035 王都は燃えているか<1>
その日はラヴァレ侯爵にとって、苦い一日として始まった。
「困りますなァ、侯爵閣下。このような時節に騒ぎを起こされますとは」
「左様左様。平民どもの不満が高まっておる折。今こそ地方に割拠する者どもに失政を糺す好機」
「だというのに、我が派への新参、その家中の紛争に介入なさるのは……のう?」
侯爵邸の談話室。そこで卓を囲む客たちは、口々にラヴァレの過失を叱責する。テーブルの上には形ばかり口を付けられたカップが、冷めた茶を湛えたまま並んでいた。
中央集権派に属する貴族たち。中でもその枢要を占める者たちの会合である。
彼らの専らの話題は、やはり昨日の裁判――先に発見されたカルタン伯爵の私生児が、実は単なる奴隷であったとされた判決――の件であった。
事の発端は、ラヴァレがオーブニル伯爵ライナスの求めに応じて企てた策略にある。
永年、錬金術に耽溺し、また非常識な数の奴隷を虐殺するなどして素行よろしからぬライナスの弟、トゥリウス。彼の行動を掣肘し、また排斥の口実を探る為に、その最側近とされる女奴隷の身柄を手に入れる策謀。ラヴァレは数年前にひょんなことで保護し、何某かの策の種になるかと確保していた女――カルタン伯の元愛妾、アンナマリー――から、その女奴隷がカルタン伯の庶子であると知った。それを利用し、伯爵令嬢奪還の大義名分の下、トゥリウスから女奴隷の身柄を差し出させたのであるが……結果は、この通りである。
カルタン伯は女奴隷の美貌に目が眩み、自分の子であるとの偽りを述べてまで略奪したとの汚名を着せられ、隠居。
新興貴族であり、派閥内では末席に近いとはいえ、仮にも伯爵という高位にあるものが失脚するという事態になった。
この会合に集まった貴族たちは、ラヴァレに対しその責を追及しているのである。
列席した貴族の一人が、渋い顔で冷めた紅茶を啜り、湿らせた口を開いた。
「まあ、オーブニル伯にご助力なさるのは良いでしょう。ですが、些かお手違いが見受けられるのは如何なものかと」
「然り!」
便乗し、また別の貴族が椅子を蹴立てて発言する。
「更に言うなれば、侯の企てにカルタン伯を出汁にしたことも得心がゆかぬ! その果てに伯が隠居に追い込まれたとなれば、別してな!」
「……これは異なことを」
ラヴァレは微笑を浮かべつつ口火を切った。
腹中は業腹な思いで煮えているが、顔色には一切見せない。見せれば、動揺ありとして派閥の領袖としての器量に、疑義を呈されかねないのである。
「儂は謀議の為にカルタン伯を蔑ろにした覚えなど無い。法院より隠居の沙汰を下されたのは、ひとえに伯自身の責と思うがの?」
「姑息な言は慎まれよ!」
「ほほっ」
言い逃れとでも思われたのだろう。いや、ラヴァレの言は正しく言い逃れである。
先より激しい口調で詰問してくるのはメアバン伯爵。壮年であり、高位の貴族だった。大方、ここいらで老いた侯爵から派閥内の主導権を奪い、自らが領袖として立とうという腹積もりなのだろう。
だが、失策一つでそれを許すのであれば、ラヴァレも巷間に妖怪だの寝業師だのと囁かれる事は無かった。
「そも、カルタン伯が責めを負うたのは家中取締りを怠ったが故の事よ。儂は確かに伯へ、彼の御仁が常々探しておった、生き別れの息女に似た娘の事を報せたが――赤の他人を見初めた挙句、偽りを申して連れ去るとは、とんと想像の外であったわ」
「では、全ての責はピエール・シモン・カルタンにありと?」
小馬鹿にしたように鼻を鳴らして言うのは、ランゴーニュ伯爵。三十代も半ばという若手であり、才幹への自負を隠しもしない青年貴族である。年功の壁を前に度々苦い経験を積んできた彼も、メアバン伯と気脈を通じてあわよくばラヴァレを追い落とそうと企んでいるに相違なかった。
「違わぬかね?」
「なんと」
厚顔にも責任転嫁を憚らぬラヴァレに、座の一同が皆、鼻白む。
