057 悪魔と花嫁
明けて翌朝。
ヴォルダンのオーブニル屋敷では、早起きのメイドたちが忙しなく働いている。といっても、トゥリウスの連れて来た奴隷ではなく、こう言っては不思議だが、正真正銘のメイドだ。この伯爵家本来の使用人たち、即ち、行儀見習いに出された下級貴族の令嬢や、平民の中でも身元の確かな家庭に生まれ育った娘だ。
そんな彼女らにとって、トゥリウスが連れているような奴隷のメイドなど、笑止の極みである。富貴なる大人物の傍に侍り、時には手付きとなって子を宿すこともあるのである。その役を平民からも見下される奴隷風情が務めるなど、片腹痛い。
このような共通認識があるのだ。メイドたちはライナスが王都から連れて来た者と、最初からヴォルダンの屋敷で働いていた者が混在していたが、すぐに打ち解けた。格好の敵がすぐ傍にいるからである。
生意気にも自分たちと同じメイドの服――良く見たら向こうの方がより上等かもしれない――に袖を通す奴隷ども。ライナス・オーブニルという若き当主の寵を競う彼女らであるが、共に目障りな相手を敵とするのなら、誼を通じる余地はあった。
特に王都から来た者らにとって、女奴隷ほど気に障る人種もいない。使用人たちに人望の無いシモーヌ夫人は兎も角として、王都の本邸に起居する女たちの間では、ライナスの愛人が奴隷であることなど公然の秘密である。未だ懐妊の兆しも無い正妻を出し抜く好機を、卑賤な雌風情の為に未然に摘まれるとは。その憤懣が、一層奴隷階級への憎悪を強く育てている。
だから女奴隷で、その上メイドの真似ごとにまで手を出しているトゥリウスの奴隷たちの存在は、彼女らにとって腹立たしいことこの上ない存在だった。
「来たわよ」
メイドの一人が、洗濯物を運んでいた同僚に、密やかに耳打ちをする。横目の視線の先では、トゥリウスの女奴隷の一人が、廊下を通り掛かったところであった。それを確認し合ったメイド二人は、意地悪そうな笑みを互いに交わす。
どれ、小生意気な奴隷めに、一つ分相応の振る舞いという物を教示してやろう。そんな企みごとを仕組んでいたのだ。
二人は共に、ここ一、二年でオーブニル家に召し抱えられたメイドだった。だからトゥリウスが王都の屋敷にいた時代を知らない。噂には聞いても、良くある怪談の類だとしか思っていなかった。粗相をした奴隷を数人殺したのが、尾鰭がついて流布されたに過ぎない。所詮は子ども騙しだろう……そんな認識である。
もし、彼女らの先達がここにいたのなら、眦を決して奴隷どもに関わるなと忠告した筈だった。数年前まで、王都の屋敷は奴隷に支配されていた。トゥリウスが留学で離れていたときでさえ、残した配下の奴隷が闊歩していたのである。その姿に地下で行われる酸鼻な虐殺を想起し、心を病んで辞めていった者は、両手の指では数えられないほどだ。
それを知らないメイドたちは、無思慮で無防備なままにその奴隷へ、意地悪を仕掛けてやろうとしていた。なに、所詮その主トゥリウスは伯爵配下の子爵である。多少奴隷をいじめたところで、訴え出ても不仲な伯爵がとり合う筈も無い。また爵位を得たということは別家を立てたということ。他所者が伯爵家家人である自分たちを罰することも出来ないだろう、とたかを括っていた。
「行くわよ?」
「ええ、分かっているわ。三、二、一……それっ!」
悪戯っぽくカウントを数え終えると、そのメイドは運んでいた洗濯物を前に投げ出す。
