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004 蛇を巡る冒険<国外編>

 

 3.ザンクトガレン連邦王国・ガレリン魔導アカデミーにて――

   パウル・エグベルト・フォン・グラウマン教授の証言


 遠路遥々、ようこそおいでなすった。大した持て成しは出来ぬが、寛いでいかれるといい。

 それにしても、なんだな。アルクェール王国の高等法院は、随分予算と人員に恵まれているようだ。伯爵家の相続問題の調査とはいえ、わざわざ隣国まで出向くとはな。


 何? 飽くまで知りたいことを調べるために来た? 出張ではなく休暇中の旅行? 官費ではなく私費と?


 はははははっ! いやいや、結構なことだ! 貴殿の抱く知りたいと願う情熱、好奇心! 実に素晴らしい! 我々錬金術師にとっては、天地を揺るがす魔力よりも、万象を見通す知性よりも! 他の何より備えておくべき資質だ!

 どうだ、お客人。儂の門下に加わらぬか? 貴殿もまだまだ若かろう? 今からでも、この道で学ぶに遅くはないぞ?

 ……その気は無い? そうか、残念だ。


 まあいい。本題に入ろう。

 オーブニルのことだったな。彼奴は実に優秀な生徒だった。僅か一年と一ヶ月と二十三日の在籍であったが、その間に残した業績は両手足の指で数えるにも余るほどだ。あれほどの逸材は我が錬金学科の……いや、本学全体の歴史を紐解いても他におらぬだろう。惜しいことよ。中途退学などということにならねば、今頃はワシの右腕として辣腕を振るっておるか、或いは彼奴がこの椅子に座っていたやもしれぬ。


 おや? 随分と意外そうな顔をされるではないか。儂が彼奴を褒め上げるのが、そんなに不思議なのかね?

 どうやらここに来る前に、余程彼奴について良からぬ風聞を耳にして来られたようだ。


 仕方の無いことではあるな。錬金術の歴史は、偏見と無理解との戦いの歴史でもある。そも、その名からして誤解と錯誤に満ちておる。錬金――鉄や鉛を金に変えるなどという行いは、この道における数ある試みの一つに過ぎん。物質の変成、霊質の高次化……本来の目的はそんなものだ。それを耳学問の山師が当て推量で猿真似し、鉄を黄色く染めて見せたのだ。なのに、あたかもそれが本質であるかのように、それ見たことか錬金術など詐欺師の業よと、世の愚昧が流布しおった。四百年以上も前の話だ。そんな黴の生えた風説に、世人は未だに踊らされておるのよ。


 ふむ。興味が湧いたぞ。どうかな客人。ここは一つ、貴殿が知る彼奴の逸話と、それについての感想とをお聞かせ願いたい。貴国では錬金術をいかように捉えておるのか、あの男への評価を通じて知るのも面白かろう。それに儂ばかりが語り手となるのも、些かつまらぬからな。手土産に、文字通りの土産話というのも悪くはない。


 …………。

 …………。

 …………嘆かわしい。


 やはり世俗の理解を得るというのは、思いの外難きことよな。


 ……む? どうされた?

 怒りはしないのか、と? それほどまで真摯に学んだ術を、斯様に悪用されて腹立たしくはないのか、と?


 差し当たって、特に思うことは無いな。

 人体実験? 奴隷を使ったのであろう? 貴殿も青き血の流れる貴種、穢き血が幾ら流されようと構わぬではないか。それが何かしら罪に当たるというのかね? 貴国の法典には暗い身であるが、奴隷の扱いはおおよそどの国も同じようなものであったと記憶しているが。ふむ、やはり違いは無いか。では問題は無いな。


 なに? 猟奇的であると? 確かに見目良いものではないな。だが、それが?

 そも、錬金術とは世の真理と生命の秘奥に迫るもの。そして、真理とは多くの場合残酷であり、生命とは本来、穢き側面も多分に有するものであろうよ。顧みられよ、貴殿も女を抱いたことはあろう。……何を赤らんでおられる? 恥ずかしいことではない。男女の交合こそが、次代の生命を紡ぐ崇高な儀式ではないのか? ん?

 話が逸れているとな? はっはっはっ、何を仰る。貴殿にも分かりやすいよう、たとえ話をしていたまでだ。


 貴殿、女を抱いたのどうしたのという話を、穢く下世話であると感じたのであろう? 子を為すという自然の営みを、大っぴらに語るものではないように思えたのであろう? オーブニルめの実験について思うたことも、それと同軸のことよ。


 生き物とはな、微に入り細に入り探っていくごとに、穢く醜くおぞましい側面を我々に見せつけてくるのだ。例えば食事だ。人間、食わねば飢えて死ぬものであるな? だから飯を食う。食えば腹が満ち、活力が溢れ、明日へと命を繋ぐことが出来る。さて、この時食したものはどうなるか? どのような美食であっても口に含まれれば、歯に噛み切られ、舌にすり潰され、唾液にまみれ……見るも無残な形になる。それが食道を通り、胃の腑に落ち、形すら残らぬよう跡形も無く消化される。そうなっては料理人がいかに美々しく飾り立てた料理も、醜悪なスライムと変わらぬ有様だ。それが更に腸に進み、栄養素と水分を肉体に吸収され……最後は便となって尻からひり出される。そう、糞だ。王侯が口にする美食も、下々の民が口にする麦粥も、一度食されれば末路は糞か反吐よ。

 研究、とはな。そのような醜き仕組みも否応なく直視せねば進まぬものなのだ。


 この国に痢病が流行ったとしよう。これを鎮めんと欲すれば、患者が垂れ流す水のような不定型の、臭く汚い便を詳細に観察せねばならん。それがどのような働きを持って斯様な形に成り果てたか? この便が尋常な形、尋常な回数で排泄されるよう患者の身体を戻すには、どうすれば良いのか? それを真剣に考えねば立ち行かぬ。彼奴の実験も、その延長に存在しておるに過ぎんのさ。慣れぬうちは、奇怪で残酷で、無惨に思えるであろうがな。


 オーブニルの研究対象か? そうさな、多芸な男であったからなあ。兎に角興味を引くもの、手の出せるものには手当たり次第であった。実験器具の改良といった機械的職能の分野から、研究史の編纂。霊薬の調合、ホムンクルスの製造、キメラの作成、礼装の鋳造。何でもやった。だが、それも本命の研究に打ち込むための足掛かりなのであろうな。


 彼奴が特に真摯に取り組んでおったのは、やはり生物分野よ。それも生命の根本にかかわる領域であるな。人は何故、人なのか。人は何故、物を思うのか。人は何故、生まれるのか。人は何故、死ぬるのか。人は何故、人は何故、人は何故……そんな果ての無い問いの答えを、幾日も幾日も考えておったのではないだろうか。


 こんな論文を残しておる。【生体における脳機能と生命における魂の相関】。これはだな、おそらく貴殿が彼奴について聞き知って、特に嫌悪を感じたであろう分野、その集大成のようなものだ。掻い摘んでお聞かせしよう。


 まず、実験体に奴隷を用意する。……これこれ、そこで及び腰になるでない。それだから、たかが伝聞に惑うのだ。

 で、だ。彼奴は被験者の頭を切り開き、機能の一部を麻痺させた。脳の機能は理解しておるな? ……知らぬ? 知らぬだと? あなや! なんたることか! 世の者は、ここまで生命の成り立ちに無知であったのかっ!!

 ……すまぬ、取り乱した。


 まあ、噛み砕いて言うとだな。脳は生物の心身の働きを司っておる。脳を破壊すれば、人は生きていけぬよな? 当然のことだ。王という要を失った国が千々に乱れるように、脳という司令塔を失った人体は機能のことごとくを停止する。心臓も止まる。死ぬ。これが脳の、身体の働きを司る能力を失った末路だ。この辺りは、知ってはおろう? 知っているな。うむ、よろしい。


 次に心の働きだ。物を考える、情を感じる、そういった心に関する働きも脳は請け負っておる。貴殿も理解は及ばずとも肌で感じておろう。狂人にまみえた時、大概の人間はこう言うな。頭がおかしい! と。

 オーブニルめが着目したのはそこだ。頭がおかしい、狂人。果たして、その心は、そして魂は、はたしてどのようになっているのか?


