表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
55/91

054 異世界の車窓から

 

 豪奢な馬車が、街道を下っていた。

 白亜の車体を彩るは金銀の装飾、それを馬蹄を鳴らして牽くのは、体格に優れた四頭の逞しい白馬だ。そしてその周囲を、物々しくも美々しい鎧で身を固めた騎馬の一団が並走。更にやや遅れて、先頭に比べ幾らか見劣りする馬車数台が追走している。

 疾走する馬車の様子を、街道沿いの麦畑で働く農夫たちが物珍しげに眺めていた。まるで絵に描いたような大貴族の御成りである。娯楽に乏しく、刺激に飢えた平民たちにとっては、格好の話題の的だろう。

 後で交わされる会話が、馬車と随行する騎士たちの見事さを称えるものか、それとも自分たちの血を搾って得た富みで贅を尽くす貴族を呪うものか、そのどちらであるかは不分明であるが。

 物見高い農夫たちは、いずれも作業の手を止め馬車の行く末を見送る。学を得る機会を与えられない彼ら平民には、貴族の馬車などどれも同じようにしか見えない筈である。

 少しばかりアルクェール王国の典礼を知る人間なら、白馬を用いていることから伯爵家以上の大貴族の物であることを見抜いただろう。権威の象徴である馬に、穢れの無い白を使うことを許されるのは、相当に高位の者に限るからだ。

 また公爵家ということもありえない。王家の血を引くか宰相、元帥の位にある公が用いるのは、希少な霊獣であるユニコーンである。乙女にしか御せぬことから純潔の守護者と謳われるユニコーンは、富貴の頂点である王の近縁にしか与えられないのだ。なお、王家と公爵家の区別は馬首にリボンが巻かれているかどうかで示す。当然、装飾に凝っている方が王家のものである。

 つまり、この馬車の主は伯爵家か侯爵家に絞られる。ここから更にどちらかを決めるとなると、車体に刻まれた紋章で判別するしかない。これが意外に難事なのである。何しろ全ての貴族は、家紋に材を得た自分独自の紋章を持つ。当主の兄弟息子に始まり親族縁戚の全てが、である。それが紋章の総数を膨大量たらしめている。細やかな違いを見抜き、紋章の持ち主を一人に特定するのは骨が折れる作業なのだ。

 では、先頭を切る豪壮な馬車が掲げる紋章をつぶさに見てみよう。

 まず紋章の全体は四角いシールド。これはアルクェールでは一般的なデザインだ。貴族の紋章というものは大概の場合、盾の形状を描く。戦場での武功争いを防ぐ為、シールドに刻んで識別に用いたとか、いやいや防御魔法の刻印が由来だとか諸説あるが、防具が発祥というのは同じだ。なお、ザンクトガレンでは歴戦の勇を誇る為に紋章の盾の一部を欠けさせる、マールベアの場合は下に向けた紡錘型など、シールドの形は国ごとに違う。紋章を見れば、どの国の貴族か判別出来る訳だ。

 さて、このままではアルクェールの貴族であるということしか分からない。次を見てみよう。

 シールドを塗り分けられている色の数はいくつか、そしてそれは何色であるか。芸術にうるさいアルクェール王国の貴族は、紋章の色にもこだわりがある。具体的に言えば王家と公爵家の紋章はシールドが三色かつ一色は青。侯爵家も三色だが、ブルーブラッドの極みにある王族を象徴する青色、これを用いることは禁止されている。伯爵家が二色。それ以下は一色だ。

 この紋章は赤黒の二色。それがシールドの盾地を中央から四分割して塗り分けられている。これで伯爵家であることがお分かり頂けると思う。

 そしてシールドに刻まれたシンボル。大概の家はここをみればどこの家系かが分かる。一口に貴族の家系と言っても、嫡流とそこから派生した庶流があり、その全てが一貫して同じシンボルを用いるのが、この国の習わしだ。これに色数と何色かを組み合わせて家を特定するのである。

 刻み込まれているシンボルは、果たして尾を咥え込み輪を描く蛇――ウロボロス。

 蛇という動物は、シンボルとしては些か人気に欠く。手足が無い、冷血である、チラチラと舌を出すのが卑しく見える、毒を持ち人を咬む種類もいる、獲物を丸呑みにする様が野蛮で残酷だ、などなど人に嫌われる理由は多い。一方で、脱皮が生まれ変わりを、長い身体が長寿や物事の継続を、それぞれ連想させるという好意的な解釈もある。また神話や物語に置いては知恵の象徴でもあるのだ。不人気ではあるが、一族のシンボルとして選ばれることも無くも無い、という立ち位置である。