彼女らは、歩いてきた奴隷に大量の汚れ物を頭から被せてやるつもりなのだ。洗濯物には、長旅を終えた後の一行の汗が染みた衣服が多い。顔に付いたら、さぞかし不快だろう。それで文句を言われたら、こう言い返せばいい。お前がぶつかったから洗濯物を落としたのだ、と。周到に確かめたが、周囲に第三者の目は無い。やったやってないの水掛け論になれば、奴隷の肩を持つ者などいはしないのだ。不注意にも伯爵家使用人にぶつかってきた咎も被せてやる。そして、奴隷どもが一様に取り澄ました気味の悪い顔をどう歪め、何と言い訳するかを楽しんでやろう。そのつもりだった。
だが、
「あれ?」
思いっきり前方に投げ出した筈の、満杯の洗濯籠。それが変わらず手の内にある。
戸惑うメイドに、共犯者が苛立ちを込めた視線を寄越してきた。
「ちょっと、何してんのよ?」
「え? いや、それが……」
投げたと思ったら、いつの間にか手元に戻っていました。
……などと言える筈が無い。頭がおかしくなったかと思われるのがオチだ。弁解の言葉を探している内に、目当てであった女奴隷は我関せずといった表情で擦れ違っていく。
「ああ、もうっ! こうなったら――」
このまま倒れ込んで、派手に悲鳴でも上げてやる。そうすれば奴隷も否が応も無く巻き込まれる騒ぎになるだろう。
彼女は意を決して、洗濯物をぶち撒けながらわざと転んだ。
「――痛ったーいっ! 何するのよ、この奴隷!?」
「おや、どうしました?」
「どうしました、じゃないわよ! アンタ、ちゃんと前見て歩いてんの!?」
「ちょ、ちょっと! 拙いわよっ!?」
同僚が何故か焦った声をあげて制止してくる。彼女は、仲間がアドリブに戸惑っているのだろうと解釈した。そんなことはどうでもいい、今はこの男に因縁を付け――男?
「私はちゃんと前を見て歩いていたつもりでしたが……貴女こそ、一度にそんな大荷物を運んでいると、前が見えなくて危険ですよ? 面倒でも何回かに分けて運ばれることをお勧めします」
言いながら、律儀に床に散らばった洗濯物を拾うのは、金髪碧眼の貴公子だ。断じて首輪付きのメイドもどきではない。
「ヴィ、ヴィクトル・ロルジェ卿!?」
思わず裏返った声を上げてしまう。この男は奴隷などではなく歴としたトゥリウスの家臣、それも庶子とはいえ伯爵家の生まれという、大物中の大物だ。メイド風情が因縁を付けて良い相手ではなかった。
「如何にも。私はヴィクトルですが……どうしてそんなに驚かれるのです? 私をどなたかと見間違いましたか?」
「い、い、いえっ! 滅相も無いです!」
平謝りに謝りながら、横目で同僚のメイドを睨む。ターゲット以外の人通りは無かった筈ではないのかと。当人も不思議に思ったのだろう、おずおずとヴィクトルにその旨を訊ねた。
「あの、先程までお姿が見えなかったのですが、いつの間に?」
「それですか? 火急の用事がありましてね、不作法ではありますが走って参りました。そうしたら貴女の隣の方がよろけているところでしたので、慌てて立ち止まった次第」
そう言う彼の髪は、確かに微かにほつれ、額には僅かに汗が滲む。それが見苦しさではなく爽やかさや愛嬌と映るのは、二枚目ならではの特典というものだろうか。
「ところで、奴隷がどうのと聞こえましたが?」
「あ、はいっ! そうなんです、ついさっきすれ違った奴隷が私に足を掛けたんですよ。それで転んでしまいまして」
ヴィクトルの問いに、渡りに船だと一気呵成に言い募る。この際だ、彼を証人に仕立ててしまえ。色男の前で恥ずかしい思いをさせられた報いだ、と八つ当たり気味に考えた。
だが、
「……その奴隷、というのはどこに行ったのです?」
「えっ?」
ヴィクトルはメイドたちの後ろを顎で示す。背後には無人の廊下が続いていた。当然、奴隷の姿などどこにも見当たりはしない。
「き、きっと途中の部屋の何処かに隠れたんですわ。小賢しいっ」
「本当、悪賢い奴隷っ!」
そう言うメイドたちを見るヴィクトルの目は、どこか白けた風でもあった。しかしそれも一瞬のこと、すぐさま生真面目な表情を浮かべると、如何にも真摯な声で問いを続ける。