だが、次の発言で空気は変わった。
「……悲しいとは思わぬかね、卿ら。我らと意気を通じ合い、天下国家を論じた義士が、その実斯様に乱れた性情を隠していたとは」
「む……」
「御一同も、先代カルタン伯の轍を踏まぬよう、努々御気を付けられるが良かろう。なあ?」
一座の中の幾人かが、ピシリと固まる。
中央集権派の名の下に、権力を集めることに腐心してきた貴族たち。その中に、威光を嵩に着て私欲を肥やさずにいられる無欲な者が、果たしてどれだけいるものか。派閥の領袖として、悪しき先例たるカルタンの如き振る舞いは許さぬ。
ラヴァレ侯爵の言は、そうした意を含んだ警句だった。
「は、はははっ。これはこれは……手厳しいお言葉を」
ランゴーニュ伯が打って変わって追従の色が滲む苦笑をひらめかせる。
彼は座中でも若い。つまりはその分、英気も十分であり、閨の事への意欲も盛んである。事実、奥方に隠れて身分の低い女を数人摘まんでいることは、ラヴァレも把握していた。
「……侯爵閣下もご冗談が過ぎる。よもや王室の藩屏たる我らが、そのような――」
憤然と言うメアバン伯だが、その舌鋒は先程に比べて明らかに鈍っている。
この御仁は、ランゴーニュ伯と違い五十路を過ぎている。何人もの愛妾を囲むような無理の出来る年ではないが、それでも時折、色町の高い女と座を共にすることがあるという。
当のラヴァレ自身も、老境にあるとは思えぬ華やかな交わりを持つ身ではあるが、一座の者にそれを指摘する人物はいない。藪を突いて蛇を出し、突いた分だけ噛み返されるのを恐れている。
要するに、諸卿の隠している後ろ暗い事情について、この老獪な策士以上に知悉している者はいないと、周知されている訳なのだ。
背いたり、或いは隙を見せたりすれば、即座にそれをネタにした恫喝が飛んでくる。
折しも件のカルタン伯の件で、宮中は貴族たちの風紀に過敏になっている。ラヴァレ程の者がそれを突き回せば、幾人かの大貴族を都合よろしからぬ状況に陥れるのは、そう難しいことではない。
「いやいや、侯の仰ることは尤もで。我らが一党から不名誉を被るものが出たからこそ、襟を正すべき時と存じます」
にやついた表情で油断の無い目付きを隠しつつラヴァレの側に回る男は、シャンベリ伯。かつて地方分権派から鞍替えしたという経歴があり、現在も集権派の派閥内派閥を遊弋する食えない相手である。
この場はラヴァレ有利と見たか、或いは声高に擁護することで恩を売る気か。いずれにせよ抜け目の無いことであった。
「確かに……」
「辺境の田舎者どもに付け入れられぬよう、身を引き締めるべきか」
シャンベリに続いて、数人の貴族がラヴァレに同調する旨を述べる。
ひとまずの所は、今回の裁判騒動について侯爵の責を問う声は静まる気配を見せていた。
(……とはいえ、そうそう気を抜ける状況ではないがな)
己を窺う数々の視線に、ラヴァレは嘆息したい思いを堪える。
国王の忠臣と称する中央集権派とて、その実態は利を図る貴族の連合に過ぎない。自家の所領の少なさを、宮中の権威で以って補おうという奴輩は枚挙にいとまが無かった。転向者であるシャンベリは、その好例であろう。
今、旗振り役のラヴァレに翳りが見えたとしたら、即座に取って替わりその権力を奪おうとする者ばかりであった。
そうした連中の表情から読み取れる意図は、ただの一つ。
――まだ、早い。
隙あらば追い落としを図るのも悪くないが、ラヴァレにはまだ満座の貴族たちを牽制できるだけの余力がある。ならば焦ることなくこの場は下がろう……。
そんな絵図が手に取るように見えた。
(……ふん。うぬらの胸中程度、分からいでか、小僧どもが)
ラヴァレにとっては忌々しい限りであった。この騒動で彼が負った瑕疵は、致命と言うほど深くはないが、掠り傷と強弁出来るほど浅くもない。当主交代から間もないオーブニル伯爵家を取り込むついで、その火遊びで負った火傷にしては思わぬ痛手である。
