059 破滅の足音
※同時投稿の後半部分です。
先にこちらに飛んでしまった方は、前話をご参照ください。
「さあ、兄上! 今日も元気にお仕事と行きましょうか!」
嫌に爽やかな調子の声と共に、執務机へ書類の束が乗せられていく。ヴォルダンの館の居室では、ここ数日ですっかり見慣れたものとなった光景である。
ライナスは、うんざりとした表情で顔を上げつつ、張り付いたようなにこやかさを保つトゥリウスを睨みつけた。
「……今度は何だ? 何の書類だと言うのだ?」
「マルランと州内の各所を結ぶ、街道の整備計画ですね。何分、我が領も開発が進んでおりますので、物流を支える為のインフラの整備は必須でしょう。とはいえ大事業となりますから、複数の商人からの融資も受けねばなりませんし、第一、州全土に影響を及ぼしますので、州太守の伯爵であらせられます兄上のご裁可も要るのです」
立て板に水とばかりに捲し立て、どうぞご精読の程を、と結ぶ。
渋々と書類を開いて内容を検めると、思わずドキリとするような計画が記載されていた。
「馬鹿か、貴様は」
一読したライナスの返答は、実に端的なものである。
「この計画書には我が領ばかりか、近隣諸侯の土地にまで街道を伸ばすとあるではないか。分限を越えるにも程がある」
苦み走った渋面を隠しもせずにそう論ずる。
ライナスの言う通り、他領への勝手な街道延伸は、越権行為だった。道というものは、経済のみならず国防にも大きな影響を与える。万一、他国の軍勢が領土を犯した場合、そこに各地と繋がる経路があったとすれば、どうなるか? 当然、戦禍は瞬く間にあちこちへと拡大してしまう。一応、攻められる側にも戦力の集結や移動を速めるなどのメリットはあるものの、この大陸では寧ろ前述の危険性を恐れる考え方が主流だ。また補給計画や戦力配置などの戦略も練り直す羽目になる。これだけの影響を及ぼすのだから、一子爵の権限で勝手にして良いことではない。
だが、それを言われたトゥリウスは、平気な顔でこう放言した。
「ええ。ですから兄上に図っているのですよ」
子爵に出来ないことだから、伯爵に手伝え、と。そういうことなのだろうかとライナスは判断する。
「戯けが。私に図ろうと同じことだ。伯爵の権限といえど、そのようなことが――」
「兄上」
不遜にも当主の言葉を遮って、身を乗り出すトゥリウス。彼の浮かべる愉快そうに細められた、そのくせヒヤリと冷たい眼差しに、ライナスは思わず息を呑んだ。
「それなら兄上からお友達に、ご相談なさればいいじゃないですか」
「な、に?」
その言葉の意味に、慄然となる。
この忌まわしい男は、この案件をライナスと繋がっている国を動かしうる連中に――中央集権派に取り次げと言っているのだ。
確かに子爵や伯爵に出来ないことも、中央の政治を抑えている集権派諸侯になら可能になるだろう。各省庁へのパイプ、宮廷への伝手、そしてバックにある王室の権威。それらを動員すれば、州内の交通を整備し他州と連結する街道工事事業も出来なくはない。
そしてこうした大事業には、往々にして諸々の利権が付随する。資材や働き手に供する食料の調達を請け負う商人たちからの付け届け、難事に専念する間の諸義務の免除などなど。分権派に比して領地に乏しい中央集権派にとっては、これらの甘い汁にありつく絶好の機会だ。
(こやつ、この事業を通じて集権派と手打ちでも図っているのか?)
