055 ライナス・オーブニルの肖像
「何故、アレの好き勝手を認められたのだ」
ヴォルダンの館、その寝室。荷物を置き旅装を解くや、ライナスは出し抜けに言った。言われた相手であるエリシャは、何やら部屋を探っていた手を止め、いかにも面倒そうな顔で振り向いた。
「そう神経質になることもあるまい」
返事はそれだけ。用は済んだと言わんばかりに、再び作業に戻りだす。その振る舞いは、余りにもライナスの癇に障った。
「今神経質にならんで、いつなるというのだ! トゥリウスめが全てを掌握した屋敷で、今後寝泊りしろとでも言うか!? 奴がその気になれば、今夜にでも寝首を掻きに参るぞ!?」
「そうさせん為に、こうして私が自ら貴公の部屋を検めておるのだろうに」
「ああ、そうだな! あ奴を追い出してからなら、もっと念入りに調べられただろうがな!」
「いちいち怒鳴るなよ。肝の小さな伯爵様だな」
肩を竦めつつ、エリシャはようやくこちらを向いた。その顔には小さく苦笑が刻まれている。
「この部屋には何も仕掛けておらぬ。探知の魔法にも何一つ掛からんかった」
「……でしょうね。余りまともに取り合わないで頂戴、エリシャさん。全部この人の取り越し苦労なんだから」
そう言って溜息を吐くのはシモーヌだ。夫婦の寝室なのだから、共にいるのは当然である。険悪な間柄の夫より、彼と対立する弟の方に同情的な彼女としては、トゥリウスがライナスを害そうとしているなど想像の埒外なのだろう。
一度、例のブローセンヌ大火の首謀者も奴である可能性がある、と諭したことがあったのだが、
「冗談にしても趣味が悪すぎるわよ」
と、一蹴された。
続け様にはこうも言われている。
「私の両親を殺した罪まで、彼に着せるつもり? あの日、あんな大怪我を負って命も危ぶまれた彼に? ……第一、あなたは最初、ラヴァレ侯爵の陰謀だって騒いでいたじゃないの」
その後、いつも通り口論に発展して意見が物別れになって以来、この件に関しては触れないことが暗黙の了解となっていた。
話を現在に戻そう。
そんなシモーヌの言葉に対し、エリシャは首を横に振る。
「さて、それは楽観的に過ぎる意見だと思うがな。部屋には何も無しと油断させておいて、別の手で伯爵を狙うやもしれん」
意外な発言だった。元よりエリシャが口を挟まなければ、トゥリウスをマルランに追い返せる目もあったのだ。それを擁護した本人が、トゥリウスの害意を認める。どうにもしっくりと来ない意見ではないか。
「では、何故アレの饗応を受けると返答した。みすみす虎の穴に飛び込むようなものだぞ!?」
「虎穴に入らずんば虎児を得ず、だよ。弟御にその気があるなら、仕掛けてきたところを返り討ちにも出来よう。そうすれば伯の憂患は一挙に片が付き、我らも護衛などに煩わされずに済む」
「エリシャさんは彼のことを疑っておいでなのかしら?」
シモーヌが不安げに言う。馬車での会話で味方と思っていた相手が、その実、夫や王都の陰謀家と意見を一にしていたなど、信じたくないのだろう。
果たして、エリシャは少し考えてから口を開く。
「さて、な。疑っていると言えばいるし、疑っていないと言えばいない。彼のことは伝聞でしか知らんのでな、あの爺や伯爵は随分と悪し様に言っているが、私は自分で見聞きしたもので判断する。故にトゥリウス・オーブニルに気を許す気は無いが、かといって一方的に排除するつもりも無い」
「玉虫色というものの見本だな。貴女は一体、どちらの味方だ」
「少なくとも伯と夫人には味方するだろうよ。何せ護衛の対象だ」
「その護衛対象を虎穴に放り込んでおいて、よくも言う。大体、部屋に何も無いとはいえ安心など出来るか。晩餐に何ぞ盛られたら、如何とする!?」
勢いの余り、ライナスは思わず部屋の壁を殴りつけていた。大きな音を立てるが、鉄火場に生きているエリシャは勿論、シモーヌでさえ眉一つ動かさない。夫の癇癪には慣れている、という顔だった。