これよりしばらくの間は、今回の件で自分に侮りを抱いた自派貴族の引き締めを図る必要があった。
中央集権派も一枚岩ではない。メアバンに代表される、急速な権力拡大を目論む強硬派、ランゴーニュを中心とした、勢い任せの若手。シャンベリたちのようなあちらこちらに媚を売る蝙蝠……この場には呼ばれていない、ライナス・オーブニルなどの新参・非主流派も、どう動くか分からない。また中には権謀を駆使するのではなく実力を用いる――武力抗争に打って出るのも辞さないという、過激派などと呼ばれる軽挙妄動の輩も存在するのである。彼らがラヴァレの制御を離れぬよう、この亀裂を速やかに修復する必要があるのだ。
(まだ、早い――とでも思っていよう。じゃが、思い知るがいい。時期尚早なのではなく、もう、遅いのじゃ)
ラヴァレが中央集権を御題目に貴族たちを糾合し、有力諸侯らと伍する派閥を作り上げたのは、昨日今日のことではない。それこそ鼻息の荒いメアバン伯が、寝小便垂れの小僧っ子であった時分から、密やかに謀を巡らし、往時に権勢をふるっていた将相の目を眩ませながら、半世紀弱、その生涯の大半を捧げて、漸く成立させたのである。
そう、全てはこの国の未来の為にと――。
五十年前、戦争があった。
エルピス=ロアーヌ――或いはエルプス=ロートレルゲンと呼ばれる国境の地。豊富な鉄鉱を埋蔵しているとされる土地を争った、アルクェール王国とザンクトガレン連邦王国の戦いである。
国境線の制定を巡っての度重なる論争から、帰属の曖昧となっていたとある丘陵地帯。そこにザンクトガレン側が、領有の既成事実化を目論んで砦を建設した。それが発端となったこの戦い。その戦争に参加した一人の貴族がいた。
ラヴァレ侯爵家の三男、ジョルジュ・アンリ・ラヴァレ――若き日のラヴァレ侯爵である。
在りし日の彼は義侠心と野心とに燃えていた。東方の蛮人どもの一方的な侵略行為に対する怒りと、戦功を立て栄達をと目論む野望とに。父の名代である長兄の軍勢に混じって戦地を目指す最中、彼の目には勝利と栄光を掴む己の姿がちらついていた。
実際、当時の世評では彼の楽観を後押しするように、アルクェール王国有利との声が大きかった。ザンクトガレン側の挑発的な行動は、野心に駆られた一辺境伯の独断であり、明らかに足並みの揃えを欠いている。国王が陣触れを発したブローセンヌの宮廷へ、泡を食った外交官が謝罪の為にガレリンから派遣されて来た事件は、当時物笑いの種でもあった。
我々は侵略者への怒りに軌を一にした精兵であり、対して敵は欲心と保身に駆られた弱兵に過ぎぬ――国内では、誰もがそう信じていた。
だがしかし、勝利の予感は最悪の形で粉砕されることとなった。
アルクェール王国軍の、記録的大敗という形でである。
動員に遅れた結果、数的不利の状況に置かれることとなったザンクトガレン連邦は、緒戦において形振り構わぬ夜襲を敢行。如何なる天の配剤かこれが図に当たり、奇襲部隊は無傷で哨戒線を潜り抜け、アルクェール軍の本営を直撃した。
折悪しくも動員された王国諸侯は、指揮系統を巡って喧々諤々の軍議の最中であった。そこに死に物狂いの敵兵に切り込まれたのである。言うまでも無く、王国軍は大混乱に陥った。大兵に安んじ、呑気にも戦地で政争を繰り広げていたツケを、強かに払わせられる羽目となったのだ。
一夜にして軍首脳部を撫で斬りにされたアルクェール王国軍は、緒戦にして組織的抵抗力を失っていた。後はもう、剽悍を以って鳴るザンクトガレン兵に追われるがままである。
『アルクェール王国、エルピス=ロアーヌを猟場としてザンクトガレンに献じたり』
とは、海峡を隔てた隣国マールベア王国の観戦武官の言だった。彼の武官もアルクェール軍に帯同していた為に夜襲に巻き込まれ、野戦病院で腱を切られた片腕を巾で吊るしながらそう吐き捨てたのだという。
