056 オーブニル家の食卓
陰謀があればその対象となるだろうライナスが無防備に出歩き、近衛第二騎士団はそれを守るべく機敏に動いた。にもかかわらず、結局、異常と言うべきことは何一つ起こらなかった。トゥリウス側の動きを期待していたエリシャにとっては、何とも拍子抜けな結果である。
(まあ、この状況で手出しをするほど、子爵も浅慮ではあるまいが)
半ばは分かっていたことではある。今、ライナスの身に危害が加えられれば、犯人はトゥリウスであるとされるだろう。仮にそうでなくても、王都の老翁なら確実にそうだということにする。それが見え透いていてなお動くのは、馬鹿しかいない。でなければトゥリウスに罪を着せてライナスを葬りたい者かだ。
(仕方無い、こちらから攻めてみるか)
思いながら、キュッとコルセットを締める。彼女は今、晩餐に向けての着替えの最中だった。幾ら近衛騎士とはいえ、招かれての食事の席に、鎧兜を身に着けて赴くほど非常識ではない。こういう格式ばった席の為のドレスなど、十着や二十着は持っている。本人としては、一つを残して売り飛ばし新しい装備でも誂えたいところだった。が、余り貴族としての体面を蔑ろにすると、実家だのどこぞの爺だのがうるさいのである。
「家を出たとはいえバルバストルの娘が一張羅しかドレスが無いとは」だの「近衛は王室の看板故、多少は着飾ることも仕事の内じゃよ?」だの、耳にタコが出来るほど説教を喰らっている。実際に一着売りに出したことがあったが、次の日には替えの物が届けられた、という経験もある。それも実家とラヴァレ侯の両方からだ。あの連中は普段いがみ合っている癖に、こういう時だけ仲が良い。
以来、ドレスを手放すことはせず、クローゼットの肥やしにするか、今日のように必要な時に渋々引っ張り出すのが常となっている。
「ったく、相も変わらず動きづらい。何でこのような物を着ねばならんのだ……」
ぶつぶつとぼやいても、返事は無い。女性の着替えの場に残るような無礼者は、如何に第二騎士団とていないし、エリシャ・ロズモンド・バルバストルの着替えを覗こうなどという命知らずなど、王国中を探してもいるかどうかだ。着替えを手伝う従卒の類もエリシャは抱えていないし、奴隷に着替えを手伝わせるというも流石に聞こえが悪い。面倒だが、自分の手でやるしかなかった。
袖を通した際の乱れを軽く直し、髪に軽く櫛を通してから結い直して、最後に愛用の鋭剣を釣ったベルトを腰に巻く。
鏡の中には、月も隠れるだろう美女が凛々しく佇んでいた。帯剣という異様ないでたちも、かえって非現実的なまでの美を引き立てるスパイスに過ぎない。だというのに、
「……まあ、これで見苦しくは無かろう」
当人の感想はこんなものだった。そもそも、エリシャにとってこれから赴くのは、形を変えた戦場である。剣の代わりに言葉を交わし、矢ではなく陰謀を飛ばし合い、騙す嵌めるを魔法とする、貴族の戦場だ。不本意でもあり専門外だと抗議したいところだが、役を負わされた以上踊り通すより外に無い。
「さて、行くか」
頬を張って気合を入れると、踵を返して扉を開ける。
向かう先は、かの【人喰い蛇】が手ぐすねを引いて待つ、晩餐の席であった。
※ ※ ※
ライナス・ストレイン・オーブニルは、青褪めた顔で席に着いていた。これから始まるのは、あの忌まわしいトゥリウスが主催する夕食である。虐殺者が催し、奴隷の調理した食事を口に運ぶ、世にもおぞましいディナーだ。
それを思うと気が気ではない。先程ようやく取り戻した精神の平衡が、またぞろ崩れそうになる。一生の内にこれほど食事を拒みたくなった経験は初めてだった。
何しろ、食べ物に何が入っているか分からないのだ。エリシャは毒なら礼装で検知できるとのたまっていたが、裏を返せば毒以外の物は入れ放題なのである。
――もしも、殺した奴隷の生き血でも混ざっていたら?