言われたエリシャは、呆れ返ったように肩を竦める。
「毒の心配なぞ、端から無用だろう。何せ例の王太子暗殺事件以来、毒検知や解毒の礼装の類はこの国の貴族の嗜みであるからな」
確かに七年前の事件以来、王太子の二の舞を恐れた高位貴族たちは、こぞって毒殺対策に礼装を帯びている。それからは一度も、毒による暗殺は成功していない。ライナスは無論のことシモーヌも、毒に近づくと反応するペンダントを身に付けている。
それに、とエリシャは付け加える。
「洗脳の対策、とやらもしておろう? 何せ貴公ら、彼の勢力拡大の手口を洗脳によるものとみているのだからな」
「当たり前だ。対洗脳用の魔法を込めた指輪をしている。掛かるのを予防するのは元より、嵌めさえすれば既に掛けられている術の効果を解くことも出来よう」
ライナスは右手の中指に嵌った真鍮のリングを示す。伯爵である彼が帯びるには些か安っぽいが、方々に手を尽くして手に入った礼装がこれなのだから仕方無い。
「毒殺はまず不可能。洗脳も対策済み。では、実力行使か? それは露見した時の始末に困るし、そもそも我々が警護に就いている中では難しかろう。トゥリウス子爵が直接的に貴公らを害することなど出来ぬよ。ならばこの屋敷について、何を思い煩うことがある?」
女騎士は抜け抜けとそう言ってのける。
「つまりは、シモーヌと同じく取り越し苦労と言いたいのか?」
「少し違う。向こうが何か仕掛けてくるなら、証拠を押さえる好機だと言っている。それも安全に、だ。まあ、何もしてこないなら、それに越したこともないがな」
だからどんと構えているがいい――そう言ってエリシャは身を翻す。
「待て、どこへ行く?」
「新婚夫婦の寝室にいつまでも居座るほど、無粋ではないのでな。……冗談だ。部下と少々打ち合わせをしてくる。護衛の担当者は扉の前に残すから、安心しろ」
際どいセリフを吐いておいて、女騎士は退出した。
残されたのは、一層気まずい空気が間に漂う夫婦だけだった。
「まったく……あの女も考えているのかいないのか」
返事を期待せず、独り言のつもりで毒吐く。エリシャはああ言っていたものの、出来るならばトゥリウスは追い出した方が良いに決まっていた。ライナスに対して仕掛けるなら、何も暗殺などの直接的行動でなくとも、政治的謀略など打てる手は幾らでもある。それを相手にイニシアチブを握られた今、受けてしまう恐れがあるのだ。それを分かっているのだろうか?
……分かってはいまい。何しろ政略結婚を嫌って家を飛び出したような女だ。政治向きの事に関しては無知と見える。第一、バルバストル侯爵家は地方分権派の大物である。その娘が王の手勢である近衛に入った上、中央集権派の首魁・ラヴァレとも知らぬ仲ではない素振りを見せていた。貴族社会の常識を欠片でも知っていれば、絶対に出来ぬ立ち回り方だろう。
苛立ちを募らせるライナスに、シモーヌが窘めるように言う。
「そう邪険にしなくても良いでしょうに。あの方も私たちを思って言っているのよ?」
「はっ、どうだかな……」
何しろ伯爵であるライナスに欠片ほどの礼儀も払わぬような女だ。こちらを慮るというなら、多少の謙りは見せるべきだろう。アレは思ったことをそのまま垂れ流しているに違いない、とライナスは見ていた。
「まったく、あなたという人は誰彼構わず嫌うのね。あなたが人の事を褒めている姿なんて、出会ってから今まで、一度も見たことが無いわ」
「フンっ。どういう訳だか、そんな連中ばかりが私の周りに集まってくるのでな。我ながら嫌になる」
「で、その中には私も入っているという訳ね。そんなにお嫌なら、別れて差し上げましょうか?」
痛烈な皮肉に、身が竦んだ。
