039 王都は燃えているか<終>
夜闇の中を、彼は逃げ惑っていた。
放たれた火は燃え続け、延焼し、黒煙を上げて月を遮っている。赤々と猛り輝く炎は、まるで夜を引き裂いているかのようだ。
そんな中で、火に照らされないよう影から影へ、鼠のように隠れて走る。轟々という火の吹き上がる音が、自分の背中に息を吐きかける獣を連想させた。立ち止まったら、喰われる。そんな根拠も無い怯えすら、馬鹿なと振り払うことも出来ない。
――どうしてこうなった。
目鼻から滴る汁で顔を汚しながら、彼は思った。
どうしてこんなことになったのだろう。自分はただの百姓で、農民で、どこにでもいる平民の筈だった。こんな大それたことの出来る人間ではなかった。幾ら生活が苦しくても、貧しくても、或いは馬鹿にされようとも、生きているだけで満足だと思っていた。そう妥協していた。それだけで世界は十分に回り、感性を擦り減らしながらも生きていけたのだ。
それがどうして、こんな所にいるのか。
どうやってここまで来たのかは憶えている。
どうやってここまでの事をしたかも憶えている。
なのに、どういうことなのだろう。
……どうして、これをやろうと思ったのか。
それだけが、思い出せなかった。
「同志!」
「我々は、我々はどうすれば良いのですか、同志!?」
後ろから聞こえてくる声がうるさい。
自分の足跡をなぞり、同じリズムで足音を立てる愚者の行進。彼らは相も変わらず、鴨の子のように後を付き従っている。
不意に、それがまるで、自分を逃げ場のない袋小路に追いやっているようにさえ思えた。
「同志!」
「いつまで逃げれば良いのですか、同志っ!?」
「……黙れェ!!」
彼は堪りかねて叫んだ。
するとどうだ、後ろの連中はピタリと口を噤んでしまう。
本当に、本当にコイツらは、自分の言うことを聞くだけの木偶人形なのだ。
今更ながらにそれを実感すると、腹立ちが一層募る。
「す、少しは自分の頭で考えろ! 俺は、俺はお前らの親じゃないっ!」
足を止め、振り返って怒鳴りつけると、後ろを走っていた連中は戸惑いながらもたたらを踏む。そして、呆けたようにお互いに顔を見合わせた。
「かん、がえる……?」
「自分で……?」
「俺……俺たちは――」
ぼんやりと呟くその顔からは、急速に切迫感や緊張感、熱情などが失せていく。
まるで魔法が解けていくようだった。
「……何で、俺たちこんな所にいるんだ?」
誰かが、そう零す。
途端に、うそ寒い冷たさが背筋を走った。
何故、ここに来ようとしたか。何故、こんなことをしようと思ったか。
自分が気付いた欠落は、その実、ここにいる全員が共通して持っていたものなのだ。
それを悟り、薄気味悪さに慄然としていると、
「おやおや……こんなことで、術が解けるとはな」
傲然とした女の声が、上から降ってきた。
「だ、誰だ!?」
彼は怖じ気を払うように声を荒げて上を見る。
声の主は、そこにいた。
炎上する屋敷の屋根の上、業火を背にしてもなお涼しげに、長い足を組んでこちらを見下ろしている。頭からすっぽりとローブを被り、容姿の程は判然とせず、声と細い脚から女だと言うことくらいしか判らない。だが、声には確かに聞き覚えがあった。
「お、お前は……確か、いつだか酒場にいた――」
そう。
数日前に、ブローセンヌの酒場にて演説をぶち上げた時、最初に同意の声を上げた女だ。彼女の言葉を皮切りに、そこにいた男たちが彼に同心した。それが今夜の蜂起の切っ掛けだった。
屋根の上の女は、顔色を変えた彼と未だに呆けている群衆に、嘲笑を浴びせる。
「フンっ……。低俗な猿にしては、物覚えが良いじゃないか。もっとも、それにしては芸の仕込みに手古摺らせてくれたものだが、な」
奇妙な物言いだった。
まるで彼の……いや、彼の行動が、この女の引いた絵図面に従っていたかのような言である。そんな訳は無かった。
自分は、自分の言葉で同志たちを集め、自分の意図で計画し、自分の手で事を起こした。
その筈である。
思っていると、女はこちらの内心を読み取ったように、大袈裟に肩を竦めた。
「……察しの方は、それ程良くないようだな。まあ、仕方無い。所詮は猿だ。いや、あの方に言わせればモルモットか。オツムの程度なんぞより、この条件下でどう走り、どう悶えたかの方が重要だろうよ」
「さ、さっきから何を言っているっ!?」
堪りかねて怒鳴りつけると、不愉快そうに鼻を鳴らす音が返ってくる。
「フンっ、ただの答え合わせだよ。貴様ら、それで意味も悟れんような愚図なのか? なあ、おい」
「い、いい加減に――」
更に言い募ろうとしたところを、また別の声が割って入る。
「先輩、先輩。何言ったって無駄でしょうよ。だって、コイツらホントに馬鹿なんだもん。噛んで含めるように言ってやって、それでどうにか半分解るかも、ってくらいじゃないのォ?」
「全くです、と、同意しマス。間も無く仕上げの時刻、それまでに、時間を浪費するべきではありまセン」
横合いの路地から現れた、黒い霧のように朧な人影。
群衆の真後ろから掛かる、鉄の塊のように冷えた声。
屋根の上の女と合わせて、たったの三人。それがまるで、この場に集った数十人の人間を、一人とて逃がすまいと丸ごと包囲している印象さえ受ける。
「……それもそうだな。遊んでいる時間は無い。手早く済ませるべきなのだろうな」
言いながら、女はフードの中から左目だけを覗かせる。
炎を逆光と背負いながらも、何故か爛々と紫色に輝く左目を。
「ぐ、あ……!?」
それをまともに見て、彼は気が遠のくのを感じた。
呆けていた仲間たちも、更に脱力してだらりと腕を垂らし立ち竦む。