――いや、もしかしたら人間を腑分けして、それで料理を拵えたのかもしれない。
――はたまた、世にも奇怪なモンスターの肉や生き肝でも饗されるやもしれぬ。
食欲が失せるような想像が次から次へと湧いてくる。
今すぐにでも、席を蹴立てて部屋に帰りたい。だが、客であるエリシャらの前でそんな姿を晒すことは、彼の面子が許さなかった。それにトゥリウスを残して、ここで大きい顔をさせたくもないのだ。意地の問題ではない。ここでライナスが満足に客をもてなせず、トゥリウスにホスト面をさせたら、弟の家中での地位が相対的に上がることになる。オーブニル本家の流れを汲む男の地位が、だ。
本家の家臣たちにも嫌われている【奴隷殺し】が担がれるとは思えないが、何事にも例外は付き物だ。ライナスの支配下の家臣団にも主流派と非主流派が存在している。もし後者が現当主を疎んじる思いが強くなったら? まさかとは思うが、彼らがトゥリウスを旗印にライナスを逐うことも無くは無いのである。
それを思えば、ここで弟や家臣に弱みを見せることは出来ない。部外者でありこの席での出来事を外に持ち出せる第二騎士団の連中には尚更にだ。そんな思いが、ライナスを気の乗らぬ食卓の席に縛り付けていた。
憂鬱に苛まされる兄を後目に、弟の方は上機嫌であった。余程食事が待ち遠しいのか、鼻歌交じりにナプキンを折り畳んでいさえいる。この男が楽しみにしているメニューだ、さぞかしとんでもない物が出てくるのだろう。そう思うとまた気分が沈んだ。
「お待たせいたしました、皆様」
厨房の方から現れてそう言うのはユニだ。ライナスはちっとも待っていない。永久に来ないでほしいとすら思っていた。が、感情の窺えない女奴隷は、こちらの感情もやはり斟酌せずに続ける。
「夕餉の準備、整いましてございます」
トゥリウスはそれに肯きを返すと、やおら立ち上がって音頭を取り始めた。
「では、皆さん! 今宵の晩餐と参りましょう! 今回に限り、兄上に代わって不肖の僕めが音頭を取らせていただきます。でも、その前に――」
言って、腰を下ろすと両手の指を胸の前で組んで目を伏せる。
「――天に座します主よ、聖王よ。今宵も我らに糧を与えられたことを感謝します」
などと、殊勝な祈りを捧げ始めた。聖王教徒の晩餐の祈りだ。この大陸にあっては当たり前の行為で、何ら目を見張るべき物は無い。だが、それを為しているのが彼のトゥリウス・オーブニルだという一点がライナスの神経をささくれ立たせる。神をも畏れぬ殺人狂が、何を今更――という思いだ。
そうは思うものの、食事に当たっての挨拶である。それをしなければ不作法の極み。ライナスも不承不承倣う。当然、シモーヌや客人であるエリシャたち、伴食する家臣団もだ。
祈りが済んで顔を上げると、トゥリウスはまたいやに陽気な調子で続けようとする。
「……さて、それでは頂きましょうか!」
「待て、トゥリウス」
ライナスは固い声でそれを遮った。
「我らは今宵饗される料理について、知らされていないが?」
もしとんちきな答えを返すようなら、難詰して皿を取り下げさせてやる。そんな思いすら滲ませた問いを、トゥリウスは余裕の笑みで迎え撃つ。
「ああ、これはいけない! すっかり忘れていましたよ! いやあ、不作法で申し訳無い」
言いながら軽く頬を掻く。欠片も反省が見られない態度が、またぞろ苛立ちを誘ってくれた。それを知ってか知らずか、トゥリウスはメニューを掻い摘んで説明し始める。
「季節は夏、また皆様は長旅でお疲れでもあります。ですので、少々旬からは外れますが、精のつくアンギーユを多めに盛り込んだコースとなっております」
アンギーユとは鰻のことだ。本来は秋冬頃に脂が乗るものだが、夏に味わうというのも乙なものだろう。思ったよりもまともな物が食べられそうで、微かな安堵を覚える。一方で文句を付けられるような食材でもないのが苛立ちを誘う。ちょっとしたアンビバレンツだった。
「オードブルはアンギーユと夏野菜のキッシュ、スープは高地の涼しさも考慮して温かい物を用意しております。ポワソンはアンギーユのワイン煮込みです。旬の食材と当地ヴォルダンの名産の取り合わせを、是非ともご賞味ください!」
「あら、スープが温製なのは助かるわ。私、どうも冷えると駄目で……」
そう言うのはシモーヌだ。ライナスが抱いているような危惧など、欠片も感じていないらしい。
「それは良かった。偶然とはいえ、義姉上に合った趣向を用意出来たようで光栄です。さて、メインディッシュですが――」
立て板に水とトゥリウスの解説が続く。
安心すべきか残念に思うべきか、その内容にケチの付けどころは無かった。
「おっと、忘れてはいけない。ワインは勿論、当地のカベルネ。一〇一二年物を用意しております」
ライナスは小さく呻く。当たり年のワインである。
「おいおい、子爵。ご当主に黙ってそんな物を持ち出してはいかんぞ?」
揶揄するように言ったのはエリシャだ。ボトル一本で家が建ちかねない高い酒である。この屋敷のワイン蔵から出したとなれば、確かに事であろう。
