038 王都は燃えているか<4>
市街での暴徒蜂起、各所での火災発生、暴徒の貴族街への侵入――。
ブローセンヌを襲った数々の異常事態に、ラヴァレ侯爵邸は翻弄されていた。
「被害状況を報せろ! 市街地は一体どうなっている!?」
「それより、こちらに向かっている連中の数だ! 貴族の、誰を狙っているというのだ!?」
家臣団の中でも腹心の者たちが、関係各所との連絡、情報収集に駆けずり回っているが、成果は遅々として上がらない。その理由は主に二つ。
「王宮との連絡はどうなっている!? 宮廷魔導師との念話は――」
「だ、駄目です! 妨害はありませんが、向こうが応じません! カルタン伯の件を恨んでのことかと!」
「くっ……魔導師どもめ、この期に及んで私情に走るかっ!」
一つはこれだ。先日の一件で、ラヴァレの陰謀の為に、元宮廷魔導師であるカルタン伯が失脚した。高等法院が下した沙汰では、本人の不品行故とのことだが、実態はラヴァレとトゥリウス・オーブニルの暗闘の巻き添えであるというのは、既に周知の事実だ。
自分たちの同輩が策謀の出汁にされ、それが失敗するや切り捨てられたという事実は、宮廷魔導師たちから大いに不信を買うこととなった。お陰で、この一大事にも連絡の不都合が生じる有様である。
そしてもう一つは、
「斯くなる上は、オーブニルに張り付けていた陰の者を戻すか……?」
そう、トゥリウス・シュルーナン・オーブニルだ。カルタン伯を裁判の場にて失脚させ、併せてラヴァレ侯爵の名にも傷を付けた張本人。奴隷一人の為にこれ程の騒ぎを起こした危険人物。それを監視する為に、ラヴァレ侯爵家の諜報戦力が大分割かれている。裁判より以前、ユニの身柄をカルタンに奪われた婚儀の翌日からだ。この措置が裏目に出て、変事に当たっての情報収集力の低下という事態を招いていた。
家臣の一人は、それを解消しようと派遣した者の呼び戻しを考える。
だが、
「止めよ。監視の者は、そのままにしておけ」
他ならぬ主、ラヴァレ侯爵が待ったを掛けた。
「ご当主様、しかし――!」
「王都全体が危急の時である故……か? だからこそ、目を離せぬ」
淡々と言うラヴァレだが、その表情は厳しい。
何しろ、時期が時期である。奪われたユニを取り戻し、王都に留まる理由が無くなった途端にこの事件だ。あのライナスではないが、この件に関してもトゥリウスが糸を引いている可能性を感じずにはいられない。
もしそうならば、あの男は確実に何らかの動きを起こす。ラヴァレはそう読んでいた。
また、
「あの小僧は機を見るに敏じゃ。この騒動に乗じて、何をしでかすか分からんからな」
例え彼が仕組んだことでなくとも、この隙に行動を起こすかもしれない。その可能性を思えば、とてもではないが今この時に監視の目を外す気にはなれなかった。
家臣の男は、不承不承ながらという顔で頭を下げる。
「畏まりました。ですが、そのことによる情報の遅れは――」
「分かっておる。多少の遅延は咎め立てせん」
言い置いて、ラヴァレは懐に忍ばせた礼装を撫でた。あの忌々しいザンクトガレンから輸入した、魔法による通信を行う礼装である。トゥリウスが動き出した時には、監視の者からこれに通話が入る手筈だった。
そして、その礼装は二つある。
一つはオーブニル邸を監視中の組に繋がるもの。もう一つは、トゥリウスが兄を憚って宿屋に泊めている奴隷たちを監視する組だ。もしあの男が何かを企んでいるのであれば、いずれかの組に見咎められることになる。そうすれば、労さずして彼奴の尻尾を捉まえられるというものだ。
(あやつめも錬金術師。似たような道具は設えておろう。その可能性を見落とす儂ではないわ)
礼装、即ち魔法の込められた道具を作るのは、錬金術師の十八番である。トゥリウスにそれが出来ないはずはない。春にライナスがマルランへと送った密偵の報告は、彼も聞いているのだ。何でも、地下に巨大な冷凍庫らしき、有用性は兎も角として高度な技術力の所産である礼装を蔵していたという。ならば、ラヴァレが持っている通信礼装のような物をトゥリウスが製作していたとしてもおかしくはなかった。
そして、この騒動に乗じて何かを企むのであれば、それを使って王都に連れて来た奴隷と連絡を取り、これを動かす。でなければ、ドゥーエとかいう武官や、先日取り戻したばかりのユニなど、自身と共にオーブニル邸に逗留している配下を使うはずだ。
(もっとも、杞憂であるやもしれぬが……一応な)
無論、トゥリウスがこの騒動と無関係である可能性もある。王都のど真ん中で暴徒を蜂起させて市民を殺傷せしめ、更には貴族街まで襲わせる……反逆罪に問われて処刑されても文句は言えない暴挙だ。もし暴徒どもと何らかの繋がりが見つかれば、死罪は免れえないだろう。これに乗じて何かを起こすというのもリスクが高い。露見した際に要らぬ疑惑を買って信用を落とす公算が大である。
だが、陰謀家としてのラヴァレの嗅覚は、事態の裏にトゥリウスの存在を感じずにはいられない。故に、ここで監視の手は緩められなかった。
また、トゥリウスにかかずらって暴動に対処出来なかったとしても、それで何か不都合がある訳でもない。何しろラヴァレ侯爵は、宮中においては無役なのだ。責任を問われるべきは現役の宰相や大臣、将軍であって、一介の老貴族ではないのである。