別れる、という言葉の裏を思わず類推してしまった。家の奴隷に手を付けていることが知られたのか、と。
「……馬鹿なことを言うな」
自分に言い聞かせるようにそう言う。
そう、馬鹿なことだ。先年に実家が潰れて後ろ盾が無く、家中の鼻つまみ者であるトゥリウスと親しい彼女は、家臣からも靡かれていない。浮気を讒言する者などいないだろう。女の勘、というものもあるが、シモーヌにその種の感性は乏しいと見える。何しろ、あの紛れも無い狂人の実態すら、未だに誤解したままなのだから。
その女は、やはりライナスの気など知らぬげに続ける。
「あら、あなたの大嫌いな仲人殿のことでも気に病んでおいで? エリシャさんの言葉じゃないけど、本当に肝が細いわね」
「……」
「弟であるトゥリウス卿が憎い。でも、その為に手を組んだラヴァレ侯爵も嫌い。それで今度は侯爵に付けられた護衛も? 本当にどうしようもないわね、まるで我儘な子どもじゃない」
「……黙れ」
「私には口を開く権利すら認めないと? 言葉も聞きたくないほど嫌な女だって言うなら、遠慮せずにお捨てになったら? 伯爵閣下のお力なら、そんなこと他愛も無い筈――」
「黙れと言っているっ!!」
妻の言葉を遮る声は、悲鳴に似ていた。
目の前に立つ女のことが、欠片も理解出来ない。何でそんなことを言う、何でそんな顔をする、何でそんな目で自分を見る。全てがまるで理解の外で、人間の形をした別の生き物と話しているような気分だった。
離婚などしたら、ライナスやラヴァレも困るが一番困るのはシモーヌだ。実家が絶え、それも寒門であった彼女に、再婚の当てなど無い。勿論、食うに困らないだけの金はライナスが出さねばならないが、それにしたって生活の規模は大幅に小さくなる。或いは身分の低い男が爵位目当てで再婚相手になれば、ポントーバン男爵家再興という芽もあるかもしれないが、それにしても分の悪い賭けではないか……。
つまりは、そんなことも覚悟の上で離縁を口にするほど、ライナスのことを嫌悪しているのだろう。
「何事でしょうか、伯爵閣下!?」
扉を開けて、むさ苦しい顔をした騎士が飛び込んで来る。エリシャが残していくと言っていた護衛だろう。大声を上げたので、変事でも起きたのかとでも思ったのか。
ライナスは鬱陶しげに手を振った。本人は気付いていないが、その顔は病人の如く青褪めている。
「……何でもない」
「はっ! しかし、随分と大きな声が――」
「何でもないと言っておろう!? それと、近衛の連中はドアをノックするという作法も知らぬのか!?」
察しの悪い騎士に、更に苛立ちを募らせる。そんな夫の様子に、妻は複雑な思いを孕んだ視線を向ける。呆れと苛立ちと嫌忌と僅かばかりの憐憫、おおよそプラスと言い難い感情ばかりが入り混じった視線を。
「ごめんなさいね。この人、何と言うか……こういう人だから」
「は、はあ……では、問題無いのですね? 失礼しました」
シモーヌのぞんざいな説明に、不承不承ながら納得の言葉を返し、騎士が退出する。
まるでライナスが狂人でもあるかのような扱いだった。狂っているのは、弟の方だというのに。
そんな連想が浮かぶのが、また不愉快だった。
「……少し出る」
「どちらへ?」
踵を返して外へ向かうライナスに、シモーヌが興味無さげに聞く。
――知りたくもないなら、聞かなければいいだろうに。
そう思いながら、乱暴に返事をする。
「散歩だ。領主が領地を歩くことに、何の問題がある」
本当は外を出歩きたくなどなかった。トゥリウスが何を仕掛けてくるか分からないのだ。だが、それよりもこれ以上、シモーヌと一つの部屋に居続けるの苦痛の方が大きかった。
彼女も同感だったのだろう。新婚の頃からは想像も付かないような、毒々しくささくれ立った笑みでそれを送る。
「あら、そう。どうぞご自由に、伯爵閣下」
「……フンっ」