 これで紋章の主が特定できた。永続性や完全性を示す円環の蛇を象徴に選んだ一族であり、伯爵家の人間。加えて煩瑣な識別印を負わない、当主にのみ許されたプレイン・コート。それはオーブニル伯爵家の現当主、その紋章に他ならないのだ。







 馬車の中は居心地の悪い沈黙に満ちていた。車上の人々は牧歌的な窓外の風景を楽しむでもなく、退屈を紛らわす会話に興じるでもなく、ひたすらに押し黙っている。針を刺せば見えない被膜に穴を開け、そこから音を立てて弾けそうな緊張感。そんな危ういバランスで成り立つ沈黙が、車内を押し包んでいる。

 向かい合わせの席に座る四人は、くっきりと男女で分かれていた。

 まずは男性。典雅な衣装に身を包んだ金髪の貴公子、ライナス・ストレイン・オーブニル伯爵。領主として自ら封地に赴く旅の途上だった。本来この馬車の所有者である筈の若い貴族は、まるで他人の馬車に乗せられているかのように硬い表情を保っている。時折、無聊の余りに座席の肘掛けを指で叩く音が手元から響き、その度に車内にいる幾人かは尚更身を固くする。

 その隣で顔を青くしているのは、彼の執事だ。家の諸事を取り仕切る役職上、この帰領に同行し主人と席を同じくしている。近侍とはいえ家臣であり、車内では一番身分が低い為か、肩身が狭そうに首を竦めっ放しだった。

 向かい合う女性。楚々とした中に夏めいたものを感じさせるドレスで身を飾る若い婦人、シモーヌ・メリエ・オーブニル。昨年にライナスに嫁したばかりの新妻も、当然ながら夫と共に車上の人となっている。だが、この夫婦の仲が婚姻の以前より宜しからぬのは公然の秘密だ。伴侶と交わす言葉は少なく、他の者と盛り上がる話題も無い。実のところ彼女は、使用人とも上手くいっていなかった。家中でも嫌忌されるあの次男と親交が深い為だ。

 最後に残った女。彼女は他の面子と比べても異彩を放っていた。

 まずもって身に纏う雰囲気が違う。硬い表情を保っているのは同じだが、その質に差異がある。ライナスたちが緊張感を孕んだ沈黙を厭っているのに対し、この女はまるで苦にした様子も無い。他の者が生きながらに凍りついたように固まっているとしたら、こちらは硬く堅くあるのが自然な彫像を思わせる。

 装いもまた異にしている。伯爵夫婦が貴族らしく着飾り、執事が礼服に袖を通しているのに対し、女は何と鎧を纏っていた。胸当てといい具足といい、果ては脇に抱えた兜といい、精緻な紋様が描かれ気品漂う拵えとなっているが、武装は武装だ。腰には細身の鋭剣すら帯びている。すぐにでも合戦場へ飛び込めそうな装備など、仮にも伯爵ほどの高位貴族と同乗する者、それも女人とは思えない。

 言葉にして聞けば、そんな非常識な装いをするなど、どんな厳めしい猛女かと身構えてしまうだろう。だが、目にすればその印象はまるで変わる。擦ればさやさやと心地よい音を立てそうな、艶めく金糸のポニーテール。白皙の顔立ちは怜悧にして鋭利で、磨き抜かれた刃を朝露に濡らしたような危うい色香が漂う。

 戦乙女か勇者の守護天使が神話から抜け出来たような美女である。

 車内の空気が居心地が悪い程度で留まり、険悪の域にまで悪化しないのも、この静かなる天女が清浄の香気を放っている故と言われても、信じられかねない。

 一方で、場の沈黙が長く続く原因、その一端も彼女だった。何しろ、存在を構成する要素からして、その全てが異質中の異質だ。圧倒される雰囲気といい、物々しい装いといい、容貌といい……。良い意味でも悪い意味でも無視し難く、話し掛け難いのである。それらの中にあっては、彼女が唯一オーブニル家に対する部外者だということも些事であった。