美味しい利権の数々を餌に、何かと衝突していた集権派との関係を修復する――有り得ない話ではない。
元より、トゥリウスに政治的な思想背景など皆無だ。中道派貴族を纏め上げた彼の派閥も、地方分権派との合流を図る訳でもなく、謀略から身を守る為の防壁としてのみ用いられている。感情的な対立にさえ目を瞑れれば、集権派と盟を結ぶという選択も視野に入るだろう。
……冗談ではなかった。ライナスが今も本人の主義と相容れぬ派閥に与しているのも、全ては目の前でにやついている糞袋を始末する為だ。でなくば、諸侯の切り崩しを図る宮廷狐などと手を組んでいる意味は無い。それがトゥリウス派と集権派の和解となれば、積年の憎悪を晴らす機会は失われてしまう。
ライナスは頭を振った。
「で、出来る訳が無かろう……ラヴァレのご老侯も、王都の復興に忙殺されている」
震え混じりの否定の声は、目の前の相手ならず自分自身にも言い聞かせるようですらある。
そう、中央集権派の首魁はあのラヴァレだ。王都でトゥリウスとやり合い、骨髄にまで遺恨を染みつかせ、地方貴族を目の敵にする老陰謀家である。如何にこの案が魅力的といえど、今やトゥリウスを危険視することライナスにも劣らない男が、飲む筈が無い。
「彼にこのヴォルダンでの事業にかかずらう暇など――」
「いえいえ。僕もお年寄りに無理をさせるつもりはありませんよ」
だが、トゥリウスはまたも先回りしたように言を続ける。
「兄上の見知り置いている方は、何も侯爵だけではないでしょう? 例えば……ランゴーニュ伯やシャンベリ伯はどうでしょうか?」
口にされたのは、いずれも中央集権派において発言力を有する者たちだった。
ランゴーニュ伯は派閥内の若手の纏め役である。ライナスより一回り上程度の齢という気鋭であり、己が才幹への自負と野心とを隠しもしない。ラヴァレら古参層に取って代わらんとするならば、箔付けの実績となり、大小の利権を味方にしゃぶらせる飴にも出来る街道整備事業は、少なからず食指をそそられるだろう。
シャンベリに至っては更に単純だ。アレは甘い利のある方へふらふらと寄っていく、蛍のような生き物である。人望の無い小人物であるが、元々分権派から転向しただけあって、所領の大きさだけは集権派の中でも頭一つ抜けている。そして自身の欲を満たし、ついでに立場も強化できる機会には人一倍飢えていた。
いずれも故あらば派閥の領袖を裏切る程度はやりかねない男たちだ。
ここでメアバン伯などの確固とした実力者を上げないのが、実に小賢しい。靡く所以の無い大身を一顧だにせず、釣れそうな獲物にしかと的を絞っている。余程王都の事情に通じてなければ出来ない選択だった。一昨年、無造作にラヴァレの介入を呼ぶような失態を見せた愚弟とは思えない。
「……却下だ」
ライナスは呻くように述べた。
「このような事業は国家の大事。一子爵の挙げるべき提案ではない」
第一、こちらにはまるでメリットの無い話である。いや、ライナスがただの伯爵であり中央集権派に心底服属しているというのなら、領内整備と派閥内に地歩を築く実績として歓迎出来たであろう。だが、何度も言った通り彼には今の派閥に貢献するつもりは無い。ラヴァレの策謀で無理やり抱き込まれたのだから、恩義よりも怨嗟の方が強いのだ。そして彼はオーブニル伯爵家の当主であった。この目の前に立つ狂人に名誉を損なわれ、これを殺すことでのみ汚辱を雪げると信じているのである。
それを分かっているのかいないのか、
「おや。そうですか」
大層な計画書まで誂えた提案を蹴られても、トゥリウスには堪えた様子は無い。意外でもなさそうに平然と、相も変わらず張り付けたような笑みを浮かべている。