「おい、お前たちも香を使え。流石にこの数だ。私の眼だけでは取り零しが出るし、魔力も喰うからな」
「はいはーい……。分かってますよ、っと」
「了解しまシタ」
同時に、異国の花を思わせる甘い香りが辺りを包む。
意識が、遠ざかっていく――。
「それでは最後の命令だ。間も無く到着する騎士団とやらと、死ぬまで戦え。自由と平等の為に、だったか? ……フンっ、くだらん」
心底からの蔑みを込めた声と共に、疑問も困惑も恐怖も、全てが溶けて消えた。
史書に曰く、ブローセンヌ九月の大火と呼ばれる民衆蜂起は、貴族街にて首魁ガストン・ジュストを始めとする暴徒五十三名が誅されたことで、幕を閉じたとされる。
鎮圧に際しては熾烈な抵抗が生じ、事に当たった近衛騎士団に死者こそ無かったものの、先鋒の第一騎士団から六名の重軽傷者を出した。
だが実際には、活動家を名乗る暴徒たちは依然として市街でも略奪と暴行を続け、貧民街の住人たちも、これに便乗して火事場働きを始めていたという。
対して、市街に居合わせた冒険者たちは独断で暴徒討伐を始め、冒険者ギルドも慌ててこれを追認。事態の完全な沈静化が成ったのは、実に明払暁のことであった。
のみならずその後も、暴徒の放った火はあくる日の昼まで燃え続け、市街では三千戸以上が全焼。貴族街でも十軒の屋敷が焼け出される被害が出る。
人的被害は推定で、死者六千人から二万人以上。重軽症者は記録にも残されていない。あまりにも多過ぎて、数え上げることすら諦められたからだ。
死者の大部分の死因は、意外なことに溺死である。火災からの避難と、暴徒からの逃亡の為に、勢い余ってアモン川へ転落した為だった。黒煙が濛々と立ち込め、死体で川が堰き止められて、焦げ臭さと死臭に満たされたブローセンヌは、さながら街自体が巨大な火葬場と化したようだったとさえ伝わっている。
※ ※ ※
「よっこいしょ……あ痛たた……」
杖を片手に立ち上がったところで、胸から突き上げる痛みが僕の動きを妨げた。傷が塞がったとしても、完全に治りきってはいないのだし、傷を負ったという事実が変わる訳でもない。しばらくの間は、身動きの度にこの痛みと付き合っていかなくてはいけないのだろう。
幾ら回復魔法や治癒のポーションなんかがあるからと言って、あらゆる傷がすぐさま治るという訳ではない。表層的な外傷や骨折なんかは割とすぐに治せるが、身体の奥まで深々と刺されたり内臓が損傷したりすると、ちゃちな治療ではそうそう完治しないのである。これを一朝一夕に回復させようとするなら、高位の司祭が使えるレベルの魔法とか、目玉が飛び出るほど高い素材を使った高級ポーションが必要だろう。ちなみに、僕だったら患部を切開して直接そこを回復させる。が、そんな大掛かりな手術が出来る規模の施設は無い。去年、家から追い出される時に潰しちゃったからなあ……。
「大丈夫なの? トゥリウス卿」
そう言って心配そうに声を掛けてくるのは、シモーヌさんだ。まったく、彼女もそれどころじゃないっていうのにこちらを案じてくれるとは。本当に、兄上には勿体無いお人だ。
僕は彼女を安心させようと、努めて快活に笑ってみせる。
「はい、お気遣い無く。傷は魔法で塞がっていますから、後はしばらく静養すれば、すぐ元通りです。問題はありませんよ」
もっとも、領地マルランに帰って本当にゆっくり休めるまでは、まだまだ一週間以上、馬車での旅程を消化する必要があるのだけれど。
そう。僕はこの度、ようやっと王都での長い足止めから解放される運びとなったのだ。
何せ、出席すべき婚儀はとっくに終わったし、取り上げられていたユニも返して貰った。僕としてもこの街に留まるべき理由を失っているし、その上、滞在中のオーブニル本邸で何者かの手の者に命を狙われたという事実もある。
王都での危難を避けて領地に帰るには、丁度いい口実だろう。帰り着く頃には収穫期に入っているだろうし、そういう意味でも頃合いだった。
「僕よりも義姉上の方こそ……その、何と言いますか……御気を強く持って――」
後ろめたさに口籠りつつも言うと、彼女は顔を伏せて首を横に振る。それに合わせてヴェールが揺れて、その表情を窺う視線を遮った。
「大丈夫よ。結婚が決まった時から心配させ通しだったんですもの。今日こそちゃんと、安心させてあげなくちゃいけないんだから」
そう言う彼女は今、喪服を身に纏っている。この間の結婚式とは真逆に、黒一色だ。
僕が出立するのに合わせて、彼女も葬式に出かけるのだろう。
誰のって? 彼女の両親のだ。
「……お悔やみ申し上げます」
シモーヌさんの実家、ポントーバン男爵家は、先の暴徒襲撃に遭って、一家全滅の憂き目を見ている。あの家は活動家連中の言う搾取者や圧制者とは程遠い貧乏貴族だと聞いているけれど……単純に貴族街の中でも襲い易い家だったから、無差別の襲撃に巻き込まれたのだろう。
僕の言葉に、兄嫁は微かに覗く口元に力無い笑みを浮かべた。
「ありがとう。さ、行きましょ」
「はい」
彼女の肩を借りて歩き出す。女性に支えられて立つ、というのは未だに気恥かしいし、大変な目に遭っている人だというなら尚更遠慮を感じてしまう。
けれども、この人はそうしたいように見えた。
辛い時、悲しい時、苦しい時、泣いたり怒ったりする人は多いだろう。僕もそちら側の人間だ。だけど、彼女はその逆。自分が苦しいからこそ、悲しいからこそ、人には優しくあろうとしている。
そのどちらが上等、という話ではない。涙を流すからこそ人に気持ちが伝わることもあるだろうし、気丈に振舞い続ける所為で、かえっていつまでも心痛を胸中から追うことの出来ない場合だってある。
ただ、この人の優しい気持ちや態度は、素直に嬉しく、有り難いと思う。