「ご心配無く。僕の私財で手に入れた物です。土地の名士に掛け合って、蔵していた物を譲って頂きました。……カナレスでならもう少し安く買えたんですが、夏場ですから。ワインに旅をさせちゃいけないとも言いますし」
「む? そうなのか?」
「ええ。日が当たると傷みますし、温度の変化や揺れも禁物です。デリケートな飲み物ですからね」
意外である。貴族の常識など鼻にも掛けぬこの蕩児が、触り程度とはいえワインの知識を持っていたなど初耳だった。それよりも元侯爵令嬢で現近衛騎士が、まるで無知でいたらしい方が問題だろう。
「まあ、長ったらしい説明はここまでにしましょう。それでは食前の乾杯に移りたく思います――ヴィクトル」
「はっ」
指図を受けた家臣が、食前酒のシャンパンを出席者の酒器に注いでいく。流石にこの場で奴隷に酒を注がせるほど非常識ではないらしい。料理人ではなく奴隷が包丁を振るっている時点で、問題ではあるが。
そうこう思っている内に各員に杯が行き渡り、トゥリウスが片手にそれを持つ。
「それでは、今ここに正しき主を迎えたヴォルダンの地と、近衛の皆様の武威と栄光に……乾杯!」
「「乾杯っ!」」
「……乾杯」
幾人かの弾んだ声と、ライナスの沈んだ声、グラスを打ち合わせる澄んだ音が交錯する。
食事が始まった。
「ふむ、このキッシュの焼き加減は中々だな」
「ほんとに絶品ですなあ、姐御――」
「ゴホンっ……」
「――あ、いや、団長」
近衛騎士の面々は、早くも前菜に手を付け始めていた。
客が口にしている以上、主人たるライナスも倣わざるを得ない。毒物検知の礼装に反応は無し。食べても害は無いだろう……少なくとも、肉体には。
乾いた唇を食前酒で湿してから、恐る恐るナイフでキッシュを切り分ける。生地が割かれて現れたのは、聞いていた通り鰻の身と野菜だけだ。得体の知れない肉が混じっていたり、赤黒く生臭い汁が滴ったりはしない。見た目には、ごく普通の――いや、美味そうな――キッシュに過ぎない。
フォークで刺し、そっと口元へ運ぶ。その仕草は我ながら緩々としたものだった。まるで嫌いな物を食べさせられる子どもである。
しばらく、キッシュは口元で揺れていた。シモーヌがまた呆れたような視線を送ってくる。
「あれ? 兄上はお嫌いでしたか、キッシュは?」
トゥリウスが素っ呆けた声を出す。キッシュが嫌いかどうかはともかく、これを出した輩のことはこの世で何よりも嫌いだった。作った者も、二番目くらいには。
(ええい、ままよっ!)
ライナスは覚悟を決めてフォークを口に押し込んだ。
……。
まず感じたのはさっくりとした触感。次いで鰻特有のケーキに似た柔らかい舌触り。旨みをたっぷり含んだ脂が口内にあふれ、それをゆすぐように野菜の健康的な苦みがそっと優しく舌を刺激する。ハーブの類が含まれているのか、口腔を通り抜け鼻腔に爽やかな香りを覚えた。
「あら、美味しい……」
シモーヌの感嘆に思わず唱和しそうになる自分を、必死に抑えねばならなかった。
「どうです、兄上?」
ニコニコとしながら聞いてくるトゥリウスの声は、まるで宝物を見せびらかすようでもある。悔しいが、そんな態度を取らせるだけのことはあった。ライナスは呻くように言葉を返す。
「フンっ……悪くは、ない」
「及第点、といったところですか? いやあ、これは手厳しい」
「そう謙遜することもなかろう、トゥリウス卿」
取り持つように言うのはエリシャだ。彼女の前の皿は、既に空である。いくらオードブルとはいえ片付けるのが早過ぎはしないだろうか。
「中々魅せてくれる味ではないか。これを作ったのは?」
「ユニですね。奴隷の料理など不作法かもしれませんが、当家では彼女が一番腕が良いもので」
「ふぅん――?」
ドレス姿の女騎士の瞳が、ちかりと剣呑に光った、ようにライナスには見えた。
「――見事な物だ。これも伯爵家の薫陶というものか」
誰かのナイフが、皿をぎりっと削る音を立てる。ヴィクトルだった。
先年にユニがカルタン伯の隠し子であるとして、その帰属を巡って悶着があったのは記憶に新しい。何しろ裁判にまで縺れ込み、件の伯爵は隠居を命じられるという大騒動だ。エリシャの発言は、その点への強烈な当て擦りにも聞こえる。
「エリシャさん、それは――」
「ええ。オーブニル伯爵家本家にいた頃、先達に厳しく仕込まれたとかで」
シモーヌが咎めの声を発し切る前に、トゥリウスはそう説明する。
エリシャはしれっとした顔で、
「そうか」
と肯き、食前酒の残りを舐めるように干した。
(この女……)
ライナスはきな臭い目でエリシャの方を見る。
まさか何食わぬ顔で皮肉を述べるとは。貴族らしさの何たるかも分からぬじゃじゃ馬かと思いきや、意外な側面である。ラヴァレがわざわざ送りこんでくるだけのことはある、ということか。
「さて、お皿を綺麗にされたお客様がいらっしゃるのに、このままというのもなんですね。少し早いですが、スープをお出ししましょうか」
