうだ――」


 ランゴーニュの提案は、要約するとこうだ。

 ライナスにはしばらく、熱病に罹ったとして伏せって貰う。勿論、仮病だ。そして、折を見てこう発表する。

 病気の影響で、子どもを作れなくなった、と。

 父祖よりの血を継承すること能わぬ者が、当主の地位を占め続けることは許されない。当然、その座は実弟であるトゥリウスに移譲される。

 そして、『勇退』したライナスは多少の不自由と引き換えではあるが、隠居料を得て悠々自適の生活を送れば良い。仮にも一州を領する伯爵家である。世話係の家臣を抱え込めるだけの扶持は出るだろうし、望めば奴隷だって囲えるはずだ……。


「――このように事を運べば、そこの奴隷との間に二人目三人目と子を得ようが問題あるまい? 何しろ、君には表向きには子どもを作れないということになって貰うのだからね。これなら貴家の系図に卑賤の血を交えることなく、その奴隷との関係を維持出来よう」


「……」


「シモーヌ夫人も、私が面倒を見ようではないか。如何かな? 貴女がお望みなら、心当たりの中から再婚の相手をご紹介させて頂く用意もある。いや、あくまで夫に添い遂げられるというのなら止め立てはせぬし……この家に留まられたいのなら、『新伯爵』に再嫁するという選択肢もあるが?」


「わ、私が……トゥリウス卿と?」


 唐突に水を向けられたシモーヌが、目を瞬く。

 夫の不義、それも奴隷を相手に子どもを為すという異常事態に加え、問題を咀嚼する暇も無くこの提案だ。さぞかし戸惑っているだろうが……困惑を多分に表した声に、僅かに喜びの色が混じっていたのは気の所為だろうか。

 それを余所に、ランゴーニュは再びライナスへと矛先を転じる。


「どうだね、ライナスくん。素晴らしい提案だろう? 君は仲睦まじく通じ合っている相手と添い遂げられる。シモーヌ夫人も瑕疵を最小限として人生を再出発出来よう。そこの奴隷も、殺されたり子を潰されたりせずに済む。事が全て終わるまでの間、こちらの手で匿うくらいはしよう。そして我らが一党が名声を損なうことも無い。四者全てに損は無いではないか。君が、当主の地位を返上さえすればね」


 先程からこの男は、こちらのことを爵位で呼ばなくなっていた。それもそうだろう。提案を受けても拒んでも、ライナスが今の地位を全うするのは不可能であるのだから。

 いや、そもそも。このような事態をしでかしたライナスを、同じ貴族としてなど見ていないのだ。


「お、お前は――」


 悪足掻きに問いを重ねようとしたライナスに対し、ランゴーニュが不興げに片眉を跳ね上げる。


「……お前?」


「――い、いや……貴方の、得は何なのだ?」


「ふむ?」


「こ、ここまで大掛かりな企てをせずとも、この一件を闇に葬る手筈は整えられるであろう。それをせず、斯様に手の込んだ提案をする理由は何だ!?」


 手っ取り早くこの事件を処理する方法は、先程この男がほのめかした通りだ。奴隷の孕んだ子を潰すか、或いは母子ともども殺せばいい。後はライナスが口を噤めばそれで終わりだ。家臣など事情を知る者が騒ぐかもしれないが、文字通りの生き証人である母子が死んでいれば、ただの噂にしかならない。

 少なくとも、シモーヌまで巻き込んで秘事を打ち開ける必要は無かった。それにランゴーニュは奴隷ごときに情けを掛けるような男ではないし、弱みを見せたライナスの為に苦労を買ってやるほど慈悲深くもない。それは今までの嘲弄の意を露わにしていた態度からも明らかだろう。