苛立ちのままに、突き出すように扉を開け、叩きつけるように閉めた。
外に控えていた騎士がまたギョッとしたような顔をするが、無視して廊下を歩く。何度か背後から声が掛かるが、おざなりな返事で茶を濁した。途中、度々首輪を付けた生気の無い奴隷どもと擦れ違うのを不愉快に感じる。
(これでは誰の屋敷かも分からんではないか)
ここはまるで、いや実質的に先に来館していたトゥリウスの支配下にあった。屋敷と領地の管理をしていた家臣は、出し抜けに大荷物を抱えて現れた本家次男を前に、断りの言葉を挙げられなかったらしい。王都より離れたヴォルダンでは、奴の悪名も今一つピンと来なかったのだろう。手紙でももう少しきつく言い渡しておくべきだったろうか。
(……息苦しい)
屋敷中どこに行っても、トゥリウスの奴隷どもの目、目、目。感情の窺えない、つまりライナスのことなどどうとも思っていない瞳の数々。貴族として傅かれることに慣れきった彼にとって、それらの視線には物理的な圧迫感すら感じる。屋内では人心地付けるどころではない。
なので、外へと出た。
一人、高原の涼やかな夏風に吹かれて、ようやく生き返った気がする。
「ふーっ……」
夕暮れ時の高地の空気は、夏と言えど冷たい。それが逆に何とも爽快だった。身体にへばり付いていた見えない汚れが、残さずこそぎ落とされていくようにすら思う。
「まったく、どいつもこいつも碌でも無い女ばかりだ」
心の奥底に溜まっていた澱も、釣られたように吐き出された。
だが、こちらの方は直ぐには消えてくれなかった。口に出せば出すほど、後から後から喉をせり上がって来る。
「節穴の目をした悪妻に、あばずれの女騎士。おまけにトゥリウスの奴隷どもと来た! 何故、この私が女どもなどにかかずらわせられるのだ!?」
苛々が募って仕方無い。王都でならばこういう時、格好の捌け口があった。気弱で鈍臭く、口が固いことだけが取り柄のような、あの女奴隷。帰領するのに大した役も負っていない奴隷を伴うは不自然かと、本邸に置いて来たのが裏目に出ている。ライナスの憤懣の引き受け手がいないのだ。
思い出すだに、惜しい選択だったと思う。シモーヌとの夫婦関係は、昨年に最悪の形で始まって以来、一向に改善の兆しが無い。後継ぎを儲ける為と、義務感だけで夜を共にするのも限界に近かった。その点、アレは実に良い。貴族の令嬢である妻には憚られることも出来るので、度を忘れてのめり込むのもしばしばである。それでいて一言半句も文句を言わず、畏まって自分に全てを委ねる様が、男の自尊心を満足させる。たかが男爵令嬢の癖に、気位だけは高いシモーヌなどより、よっぽど――
「待て、何を考えている……」
危険な領域に進みかけた思考へ、慌てて待ったを掛ける。
ただでさえ、貴族の正妻に黙って女奴隷を囲っているというタブーを犯しているのだ。その上、内心でとはいえ仮にも貴族の女を、奴隷より下に位置づけようと思うなど、真っ当な思考ではない。
よもや知らぬ間にトゥリウスに洗脳されたかと思うが、礼装には何の反応も無い。
それでは、この考えは全くライナスの本心だということに――
「違う……そんなことが、ある筈が無いっ!」
力無く、夏草の上に膝を突く。我武者羅に、何度も地面を叩いた。
「私は誰だ? ライナス・ストレイン・オーブニル、ヴォルダン領主、王国伯爵、そして貴族だ。父上やあの屑とは違う、立派なオーブニル家当主なんだ! そんな人間が、このようなことを思う筈が無い。ありえない、ありえないんだ……っ!」
誰が聞いている訳でもないのに、言い訳めいた言葉が口から漏れる。
放蕩の限りを尽くし、自分の無能を必死に糊塗し、挙句は見当違いに目を掛けていた次男の狂気に触れて怯えながら死んだ無様な父。
母を死なせて産まれ、奴隷を殺して育ち、父を狂死させ、証拠こそ無いものの今も悪行の限りを尽くしているであろう悪魔じみた弟。