更に言えば暴徒の主たる構成員は、最近何かとうるさい活動家とやらだ。アレらは主に、地方領主の暴政を訴える為に都に上って来たと聞く。ならば、多少は暴れさせた方が、地方分権派を攻撃する際の材料にもなろう。勿論、王宮に攻め込まれ、まかり間違って国王を害されては困るが……蜂起した平民程度にそんな戦力は無いのだ。ブローセンヌの王城は、そこまで脆くはないし、防備の戦力が薄い訳でもない。いや、ちゃちな武装をした平民程度では、貴族の私兵にも蹴散らされる可能性が大である。
動かずとも、不利益は無い――その余裕が、ラヴァレにトゥリウスへの対策を優先させた。
その判断は、ある意味で正しく、またある意味では間違っていた。
※ ※ ※
貴族街へと押し寄せた活動家たち。彼らが最初に襲ったのは、ドルーアン子爵という地方貴族の居館だった。ある者は塀をよじ登り、ある者は乱暴に門扉を叩き壊し、続々と敷地に踏み入っていく。
怨嗟の怒号を上げながら、庭に置かれていた彫像を薙ぎ倒し、手入れの行き届いた植え込みを踏み躙る。そして玄関に辿り着くや、散々にその扉を打ち鳴らした。
「……開けろ! 出てこいっ! この腐れ貴族がっ!」
「大人しく我らの前に出て、その罪を償えっ!」
その騒々しい姿を、屋敷の主たちが二階の窓から見下ろしている。
食事を取り、湯浴みを済ませた後なのか、ゆったりとしたガウンに身を包んでいたドルーアン子爵は、不快さも露わに舌打ちを漏らした。
「……卑賤者どもが、何を思い上がって私の屋敷に押し掛けたのだ」
言いながら空中に手を差し出すと、所在無さげに佇んでいた女が、慣れた手つきで酒杯を渡す。女の首には銀の首輪が嵌められていた。奴隷である。
普通、貴族は奴隷を傍には置かない。卑しい身分の者を近くにいさせれば、名に傷が付くという考えがあるからだ。が、欲望の捌け口としてならば別である。美しい女奴隷に限った話だが、格式ばった場で目立たせることは無いものの、内々の集まりにおいては同好の貴族に披露する事例は稀に見られた。時には、見せるだけでなく一晩貸して使わせてやる場合もある。特権階級の退廃的な一面だ。
ドルーアンも、そんな貴族の一人である。普段は領地で税を貪り、数年に一度は王都に参勤して、同様の貴族と交流を持ったり、新たな奴隷を買ったりする。いわば外に詰めかけている活動家たちが憎む、典型的な貴族像に沿った人物といえよう。
彼は苛立ちのままにウィスキーを呷る。その拍子に、酒杯の中で踊った氷が、カランと音を立てた。この蒸留酒も、いや酒に氷を入れるという贅沢も、貴族という身分があって初めて味わえるものである。
「貴様ら、いつまであの連中を好きにさせている?」
ドルーアン子爵は、そう言って背後を、室内に立つ男たちを睨みつける。彼らはこの家に仕える武官と、この男に雇われている私兵たちだ。これから女奴隷と一戦交えようとしていた主人に、騒動を聞き付けて駆け付け、変事の発生を注進した者たちである。
代表するように、武官の男が口を開く。
「はっ。只今より撃退に向かいます。つきましては、ご当主は無闇に動かれず、我らが戻るのをここでお待ち頂けますよう――」
「御託は良い……さっさと行けっ!」
「――ははっ!」
不機嫌も露わな主人の声に送られて、男たちは部屋を出る。
廊下を歩く途中、私兵の一人が口を開いた。
「旦那。やっと俺たちの仕事ですが、給金の程は契約通り頂けるんでしょうかね?」
雇い主であるドルーアンは、暴徒に庭を荒らされて酷く立腹していた。大抵の貴族はこのような時、腹いせを兼ねてか払える筈の金をケチることがままある。屋敷に被害が出た、だからお前の働きは評価しない、という理屈だ。この男は身辺の護衛を目的として雇っているのだから、この場合は払ってやるのが筋である。だが、貴族の中には、自分の感情を優先して筋を通さない客も多い。
武官の男は溜息と共に言った。
「それを心配するなら、さっさと片付けろ。こうしている間にも、あの御方の機嫌はどんどん斜めに傾いていくぞ?」
「へいへい。……やれやれ、雇い主を間違ったかな」
私兵はおどけるように肩を落とす。どうにも、払いの渋い仕事になりそうだった。
が、それは杞憂である。
彼は今後、給金について頭を悩ませる必要は無くなった。
「――≪サドンデス・インサイト≫」
廊下の曲がり角、その物陰から、低く陰鬱な呪言が飛んでくる。
同時に、男たちは胸を押さえて蹲った。
「うぐ……っ!?」
「……っ! ……っ!?」
冷たく濡れた手に、心臓を直に掴み取られたような、おぞましく息苦しい感触。
多くの者は、それを最後に意識を失って動かなくなっていく。
(な、何が……起こった!? くっ、息が――)
唯一の例外は、子爵の直臣である武官だった。流石に貴族が正規に雇っただけあって、贅沢に装備を整えている。首から下げていたアミュレットの加護が、辛うじて呪文による即死を免れさせていた。
床に倒れ伏し、藻掻き苦しんで胸甲の上から胸を掻き毟る彼の顔に、不吉な影が掛かる。
「へぇ? 即死しなかったんだァ? 詠唱省略の即死魔法とはいえ、一息に殺せないなんてねェ……。ちょおっと、残念かなァ~。ちぇっ。虫けらの癖に生意気だよ、君」