「へえ! そりゃ気が利きますな。美味いもんを食うと、余計に腹が減る性分でして」
「しっ! 子爵閣下に、余り気安い口は止して下さい」
快哉を叫んだ野卑な騎士を、副団長だという男が制止する。
それを後目にトゥリウスが指を鳴らすと、件の奴隷が湯気の立つスープを運んで来た。
「どうぞ、お客様」
「ふむ、そういえば……スープには何が入っているか聞いていなかったな」
ユニの配膳を見送りつつも、そう呟くエリシャ。
確かにそうだった。温かいスープにした、としか聞いていない。何を具にしたかまでは不明瞭のままだ。
ライナスが窺ったところ、スープは油膜こそ浮いているものの赤味がかった汁は澄んでいて、皿の底まで見通せる。具材は何かの肉のようだ。赤、肉、という取り合わせが、ライナスに不吉な想像をまた抱かせる。
トゥリウスは悪戯っぽく笑った。
「ああ、これはこれは申し訳無い。すっかりお伝えするのを忘れていましたよ。……では、こういう趣向はどうでしょう? まずはご賞味頂いて、それが何のスープか当てるというのは」
「ほう、面白そうではないか。乗った」
言うが早いか、エリシャはスープをスプーンで掬い、口に入れる。しばらく具の肉を確かめるように舌で転がし、咀嚼し、嚥下した。
(知らんぞ、何のスープでも)
そんなライナスの危惧を余所に、エリシャはあれでもないこれでもないと考え込む。
「鶏、ではないな。似ているが、もう少し野趣深い感じがする。脚の肉だという感じがするが、少し太い。野鳥らしくはない……分かった、亀だ」
亀。珍しい食材だが、珍味として味わわれることも無いでは無い。長寿な生き物なので、一部の地域では縁起物として喜ばれることもある。だとしたら、常日頃長生きがしたいなどと厚顔に言い放つトゥリウスの趣味にも合っていよう。
「正解です! いやあ、良く分かりましたね?」
「爬虫類は鶏と似た触感だからな。匪賊討伐の任務の折り、糧食が切れたのでトカゲを喰ったことがある。それで分かった。アレに比べて脚が太く短かったからな」
「そ、そうですか。いや、貴重な経験を豊富にお持ちなようで……」
珍しいことに、トゥリウスが口元を引き攣らせていた。この男が非常識さで他人に圧倒される場面など、初めて見る。しかし、素直には喜べなかった。ライナスも少し気分が悪くなったからだ。
「団長、会食の席でそのような話題は……」
「食事中に食べ物の話をして、何がいけないのだ? うむ、アレも悪くない味だった。幸い岩塩の備蓄はあったので塩をまぶして食ったのだが――」
「だ・ん・ちょ・う?」
「――なんだ、アル。怖い顔をして」
幸い、良識ある副団長が話を断ち切ってくれた。ライナスはほっと胸を撫で下ろす。
「え、エリシャさんって、本当に変わっているわね」
「変わってい過ぎだ……」
シモーヌの困惑も露わな声に、ライナスの溜息が重なる。またも珍しいことに、この冷え切った夫婦間で意見の合意を見た。とはいえ、やはり全く嬉しくないが。
「こちら、大変お熱くなっております。ご注意くださいませ」
先に前菜を片付けていた騎士団に遅れて、ライナスらにもスープが饗される。一瞬、配膳を行うユニと目が合った。相も変わらず感情の窺えない目だが、微かにライナスを厭う色が仄見える。奴隷の首輪を外されても、父親を地獄に落とし母の仇と結んでまで戻ってきた女だ。主と相争う男のことなど、どれだけ憎んでも飽き足らないだろう。
それはこちらも同じことだ。奴隷の分際で【奴隷殺し】に侍り、気の乗らぬ結婚までして仕組んだ策略を粉砕までした相手など、出来ればこの手で縊り殺してやりたい。
背筋を冷たくさせる感情を誤魔化すように、目の前の皿に意識を切り替える。
皿を満たす赤味を帯びたスープは、先程まで煮だっていたのではと思わせられるほどの湯気を上げていた。軽く掬い、スプーンの上で少し冷ましてから口に運ぶ。濃厚で多少癖があるが、中々に乙な味だった。濛々と湯気が噴くのを見て煮込み過ぎではと思ったが、成程これは熱い方が美味いに違いない。出来れば冬の時節に味わいたい物ではあるが、ここは夜間に冷え込む高地だ。夏に喰っても構わないだろう。
(分からんものだな……)
ライナスは温まる身体に軽く汗ばみながら胸中で呟く。
いかにも冷たそうなこの女が、こうも温かみのある料理を作れるとは。いや、彼女は主を侮辱した相手を斬り殺したことも度々あると聞く。そう考えると、案外根は激情家なのかもしれない。物騒にも程がある激情ではあるが。
一方、もう一人の物騒な激情の持ち主である女はというと、
「おかわりを所望したいが、よろしいか?」
既にスープを空にして、そんな要求を口にしていた。
前菜の時と言い、物を食うのが早過ぎる。それでいて所作が不作法とは思わせないのだから、妙なところで器用なものだ。
ユニは少し小首を傾げる。
「それは構いませんが、コースはまだ続きます。よろしいのですか?」