結果、屈辱的な講和条約によって、永年に渡り州を分断していたあやふやな国境線は消え去り、アルクェール領エルピス=ロアーヌ州も地図から失われた。逆にザンクトガレン連邦王国エルプス=ロートレルゲン辺境伯領は、長らく失われていた西半分を取り戻した形となる。
アルクェール王国が失ったのは領土だけではなかった。従軍した多くの貴族、特に出征軍の枢要を争うだけの高位貴族は、軒並み当主か名代たる嫡子を失った。当然、戦後に復讐戦を望む声も上がらないでもなかったが、では、その再戦の音頭を誰が取るのか? 誰かがそう囁くや否や、またも諸侯は主導権を巡って政争を始め出す始末。
長兄をみすみす死なせ、自身も戦傷を負った身を引き摺って帰国したラヴァレは、その光景に絶望した。
幾つもの頭が、それぞれ好き勝手に国土を蚕食し、自らを太らせていく。なまじ国土が豊かである為に、誰もその危うさに気付かない。
何故、呑気にそんな真似が出来る? 若き日の彼は嘆いた。余勢を駆ったザンクトガレンが、そのまま西進してブローセンヌを目指すかもしれぬ。狡猾なあのマールベアが、海峡を越えて後背の土地を掠め取る恐れもある。
実際にはザンクトガレンは尾大の弊を恐れ、件の辺境伯を独断専行の咎で改易し、マールベアは勢力均衡を図って和議の周旋に動いたのだが、それは不幸中の幸いに過ぎない。歯車が一つ狂えば、エルピス=ロアーヌが如き辺境のみならず、王都までも戦禍を被る恐れすらあったというのに。
だというのに、王室の藩屏たるべき貴族たちは、己の地位と自領の安堵しか頭に無い。
このままでは、この国は駄目になる――所領のみを天下と考え、王国を喰い物としか思わぬ貴族どもが蔓延る限りは。
そう思い立った時、ジョルジュ・アンリ・ラヴァレは生まれ変わった。貴族の御曹司から、憂国の志士へ。或いは稀代の陰謀家へと、である。
彼が手始めにしたことは、妾腹の次兄へ正嫡の四男を讒訴することであった。父の後継者と目された長兄は戦死した。四男はこれを奇禍として妾の子である次兄を排し、父の後を襲おうとしている、と。戦傷に呻吟する姿を見せることで韜晦した彼は、まんまと次兄に四男を殺させることに成功し――その足で証人を連れて父に次兄の罪を訴え出た。妾腹の次男に野心あり、正嫡の弟を害し当主の座を狙っている、と。翌日、父は次兄に自裁を命じた。家中の騒動を表に出さぬ為である。
こうしてジョルジュは目論見通り、ラヴァレ侯爵家の次期当主の座を得たのであった。以後、ラヴァレ侯爵となった彼は、大貴族の権力と数々の陰謀で以って王国の体制強化に努めていく。
自らが宰相や各省の大臣などのような第一人者として立つことは無かった。それよりも彼らの就任に手を貸して恩を売り、裏で操る方が効率的だったからだ。宮廷政治の黒幕として辣腕を振るい、多くの政策の実現に漕ぎ付けた。近衛騎士団の拡大、宗教的権威であるオムニア皇国との関係強化、西方辺境の再開発、東方要塞線の整備。他国の軍事力調査と自国の戦力強化の為、不倶戴天の敵であるザンクトガレンの魔導アカデミーへの留学を希望する若者に、両国融和の美名の下、便宜を図る制度の制定までしてやった。並行して、地方の有力者たちを切り崩し、対抗勢力として中央集権派を組織していった。
その全てはこの国の未来の為に。イトゥセラ大陸の精華たる祖国、美しい国――大地と芸術の国アルクェール王国を、不朽のものとするために……。
短い時間に長い回顧を終え、ラヴァレ侯爵は現実へと視点を戻した。
茶話会の題目で開かれた中央集権派の会合は、未だ続いているのである。
(いかぬな。儂としたことが、年かの……ふとした拍子に益体も無い物思いに耽ってしまうとは)
無論、そんな逡巡はおくびにも出さない。加齢からくる衰えなどを迂闊に見せれば、嬉々として追い落とし後釜をせしめようとする輩がここに集っているのだ。