そんな連中と自分は違うのだと、何度も何度も繰り返す。
無いことに、目からは涙すら溢れてきた。我ながら無様に思い、何度も手の甲で擦るが、塩辛い水は後から後から湧き出てくる。
「う、ぐっ……あああああああああっ! うああああああっ!」
夏枯れの原野に一人座り込み、滂沱の涙を流しながら叫ぶ男。
今のライナスを余人が見れば、弟と比べてどちらが狂人であるか、真剣に頭を悩ますに違いない。
実際、彼は狂って当然だった。多感な青春期を殺人鬼である肉親に怯えながら過ごし、それを排除することも出来ず、大人になってから出会った者たちもその心に負った傷を癒すことは無かった。ラヴァレのようにつけ込んで利用する者、シモーヌのように目にも入れぬ者、多くの貴族のように嘲弄の種とする者、そして今も傷口を拡げ続けるトゥリウス。そんな人間に囲まれながら、気丈に正気を保てというのは酷だろう。ライナスが今日まで人目に触れる場所で狂態を晒さすことも、また耐えかねて自殺を選ぶこともなかったのは、奇跡に等しい。
精神の限界が近づく足音を聞きながら、ライナスは一人泣き続ける。
彼が再び正気付くのには、晩餐が差し迫る刻限に至るまで時間を要した。
※ ※ ※
時は僅かに遡る。
伯爵夫婦の寝室を辞したエリシャは、宛がわれた部屋へと戻っていた。貴族の客を泊める為だろう部屋は、間取りこそたっぷりと余裕を持っているが、調度品の類はどうにも古臭い。掃除が行き届き埃一つ落ちていないが、年月の風化を感じさせる室内の様子を思うと、不気味さを伴う違和感すら感じる者もいるだろう。
もっとも、エリシャ・バルバストルがそんな繊細な感性を持っている訳は無い。広い、古い、まあ寝泊りに不自由は無さそうだ、くらいにしか思っていなかった。
「お帰りなさいませ、団長。既に全員集まりましてございます」
「おう、アル。ご苦労」
入室した彼女は、起立して出迎えた部下の声に、小さく手を挙げ鷹揚に答える。
部屋の中に集まったのは、五名の部下。それぞれ二十人の部下を率いる隊長が四人、そしてエリシャの片腕とも言える副団長アルフレッド・シモン・プリュデルマシェ。近衛第二騎士団の幹部たちが集合している訳だ。
幾らヴォルダンの館が広いとは言っても、所詮は一貴族の領館。王宮のように騎士団が丸々駐屯できる筈は無い。部屋を用意されたのは団長であるエリシャと隊長格、それとライナス夫妻の護衛を担当する者が少数。残りは街に宿を取っている。
エリシャは部下たちをじろりと軽く眺め回すと口を開く。
「構わん、全員座れ」
長の許しを得て、部屋に集まった者たちはめいめいの席に腰を下ろす。空席は一つ、卓の窓側に位置する椅子だ。エリシャはツカツカと席まで歩くと、どっかりと座る。
「さて、諸君。まずはここまでの道行き、大儀であったと言っておこうか」
「本当ですな」
「馬車に便乗した姐御はよろしいんでしょうが、俺たちは騎馬ですぜ。腿が擦れるのなんので」
団長の言葉に、配下の隊長たちから次々と揶揄の声が飛ぶ。といっても、そこに悪感情は無い。子ども同士のふざけ合いめいた感覚で口にしているような、言葉とは裏腹な和気があった。。
それに対し、副団長のアルフレッドが咳払いをする。
「皆さん、余計な茶々を入れないように。それとこの方は我らが団長。姐御などと気安く呼ぶのは如何なものかと」
「かーっ、相変わらず固いねアルの旦那は」
「当然です。せめて私一人でも苦言を呈さねば、この騎士団の規律はどこまでも緩んでいきますので。……それと、私のことも副団長と呼びなさい」
「まあ、アルの小言はいつものことと置いておくとしてだ」
サラリと副団長の苦労を無にしておいて、エリシャは続ける。
「では、報告を聞こうか。軽くこの屋敷を検めてみて、何ぞ変わった点は無かったか?」
