045 魔の森へ飛べ<中篇>
冒険者にとってダンジョンの探索とは、やると決めたその日に向かえるほど気楽なものではない。人間にとって過酷な環境であり、魔物どもの巣窟でもある場所への突入など、事前にどれほど準備を重ねても過剰ではないのだ。装備を整え薬品類を買い揃えるのは基本として、野営の準備も必須となる。何しろ大抵のダンジョンは日帰りで行ける距離には無いし(あったらすぐにも都市が魔物に襲われるだろう)、『暗闇の大樹海』のような広大な物になると一日で探索し切ることは不可能である。なので、移動中や探索中に夜明かしをする必要がある。場合によっては何日も、だ。
まず必要となるのは日持ちのする食糧、そして飲料水。ある程度の魔導師なら魔法で水を出すことも出来るが、それには当然魔力を消耗してしまう。魔法というのは冒険における切り札の一つ、魔導師の存在意義そのものだ。それを浪費することは忌むべきであり、また魔法でパーティ全員分の水を賄っていては、幾ら魔力があっても足りはしない。なので、最初から必要な分の飲み水を確保しておくことは冒険者の鉄則の一つだ。勿論、ダンジョン内に湧水などの給水可能な地点があれば、その負担は幾らか軽減できる。幸い樹海には幾つかの湧出地が確認されているので、持って行く水の量を増やすよりは、煮沸用の鍋を持ちこむ方が楽であり、合理的だろう。
安全で快適に眠る為のテントや寝袋、毛布も忘れてはいけない。疲労やストレスが嵩むと集中力が途切れ、戦闘中に普段ならしないようなミスをしたり、探索中に重大な見落としをする可能性が高くなるからだ。また眠っている間に毒虫に刺されるリスクなどを、軽減することも出来る。特に病気を媒介する蚊の類には注意が必要だから、蚊帳としても機能するテントは必携と言っても良い。野営中に魔物の襲撃を受けた時も、テントの布が簡単な防壁となる。所詮は布だが、それでも引き裂く為には確実に一挙動を浪費するだろう。その一挙動が明暗を分けるケースも意外に多い。またどんなに暑い地方で冒険する時も、毛布を手放すのは禁物だ。夜になると冷えた地面が体温を奪い、失った体温を取り戻す為に体力が消費されてしまう。そもそも地べたなどは固くて寝苦しく、横になっているだけで疲れるものだ。寝袋に入る時、背中に毛布を仕込むだけで、それを大分解消出来る。
他には、意外なことだが着替え――特に肌着や下着――も疎かには出来ない。そんなところまで気を使っている余裕はあるのかと疑問の声も上がるだろうが、これが意外と響くのだ。何せ冒険者は常に生傷が絶えない稼業である。それが不衛生な物を身に着けていたら、どうなるか。細菌などという概念はザンクトガレンの魔導アカデミー、それもその一部にしか知られていないが、傷口に汚れが着けばどうなるか。それを想像出来る脳くらいは、誰にだって備わっている筈である。身の周りを可能な限り清潔に保つだけで、破傷風などの発症を、かなり抑え込むことが可能なのだ。とはいえ、水の一滴が血の一滴である冒険中に、入浴や洗濯など出来る筈もない。だからせめて、着替えくらいはすべきだと周知されていた。
このように、ダンジョンへ向かう冒険者は、実に大量の物資を用意しなければいけない。用立てるだけでも金が掛かるし、運ぶとなるとこれまた一苦労だ。勿論、如何に屈強な猛者でも荷物を抱えたままでは満足に戦えないだろう。なので、大概の冒険者は荷物運びを雇ってそれに荷を任せ、自分たちは出来る限り冒険に専念するのだ。これを務めるのはランクの低い他のパーティの冒険者であることが多いが、ギルドのある都市の有志であったり、或いはパーティの所有物である奴隷が行うケースも見受けられる。