 そんな中、呼吸をしているかも怪しい女に対して、ついに口火を切る者がいた。

 ライナスだ。


「……起きていられるのか?」


 秀麗な顔を苛立ちにささくれ立たせながら、瞳を閉じている女に向かって言う。険と毒の籠った声に、シモーヌが微かに眉を顰めた。同乗する客に対する口の利き方ではない。

 女は非礼を感じた風も無くライナスの方を向く。うっそりと碧眼を開く仕草にすら、朝顔の開花を連想させながら。


「今のは私に言ったのか、オーブニル伯」


 女性にしては低い声。だが、不機嫌な様子は無い。それが彼女の地声なのだろう。

 耳朶を打たれたライナスは、微かに鼻を鳴らして言葉を継ぐ。


「無論だ、エリシャ嬢――」


「嬢は止せ」


 エリシャ、と呼ばれた女は鋭く遮った。ライナスはまたぞろ凍りつく羽目となる。

 彼女は語気を幾分か和らげて続ける。


「この身は、これでも歴とした王国騎士だ」


「――失礼、バルバストル卿」


「うむ、それでよろしい」


 満足げに肯くと、エリシャはまた席に背中を預けて瞳を閉じた。

 若い伯爵の表情が、再び歪む。


「貴女は、今少し真面目に仕事が出来ぬのか?」


「ん?」


「ライナス、よしなさい」


 見かねたシモーヌが口を挟むも、夫は意に介さず続ける。


「先程から目を閉じて黙りこくってばかりではないか。到底まともに警護していると思えぬ。まさか眠っているのではとまで思ったぞ」


「ああ、寝ていたぞ?」


「んなっ!?」


 とんでもない返答に、ライナスの口が開いたまま塞がらなくなった。

 寝ていた? 仮にも王国伯爵を前にして、その警護が? 非常識にも程がある。シモーヌも驚きに目を瞬き、執事も上着を右肩からずるりと滑らせていた。

 今日何度目かの硬直を強いられるライナスに、何食わぬ顔でエリシャは続ける。


「何分、護衛任務中は睡眠に回す時間が少ないのでな。襲撃の恐れが無い間は仮眠をとる。当たり前のことではないか」


「そ、そんな訳があるかっ! 神経を尖らせ、目を光らせて不意の事態に備えるのが護衛であろう!?」


「それは基本中の基本だな。私のは応用編だ。馬車の周囲は並走している者が張っている。車中にいる私はすることが無い。なら、伯の言う不意の事態に備え、英気を養っておくことこそ肝要だろう?」


 眠りを遮られて不興なのか、鬱陶しそうに言う。やること為すこと、加えて言うことまでも、全てが護衛らしくない。そんなエリシャの言動に、ライナスは翻弄されっ放しであった。


「第一、声を掛けたらすぐに起きただろうに。襲撃があったら音の大きさは先の比ではない。絶対に起きる。だから全く問題無い。……それよりも、いざという時に神経が疲れ切っていることの方が恐ろしいではないか。ハリネズミのように気を張り詰めるだけが護衛ではないよ、伯爵」


「……ぷっ」


 シモーヌが耐えかねたように小さく噴き出す。その顔を不思議そうに見るエリシャ。


「何か? 伯爵夫人」


「ふ、ふふふっ。いえ、失礼。その、貴女が思っていたのとは大分違う人だったものだから」


「むう。夫人の想像にそぐわぬ振る舞いは、した覚えが無いのだが……」


 真面目くさって考え込む女騎士に、シモーヌは尚更おかしそうに身を捩る。そしてエリシャはその反応に、ますます首を傾げるのだった。

 対して、良いようにされた上に妻の物笑いの種となったライナスは、憮然と呟く。


「まったく……本当にこれが、音に聞こえた【バルバストルの姫騎士】か?」


「……その呼び方はあまり好きではないな」


 エリシャは小さく鼻を鳴らす。


「私としては、今少し勇壮で胸躍るような二つ名で呼ばれたいものだ」


「あら、勇ましいかどうかは兎も角、胸は躍りませんこと? ロマンチックな響きだと思うのだけど」


「そのロマンチックさに惹かれて寄ってくるのは、軟弱な男ばかりさ伯爵夫人。ちまちまと心を盗みに来るコソ泥よりも、心臓を抉りに来るもののふと一戦願いたく思うよ」


「それは失礼しました。……私たち、もう少し早くお話しするべきだったかしら? これまでの退屈な時間が少し勿体無いわ」


「同感だな。寝足りないのは論外だが、寝過ぎるのもまた具合が悪い。少しは起きて時間を潰した方が良いだろう」


 一体何が琴線に触れたのか、急に打ち解け出すシモーヌ。

 噛み合っているのかいないのかも分からない女同士の会話に、蚊帳の外に置かれたライナスがそっぽを向く。


(あの爺め、またとんでもない娘をよこしおって……)


 自分とエリシャとを引き合わせた老陰謀家に対して、心中で毒吐いた。思い出すだに、あの皺だらけの得意顔が馬車の窓硝子に透かして浮かんでくるようで、腹立たしい限りだった。


(それにしても、こんな礼儀知らずのじゃじゃ馬に率いられるような連中が、本当に王国騎士の精華だというのか?)