 それを知るために、まずは健常な状態の被験者を用意する。次いでその頭を割り開き、脳の中でも心を司っている部分を破壊する。ある者は情緒を感じる部分を、ある者は記憶を保存する部分を、とな。当然、被験者は狂する。

 で、それを安楽死させるのだ。


 ……ああ、最後まで聞かれよ。別段、彼奴は人を狂わせた末に殺して、それを喜んでおった訳ではない。研究のために必要だからしたことだ。心を平らかにし、落ち着いて聞かれるがいい。なんなら鎮静剤を処方しようか? すぐに落ち着けるぞ? なに、要らない? では、しかと自力でもって気を鎮められるがいい。


 ここからが本題だ。この魔導アカデミーには、学科ごとに様々な分野の魔導師がおる。オーブニルは多芸な男であったが、それでもどうしても畑の違う系統というのは存在する。魔導師なら当然のことであるな? 特にこの研究のために、どうしても必要な術があるのだが、どうしても彼奴には覚えられなんだ。で、他学科に多少の援助と引き換えに助力を乞い、ある魔導師を参加させた。

 死霊術師だ。……またぞろ青い顔をしておるが、大丈夫か? 続けるぞ?


 彼奴は脳の一部機能を麻痺させた上で死んだ被験者の霊を、降霊術で呼ばせたのだ。霊魂と対話し、その心理を量ることで、生体が脳を損傷することによる障害と、それによって魂が負う影響とを観察したのだよ。

 するとどうだ! 驚くべきことが分かったのだよ!


 被験者の霊魂の多くは、その狂い方の度合いが、術後の時間経過に比例しておったのだよ! たとえば記憶喪失! 同じく己の全てを忘却させた者でも、速やかに死なせた者は生前の記憶を思い出していた。だが、時間を置いた者は言葉すら解さなかった!


 この意味がお分かりか? 彼奴の実験によって、脳とは耳目から収集した情報を処理し、それを魂に渡すという役割をも果たしていたと証明されたのだよ! 発狂とは、魂が脳から狂った情報を送られ続けた故に起こる現象だったのだ! そして魂と記憶と意識とは、似通り影響しあってはいても別の物であったのだ! 斯様な神秘の立証を、あの男は見事にやってのけたのだ!


 偉大な発見であろう! 貴殿も幼時におとぎ話に見聞きしたはずだ。偉大な英雄の生まれ変わり、老いた肉体を外法をもって取り替える邪悪な魔術師……それは幻想ではない! 起こりうることだったのだよ! 魂を別の肉体に移し替えることが出来ればっ!


 今までそれを再現しようとした試みは、全て失敗に終わっていた。当然のことだ。降霊学科の連中ときたら、死者の魂を呼び出し対話することは出来ても、今の今までそれがどのように成り立っているのか、見当もついていなかったのだからな! だが、これからは違うぞ!? 魂と、記憶! その二つを確固として維持し、健常に意識を維持し得る肉体に移植する! そうすれば、人は永遠に己の存在を現世に維持しうるのだ!


 無論、今は出来ぬ。理論はあっても、実践の術が無い。だが、その為の一歩は記されたのだ。疑似的な不死。錬金術の至上の命題に近づく第一歩を、あの男は見事に踏み出しおったのだ!


 ……。

 おっと、また取り乱してしもうたか。つい、あの時の高揚を思い出してしまってな。この老骨が、見事に滾ったわい。


 オーブニルのヤツめはな、かなりの早い段階――おそらくは入学する以前――に、既にこの仮説を考案しておったようだ。何せ、人間の脳を弄るのに手慣れておったからな。それを発表せなんだは、実証の為の伝手が無かったからであろう。実に素晴らしい。十代の内にここまで先進的な理論を構築し、のみならずそれを立証する為の手筈を得る研鑽を怠らない。錬金術師の鑑だ。


 だというのに、理事会め。つまらぬ難癖をつけて彼奴を追い出しおった。賢人会議などいう御大層な別名が泣くというものだ。ああ、返す返すも惜しい!


 放校の理由か? 儂には詳しいことは分からぬ。アカデミーの教授は、研究と講義が職務であろう。故に儂は、基本的に生徒の私生活に立ち入る事は無い。そう思うと、今少し彼奴の人柄に触れておくべきだったな。事情を察しておれば、庇い立てすることも出来ただろうに……ああ、大魚を逃すとは、このことか!


 うむ、そうだ。彼奴とは徹頭徹尾、研究の話しかしなかったからな。討論は盛んに行ったぞ?

 会食などはしなかったか、と? 先程、言うたばかりであろうに。どのような食事も、その末は尻から出る糞であるとな。速やかに栄養さえ取れれば良い。斯様なことに時間を割く趣味は無いであろう。その上、人と会話しながらなど非効率の極みだ。食事と会話、二つの異なる行動を並列して行うことに、如何な意味があると言うのか。分けられるものは分ける、その方が速やかに済むのだ。それが人の知恵というものであろう?


 まあ、あらまし程度なら聞かせよう。さる生徒がな、彼奴と決闘騒ぎを起こしたのだよ。横恋慕だった、とも聞いておるな。無論、その生徒から手を出したものだ。あのオーブニルが、無駄な騒ぎなど好むはずはあるまい? その末に返り討ちにあって、半死半生の大怪我を負い、おまけに衆目の前で恥を晒した。それを恨んで彼奴を追い出したのであろうよ。相手はこの国の……なんといったか……とにかく高位の貴族の血縁であったらしくての。


 奴隷のメイド? ああ、あれか! あれも良い出来であったな! オーブニルの作品の中でも、特に傑作だ! 機能と造形の統合、その黄金比は神懸かっておったわい!

 そう言えば、横恋慕とやらの対象はそれだったような気もするな。馬鹿な話だ。彼奴は儂にもあれを弄らせることは無かったというのにな。是非とも解剖してみたかったのだが、残念なことだ。いわんや、つまらぬ肉欲を向けるなど冒涜的にも程がある。


 あれは何か、と? ただの人間だな。ただ、恐ろしいまでに高性能だ。儂も最初はホムンクルスかと見紛った程にな。人体強化の霊薬を継続的に投入し、入念に高度な訓練と教育を施した結果らしい。

 怪物? 違うな、怪物的な人間だよ。キメラでもホムンクルスでもない。正真正銘の人間だ。だが恐ろしく高度な錬金術の所産でもある。単純に目に見える能力を外付けするのではなく、地道に丹念に性能を底上げする。キメラのように他の生物の因子を移植してしまえば、確かに強くはなるだろう。が、拒絶反応のリスクはどうしても付き纏うし、後の拡張性にも悪影響が出る。それを嫌ったのであろうな。副作用の少ない薬を地道に与え、効率的な鍛錬を積ませることで、人間のまま人間を超えさせたのがあのメイドだよ。


 言うなれば、人工的な英雄だ。ありふれた伝説にもあるであろう? 賢者の元で修業を重ね、尋常ならざる力を得た勇者の話が。それを錬金術師が代行してのけただけの話だが……恐ろしいのは、それを思い立ち、始めた時期よ。この方法では恐ろしく時間が掛かる上に、一度しくじればやり直しが利かぬ。おそらく、彼奴もあれもともに一桁の年齢から『製作』を始めたはずだ。それであれほど完璧に仕上げて見せたのだからな。オーブニルめ、素材が良かっただけです、などと謙遜していたが、笑わせる話だろう? 一体どこに、幼弱にして独学のままで、あそこまでの作品を仕上げる錬金術師がおるというのか。


 なに、違法ではないか、だと? 何を仰る。適正な薬剤を処方し、雨の日も風の日も傍で面倒を見、じっくりと育て上げただけだ。彼奴がしたのはそれだけのこと。貴国ではそれが違法行為であるのかね? 違うであろう。むしろ、奴隷が被るには過分と言っていい恩恵ではないか。


 おや、またぞろ青褪めておられるな。持病でもお有りかね? 感動で頬を赤らめるのなら理解できるのだが……。

 聴取はここまでで良い? 彼の錬金術師としての業績は、十分に拝聴出来た?