……何とも、癪な表情だった。
「そうですか、ではない!」
バンっ、と耳を劈くような音が鳴る。
気が付けば、己の掌が机に叩き付けられていた。
「言ったであろう、分限を知れと! あれは身の程を弁えよという意味だ! 私の割いた所領を預かる配下の分際で、斯様に大掛かりな企てを考える必要は無い!」
喘ぎ喘ぎ声を張り、口角から泡を飛ばす。
沸々と湧き上がる怒りを堪えられない。口を開けば怒号が迸り出で、止めようと思っても止め切れぬ。この忌まわしい男が目の前にあることが我慢出来ない。
憤激のままにトゥリウスの顔面をぶん殴ってやりたかった。前歯を叩き折り、鼻を潰し、この指で目を抉ってやりたかった。だが、それは無理である。如何に下位とはいえ相手も貴族、暴行を加えればライナスの方が罰される。加えて、この男は防御の礼装を幾重にも身に付けており、常人の膂力では殴れども傷一つ付かないのだ。
それに、
「落ち着け、伯爵」
今まで部屋の隅で黙っていた女が、不意に声を上げた。
「弟御に説教をくれるのも良いがな、余り度を失するというのも考え物だぞ? 叱責とは、理路に則ってこそ効くというものだろうに」
エリシャ・ロズモンド・バルバストル。ラヴァレの手配りで王都から同伴してきた近衛騎士。
そんな第三者の前で我を失いかけていた自分に気付き、ライナスは慄然となる。
「わ、私は……」
何をしていたのだろうか。
血相を変えて、物に当たり、声を高くして怒鳴り散らしていた。そんな狂態をむざむざと晒してしまうとは。
青褪めたライナスに小さく嘆息しつつ、エリシャはトゥリウスに向き直る。
「どうも、今日の伯爵は加減が良くないらしい。どうかな子爵? 政務については日を改めて討議するということで」
そんなことを決める権限はこの女には無い。これは先祖伝来ヴォルダンの地を預かるオーブニル伯爵家の問題であり、一騎士に口を挟まれたくはなかった。
だが、今はそれ以上にトゥリウスと顔を合わせているのが嫌だった。愚弟と会って不快になるのはいつものことであるが、この夏は特にそれが酷い。
仕方なく、それを肯定するように力無く椅子に凭れる。実際、背筋を伸ばすのも大儀な程、疲労を感じていた。
「……どうも、バルバストル卿の言う通りらしい。これ以上、話すのは億劫だ。トゥリウス、貴様は下がって――いや、マルランに戻れ」
堪らず、そう命を下す。これ以上、同じ屋根の下にこの男が起居していることには耐えられない。
「おや、よろしいので?」
白々しく確認してくるトゥリウスに、また舌打ちが漏れそうになる。
「私が良いと言っている……領地に戻り、己の職務に精励せよ。用があれば、私から呼ぶ。いいな?」
「兄上がそう仰るのでしたら。では、明日にでも――」
「今日中にだ!」
「――分かりましたよ、今日中にですね?」
堪え切れずにまた怒鳴り声が出るが、今度は流石のトゥリウスも幾分か表情を引き攣らせた。些少ながら腹が癒えるのを感じるが、また雅量の無いところを晒したことに気付く。機嫌の差し引きは、結局のところマイナスだった。
「では、失礼します」
そう言い置いて退出する様を黙って見送る。部屋の外に控えていたらしい護衛の怪訝そうな顔が目に入ったのが、また不快である。
扉が閉まると、エリシャは少し呆れたような顔でライナスに声を掛けてきた。
「よろしいのかな、伯爵? 弟御を返してしまっても」
「……今更聞くな」
当然、良くはない。ラヴァレから下された指令は、領地経営にかこつけてトゥリウスを足止めする工作だ。不意を突かれて向こうからやってきたとはいえ、みすみす自家薬籠中の物となった相手を返してしまうのは下策だろう。
だが、ライナスは既に我慢の限界だった。