「で、その奴隷の特徴は? もし本当であれば、罰を下さねばなりませんからね。是非ともお教え頂きたい」
「ええ、それなんですが、黒髪の娘で、目の色は緑でしたわ!」
「やけに色も白くって……本当に奴隷として働いているのか分からないほどです。きっと、仕事もさぼりがちな怠け者ですわよ!」
「そうですそうです! 左腕に生意気にも偉ぶった腕章を付けたり、腰から武器を下げたりして! 非常識な奴隷だわ!」
ここぞとばかりに論いを交えた証言をするメイドたち。美人だった、などとは口が裂けても言わない。それがまた彼女たちの劣等感――決してそうだと認めないだろうが――を刺激するからだ。
「随分と特徴的な奴隷ですな。ううむ、総合すると当家のチーフ……じゃなかった……ユニに似ていますね」
「まあ、子爵家の奴隷でしたの」
「すぐに解雇、いえ手打ちにした方が身の為ですわよ。……と、これは言い過ぎでしたか」
申し訳無さそうな顔を作るヴィクトルに猫なで声でそう言う。
そこへ、
「……如何なさいましたか、ヴィクトル卿」
件のメイド服を着た奴隷が、足音も無く現れていた。
ヴィクトルの、背後から。
「おや、チ――ユニ。丁度良かった。こちらのお嬢さん方が、君とぶつかって洗濯物を取り落としたとのことだが?」
「いいえ、身に覚えがありません」
「そうなのか? ……彼女はこう言っておりますが、どうなのです?」
いじめてくれようと思っていた標的の登場にも、ヴィクトルの親切ごかした言葉にも、二人のメイドは反応出来なかった。
恐怖に、凍りついていた。
(えっ、なっ、なんで……?)
このユニと呼ばれる奴隷は、どこから来た? 何故、自分たちと擦れ違って背後へと去りながら、ヴィクトルに続いて――自分たちの前から現れる? そもそも、一度見失った時に適当な部屋へ隠れるような暇があったか? また、そんな物音はしたか?
幾つもの疑問がぐるぐると頭を駆け巡り、そしてその答えは出ることが無かった。或いはそんな筈は無いと思わざるを得なくなる。
後ろへと去ったかと思うと姿を消し、気が付けば前から音も無く現れた。
これでは、まるで幽霊――
「す、すみません。き、気の所為だったようです」
「あ、朝早くから起きていたもので、白昼夢でも見たのでしょうか? ア、アハハ……」
――そんな連想を誤魔化すように、二人して引き攣った愛想笑いを上げた。
もういい。薄気味悪い。怖い。……関わりたくない。
真夏の朝っぱらから不可思議な現象に見舞われたメイドたちは、従者の格好をした奴隷どもへの強烈な忌避感に囚われていた。
顔を青くする娘たちに向けて、ヴィクトルは言う。
「体調が思わしくなさそうですな。どうです、ユニ。ここは君が彼女らの職務を代わってやるというのは?」
「はい、問題ありませんヴィクトル卿。お洗濯を実行し、後にお庭に干せばよろしいのですね?」
「ええ。干した洗濯物を取り込める頃には、彼女らのお加減も良くなっているでしょうし……どうです?」
「あ、はい……」
「お、お願いします」
おずおずと満載の洗濯籠をユニに手渡すと、二人のメイドは足早に立ち去る。職務を放棄しただの、奴隷ごときに何を怖気づくだの、そういったしゃらくさい理屈は頭から消えていた。今はもう兎に角、銀色の首輪を嵌めた輩から離れたい。それだけが心を占めている。
この日、トゥリウスの奴隷に纏わる怪談が、また一つ増えることになるのだった。
それを知ってか知らずか、ヴィクトルは深々と息を吐く。
「……私を出汁に使うのは程々にしてほしいですな、チーフメイド殿」
「はい、ヴィクトル卿。なるべくそう心掛けます。ご主人様のご用命が無い限り、ですが」