 こちらとしては、まだまだ語り尽くせぬところなのだが……気分が優れぬのであれば仕方が無いな。体調が悪いと、脳の血の巡りが悪くなるでな。そんな状態では、仕事の能率も落ちるものだ。ご自愛なされよ。


 ああ、彼奴の学生としての素行を知りたいのであれば、元同級生に心当たりがある。今、紹介状を書いて進ぜよう。運の良いことだ。儂が学生の交友関係を把握していることなど、滅多に無いのでな。


 ところで貴殿。本当に錬金術を志すつもりは無いと?


 ……そうか、残念だ。オーブニルほどの才腕は望み薄としても、我が門下は人材に乏しくてな。儂も老い先短い身の上だ。後事を託すに足るか、儂が逝く前に不死の研究を完成させる者は、どこかにおらんものかのう……。







 4.ザンクトガレン連邦王国・ガレリン魔導アカデミーにて――

   学生フレデリカ・ユリアンナ・フォン・カステルベルンの証言


 グラウマン教授のご紹介? 珍しいですこと。あの方が研究以外の事のために、ご自分の手を動かされるなんて。よっぽど機嫌が良かったのかしら?

 それで、どのような御用向きでいらして?

 はあ、さるお家の相続にまつわる調査、と。


 ……オーブニル? まさか、あのトゥリウス・シュルーナン・オーブニルのことですか?

 ああ、なんてことですの!? ようやっと思い出すことも無くなって来た時期に、あの男について聞かれるなんて!


 ええ、そうです。彼とは、個人的に親しいだとか、友人だとか、そのようなことは一切ございません。あの男は一方的に厄介事を振り撒いて、その度に私が後始末に奔走させられただけですの。お気に入りの生徒とよく顔を合わせていたものだから、教授も私を覚えておいでだったのでしょう。そうでもなければ、研究一筋のあの方が、人の顔と名前を一致させるほど記憶されている訳がありませんしね。まったく、同じゼミナールに籍を置いていただけで、どうしてあんな貧乏くじを引かされたものなのか。


 は? 随分と詳しいようだが交際でもしていたのか、ですって? それは貴国一流のご冗談ですの? 先程も申し上げたではありませんか、そのようなことは一切ございません、と。大体、あの男に恋愛などという高尚な真似が出来るとは思えませんし、ましてや女性に好かれるなんて、それこそ彼の犠牲となった者たちのように、脳を弄られでもしなければあり得ませんわ。


 ご理解いただけまして? では、先の発言を撤回して下さいませ。高等法院からお越しになられたのでしたら、侮辱罪というものの存在についても十分に心得ておられるのでしょう?


 ……よろしい。

 それでは、手短に済ませましょう。お互いに不愉快になるだけの話ですので。ええ、あの男にまつわる話を面白がられる者など、俗悪な三流喜劇を楽しめるような輩くらいですわ。


 あの男と出会ったのは、三年前の春でした。先程も申し上げましたが、同じゼミナールでしたので。開講の前から、生徒の間では噂になっておりましたわね。錬金術は魔導に属する分野の中でも、閉鎖的で誤解されがちなものですから。他国から留学してまで学ぼうとするなんて、どんな変人かしら、と。


 ああ、誤解はお止しになって下さいな。私はあの胸の悪くなるような異端児や、偏屈なグラウマン教授のように、錬金術の為に人倫を捨てられるほど入れ上げている訳ではございません。錬金術の医学的な応用を学ぶのが目的でして。悪疫の中には治癒の魔法を受け付けないものもございますし、それに魔法の使い手は希少でしょう? その点、薬であれば魔力に乏しい者でも調合できますし、ある程度の量を一度に作れますからね。


 話を戻しましょう。オーブニルの留学ですが、実のところはご家族からの勧めに従ってのことらしいのです。詳しくは存じませんが、錬金術に入れ上げて家督争いから落ちこぼれるよう兄君がそそのかしただとか、あまりにも非人道的な研究に参ったお父上が厄介払いのように追い出しただとか、そのように伝え聞いております。私の見解としては、どちらも有り得る話だと思いますわ。あの熱の入れようでは、責任ある伯爵家の政務など務まりそうにありませんし、自宅であのような研究を日夜行われては、実の親とて神経が参ってしまわれるでしょうしね。


 第一印象ですか? 温順で、無害そうな人当たりでしたわね。噂からは、それこそグラウマン教授をそのまま若くしたような、研究以外に気を払わない人物を想像していたものですから、その食い違いに面食らったものです。身なりを整えた、洒脱さには欠けるも清潔な服装。多弁な方ではありませんが、話し掛ければはっきりと受け答えはする。普通にしてさえいれば、伯爵家の一門として可も無く不可も無く立ち回れるでしょうね。


 ただユニさん――奴隷の印の首輪で繋がれたメイドを実家から伴って来たのは、少々頂けませんでしたが。


 ですが、それは表向きの顔です。貴方にもありますでしょう? 職務に励み、同僚の方と向き合う時の顔。気を緩めて、ご家族と向き合う時の顔。一人きりになって、誰と向き合う訳でも無い時の顔。誰しも多くの顔を持っているものですが、彼の場合はその落差が激し過ぎました。


 私がそれに気付いたのは、解剖の実習の時でした。……そんな顔をしないでくださいな。私とて、嬉々として人の亡骸を切り刻んでいる訳ではありません。あくまで必修の講義でのことですから。オーブニルのように、自分で死人をこさえてまで解剖を行う趣味はございませんわ。


 その時のことなんですけどね、私も人の身体を暴く事なんて初めてでしたの。流民が道端で行き倒れているのを見つけたり、家で勘気を被った奴隷が目の前で死を賜ったり、はたまた縁者が身罷ったり、人の死に触れたことが無いわけではなかったのですけれど。しかし、故あってのこととはいえ、亡骸にメスを入れるというのは、それらとはまた別の感覚でした。実際に執刀していらしたのは、講師の方なのですけれどね。でも亡骸を切り開いて中を見る申し訳なさだとか、改めてまじまじと見たうつろな顔だとか、グロテスクなお腹の中身ですとか、薬っぽさと死臭の混じった臭いですとか、そういうものを感じている内に、こう……胸が悪くなりましたの。お腹の奥から固い物が押し上げられるような酷い吐き気がして、身体がカタカタと震えて、今すぐ実習から抜け出して寮のベッドに逃げ込みたくなりましたわ。


 何だか自分が情けなくなったのを憶えております。病に苦しむ民を救いたいと、父母の反対を押し切ってまでアカデミーに入ったというのに、その第一歩……人の体の仕組みについて、実地で学ぶという段階。そこでもう嫌になってしまった自分が、酷くみっともない人間に思えまして。でも、本当に逃げ出してしまうことも、また嫌でした。私、検体から目を逸らしたんです。それで周りの同級生の顔を見てみることにしましたの。彼らも私と同じような顔をしていたら、まだ耐えられる。この嫌で嫌で今すぐ帰りたくなるような気持ちが、皆さんと同じだったら。それなら誰もが通る道だと思い込んで、それで踏みとどまれる。実際はただ、開かれた遺体を見ていられなかっただけでしょうが、今にして思うと、そんなことを考えていたような気もします。


 他の受講生は、皆一様に青い顔をしていました。私と同じく、解剖に立ち会うのは初めてだったのですね。ああ、怖がっているのは私だけではないんだ、と思うと場違いな安堵の息が漏れました。彼らも私の様子に気付くと、こちらに共感したように肩から力を抜いたようでした。