あの不愉快な晩餐の夜が明けてより、連日トゥリウスはこの執務室に押し寄せて来ている。
今年度の税率について相談したいだの、領の境を跨いだ村同士の争議について知恵を借りたいだの、今日のように新しい政策を持ち込んだりだの、政務に関わる話は序の口。こちらが苛立った様子を見せた時など、
「兄上、気持ちが塞いでいるのでしたら、一つ馬を責めて遠駆けにでも繰り出しませんか? 僕もお供いたしましょう! なんなら、弓を持ち出して遊猟というのでも構いませんよ? たまには兄弟水入らずというのもよろしいじゃありませんか」
と、厚かましくも提案する始末だ。
自分の気が塞ぐのはトゥリウスの所為なのだから、気晴らしを提案するより先に首でも括って死んでほしい。
最近の不快な記憶を思い出してまた沈みかけた。萎えた心に鞭打って、ライナスはエリシャに向き直る。
「別に構わんだろう……こうしてヴォルダンに腰を据えておる限り、マルランのあ奴を呼び出す口実には事欠かぬ」
言って、机に山と積まれた書類や書簡を指して示す。
秋に向けての徴税計画に領内の村々からの嘆願書、諸政策の提議書……これらが全て、ライナスの恣意で弟を呼び付ける大義名分となる。提出された書類に不備があるだの、この政策のここの部分について詳しく聞かせよだの、幾らでもこじつけられるのだ。こちらの気持ちが落ち着くまで所領に帰したところで、大した影響は無い。
が、無礼な女騎士は疑わしげな視線を隠しもしなかった。
「成程、口実には事欠かぬだろうが……御身に彼を呼び出すお気持ちはあるのかな?」
「……」
痛いところを突いてくる。
一度荒れた気持ちを落ち着かせて、心身ともに万端となってから再度ここへ呼び付ける。そうして仕切り直すと強弁したが、果たしてその気になるのはいつの事か。ライナス本人にも分からなかった。
これが一刀両断の下にあの悪魔を殺す策の為というなら、彼としても自身に強いて足止めに従事できただろう。だが、今回は裏で糸を引くラヴァレの目論見がまるで見えない。今回の領地下向に際しても、子爵とは色々と協議することもあるであろう、などと持って回った言い方で足止め策をほのめかした程度だ。つまるところ、ライナスがその気なら――正確にはその気にならなければ――このままトゥリウスを放置しておくことも、満更出来なくもないのである。
碌な働きが出来ず、派閥の中で孤立を更に深めても構わないのなら、だが。
「……貴様に云々される筋合いは無い。これは我が家中の問題だ」
言いながら、苦しい言い訳だと自分でも悟った。
集権派と分権派の間に立つ第三派の領袖への対策。それが一家中の問題で済む訳がない。だからこそ集権派の首魁の意向を受けてこの地に来たのだから。
だが、それを指弾する立場にある筈の女は、軽く嘆息を漏らすに留まった。
「まあ、良い。伯がそう言うなら、そういうことにしておくさ」
※ ※ ※
一人になりたい、と俄かに言い出したライナスを残し、エリシャは部屋の外へ出る。
廊下には、第二騎士団の副団長であるアルフレット・プリュデルマシェが所在無さげに彼女を待っていた。
「団長、伯爵のお加減はどう見受けられましたか?」
「悪いな」
彼女の返答は端的である。くだくだしい修辞の類は、この女とは無縁であった。なので、そう言った物が必要な典礼などの度にこの副団長は苦労する羽目になる。
苦笑をひらめかせる部下に、エリシャは続けた。
「あの弟御には、昔から随分と怖い目を見させられたらしいな。彼と話しているだけで際限無く緊張していく」
「ははあ。となると、例のアレは新兵が罹る病気のようなものですか」
「だろうな」