出来れば、どうか幸せになって欲しい、とも。
「……何をしている」
そこへ冷たく声を掛けて来たのは、まあ、言わずとも分かるかもしれないが、兄上だ。
苦々しい表情は、僕と顔を合わせる時は大概こうだから、いつものことだ。が、今日の彼の視線ときたら、それだけで人を射殺せそうな程である。
それも仕方のないことかもしれない。何せ、ほら。自分の新妻が、殺したい程に憎んでいる弟に、甲斐甲斐しく肩を貸してやっている場面だ。嫉妬深い男なら苛立つであろうし、そうでなくても、殺意の対象が伴侶と触れ合うことを良しとする者もいない。
が、僕も見ての通り怪我人だ。少しは手心だの容赦だのをくれても良いと思うのだけれど。
「見て分かりませんか? 帰りの馬車に乗りに行くところです」
「玄関を出て、少し歩くだけだろうに。それくらいならば自分の足だけで歩け」
うっわー、この人ホントに大人気無いなー。婚儀の日と違って他所の人の目が無いもんだから、言いたい放題だ。
流石の僕も顔の筋肉が引き攣っていくのを感じる。
「それとも何か? ご自慢の錬金術では、傷を癒す薬一つ、満足に作――」
「ライナス」
更に言い募ろうとした兄を、シモーヌさんが遮った。
「お願いだから、私にこれ以上、貴方を嫌いにさせないで」
「なっ……」
凍えるように冷たい声に、兄が目を瞠る。僕もギョッとして、思わず彼女の方へ顔を向けた。
表情は喪服のヴェールに遮られている。けれど、チリチリと肌に感じる視線からは、その下の眼差しが険しくなっているであろうことを僕らに教えてくれている。
「婚儀の前夜だけでなく、葬儀の朝にもそんな調子なの? 本当にいい加減にして頂戴。それと、刺客に襲われて手負いの弟を一人で歩かせるだなんて、誰かに見られたらどう思われると思っているのかしら。この家を彩るあらぬ噂が、また一つ増えることになるわよ」
「……。すまない、短慮であった」
義姉の詰問に、兄は不服げながらも頭を下げた。
彼女の言うことも、もっともである。義理の両親の葬式前にするような会話じゃないし、介添え無しの怪我人を叩き出す姿なんて見られたら、また物笑いの種になるだろう。第一、僕が怪我をしたとの報は、既に王都中の貴族に聞かれているはずなのだ。そこで僕を冷遇して見せたら、実は刺客を送ったのは実兄なのだ、なんて憶測が囁かれてもおかしくない。いや、ひょっとしたら既にそんな噂が巷間に流れている可能性もある。
というか彼は、二親ともに失ったばかりの妻を、率先して慮るべき立場だろうに。それを忘れて嫌味なんて言い始めるからこうなるのだ。まったく、神経質なくせして肝心なところでは無神経なお人だ。
「まあ、これも兄一流の檄でしょう。僕は慣れていますからお気にせずとも大丈夫です。ね、義姉上。そう怖いお声を出さないで下さい」
夫婦不和の種をまいて知らん顔、というのもなんなので、仲裁の為に口を挟んでおく。どうにも気休めっぽい感じではあるが、言わないよりはマシだろう。
その心が通じたのか、
「トゥリウス卿……。貴方がそう言うなら、構わないけれど」
と矛を収めるシモーヌさん。
うむうむ。僕としても険悪な雰囲気のままおさらば、というのは気が咎めるところだったのだ。折角、嫌な思いばかりした王都から帰ることが出来るのである。出来ればさばさばとした気分で爽やかに旅立ちたいものだった。
思いつつ、表玄関を開けて外に出ると、そこには大火の際に暴徒に荒らされた惨状が、未だにくっきりと残っていた。踏み石がところどころ剥がれているのは序の口。高そうな像が壊れたまま転がっていたり、庭の芝が豪快に抉れていたり……何か、暴徒に壊されたというより、ドゥーエが暴れて壊したのだろう物の方が多いような気がする。兄上がそれらを見る度に、一々物言いたげな目線をくれるが、無視だ無視。
門前に出ると、丁度、二台の馬車が脇に停まるところだった。残念なことに、連れて来た奴隷たちと一緒に市中の宿に預けていた馬車は、例の暴動で壊されてしまったらしい。なのでこれは、新たに買ったか借りたかしたのだろう。つまり、前のと違って僕の手による改造がされていないので、それはもうガタガタ揺れる。……ああ、憂鬱だ。
「……お迎えに上がりました、ご主人様」
馬車から降りてそう言うのはユニである。彼女や他の家臣を、足の調達や帰路に必要な諸々の買い出しに行かせていた所為で、僕は義姉の手を借りて歩くことになっていたのだ。ユニたちが馬車を持って来るまで待っても良かったんだけど、僕としても一刻も早く発ちたかったので、しょうがない。
何しろ、今の王都は大火後の混乱に見舞われていて、物資の調達にも難儀するのだ。総掛かりで掛からないと、出立までに何日掛かるか分からないのである。
「奥様にもお手煩わせいたしまして、恐縮です」
「良いのよ。好きでしていることだもの」
頭を下げるユニに対し、彼女は屈託無く笑って言う。本当に出来た女性だ。怪我人の僕だけでなく、他人の奴隷であるこの子にも優しく出来るなんて、この世界では希少な資質だと思う。それだけに、亡きご両親の遺徳が偲ばれるというものだ。
なんて考えながら、身体の預け先をシモーヌさんからユニへと変える。
「それじゃ義姉上、お世話になりました。……葬儀に列することなくお暇する不義理をお許し下さい。これから大変な時期だとは思いますが、その、お元気で」
「ええ。トゥリウス卿も、一日も早く元気になられて? またいつか、貴方のお茶をご馳走になりたいものね」
別れの挨拶に、義理の姉はそんな言葉を返してきた。
はて? お茶というなら兄の方が余程の上物を持っていると思うけれど……もしかして兄上、嫁さんに対しても茶葉をケチっているんじゃないだろうな?