 しかし、ほとんどの人は私と同様に顔色を変えながらも踏み止まっていた方たちでしたが、例外もありましたわ。


 まず、私たち以上に解剖へ強い拒絶を示した方。よっぽど苦手でいらしたのでしょうね。まず始めに一人が、口元を押さえながら無言で廊下に走り出ると、それを皮切りに二人ほどが後に続いて退出しました。中座をお詫びする言葉もありませんでしたが、講師も気に留めた様子は見られません。毎年いるのですよね、この実習に耐えられずに逃げ出す方は。気持ちは分かります。私だって嫌でしたし、慣れたとしても気分良く行えることではありませんから。


 次に、入学前に解剖を経験していたような方々。好んで錬金術を志して入学したのですから、まあ熱心な方は、アカデミーで学ぶ以前に自前で研究を行っていることもあるのですわ。勿論、解剖もです。そうした人は、ご同輩と一緒に軽口を叩きあったり、初めての経験に震え上がる私たちを見て優越感に浸ったりして、さも平然となされていた風でした。正直に申しまして、あまり良い趣味とは思えませんがね。


 最後が……ええ、オーブニルです。彼は顔色一つ変えずに、黙って実習の成り行きを観察していましたわ。私も始めは、彼も解剖をしたことがあるクチかと思いました。いえ、確かに経験済みでしたわね。ですが、こう……他の経験者に比べても、彼の雰囲気は異質でした。私、思わず考え込んでしましましたわ。気を紛らわしていないと、戻してしまいそうでしたから。とにかく気を散らしたかったんです。それで、さりげなく他の経験者と彼の違いを見比べてみたんですの。


 違いはすぐに分かりました。他に解剖をしたことのある方もですね、やはり普段とは様子が違うんです。気分が浮ついているというか、酔っているようだとか、とにかくいつもとは違う面持ちでした。それもそうでしょう。いくら慣れがあるとはいえ、人の死に触れているのですからね。そんな場で日常と同じ心地を維持する、というのは難しいのです。そういう意味では、彼らもまだまだ半人前だったんですわね。解剖に慣れてくるとですね、緊張を維持しながらも気持ちを普段とは切り替えられるようになるものなんです。自分が死体を切り開いて、その中を観察しているということについて、深く考えないようにしながらも、手元と目だけは鋭くしていられるようになる。口が軽くなったり、周りを見下してみたり、そういうのは慣れ方が半端なのですね。自分は経験があるぞ、って自己暗示を掛けて、平気でいる振りをしているだけなのですわ。回数をこなせば、それが分かってくるのです。


 オーブニルは違いました。講師の先生や、何度か実習をこなした今の私とも違いました。彼は、まるで普段と変わっていなかったのです。拒絶して青くなったり逃げ出したりする訳でもなく、気分を高揚させて動揺を誤魔化す訳でもなく、普段の自分と気持ちを切り替えるわけでもない。学友と談笑したり、食堂でスープを呑んだり、図書館で本を読んだりしている時と、同じ目つきのままでした。気持ちを切り替えるまでもなく、そこに適応していました。


 思わず、背筋が寒くなりましたわね。人の生に関わる時も、死に触れる時も。変わらず同じ色の目のままでいられるとは、どういう心根なのか? その疑問が生じた瞬間、これまでになく気分が悪くなって――私も実習室を飛び出していたのです。


 おかしいですか? 確かにその通りですわ。言ってみれば、たかが目付き一つですもの。それだけで人を判じることが出来るのならば、誰も世渡りに苦労をするはずがありませんから。私も最初は、実習で気分が悪くなっていた所為だ、単なる錯覚だって思っていました。でも、胸騒ぎだとか虫の知らせだとか、そういうものもございますでしょう? ふいに気分が悪くなったりした時に、後の出来事と結び付けて、嫌な予感だとか、あれは不幸の前触れだったとか、そう思ってしまった経験は一度くらいおありでしょう?


 ……あの実習でオーブニルの態度を不審と感じたのは、私一人のようでした。私自身、くだらない思い込みだと考え直しまして、しばらくの間は彼をただの学友として扱っていました。

 ゼミナール内での彼は、決して人気者という訳ではありませんでしたが、学友たちに広く受け入れられていましたわ。のみならず、彼は他学科の生徒や講師陣とも、積極的に接触していたそうです。錬金学科というのは他の学科と比べて少し閉鎖的でしょう? 霊薬や実験器具といった、魔導研究に必要な物資を用立てているのは、主に錬金術師が担ってきた役割です。それでいて他の魔導師からは、同じ魔導師というより下請けの職人か便利屋のような扱いですからね。ただでさえ一段と低く見られているものですから、それを押してまで出掛けて行くオーブニルは、周りから随分と変わり者扱いされていましたわ。


 ええ、そうなんです。普通、そうやって積極的に人の輪に入って行けるのであれば、それなりに衆望を集めてもいいはずですわよね? 腕利きの錬金術師で、人なりも穏やかに見えるのですから、尚更です。が、彼に特定の友人と呼べる方はいなかった。常に誰かと一緒にいて、にこにこと気安い笑みを浮かべて、頼めば大概のことは聞き入れ錬金術師としての手腕を振るってもくれる。それでどうして友人が出来ないのか、或いは作ろうとしないのか、不思議なものでした。


 思えば、あれは商人の手管に似ていました。人を安心させるような笑顔で近づき、人の矜持を上手いこと立ててやり、人の欲しがる物を提供する。多分、彼は最初からそのつもりだったのでしょう。友誼を結ぶのではなく、顔を繋ぐ。コネクションの構築です。そうやって、個人では出来なかった次の研究の為の下準備を淡々と進める……。


 グラウマン教授からは聞いておられますか? 彼の最も悪名高い研究。そう、あの狂人を人為的に作り出して殺し、魂の狂い具合を調べるという、悪魔じみた実験。それを行うために、降霊術を使える術者を抱きこんでいたでしょう? 同じように、他分野の力を借りた研究はいくつもありましたの。彼の人脈構築は、その為にやっていたことなのでしょう。商人が取引相手と関係を維持する為に、私的な交流は避けつつも、それでいてご機嫌伺いは欠かさないように。


 まったく、よくもやってのけたものです。梗概を耳にしただけで頭がどうにかなりそうな実験を繰り返しておりましたから、瞬く間にオーブニルを良く言う声は無くなりましたわ。私も解剖実習で覚えた嫌悪感は、間違いではなかったのだと改めて思い返しましたわ。ですが、学生たちは決して彼との取引を拒みませんでしたの。時には講師陣もです。少し手を貸すだけで、彼からは労力以上の対価が得られましたもの。貴重な秘薬、手製の礼装、なんでもござれ。時には希少な能力を持った奴隷すら、用立てていたようです。研究が悪魔の仕業なら、こちらは悪魔の取引ですわ。それなりに場数を踏んでいるのなら別でしょうが、ここにいる者の大半はまだ若い学生か、社会経験に乏しい研究者。甘い誘惑を撥ね退けるのには、荷が勝ちすぎましたわね。


 奴隷ですか? 街の市場で仕入れて来たようですよ。それを怪しげな薬やら手術やらで強化して、取り引き相手に譲渡する。忌々しいことに、違法行為ではありませんでした。奴隷をどう扱おうが所有者の自由。それはどの国でも同じですものね。錬金術で身体を弄り回そうと、それを他人に売ろうとです。これがキメラやゴーレム、ホムンクルスでしたら、危険生物の私有という名目で摘発出来ましたのにね。見事に法律の隙間を突いた形です。よくもまあ、悪知恵の働くものだと、呆れ返ったものですわ。


 しかし、結局はそれが元でアカデミーを追われるのですから、世の中分からないものですわ。

 オーブニルの放校になった原因? ああ、それが一番知りたかったのですか。教授からもあらまし程度は聞いていらして? なら話は早く済みそうですわね。


 あれは二年生に上がってすぐのことでした。確かオーブニルは父君が危篤であると一時帰国し、それから帰ってきて間もなくのこと。このアカデミーも新入生を新たに迎えて、活気づいていた頃のことです。新入生の間でも、あの男は噂の的でしたわ。彼との取引は、違法ではないとはいえ十分に後ろ暗く、決して声高に人に話すものではないのですが、それでも人の口に戸は立てられないでしょう? 彼と関わりを持った生徒が、後輩にそのことを話していたのです。彼から手に入れた品を自慢したかったのか、年下を脅かそうと怪談代わりにでもしたのか、それとも親切ごかして学校の裏の顔役について教えたのか。どれも有り得そうですけれどね。