彼女の言う通り、まだ魚料理と主菜の肉料理が控えている。勿論、デザートもだ。汁物とはいえ腹に溜め過ぎれば、後に障るだろう。が、エリシャはひらひらと手を振って危惧を打ち消す。
「問題無い。食えば食うだけ入る性質でな。スープなどでは食った内には入らん。それより、折角の珍味だ。もっと味わわせて貰いたい」
「姐御の大食いはウチでも有名だからなあ……」
「はは、まったくまったく」
「……余り身内の恥を喧伝しないように」
「畏まりました。直ちにお持ちします」
盛り上がる騎士団にポツリと小言を挟む副団長を後目に、ユニが替えの皿を取りに向かった。
……その後も、食事は進む。
ポワソン、メインディッシュ。忌々しいことに、どれも文句の付けどころが無い味である。どころか、誰の手による物かを知らなければ、手放しで褒めていただろう程だ。
ただメインディッシュの肉料理が「ザンクトガレン風ハンバーグステーキのドミグラスソース和え」だったのが気に障る。美味いことは美味いのだが、彼の野蛮な隣国の料理というのは少々頂けない。この近衛騎士たちが派遣された口実も、その国が不穏であるということに端を発しているのだが。
もっとも、当人たちは気にすることなく平らげ、エリシャに至っては三枚も腹に収めていた。健啖にも程があろう。
そして最後にデザートが饗される。
「本日のデザートはショコラケーキをご用意させて頂きました」
「ショコラ? 耳慣れないが、妙なものではあるまいな?」
ライナスの危惧に対し、トゥリウスは意外そうに眼を瞬く。
「おや、ご存じないのですか? 昨今のカナレス商人の間で密かに流行の菓子です。何でも異大陸の豆を挽いて煎じ、砂糖を混ぜて飲む物らしいのですが、冷え固めれば菓子にもなるのですよ」
「異大陸渡来であるか……」
あまり良いイメージは無かった。外洋の向こうから渡ってくる物には、碌な物が無い。中でも芋とかいうごろっとした作物は、風味も安っぽくて芽が出ると毒にもなる。ライナスは嫌いだった。まあ、痩せた土地でも良く育つらしいので、庶民どもの為に救荒作物として実験的に植えてみたが、どうなるものやら。
そんな夫と真逆に、妻の方は無邪気に目を輝かせている。
「凝った趣向が次々に出てくるわね。本当に飽きないわ」
「それはどうも。僕としても、珍しいだけでなく、義姉上らのお口に合うことを願っております」
そう言うが早いか、デザートの皿が卓上に並べられ出す。
ショコラケーキとやらは、通常のケーキに茶色い色合いが混じり、上にアクセントとして板切れのような菓子を乗せていた。良く見ると飾り付けのクリームの色も茶である。この色の正体がショコラとかいうものなのだろう。クリームの甘い匂いに混じった香りは中々香ばしく、満腹であった筈の胃袋に更なる食欲を訴えさせるものがあった。
当然のことのように、エリシャが真っ先にフォークを付ける。
「はむ。むぐむぐ……おお、これは未体験の甘さだな! 豆を挽いたものが原料と言うから、苦いものかと思っていたが?」
「はい。砂糖を入れないと苦いですね。甘さを控えて苦みを楽しむというのもありますが」
したり顔で解説するトゥリウス。
悔しいことに、少々興味を引かれた。ライナスも一口食べて見る。
「……甘い」
舌が蕩け落ちそうに甘く、それでいてただ甘いだけではない深みがある。元々苦い物に砂糖やクリームを加えることで、逆に甘さを引き立てているのだろう。
「本当、甘くて美味しいっ! ……でも、こうも甘いと、お砂糖の量が気になるかも」
女性らしい心配事を漏らすのはシモーヌだ。確かに、奢侈に溺れて砂糖を摂り過ぎ、豚のように肥える貴族も多い。あまりに糖の過多な菓子というのも、素直に歓迎出来かねるのだろう。
「ご心配無く。その辺には工夫がありまして、少々塩を加えることで甘味を引き立てているのです」
「へえ? そうなの?」
「ええ。人間の舌と言うのは不思議な物で、少ししょっぱい物を混ぜた方が甘味を感じ取りやすくなるのですよ。勿論、多少量を減じているとはいえ、糖が多いのに変わりはありませんから、食べ過ぎは良くありませんが……食後のデザートであるなら、毎日食べでもしなければ問題無いかと」
トゥリウスは何でもないことのように話す。が、菓子作りの秘訣などそう簡単に漏らして良いものなのだろうか。甘い菓子の作り方はちょっとした金のなる木だ。高級品である砂糖を節約できるとなれば、尚更である。貴族お抱えの菓子職人などは、涎を垂らして聞きたがるに違いない。
ともあれ、シモーヌはそれで安心したらしい。嬉々としてケーキを片付けに掛かりだした。
「それにしても――」
既にケーキを腹に収めたエリシャが、出し抜けに口を開いた。
「――今宵の晩餐は中々に素晴らしい。王宮でも斯様な佳肴の数々にはそうそうお目に掛かれん。私はいたく感じ入ったぞ、トゥリウス卿」
「それはそれは……お褒めに与り恐縮です、バルバストル卿」
女騎士の面白がるような視線と、ディナーの主催者の愛想に満ちた微笑がぶつかり合う。
「これ程の仕儀だ、準備するにはそれはもう苦労されたであろう?」