 思いつつ、妻との会話に興じる女騎士を横目で窺う。

 王国騎士最精鋭中の最精鋭、近衛第二騎士団。極端な実力主義と過酷な選抜過程で知られる猛者ども、その史上最年少にして初の女性団長。

 それが彼女の――エリシャ・ロズモンド・バルバストルの肩書だった。

 だが、自堕落にも護衛対象の前で寝入り、今もこうして妻との談笑へ現を抜かす姿を見るに、とてもではないが信じられたことではない。よもや、またラヴァレ侯爵に担がれたのではとすら思う。

 が、


「……そう心配そうな顔をするなよ、伯爵」


 エリシャはこちらをちらりとも見ずに、ライナスを見透かしたように言った。


「え?」


「な、何を……!?」


 戸惑うシモーヌと図星を突かれ俄かに慌てるライナス。その二人を後目に、エリシャは放胆にも肘掛けで頬杖を突く。


「陰謀爺の指図に従うのは癪だが、奴には近衛を大きくして貰った借りがある。そして何より、私も騎士。それも畏れ多いことに、栄えある近衛で第二の采配を任される身だ。守れと言われた相手は、死んでも守るよ」


 必要とあらば命すら投げ出すと、恬淡と語った。まるでシモーヌとの世間話の延長のように、気負いの無い声である。

 だがだからこそ、そこに衒いの類は無い。彼女は本気で、騎士の務めの為ならいつでも死ねると思っている。それを特別なことと感じないが為に、こうもさらりと言ってのけられるのだ。

 貴族社会の陰惨な裏側を知り、虚々実々の駆け引きを幾度も経ているライナスには、それが明確に理解出来た。


「そう、……か。心強い護衛を得られて、幸いだ」


 ――この女の言葉に、嘘は無い、と。


「さっきと言っていることが違うが、まあいいか。で、夫人。何の話をしていたんだっけか?」


「え、ええ。確か……」


 そうしてまた、女同士の他愛も無い会話が再開する。

 だが、ライナスにはそれを先と同じ目で見れはしなかった。


(こやつもまた……鬼子、か)


 畏怖と不快感と共に、エリシャ・ロズモンド・バルバストルについて聞き知った限りのことを思い出す。

 大貴族バルバストル侯爵家の長女にして、女だてらに剣術に入れ上げた男勝り。その果てに決められた婚約者を柔弱と断じて拒絶し、家を出奔したじゃじゃ馬。ここまでなら、聞く者の苦笑を誘うおてんば娘の逸話に過ぎない。が、ここから先は経歴は異常の一言である。

 早晩連れ戻しに来るだろう実家と婚約者から逃れる為、来る者拒まずの実力主義を良いことに、第二近衛騎士団の門戸を叩いた。アルクェールで女性を登用している騎士団は、そこだけだった。危ぶむ周囲の声を他所に、彼女は見事登用試験に主席合格。……ただし実技試験の対戦相手であった志願者を二人を教会送りにし、内一人は治癒の魔法も甲斐無く葬式まで上げることになった。何でも試合中に女の身で剣を帯びていることを侮辱され、逆上した為だという。辛うじて生き残った方については、先方に特に非は無し、手加減はしたのだが相手が弱過ぎた、とも供述している。つまり、死んだ方はわざと殺したのだ。

 それは良い。いや良くはないのだが、あくまで強者を求める第二騎士団では問題にならなかった。彼らが問題にしたのは、他のことだ。

 恐ろしいことに当時のエリシャは、御歳十三歳。当時騎士を登用するに当たっての、十五歳という年齢制限を満たしていなかった。出願の書類には、偽名と鯖を読んだ歳を記入して提出していたのである。これには第二のみならず、近衛全体が騒然となった。規約違反となれば合格は無効とするのが至当。しかし、主席合格者という大魚を逸するのは余りにも惜しい。喧々諤々の論議の末、才幹を見込んだ当時の第二騎士団長が押し切る形で特例での合格を認めさせた。彼女は晴れて王国騎士となった訳である。

 騎士と認められたということは、実家の侯爵位とは別に騎士の位を授けられたということでもある。つまりは王国の法律上、実家とは別家となったのだ。バルバストル家はエリシャを連れ戻すことも、娘の望まぬ男と添わせることも出来なくなった。前代未聞の家出、そして婚約破棄である。二の轍を恐れた者が法典の改正を画策したが、実行には移されなかった。真似出来る者がいないからだ。

 その後、エリシャは自分に特例を認めてくれた第二騎士団の知遇に応え、大小の騒動を巻き起こすというおまけ付きで武功を重ねていった。そして十年後の今、史上最年少で王国最強の騎士団の頂点に立っている……。