「つまりは今後もあり得ることであると。はァ……」
※ ※ ※
ドゥーエ・シュバルツァーは戸惑っていた。トゥリウスと出会ってからこっち、突飛な出来事や珍妙不可思議な事態には慣れっこではある。だが、目の前で起こっている出来事は、従来のものとはまた趣を別にしていた。
「えーっと、その、まずは落ち着いてお話し願えませんか?」
トゥリウスが困っている。いや、この男も人間だ。正真から悪魔じみていて、角と羽と尻尾を隠していないか探したくなるような輩だが、残念なことに人間である。困ることや悩むことはあるだろう。
だが、こんな事態に巻き込まれて困ることになるだろうとは、甚だ予想外である。
「助けて、トゥリウス卿! 私、もう駄目っ! あの人との生活には、我慢出来ないのっ!」
そう言って泣き縋ってくるのは、トゥリウスの兄嫁であるシモーヌだった。
朝食の席にも姿を現さなかったかと思いきや、部屋に戻るなり彼女が現れた。不思議に思いながらも室内に通すと、途端にさめざめと泣きながら義弟へ取り縋ってきたのである。
「は、はあ……兄上がまた、何か言ったのですか?」
「嫌っ、言いたくない、聞かないでっ!」
「ど、どうしろと?」
何とかしてくれよ、と言いたげな視線を送られるが、ドゥーエにしてもどうしようもない。泣いている女は、気が済むまで泣かせておくしかないだろう。剣技一辺倒で、女との付き合いなど一夜の享楽程度だった男に、こんな時の対処を期待されても困る。彼にとって最も深い付き合いのあるドライにしても、男を前にして涙を見せるような、可愛いたまではない。
処置無し、と肩を竦めながら、次善の策を口にする外なかった。
「どうにも憚りがある相談みてェだし、俺は外に出ていようか? 何かあったら呼んでくれってことで……」
そう言うと、トゥリウスは露骨に嫌そうな顔をした。この男のことだ、落ち着く気配の無いシモーヌと共に取り残されたことよりも、僅かなりとも護衛が傍を離れる状態の方が嫌なのだろう。
幸い、シモーヌはトゥリウスの胸に顔を埋めて泣きっ放しなので、義弟の舌打ちを堪える不愉快そうな表情を見ずに済んでいる。見ていたら、またぞろうるさいことになっていた筈だ。
「うっ、ううっ……お願い、そうして。他の人には聞かれたくない……」
「はあ、分かりました。……しょうがない、ドゥーエたちは部屋から出ていて。勝手にどこかへ行ったりはしないようにね」
「へいへい。ほら、行くぞお前ら」
「「はい」」
共に部屋に詰めていた量産型奴隷を連れて、廊下に出る。
扉を閉めてからややしばらくして、相談が始まった。
別に聞き耳を立てている訳でもないのだが、生憎ドゥーエはトゥリウスの『作品』だ。身体のあちこちに手を入れられた結果、聴力も強化されている。壁一枚扉一つ如き、衝立にすらなりはしないのだ。
「まずはお茶でも飲んで落ち着かれて下さい。僕の下手な淹れ方で申し訳無いですが」
「ぐすっ……あ、ありがとう。頂くわ」
「ユニがここにいれば良かったんですが、生憎と用事を言い付けていましてね。戻ってくるのは少し先になる筈です」
トゥリウスの言う通り、ユニは朝から仕事の為に主の傍を離れている。それが成れば、ライナスを失脚させる策謀が成就に近づく筈だった。シモーヌは自分の夫を陥れようと企む男に、泣き付いているということになる。何とも遣る瀬無い話だった。
「暖かいわ、貴方のお茶……痛っ」
「おや、どうしました? もしかして、口の中を切っているのでは? 失礼、少々拝見してもよろしいでしょうか」
「え、あ……うん。お願いするわ」
床の軋る音、異なる衣服同士の衣擦れ、そんなものが耳に飛び込んで来る。
トゥリウスが診察する為にシモーヌに近づいたのだろう。