声を潜めつつも稚気じみた残酷さでそう言うのは、蝙蝠じみた不吉なシルエットを持つ人物だった。ひょこひょこと道化じみた足取りで近寄ってくる姿は、戯れに人の魂を刈り取る死神にさえ思える。
そして、その予想は正しかった。
「まっ、結果に変わりは無いけどねェ? それじゃあ、虫けらは虫けららしく――」
「……っ! ……っっっ!!」
現れた人影は、男の首に足を掛け、
「――踏み潰されな、よっ!」
ゴキリと、無慈悲に首の骨を踏み折った。
壊れた人形のように首を曲げ、口元からは一筋の血が垂れる。即死だった。そして、これでドルーアン邸の戦力は壊滅である。
それを確認すると、影は踵を返した。
「さて、と。後はここへ押しかけてくる連中にお任せだね。……ったく、マスターも面倒な作戦を考えるよなァ。どうせこの街を目茶目茶にするんだったら、僕らの能力を全開にして真っ平らにしてやれば良いのに。その方が何百倍も気持ちいいと思うだけどなァ。ついでに、可愛い子を何人か摘まんじゃったりしてさァ――」
ぶつぶつと呟きながら、歩を進める。
その身体は、如何なる魔法の効果か、足元から徐々に黒い霧へと変じていく。
やがて完全に霧と化した何者かは、閉じられた窓の細い隙間を通って、館から去った。
死体の他に誰も見ることの出来なかったその姿は、まるで血塗られた伝説に謳われる吸血鬼のようだった。
数分後、館へ踏み込んだ活動家たちは、自分たちが手を下していない死体に首を傾げるも、そのまま家捜しを開始。呑気に部屋でくつろいでいたドルーアン子爵を発見し、情婦の奴隷諸共、血祭りに上げた。子爵が珍しく素直に家臣の言うことを聞いて、部屋から動かずにいた結果がこれであった。
※ ※ ※
ガストン・ジュストは満足だった。
彼に率いられた同志たちは、既に四度、貴族の屋敷への襲撃を成功させ、その家人を皆殺しにしている。無論、殺し尽くした後には、油を撒いて火を掛けた。貴族の屋敷など搾取と弾圧によって建てられた悪徳の城だ。柱一本すら残さず、灰になるまで焼き払わなければ、浄化することはできない。彼は固くそう信じていた。
出来れば、屋敷の燃え落ちる姿をとっくりと見物していたかったが、そうもいかない。ぐずぐずとして時間を浪費していては、いつ近衛などが援軍として現れ、自分たちの背後を脅かすかも分からないのだから。
その前に貴族をもっと殺さなければいけない。
その前に屋敷をもっと焼かなければいけない。
脳を焦がす衝動と、胸を衝き上げる憎悪に駆り立てられ、ガストンは次の標的へと同志たちを扇動し、先導する。
「行くぞ同士諸君! 立ち止まっている暇など無い! 次に粛清すべき輩は、今まで以上に狡猾かつ罪深いっ! 万に一つも逃さぬよう、急げ! 急ぎ狩りたてるのだっ!」
「おお、同士ガストンっ!」
「誰なのです? 次は誰をっ!?」
血気に逸り、目をぎらつかせた凶相で、嬉々として次の獲物を尋ねてくる同志たち。市街と貴族街に分かれたとはいえ、この場の人数だけでも数は三桁を軽く超す。その全員が、血に飢えていた。自分たちから搾りとって肥えた、貴族の血に。
ガストンは彼らに応え、街路の向こうに見える一件の邸宅を指差した。
「見よ、あれなる悪しき門構えを! 感ぜよ、あれから漂う悪臭を! ……あの屋敷こそ、オーブニルの館っ! 陰惨なる虐待で恐れられた、【人喰い蛇】の巣だ!」
ガストンがそう叫ぶと、麾下の群衆は当惑する。
あの悪名高い伝説は、貴族ならまだしも平民には聞き慣れないものなのだろう。多くの者は、困惑も露わな表情で囁き声を交わす。
「オーブニル……? 知っているか?」
「いや、知らねえ」
「何にせよ、同志ガストンがああ言ってるんだ! きっと悪い貴族に違いないぜ!」
そんな中、一人の男がポツリと漏らした。
「噂にだが、聞いたことがあるぜ……餓鬼の頃から奴隷市に通い詰めては、家でぶっ殺す為の奴隷を買い漁っていた貴族が居たって」
「奴隷を、殺す……?」
「な、何の為にだ? 何の為にそんなことを……?」
「知るかよ! よっぽど悪趣味な変態なんだろうぜ!」
「ひ、酷い……」
「そんな糞貴族、許せねえっ!」
途端に、群衆の憎悪が沸騰する。それを見届けてから、先導者は叫ぶ。
「そうだ、許せんっ! 考えてもみよ、貴族による支配の構図を! 奴らは我々から税を搾取し、払えなくなれば奴隷に落とす! 支配に抗えば、それを罪ありとしてまた奴隷に落とす! その奴隷たちの行く先が、あの地獄の屋敷だ!」
「あ、ああああっ……!」
「い、嫌だ……奴隷にされた上に、玩具みたいに殺されるなんて……!」
「そうだ! 諸君らの中にも、家族を奴隷に落とされた者もいるだろう! その末路を教えよう! あの屋敷に潜む悪魔の供物だ! 首輪で繋がれ、屠殺場へと引き摺られていく生贄の羊なのだ!」
「う、嘘だ……お、俺の姉さんも、借金の片で奴隷に……! う、うわあああああっ!?」
「あ、悪魔だっ! オーブニルは悪魔だ! 貴族は悪魔なんだっ!」
「生かしてはおけねえ、そんな奴っ! 殺せっ! 殺せっ!」
殺せ。殺せ。殺せ。
【奴隷殺し】を殺せ。【人喰い蛇】を殺せ。……オーブニルを殺せ!