あらぬ疑惑を抱かれていることを知ってか知らずか、兄は不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「……早々に帰るがいい。そして、しばらくは任地での政務に専念せよ」
帰れ、と来たか。この家は既にお前の居場所ではないと言いたい訳だろうか。
「はいはい、成果は上げて見せますよ伯爵閣下。……兄上こそ、いつまでも領内を代官任せにしてないで、たまには本領にお戻りくださいね?」
相も変わらずの調子に、僕の方もついつい当て擦りめいたことを言ってしまう。僕としても、この屋敷が自分の家だと言うつもりはない。僕の家はラボだし、故郷と思い郷愁を誘う地は、この世界には無いあの島国だ。余計なお世話というものである。
それにしても……まったく、王都に居座って余計なことばかりしてるだなんて、これじゃあ兄も亡き父を悪く言えたもんじゃないだろうに。二代続けて領地を放置し続けるなんて、流石に拙いんじゃないかな? まあ、彼は先代と違って書類の決裁は怠っていないのだろうが、それでも当主就任以降ずっと、本領のヴォルダンに赴いていない。
……僕の領するマルランだって、彼の州の一部だって言うのに。
まあ、いい。惣領のお許しも頂けたことだ、お言葉に甘えてさっさと帰ろう。
僕は言い募る兄の声を無視しつつ、痛む胸を庇いながら、ユニの助けを借りて馬車に乗り込んだ。
※ ※ ※
空は灰色の暗幕に覆われていた。街は今なお、火災の残滓に煙っていた。
窓の下を流れる川は常より濁り、死臭が中にも臭ってくるような錯覚を覚える。
対岸の街並が灰塵と帰し、焼け跡では今なお、親を求める子や子を捜す母、死者を悼む家族の嘆き、火傷に苦吟する被災者の声などが絶え間無く上がっていた。
それが今のブローセンヌ。アルクェール王国五百年の都の姿である。
――どうしてこうなった。
馬車の振動に揺られながら、ラヴァレ侯爵はそう悔恨する。よもや自分の目の黒い内に、この街が斯様な惨禍に見舞われるなど、夢想だにしていなかったのだ。
彼は今、困憊した老体を喪服に包み、ポントーバン家の葬儀へ出席しに向かっていた。娘の婚姻に口を利いて仲人を務めたのだから、そうしなければならない義理がある。また妻に代わって喪主を務めるライナスとは、色々と話さなければならないことがあった。
有り体のお悔やみは口実で、今後の動静や次の陰謀……そしてトゥリウス暗殺未遂に対する釈明。
あの大火の日にオーブニル邸で、トゥリウスが襲撃されたのは、ラヴァレ侯爵の指図によるものである。そんな風聞が貴族たちの間で広まっていた。
曰く、過日の裁判であの【奴隷殺し】に恥を掻かされたのを恨んだ故だの、それで暴徒の襲来に便乗して手の者に殺害を命じただの、酷い物になると、あの大火は暗殺の為に仕組んだラヴァレの陰謀だったなどという、言語道断な内容まである。実際、あの暴動で襲われた貴族が地方分権派に属する者が多かったのが、噂の拡散に拍車を掛けていた。あのラヴァレ侯爵なら、一つの策で二つの敵を討つことを考えてもおかしくはない、と。
無論のことだが、それらは全て根も葉もない出鱈目だ。第一、彼が企図していたトゥリウス排除の手段は、飽くまでも権と謀に基づいている。暗殺という窮余の手立てなど、まだ使う段階にはない。
だが、間の悪い事に状況証拠が揃い過ぎていた。
第一に、あの狂児を刺したとして奴隷に斬られた三人の男。あれらは紛れも無く、ラヴァレの指示でオーブニル邸に送られた家臣である。トゥリウス監視の為に張り付けていた、陰働きに長けた者たちだが、大火と暴徒蜂起に際して彼らを撤収させなかったことが裏目に出ていた。名目上はオーブニル家の臨時雇いという偽装で身分を繕ってはいる。だが、ラヴァレと政争を繰り広げていた貴族の家中には、老侯爵の陰の手駒として見憶えている者もいるだろうし、当然、味方である集権派でも同様だ。
また彼らに持たせた礼装をライナスが使い、それと知らず通話を持ってしまったことも痛い。お陰であの若造貴族には一際強い疑いを持たれている。流石に周囲に触れ回るほど愚かな男ではないが、そうした気持ちは大なり小なり態度に出るのが常だ。それを他の貴族に気取られでもしたら、どう思われるものか。考えるだに憂鬱を誘う。
そして一番拙いのが……実際にトゥリウスが刺されてしまったこと、そのものだ。
何しろ、あの奴隷メイドは元々二つ名持ちの冒険者である。その実力と主人に対する狂的な忠誠心は、知る者ならば知っている情報だ。そうでなくとも、あの娘はカルタン家を巡る騒動で耳目を引いている。詳しくない者も興味をそそられて調べている可能性もあった。伯爵家のご落胤かと騒がれ、それを否定して奴隷に舞い戻った少女など、噂に目の無い都雀には格好の餌なのだから。とまれ、トゥリウス・オーブニルは、そんな女に護られていながら襲われてしまったのである。
考えの浅い者であるなら、所詮は奴隷、たかが女かと蔑むだけで済む。大層な評判倒れだとユニを嘲り、それを侍らせて安穏としていたトゥリウスを笑うだけの話だ。
だが、物事を深く考える者、或いは冒険者という人種について知悉する者ならば、話は全くの逆になる。
Cランクながら二つ名の名乗りを許された特例中の特例、冒険者という人型の怪物の中でも極まった例外。そんな者の警護を潜り抜けて標的に達し、あわや暗殺成功の寸前にまで漕ぎ付ける。そんな計画を企てることが出来る人間が、この王都に何人いるのか?
そんな者は、たった一人しかいない。その男の名はラヴァレである、と。
(ふん……どいつもこいつも、こういう時だけ儂を高く買いおるわい)
迷惑千万な憶測であるが、それを信じる人物は彼の周囲にも多かった。シャンベリは恐々といった様子で真偽を問うてきたし、ランゴーニュなどは王都を焼いた輩は許せませんな、などとわざとらしく息巻いている。暗に、おまえがやったのだろうと言っているのだ。彼らよりかはラヴァレに近いメアバンも、半信半疑であるといった態度が目に見えていた。
地方分権派からも、バルバストル侯爵という大物の貴族が、彼にこの件についての説明を求めてきている。だが、一体何をどう説明しろというのか。
直前の会合で、トゥリウスをどう遇するかを話題に上げたことが響いている。中央集権派の面々は、あれを予防線か何かだと解釈しているのだ。自分はあの青年を買っているから、殺すことはないよ、と。もしそうなったとしても、自分ではない誰かの仕業ですよ、と事前に宣告し、事後の追及へ釘を刺したのだと受け止めている。あれが無ければ、疑いの目はもう少し和らぎ、例えばライナスなどが代わって槍玉に挙がってくれたかもしれない。
何もかも、裏目、裏目、裏目だ。
ここまでの失態は、ラヴァレの長い人生の中でもそうは無い。六年前に、王太子ルイを暗殺された時以来だろう。いや、自身の立場を脅かされるような事態、そして王都焼亡という国体そのものを揺るがす凶事ともなると、あの五十年前の敗戦にすら匹敵する。
立て直しを図るにも、幾つもの対策とかなりの時間が必要となるだろう。
中央集権派には釈明などで信用を回復しなければならないし、宮廷にも硬軟織り交ぜた対応が不可欠だ。この件を自派への攻撃と捉えている地方分権派へは、激発を防ぐ為に慎重に宥めなくてはならない。市街の再建、襲撃を受けた貴族への補償にも出費が掛かる。出動が遅れ対応にも疑問が残る近衛騎士団についても、責任の追及をしなければならない。この際だ、色々ゴネたという第一騎士団は、権限を大きく制限してやろう。元々、嫡子でなく家職も回って来ない盆暗どもの働き口に過ぎない。そんなものよりも、第二以下の真っ当な騎士団を拡充させる方が先決だった。そして何より、この混乱に乗じるだろう諸外国への対策……。
それらに手を取られている間、あの男は野放しになってしまう。
「やはり、あ奴か……」
ラヴァレは重々しく独り言つ。
トゥリウス・シュルーナン・オーブニル。凶刃に倒れ、傷の静養と身の安全を名目に、都を離れようとしている青年貴族。
そも、この事件で最も得をしたのは誰か?