アルフレットが言うのは、例の晩餐の後に寝室で行われた、シモーヌへの無体である。本人たちは誰も知らないと思っている――彼女は知らないことだが、正確にはライナス本人も既に健忘している――だろうが、第二騎士団では周知の事実だった。この地にやってきた裏向きの目的は、ライナス夫妻にトゥリウスの陰謀が及ぶのを防ぐ為であるから、寝所の外にも警護は配置されていたのである。
「命冥加で理性をすり減らした男が神経の昂りを鎮めるために、女を相手に過激なコトに及ぶ。戦場慣れしていない者にはよくあることさ。合戦を知らぬ伯爵がそんな境遇に陥っているというのも、哀れなものだが」
仮にも未婚の淑女であるとは思えない放言に、傍らの部下は頬を引き攣らせる。女性が男の生理に寛容であるのは悪いことではないが、余りに明け透け過ぎるのも考えものだった。
「可哀そうというなら、訳も分からぬままにそんな鬱憤晴らしに付き合わされる、伯爵夫人の方でしょうに」
「彼女にも同情はしているさ。かといって、完全に肩も持てんが」
エリシャはそう言って歩き出す。これからその可哀そうなご夫人にも、なにくれと言葉を掛けてやらねばならない。何しろ、彼の女性が頼りにしている男が、この館から追い出されてしまうのだから。
シモーヌ・メリエ・オーブニル夫人。謀議の出汁の為だけに契りを結ばされた、哀れな女。その身の上には同情を禁じ得ないが、一方で伯爵の精神を追い詰めた一端もシモーヌにあるのではないか。エリシャはそう判じていた。
あの女性は不実な結婚を強いたライナスを責めているが、度合いはどうあれ虚飾と欲得に満ちた婚儀など貴族社会ではよくあることだ。それを嫌う余りに夫を糾弾し、拒んでいては、到底家庭など成り立つまい。ましてやシモーヌは先年の大火で実家を失った身だ。多少はしおらしくして可愛げのあるところを見せれば、ライナスの態度も変わっていたのではないだろうか。
無論、政略結婚を嫌って出奔した過去を持つ、エリシャの如き女が言えた理屈ではない。本人もそれを悟っているからこそ、その点については多くを語らないのである。
そうこうしている間に、シモーヌのいる部屋に着く。
「ああ、エリシャさん! よかった、貴女がいらしてくれて!」
部屋の主は、熱に浮かされたような声で彼女を出迎えた。
「いかんな、シモーヌ夫人。お身体が優れぬのであろう? 過分な持て成しはご遠慮する故、横になられるがいい」
シモーヌは例の件の翌日から、体調を崩したと言って夫とは別室に居するようになっていた。もし危険な病であったら感染す訳にはいかない、というのが言い分である。
勿論、仮病だ。酷い仕打ちをする夫と褥を共にするのを拒んでいるのであろう。
彼女は一瞬恥じ入ったような表情を見せると、素直にエリシャの勧めに従って、ベッドに身を横たえた。
「聞きまして、エリシャさん? あの人ったら、またトゥリウス卿と喧嘩をなさったとか」
「ああ。聞くも何も、同席していたのでな」
「まあ! では、客人の前でそんなことを? 本当に、あの人ときたら……」
憤懣やるかたない、といった調子でシモーヌが捲し立てる。語調は浮ついているが、そのほっそりとした手は、縋りつくようにシーツを強く掴んでいた。
怖がっているのだ。
ライナスという共通の敵を持つトゥリウスが追い出されてしまい、一人暴虐な夫の下に残されてしまった現状に、シモーヌは怯えている。
その不安を吐き出すかのように、彼女は際限無く喋り続けた。
「トゥリウス卿がね、言っていたのよ。自分がいない間はエリシャさんを頼りなさいって。立派な騎士で、同じ女性だから、困っている義姉上にきっと力を貸してくれるでしょう、ですって!」
「ほう……そうなのか」
「ええ、そうよ」