今回の『守護の天秤』の場合は、オーソドックスに別の冒険者を雇う方式を取った。ジョエルたちは全員が全員、奴隷を使うなどという手立てを好まない性格であるし、『暗闇の大樹海』は町の腕自慢程度が潜って無事に済むような甘いダンジョンではない。
「おう、天秤の。俺らはここいらで張っていれば良いんだな?」
邪魔な灌木を取り払い、空き地のようにぽっかりと整地された樹海の一角。中年の冒険者が上げる胴間声が響いた。
ここは大樹海の踏破区画と未踏破区画の境目。どこまでとも知れず広がる森の、入口の終わりとも言うべき地点であった。
「ええ。我々は奥へ進みますので、その間のキャンプ地の保持をお願いします。なるべく一日ごとに帰還するつもりです。が、もし万が一、二日以上戻らなければギルドへの報告を頼むことになりますね」
「はっはっはっ! まあ、そうならねえように祈っておくぜ、神官の旦那」
マリアーノと折衝するのは、荷物運び兼仮設拠点の維持を依頼した二組のDランクパーティ、その片方のリーダーだ。若くて直情径行の強いジョエルでは交渉ごとは不向きであるので、こうした場合は彼の出番となる。当然のことだが、一切をマリアーノに投げっぱなしにするのも風聞によろしくないので、ジョエルも口は挟まずとも顔だけは出すようにしていた。
だが、知ってか知らずかもう片方から話が飛んで来た。
「なあ、坊や。これまでの獲物は、全部俺たちとこっちのの折半で良いんだな?」
「ああ、じゃない……ゴホンっ。ええ、構いません」
思わず伝法な喋り方になりかけたのを誤魔化しつつ、返答する。道中に倒してきたモンスターの討伐証明部位や素材は、全て荷物運びを受け持った二組のパーティに譲るという契約条件になっていた。そのお陰で報酬を大幅に値切れもしたが、『守護の天秤』の儲け分もほとんどが消し飛んでいる。これから向かう樹海の奥地で大物を仕留めねば、今回の冒険は大幅に足が出る結果となるだろう。
それについては事前に覚悟の上ではあるし、一度のしくじりで破綻するほど無計画な浪費もしていない。損害が出た場合に取り戻す為の方策も練ってはいるが、こうも嬉しそうに上前を撥ねて行かれると、やはり気分が良くなかった。
「それを聞いて安心したぜ。案外話が分かるじゃねえか、期待の新星くんよ?」
その冒険者は、こころなしか揶揄の色を強めてねちっこい手つきで肩を叩いてくる。はっきりと言えば、小馬鹿にした風であった。大方、儲けられるかどうかも分からない冒険に血道を上げる『守護の天秤』を、嘲笑っているのだろう。
冒険者の稼ぎ方には二種類ある。一つはギルドに依頼されたクエストをこなす。もう片方が自主的に討伐したモンスターの部位を査定して貰ったり素材を売る。後者は、実はというとあまり儲からない方だ。何しろ、依頼で倒してきたモンスターの素材も売れるのだから、当然前者の方が割が良い。無論、レイモン一味がやっているように、狩り場を独占出来れば後者でも相当に稼げるのではあるが。しかし今回のジョエルの場合は、道中で得られる飯の種を全て譲り渡している。これでは満足な報酬は得られまい。
確かに、実利を追求するという見地からすれば、愚かな所業である。命を張って戦い得られる報酬を、我から投げ捨てているのだから。そんな真似を仕出かすリーダーも、それに付いて行くパーティも、とんだ酔狂だった。
(知ったことかよ)
しかし、ジョエルにとっては知ったことではない。パーティ内ではそれが最良と意見を一にしていた。そして元より今回の目的は、樹海深部の情報を僅かなりとでも持ち帰り、ギルドの上層部や高位の冒険者を動かすことにある。そうすることがマルランの危機を未然に防ぐことになると考えてのことだ。誰に頼まれた訳でもないことだが、それが正しいことだとジョエルは信じている。