単純に考えれば、中央集権派に亀裂が入ることで相対的に有利となる地方分権派、そして王国の混乱を歓迎する国外の勢力だろう。だが、かといって王都を焼くまでする必要は無い。一国の首都を焼き払うなどという非道、露見すれば国内外から非難の声が上がるのは必定だ。また蜂起した暴徒どもとの繋がりや、一介の子爵に過ぎないトゥリウスを暗殺する意義も薄い。
では、平民? そんな馬鹿な話は無い。火事で焼け出されたのも、あの暴徒どもに殺されたのも、大部分は平民たちだ。寧ろ貴族の被害の方こそ、数家程度の微々たるもの。貴族社会は小揺るぎもせず、活動家どもは却って平民弾圧の大義名分を差し出したことになる。平民の為と叫んで民を害し、特大の土産まで置いて逝ったのだ。あの声の五月蠅い輩たちは、本当に馬鹿な連中だった。彼らにも得られた利得は無いのである。
そうなると残るのはトゥリウスしかいない。彼は深手を負ったが、生きてはいる。そして命を脅かすラヴァレやライナスの手から、この王都から逃げようとしているではないか。
胸を刺された? 危うく死ぬところだった? どうだか分かったものではない。何しろ、彼のすぐ傍には、剣の達者で人体を熟知してもいる凄腕がいる。
【銀狼のユニ】。ラヴァレの陰働き三人を斬り殺し、トゥリウスを害したと言い張った張本人。また、彼女がトゥリウスの人体実験だとかいう奴隷虐殺の片棒を担いでいたのは、調べが着いている。散々、人を腑分けして殺したのだ、逆に殺さずに傷を負わせる方法を心得ていても、不思議ではない。
更に言えば、暴徒どもの動きも妙であった。ほんの一週間前までは、声を上げて騒ぎ立てるだけの連中が、いつの間にか勢力を広げて武装蜂起まで仕出かしたのだ。勢力の膨張も、過激化も、どちらも余りに急過ぎる。
これと似た事例を、ラヴァレは知っていた。そう、トゥリウスの派閥工作だ。
どう考えても、あの悪名高い【奴隷殺し】と慣れ合えない貴族たちが、次々に彼と誼を通じだしている。それに感じた不自然さが、ブローセンヌで起こった活動家たちの変化と、印象を一にする。
今思えば、あの裁判からして奇妙であった。やけにカルタンの失言が続き、あり得ないような証人が次々と出廷する。そもそも、あのジョゼフィーヌが嫡子の安堵を目的とするとはいえ、奴隷の――ついでに言えば若く美しく、かつての敵と瓜二つな女の――口車に乗るような気性とは思えない。夫を陥れる策謀ともあらば、尚更だ。更には切り札であった筈のアンナマリーですら、狂気の相を呈して思った効果を上げられなかった。
洗脳。
そんなうそ寒い単語が、脳裏を過る。
調略された貴族、カルタン伯爵夫妻、裁判の証人たち、アンナマリー、蜂起した活動家と民衆。彼らの行動は不自然過ぎた。それこそ、魔法の力で考えを捻じ曲げでもしない限り、しそうもないことばかりしているのだから。
そして、ヴィクトル。彼の隠し子たる男は、知る限りにおいて、あのトゥリウスに与するようなたまではなかった。いずれラヴァレに背くにしても、その時が来るまでは雌伏し、自分と緊密に連絡を取りながら面従腹背を装う筈である。それが王都に便りの一つも寄越せない程、マルランの経営にのめり込む訳は無かった。背中に自分と同じ痣があると人に漏らすなど、以ての外だ。
証拠は無い。信憑性も薄い。そんなことを喚き立てれば、周囲の人間は、ついにあの陰謀家も老いて惚けたか、などと思うだけだろう。
「証拠が、いるのォ……」
だから先ずは、それを探さなくてはいけない。宮廷魔導師、冒険者などの在野の魔導師、そして業腹だが、ザンクトガレンの魔導アカデミー……心当たりを全て洗って、洗脳の魔法、特に錬金術によるそれについて、調べる必要がある。そうして対策を立て、証拠を掴み、初めてトゥリウスの罪を訴え、誅することが出来る。
途方も無く骨の折れる仕事だった。いっそ、本当に暗殺してやりたいが……無理だろう。今やユニかドゥーエとかいう護衛がピッタリ張り付いているだろうし、毒薬についても錬金術師であるトゥリウスの方が詳しいに違いない。それに王太子暗殺事件以来、この国の貴族の毒への対策は徹底されていた。実力行使も毒殺も、まず不可能だ。
だが、何もしないで手を拱いていれば、王国はあの【人喰い蛇】によって蚕食されてしまう。トゥリウスの派閥は現段階での勢力で言えば、自派や憎き地方分権派に比して余りにも小さい。しかし、拡大の速度と醸し出される不気味さは段違いだ。これ以上肥られる前に、一刻も早く始末するべきである。
最早、あの錬金術狂いの異端児は、ラヴァレ侯爵にとって、最優先で抹消すべき怨敵となっていた。
川沿いの道を、馬車は進む。途中で、別の家の二台の馬車とすれ違う。車体には、オーブニル家の家紋が急拵えで入っていた。
「…………」
ラヴァレは懸命に、その馬車を睨みつけないよう自制した。それに乗っているに相違ない男に、自身の思案と殺意とを勘付かれないようにと。
すれ違った車上の二人の貴族は、そのまま正反対の方向へと進んでいく。
片方はアモン川の橋を渡り、市街を抜けて王都の外へ。
もう片方はそのまま貴族街を進み、葬式場へと向かう。
「必ず貴様の尻尾を掴んで見せるぞ、蛇めが……!」
侯爵の独語は、誰にも聞かれぬまま車輪の音に紛れて消えた。
※ ※ ※
「行きましたね」
「ああ、行ったね」
遠ざかるラヴァレ侯爵家の馬車を見送りつつ、ルベールとトゥリウスは言い交わした。チラリと窓越しに見えた、あの老貴族の感情を殺した瞳。それを想起するだに、ルベールは汗が冷たくなるような思いを味わう。
「今のは、確実に閣下を疑っている目でしたよ」
「かもね。気持ちを押し殺すってことは、内心に読まれて欲しくない考えを持ってるってことだし……」
頬杖を突いて車体の揺れに身を任せつつ、トゥリウスが言う。つまりラヴァレは、ほぼ正確に事件の真実を見抜いているということだ。