「ありませんな」
間髪入れず、異口同音に四つの声が返ってきた。
隊長の一人が四人を代表して言う。
「無論、今日だけでは徹底した家捜しは難しく、我らが調査したのは限られた部分ですがね。とはいえ、当主が使うような部屋を重点的に調べております。結果、現段階では暗殺や拉致、洗脳などの不埒な行いをしでかせる余地は見当たりません」
「右に同じく」
「俺もです」
「ふぅん……? ということはあの子爵、本当にただ兄を出迎えるつもりでここまで来たというのか?」
ポニーテールに結んだ髪を、玩具のように軽く振り回す。考え事をする時のエリシャの癖だった。その仕草に、アルフレッドが不思議そうな表情を作って聞いた。
「ご納得頂けませんか、団長?」
「大いに納得いかんな。トゥリウス・オーブニルは、仮にもあの爺と裁判を闘って勝訴を手にするような輩だ。後ろ暗い謀の類には、十二分に精通していよう。それが何も考えず、ほいほいと政敵に会いに来るものか」
「団長は子爵を疑っておいでなので?」
「ああ。……シモーヌ夫人には漏らすなよ? 彼女は義弟に好意的なようであるからな」
「一応、根拠をお伺いしても?」
副団長の惚けた問いに、美貌の女騎士団長は鼻を鳴らす。
「そんな物は簡単だ。子爵就任後の経歴を見てみろ。見事に汚れの一点も無いだろう? 以前は常に奴隷虐殺の風説で悪臭を放ち、一度は父親に悪魔祓いに連れて行かれたような悪童が、だ。普通なら衆目を引く大事の一つや二つは起こす。が、コイツは基本的に政敵からの仕掛けに対するリアクションしか取っておらん」
「悔い改め、素行を正したという可能性は――」
「無いな。彼の年齢は幾つだ? 領主となったのが十八で、今は二十歳だ。到底、完全に己を抑えられるような年齢ではないよ。どんな聖人君子でも、揉め事を起こさずにはいられなくするのが若さというもの。ましてや【奴隷殺し】と悪名を馳せた異端児だ。領主の権を握れば、必ず何か仕出かす」
権力の蜜は甘く、若さは誘惑への箍を忽せにする。令息の立場にあっても放埓に奴隷を殺し続けた男が、若いままに一地方を差配する権力を握ったのだ。何かが起きなければ、それこそ異常である。
「はははっ、現在進行形で若気の至りをなさっている方が仰ると、説得力が違いますな?」
隊長格の一人が、そう言って話の腰を折る。エリシャは頓着せずに続けた。
「そう言う訳だ。不審な点が無いのが逆に不審……くくっ、どうにも陰謀論者めいているがな。ラヴァレの爺さんも、善良な地方領主に一杯喰わされてやるような好々爺でもあるまい? はてさて、あの無害そうなお坊ちゃん面の陰に、一体どんなえげつない素顔が隠されているのやら」
「ということは、侯爵の主張なさっている通り、彼が王都大火の主犯とお思いで?」
「証拠は無いが、な。結果だけを見れば先年の大火は、あの坊ちゃんの都合の良いように運んでいる。暴徒が蜂起し街が焼かれ、政情不安定な王都は地方貴族が留まるのに都合が悪い。故に抜け出して帰るには格好の口実だ。そんな中で彼はいずこかの刺客の手に掛かって傷を負った。お陰でラヴァレの爺さんは暗殺疑惑という小さからぬ瑕疵を負い、口さがない者には放火の主犯でもあるなどと言われる始末。どうだ? 何もかも子爵の有利に働いている」
「刺されて命に係わる傷を負ったそうですよ? また自作自演にしては、躊躇い傷の類も無かったそうですが」
「愚問だな」
文字通り、鼻で笑うような返事であった。
「彼奴の傍には、それが出来そうな者がいるだろう? 元凄腕の冒険者として名を馳せており、【奴隷殺し】の片棒を担いで山ほど人体を腑分けしていそうな奴が」
「【銀狼】のユニ。例の裁判騒動の主役の一人、ですか」