冒険者ギルドには幾つかジンクスが存在するが、中でもこんな物がある。
――一流の冒険者とは、なべて狂人である。
利害に左右されない強固な信念を狂気と呼ぶのなら、確かにジョエルは一流の資格を満たしていた。
「お褒めに与り、光栄です。……が」
彼は朴訥な少年そのものの口調でそう切り出す。
「払いが良いということは、それだけ仕事には確実さが求められるということ。ベテラン相手に言うことではないと思いますが、肝に銘じていて下さいよ?」
特に凄んだ訳でもなく、世間話で当たり前のことを口にするように言う。だが、ジョエルのその目を見た冒険者は、無意識の内に半歩を後退っていた。
「へ、へへへ……当然だぜ、俺だってお前より倍は年上なんだ、仕事はきっかりやる、やるともよ」
弁解がましく早口で言うと、一転して笑みに媚びるような色が混じる。
その冒険者はジョエルに気圧されていた。中肉中背の甘ったるい顔をした少年の、眼に宿る輝き。ロザリーが惹かれ、マリアーノが信を寄せ、シランが心を開く切っ掛けとなったその光は、この男には身を焼くほどに眩し過ぎたのである。その実感が脅威という感情となって表出していた。
「なにやってるのよ、ジョエル! さっさと行くわよ、でないと日が暮れちゃうってば!」
「……マリアーノも。よそとの交流も大事だけれど、時間は有限。……急ぐべきだと思う」
「分かってる、今行くって!」
「という訳で、我々はこの辺りで……皆様にも神のご加護がありますように」
女性陣に急かされて、ジョエルたちが慌ただしくキャンプを出立する。
威圧された訳でもなく呑まれている冒険者は、呆然とその背を見送った。
その様子に不審を抱いたのか、もう片方のパーティのリーダーが怪訝そうな顔で肩を叩く。
「おい、どうしたんだ? ぼーっとしちまって」
「……化け物め」
「はあ?」
「昔、昔に似たような眼をした奴を見たことがある……アレも今のと同じ、い、いやもっととんでもねえ眼をしてやがった……本当に同じ冒険者、いや人間なのか? く、くそっ……モンスター以上の化け物どもが……」
周囲のことも意識に入らぬまま、そんな繰り言を続ける。
声を掛けた他パーティのリーダーは、眉を顰めるとその男の仲間に声を掛けた。
「おい、お前らのところの頭はどうしちまったんだ? こんな様子じゃ仕事にならねえぜ」
「は、はあ……。ですが俺たちにも、てんで――ああ、そういえば」
「何だよ、心当たりがあるのか?」
「大分昔にも似たようなことがありやしたな。確かブローセンヌにいた頃、リーダーが一人で依頼を取りに行った時なんですがな。冒険者同士のいざこざに巻き込まれたって宿に逃げ帰って来たんですけど、何でも、とんでもなくイカれた眼をした化け物を見たとか。確かそいつは――」
未踏破の樹海の奥に踏み入ってから、二時間が経過している。
『暗闇の大樹海』とは鉱脈を蔵すと言われる山脈を覆った、未開の森である。浅い場所ならどうということもないが奥へと進むと、行く手を遮る樹木を迂回しながら山の斜面を登ることになるのだ。そうなると本当に自分が直進しているかどうかも分からなくなって迷いやすい上に、体力も容赦なく削られていく。
頭上には太陽を遮るように枝葉が茂り、今が昼時であることを忘れさせるほどの暗さが森を支配していた。周囲は静まり返っている。魔物の気配どころか、鳥の声すら絶えて無い。耳が痛くなるほどの静けさの中で、草木を分け入って進む『守護の天秤』の面子の足音だけが生きた音だった。
「今のところ順調に進んではいますが――」
「分かってる。良くない感じだよな、これ」
マリアーノの言に、ジョエルが肯く。