聞いてはいたが、随分と適当なことを言う、とエリシャは思う。
トゥリウスからそこまでの評価を買う言動をした覚えは無かった。寧ろ、薄笑みの向こうに隠した本音を引き摺り出そうと、牽制めいた挑発的な言葉を何度か投げつけてさえいる。それ以外では、主として領土の軍備についての事務的な会話をしたくらいだ。
留守の間に義姉を任せて貰うような信頼を得たとは、とても思えない。
有り得るとしたら、短い会話の中でエリシャがシモーヌを粗略にはするまいと判断するだけの材料を洞察したか、もしくは、
(この夫人の事など、どこの馬の骨に任せようと構わない程度にしか考えていないか、だな)
厄介な精神状態になった女をひとまず安堵させる為、適当なことを言って落ち着かせたという可能性。そちらの方がありそうである。
見たところ、トゥリウス・シュルーナン・オーブニルという男は保身の化け物だ。その非道な行いは、奴隷虐殺など、顔を顰めさせはしても法には触れない程度のものしか表に出さない。王都大火の一件などの致命的な疑惑は尻尾を掴ませないのである。例の裁判騒動では、洗脳という悪辣な手段を用いたらしいが、今度は追及を受ける前に第三極となる派閥を形成して身を守った。
そんな男のことだ。これもおそらく、シモーヌを守るというポーズを取りつつ、兄嫁という微妙な立場の女性に深入りしない為の行動だろう。
エリシャはそんな考えはおくびにも出さずに肯いて見せた。
「では、任せておくがいい。守られる者の心に安堵を与えるのも、警護の内だ。それならばこの国で、私の右に出る者はそうおらんよ」
「まあ、それは頼もしい」
ほっと人心地ついたような息を漏らすシモーヌを見ながら、思う。
結局、彼女とライナスは似た者同士なのだ。共に誇り高く、教養もあり、そんな自分を曲げることが出来ない。同質であるが故に反発しあい、傷付けあっていく。
何か一つでも、どちらかが歩み寄れる切っ掛けとなる出来事があったのなら、こうはならなかっただろう。
例えばあの謀略に満ちた婚姻が決まった際に、ライナスが少しでも彼女に詫びるか、罪悪感を表に出していれば。そうすればシモーヌも彼を強く責めたりはせずに済んだかもしれない。……だが、あの気位の高い若き伯爵が、出会って間もない女に対して自身の弱みを見せられるだろうか。
或いはトゥリウスとの初対面の際に、シモーヌが夫への反発を抜きに公正にその人物を見抜けていれば。そうすればライナスも、敵を同じくする伴侶を得られて幾許か心の安らぎを得られた可能性もある。……しかし、陰謀の手駒として扱われ傷ついていた女が、反動でその首謀者の標的に入れこまずにいると言うのも難しいだろう。
互いに掛け違ったまま結ばれた二人の男女。その先行きには暗雲しか見えない。
(それでも)
それでも、まだ若い二人の人生は長い。そして歩んできた結婚生活は一年を迎えるにもまだ数月を残している。
今は最悪に拗れているとしても、大きな切っ掛けがあれば好転する目もあるだろう。
エリシャとしてはそう願っている。彼女は、ライナスの事もシモーヌの事も、共に嫌いではないと思っていた。
無論。
あの悪魔が、そんな甘い筋書きを用意している筈など無かったのだが――
※ ※ ※
何だかよく分からないタイミングで怒り出した兄に追い出され、夜を次いで馬車を走らせること二日。僕らはようやくマルランの居館に帰り着いていた。
「ただいまー」
「お帰りなさいませ、領主閣下。随分とお早い御帰還ですね?」
出迎えに現れたルベールが、意外でもなさそうに言う。こいつのことだから、成り行きについては自分で推察出来ていたのだろう。だったら、わざわざ訊ねなくても良いだろうに。