 余りにも異才、そして余りにも異端。令嬢に似つかわしくない剣才といい、縁切りの為に騎士になろうなどと志す思考回路といい、そして試合の相手を死に追いやって平然としていたという心根といい、何から何まで真っ当ではない。侯爵家などという権門中の権門から、どうしてこんな女が生まれてしまうのか。

 そういう意味では、この女騎士はトゥリウスやアンリエッタ――もとい、ユニと同類だ。伝統と栄光ある貴種の子とは思えない、異形の突然変異。人の腹を借りて産まれて来た、化け物の子である。

 そしてあの忌まわしい弟の同類だというのなら、このライナス・ストレイン・オーブニルとは決して相容れない。


(フンっ……気に食わぬのも、道理か)


 改めて、そう思う。

 近衛の枢要とはいえ一介の騎士が伯爵をも歯牙に掛けない態度。血を流し命を蔑ろにすることを恥じない精神。考えれば考えるほど、唾棄すべきトゥリウス・シュルーナン・オーブニルに似た女だ。ただ、常々長生きしたいと口にしていたアレと比べ、自分が死ぬことにすら何ら痛痒を感じていないらしいのが明確な違いか。


(まあ、良い。夷を以て夷を制すという言葉もある)


 ラヴァレが言うに、トゥリウスは怪しげな薬を使っての洗脳をしている可能性があるという。今回、領地であるヴォルダンに入れば、そこへ奴の手の者がライナスも毒牙に掛けんとするかもしれぬ。それに対する備えが、国境巡検の名目で派遣された、エリシャ率いる近衛最強の第二騎士団だ。

 ライナスは、ラヴァレが自分に期待している役割を察していた。トゥリウスを釣る餌だ。彼奴が没義道にも自分へ刃を向けた時、王国最高戦力を以ってして叩き潰す。無論、見え透いた罠故、相手も躊躇するだろうが、その場合は向こうが動かぬ内に諸々の無理難題を押し付け行動の自由を奪う。

 気分は良くない。本来なら王を守るのが役目である最高の護衛を配されているとはいえ、囮か捨て駒も同然の役目である。喜んで受けられる訳が無かった。

 だが、もしかすれば今度こそ宿敵を屠れる可能性が、僅かながらある。例え向こうから手出しをしてこなくとも、こちらから濡れ衣を被せて誅するという手もあるのだ。そして、その実行の為に動くのは近衛第二。嫌な役目でありリスクもあるが、運と自身の器量次第では一挙に憂患を打開出来る。

 ……そうとでも思わなければ、とてもやっていられない気分だが。


「おっ、景色が変わったな。彼の有名なヴォルダンの葡萄畑か」


「鮮やかなものですね。始めて見ましたわ」


 ライナスの憂鬱を知ってか知らずか、女二人は呑気に窓外の景色を見やっている。

 高地の山野、そのなだらかな丘陵に、縞を描きながら広がる果樹の絨毯。赤紫に色付いた葡萄がたわわに実り、緑の中に鮮やかなアクセントを添えていた。

 ヴォルダン州は有名なワイン、特にカベルネの産地でもある。とはいえ大地と芸術の国を称する、実り豊かなアルクェール王国では、一口に『有名なワインの産地』と言っても候補を絞るのに一苦労なのであるが。


「どうかしら、あなた? 懐かしい光景ではなくて?」


 シモーヌが、珍しく機嫌良さそうに話を振ってくる。旅行での高揚に加え、エリシャとの会話で気持ちが解れているからだろう。

 だが、ライナスとしてはあまり愉快な話題ではなかった。


「私も初めて見る。何分、ほとんど王都暮らしだったのでな」


「……え?」


 思ってもみない返事だったのか、シモーヌが目を丸くする。別にライナスに意地悪をする意図があるのではない。これは本当の事だ。


「父上は、領地のワインよりアモン川の水の方が恋しかったのだろうな。当主となってより、ずっとブローセンヌにいた。当然、その手元で養育された私もな。ヴォルダンには、今日初めて来たのだ」


「貴公の当主就任後はどうしていたのだ?」


 意外に思ったのか、エリシャまで口を挟んでくる。部外者に説明するような話ではないが、彼女は実質的にラヴァレから付けられたお目付け役のようなものだ。聞かれたからには答えないといけないだろう。


「そんな暇は無かった。一昨年は当主交代間も無いので、王都でこなすべき庶務が山とあったのだ。先年は婚儀もあったし……色々と付き合いも、な」


 言ってみるだに馬鹿馬鹿しい話だった。先代は王都での遊興に溺れ、その下で育った当代は、相続から二年も経てから初めてこの地を踏む。ヴォルダンという土地は二代続けて、紙の上でしか領地を知らない領主を戴いた訳だ。