今や活動家に率いられた人々は、かつてない義憤に満ち溢れている。
民を奴隷に落とすことがまかり通る貴族社会。その極点にある奴隷を殺す貴族の館。貴族に虐げられていた民たちは、ガストンが示した屋敷を破壊し、その住人を殺し尽くすことを正義と信じていた。
今や、その士気は蜂起後でも最高潮となっている。
「では、行くぞ同士諸君! 例えその命と引き換えにしても――オーブニルを殺せ! これは義挙であるっ!」
「「おおおおおおおおおおっ!!」」
ガストンが命じると共に、暴徒と化した人々がオーブニル邸へと吶喊する。
貴族街の火事の光を背に受けて、憎悪に輝く血走った眼の群衆が走る。悪鬼が地獄より這い出て、現世に溢れ返ったとさえ思わされる光景だった。
オーブニル邸の前には、槍を携えた守衛が二人いる。彼らは群衆が迫るや目を剥いて、屋敷の内部に向けて声を張り上げた。
「く、曲者だっ! いや、暴動だーっ!」
「こ、こいつら、活動家とかいう――ひっ!?」
「死ねェエエエエェェっ!!」
暴徒たちが、波濤となって屋敷の門に押し寄せる。
守衛の一人が咄嗟に槍を突き出すが、先頭の暴徒を突き刺す役目しか果たせなかった。いや、それどころか、
「い、いのちに、かえてもォ……っ!」
「う、うわぁああぁっ!? な、何だコイツら――ぐえっ!?」
槍に腹を刺された暴徒は、それが抜けないように両手で固定し、守衛の武器を封じてしまう。その隙を突いて別の者が、手にした武器で襲いかかった。守衛二人は、あっという間に人波の中に飲み込まれる。
「死ねっ、死ねっ、死ねええええっ!」
「悪魔の手先がっ! 死ねっ!」
「ひ、ぐえ、や、やめっ! お、俺たちは、何も……」
「死ねっ! 死ねっ! 死んでしまえェ!!」
命乞いの声も怒号に掻き消され、四方八方から殴られ刺される。
騒ぎを聞き付けた警備が駆け付ける頃には、守衛たちは完全に息絶えていた。
「何だこれは……。一体、どうなっている!?」
「知らんっ! とにかく、この不届き者どもを斬れっ!」
邸内から現れた兵は、流石にオーブニル伯爵家直属だけはある。守衛とは練度が違った。動転したのも一瞬、すぐさま立ち直ると、襲い掛かってくる相手を後の先で斬って捨てる。たたらを踏んだ者は突き飛ばして後続を巻き込み、見事に群衆を一時的に押し返した。
「乱心したか、平民どもめ!」
「兎に角、押し返せっ! この騒ぎだ、すぐに騎士団が駆け付けて来る! それまで持たせろォ!」
駆け付けた武官の数、およそ十名。屋敷の大きさからしても、伯爵家という家格からしても、どうにも少ない手勢である。【奴隷殺し】の悪評で仕官の足が遠のき、また私兵の方も好んで雇われる者がほとんどいなかった為だ。
吹けば飛ぶような少人数とはいえ、これまでの相手とは勝手が違う。暴徒たちはじりじりと後退しかけるが、
「……恐れるなっ!」
ガストンが、その背を突き飛ばすように檄を飛ばす。
「彼奴等は腐敗貴族の中でも悪辣な、オーブニル家の走狗だ! それを前に怖気づいて下がることは許されない! 戦えっ! 戦って死ねっ! いや、死んでも戦うのだ、同志たちよ!」
「お、おおおおおっ!」
「万歳っ! 同志ガストン、万歳っ! 市民運動、万歳っ!」
「自由とっ! 平等の為にィ!」
再び、人の波が押し寄せてくる。しかし、今度は簡単には斬られなかった。いや、斬られはするのではあるが、その後が凄まじい。
ある者は斬られながらも携えた武器でオーブニルの手勢を殴りつけていた。
またある者は、肩口に埋まった剣を手で掴み、両刃で指を落とすまで握りしめていた。
己の血しぶきを眼潰しに使う者もいる。
命を捨てた、正気の沙汰とは思えない攻め方に、オーブニルの手勢は一人、また一人と討ち取られていく。
「な、何なのだ、こいつらは……」
「あ、頭がおかしい! 死ぬのが怖くないのか!?」
遂には出て来た時の半分にまで数を減らし、引けた腰で後ずさっていく武官たち。その無様な姿を、ガストンは笑う。
「見ろ! 圧制者の尖兵が逃げ惑う様を! 許すな! 追い討て! 奴らの血を流した先にこそっ! 市民たちの楽土は降りてくるのだァ! 殺せ殺せ殺せっ! 自由と平等の為にィ! くは、ふははっ……ふははははははっ!!」
彼の笑いは、遂には箍が外れたような哄笑となった。
自分の指図一つで、命を擲つ群衆。それに追い詰められていく、憎むべき貴族。堪らなく良い気分だった。興奮と陶酔の余りに、ズボンの前が固く張り詰め、口元からはだらしなく涎が垂れてしまう。そんな姿を晒しても、民衆はガストンに従い彼を崇拝してやまない。
(……俺は神だ)
湧き上がる全能感から、そんなことをふと思った。
(誰もが俺の言葉に従い、戦い、そして死ぬ。そうだ、俺こそが平民たちの神なのだ!)
不敬で不遜な思考を弄びつつ、ガストンは思い返す。
初めは、こんなに上手くはいかなかった。街で説法をする度に笑われ、馬鹿にされ、石で追われて獄に繋がれた。挫けずに少しずつ同志たちを増やしはしたが、それで出来たのは群れ為して声を上げ、街を練り歩く程度のことである。
だが、この一週間で全てが変わった。ガストンの声に応え、活動に身を投じる者たちは一挙に増えた。彼らの全ては、ガストンの指図に従った。一度命を下せば、死を賭してまでそれを果たそうとする程に。
まるで魔法である。彼の口にした言葉は、全て現実になった。市街での蜂起も、それを陽動にしての貴族街への襲撃も、順調に推移している。貴族どもも、思ったより大したことはない。市街の商人どもを粛清した時と同じだ。建物に踏み入って殺し、火を掛ければそれで済む。流石にこのオーブニル邸は、巨悪の巣窟だけあって多少の抵抗はあるものの、それも間もなく排除される。
この調子でいけば、今晩中にも都中の貴族を皆殺しに出来るかもしれない。いや、ひょっとしたら国王すらも――
(そうだ、それが良い。貴族どもを片付けたら、次は王だ。そして俺が指導者として民の上に立つ……くくくっ、面白いじゃあないか。愚かな民どもよ、俺が導いてやる。そして与えよう。俺の下での、自由と平等をな!)