「いやあ、ははは。まあ、僕の身代にしては見栄を張っているという自覚はありますね」
トゥリウスが恥ずかしげに頭を掻いた。
言われた通り、今日のディナーは色々と手が込み過ぎている。美食に美酒に、舶来の名菓のおまけ付きだ。一子爵であるトゥリウスが催すにしては、下品な言い方ではあるが、金が掛かり過ぎていた。
シモーヌのように無邪気な人間であれば、これ程までに気を砕いてくれているのかと喜べるのだろうが、ライナスやエリシャはそうはいかない。片や永年に渡り相克し合う兄弟であり、片や中央集権派の紐が付いた武装集団の長である。近衛が拡充され第二騎士団がその精華と謳われるようになったのも、ラヴァレの改革の所産だった。
それがどうして、こうも豪華な饗応を受けられるのか。裏の意図を勘ぐらざるを得ない。
「単刀直入に聞こう。今宵のもてなし、それを催された貴公の思惑、その奈辺を伺いたい」
「と、言いますと?」
「許せ。一介の騎士がこれだけ厚く歓迎されるとは望外であってな。恐縮の余りあらぬことを聞いたまでのことよ」
そう言いながらも、エリシャは食後酒のグラスを傾けながら完全に寛いでいた。彼女の言は、何か企んでいるなら今すぐ白状しろ、と言っているに等しい。単刀直入にも限度というものがある。
トゥリウスは、おかしそうにくつくつと笑った。
「いやはや、近衛でも精兵の聞こえの高い第二騎士団の長たる方が、一介の騎士、とは。それでは僕が如き地方領主に仕えている者の立場がありませんね。ねえ、ドゥーエ?」
「……そこで俺に振るなよ、ご主人」
会食の間中、大きな図体を縮こまらせるようにして過ごしていた男が、嫌そうに言う。大方、慣れないテーブルマナーに四苦八苦して、恥を晒さないよう静かにしていたのだろう。
部下をからかって一息入れたのか、トゥリウスは神妙な顔を作り直して続ける。
「まあ、これも一つのお詫びの印です」
「ほう、詫びとな?」
「ええ。聞こえの悪い話で恐縮ですが、僕など兄と比べてどうにも不出来なものでして。幼時より兄に迷惑を掛けること夥しく、この年になってそれを恥じる気持ちが湧いて参りました」
ライナスの眉根が険悪に寄った。どの口でそんなことをほざくか。子爵の分際で今も着々と貴族の派閥を整え、この兄に拮抗しようなどと企む身で、笑止な言を。
そんな思いが胸中に渦巻くが、客の前である。自制はしなければいけなかった。苦みの走った舌を整え直すように、ケーキの残りを口に放る。
「兄はそんな僕を子爵にまで引き立てて下さり、所領まで割かれました。返しても返し切れぬ過分なご恩です」
「辺境の地マルランを与えられたことが、か?」
「エリシャさん」
挑発的な言辞に、シモーヌが窘めの声を発する。が、トゥリウスは構わないと首を横に振った。
「辺土といえど、将来性に富んだ土地です。事実、新たな銅山を始めとして、思いがけない新産業を興せてもいます。そんな場所を任されたのです、兄の慧眼と言う外無いでしょう。まあ、ダンジョンなんてものまであるとは思いませんでしたが」
薄っぺらい笑みを浮かべながら、悪魔が何かを言っている。
ライナスは聞いていて胸が悪くなってきた。菓子の甘ったるさや味の濃い食事の所為では無い。心の底からのむかつきが、胃の腑を黒い針で刺激している。耳を押さえて蹲りたい気分だった。
「お陰様を持ちまして、王都の屋敷に籠っていては得られないような知見も多く得られました。これも全て兄から頂戴した御恩と言えましょう。……本当に、今の僕があるのは兄のお陰なのですよ」
やめろ。
頼むから、これ以上続けるな。
「ですから、大恩ある兄と大切なそのお客人に、僕の精一杯の心尽くしを味わって頂きたく思ったまでのこと。ただ、それだけですよ。ねえ――」
言って、トゥリウスは目線を動かす。
こっちを見るな。
お願いだから、今だけは私の方を向いて話し掛けて来るんじゃない……!
そんなライナスの願いも虚しく、トゥリウスはその視線を兄にピタリと据えて言葉を結ぶ。
「――僕は本当に、貴方へ感謝していますよ? 兄上」
我慢ならず、席を蹴立てて立ち上がる。
満座から怪訝そうな視線が注がれるが、ライナスはそれに意を払うことすら出来なかった。
「すまんが、酔いが回った……中座させて貰う」
絞り出すようにそう言うのが精一杯である。
「ちょ、ちょっと、あなた?」
珍しく心配げなシモーヌすら振り払って、ライナスは食堂の外へ向かって早足で歩く。その背に、最も聞きたくない男の声が追い縋ってきた。
「おや、酔ったということは湯浴みの方はご遠慮されますか? 浴場でふらついて倒れられては危ないですし」
「……当たり前だ。部屋で休む」
振り返りもせず言い置いて、食堂を出る。
伯爵家当主が客人を放って中座するなど、褒められたことではない。だが、それよりも何よりもこれ以上トゥリウスと同席などしていられなかった。
あの男は何と言った? 自分があるのは兄のお陰? 本当に感謝している?