「あの爺さんも中々想像力豊かだね。普通は考え付かないだろうに。王都を脱出する為だけに、平民を洗脳しまくって放火したり、自作自演の暗殺未遂を起こすだなんてさ」
まったくだ、とルベールは内心で肯く。自分も計画の素案を聞かされた時は、思わず耳と相手の正気を疑った程の非常識な策だ。いや、トゥリウスは元から狂っているだろう事は疑いようが無いのだが……それを看破してのけるなど、あの老人も大概イカレた頭の持ち主である。
車中の人数は三人。トゥリウスとルベール、そして護衛兼介護役のユニだ。行きの時と違い、ドゥーエは他の家臣たちの方に分乗している。何せ、乗ってきた馬車が暴動で壊された為、急遽ブローセンヌで調達したのがこの馬車である。前の物に比べると、高さも奥行きも足りず狭苦しい。仮にも怪我人であるトゥリウスが乗っているのに、大柄な図体と得物の両手剣で場所を取る彼を、同乗させることは出来なかった。
というのは表向きの理由。実際のところは、今回の企てに良い思いを抱いていないドゥーエが、首謀者どもと同席するのを嫌ったから、というのが真実である。
それはさておき、
「ところで閣下、今回の実験は如何でしたか?」
「全然駄目だったよ」
トゥリウスは間髪入れずに答えた。
「派閥構築の省力化を図る為の実験……催眠の魔香や魔眼のみを用いて、脳改造を経ていない人員のみで構成された組織を立ち上げる。上手く行けば、一々手術なんかしなくても手軽に人的資源を獲得出来たんだけどね。まあ、世の中そうそう上手くは行かないってことかな」
「そもそも、高位の貴族には魔法対策のアミュレットを持つ者も居ります。今回のように、民衆の反乱を扇動するだけであれば十分でしょうが――」
とユニが補足する。
「――何度も使って良い手段ではありません。敵側に種が割れている可能性が濃厚ならば、特にです」
「うん。分かっている。第一、何の拍子で洗脳が解けるか、分かったものじゃないからね。まさか追い詰められてパニックになって、『自分の頭で考えろ』なんて口走るとは……」
王都を焼き払った悪魔とその片割れは、囁き合う。
要するに、全ては彼の仕込みだったのだ。活動家と名乗り貴族の悪政に対して抗議をしていた集団。彼らは突如として暴徒と化したのではない。その指導者は最初からトゥリウスに洗脳されて王都に送り込まれ、彼の任意のタイミングで暴れ始めるよう、命令があらかじめセットされていたのである。
無論、王都で着々と武力蜂起の手筈を整えていたら、治安組織などに摘発される恐れがあった。だから最初は、過激な主張ながらも無力な抗議活動として存在を周知させ、いざその時が来れば、ドライの魔眼や香で手早く人員を水増して蜂起させる。その本領は飽くまでも奇襲性に特化、武器などの不足は人海戦術でカバーすれば良いという訳だ。
それでも騎士団や冒険者など、烏合の衆を個で駆逐しかねない精鋭が存在する。そういった強敵には、暴徒たちの存在を陽動にして、背後からオーパスシリーズが襲い掛かるのだ。わざわざマルランから、洗脳の要であるドライだけでなく、シャールやフェムまで呼び寄せたのは、その為である。幸い、近衛騎士団とぶつかるような事態は起こらなかったが、貴族の私兵を排除するのには、十分役立ってくれた。多少死因が不自然となるが、そこは暴徒の放った炎が死体を焼き払い、隠蔽してくれる。
仕上げに、暴徒の蜂起に合わせて暗殺騒ぎを起こせば、王都脱出計画・プランDの完成だ。都の治安が悪化し、貴族たちが平民に脅かされ、自身も命を狙われたとなれば、領地に帰ると言っても止められはしまい。
ブローセンヌは、ただそれだけの為に焼き払われたのだ。
「それにしても……随分と被害が嵩んだものですね」
ルベールは、チラリと窓の外を見やってから言った。
馬車は貴族街と平民街を分かつ、アモン川の橋を渡る最中だ。川向うの街並みは、未だにブスブスと大火の残滓が燻っている。窓の隙間から、木や肉の焦げる臭いが車内に侵入してきそうな程だ。
「まあ、最低限の命令だけ与えて暴れさせたからね。それにしても予想以上に酷い事になったけど」
「火消し役の近衛が、方針で揉めて初動が遅れた挙句、結局貴族優先で動きましたからね」
「それにしたって、概算で六千人以上は死に過ぎだろう。僕は千人未満で収まると思ってたのに」
そう嘯くトゥリウスだが、彼の言う通りだとしても酷い数字である。この間のエルフ捕獲を目的とした虐殺以来、どうにも感覚が麻痺しているのでは、と心配になってしまう。もっとも、麻痺していなくとも真っ当な感性など期待できない男なのであるが。
「聞いていたより打ち壊しに参加した人数も多いよね……群集心理、ってヤツかな」
「はあ、アレですか。十人の内の一人が声を上げれば大抵黙殺される。けれども、百人の中の十人が騒ぐと同調する者が出始めるという」
「そうそう、それそれ。加えて頭数が増えると、それに釣られて気も大きくなるもんだからさ。思った以上に過激なことをしてたみたいだよ?」
騒ぎに便乗して暴れ回る者、熱狂が過熱して狼藉に走る者。そうした連中に対して、困ったものだねと零すトゥリウスだが、裏で手筈を整えた者が言えたセリフではない。
「特にポントーバン男爵家、奥様のご実家が被害に遭ったのは、計算外でした。一歩間違えれば、葬儀でまた足止めを受けているところです」
「義姉上の寛大さに感謝だね。こうして手早く出立出来たのも、あの人の心遣いのお陰だよ」
まったくである。これがシモーヌの実家程度で済んだから笑い話になっているが、下手をすればルベールの家が暴徒に襲われていたのかもしれないのだ。もしそうなったら、トゥリウスたちは自分だけを葬式に行かせておいて、さっさと帰ったことだろう。