副団長が唸るように言った。王国でも最精鋭である近衛騎士は、貴族のボンボンのサロンのような他の騎士団とは違う。人類共通の脅威である魔物と、それに相対して戦う冒険者の力量を見縊りはしない。甘ったれの第一騎士団ならともかく、実力主義の第二でそこを履き違えるような言を吐いた者は、その日の内に蹴り出されるだろう。
「Cランクにして二つ名を贈られるような例外中の例外だ。さぞかし腕が立つだろうよ」
「確かに彼女なら、死なないように深手を負わせることも可能でしょうな」
「加えて、今日の子爵の立ち居振る舞いを見る限り、体に不自由を負った風でも無い。命を狙う刺客に刺されて辛うじて助かり、怪我の功名で政敵の本拠から遁走することに成功し、更には後遺症すら残らない。おいおい、これはどういう幸運だ?」
「ですな」
「姐御の言う通り、臭過ぎますわな」
他の隊長たちも、エリシャの言に深々と同意した。諸侯に武威を喧伝する為、王都を離れることの多い彼らだが、元は警護を目的とする近衛である。暗殺の脅威については嫌と言うほど教え込まれているし、実戦で手傷を負い予後に呻吟する者の姿も見知っている。それらを思えば、去年のトゥリウス暗殺騒動は如何にも胡散臭い。
「惜しむらくは、一つも物証が無いことであるがな」
「カルタン元伯爵やジョゼフィーヌ夫人、それに例の裁判の証言者どもを召し寄せるのはどうです? 暗殺騒動の方は証拠が残っていませんが、裁判の方は――」
「そんなもの、あの陰謀家が既に試みているだろうさ。だが、無駄だ。幾ら洗脳を解こうと既に高等法院が沙汰を出している。今更それを覆そうとしても、証文の出し遅れさ。負けた側が往生際悪くまた騒ぎだした……そう思われるのがオチだろうよ」
「ですが、貴族を洗脳するのは重罪です。事実だとすれば高等法院とて面子がどうのと言っている場合では――」
副団長が言う通り、貴族への洗脳は暗殺と同等に重い罪である。他人の意志を捻じ曲げ恣に操るなど、下手をすれば暗殺以上に社会を混乱させてしまう。それが看過される筈が無かった。
しかし、エリシャはその論を退けるように手をひらひらと振る。
「証文の出し遅れと言っただろう? 今やトゥリウス・オーブニルは、あのドルドラン辺境伯すら組み込まれた派閥に守られている。下手に突けばそいつらが猛抗議の声を上げるだろうさ。捏造だ、濡れ衣だ、これはラヴァレの陰謀に違いない、とな。そうなると連中が中央集権派憎しの念で、地方分権派と野合しかねん。どちらも爺さんを敵とするのは一緒だからな。下手をすれば実力行使に及んで内乱だ。そうならん為には、派閥の連中から切り崩さんといかんのだが」
「――確か、洗脳解除の礼装も魔法も、効果が無かったんでしたな」
どう考えても【人喰い蛇】などと忌まれる男とは連合しそうにない貴族たち。洗脳されているとしか思えない彼らだが、実際に接触してみたところ、対洗脳用のあらゆる処置に反応が無かった。もしそうでなければ、トゥリウスなどとっくに処刑台に送られている筈である。
では、彼らがトゥリウス・シュルーナン・オーブニルと組んだ理由は? それが皆目見当も付かない。突っ込んで聞いてみても、梨の礫だという。言を左右にして煙に巻くか、それは言えぬの一点張りだとか。
「何とも得体の知れない男だろう? あの子爵」
「どうしてそんな男の歓迎を、受け入れるよう言ったのです?」
アルフレッドはこめかみを押さえ、頭痛を堪えるようにしながら言う。
トゥリウスを追い払う好機を潰したのは、エリシャの言だ。それが無ければ、あの怪人物をマルランまで追い払うことは出来たに違いない。その危険性を知っていて、何故看過するのか。
「決まっているだろう。彼奴を探るためだよ、アル」
エリシャは、あっさりとそう言った。