 それを聞いたエリシャは、チラリとライナスを値踏みするような目で見る。


「ふぅん? それにしては目立って荒れている訳でもなし、か。街道沿いに限った話かも知れんが」


「……最近の近衛は、警護だけでなく監査まで請け負っているのか?」


「あなた」


「いや、良い。確かに僭越な発言だったな。私が悪かったよ、許せ伯爵」


 そしてくつくつと愉快そうに笑いだす。


「貴公も中々に見どころのある御仁だ。あの爺がわざわざ手を貸しているだけはあるな」


「何が言いたい?」


「大したことではない。まあ、案外と守り甲斐のある護衛対象で良かったという話さ」


「……ますます意味が分からん」


 ライナスは今度こそ完全に窓の外へ目をやって、得体の知れない女騎士にそっぽを向けた。

 ニヤニヤとうすら笑いを浮かべながら、含みを持たせたような口を叩いてこちらを煙に巻く。そんな態度が、やはりあの狂人を連想させて不快だった。やはりこの女とは、なるべく口を利きたくない。ライナスはそう思う。

 そして、そういえば、と思い出す。

 今回もまた、トゥリウスの嫌悪感しか湧かない顔を見る羽目になるのだった。伯爵が領地に戻る以上、分地を任せている子爵と会わない訳にはいかない。また向こうが会うのを渋るなら呼びつけるも役目の内だ。

 何とも気が重くなる仕事である。が、物は考えようだ。逆に言えばこの地にいる間、あの男に好きに命令を下すことも出来る。そしてそれが守られているかどうか、監査を行うことも、失点があれば叱責し罰を下すことも。

 ならば精々、その仕事に励ませて貰うとしよう。あの男はゴキブリの如き不快な害悪だ。視界に入って気分を損なうというのなら、追い回して叩き潰してくれる。

 領地の館に着いたら、まずはマルランに閉じこもっているだろう奴を引っ立ててくれよう。何のかんのと言い訳を付けて愚図るようであれば、近衛と共に乗り込んでやってもいい。マルラン郡とてヴォルダン州の一部だ。名目上、巡検の対象とすることも出来なくはない。

 馬車が目的地に着くまでの間、ライナスはそんな算段を張り巡らせていた。







 ――が、そうは事が運ばなかった。


「やあやあ、お久しぶりです兄上! それに義姉上も! この度は遠路の旅路、お疲れ様でした」


 州都ヴォルダンを一望する小高い丘。その上に建つ屋敷の前でライナスらを迎えたのは、家臣らしき者どもを従えたトゥリウス・シュルーナン・オーブニルの能天気な挨拶だった。

 下車した途端に掛けられた声に、ライナスは思わず驚きの余りに跳び上がりかけた。執事の男などは一瞬で顔を青くして、


「ひっ!?」


 と、短い悲鳴を上げたほどである。

 一方でシモーヌはと言うと、多少面食らって目を瞬いたものの、すぐにどこか嬉しげに返事を返す。


「あら、トゥリウス卿。出迎えご苦労様。こちらこそ、お久しぶりね」


「義姉上もお変わりない――いえ、お元気になられたようで何よりです」


 二人がにこやかに笑みを交わした辺りで、ライナスもようやく硬直が解けた。

 ギギギ、と錆び付いた音を立てそうな動きで、トゥリウスに向き直る。


「……貴様。何故、ここにいる?」


 その言葉に、トゥリウスはさも意外そうに肩を竦めた。


「何故も何も、兄上が今日頃にお着きになられると伺いましたので、こうして歓迎に参りました。どこが不思議なのです?」


 抜け抜けと、よくも言う。ライナスのヴォルダン帰領は、その権限を用いて目の前の男の動きを縛ることが第一の目的である。その手段の一つとして考えていたのが、出迎えや領地運営の協議を名目にして、彼をマルランから何度も呼びつけてキリキリ舞いにさせることだ。癪なことに、その初手が見事に躱された結果になる。

 が、それのみを目当てにトゥリウスが領地から動くとは考え難い。先年のライナスとシモーヌの婚儀を除いて、この男が領地を動いたという情報は無いし、動く性格でもない。亀のように所領へ引っ込んでいるのが常である男が、呼び出された訳でもないのにヴォルダンまで来るだろうか。