モンスターの棲み処である筈の地帯にしては、静か過ぎる。ましてやここは、入り口付近ですらD~C級の討伐対象がごろごろいる『暗闇の大樹海』、その奥地である。この静けさがどれほど異様なのか、察せられるというものだった。
静謐とはいえ、穏やかさなど無い。周囲の生き物が死に絶えたような不吉さだけが、そこにはある。
「生き物の気配は無いってのに、空気の魔力だけはやけに濃いわね……感覚が馬鹿になりそうだわ。シラン、あんたはどう? 何か聞こえる?」
「……何も。……周囲二〇〇メートル、全く無音。……ここ、本当に森? 虫の気配すら無い」
魔導師として魔力感知に長けたロザリーも、射手で野伏でもある聞き耳の達者なシランも、この環境には戸惑っていた。
「気を付けよう。魔物の中でも大物――特に群れを作らないタイプがいると、こんな感じに森が静まり返るらしい」
「他の魔物や動物たちを駆逐しちゃうから、だっけ? にしても、シランの耳にも何も掛からない、ってのは妙な話よね」
ロザリーの言う通りだった。他の生物が根絶された、強力なモンスターの支配域ならば、そのモンスターの気配なり生活音なりがするはずである。それすら無いというのは、どうにも奇妙だ。
四人は困惑を覚えつつも、警戒を絶やさずに奥へ奥へと進む。
隊列は男二人が前を進み、女性陣が後ろを固めるといったオーソドックスな形だった。
ジョエルは動きやすさ重視のバンデッドアーマーに身を包み、左腕に取り回しの良いバックラーを括りつけている。剣士として敵を攻撃するだけでなく、後衛の味方を庇うことも役割とする為だ。
マリアーノはというと、プレートアーマーを着込んだ上から聖印を刺繍したサーコートを羽織り、ガッチリと守りを固めている。剣士ほど動きまわる必要が無いからだ。また自分にも回復魔法の使える神官は、タフな盾役でもある。
一方、ロザリーとシランは男たちに比べて軽装だった。レザーアーマーを身に着けているシランは良いとして、ロザリーはというと杖を携え厚手のローブを羽織ったきりで、後は平服に等しい。魔導師の厄介な点として、法力を用いる神官と違い、魔力を散らすような金属や動物性の素材と相性が悪いことが挙げられる。なので防具もほとんどが布製だ。魔導師用の金属防具は、素材の希少性から非常に高く、Cランクの身代では購入にも維持にも荷が重過ぎる。なので、防御力に劣る魔導師をどう守るかが、冒険者パーティには問われるのだ。
「……百歩」
所定の歩数を歩くと、シランが手近な木の幹に目印を刻もうとナイフを取り出した。地図も無い森での探索行である。帰路を見失って遭難しないようにとの工夫だった。
カツカツ、と乾いた音を立てて樹木に傷を付けていく。
「……?」
不意に奇妙な感覚がシランを襲った。
震えだ。微かな振動が幹に当てた左手から感じられたのである。
彼女は思わず飛び退いて身構えた。
「……今、震えた?」
「震えたって、その木がか?」
「もしかして、トレントでしょうか?」
マリアーノが言うのは、樹木が意思を持って動き出した精霊種に近いモンスターのことだ。森の守り神とも呼ばれ、怪物どもの中では比較的温厚な部類ではあるのだが、伐採者など棲み処を脅かす人間には容赦無く襲い掛かってくる。ましてや、その身に傷を付けたともなれば、怒り狂って暴れ出すに違いなかった。
「でも、動かないわよ?」
「気の所為なんじゃないか? 刃物を入れられて動かないトレントなんて、聞いたことも無いぞ」
「……そう、なのかな」
釈然としない物を覚えてか、首を傾げるシラン。そんな彼女に、ジョエルは提案をした。
「軽く火を近づけてみたらどうだろう。木の精は炎を嫌うから、反応するんじゃないか?」
「……いや、止めよう。……無理に怒らせても良いことは無い」