そんな馬鹿な。ライナスがしたことは彼の邪魔ばかりの筈だった。実験と称した奴隷殺しを止める為に王都から放逐した。その先を領内で最も貧しく汚職も蔓延る僻地にした。新たな家臣の中に間者も混ぜた。居館完成の祝宴に密偵も送った。婚儀にかこつけて陰謀を行い、最も大事であろう手下を奪う策にも加担した。
その全てが、まるで無駄なのだと、逆に己を利するばかりなのだと、宣言したに等しい言葉だ。
そして客観的に見れば、その言は全く以って正しいのである。今やマルランは急速に栄えだし、トゥリウスは中立派の貴族を多数取り込んで派閥の長にすら収まっているのだ。王都から追放する前より、格段に大きくなっている。ブローセンヌに留め置けば、単なる血に酔った異常者で済んでいたというのに。
――そう、何もかも無駄なのですよ、兄上。
――貴方のやってきたことは、全てが無価値で無意味。
――いや、逆か。寧ろオーブニル家にとって有害ですらある、と僕は思うんですが。
――どうでしょう、ねえ兄上? どうなんです兄上? 何とか言って下さいよ、兄上?
残像の中のトゥリウスの笑みが歪み、嘲笑へと変じる。
(うるさい、笑うな、喋るな! 屑が、塵が、糞がっ! 生意気にも人間を真似て声を立てるなァ!)
早足はいつの間にか疾走に変わっていた。ライナスはまるで背後から何かに追い立てられるように走り、居室に駆け込むと鍵を掛けてベッドに身を投げ出す。
夜の涼気に晒されていたシーツは冷たく、柔らかさとは裏腹にライナスを拒んでいた。
「うううっ……! 嫌だ、もう嫌だ! 頼むから私を王都へ帰してくれ!」
頭を掻き毟り、ベッドに顔を押しつけながら泣き言を漏らす。
もう我慢出来ない。トゥリウスと顔を合わせたくない。アレと同じ屋根の下で同じ空気を吸いたくなどなかった。何年も何年も我慢を重ね、何度も何度も排除を試み、しかしその全ては無駄どころか逆効果だと、寧ろ感謝しているなどと言われたのだ。薄笑みを浮かべつつ、平気な顔でそんな残酷なことを言う輩。そんな化け物とこれ以上付き合いたくない。
かと言って、逃げ出すことは出来なかった。領地を視察し統治を見直すのは伯爵家当主としての仕事であるし、ライナスを送り出したのはラヴァレら中央集権派の意向だ。二重の義務に雁字搦めに縛られている。誰も代わってくれないし、助けの手さえありはしない。王国伯爵の地位にありながら、ライナス・ストレイン・オーブニルは全くの孤独だった。
「助けてよ、母様。父上、何であんな化け物を産ませたのですか。ラヴァレ、頼むからアレを早く殺してくれよぉ……」
うわ言は徐々に幻覚めいた色を帯び、過去と現在が混在しだす。心が疲れ切り、打ちのめされているというのに、身体の方は騒ぎ出したくなるほどの熱気を帯びて疼いていた。精神と肉体の不均衡が、ますますライナスを破綻の淵に追いやっていく。
一人きりの暗い部屋に、ガリガリと爪を齧る音が響く。堪りに堪った鬱憤が、自傷の衝動に転嫁しつつあった。歯が指肉を食い破りダラダラと血が流れても、ライナスは止まれなかった。この状態が長く続けば、次は手首に剃刀を当てるか、それとも首を括るかもしれない。
だが、そうなる直前、
「あなた? ……ライナス、何をしているのよ明かりも灯さずに」
扉が開き、廊下の明かりが室内に差し込む。
それを背にして逆光に浮かび上がる、女の影。
(だ、れ、だ……?)
パンク寸前の脳味噌が空転し、胡乱な記憶の中から前後の状況に合致する光景を呼び覚ます。
暗い室内。女。疲弊しきった自分。獣のように息を荒げる自分。薄闇の中の女の影。
(ああ、そうか……)
混乱に見舞われた精神と晩餐で摂った酒精とが、早合点の回答をライナスに齎す。
ああ、そうだ。目の前にいるのはあの女だ。
――私の奴隷だ。
あの時と同じように、私に打たれに来たのか。抱かれに来たのか。
「…………」
フラッシュバックする記憶に衝き動かされ、ライナスはベッドから身を起して女に近づく。逃げられぬように片手で髪を掴み、もう片方の手で扉に鍵を掛けた。
嬉しかった。こんなにも自分が苦しい時、辛い時、傍に来てくれる人がいただなんて。この苦しみを引きうけてくれる人が、助けてくれる人がいるだなんて。
「痛っ! ちょ、ちょっと! やめてよ、痛いじゃない! ライナス? ねえ、聞いているの!?」
抗議の悲鳴を上げる女に、ライナスは優しく微笑む。もしその表情を照らす光があったとしたら、見る者に狂った笑みだと思わせるような顔だったかもしれない。
「黙れよ、婢が」
歌うようにそう命令した。
奴隷風情が、そんな風に主人を呼び捨てにするなどしては、いけないではないか。彼女はもっと、怯え媚びるような声で自分を呼ばなければいけない。そうしてこの自分が上に立っているのだと、いつものように優しく安心させてほしい。
だからライナスは、いつも通りに女を腕尽くでベッドに引っ張り、その上に投げ落とした。