酸鼻な光景の中で幼稚な夢想に耽りながら、ガストンは笑い続ける。
彼は幸せだった。
……そこが幸せの絶頂だった。
「はしゃぎ回んのも、その辺にしておけ」
そんな声が掛けられると同時に、民衆の狂乱はピタリと止まる。
決して、大きな声ではなかった。寧ろ静かなものだったと言って良い。だが、オーブニル邸に詰め掛けていた暴徒の群れは、確かにその声によって止められたのだ。
気が付けば、屋敷の玄関の前に、一人の男が立っていた。黒外套に黒い鎧を纏った、長身の剣士。背中には、罪人が十字架を負うようにして担がれた、長大な両手剣。見るだに剣呑な印象の人物だった。
男は、放心した群衆に歩み寄ると、彼らに組み敷かれていた辛うじて息のある武官を、片手で乱暴に掴み上げる。
「おい、生きてるか?」
「う、ぐ……お、お前は……マルランの――」
「喋れるんだったら、問題無ェな。ほれ、さっさと屋敷に帰んな」
そう言うと、これまた乱暴に背後へと放り出した。
投げ出された男は尻餅を搗くと、這う這うの体で邸内に逃げ戻る。暴徒たちは、それを追うことが出来なかった。何しろ目の前には、人一人を――それも武装してる成人男性を――事も無げに片手で持ち上げ、投げ捨てるような怪力の持ち主がいる。こんな脅威を前にして、迂闊に目を離せる訳が無い。
「何者だ、貴様」
ガストンは、不快感を滲ませて誰何する。この男が現れるまで、状況は自分の思い通りに進展していた。なのに、こいつは声を掛けただけで群衆の動きを止め、革命の生贄になるべき貴族の手下を助け、今なお自分の前に存在し続けている。
許せなかった。ガストンの中で、この男の存在を許せない気持ちが、急速に膨らんでいった。
果たして男は、誰何に応える。
「俺ァ、ドゥーエ・シュバルツァー――」
誇る訳でなく、謙る訳でなく、何でもないような声音だった。
それがまたガストンの気に障る。今、活動家たちは屋敷を包囲している。屋敷の前に立つ、ドゥーエと名乗った男もだ。こちらに生殺与奪を握られている状況で、何故そうも平然としていられるのか。
が、続く言葉は、気に入らないどころで済む内容ではなかった。
「――お前らが殺したがっている、【奴隷殺し】の家来だよ」
そして、言いながら背中の両手剣を抜いて、無造作に構える。
同時に、ガストンは叫んだ。
「そいつを殺せェえええええっっっ!!」
【奴隷殺し】の家臣。そんな穢らわしい肩書きを平然と名乗る男など、平民の開放を叫ぶ活動家が、生かしておける筈も無い。
忽ち、命令を受けた暴徒たちがドゥーエに飛び掛かる。
「うおぉおぉおぉっ!」
「同志ガストン万歳っ!」
「自由と平等の為にっ!」
人間の波濤が、黒い男を飲み込もうとする――直前、
「……ぬるいンだよ」
両手剣が、一閃した。
押し寄せた人垣が、逆に押し返され、赤い霧となって消し飛ぶ。
何人もの人間が、一刀の下に斬殺され、飛散したのだ。
「は?」
目の前に広がった光景が信じられず、ガストンは間の抜けた声を上げた。
その頬へ、バシャリと生温かい液体が浴びせられる。
斬られた同志の返り血だった。
「ぎゃぶっ!?」
「ぐえっ! な、何だ……何かが飛んで来――ひいっ!? く、首ィ!?」
同時に後方で悲鳴が上がる。ドゥーエが斬り飛ばした人体の一部が、流れ弾となって周囲の活動家たちをも襲ったのだ。
首が、手足が、胴体が、即席の散弾と化して猛威を振るう。
それを受け止めて、自分を傷つけた凶器の正体に悲鳴を上げられた者は、まだしも幸運である。運の悪い幾人かは、身体の中でも重たい部分を、頭などの急所に受けて、即死していたのだから。
酸鼻な光景を作り出した張本人は、得物を振り切った姿勢のままで憂鬱げに呟く。
「やっぱ……歯応え無ェよな」
その声には、徒労と虚無感以外に何も含まれていない。馬鹿げた膂力を発揮しながら、達成感すら無かった。それも当然だろう、彼はまるで本気を出していないのだから。
もしも、かつて彼と立ち会った剣士、【飛燕剣】ことモールトがこの場におり、かつ正気であったのなら、下のように評したに違いない。
「勢いはあれど、剣理、戦意、共に無し。戯れの一撃也」
と。
活動家だ、革命だと気取っても、所詮相手は一揆ばらに過ぎない。日用の道具を武器に変えた、単なる平民たちだ。武を志しての鍛錬も積まず、戦を勝ち抜く才覚に乏しく、死を賭しての実戦も今日が初めて。これでドゥーエの眼鏡に適う戦いが出来る方がおかしい。
そんな相手に全力を振るう程、この男も子どもではなかった。だから先の一撃は、襲い掛かって来た連中を、軽く払い除けただけだ。そんな手を抜いた一撃で、人が死に、四肢が飛び散り、巻き込まれた者が死傷した。ただそれだけのことなのだ。
「……さて? どうするよ、活動家の旦那」
「ひっ!?」
気怠げに目を上げたドゥーエと視線が合い、ガストンは引き攣った悲鳴を漏らす。そこには活動家の指導者としての威厳も、権力者への憎悪に燃えた眼光も無い。一人の怯えた農民がいるだけだ。
「俺の仕事は、主を守ることなんでな。帰るってンなら、追いはしねェ」
言いながら、懲りずに向かってきた暴徒を叩き斬るドゥーエ。その光景に、扇動者が力無く座り込むのを後目に、他の者は狂奔して剣士へと躍り掛かっていく。それはまるで、ガストンが発した「殺せ」という指図を、ただ愚直に実行しようとしているかのようだった。
或いは、まるで何かに操られているかのように。
「同志ガストン、万――」
「自由と平等――」
叫び声は、剣風に断ち切られて断絶する。蜂起した市民たちは、黒い剣士を前にして、全くの無為に死んでいく。
「……さァ、どうするっ!?」
焦れたようなドゥーエの一喝が飛んだ。
その声に打ち据えられたガストンは、