もしトレントであったとしてたら、下手に刺激して戦闘になるのはよろしくない。全身が堅い木材で出来ているので、シランの矢も通りが悪いしマリアーノのメイスも効果はいま一つだろう。それでもジョエルの剣やロザリーの魔法なら通じるだろうが、剣の刃毀れや魔力の消耗は避けたかった。また森の環境を整える力を持つ木の精を、悪戯に討伐するというの聞こえが悪い。上等な木材を剥ぎ取れるから旨みのある獲物ではあるが、ここは危険地帯である『暗闇の大樹海』の奥だ。目的に資することの無い戦闘は避けるべきだろう。
「……第一、外れだったとしたら松明が無駄になる」
「それもそうですね。ここは先を急ぎましょう」
「分かった。そもそもトレントくらいじゃ、この辺り一帯の魔物を黙らせる程のもんじゃあない。大物は、まだ先にいるか」
そう結論を出すと、一行は先を急ぐ。
だが、シランはその木のことが気に掛かっていた。
手に伝わった震えの感触が、今も生々しく手に残っている。傷口からじくじくと滲み出した粘っこい樹液。それがどうにも血を連想させてならない。未知の領域を探索する緊張の所為だ、と思っても、中々頭から離れてくれなかった。やはりしっかりと確認するべきだったろうか? いや、したとして本当にトレントだったら、無駄な戦闘が――思考が堂々巡りになる。
これではいけない、しっかり警戒しないと、と軽く首を振った瞬間、
「ひゃっ!?」
列の真ん中を進んでいたロザリーが、ビクリと跳ね上がった。
「どうしたロザリー?」
「いや、何か冷たい物が顔に……雨かな」
「それはないでしょう。雨音がしませんし」
マリアーノが言う通り、この樹海は高い木々が長い枝を天井のように張り巡らせ、空を覆っている。そんなところで雨が降れば、地上を歩くロザリーに当たる前に、まず頭上の枝葉にぶつかって音を立てる筈だった。
「何だ驚かせるなよ。大方、朝露の残りでも上から落ちて来たんじゃ――」
などと冗談めかしながら上を見たジョエル。その顔が、凍りついたように強張った。
「何よ、ジョエル。上に何が……ひっ!?」
ロザリーも、小さく悲鳴を噛み殺す。マリアーノもシランも、それを見て目を瞠った。
頭上三メートルほどの木の上、枝の股の間に人型の何かが挟まっている。
死体だ。腸を抉られ、恐怖の表情に固まった死に顔を逆しまに晒す亡骸が、まるで見せしめのように虚空へ垂れ下がっていた。
無論、死体は人間のものではない。例の山師や捜索隊の冒険者にしては腐敗が進んでおらず新しかったし、幾ら変わり果てたと言っても、その姿は人間からかけ離れ過ぎている。
「……トロル鬼」
同じ人型を取るモンスターでも、知能でオーガに劣る代わりに、それを上回る体躯と身体能力を誇る怪物。討伐等級はCランクでも上位、群れともなればBランク冒険者でも呼んで来なければならないほどの強敵だ。
それがこうして樹上に骸をぶら下げているという異常。それも一つや二つではない。ざっと見ても五体のトロルが枝に吊るされていた。怖気を振るう光景に『守護の天秤』の一行は金縛りにあったように立ち止まる。例のアライアンス全滅の件から、樹海の奥には容易ならざる存在が居るとは理解していた。だが、獰猛なトロルでさえこの有様になるとは、一体どういう化け物が潜んでいるというのか。
「まるでモズのはやにえだな……」
「ということは、このトロルどもは餌? それを保存する為に、こんな――」
「……危険。早く立ち去るべき」
シランの主張に、全員がすぐさま肯いた。餌が確保されている以上、ここはそれを喰う者の塒か、でなくばその直近だ。それも尋常ではない怪物の、である。何時襲撃を受けても不思議ではない。