そんな面倒なことにならなくて良かった、とルベールは思った。家族が無事で済んだというのに、感想はこの程度だ。洗脳された所為でそんな人間になったような気もするし、元から自分は冷たい男だったとも思える。どちらにせよ、トゥリウス・オーブニルには似合いの家臣という訳だ。
だから、続けてこんな冗談を飛ばしたりもできる。
「それにはお二人の迫真の演技が効いているんじゃないんですか?」
「演技? 何だい、それは」
「いや、とぼけなくても良いじゃないですか。あの部屋に駆け込んで来た時のことですよ。凄かったじゃないですか。特にチーフメイドの剣幕ったら、本当に震え上がっちゃいましたね」
そう言いつつ、おどけた素振りで身震いして見せた。
あの時、胸から血を流すトゥリウスを担ぎこんで来たユニといったら、それはもう凄まじい顔だった。一瞬、自作自演であることを忘れさせられたほどだ。
が、言われた当の本人は、
「申し訳ありません、ルベール卿」
「へ?」
「あの夜は、私としたことが度を失っていたようです。あらぬ言葉で無礼を働いたことを、お詫びいたします」
などと頭を下げてくる。
ルベールが呆気に取られていると、
「ユニは演技なんてしてないよ。本気で怒鳴って、本気で泣いてただけさ」
したり顔でそう解説するトゥリウス。
「ついでに言えば、僕も演技をした憶えはない。だってそうだろ? 痛くって苦しくって、本当に死ぬかと思ったんだもの。いや、麻酔無しで身体に刃物なんて入れるもんじゃないね」
「もう少し、痛まないような刺し方も出来たと思いますが――」
「駄目駄目。半端な傷じゃあ、自作自演ですって言ってるようなものだろう? 試行錯誤してあちこちに躊躇い傷が出来たりしても困るし。それを考えたら良く出来たと思うよ。一発でちょうど良いところをザクリ、だからね」
「……出来れば、もう二度としたくありません。私の胸の方が潰れるかと思いました」
主従の会話を耳にしながら、聞くんじゃなかった、と後悔を覚える。つまり彼女は、自分で自分の主人を刺しておきながら、本気で周囲に激怒と憎悪を向けていたということだろうか。何という理不尽で理解し難い思考回路だろう。これでは演技で周囲を騙していましたと言われた方が、余程に心休まるというものだ。少なくとも、完全な狂人に比べれば詐欺師の方が、まだしも御しやすいのだから。
「まあ、二度とご免ってのは同感だ。幾らユニの腕前を信頼しているとは言っても、死ぬかもしれない目に遭うのはね……まったく、僕は本来、自分が死なない為に頑張っているっていうのに」
そして、その狂人に信を置いて重用しているこの男も、また正気ではない。死にたくないから、生き延びる為に出来ることを全て行う。言葉にすれば簡単だが、その為に王都を焼き払い、自らの胸に従者の剣を受けたのだ。
「それにしても、屋敷にラヴァレ侯爵の手の者がいたっていうのは運が良かった。お陰で爺さんが格好の容疑者になってくれたんだから」
「元より暗殺未遂を口実に領地に戻る予定でしたが、思わぬ余禄を得ることが出来ましたね」
「あれが無ければ兄上に疑惑が向くようになっていたんだけど、疑われるならあの侯爵の方が都合が良い。中央集権派の紐帯にダメージが見込めるんだからさ。ふふふ、僕への監視が裏目に出たって訳だ。痛快極まりないね」
今頃、中央集権派は侯爵を疑う声で満ち満ちているに違いない。トゥリウス暗殺だけであればまだしも、王都の大部分が焼け野原と化しているのだ。それらへの関与を疑う諸侯を捌きつつ、王都を再建する。それでどれほどの時間を浪費するのだろうか。そして、その時間はこの狂った錬金術師の味方だ。中途のままの派閥工作や次の実験……それを済ませれば、彼はますます力を付ける。
「まったく、恐ろしい方ですねえ閣下は」
ルベールはそう言って、笑った。
恐ろしい。この男は本当に恐ろしい。だがその頭脳と力、そして得体の知れない天運は、本物だ。一介の子爵にして貴族社会の鼻つまみ者でありながら、ただ生き長らえる為だけに、王国最大の貴族を振り回している。その力は実に魅力的だった。
これからこの国は変わっていくだろう。都は焼け落ち、それを座視した王家や貴族の声望は傷ついた。平民は今度こそ本物の憤懣を抱き、貴族たちは本腰を入れて弾圧を始めるだろう。その果てにあるのは、どう考えても破滅である。
予期された滅びを、トゥリウスはどう演出し、その後にどのような再生を行うのか。ルベールとしては興味が尽きなかった。そして、それに携わってみたいと思う。
旧秩序の崩壊の後に産まれる、新たな体制の構築。吏僚たるを自負する男にとって、この上無く食指をそそられる対象だった。
こんな事を考えてしまうのも、やはり改造の影響だろうか? チラリと脳裏をかすめた思考も、恐怖とそれを上塗りする興奮に流され、あっという間に消えた。
トゥリウスは、ルベールの言葉へ応えずに、窓外へ目を向ける。
「早く帰りたいな……もうすぐ、収穫の季節だ」
そこに自ら焼き払った街が広がっているのに、彼は一切頓着せずにそう口にするのであった。
※ ※ ※
ニコラはその日も市場の辻にキャンパスを立て掛け、絵を描いていた。
だが、その様相は以前とはまるで違う。街は焼かれ、空気に焦げ臭さと死臭が入り混じり、空は今にも泣き出しそうな灰色の顔で人々を見下ろしている。大火の後のブローセンヌに、似顔絵を注文する客などいる筈もない。
だから彼は風景画を描いている。本来得意だった筈の、風景画を。
筆を執るニコラの表情は、その腕が動いていなければ死人と錯覚しそうなものだった。青褪めた顔色に、落ち窪んだ眼。顔と言わず身体と言わず、あちこちに包帯が巻かれている。利き手である右腕も吊られており、不慣れな左手での作業を強いられていた。
それでも、キャンパスに絵の具を塗りたくる作業は、寸刻たりとも止まらない。どろどろと、べたべたと、画布に情念を塗り込んでいく。