「た、退却だァ――っ!!」
一溜まりも無く、そう叫ぶと尻を振りたくって逃げ出した。
「た、退却……?」
「ど、同志、怨敵を前にして、何を――」
「そんなことはいい……。兎に角、同志の指示に従わなくては……」
同心する暴徒たちも、一瞬困惑したが、すぐさまにその後を追って退去を始める。後はもう、潮が引くようなものだった。
貴族街、そしてオーブニル邸を騒がせた群衆は、瞬く間に去っていく。
残ったのは、散乱する死体の数々と、剣を手にしたまま茫漠とした表情を晒すドゥーエのみ。
単騎で暴徒を蹴散らした剣鬼は、一人呟く。
「つまんねェな……こんな事を、後何度繰り返すんだよ、俺は……」
乾いた言葉は血腥い風に染み込んで、誰に聞かれることも無く消えた。
※ ※ ※
時は僅かに遡る。
オーブニル邸内は、完全に浮足立っていた。表玄関に暴徒が詰め掛け、守衛を殺傷せしめるという事態。例の次男の行状を除けば、この家で最大の変事と言っても良い。当主直属の数少ない武官は迎撃に向かい、残された家人は右往左往するのみ。その渦中にあって、ライナス・ストレイン・オーブニルは、険しい顔のまま居室のソファに座り込んでいた。
若い伯爵は、押し殺した問いの声を口の端から漏らす。
「……状況はどうなっている」
「は、はっ! 正門を破った暴徒どもに対し、当家の武官たちも奮闘しておりますが、どうにも多勢に無勢のようで――」
傍に控えた執事の返答は、どうにも頼りなかった。
何しろ、暴徒たちは数が数だ。聞くだに、百人は下らぬ頭数を揃えているという。同格の他家に比べて家中の侘しいオーブニル家の備えでは、邸内への侵入を防ぎ切れぬ恐れもあった。寧ろ、劣勢にありながら未だに侵入を許していないだけ、武官たちは良くやっていると言える。
無論、それでライナスの腹が癒えたりはしない。王都に構えた居館に平民が押し寄せ、たかが守衛といえど家臣を害されたなど、いい笑い者である。またぞろ家名に泥を塗られた訳だ。眉間に寄せられた皺が、より深くなっていく。
「怖い顔はお止めなさいな」
呆れたと言わんばかりの表情で言うのは、妻のシモーヌだ。
「こんな時こそ、家中の者を安堵させるのが当主の役目ではなくって?」
「……分かっている」
とは言うものの、ライナスの表情は晴れなかった。何しろ、王都での民衆蜂起など、絶えて例の無かったことである。少なくとも、彼が生まれてから今日までの間には、起きたことは無い。完全に想定外の事態に、ライナスは打つ手を知らなかった。
そこへ、
「失礼っ」
慌ただしく駆け込んでくる青年の姿があった。ライナスを始め、オーブニル伯爵家の一同は嫌な顔をする。例外はシモーヌくらいだ。
「あら、貴方……確かトゥリウス卿の――」
「はい、部下のルベールです」
ジャン・ジャック・ルベール。あたら酔狂にも、悪名高いトゥリウスに仕える変人である。この家の主人とそれに仕える者の間では、あの次男とその関係者への評判はすこぶる悪い。だというのに、厚顔にも当主の居室に乗り込んで来たのだ。顔が渋くもなろうというものである。
ライナスは、妻を手で制して下がらせる。不服そうな顔をされるが、奇妙にも弟への肩入れが激しい彼女に、その部下への対応など任せていられなかった。
「卿、何をしに来た? 見たところ、アレの姿が無いようであるが」
指摘の通り、ルベールの主人であるトゥリウスの姿が無い。連れているのは、ルベールの部下か同僚らしき官吏風の男たちばかりだった。
「我が主ですが、入浴に向かわれた最中ですので、変事を報せに人を遣っております」
「入浴だと?」
確かに、時刻は夕餉を済ませた辺り。風呂に入っていてもおかしくはない。
「おっつけ、こちらに参ることでしょう。こうなっては、一つ所に固まった方が安全ですので」
「私はそれを許可した覚えは無いが?」
「ライナス」
シモーヌが、叱責の色を孕んだ声を出す。
この期に及んで弟やその家臣を締め出すなど、家中の不和をみっともない形で曝け出すようなものだ。加えて、それが原因で万が一のことが起きた場合、周囲に要らぬ誤解を生じさせることにもなりかねない。
「……許可しないとも言っていない。家中の法度を正したまでだ」
弟の臣下の独断専行を好ましくないと思ったまでのことだと、言い訳がましくそう言うライナス。妻はまたぞろ溜め息を吐いた。非常時に大人げないとでも思ったのだろうが、その口から実際に文句が出る直前、
「…………きゃあああああっ!?」
遠く、だが確実に邸内の何処かであろう場所から、そんな声が聞こえて来る。
若い女の悲鳴だ。
「何事だ?」
「暴徒でしょうか。表はまだ持ちこたえているでしょうから……窓を破ったか、或いは裏手の使用人用の勝手口から侵入されたとか」
そして屋敷のメイドなどが、それと出くわして悲鳴を上げた。
あり得る。だが、不愉快な想像だった。そうならば、屋敷の兵力が表玄関に集中している裏を掻き、相手は悠々とここに籠るライナスらを襲撃出来ることになる。
想像を裏付けるように、慌ただしい足音が廊下から響いてきた。
ライナスはルベールの方を見る。
「そちらの武官は?」
「……生憎と、表への増援に向かわせております」
「全員を差し向けたのか? 一人も残っていないと言うのか!?」
「全員も何も……目出度い席へと御招きに与りましたので、同行した武官はドゥーエ一人でして」
婚儀を口実にお呼びになり、無理に留め置いておかれながら、今更こちらの戦力を期待されても困ります――。
ルベールの慇懃な返事の裏に、そんな意図を勘ぐってしまう。
だが、今はそれを吟味する時ではなかった。
足音は、確実にこちらへと近づいてくる。最悪、この部屋にいる人員で侵入者を撃退せねばなるまい。
(……出来るか?)