僕は馬車の旅ですっかり凝ってしまった肩を解しながら口を開く。
「お陰様でね。兄上ったら、本当に癇癪が激しいんだからなあ……ちょっと政務について打ち合わせをしてただけだってのに、どうしてあんなに怒るのやら」
「それはそうでしょうよ」
澄ました顔でそう言うのは、僕に続いて来たヴィクトルだった。
「ご自分の職権を越える範疇の提議を受けただけでなく、派閥内の情報についても把握していることを仄めかせたのですからな。肝の細い兄君であれば、さぞ震え上がった筈です」
「しれっと言ってるけどさ、ヴィクトル」
僕は思わず呆れ返ってしまった。
「この策を立てた張本人は君じゃあないか。何を無関係そうな顔を決め込んで、兄上を腐しているんだか」
「いえいえ。これもルベールの集めた情報あってのことですので、私一人の手柄と言い張るには、とてもとても」
軽く水を向けてやると、そんな人を食ったような返事が返ってきた。
そう、体良く厄介払いの形でマルランへと帰って来たのは、ヴィクトル達が考えた作戦だ。今回の兄上の帰領は、中央集権派から僕へ向けた、露骨な足止め策である。それに素直に乗ってやる義理は無いだろうと、どうにかこちらに非が無い形で足抜けする策を考えさせたんだけど、こうも上手くいくとは思っていなかった。
「伯爵様が閣下の影を恐れるところ、ご婦人が虫や蛇を厭うが如きですからな。毎日毎日、もっともらしい口実でお顔を合わせていれば、必ず根を上げると踏んでいましたよ」
失礼な。仮にも上司に向かって虫や蛇とは何だ。確かに家紋は蛇だけれど、それは兄上も同じじゃないか。
何だか面白くなくなってきたので、早々に話題を変えることにする。
「まあ、こっちの足抜け作戦はどうでもいいんだけどね。肝心なのはもう一つの方だし」
ヴォルダンから出る策の方は、言ってみればオマケだ。いざとなれば研究をセイスたちに任せて、高原でのんびり一夏のバカンスと洒落こんでも構わなかったのである。それでも、時間のロスを最小限に収めることが出来たのは嬉しい誤算だが。
「では、早速お取り掛かりになられますか?」
「勿論。こっちは兄上が王都に戻るまでが期日だからね。大急ぎで仕上げないと。あの人が気紛れを起こして帰りたくなっちゃったりしたら困るし」
「それはないでしょう」
自分の勲功をあっさりと流されたのにも動じる気配を見せず、ヴィクトルが自信たっぷりに断言する。
「あの方はどうにも几帳面でいらっしゃる様子ですからな。少なくとも提出した書類の確認が終わるまでは、州都から離れられないでしょう。この夏一杯は、ね」
「ふぅん? そういうものかな」
「流石はヴィクトル、考える策がえげつない。伊達にあの爺さんの血は引いてないね」
「ふっ、止すが良いルベール。……殺すぞ、貴様」
心温まる会話を交わす家臣たちを後目に、僕はラボへ向かう足取りを速めた。
「ユニ、例の物を」
「はい。ご主人様」
歩きながら手を出す僕に、ユニがハンカチに包まれた品物を手渡す。中から現れたのは、厳重に密封された試験管だった。口の蓋は固く栓をされ、内部は空気の存在すら嫌うようにたっぷりと培養液に満たされている。
これだ。僕は兄上からこれを得る為に、わざわざヴォルダンくんだりまで向かったのだ。
「色々と手の込んだ仕込みをした甲斐があったね。まさか初日からやってくれるとは思わなかったよ」
「ええ。まったくの僥倖でした」
或いは僕が余計なことをしなくても、彼からこれを得る機会はあったかもしれないが……まあ、いいだろう。自分のしたことが報われたと思った方が、精神衛生的に良いし。
手の中の物を軽く弄んでいると、横合いからドゥーエがきな臭そうな顔で覗き込んで来る。
「それが伯爵の……って訳かい?」