 この提案には関係者全員に損はさせない、などというお為ごかしとは別の、彼自身に利する目的がある筈だった。

 果たしてランゴーニュは、ますます見下げ果てたような色をその目に浮かべる。


「弟御との手打ちさ」


「な、に?」


「考えてもみたまえ。君たちの兄弟喧嘩が高じて、我が国の政局は目茶目茶だ。私たち集権派とあの忌まわしい分権派に加えて、彼の組織した中道派までが立っている。君と御老人とに苛められた彼が、身を守る為だけに作った、ね。お陰で両派の均衡を大きく揺るがしかねない勢力が、どっち付かずで宙に浮いている格好だ。こんな不安定な状況は、一刻も早く解消しなければならないだろう?」


 確かに、トゥリウスが怪しげな手管を用い、あのドルドラン辺境伯さえ組み込んで拵えた派閥は脅威であった。規模こそ二大主流派に劣るものの、どちらかと盟を結べば、組んだ方は残る一方を相手に、大きく優位に立てるだけの力は有している。

 ランゴーニュは、トゥリウスが地方分権派と組むのを恐れているのだ。あの男は辺境に割拠し、似たような地理的条件を持つ諸侯と結び、更には集権派の首魁ラヴァレとその傘下にいるライナスの両者と敵対している。二つの派閥を天秤に掛ければ、自然と分権派の方に傾いていくのは自明だった。

 そうなる前に対立の根源であるライナスを排除し、当主就任という恩を着せる。更にはこの醜聞を可能な限り後腐れなく終息させ、自身に靡かせようという算段だろう。

 そして、


「なに、君も若隠居することになったからと言って、寂しがることはない。茶飲み友達の御老人もいい加減に歳だ。彼にも一線を退く時は来ている。後は二人、面倒な政治の舞台を離れて、ゆるりと過ごすというのも悪くはなかろう?」


 共謀してトゥリウスとの暗闘を繰り広げていたラヴァレにも、当然のこととして退陣を要求する。あの狂人の背後にいるドルドランの声望、この男自身が擁する若手貴族たちの勢い、先年の大火以来、派閥内でも燻っている侯爵への不信感。併せて考えれば、古狐を叩き出すには十分だ。

 その後に代わって盟主の座に座るのが、このランゴーニュである。トゥリウスらを引き入れることに成功すれば実績としては申し分無く、家格の方も伯爵という高位、加えて先代以来の集権派というお墨付きだ。老醜を放逐した後にまだ三十代の新鋭が立つというのも、周囲に革新を喧伝する形となり政治的宣伝効果が大きい。

 ラヴァレに下克上し、メアバンら古参を抜き去り、将来の競合相手となり得るライナスを抹殺する。のみならず、返す刀で永年に渡る中央と地方の政争にも、快刀乱麻を断つが如く決着を着ける。

 ランゴーニュには、偉大なる政治的指導者として王国史に名を刻む、輝かしい自身の未来図が見えていることだろう。自慢げな語り口からも、自尊の陶酔がありありと臭っていた。

 だがしかし、この企てからは特大の陥穽が見落とされている。


「出来る筈が無いっ!」


 反駁する声は、裏返り切って悲鳴に変じていた。


「アレを、あの化け物を、貴様如きが制御出来るつもりか!? 勝ち目の無い裁判を引っ繰り返し、諸侯を洗脳して回り、逃げ出す為だけに王都を焼き払った悪魔なのだぞ!? それを、伯爵にしてやった上にその勢力ごと迎え入れるだと? この国を滅ぼす気か? 気でも狂っているのか貴様はァ!?」


「気が狂っているのは君だ」


 返って来たのは、唾棄するように端的な言葉である。


「常識的に考えてもみろ。洗脳などという外法は目立つし、効果が強力な分、対策も山ほど立てられているものだよ。そんな物が使われた筈は無い。事実として、弟御に助力する貴族たちは洗脳解除を試みても、何ら反応が見られなかったではないか」


「か、カルタン伯……カルタン伯は――」


「ああ、元伯爵か。何やら彼も洗脳されたと騒いでいるようだね。裁判が終わってもうすぐ一年経つと言うのに、見苦しいことだ。あれは単なる言い逃れだろう? かつての宮廷魔導師が、錬金術などという卑賤の業に掛かって操られたなど……はんっ! その方が却って恥ではあるまいか」