固唾を飲む。ライナス・ストレイン・オーブニルは、若年より模範的な貴族たろうと心掛けて来た男だ。その為に積んだ修練の中には、危急の時に備えての軍学や護身を目的とした剣術も含まれている。遊興に耽るばかりの退廃的な貴族や、生半な平民には後れを取るまいとは思うものの、残念なことに実戦の経験は無い。今、部屋に侍っている家臣も、ライナス同様かそれ以下だろうし、妻のシモーヌに至っては論外だ。彼女は魔力も無いし、腕力など期待できないご令嬢である。
また魔法といえば、ライナスにもその才能が無かった。業腹ではあるが、こちらの方面への才覚に掛けては、完全にトゥリウスの方へと軍配が上がる。あの忌々しい弟は錬金術以外の分野にも些少とはいえ理解がある。単純に、身に掛かる火の粉を振り払うだけなら、幼時より魔導に慣れ親しみ、アカデミーの末席にもいた、あの男の方が秀でていると言えた。
トゥリウスが合流さえすれば、かなりの確率で全員無事に持ちこたえられる――。
その思案が頭を過った時、思わず自分で自分を殴りたくなった。よりにもよって、この世で一番殺したくて堪らない男の手を借りる?
冗談ではない。そんなことをするくらいならば、潔く自分の手で戦う。それで敵わないというなら、大人しく死んでやる。元より奴の所為で滅茶苦茶になった人生だ。そこまでして長らえるつもりなど元よりない。
近づいてくる足音に、護身用のサーベルへと手を掛けながら、ライナスは祈った。
どうか自分があの男によって救われることなど、ありませんように、と。
その願いは、如何なる神の思し召しか、叶えられた。
「……失礼しますっ!」
言いながら、ドアを荒々しくぶち開けて入って来た人物は、危惧されていた侵入者ではなかった。エプロンドレスを身に纏い、両腕で何かを荷物を抱えているメイドである。
が、ライナスはそのメイドに見覚えが無かった。いや、正確には見知っているメイドに符合する外見ではあったが、彼女がその人物だと言い切れる自信が湧かなかった。
何しろ、自分が知っているこの女は、大声を上げるような性質ではないし、表情は小憎らしい鉄面皮が常態だ。こんな慌てふためいた声と顔を、人前で晒す筈がない。
同様の感想を抱いたのであろう、ルベールなどは口をあんぐり開けて絶句している。
言葉を失った男たちを後目に、その女を呼んだのは、シモーヌだった。
「ユニ、さん……?」
そう、先日の裁判騒動を経て、弟の下に出戻ったばかりの奴隷だった。
その奴隷は、シモーヌの声を無視してルベールに怒鳴りつける。
「ルベール卿っ!」
「えっ、あっ、はい?」
「部屋からご主人様の荷物を! 緊急事態ですっ!」
「あ、あの……それって僕が侵入者に出くわす恐れとか――」
「聞こえていなかったのですか!? 早くっ!」
「ひっ! あ、わ、解りましたァ!」
その剣幕に押されるようにして、ルベールは部屋の外へと素っ飛んでいく。
ライナスは、いや部屋に集まった一同は呆然としていた。同じ主に仕える者同士とはいえ、奴隷が仮にも貴族に命令するとは、だとか、伯爵家当主を前にして跪きもせず当主夫人の呼びかけを無視するとは、だとかいった文句は山ほどあるが、それを口の端に上らせることはできない。余計な一言を発したら、その瞬間に刺殺されそうな雰囲気が、今のユニにはある。
当の本人は、恐る恐るとそちらを窺っている周囲に気付いた様子も無く、持ち込んだ荷物を震える手で床へと下ろした。
それは一見したところ、梱包された等身大の人形にも見える。成人した男性くらいの人型が、布でぐるぐる巻きにされて力無く身を横たえていた。
いや、違う。
人形などではない。細い呼吸を繰り返す度、胸が上下する。時折、苦しげに呻く声が漏れ聞こえる。そして何より、その身を包む布地に、じわじわと赤い染みが広がっていた。
これは人間だ。血を流すような怪我を追い、死に瀕している人間である。
「その者は、一体――」
「……近寄らないでっ!」
ユニは腰を浮かしかけたライナスを一喝し、担ぎ込んだ怪我人に覆いかぶさるようにして庇った。
奴隷に怒鳴られた屈辱を感じるより先に、恐怖を感じて腰を抜かしてしまう。この女奴隷の声には、殺気すら含まれていた。迂闊にその人物に触れようとすれば、虎児を守らんとする母虎の如く、躊躇無く牙を剥くだろう。
それを察して、気圧された。同時に悟る。
この女がそこまでして守ろうとする相手など、ライナスの知る限り一人しかいない。
「う……くっ……」
苦吟して身じろぎした拍子に、その人物は布の上から頭を覗かせた。
血錆を思わせる赤銅色の髪。顔立ちはどことなく自分に似通っている部分があって、それに気づく度に嫌悪感が湧き立つ。
トゥリウス・シュルーナン・オーブニル。
彼がその死を願っていた忌まわしい弟が、死に瀕した青い顔を晒したのだった。
「たす、けて、ユニ……痛いよ……こわい、しにたくない……」
こぽこぽと口角から血泡を散らしながら、トゥリウスは訴える。
その憐みを乞うようなか細い声に、ユニはますます狂乱した。
「ああっ、ご主人様! 喋っちゃ駄目ですっ! ご安心を、ご安心をっ! ぜ、絶対、お助けしますっ! お助けいたしますからっ!」
くしゃくしゃの顔で、ボロボロと涙を零しながら取り縋るのだ。
ユニの泣き声と、トゥリウスの荒い呼気だけが、室内に響いている。他は誰も声を出せない。迂闊なことを言えば、次の瞬間にはこの狂女が激昂し、全員を皆殺しにしたとしてもおかしくは無いだろう。少なくともライナスはそう信じていた。
だが、彼ほど目の前の女に詳しくないシモーヌは、恐る恐るながらも口を開く。
「い、一体、何が起こったの?」
ライナスは驚いて妻を見た。何て事をする。いつ、何が切っ掛けで爆発するかも分からない危険物を、無造作に指でつつかれた気分だった。まるで生きた心地がしない。
幸い、今回は暴発しなかった。
「わた、私が、外の様子を見に出た隙に、ご、ご主人様が……っ! ああ! こんな事を防ぐ為にお仕えしていたのにっ! 戻って来たばかりだというのにっ! うわぁああああ……!」
そう言ったきり、また泣き崩れてしまう。支離滅裂であったが、おそらく彼女が目を離したところを見計らった刺客が、入浴中のトゥリウスを害したと言うことだろう。
(本当に何なのだ……一体、何が起こっている……?)