 それで新入生の一人が、オーブニルの噂に興味を持ったのです。彼にお金を支払えば、上物の奴隷が安く手に入る。そう考えたらしいんですの。ええ、そうです。下世話な話ですが、そのぉ……殿方の欲求の捌け口になる奴隷が得られると。

 彼について知っている者からすれば、馬鹿らしい話です。オーブニルは成程、確かに貴族の魔法使いというより商人に近いところがある男でした。が、その分損得にはシビアなところがありましてね。見返りの少ない者には、それ相応の物しか渡しません。そもそも、彼が取り扱う奴隷は護衛だとか、労役だとかに用いるのが主でしたから。……まあ、頼まれれば用立てないことも無いとのことですが、そういうことに使う奴隷は、仕入れ値からして高いから割に合わない、とも言っていたらしいです。どの道、その新入生の少年が望む結果は得られないでしょう。


 勿論、取り引きはすぐに破談となりました。その少年もこの国の貴族、それもアカデミーの理事会に顔が利くくらいの家柄ですから、少し無理をすれば出せなくもない値段のはずです。しかし、彼は格安で良い奴隷が手に入ると信じ切っていました。まあ、オーブニルの研究に協力出来るのなら、期待通りに安値で手に入るか、良くすればお金を払う必要も無いのですが。けどそれは、つい数週間前に入学したばかりの新入生には酷な要求でしょう。


 それで引き下がれば、何事も無く済んだでしょう。ですが、その少年はそこで出会ってしまったのです。単なる欲望の対象ではない、何と引き換えても手に入れたいものと。ええ、ユニさん――彼のお付きのメイドです。


 彼女もまた学内では有名でした。私の目から見ても、綺麗な方でしたわ。整った顔立ちに洗練された立ち居振る舞い。無口でニコリともしない愛嬌の無さが玉に傷でしたが、そっと主人の陰に寄りそい献身的に尽くす姿は、貴族に傅く従者の理想像といっても過言ではないでしょう。……オーブニルの奴隷として、子どもの頃から付き従っていると聞きますが、彼のご両親は余程息子を甘やかしていたんでしょうね。容姿にしても教養にしても、そして彼女から感じられる魔力にしても、どれも一級品でしたから。子ども可愛さに目が眩みでもして、余程の大枚を叩いて最高級奴隷を買った上に、みっちりと教育したとしか思えませんもの。


 まあ、彼の関係者ですから。彼女に関する突拍子も無い噂も、幾つかあったものです。実はオーブニルが作ったホムンクルスだとか、殺した死体から部品を選りすぐって組み合わせたフレッシュゴーレムだとか……笑ってしまいますわね。そういう魔法生物は、気配が独特な上にそれを誤魔化したとしても、どうしても感知魔法には引っ掛かってしまいます。実際に彼の制作物を見たことはありました。確かに造形に重点を置いた物は、本物の人間と見紛うばかりでしたが、やはり術式には魔法生物として引っ掛かってしまいますわね。


 ああ、話が逸れてしまいましたわね。それで件の新入生の話です。

 彼はユニさんを一目見て、すっかりと入れ込んでしまいました。彼女の首に奴隷の身分を示す銀の首輪を見るや、先程破談になった取り引きの事も忘れて、譲ってくれるよう強請ったそうです。


 ――頼む、彼女を譲ってくれ、決して粗略な扱いはしない、彼女が望むなら奴隷の身分からも解放もしよう、本気なんだ。


 よくもまあ、ついさっき女奴隷を安く売ってくれと頼んだ口で言えたものです。ですが、もしかすると、それが恋というものかもしれません。恥も外聞も、過去も未来も吹き飛んで、相手のことしか見えなくなる。だとすれば、その気持ちだけは馬鹿に出来ないものですわ。


 しかし、オーブニルはすげなく断りました。先程の交渉は相手の提示する条件について云々し、可能であれば応じる節もありましたが、今度はそれすらありません。彼女だけは売らない。それがオーブニルの答えでした。彼を引き立てていたグラウマン教授も、ユニさんに興味を抱いていたようですが、恩人である教授でさえ、手を触れさせることはなかったと聞いています。いわんや、初対面の下級生にそれ以上の事を許すとは思えませんね。


 少年はオーブニルの答えに逆上しました。依頼では――彼の主観では――足元を見られ、その上で見目麗しい女性を奴隷として侍らせ、彼女に向ける想いを一顧だにせず撥ね退けられたのです。彼の目には、オーブニルが姫君を捕えた悪しき魔王にも見えたでしょう。理は何一つ通っていないのですが、オーブニルが悪党であることには同意しますわ。ともかく、怒りで我を失った少年は、いきなり魔法でオーブニルを撃ったのでした。


 が、その攻撃はオーブニルに届きすらしませんでした。ユニさんが庇ったのですね。彼女、単に強い魔力を持っているだけでなく、魔法の腕前も優秀だったようです。少年の魔法を咄嗟に障壁呪文で防ぎ、傷どころか衣服の乱れさえ無かった言います。


 堪らないのは少年ですよね。非礼にも上級生に不意打ちを仕掛け、それをよりにもよってたった今一目惚れした相手に庇われたのですから。非は彼にあるとはいえ、同情しますわ。

 少年はカッとなって叫びましたわ。


 ――卑劣な! よりにもよって女性を盾にするとは!


 と。

 自分で仕掛けておいて何を……。そう思われますか? しかし、まあ、何ですか。そうとでも言わなければ、自分が惨め過ぎるんじゃありませんこと? 仮にも上級生を不意討ちしたこと、その矛先が図らずも想い人に向かってしまったこと。先程、手痛く要求を撥ね退けられたこと、逆上の余り発した攻撃が届きすらしなかったこと。彼の言葉は、そんな罪悪感と屈辱とが入り混じった悲鳴のようなものだと、私は考えますわ。これ以上の弁護をする気にはなれませんけれどね。


 気が付くと、その場には随分と人が集まっていました。密談の場は、寮のオーブニルの部屋でしたからね。騒げば寮生が聞きつけてくるのは当然です。少年は彼らに気付きましたが、それにも構わず大声でオーブニルの非を鳴らしましたわ。


 曰く、賄賂をばら撒く不届きな学生だの、人を人とも思わぬ実験を繰り返す悪魔だの、女を無理やり奴隷にして手籠めにする色魔だの……まあ、幾らか事実は混じっていましたが、三つ目の言葉は自分を省みられてから言って欲しいものです。


 周囲の空気は、瞬く間にオーブニルが悪者だという色に染まりました。勿論、全力で同意しますわ。この件の非こそ少年の側にありますが、それでオーブニルの今までの悪行が帳消しになる訳ではありませんし。オーブニルに肩入れする者もいないではありませんでしたが、ごく少数に留まりました。彼に便宜を図ってもらって良い目を見ていた生徒の多くは、累が及ぶのを恐れて及び腰になっていましたので。まったく、上辺だけの付き合いを続けているから、そうなるのです。それにオーブニルが手を貸していたのは、主に机を並べる同じゼミナールの生徒と、彼が協力を求めた一部の魔導師ですから。自然、おこぼれに与れなかった側――オーブニルに反感を持つ者の方が多数となったのです。

 険悪な雰囲気の中で、誰かが叫びました。


 ――決闘だ!


 ――新入生が、オーブニルの蛇野郎に決闘を挑んだぞ!