「王国一の寝業師である爺が、去年にあれだけ派手に打ち負かされたのも、あの坊ちゃんの手管について無知であり、目的についても無理解であったからだ。それを探り、秘密の一端なりでも掴む。そうせねば状況は悪くなるばかりだ。王国は内側から【人喰い蛇】に蚕食される羽目になりかねん。それを防ぐ為にも、多少リスクが高かろうと相手の懐に飛び込むしかあるまい。ま、威力偵察のようなものさ」
「王国最強の我ら近衛第二が、丸ごと蛇貴族への斥候な訳ですか。姐御らしい剛毅な話ですなあ」
「違ェねえ! ははははっ」
隊長たちは団長の断、快なりと笑う。騎士であり戦士でもあり、戦って死ぬことを誉れとする彼らならば、単純に豪胆な長を褒めていればいいのだろう。しかし責任ある副団長のアルフレッドとしてはそうもいかない。
「我らだけでなく、伯爵夫妻も道連れに、ですか?」
「ああ、彼らも道連れに、だ」
エリシャの返答は、いっそ冷淡にさえ聞こえるものだった。
「元はと言えば、オーブニル伯爵家家中の問題。それを王国全体の問題にまで大きくしたのは、当主であり兄であるライナス伯の落ち度だ。それを思えば、自身が人身御供になる程度の覚悟は決めて貰いたいものだろう?」
確かに、ライナスがトゥリウスを子爵などにしなければ、こんなことにはならなかった。敢えて失政を犯させ処断の口実にするつもりだったというが、見積もりが甘すぎたのではないか。現状を思えば、兄弟殺しの汚名を被ってでも、早い内に始末を付けてしまえば良かったのだ。
「……伯爵夫人はとんだとばっちりですね。夫の過失に連座して、こんな危険に巻き込まれるのですから」
「だから下手な男に嫁ぐのは嫌なのさ。女の方は己に一片の咎無く不利益を被ることになる。遣り切れぬことこの上無い」
親の決めた婚約を蹴って騎士になった女はそう嘯く。
そして、手元で弄んでいた自分の髪をパッと放した。
「とはいえ、見殺しにするほど不義理にもなれん。ライナス・オーブニル伯もあれで中々見所がある。出来る限り守ってやれ」
「まあ、むざむざと護衛に失敗するのも近衛の名折れでしょうな」
「その点はお任せを。我が隊の腕利きが伯の傍に――」
と、一人の隊長が言った時、その胸元の礼装が澄んだ音を鳴らした。通信魔法の礼装である。
「――失礼。俺だ、何があった? ……そうか。そのまま続けろ。変化があったら、その都度教えろよ? では」
「伯の護衛からか?」
「ええ。どうも夫婦喧嘩で居心地が悪くなったようでしてな。伯爵は気晴らしのお散歩に出掛けられたそうで」
白けた空気が室内に漂う。
あれほどトゥリウスの脅威を喧伝していた当人が、無防備に出歩こうというのだ。護衛の側からすれば、堪ったものではない。
「勿論、部下は気取られぬよう尾行しておりますが――」
「手緩い。陰供一人では満足に守れぬ。急ぎ増派せよ、手が足りぬならお前自身が行け。館に残った夫人の方には私が向かう」
「はっ!」
エリシャの即断に、配下の隊長は遅疑無く敬礼で以って命令を承る。口元には満足げな笑みが浮かんでいた。父と娘ほどの年齢差のある女に顎で使われる屈託は欠片も無い。寧ろ、これあるかな我らが団長、という誇らしさすら窺えた。
第二騎士団の自分たちの長に対する忠義の篤さは、つとに有名である。第一騎士団の連中は「第二にて騎士を名乗る者どもは、国王シャルル陛下の臣に非ず、バルバストルの女王の下僕なり」などと嘯いているが、前半は兎も角後半に関しては何ら誇張ではない。
何しろ、この騎士団は強さこそがその存在意義。老いも若きも男も女も一切不問。最も優れた騎士にこそ従うべしというのがモットーである。それを思えば、最年少にして唯一の女性団長に上り詰めた才媛、彼女を頭に頂くことに、何の不服があるというのか。
猛者どもに傅かれる女王は、好戦的に笑う。
「さあ行くぞ。急げよ? 一瞬たりとも護衛対象を無防備には出来んのだからな」
「勿論でさあ、姐御!」
「だから、団長のことは姐御ではなく――ああ、もう良いですよ……」
 