ライナスは黙考する。
オーブニル邸へと押しかけた暴徒。そして、それに気を取られた隙を突かれ襲われたトゥリウス。
一見、トゥリウス襲撃は暴動の延長線上にあるように見える。だが、個々の印象はまるで真逆だ。数頼みの騒々しく無秩序な暴徒どもと、一瞬の隙を逃さずにトゥリウスを襲い、深手を負わせてのけた刺客とでは、手口も手際も違い過ぎる。
また、この女奴隷が愚弟の護衛も兼ねているのは、ライナスとて知っている。ザンクトガレンへの留学にもマルランへの下向にも付き従い、常に身辺に置くほど信頼されていたのだ。女の方も、貴族の御令嬢になる機会すら蹴って奴隷に戻るという、理解し難いくらいの忠誠心を寄せている。出戻った直後の今時分などは、その反動でべったりだっただろう。俄かに蜂起した平民どもなどに、付け入る隙があるだろうか? 外の様子を気にしたとして、この厄介な雌犬が、そう長く主の傍を離れはしまい。襲撃の機会は、ごく短時間のはずである。そして、トゥリウス自身も、ある程度の自衛が出来るくらいには魔法を使えるのだ。
密かに貴族の屋敷に侵入し、標的の居所を探り当て、厄介な護衛と分断した上で、魔法を使える標的に対し、暗殺に及ぶ。そんな真似が出来る者は、それこそ貴族の子飼いにもそうはいない。
(待て――)
不意に、脳裏に閃くものがあった。
(――貴族の子飼い、だと?)
トゥリウス襲撃者は貴族の手の者……その仮定は、暗殺者が暴徒の一員であるとするよりもよほど自然だった。
貴族同士の争いは、概ね高等法院の裁定で仲裁されるか、政治や談合、或いは陰謀で解決するのがセオリーである。が、暗殺というより直接的な方法での打開を図るケースも、無くは無い。憎い、邪魔だ、殺してしまえ。そう短絡的に考えて愚行に手を染める貴族は、少数ではあっても常に存在し続ける。そもそもライナス自身もトゥリウスを殺そうとしているし、六年前には王太子すら暗殺されたのだ。利害の対立する貴族が、今日この日にトゥリウスへと刺客を送ったとしても不思議ではないし、出来れば自分もそうしたい。
(あり得るな……。だが、そうだとすると誰が――!?)
思わず、ライナスはソファから立ち上がっていた。
そして、なるべく刺激しないよう低めた声音でユニに問う。
「聞くが、弟を襲った刺客はどうした」
「……斬りました。それが、何か?」
答える声は先程より冷静だったが、孕んでいる狂気の度合いは増していた。嘆きや怒りが消えたと言うよりも、より深い域に差し掛かって圧を高めているのだろう。そして、この女もライナスがトゥリウスに殺意を抱いていることくらい承知の上で、のみならず彼は彼女と主人を引き裂きかけた企ての共犯者だ。それを思えば、主の手当てに全霊を注いでいるところに声を掛けられて、愉快な筈が無い。冷たく平静な声音は、その実、氷点下の殺意の具現で、見据える目つきは仇を見る眼差しだった。
鳩尾からせり上がる圧迫感を飲み下して、問いを重ねる。
「……死体は?」
「転がしたままです。話はそれだけですか?」
であるならば、場所は浴室だろう。
目を合わせると石化しそうな眼光からぎこちなく視線を離して、ライナスは家臣に声を掛ける。
「見て来よう。付いて来い」
「はっ?」
「ちょっと、貴方――」
シモーヌの制止を無視して、護衛にと無理やり連れた家臣と共に部屋を出る。
ドアを開けたところで出くわしたルベールの顔も、ユニが遅いと彼を詰る声も意識に入れずに、浴室へと向かう。
……辿り着くと、浴室前は血の海になっていた。
むせかえるような鉄臭さと生っぽい肉の臭い。あの狂人どもの所為で不本意にも慣らされてしまった悪臭である。
転がっている死体は三体。綺麗にぱっくりと傷を空けた傷口から、死因は素人目にも刺殺か斬殺と知れる。いずれも男で、服装は家僕の態だ。断じて、活動家に煽られた市井の者などではない。
そしてこの屋敷の使用人でも無かった。
だが、ライナスは死体の顔に見覚えがある。
「……」
顔を顰めて、死体を検める。本来は家臣が代行すべきところだが、腰が引けてそれもままならない様子だった。
やがて、懐に忍ばせてあったペンダントのような品を探り当てる。
これにも、見覚えがあった。あの婚儀の夜が明けた朝、引き合わされた際に見せられたことがあるのだ。
通信用の礼装。念話の魔法を修めていない、或いは魔力すら持たない者でも、その真似事を可能とする為のアイテムである。しかもザンクトガレン製の舶来品で、通話距離を伸ばす為の工夫か、一般的なものより純度が高い水晶を核に用いている。
ライナスは無言で礼装を起動し、応答を待った。
ややしばらくして、
『どうした? 何か不測の事態でも起きたかの?』
予想通りの、しわがれた老人の声が返ってくる。
――やはりか。やはりこいつが勝手に仕出かした仕業か。
持ち手が強張り、礼装がみしりと軋んだ音を立てる。
「……ええ。全くもって、予定外かつ予想外の事態ですな」
怒りの余りに震えた声を漏らすと、通話の向こうで息を呑む気配がした。