 と。

 別にそんな事は無いのですが、満座の野次馬の中で対立している姿は、決闘を挑む構図に見えなくもありません。興奮した学生の何人かが、勝手にそう誤解したのですわね。

 新入生の少年は気が大きくなりました。激昂して上級生に襲い掛かり、それを見染めた女性に防がれた敗者から、一転して巨悪に挑む勇者へと、立場が早変わりしたのです。すかさず貴族の令息らしい優雅さを取りつくろい直し、オーブニルに決闘を申し込みました。


 ――先程の一撃は投げ手袋の代わり、そして彼女が庇った故に咄嗟に威力を弱めたのだ。

 ――一対一の決闘の場で、そんな手心は無いと思いたまえ。


 なんて、要らないことまで付けくわえながら。決闘の前に攻撃を加えた非を鳴らされたら、どうするんでしょうね? とはいえ、こうも人が集まってくると、流石にあの悪党も逃げ出すわけにはいかなくなりました。人騒がせな割に揉め事を好まない男でしたから、決闘に乗り気な訳は無いんですが。それでも、いつの間にかこのムードに酔い始めている群衆を前に逃げ出したら、何が起こるか分かりません。もしかしたら大きな暴動にもなりかねない。彼ならそんな計算を弾いていたでしょうね。最終的には決闘に応じた方がリスクが少ないはずだと。でもなければ、何とか決定的な事態は避けるのが彼のやり方でしたから。


 言い忘れていましたが、このアカデミーでは私闘を禁じています。魔導師同士の戦闘となると、たかが生徒同士の小競り合いでも馬鹿にならない被害が出ますからね。死人が出てもおかしくありません。なので相当重い沙汰が下りかねないのですが、そもそもこの規則を破る人は滅多にいませんから。教員側の対応も遅々としたものでした。それにオーブニルのばら撒いているアイテムや新理論は、この頃には学内の政治的均衡に影響を与えかねないものになっていたらしくて……。理事会や教授たちの中には、この決闘でオーブニルが痛い目を見るか、最悪亡き者にでもなれば良いと思う方もいらしたかもしれません。そうでなくとも、私闘に及んだことを追及して行動を掣肘出来る。そうお考えになられたのでは? あくまでも推測ですけれどもね。


 決闘はそれから間をおかずに、寮の前の広場で行われました。相手は悪名高いオーブニル、時間を与えては何をするか分からない、というのが相手側の弁でした。短絡的な割には知恵が働きますわね。

 その頃には女子寮にも騒ぎが届いていましたので、私も友人と連れ立って駆け付けました。その頃にはいつの間にやら、どういうわけか私がオーブニルの起こす騒動を収拾する役回りになっていましたので、その友達に引っ立てられるように連れて行かれましたよ。最初に聞いた時は驚きました。彼は悪人は悪人でも、法を掻い潜ったり悪用したりする類いですからね。こんな直接的で責任を免れ得ない事態を引き起こすとは思えないし、巻き込まれるような間抜けだとも考えられませんでした。ただ細緻な企みが粗暴な一手で台無しになる事も、有り得無くは無いでしょう。とうとうあの悪党もその範に倣う時が来たかと、暗い喜びも感じましたね。天網恢恢疎にして漏らさず、ですわ。


 私が着いたのは、丁度決闘が始まる直前でした。新入生の少年の、不敵な面構えが印象に残っています。自信満々でしたね。私たち錬金術師は魔力に乏しい者が多いですし。元々、あまり人気も無く出世も見込めない稼業ですから、自然とそういう者がなっていくものなのでしょう。対する少年は、貴族としてはポピュラーな魔導兵学科。戦闘的な魔法を駆使して戦場を駆け巡る、一般的なイメージ通りの魔導師を育てるカテゴリーです。生粋の武闘派ですわ。準備不足の錬金術師などに、遅れを取るはずもない。無言の裡に表情でそう言っているようでした。


 対するオーブニルは、いつも通りに見えましたね。ええ、本当に平静でした。あの常と変らない目をしていましたよ。講義を受けたり、学友と談笑したり、読書に興じたり、死体が切り刻まれるのを見届けたり、生きた人間の頭を切り開いたり、そういういつも通りの事をしている目でした。彼が眼の色を変えるのは、合否を問わず実験の成果が出た時か、新しい実験の構想が浮かんだ時、でなければ上物の素材や礼装を手に入れた時くらいですからね。目の前の少年の事など、良く言っても路傍の小石程度にしか思っていないでしょう。それはつまり、彼と日常を過ごしていた私たちの事も、そんな風に物のように見なしているのと同義なのですが。


 そうこうしているうちに、決闘は始まりました。双方一人ずつ立会人を伴っての、古式ゆかしい果たし合いです。少年の側の立会人が、何か威勢の良いことを言っていましたが、あんまり憶えていません。それよりオーブニルは誰を立会人に立てたのかに興味を引かれましたので。ユニさんは、言ってはなんですが身分の問題がありますでしょう? 格式ばった場では後ろに控えるほかありません。そうなると誰が彼に味方する立場に立つものやら。オーブニル側の立会人は、例の実験に参加した降霊学科の生徒でした。あの狂った実験の、です。あんなことに加担してしまったのを知られたのですから、今更彼と無関係とも言えなかったのでしょう。お可哀そうに。


 決闘の結果は、教授から聞いていらしたでしょう? オーブニルが勝ちました。彼に挑んだ少年は、酷い重傷でしたわよ。どんな展開か、ですって? 私としてはあんまり語りたくないのですが、どうしてもお聞きになられたいと。……仕方ありませんわね。


 といっても、そう込み入った話ではないのですが。オーブニルはですね、平時から手製の防御礼装で身を固めていたのです。やけに景気良く周りにばら撒いていると思ったら、単に手元の在庫が、文字通り売るほど余っていただけなんですのね。懐にアミュレットを呑んでいるのは序の口。アカデミーが制服として支給しているマントの裏に防護の刻印を刺繍したり、退魔の力を持つ銀糸を織り込んだシャツを着たり、早駆けの魔法を掛けた靴を履いていたり……まるで動く要塞か、それとも歩く礼装の見本市かといった有様ですわね。普段からあんなものを全身に仕込んでいるなんて、どこかの国と戦争でもしていたのかと言いたくなりますわ。これだけの物を片手間にこさえながら、幾つもの研究を並列してこなしていたのですから、認めたくはありませんがあの男、確かに稀代の天才と呼ばれるだけの事はあります。


 勿論、これだけ守りを固めた相手に、入学したての新入生の魔法が通る訳はありません。炎の矢も風の刃も雷の鞭も、何一つ効き目がありませんでした。……ユニさんも、こんな不死身の化け物を庇う必要なんて無かったと思うんですけどねえ。なまじあの時割って入ったものだから、少年もオーブニル一人なら勝てると誤解したのでしょう。こう言う場合も、罪作りな女と言えば良いのでしょうか?


 えっ、卑怯だ? ええ、私もそう思いました。ただ私が感じたのは、咄嗟の事態にこれだけの装備を用意できる、その能力がある事が卑怯だと感じたのですが。戦法について思うところは無いか、と? 当たり前でしょう。着の身着のまま決闘に赴いたのは、お互い様なんですから。それに礼装を用いていたのは、相手の少年も同じでした。魔導師が常に携える杖、これも魔術の行使を補佐する礼装でしょう? 少年が持っていた物も、高位の貴族らしく贅沢な代物でしたから。人が持つより上等な礼装を用意することが罪に当たるなら、彼の方も同罪だと思うのですけれど。


 ……すみません、話がまたそれましたわね。それで決闘の顛末ですわね。

 一方的な展開でしたわ。相手の魔法はオーブニルに届かない。やけになって殴り掛かっても物理障壁まで自動的に展開される。そこへオーブニルの魔法が飛んでくるのですから、堪ったものではありませんわね。為すがままです。勝負の行方は火を見るより明らかでした。


 それでも少年は諦めませんでしたの。素直に降参するべきだったでしょうにね。あれはもう意地だけで立ち向かっている状態でした。それも、明らかに張りどころを間違えた意地ですわ。ここで降参したら、自分には何も残らないから。なけなしの矜持を賭けてしまった勝負から、降りることは出来ないから。……賭博で大損をする性質ですわね。勝負には乗るべきでないものもありますし、乗ったとしても降りるべき時というものもございますでしょうに。