「何を恥ずかしそうに口籠っているんだい。まあ、確かに大声で呼ぶべき代物じゃないけど」
「い、いいじゃねェか、別に。……ところで、良く仕込みとやらに気付かれなかったな? 下手に薬なんぞ盛ったら、毒検知の礼装に引っ掛かりそうなもんだが」
自分の物なら散々見慣れているだろうに、ドゥーエは羞恥を誤魔化すように質問を重ねてきた。
しかし、何ともまあ的外れなことを聞いてくるものだ。
「薬なんて使ってないよ。ただ単に身体に良い食事を振舞っただけさ。ねえ、ユニ?」
「はい。アンギーユを用いた前菜に魚料理。スッポンのスープにその生き血を使ったソース。それとデザートのショコラにも僅かながら気分を高揚させる作用があったかと」
実際に包丁を振るった彼女は、立て板に水とばかりにつらつらと述べた。が、それを聞いてもドゥーエはいまいちピンと来ていないようである。
しょうがない、もうちょっとばかり解説しようか。
「あのさ、ドゥーエ。君が毎晩カパカパと空けている酒だって、飲んだら酔うし飲み過ぎたら中毒を起こして死ぬ場合もあるだろう?」
「お、おう?」
「でも、毒検知の礼装は酒に反応なんてしないじゃないか。それと同じことだよ。毒でも薬でもない、けれど心身に影響を及ぼす効用のある食材。それらで料理を拵えて食べさせただけさ。何の不思議も無いじゃあないか」
要するに礼装の検知能力は、少量で深刻な影響を及ぼすようなものに限られるということだ。幾ら飲み過ぎが毒だからといって、乾杯の度に礼装が誤作動を起こすようでいたら、酒屋は商売上がったりである。
それに僕らが普段摂取している物にだって、過剰に摂れば毒になるものは幾らでもある。塩分に糖分、脂分は勿論のこと、水だって短時間に過剰に飲めば致死性の高い中毒症状を起こす。身体に良いものの代表格みたいに扱われるビタミンも、ホッキョクグマの内臓に含まれている量は人間にとっての致死量、という話もあるのだ。だからってそこまで気にして普通の食事や飲み水に「これ、毒です!」なんて反応をする礼装、そんなものを拵える魔導師はいないだろう。
「あの晩、ユニが作った料理はね、精がついたり血行が良くなったりする、身体に良い食事に過ぎないんだよ。ただちょっと、元気になり過ぎて普段より我慢が利かなくなってしまう可能性があるかも、ってくらいのさ。勿論、それだけじゃ効果が出るか怪しいもんだから、必要量以上の食材を運び込んで、本来の料理人にも押し付けた。しばらくの間、同じ食材で作った物を食卓に出してくれるようにさ」
ったく、何でこんなしょうもない仕掛けを長々と解説する羽目になるんだか。
苛立たしげに鼻を鳴らしてしまった僕に、ドゥーエは思わずといった様子で声を顰める。
「……ひょっとして、今、機嫌が悪ィのか?」
「ああ、悪いね。これからやることを思うと、気分が重いよ」
言いながら、僕は手の中のサンプルを弄んだ。ユニがあの日の朝の洗濯物から採取してきた代物を。
コイツは本来嫌気性が強く、外気の中ではあっという間に死に絶えてしまう。それを魔法や霊薬なんかで無理に賦活させ延命している状態にある。使用期限が切れてしまう前に使ってしまわなければならない。
正確に言えば、気分が重くなるのはやること自体では無くやった後の諸々だ。確かに兄上やラヴァレの爺さんに痛手は与えられるだろうし、こちらへの直接的なダメージは無いに等しい。だが、確実に生じるだろう諸々の面倒事を思うと、今から憂鬱だった。
「まあ、いい。嫌なことは早々に片付けておこうか」
「ええ。それがよろしいでしょう」
傍らの従者が上げる慰めるような声に押され、僕は気の乗らない仕事をさっさと済ませることを誓った。