「はい、お口を開けて下さい。あーん」
「あ、あーん……」
「ふむふむ。結構大きく切れてますね。血も出たのでしょう? 切ったその時に手当てはされなかったので?」
「それは、その……」
「まあ、言い辛いなら無理にお訊ねはしません。治す為に診たのですからね。……はい、治りましたよ。もう飲み物をお口に入れても大丈夫の筈です」
「あっ……」
回復の魔法だろう、微かな魔力のうごめき。身体が離れる音。名残惜しげな女の声。
何なのだ、この展開は。何でこの場面でそんな声を上げるのだ。まさかあの夫人、いよいよ本気でトゥリウスに気があるとでも言うのだろうか。
ドゥーエは自分の想像に頭を振る。ありえない。これまでの好意的な態度でさえ何かの間違いのようなものなのだ。この上、更に惚れているなど正気の沙汰ではない。何しろ、トゥリウス・シュルーナン・オーブニルときたら、世の女性が好む男性像とは正反対にいるようなものだ。冷淡で自己中心的、他人の思いなど斟酌せず、自分が生き残る為なら婦女子を矢面に立てても平然としている。優しくて頼り甲斐がある、などという一般論的な好男子像からは程遠い。こんな男を愛せる女など、それこそ脳味噌を弄られているような連中だけだろう。
一方で、夫であるライナスとの関係が破綻を来たしつつあるなら、と考える。それなら亭主と折り合いが悪い義弟を恃む思いが余って、恋慕の情に発展することも、無くは無い。
(それに、ここ最近は外面を取り繕うことも覚えたからな、あの野郎)
ヴィクトルやルベールの必死の諫言もあったのだろう。多少は貴公子らしい振る舞いも身に付いてきているようだ。少なくとも、ドゥーエよりは余程に。
また思い返してみれば、シモーヌはトゥリウスの悪い面をほとんど見ていない。彼女の知るトゥリウスは、遠くから婚儀に駆け付けにこやかに祝福してくれた義弟で、辛抱強く結婚生活への愚痴を聞いてくれた相手で、たかが奴隷の為にラヴァレらを向こうに回して闘い抜いて見せた男だ。汚点など、それこそ【奴隷殺し】の逸話くらいだろうが、例の裁判でユニの為に骨を折る姿で相殺された、と考えることも出来る。
……もしそうなら、とんでもない誤解だった。
あの男が他人に向ける笑顔など、無駄な軋轢を生じない為の愛想に過ぎない。どうでもいい相手だからこそ、笑ってみせてやるのだ。トゥリウスが心からの笑顔を浮かべる時など、それこそ実験が上手くいっている時か、その成果が満足のいく性能を示した時くらいのもの。その表情のおぞましさといったら、とても言葉では言い表せまい。
ユニを救ったのも、彼女が有為な手駒であり、またそれを労少なくして取り戻せる公算が大であったからやったまでのこと。失敗したら、即座に彼女ごと王都を焼いて逃げるつもりだったのだ。
箇条書きにしてみれば好印象を与えても不思議ではないが、一皮剥けばトゥリウスの正体などこんなものである。
(まっ、これは俺の勘繰り過ぎかね……)
苦笑して、益体も無い思考を断ち切る。人様の惚れた腫れたを詮議するなど、剣士のすることではない。ドゥーエは気まずさを誤魔化すように小さく咳払いすると、再び警護に意識を集中した。
部屋の中では、いよいよシモーヌが駆け込んできた要件の本題に入ろうとしていた。
「で、兄上との生活のことでの相談とのことですが、その傷が原因なので?」
「ええ、そうなの。……いいえ、正確にはそれも、と言うべきかしら」
幾ら警護に専念しようとしても、強化された聴覚は勝手に室内の声を拾ってきてしまう。
彼女の語った内容は、掻い摘んで並べるとこうである。