「さて、諸兄ら。茶飲み話もここいらにして……本題に入ろうかの?」
そうラヴァレが口火を切ると、周囲の貴族は一様に微かな身じろぎをした。カルタン伯失脚の責任問題を『茶飲み話』と片付けた為だ。この機にラヴァレを引き摺り降ろそうと画策していた者どもには業腹だろうが、この老人にはまだそれを許させるほどの実力があることも確かである。
故に彼らは渋々とながら傾注する。ラヴァレが語る『本題』へと。
その成り行きに満足を覚えつつ、彼は続けた。
「先代カルタン伯をやり込めたマルラン子爵トゥリウス・オーブニル卿じゃがの――」
「……カルタン伯をやり込めた、ですか」
茶々を入れるように鸚鵡返しにするのは、ランゴーニュ伯だった。暗に、やり込められたのはもう一人いるだろう、と言いたいと見える。だが、ラヴァレは取り合わずに続けた。
「――あの若者、色々と良からぬ噂はあるが、かなりの英才と見える。裁判における弁の立ちようも中々であるが……」
「詭弁の他にも見所があると? あの【奴隷殺し】にか」
メアバン伯が侮蔑も露わに言う。大方、ラヴァレへの追及が不首尾に終わった腹いせに、その彼に一杯喰わせたトゥリウスを悪し様に言って腹を癒そうとでもするかのようだった。
「そういえば」
と末席にいた一人の子爵が発言する。
「彼の仁の所領では、銅山の操業を始めたとか?」
「ほほう? 昨年に赴いたばかりで、ですか?」
シャンベリ伯が目敏く喰いつく。欲深な者らしく、銅臭に弱いことだ、とラヴァレは胸中で笑った。これでは蝙蝠と言うより、甘い水に誘われるがままの蛍だ、とも思う。
「左様。内政においても年に見合わぬ業績を上げておるようじゃ。これはと思い、以前より内偵を進めておったのだが、ほれ、これはその調書の写し」
そう頃合いを見計らって書類を机に並べてやると、周囲の貴族はこぞってそれを検めた。
「ほう、これは!」
「こ、この麦の収穫高は……前年まで年貢にも事欠いていたと言うのに、子爵が赴いた途端にこれか!?」
「治安の方も見違えるようではないか。……ラヴァレ侯、よもや我らを担がれておいでで?」
劇的な、そして予期していた反応である。ラヴァレ侯爵はほくそ笑む。
「いやいや、真実儂の手の者の調査した結果じゃよ。また宮廷の方の友人からの伝手でも、太鼓判を押されておるとのことよ。いやはや、大したものだと思わぬかね?」
トゥリウスがマルランで上げた治世の結果は、ラヴァレをして瞠目させるに足るものであった。王国南東部の最辺境、冒険者ですら実入りの無さから寄り付かぬ僻地。そんな見捨てられた土地を、一年で回復して見せたのである。
無論、間者を兼ねて送り込んだ隠し子ヴィクトルなどの助力もあるだろうが、麦の収穫の方はそうはいかない。トゥリウスが農地への手当を行ったのは、時期的に家臣団招聘の以前。碌な人員すら無く、単身で任地に赴いた頃のはずである。それを考えれば、卓越した農政の手腕と言えた。
「これだけの才幹を持った若人よ。折しも先年、彼の兄が儂らと誼を通じたこともある。無碍に扱いたくはないところじゃが……やはり世評がのぉ」
「やはり抱え込めませぬか、【奴隷殺し】は」
「当然であろう。家中不取締り、風紀紊乱の咎でカルタンの首が飛んだところであるぞ?」
「そもそも、その兄君と不仲であるという噂では……ねえ?」
ラヴァレが惜しげに述べた途端、メアバンやランゴーニュらは同調するように難色を示す。彼らにとって、トゥリウスの業績は確かに魅力的ではあるが、所詮は鶏肋である。抱え込むリスクに見合ってはいない。中央集権派の古参や次世代を担う若手――立場のある貴族にとっては、些か食指を伸ばし難かった。
だが、幾人かの貴族は瞳を鈍くぎらつかせている。
「つまりは侯爵閣下も、件の子爵殿をどう処するか、一存では決めかねると……」
「確かに惜しいですなあ、これだけの人材は」