「きゃっ!? ちょ、なに? ……何なの!?」
常に無い激しい抵抗を、好ましく思う。
この手で押さえ込んで、彼女に存分に無力感を味わって貰おう。改めて自分が上であることを認めさせよう。これはきっとその為の趣向なのだ。彼女はいつも、そうやって自分を満足させてくれたのだから。
ライナスはケタケタと笑いつつ、ベッドの上へ覆い被さった。
愛しているぞ、と生まれて初めて認め、囁きながら。
※ ※ ※
「もう駄目だ……私はもう駄目なんだ……」
その男は力無く座り、虚ろな調子で呟き続けていた。地位を示す帽子を脱ぎ捨て、薄くなりかけた頭を掻き毟り、絶望の表情を浮かべ続けている。
そんな男の様子に、部下は呆れたように溜息を吐いた。
「大丈夫かな、この人」
「駄目なんじゃないかな、しばらくは」
別の部下が肩を竦めながら相槌を打つ。
「しかし、そんなにショックなのかね?」
「仕方無いさ。何せ奴隷に負けたんだし――」
「……負けたって言うなァ!!」
バァン、と俎板を手で叩いた男に、部下たちは一斉に竦み上がった。
ここは厨房。男はオーブニル伯爵家の料理長である。伯爵夫妻や客人の為に料理を拵える為、今回の帰領に帯同して王都からやってきたのだ。
しかし、この初日の晩餐で包丁を振るったのは、神聖な調理場を任せるに相応しくない卑賤な女奴隷。彼はそれに異を唱えて厨房から追い出そうとしたのだが、
『その前に、少しお口を開けて下さい。はい、そのまま――では、ご賞味下さいませ』
と、口内へ投げ込まれた料理の味に思わず絶句。王都から意気揚々とやって来た男は、試作品のキッシュ一切れの味に打ちのめされ、逆に厨房を追われることとなったのである。
料理長はしばらく茫然自失としていたが、我に返った途端に今度は憂鬱に沈み……そして今に至るという訳だ。
「わ、私はあの野蛮な女奴隷なんぞに負けておらん! そ、そうだ、イカサマだ! きっと味を変える魔法の薬でも料理に混ぜたに違いない! 何でもあの女、錬金術師かぶれのお付だからな! おのれ、あの売女が! 次男坊に尻を振って怪しい薬を強請ったに決まっている!」
今度は躁的に自己弁護を並べ立て、自分を打ち負かしたユニのことを罵る。上司の見苦しい姿に、部下の料理人たちは揃ってお手上げのポーズを取る。彼らとて生意気な鉄面皮の奴隷と、残虐で悪名高いその飼い主のことは嫌っていた。とはいえ、直属の上司に「人としてこうはなりたくない」と思わせられる振る舞いをされると、どちらの味方をすればいいか分からなくなる。
「まあ、そう仰るなら……明日からは貴方の包丁で伯爵様方を楽しませればよろしいかと」
「そうですよ。アレがここに立つのは今日だけという話ですし」
「ふんっ、当然だ! この私がブローセンヌの味、すなわち王侯貴族の味という者を、諸人に教え込んでくれるわっ!」
鼻息荒くそう宣言する料理長。
部下の一人は彼に、厨房の隅に転がっている盥を指し示す。
「ではまず、同じ食材を用いた料理で格の違いを見せつける、というのはどうでしょう?」
「へ?」
料理長は、言われて初めてその盥に気付く。
数人がかりで運ぶような大盥だ。その中は水で満たされており、何匹もの生きた鰻が身体をくねらせていた。
「な、何だこれはァ!?」
「何だって、どう見ても鰻でしょう」
「それは分かるわ、阿呆垂れが! どうしてここに鰻がおるんだ!?」
「はァ……何でも発注のミスで食材が多く届き過ぎたのだとか。折角だから明日からの担当者の方にも使って頂いて下さい、とか言ってましたね」
言って、鰻を一匹器用にも掴み取る。ぬらぬらとした長い身体を持つ魚は、部下の手の中で放せと訴えるようにのたくった。
「活きが良いですね、これ。この分なら今週中は美味しく頂けますよ」
「あ、よく見たら中に亀もいる。……痛っ!? この亀、噛む! 人を噛みやがった!?」
盥の中の食材と戯れる部下たちを見ながら、料理長の肩がずるりと落ちる。
明日からの献立、そしてそれを味わった貴族たちが何を思うかを想像して、だ。
「お、同じ食材……? それを使えというのか? あんな美味い、じゃない、奴隷が作った料理と、同じ食材を……? は、はははは……」
当然ながら、同じ食材を用いた料理を皿に載せて出せば、食べる者は前の物とその味を比較するに違いない。もしもその結果、奴隷以下の味しか出せないなどという烙印を押されてしまったら?
料理人、失格。
オーブニル伯爵家の厨房に立ち入る資格無し。
そんな文言の数々が、脳裏を過る。
「終わりだ……やはり終わりなんだ……私はもう駄目だ……」
男は再び絶望に沈んだ。暗澹とする自分の料理人生活の前途を思うと、そうせざるを得なかった。
鰻たちは盥の中を我関せずと泳ぐ。人間たちの悲喜交々も、いずれ俎板に載せられる自分たちの運命も知らぬまま、窮屈な水の中を泳ぎ続けていた。