昨晩、会食の席を唐突に中座したライナスを追い、彼女は夫婦の寝室に向かった。すると奇妙なことに、夫は明かりを消したままベッドに蹲り、何やら呻いていたのだという。流石に心配になって声を掛けてみたのだが……なんとライナスは起き上がるや、突如としてシモーヌを乱暴に組み敷き、同意を得ぬ交わりを強いて来たのだ。
「髪の毛を掴まれて、無理やりに押し倒されたわ。嫌がって抵抗したら、思い切り殴られたの。信じられないでしょう? 確かに私はあの人の子を宿す為に嫁いだ身よ。けれど、……ぐすっ……あんなやり方ってあんまりじゃない? たとえ愛していなくたって、自分の子を産むだろう女を、あんなに惨く扱えるの?」
朝からなんて話をしやがる、などとドゥーエが仰天していることも知らず、恐怖と屈辱とを思い出したのか、シモーヌの声はまた泣き濡れ始めていた。
「それは酷い。とても夫婦の間ですることではありませんね」
「そうでしょう!? でも、それだけじゃないの。あの男、最中に何て言ったと思う? ……私のことを、婢だって! 奴隷だって言うのよ!? お前は私を満足させる為だけにいるのだ、なんて、泣いている私に向けて笑いながら言ったの! ……ああ、もう嫌っ!」
ついには悲鳴じみた声を上げて、本格的に大泣きに入る。扉のすぐ向こうにドゥーエたちが控えていることも忘れていそうだった。
「私、もう駄目なの! 絶対に無理、耐えられないっ! あんな男と一緒にいるだなんて嫌っ! 帰りたいのよぉ……。お願いだから、私を家に帰して! お父様とお母様のところに帰してっ! ……うぇえええええんっ!」
辛い思いを吐き出すうちに、気持ちが昂り過ぎたのだろう。とうとう子ども返りを起こしたようになっていた。そこにいるのは伯爵夫人でも男爵令嬢でもない。男どもに翻弄されて打ちひしがれた、ただの孤独な娘である。妻だ義姉だと肩肘を張っても、歳だけを数えればトゥリウスと差は無いか同じと見えた。艱難辛苦を受け止めるだけの強さを備える前の、無力な少女に等しい。
聞いていて、何とも嘆息を禁じえなかった。シモーヌが帰りたいと訴える実家は、もうどこにも無い。両親も既に亡い。どちらも去年に、トゥリウスが焼き払っていた。洗脳で暴徒に仕立てた平民どもを暴れさせた結果、その余波に巻き込まれて皆殺しに遭ったのだ。
彼女は自分が胸に顔を埋めている男が両親の仇とも知らず、救いを求めて泣いている。それを愚かだと笑うことも、浅墓だと詰ることも、ドゥーエには出来ない。いや、そもそもそんな資格が無い。何も知らずに悪魔の手を取って縋り、気が付けばその共犯者――否、道具として、無辜の血を無数に流している身なのだから。
その悪魔は、取り澄ました声で彼女に語り掛ける。
「落ち着いて下さいよ、義姉上」
「やだっ! 私は貴方の義姉じゃない! あんな男の妻なんかじゃないのっ!」
「……。では、シモーヌさん」
トゥリウスの言葉には、何かを取り繕うような不自然な間があった。きっと、面倒な相手を厭うような表情が一瞬浮かび、慌ててそれを引っ込めたのだろう。
「兄の無体は意外ではありますが、貴女の負った傷からして事実でしょう。婦人の身の上では憚りのあるお話もされたことですしね。斯くなる上は、二度とこのようなことの起こらないよう、厳正な対処を取りたいと思います」
「し、信じてくれるの……?」
「信じますとも。他でもないシモーヌさんのお言葉ですから」
「実の兄よりも?」
「当然です。昨晩は長年の確執を解きたく思い、宴席を催し言葉も尽くしましたが、あの方はその席を蹴立ててしまいましたからね。その上でこのような振る舞いをされては、どうやって彼を信じていいものか」
よくもまあ言えたものである。外で聞いているドゥーエとしては、呆れる外無い。