シャンベリ伯に代表される、比較的新参で発言力に乏しい者。このような手合いに取って、若く、独身で、自らに富を齎す力を持った人材は、喉から手が出るほど欲しい。何かと幅を利かせる古参や、親の衣鉢を継いで派閥内の立場を占める若手を出し抜き、この人材を取り込んだという功が欲しい。あわよくばトゥリウスを通じて、マルランから上がる収益を摘まもうとでも考えているのだろう。
(くくっ、踊れ踊れヒヨッコども。甘い蜜に惹かれながら、無様に飛び回るがよいわ)
侯爵は心中で笑う。
急速に復興を遂げ発展に至ろうとするマルランと、その領主トゥリウス。それらに魅かれる連中の思考など、読み取るのは容易い。
彼らの頭の中に巡っているのは、まず親族の娘たちの顔だろう。何とかトゥリウスと繋ぎを作り、血縁の娘をその傍に送り込む。婚姻を以って子爵を縛り上げ、外戚の権限で利分を得ようとする……。
婚姻を通じてトゥリウスの首に鈴を付けるという腹案は、ラヴァレの中でまだ有効な物であった。第一候補であったカルタンと生き別れの娘を使う策は潰えたが、少し化粧を変えればまだまだ通じる。否、花嫁にきな臭いところが無い分、こちらの方が効果的とも言えた。
そして目論見通りに何某かトゥリウスと通じたら……即座に諸共、処断する。
元よりラヴァレに、トゥリウスを自派に迎え入れるつもりなど無い。幾ら有能であろうが、あの若者は危険過ぎるのだ。過去の酸鼻な行状は元より、たかが奴隷一人を取り戻す為に今回のような騒動を起こすなど、行動が読めないにも程がある。そんな危険人物を野放しにしておくほど、寛大にはなれなかった。
また、座中の者に教えてはいないが、トゥリウスは自分の閥を作ろうと動いてもいる。シャンベリなどが、それを知らず迂闊にもトゥリウスと結んだら、不穏な動きありと逮捕する口実にもなるだろう。
無論、いたずらに無実の罪を着せれば、却って本当の反乱を誘発しかねない。が、それも自領にいてこそのことだ。この王都にいる間ならば、いかようにも押し込める方法はある。そして、まだトゥリウスの派閥工作は中途のままなのだ。
……今頃、あの若造は何かと理由を付けてマルランに帰ろうと、躍起になっていることだろう。ラヴァレの陰謀から逃げる為に、そして未だ未完成の自派閥を整える為に。今日、彼についての情報を教えられ、マルランの旨味に目が眩んだ貴族たちがそれを知ればどうなるか?
おそらく、何とか王都に引き留めて縁組をと焦るはずである。それがラヴァレの意図に適うとも知らずに。
自派閥の不穏分子があくまでも自発的にトゥリウスと姻戚関係を持ち、それを一刀両断に処分する。それが一の策を破られたラヴァレの二の策だった。
(鶏肋を自ら口に咥えるなど、貴族の振る舞いではない。餌として使い、誘き出された獣を狩るのが、貴種の嗜みというものよ……)
そんな思考を押し隠しながら、空惚けた表情でラヴァレは口を開く。
「どうにも扱いを決めかねる若者であるな、トゥリウス卿は……どうかな諸卿? 今回はここまでとして、次回にもう一度詮議したく思うのだがの」
「……私としては、次回を待つまでもなく、意見を決めているのですがね」
と、期待した通りに反対の念を露わに言うランゴーニュ。
「それはどうであろうな。件の者の所領は、山林に隔てられているとはいえ国境に近い。それをどのように遇するか……慎重を要する案件と思えるな、侯爵?」
メアバン伯は流石にラヴァレとも長い付き合いである。妖怪とも言われる陰謀家が何かの意図を隠しているのを感じているのだろう。一般論を煙幕にしつつ明言を避けた。
シャンベリ伯は何も言わない。彼の抱く後ろめたさを現しているように。
……こうして、大筋としてはラヴァレの思い通りにその日の会合は幕を閉じた。
苦い一日として幕を開けた日であったが、後味は悪いものではなく終えられそうである。その思いに一つ胸を撫でおろす。