 何か裏の目的があるのに決まっている。

 訝しみの視線に晒されながらも、トゥリウスは陽気に手を叩く。


「では、僕の家臣からも挨拶を。初めてお目に掛ける者もおりますので」


 促されて、背後の者らを代表するように二人進み出て跪く。片方は知っているが、もう片方は言われた通りライナスに見覚えは無い。


「伯爵閣下並びに奥方様には、お初お目に掛かります。トゥリウス子爵の家臣、ヴィクトル・ドラクロワ・ロルジェと申します。以後、お見知り置きを」


 金髪碧眼の、ともすればトゥリウスなどより余程高雅な貴公子に見える男が、見事に礼に適った所作で名乗る。ロルジェ伯爵と言えばラヴァレの腰巾着の一人として知っていた。何でも女の世話まで老侯爵に面倒を見られたと聞くほどの卑屈ぶりである。おそらくはその家の子だろう。ならば、ラヴァレがかつて送り込んで取り込まれたという草は、この男か。恐らく庶子だろうが伯爵家令息をこんな形で使い潰すとは、あの老人も贅沢な真似をする……などとライナスは考えた。


「……ドゥーエ・シュバルツァー、です。ふ、再び閣下の知遇を得られることを、幸いに思います」


 無理に畏まっていることが明らかな無骨な男は、何度かライナスとも顔を合わせたトゥリウス配下の武官だ。彼の挨拶は、随分と練習を重ねたのだろう、去年の王都でのものに比べれば、幾らか聞けるものになっていた。


「双方、大儀。オーブニル伯爵家当主、ライナス・ストレインである。……おい、トゥリウス。まさか貴様、この者らと会わせる為にここまで出向いたのか?」


 白けきった顔で水を向けると、トゥリウスは何が楽しいのかニコニコと笑う。

 猛烈に嫌な予感が、ライナスを襲った。


「何をおっしゃっているんですか、歓迎の為と言ったでしょうに。ささ、屋敷の方へどうぞ! 王都のようにとはいきませんが、兄上たちにもお寛ぎ頂けるよう手筈を整えておりますから」


「んなっ!?」


 その言葉に、ライナスの心臓がドキリと跳ねた。

 トゥリウスはそれを余所に、背後に声を掛ける。


「ねえ、ちゃんと準備は出来ているだろうユニ?」


「はい、ご主人様。掃除とベッドメークは手抜かり無く片付けております。晩餐までは少々時間がございますが、皆様方にご所望される方がいらしたなら、すぐにでも軽食をお持ちしましょう。お風呂の煮炊きも、そろそろ完了するかと」


 当然のようにそこにいたのは、主の傍に跪きつつ報告する女奴隷。相も変わらず、奴隷の分際で【奴隷殺し】への奉仕に執心しているのだろう――いや、それよりも。


(じょ、冗談ではないぞ!?)


 部屋? 食事? 風呂? その全てに、手が入っているというのか?

 その事実を認識したライナスは、目の前が真っ暗になるような心地を味わう。

 トゥリウスが先んじてヴォルダンに入ったということは、当然ながらライナスらの滞在する館も先んじて押さえていることになる。彼の目的が洗脳や暗殺にあるとするなら、その為の仕込みはやりたい放題だ。そしてユニの言葉は、その危惧をこれ以上無いほどに煽る。少なくとも今日は、この館での生活の全てが、トゥリウスの手の者らに握られていると宣言したのに等しいのだから。


「ふっ、ふざけるなっ!」


 口走った怒声は、恐慌の余り悲鳴にも似た色を帯びていた。


「どうしたんです、兄上。何か不都合なことでも?」


「何もかも不都合だ! 子爵の身で勝手に伯爵領の居館に入り、許しも無く家中の差配を執るなど、非常識にも程がある!」


「えっ、そうなんですか?」


 きょとんとして素っ惚けた返事を寄越すトゥリウスを、ライナスは無性にこの手で締め上げてやりたくなった。いや、出来れば絞め殺してやりたい。


「そうなのか、ヴィクトル?」


「言われてみれば、そうだったのかもしれませんな。とはいえ、遠路遥々お越しになった兄君の饗応の為にされたことです。ここまでお怒りになるようなことではないかと思いますが」


 主の背後に戻り、ひそひそと囁き合う連中を無視して、ライナスは弟を睨む。


「……当たり前だ! 貴様も爵位を得たということは、形式上オーブニル伯爵家とは別家の者! 兄弟だからといって、当家の館を弄る権利など無い!」


 それがこの王国の法度だ。であるからこそ、エリシャは騎士となることで実家と距離を取り、意に添わない許婚と縁を切ることに成功したのである。

 が、そこでシモーヌが嫌気に満ちた顔で口を挟んできた。


「そう目くじらを立てることもないじゃないの。別に家財を壊されたり、勝手に売り払われた訳でもないじゃない。勿論そうよね、トゥリウス卿?」


「ええ、当然ですとも義姉上。僕に仕えている子たちは、身分こそ低いものの家政の手際は中々のものだと自負しております。調度品には傷一つ付けていませんとも。夕食の食材も小麦の一粒から油の一滴まで、こちらで負担しましたし。まあ、流石に薪の方は館の備蓄をお借りしましたが、お望みでしたら補償しますよ?」