自分がライナスだったとしたら、昨晩のトゥリウスの台詞など、聞いた途端に殺意を抑え切れなくなりそうなものだった。こちらの仕掛けを全て跳ね返し、仕掛けられる以前より強力になった己を誇りながら、感謝していると言われたのである。痛烈な皮肉にも程があろう。その場で憤死しなかったのは奇跡とも言えた。
「僕は貴女を信じますよ、シモーヌさん。だから貴女も僕を信じて下さい。必ず、お助けしますから」
悪魔は親しげにそう嘯く。その誘惑は優しく甘い。ほんの少しの対価で願いを叶えてやると、笑顔で事も無げに言ってのける。
それでも普段の気丈なシモーヌなら、撥ね退けられただろう。だが今、彼女は追い詰められ弱っている。夫から受けた仕打ちに衝撃を受け、混乱しているのだ。
だから、そんな誘惑に抗う術は無く、
「ええ、信じるわ! いえ、会った時からずっと信じてたの。ライナスなんかよりずっと!」
その重みに気付かぬまま、悪魔を信じることを選択するのだった。
「悪趣味にも程があるぜ、ご主人」
「何がだい? 僕は彼女の相談に乗って上げただけだろう?」
シモーヌが去った後、室内に戻るや否や切り出すと、主人は如何にも他意の無さそうに返してきた。だが、ドゥーエからすれば性質の悪い詐欺もいいところだ。何しろ、シモーヌを悩ませる全ての事象は、目の前で自分で淹れた茶を不満げに啜る男に起因している。
ライナスと結婚することになったのもトゥリウスに対する陰謀の為だし、彼女の両親を死なせた大火もこの男が起こした。ライナスが精神的に追い詰められ、異常な振る舞いを呈すようになったのも、彼の所為に違いない。
だというのに、全ての発端に対して救いを欣求するよう仕向けて見せたのである。これが悪趣味でなくて何だと言うのだ。
「おいおい、それは牽強付会というものじゃないかなドゥーエ。何もかもを僕の所為にされちゃ困るな。あの人を兄上の妻に選んだのはラヴァレの爺さんで、それを承知したのは当の兄上。最終的に娘を差し出す決断を下したのは彼女のご両親だ。王都の大火は兎も角、他のことまでひっ被せるのは勘弁してよ」
「じゃあ、昨日閨で惨い目に遭わされたってのは?」
「それこそ、兄上の所為だろう? 二十年間、彼の弟をやって来たけどさ、あんな性癖の持ち主だったなんて言うのは初耳――でもないか。ルベールの情報だと、愛人だっていう奴隷にも乱暴な真似をしてるって話だったから」
さらりとそう言う口調からは、罪悪感や心痛の類は一切感じられない。寧ろ、シモーヌに無体を働いたライナスを責めるような視線を宙に投げている。
「それにしたって、義姉上にそんな事をするなんて、想像出来なかったんだ。妻にするには憚りのある行いがしたいから、奴隷の妾なんて囲ったんだろう? なのに、さ。昨日は領地に帰った初日だよ? それで我慢が利かずに奥さんを手荒に扱うってのはね。今までは普通に出来ていた筈なのにさ」
「アンタに性癖を云々されるたァ、あの伯爵も堕ちたもんだな。だが、昨日の晩餐でぶった演説は何だい? ありゃあ立派な挑発だぜ。腹に据えかねて突飛な行動を取ってもおかしくないだろうに」
その指摘に、トゥリウスは不思議そうに目を瞬く。
「え? なんで?」
まるで満点の筈の答案につまらないミスがあったのを指摘されたような、さも意外そうな表情。ドゥーエは思わず二の句に詰まった。
もしかして、本当に他意無くあんなことを言ったのか。ライナスの屈辱を負った神経に鑢で逆撫でを掛けるような台詞を、悪意の欠片も含まずに言ってのけたのか。
だとしたら、何という無神経さだろうか。
「だってさ、今や僕の敵は兄上や爺さんといった個人じゃあない。中央集権派という組織なんだよ? 兄上がそいつらと手を切るって言うんなら、僕もあの人と戦う理由は無い。それどころかマルランなんて研究に格好の土地をくれたんだ。今じゃ感謝もしているさ。……ああ、うん。義姉上に助けを求められるまでは、これからの事にも、もうちょっと手心を加える気でいたんだよ」