赤。赤。赤。黒。黒。黒。
灰色の街で風景を描きながら、筆に乗るのはその二色だけ。他の色は、絵の具を混ぜるのにしか使われていない。どんな色合いの赤にするか、どれだけ濃い黒にするか。ただそれだけに腐心して、極彩色の風景を絵にしていた。
「……その辺にしたらどうだい、絵描きの旦那」
一人の男が、キャンパスの向こうに立ちつつそう言った。
声を掛けて来た男は、冒険者だった。大火の日、暴徒に襲われたニコラを助け、命を救ってくれた人物である。市井の争いには関知せずを旨とするギルドに逆らい、一片の義侠心に従って剣を執った男だった。被害が広がるにつれ、ギルドも男やその同類たちの行動を追認したが、そうでなければ規約違反として厳罰に処されていた筈である。
ニコラは意に介した様子も無い。命の恩人が現れたというのに、顔を上げすらしなかった。街の風景を描きながら、それを遮られたことにも頓着しない。彼が描いているのは、今日の風景ではないのだから。
「怪我、まだ治ってないんだろ。無理したら身体を壊すぜ」
続けざまに掛けられた声にも、反応は無かった。彼は無心に絵を描き続けている。
その様子を見かねたのか、冒険者の仲間らしき者が男の肩を叩いて割って入った。
「放って置きなよ、ガエルさん。この人、もう駄目だ」
機械のように筆を執り続ける絵描きは、既に手遅れだと言っている。
冒険者の仕事を続けていれば、たまさか目にする光景だった。ゴブリンやオークに囚われて嬲られ、助け出された時には心を病み、壊れていた娘。自分の力量に見合わぬ化け物を相手取り、自信を折られた同業者。そんな連中と同様に、肉体は長らえながらも、心が先に死んでいる。その例に倣ってしまっていると、仲間の男は告げていた。
「……哀れなもんだな」
瞳に哀惜の色を浮かべながら、冒険者は言った。
ブローセンヌの大火の夜、暴徒に襲われた酒場に乗り込んだ時、既にこの絵描きしか生き残りはいなかった。閉め切っていた入口は破壊され、店主や他の客は既に殺され、店の娘は欲望の捌け口にされていた。そして、ニコラは襲撃者の下衆な戯れとして、わざと生かされてそれを見せつけられていたのである。
下劣な笑みを浮かべながら、既に事切れた娘を相手にしていた畜生ども。男はそれを、目に入れるや即座に斬り捨てていた。
助け出されたニコラは、礼の一言すら言わなかった。ただ一言、こう言っただけだ。
――どうして。
どうして、騎士団は助けに来なかったのか。
どうして、今更助けようとするのか。
どうして、死なせてくれないのか。
……どうして、こうなったのか。
言葉にどのような意味が乗せられていたのかは、分からない。彼はそれ以来、一言半句も言葉を発しなかったのだから。
そして彼は、治療も半ばで郊外の避難所を抜け出し、今日もここで筆を執っている。
「……身体は大事にしなよ」
冒険者の男はそう言い置くと、諦めたように踵を返す。
命を拾いながらも心を壊した犠牲者は、何もニコラ一人ではない。憐れに思う気持ちは尽きないが、そうそうかかずらってもいられなかった。ごっそりと焼き払われ、多くの市民が家を失ったブローセンヌは、どこもかしこも治安が悪化していた。貧民窟が街中に広がったようなもので、そこら中に強盗やチンピラ、抜け目無い闇商人が徘徊している。長い間、一つ所に留まって居たくはなかった。
「どなたか……どなたか、私の娘を知りませんか? おお、可愛い可愛い、私のアンリエッタ……」
今も、見るからに目付きのおかしい流民の女とすれ違った。一見すると大火で離れ離れになった子どもを探しているように見えるが、よくよく話を聞くと、訳の分からない誇大妄想を語っている、という噂で有名になった女である。彼女もこの災禍で精神を病んだのだろうか。冒険者の男は、面倒事を避けようと振り返らずに歩いた。
「ったく、どうなっちまうのかね……この街も」
「復興だの治安維持だので、仕事だけはありますがね。どこもこんな空気で、辛気臭くてかないませんよ」
「変わらないのはお貴族様たちばかりなり、ってか? 川の向こうで良い空気吸ってやがるぜ、まったく」
仲間と囁き交わしながら、とぼとぼと立ち去る。
ニコラがその背に視線を向けることは、遂に無かった。
「…………」
傷つき、病んだ絵描きが描き続けるのは、あの夜から続く悪夢。
炎を手に跳梁する悪鬼の群れ。頭を割られ腹を裂かれる無辜の民衆。生贄の祭壇に祭り上げられる青褪めた乙女。人々が謂われ無き罪で落とされた、人間が作った地獄だ。
ぎこちなく左手で紡がれる筆致は、幼稚で拙く、歪んでいる。だが、だからこそ真に迫り、見る者の嫌悪を掻き立てられずにいられない。怖気を振るうことを感動と呼び、心を動かす作品に善悪を問わないのなら、これは間違いなく傑作である。
ニコラは今日も、日が落ちるまで絵を描き続けるのだった。
後年、ニコラ・ブリュノーは、そのグロテスクな作風で知られ、ブローセンヌの大火に材を取った連作を代表作として一世を風靡することとなる。
しかし、彼自身は高い評価を得始める直前に、粗悪な酒の中毒で倒れ、貧民街にて没していた。その作品を愛する蒐集家たちは、質に流れて各地に散逸した遺作を求めるのに、非常な苦労を強いられたという。
余談ではあるが、その拙劣な程に醜悪な事物を描き出した作品群の中に、例外的に美しく描写される女性の姿が存在している。汚濁の中に違和感と共に浮かび上がるその人物のモデルについては、諸説あるものの、決定的な定説はついぞ得られていない。
ともあれ、一流の画家となり名を残したいという彼の夢は、こうして叶えられたのだった。
次回の更新までしばらく間が開きます。
詳しくは活動報告にて。
読者の皆様には、大変ご迷惑をお掛けします。