 オーブニルは、珍しく心底うんざりとした表情をしていましたわ。彼が見せた表情では一番人間的な顔に思えました。そして、人体実験に取り組んでいる時の次くらいに、残酷な表情でした。あれは虫を見る目でしたわね。小さな羽虫が、振り払っても振り払ってもしつこくまとわりついてくる時の顔。彼、降参させるために手加減をしていたのですわね。それが一番丸く収まるから。だというのに、相手がいつまでも粘るものだから、苛々して仕方なかったんでしょう。


 結局、少年は意識を失っても負けを認めなかったものだから、半死半生の重態。オーブニルは決闘で勝ったものの、私闘禁止の規則を破った上に、大人げなくも後輩を痛めつけたとのかどで、めでたく退学処分になったのですわ。この件が無ければ、今頃は人体実験の材料としてガレリン中の奴隷が死に絶えていたかもしれませんわね。


 決闘を挑んだ少年のその後ですか? 今では元気にしていますわ。当初は大怪我を回復魔法で無理に治した後遺症で、骨の形が歪つになったり手足を動かせなくなっていたらしいのですが、グラウマン教授が執刀した手術で、何とか元通りの身体を取り戻すことが出来たとか。皮肉にも、その手術はオーブニルが残していった論文を元に行ったそうですがね。


 オーブニルは、思ったよりあっさりと処分を受け入れました。逆に決闘騒ぎのダシにされたユニさんの方は、珍しいことに随分と青い顔をされていらしたけど。何だかアカデミーが彼を追い出したというより、逆に彼の方が飽きた玩具を放り出すようにして去っていったようにすら思えましたわ。錬金学科は予算が厳しいですからね、下手をすると大貴族お抱えの錬金術師の方が、良い設備を持っているかもしれません。お父上の危篤で一時帰国した直後ですからね。近々お亡くなりになって、遺産が当て込めると思ったからこその潔さだったようにも感じられましたわ。


 貴方、彼の家の相続問題の調査でいらしたのでしょう? 彼の兄君はそんなに問題のある方なのかしら? 特に無い? 風説に聞く麒麟児が、やけにあっさりと引き下がったのが不自然だと思ったから? じゃあ、これで疑問は解決したでしょう。

 あの男は錬金術に入れ込んでいるだけ。そしてその為に、他の何もかもを切り捨てられる化け物なのですわ。伯爵家当主の権利から得られる利益よりも、その義務によって生じる不利益を避けただけ。だって、政務や社交に時間を取られたら、肝心の研究が進まないんですもの。


 それに、あの普段から要塞のように身を鎧っている男が、没義道にも兄と争うことの危険を、考えに入れないはずが無いのではなくて? もしも研究を進めて行くうちに、どうしても政治権力が必要な段階になったら、その限りではないのでしょうけれども。


 ……手短に話すつもりが、随分と長くなってしまいましたわね。これもあのオーブニルが、良くも悪くも――いえ、悪くも悪くも――話題に事欠かない男である所為でしょう。長話にお付き合い頂いて、恐縮ですわ。


 ああ、そうだ。最後に一つよろしいかしら?

 これは仮定の話なのですが、老婆心ながら忠告を。

 あの男は、現段階では大人しく兄君に家督を譲り、自分は好きに研究に打ち込む気でいると思います。ですが、絶対にそれには飽き足らず何かをしでかすでしょうね。たかが一学生の身で、研究の為にあれだけの手を尽くし、そしてあれ程の冒涜的な研究を完遂した怪物ですもの。彼が錬金術の探究を止めない限り、必要とあらば何もかもを犠牲にして、今までにない規模の実験を行うはず。それこそ伯爵家の一つや二つ、いえそれどころか国さえも潰しかねないことを、ね。


 ……そうなる前に、早くあの男を亡き者にするべきですわ。

 冗談とお思い? 本気ですわよ、私は。

 一年もの間、すぐ近くで、あの男の所業を見続けたのですもの。そんな事を考えもしますわ……。







 終.ザンクトガレン連邦王国・王都ガレリンの宿屋にて――ある法院調査官の述懐


 あてがわれた部屋のドアを開けると、名も知らない花の匂いがした。

 匂いが強過ぎて、頭がくらくらする。安宿がよくやるような匂い消しの類だろうか? それなりのお代を払った客にするにしては、随分な酷い仕打ちだ。

 憂鬱な気分を抱えながらベッドへ横になる。

 休暇を使い、私費を投じて隣国に足を運んでまで行った調査は、どうにも扱いに困る結果となった。

 先ごろ逝去されたオーブニル伯の相続問題。継承争いが予測された事態から、次男がいやにあっさりと身を引いたことで速やかな決着が望めたはずのそれは、私が個人的な興味を抱いたことから最終決定を先延ばしにして来た。正嫡の兄に当主の座を潔く渡す弟の態度。あまりにも潔癖過ぎる。そこに作為を感じて今日まで調べ歩いたのだが。


「藪を突いて蛇を出したかな、これは……」


 件のオーブニル家次男、トゥリウス・シュルーナン・オーブニルは、知れば知るほど奇怪な若者だった。

 曰く、幼少の砌から好んで奴隷を殺した。

 曰く、奴隷の少女を怪物に仕立て上げた。

 曰く、狂人を意図的に作り出し、死者の魂を辱めた。

 どれもこれも、出来の悪い怪奇小説の筋書きめいている。こんなものをどう報告しろというのか。元より私の無理押しで始まった調査だ。それなりに体裁を整えた報告を上げねば、どうなるものか。いや、結局問題の無かった相続問題にいらぬメスを入れたかどで、譴責くらいは受けるかもしれない。こうなると分かっていたら、お定まりの聴取に終始して何もかも無難に終わらせられたものを。

 このままでは上の覚えも悪くなり、就任を先延ばしにされた伯爵家次期当主の不興も買ってしまう。

 それに何より、今まで調べ歩いて来たこの怪人物、トゥリウス・オーブニルは一体何を思うだろう?

 私が訪ね歩いた足跡が示す彼は、驚くべきことにその酸鼻な事件の数々とは裏腹に、ほとんど法に触れる行いはせずにいる。確かに奴隷の扱いはその主人に一任される。痛めつけようと苦しめようと発狂させようと、それこそ殺そうと自由である。邪術として甚だイメージのよろしくない死霊術師とも接触しているが、研究の為に公的な機関に属する者であり、しかるべき手続きを得て協力を依頼している。学生や講師との取引も、賄賂というにはちと弱かった。唯一明確な違法行為は件の決闘騒ぎであるが、既にザンクトガレン国内で処分が終わったことだ。これを蒸し返しては、相手方の裁判権を侵害したとして外交問題に発展する恐れもある。


「まったく、何だってこんなことに……」


 すんなり決まりかけた相続許可に、自信満々の顔で異議を唱えた一ヶ月前の自分を、この手で殴り倒したい気分だ。

 あの時、同期の友人が頻りにこの件から手を引くよう勧めてきたのは、おそらく断片的な噂であろうが、オーブニル家の次男について、自分より詳しく知っていたからに違いない。

 まさかほんの些細な違和感から始めた調査が、こんな厄の種を抱えていたとは!

 こんな危険人物を、野放しにはできない。だというのに、自分の考える方策では、トゥリウス・オーブニルを追い詰めることは不可能だ。精々がその風聞に傷を付けるだけである。そして傷を負った彼が、どのような反応を示すのかは未知数なのだ。

 いっそあの女学生の忠告に従って、教会に悪魔憑きとして告発し、火刑台にでも送ってやりたいとさえ思う。しかし、彼の亡き父親が教会に連れ込んだ段階では、シロだった。あれから改めて憑かれたか、収賄罪を覚悟で司祭を抱きこみでもしない限り、同じ結果が待っているだろう。

 どうすればよいのだろう?