「……呆れたもんだ。今更兄弟仲直り出来るだなんて、本気で思っていたのかよ?」
「そこまでは流石に、ね。けど、このところあの爺との戦いは僕が有利に立っているんだ。そもそも中央集権派は本来、兄上の思想に合致した派閥じゃあない。領地として与えられたマルランの発展に、後ろ盾である僕の派閥。これだけの材料が揃っていれば、こっちに寝返ってきても不思議じゃないだろう?」
確かに、利害で言えばトゥリウスと組むという選択もあるだろう。利害だけで物事を割り切れれば、だが。
「第一、僕が兄上に望んでいることは研究を邪魔立てしないこと、ただそれだけさ。そうしてくれれば、彼に知恵や力を貸すこともやぶさかじゃあない。彼が伯爵になる前、そして僕が子爵になる前から常々そう言っているっていうのに、兄上は妙な意地を張るんだからね。堪らないよ」
ドゥーエは何事かを続けようとして、すぐにやめた。
この男には何を言っても無駄だ。他者の脳を開き、弄り、そのあり方を捻じ曲げることを業としながら、トゥリウスには人間の心というものが理解出来ていない。
いや、心理を理解出来る能力は十分にあるだろう。でなければ、錬金術という反則技を用いたとしても、謀略の真似ごとなど覚束ない筈だ。
しかし、他人の心情に共感を抱くという機能が根本的に欠けている。自分が死なないことを第一とし過ぎた所為で、彼の中における他者の価値は、常人のそれより一等も二等も低くなっているのだ。自分以外の人間は道具か塵芥。そんな風に思っているとしか思えない。
でなくば、奴隷とはいえ何人もの人間を、人体実験に供することなど不可能だろう。人の頭を弄って芯から自分に服従させるという発想など出てこないだろう。謀略から逃れる為だけに、万とも数えられる人間を犠牲にはしないだろう。
だから彼にはライナスの苦しみが分からない。仮に苦しんでいることが分かったとして、それより損得利害を優先出来ぬ気持ちを慮れないのだ。兄がどれほど自分を憎み、怒り、恐れたとしても、その感情に共感しえないのだから。自分以外を人間として見ることが出来ない男に、他人の――別の人間の思いに対し、心を配ることなど出来はしないのだから。
「……その話は置いておこうや。で、あのご夫人のことはどうするんだ?」
仕方が無いから話題を変えた。これ以上続けても一層不愉快になるだけである。
……変わった先の話題も、十分に嫌な展開が見え透いているが。
夫婦生活に対して限界を呈したシモーヌ。彼女をどうするか。水を向けられたトゥリウスは、椅子に凭れて軋らせながら答える。
「考えがあることにはあるよ。僕だって自分に良くしてくれる人には感謝くらいするしね。義姉上が僕に助けてって言うんなら、出来る限り助けてみるさ」
「出来る限り、ね」
信用のならない言葉だった。自分を第一とする人間が他者の為に出来る限りのことをする。それはつまり、己の目的を達成する過程で、ついでのように助けの手を差し伸べてやるのに過ぎないのではないか。そして、トゥリウスの用いる手法は例のごとく悪魔めいた錬金術。それで助けられたとして、シモーヌは果たして幸せになれるものだろうか。
「まあ、その件については、後でユニやヴィクトルを交えて話し合おうじゃないか。僕の腹案についても、皆に検討して貰った方が良い」
「そうかよ。……なら、覚悟を決めてから聞くことにするぜ」
しばらくして、合流したユニとヴィクトルらを交えて討議が行われた。
……ドゥーエが決めた覚悟は、残念ながら無駄にはならなかった。