最早、探索だの証拠を掴むだのと言っていられなかった。こうして餌場に踏み込むまで何一つ気配を感じられず、痕跡すらも見出せなかったのである。そんな狡猾であり強力なモンスターと戦う危険など、冒せる筈が無かった。
退却するしかない。
だが、その判断は遅きに失していた。
――バキバキバキっ。
頭上から、生木を圧し折る音が近づいてくる。太陽を遮る太い枝が、トロルの死骸をも支える固い枝が、それでもこれには耐えられぬと悲鳴を上げていた。大きく重い何かが、凄まじい勢いで上から降ってくる。
――ズシンっ。
牛馬をも凌ぐ巨体が、地響きを立てて着地する。
現れたのは、異形の怪物だった。爪を備えた太い四つ足は虎に似て、皮膜状の巨大な翼は蝙蝠を連想させる。威圧的に振り上げられた長い尻尾は、蠍のそれに無数の棘を生やしたようなもので、先端部からは毒々しい粘液を滴らせる太針が伸びていた。頭部にはごわついた鬣を備えている。そう表現すると獅子のようでもあるが、実際に受ける印象は違う。邪悪な喜悦に輝く瞳といい、貪欲にひくつく鼻の造形といい、嘲りと食欲から歪められた口といい……その顔は何もかもが、冒涜的なまでに人と似ていた。
「マンティコア……」
パーティの誰かが、呆然と怪物の名を口にする。
マンティコア。森に潜む、複数の獣の部位と人面とを兼ね備えた魔獣。その名前は遠い昔の言葉で、『人喰い』を意味していた。
膂力、知能、魔性、特質、その全てが人類にとって危険域。討伐等級はB+と、人外の凄腕を要する高位に位置する。
「贄ェ……! 贄ェ……! 捧げろ、供えろ、喰わせろォ……っ!!」
醜悪な男の顔を持った化け物は、当然のように人の言葉を操って吼えた。大気が震え、木の葉が慄くようにざわめく。悪意を帯びた波動は、四人のCランク冒険者を包んで身動きの自由を奪った。
つまり、彼らはもう、逃げられない。
「……森の中に、気配が無かった。……もしかして、空から――」
「そんなこと考えている場合じゃないでしょ、シランっ!」
「全員構えろ! 来るぞっ!」
「ええ、分かっています!」
硬直をすぐさま振り切り、迎撃の態勢を取れただけ、ジョエルらは立派だった。Cランクの冒険者でも、大半の者は威圧一つで戦闘不能になりかねない瘴気である。まずはそれに抗えねば、戦う資格無し。耐えられなかった者は、何も出来ずに喰われる。高位のモンスターに討伐を挑むというのは、そういうことなのだ。
獲物たちの小癪な抵抗の構えに、マンティコアは笑う。
次の瞬間、その巨体が霞んだかと思うと、
「ぐああっ!?」
「……くっ!?」
ジョエルは吹き飛び、マリアーノは蹈鞴を踏んで後退していた。怪物が一息で距離を詰め、その両前足で前衛二人に殴りかかったのだ。
だが、それで終わりではない。
「マリアーノ、さんっ! 跳べェ!」
「ジョエルくん? ……うあっ!?」
ゴウっ、という唸りが聞こえると同時に、毒針を備えた尻尾がマリアーノに迫る。二段攻撃。ジョエルが吹き飛ばされたのは、決して不覚を取ったからではない。意識してか無意識にか、尻尾の追撃があることを察していたのだ。逆に下手に踏み止まったマリアーノは、その攻撃圏内から離れられていないのである。
ジョエルの指示に従って後ろに跳んだマリアーノ。間一髪、彼の胸元を掠めるように、針と棘とで武装した尾が通り過ぎていった。
避けることには成功した。しかし、
「よ、鎧が……」
サーコートに焦げ目の付いた穴が空き、浸食はその下の胸甲にまで達して、ブスブスと毒々しい煙を上げる。マンティコアの尾から滴る毒液の仕業だった。僅かに浴びただけで、聖印付きのサーコートと金属鎧がこの様だ。これがもし肌に掛かったり、毒針で体内に直接打ちこまれたら、どうなるものか。想像するだに恐ろしいものがある。
「シラン、弓で足止めお願いっ! ≪炎の精よ――≫」