 思考を巡らせど、どうしても解決策が浮かんでこない。

 無力感と徒労感が、私の身体を包んでいた。

 ……気が遠くなる思いまでしてくる。

 意識は確かにあるというのに、思考が取りとめの無い方向に向かい、まるで考えが纏まらない。

 徹夜で仕事を終えた後、頭がぐらぐらする程の眠気を感じているのに、緊張感が神経を支配していて一向に眠りに就けない。そんな状態に似ていた。私の瞳は空疎な視線を部屋の天井に向けるのみだった。


「…………」


 それにしても嫌な匂いだ。

 部屋のドアを開けるとともに嗅覚へ襲い掛かった香りは、全く私の鼻に慣れるということが無かった。

 甘ったるい花の匂いは、鼻腔から脳髄を侵すような濃厚さだ。

 頭の芯が、痺れて、いく……。


「――やあ、こんばんは」


 唐突にドアが開いたかと思うと、そんな言葉が飛んで来た。

 ずかずかと部屋に踏み込んで来たのは、まだ二十歳になるかならないかという、若い男だった。身なりの良い服装だ。貴族だろうか? それにしても無礼な客だ。人を訪ねるのにノックの一つも無いなど……いや、待て。

 ドアには、鍵を掛けていたはずでは?


「だ――」


 誰だ、と問おうとした私を、若い男は手で制した。


「ああ、お気になさらずに。そのままお寛ぎください。疲れておいででしょう?」


 柔らかい声音が、耳の中にするりと潜り込んでくる。この部屋に立ち込める匂いが、鼻の中に飛び込んでくるように。

 緊張が、解ける。私はベッドから飛び上がろうとするのを止めて、改めて座り直した。

 そうだ、ここは彼の言葉に甘えておこう。疲れているし、何も考えたくない気分だ。何も気にしたくない。


「実はあなたに、少々お聞きしたいことがありまして。はい、いいえで済む質問なら、首を振るだけでお答え頂いても構いません。僕はただ、あなたの素直で正直なお言葉が聞きたいだけなのです。よろしいですね?」


 私は肯いた。


「結構。では、お聞きしましょう。貴方はアルクェール王国の高等法院からいらしましたね?」


 私は肯いた。


「今回のお仕事は、伯爵家の家督相続にまつわる調査でいらっしゃる?」


 私は肯いた。


「調書の方を拝見させて頂いても?」


 私は躊躇った。

 調査には、守秘義務というものがあるからだ。


「……質問を変えましょうか。調書はどちらに? 指で示すだけで結構です」


 私はベッドの脇に置いた鞄を指差した。

 男は後ろに顔を向ける。そこには女性らしい影があった。メイド服を着ているようにも思える。

 ……メイド?


「彼女の事はお気になさらず。僕の質問のことだけを考えて下さい。いいですね?」


 私は肯いた。

 それを合図に、人影は私の鞄に近づくと静かに開き、中から羊皮紙の束を取り出す。そして恭しく膝を着き、男へそれを差し出した。


「ふむ……どれどれ――」


 男は手早く調書を読み進めて行く。

 私は何もしない。頭がぼやける。紙を繰る音だけが単調に響く。口の中に唾が溜まっていく。それを呑みこむのも面倒臭い。

 やがて調書を読み終えた男は、溜息を吐きながら顔を上げた。


「それにしてもこの調書、酷い内容ですねえ。そうは思いませんか?」


 私は肯いた。その拍子に、口の端から涎が垂れるのを感じた。


「あなたは実に勤勉で真面目な調査官だ。ご自分でもそう思われるでしょう?」


 私は肯いた。

 毛布に包まってまどろんでいるような心地。そんな中で聞く褒め言葉は、すとんと腑に落ちて行く。


「そんなあなたが、こんな荒唐無稽な調査内容を、信じられるのですか?」


 …………私は肯いた。

 証言の奇怪さ故に逡巡はしたが、私は高等法院の調査官だ。

 自分の調査には自信がある。


「ああ、調査への自信がネックか。……では、初めてこの話を聞いた時、耳をお疑いにはなられませんでしたか?」


 私は肯いた。


「よし――では、僅かなりとはいえ、嘘っぽいなとはお思いになられましたよね?」


 私は肯いた。


「もしかして証言者たちは、自分を騙そうとしているのではないか。そうお考えなられたことは?」


 私は肯いた。

 彼は笑った。


「では、証言を全面的に信じていられるわけではない?」


 私は肯いた。

 彼は微笑んでいる。


「疑問の余地がある?」


 私は肯いた。


「人に話しても、信じて貰える自信は無い?」


 私は肯いた。


「信憑性を疑っておられる?」


 私は肯いた。


「それじゃあ――そんな証言を元にした報告書は、上げられませんよね?」


 わ、わた、わたし、私は?

 わた、わたた、私、私は、わたしははは……?

 ……私は肯い、た。

 彼は笑みを深くした。


「……では、こんな調書はゴミのようなものですよね?」


 私は肯いた。


「ゴミを本国にまで持ち帰るわけにはいかない」


 私は肯いた。


「じゃあ、明日の朝に起きたら、一枚残らず焼き捨てて下さい」


 私は肯いた。


「高等法院には、常識的な内容の報告書を作成して提出しましょう」


 私は肯いた。


「よろしい。では、そろそろお暇します。ああ、僕らが出て行ってドアが閉まった一分後、貴方は目を覚まします。その時には僕らと出会ったことは忘れてしまいますが、お願いしたことはちゃんと実行してくださいね?」


 私は肯いた。

 それを確認したように、彼以外の誰か――何故か姿が把握できない――が、部屋の隅に置かれていた香炉を取り出す。

 途端に、あの甘ったるい匂いが強まった。

 あれが香りの元……?

 誰かは手に取ったそれを、ふっと吹き消す。

 あの甘い香りが、薄らいでいく――。


「それではごきげんよう。約束はちゃんと守って下さいね?」


 彼らは出て行った。

 ドアが閉まった。

 私は肯いていた。







 私は正気に戻った。

 どうやら、少々うたた寝をしていたらしい。長旅の疲れの所為だろうか?

 首を振って眠気を散らすと、鞄に仕舞われていた調書を取り出し、改めて検討する。

 どうにも気になる点があったからだ。私は勤勉で真面目な調査官だ。この国にも私費を費やしてまで聴取に赴いた。気になる点があっては確認せずにはいられない。


「くそっ、どうかしてた……!」


 思わず、毒づきながら頭を掻き毟る。改め見て分かった。

 どうして気付かなかったのだ? この調書は――


「まるっきりの出鱈目じゃあないか……!」


 酔っ払いのうわ言に、嫁き遅れた受付嬢の噂話、錬金術師どもの駄法螺。

 しかも内容ときたら、悪趣味で下劣極まるときた。

 こんなものを提出して、物笑いの種にならないはずがない。


「全部、やり直すしかないか……しょうがない、提出する書類は後で誤魔化すとして――」


 適当に当たり障りの無いことを書いた調書を、でっち上げるしかない。

 なに、どうせ高等法院には、いちいち貴族の次男坊の素行調査を気にする者などいない。大した審理もしないまま右から左に流されて終わりだ。若い私はそれに憤慨して、この相続に関する調査を要求したが、結果はこの様だ。上司からは睨まれ、新たな伯爵家当主を不快にさせ、同僚には馬鹿にされるだろうが、高い勉強料として甘んじて受けるしかないだろう。

 少なくとも、この紙屑を大人しく差し出すよりはましだ。


「……朝になったら、捨てに行こう。いや、いっそ自分で燃やすか」


 そう決めると、私は再びベッドに寝転がった。

 もう寝よう。

 起きたら、出鱈目ばかりが書かれた調書は焼き捨てて、早く帰国しよう。

 この馬鹿げた調査の為に取った休暇は、幸いまだ残っている。少なくとも、改めて常識的な調書をでっちあげるだけの時間はあるはずだから……。

 部屋には、あの匂いの薄い残り香が立ち込めていた。


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[良い点] 一昔前の物語の悪役のように熟語なりなんなりを多分に含めた文章が為になるのでメモを片手に読んでいます
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