 ランゴーニュは侮蔑的に鼻を鳴らす。

 そう、これが本来であらば持っているべき認識である。錬金術は他の魔法より一等劣る下術であり、洗脳などを陰謀に用いるのは、お伽話じみた伝承の中での話。これを事実と看破出来るラヴァレが異常なのであり、目の前の男の方こそ真っ当な頭の持ち主と言えた。


「王都大火については……まあ、余計な追及は止そうじゃないか。下手な真相が露見しては、我々にとっても具合が悪いことになりかねんだろう?」


 暗に嘯かれたのは、ラヴァレが下手人ではという示唆だ。実際、ライナスも一時はそう思っていた。大火を目眩ましに都へ参勤していた地方貴族を粛清し、あわよくばトゥリウスをも屠ろうという策であろうか、と。そしてこの疑惑があればこそ、ランゴーニュがあの老人を追い落とす大義名分となるのだ。ならばこそ、大火の一件については、この男が見解を変える可能性は無い。


「くっ、う、うぅ……っ!」


 ライナスは肩を落として俯く。

 もう、何も言い返せない。いや、言い返したところでどうなるというのだ。ここまで話した以上、この申し出を拒絶すれば、ランゴーニュは自らこれを公表する筈だ。集権派自体にもダメージが及ぶが、派閥ではなくランゴーニュ個人にとっては、それ以上にトゥリウスに恩を売って得る成果の方が大きい。

 ライナスは奴隷に子を作らせた暗愚として王国中から指弾され、オーブニル家の名誉は今まで以上に傷つけられる。そんな評判が立った当主を推し頂く家臣などいない。奴隷の子の父より【奴隷殺し】の方がマシだとして、あの愚弟との交代を迫られるだろう。無論、そんな男の婚姻に労を取った陰謀家も道連れにして。

 受けた方が良い。退陣は避けられないとしても、その方が傷は少ない。

 理性ではそう理解していた。


「い、嫌だ……」


 それでも感情は納得しなかった。


「嫌? 何がだね?」


 聞き分けの無い子どもに対するような、ランゴーニュの声。顔を上げれば、倦厭の情を隠しもしない視線がこちらに注がれている。

 それに頓着する余裕も無く、ライナスは続ける。


「嫌だ! トゥリウスに、あんな男に、家督を渡せるものか! この家の嫡男は私だ! 幼時より、父上の後継者となる為の勉学を疎かにしたことは無い。礼法も修めている。父が倒れてからは、私が政務を代行してきた。この家の為に、最も尽くして来たのは誰だと思っている!? この私じゃあないかっ! 翻って見ろ。あの男は、母上を死なせて産まれてきた忌み子めは、何をしてきた? 顔の潰れた奴隷を買って来たのに始まり、屋敷の地下で虐殺三昧だ! 錬金術の研究だと? 何が研究だ、嘘を言うなっ! 楽しかったから殺しているか、さもなくば悪魔か邪神への供物であろう! あんな振る舞いをしてきた化け物に、この家は渡さん……この家は、オーブニル家は私の家なんだっ!」


 滝のように迸った言葉は、悲痛な訴えだった。自分が今日まで何をしてきたか。弟が今日まで何をしてきたか。血を吐く思いでそれを訴えたのだ。

 ライナスの視界が歪む。感情が高ぶる余りに、涙まで湧いて来たのである。

 彼は怒り、喚き、泣いた。しかしその全ては、眼前の男の琴線に何ら触れることは無かった。


「……で? それが君の犯した過ちに、一体どのような酌量を与えられると言うのかね。当主になる前の君が血の滲むような努力をしていたなら、その後の罪は帳消しになるのかな? 君の弟が奴隷を殺していたのなら、兄の君は奴隷を犯し孕ませても良いのかな? 答えてみたまえライナスくん。自分こそが伯爵家当主に相応しいと思っているのなら、貴族らしく堂々と意見を述べては如何かな」


 まあ、出来はしないだろうがね――言外にそんな含みを持たせつつ、ランゴーニュはグラスを口元へ運ぶ。答えを待つように、琥珀色の液体をゆっくりと嚥下。その間、ライナスは舌一つ満足に動かせなかった。