「……ですって。良かったわね、ライナス」


 答えを聞いたシモーヌは、そう言ってライナスに冷たい視線を向ける。何をみみっちいことを言っている、とでも思っているのだろう。確かに、兄が形式的な決まり事を盾に弟の心尽くしを突っ撥ねているのだから、事情を知らない者にはそう見えるかもしれない。

 だがトゥリウスに限ってそんな殊勝な心がけをすることはありえなかった。ラヴァレ侯爵の言が確かなら、他家の貴族を洗脳して手駒に加えているような男だ。孝行の仮面の下で、何をこの館に仕込んでいるか、分かったものではない。

 窮したライナスは、ちらりと周囲の騎士たちの方を見る。


「ならば、だ。こちらの客人たちへの心配りは如何とする? この男のことだ、どうせ連れてきた家人もまた大方が奴隷だろう。遥々王都より同道して頂いた近衛第二騎士団のお歴々に、愚弟の奴隷どもの饗応を受けろというのか!?」


「それは……」


 さしものシモーヌも、表情を曇らせて言い淀む。当然だ。奴隷が他家の者の目に触れるだけでも言語道断なのである。なのに、奴隷の手が触れた部屋に通して、奴隷が取り換えたベッドに寝かせ、奴隷の作った食事を饗し、奴隷が洗った浴槽で湯を使わせる? 冗談ではなかった。

 トゥリウスの如き野蛮人なら奴隷にメイドの格好をさせようが執事の格好をさせようが気にもしないだろう。だが、本来そうした使用人たちには貴人に侍る為の最低限の身分というものが必要なのだ。メイドであれば平民か下級貴族の子女、家の経営に関して相談に与ることもある執事であれば、更に基準が厳しくなる。幾ら着飾らせようと作法を習わせようと、所詮奴隷は奴隷。彼らはあくまでも人憚る裏方の雑事をこなす為の者であって、断じて客人への奉仕を任せられる存在ではない。それが常識というものである。

 シモーヌも、もっと嫌がってもいいものだろう、とライナスは思う。何でも、トゥリウスが王都に滞在していた時、彼女は度々彼から茶を振舞われていたらしい。信じられないことだ。何を盛られるか分からないのは勿論のこと、この非常識な男のことだから、茶も奴隷に淹れさせていたに違いない。そんなものを出された日には、真っ当な貴族なら席を蹴立てて帰るものだろう。彼女もよくよく狂人に毒されていることだ。

 ともあれ、これならトゥリウスの思惑を突っ撥ねることが出来る。

 ……筈だった。


「そうカリカリすることもあるまい、伯爵」


 具足の鳴る音も鈴のように、華麗に馬車から地面に降り立ちつつ言う女騎士、エリシャ・ロズモンド・バルバストル。


「それに奴隷をあまり悪し様に言わんでほしいな。我らは出自を問わぬ故に、奴隷上がりの者もいないでもない。伯の言を聞けば、彼らも気を悪くしよう」


「バルバストル卿……!」


 ライナスは思わず天を仰ぐ。

 忘れていた。予想だにしないトゥリウスの登場に気を取られていたが、ここにはもう一人、彼と同様に常識を鼻にも掛けぬ人間がいたのだった。

 そんな兄を後目に、事態の元凶たる弟は、現れた女に対して恭しく頭を下げる。


「これはこれはお客様。お見苦しいところを見せたばかりか、下車の妨げとなり申し訳ありません」


「多少待たされる程度構わん。これでも気は短くはないと自負している」


 十三歳で侮辱を受けた相手を殺した女が、よくも言う。すぐそこには十歳でそれをやった娘もいるが。


「名乗りが遅れたな。エリシャ・ロズモンド・バルバストルである。若輩者であるが、近衛第二騎士団を預かる身だ。以後、よしなに」


「これはご丁寧に、どうも……マルラン領主、トゥリウス・シュルーナン・オーブニルと申します。バルバストル卿のご高名はかねてより耳に入れさせて頂いています」


 そう言い交わし、視線をぶつけ合う。エリシャは値踏みをするように、トゥリウスは親しげな笑顔とは裏腹に興味無さげに。

 ライナスは、二人の対面にそんな印象を受けたのだった。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] ライナス苛め、もっと陰湿に徹底的にやってもらいたい
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