「……くっ」
反撃の為に魔法を唱えるロザリーに、それを援護せんと矢を放つシラン。
乙女の二人の健気な抵抗に、怪物は邪悪な双眸を細く歪めた。
「小賢しや、人の子。愚かしや、人の子ォっ!」
尻尾の一振り。それだけでシランが一呼吸の内に放った三本の矢が、虚しく弾かれ宙に舞う。
そして、
「絶望ォせよォ……! ≪暗黒の神、我ら魔の者の親たる御身に、伏して祈願し奉る――≫!」
「魔法だと!?」
人の頭を持ち、人の声で喋る以上、これも当然のことだろうと言わんばかりに呪文を唱え始めた。
しかも邪宗の祝詞の如き詠唱の不吉さと、渦巻く瘴気の濃さからして、発動する魔法の威力が察せられる。
打たせたら、拙い。
その予感が、ジョエルを攻勢に駆り立てた。
「……退魔防御準備ィ! シランは俺ごとでも良いから、撃てェ!」
突撃の喚声代わりに指示を叫ぶと、そのまま剣を片手に斬り掛かっていく。
「分かりました! ≪万物の祖たる御神、人類の父たる聖王よ――≫」
「……なるべく、避けてっ」
マリアーノは滅私の心境に入って聖句を唱え、シランも悲壮な表情で弓を射る。ロザリーも、焦りを噛み殺すようにして魔法の詠唱を続けていた。
(早く、早く、早く発動しなさいよ馬鹿魔法っ! ジョエルが、ジョエルが危ないじゃないっ!)
「うおおおおおおっ!」
仲間たちの視線に加え、構わず撃てと言った通りに矢を受けながら、ジョエルは雄叫びを上げて果敢に攻撃を続ける。
唐竹に頭を狙った太刀は爪で払われた。牽制にと繰り出す横薙が尾の棘に防がれる。一歩下がってからの突きも小馬鹿にしたような頭突きで逸らされた。
ならばもう一度、渾身の唐竹――、
「……がはァ!?」
それを繰り出す前に、前足で胸を殴られ吹き飛ばされた。
地面を数度バウンドして木の幹に叩きつけられるジョエル。無呼吸運動の連続で肺の中の空気など空だというのに、胸郭への痛撃に反応する肉体は、ありもしない呼気を吐き出そうと無意味に蠕動する。
「おっ……ぐっ……!」
それでも、リーダーたる自分が沈む訳にはいかないと、地面に突き立てた剣を杖に立ち上がる。
朦朧とする視界の中で、勝ち誇るように笑うマンティコアの姿があった。
ジョエルの攻撃を捌きながらも唱えていた呪文が、完成したのだ。
「≪――ここに生ある者の魂を、その業火にくべん! イグニス・ファタス≫ゥウウウっ!!」
瞬間、超自然の炎が怪物の足元から広がった。
同時に『守護の天秤』のメンバーも咄嗟に動く。
「……ジョエルっ!」
シランが弓を投げ捨てて彼を庇うように覆い被さり、
「≪――我らに御盾の加護を賜らんことを! ホーリー・プロテクション≫っ!」
マリアーノが防護の神聖魔法を発動させ、
「≪――――≫」
ロザリーも、何らかの魔法を対象に向けて放った。
だが、マンティコアの唱えた魔法≪イグニス・ファタス≫は、その場の全てを飲み込んで広がっていく。通常の炎属性魔法とは違う、数え切れないほどの蝋燭の光を無理に一つに纏めたような、不自然な明るさを持つ邪悪な炎。それは樹海の草木を一本たりとも燃やすことなく、包まれた者の肉体と精神のみを焼き焦がす。魔の眷族が揮うに相応しい、嗜虐の色を帯びた不浄の火炎だった。
「あ、ああああああっ!?」
「ひっ、あっ、かはっ……」
「――――っ!」
神官の齎した聖なる護りなど知ったことかと、炎は冒険者たちを責め苛む。
熱傷の激痛と呼吸を奪われた苦しみに、ロザリーが、マリアーノが、ジョエルを抱き竦めたシランが痙攣的にのたうつ。
やがて四人全員が力尽き、地に伏したのを見届けると、マンティコアは勝利の哄笑を上げた。
「贄ェ! 贄、贄、贄ェ!! ぐふっ、ぐふふっ! ぐふふはははははァ!!」