 暫しの間を置いて、ランゴーニュは続ける。


「言えないのなら、まず私の提案への可否を伺いたいものだな。呑んで自身と周囲が負う傷を最小限にするか。拒んで家名を地に落とし、引き換えに幾人かを道連れにして腹を癒すか、だ。どの道、君が降ろされてトゥリウス卿が立つのは変わらん……賢明な判断を願うよ」


「――受けなさい、ライナス」


 硬く、冷たい女の声が、残酷に命じてきた。シモーヌだ。


「貴方の我儘と不見識が引き起こした事態よ。せめて、人に迷惑をかけない形で事を収めなさい」


 なんて酷い女だ、とライナスは思う。

 お前だって私を裏切った癖に。夫である私ではなく、アイツに味方した癖に。トゥリウスの肩は持てても、私の肩は持てないと言うのか。

 のろのろと彼女の方に目を向けると、嫌な顔が見えた。人間を軽蔑するのを通り越して、道端の汚物を厭うように表情を歪めている。耐えられなかった。上げた目線を、すぐ下に戻す。


「……大丈夫ですよ、ご主人様」


 不意に、生温かい感触が彼を包んだ。

 奴隷だ。あの奴隷の女が、この事態の元凶が、自分の体に触れている。後ろから抱き締められている。

 二ヶ月間離れていた肌の感触が、初めて感じるおぞましさを伴って彼に触れていた。


「なにがあっても、私は貴方といっしょ。つらいこと、くるしいこと、全部私が引き受けます」


「ひ、あ……」


「いつもどおり、私に全部吐き出して下さい。……あ、でも今は赤ちゃんがいますから……少しだけ、優しくしてくれると嬉しいです」


 女の声は控えめだった。それでも、はっきりと喜色を含んでいるのが分かる。

 主人が、男が、孕んだ子の父親が、こんなにも苦しんでいるというのに。

 それでも彼が自分に縋るしかないことの方が嬉しいというのか。

 狂っている、とライナスは思った。


「……穢らわしい」


 見下げ切ったようなシモーヌの声が耳朶を叩いた。女の口にした内容から、二人がどのような形で契っているかを察したのだろう。

 違うと叫びたかった。何が違うのか、自分でも分からなかった。


「あっ。いま、赤ちゃんが動きました。……わかります? ほら」


 言って、女は腹を押し付けてくる。無邪気に場違いな言動を押し付けてくる。こんなに気持ち悪い感触は生まれて初めてだった。

 頭がおかしい。どうかしている。

 知っている筈の女の理解出来ない言動に、ライナスの精神は振り切れつつあった。

 狂った人間が自分に触れていることへの恐怖から、手指が本能的に武器を求めて宙を泳ぐ。幾度か空振り、やがて固い金属の感触。テーブルの上に置いた燭台。掴んだそれを、衝動的に掲げる。


「!? ライナス・オーブニル、何を――」


 ランゴーニュが今日初めて上げる焦った声。

 それを耳に入れることも無く、ライナスは……




「うわァあああああああああああァァァァっっっ!! あァあああああああァァァァっ!? うわあっ! がァああああああああああああァァァァっっっ!?」


「やめろ!? 馬鹿なことは止せ! おい、誰か止めろォ!」


「い、いや……! ひ、人殺しっ! 人殺しィっ!!」




 ……その後の事は良く憶えていない。

 ただ煩わしい何かから、すっかり解放されたような爽快感だけがあった。

 ところで、こんなにも気分が晴れやかなのに……はて、どうして自分は泣いているのだろう?

 不思議に思って小首を傾げると、髪の毛からポタポタと赤い雫が滴った。

 返り血に染まった金髪は、まるで赤錆のようで、無邪気に浮かべた無意味な笑みは、仮面が張り付いているようで――奴隷を殺した彼の姿は、やはりと言うべきか、その行いを綽名とする誰かに瓜二つであった。

 

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ライナス、本当に可哀想なんだよな・・・
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