本当に、その通りであったのならば良かったのだが。
※ ※ ※
その日は格別どうということの無い一日だった。
天気は見事な秋晴れで、夏の名残りを含んだ初秋の風が爽やかに吹く。道を行くご婦人たちは羽織を装って涼気に耐え、あくせく働く職人たちは過ごしやすい季節の到来を歓迎していた。そんなありふれた秋の初めの日である。
ニコラはその日も市場の辻にキャンパスを立て掛け、通行人相手の似顔絵書きに精を出していた。
彼は売れない画家だった。商人の三男として生を受けたものの、計数に明るい訳でも弁が立つ訳でもない。商才がからっきし無いことに気付いた彼は、兄が父の屋号を継いだのを機に家を出、芸術の道に活路を見出す。だが、それも駄目だった。口下手な彼はその道の権威に入門することも叶わず、こうして路上で似顔絵を書いて口に糊する生活を送っている。芸術の都ブローセンヌの水に慣れながらも、決してその上流へと達せない、ありふれた三流画家。それが彼だ。
「はァ……」
ニコラは顔を上げると青い吐息を吐く。夕刻も差し迫り、客足も遠のき始めていた。そろそろ看板を仕舞う時刻である。今日の客は四人。その内の一人は仕上がった絵の出来を散々に痛罵した挙句、代金を踏み倒している。何とか侘しい晩酌代を稼げたといったところだ。先月、先々月と借家の家賃を滞納している。それを思うともう少し粘って稼ぎたいものだが、日が傾くと性質の悪い連中もうろつき始めるのだ。チンピラに絡まれ、所場代などをせびられては目も当てられない。
鬱々とした気持ちを抱えながら、画材を片付け始める。ニコラは元より、人物画が得意ではない。得手とするのは専ら風景画である。それが売れないものだから、こうして自分でも不向きと思っている似顔絵書きに、身を窶しているのだ。
「いつまで続けるのかね、こんなこと……」
そう自問するが、答えは決まっている。売れるか、死ぬかまでだ。商売が下手で、身体も細く、手指も筆を執る以外は不器用な彼に、生計が立つ道はこれ以外に無い。いつか誰かに認められると薄甘い幻想に耽りながら、お上りさんを相手に精々取り澄ました肖像を設える日々が続くのである。
それを思うと飲まずにはいられなかった。生活への不安を誤魔化し、才能への不信を忘れるには酒しか無い。安酒に悪酔いして、夢も現も無い境涯に逃げることしか出来ないのだ。
こうして彼は、今日も酒場へと繰り出すのである。
向かった先は通りの一角にある飲み屋である。格別酒が美味い訳でも良い肴が出る訳でもないが、飲み代は手頃だ。何より、看板娘の気立てが良い。そこが一番気に入っていた。
「いらっしゃいませェ。……あら、ニコラさん」
スイングドアの木戸を潜って入店すると、件の娘が愛嬌たっぷりに出迎えてくれた。払いの悪い客であるニコラにも嫌な顔一つしない、出来た娘だ。
彼もぎこちなく笑みを作って返事を返す。
「やあ、クロエ。今日もいつものを頼むよ」
「はいな。エールと腸詰ですね?」
この店のメニューの中でも、一際安い取り合わせだった。それがニコラの常に注文する品である。顔馴染みの常連客などは、ザンクトガレン人みたいな野暮な注文だと笑うが、彼の稼ぎではそれくらいしか頼めないのだから仕方あるまい。
カウンター席に座り、店内を見渡す。
空席がやけに目立っていた。時間帯も早く、元よりそれほど流行っている店ではないが、それにしても客が少ない。ニコラの他には学士風の若い男と、都慣れしていないのがあからさまな田舎者らしき中年がいるくらいだ。常ならば仕事を終えた日雇いや商会の丁稚が、なけなしの給金と酒精を交換しに現れる頃合いのはずである。なのに、ちびちびとエールを啜り、塩気の薄い腸詰肉を齧っていても、新たな客が来店する気配は無かった。
「ニコラさん、今日って何かありましたっけ?」
看板娘のクロエも、声を潜めて聞いて来た。客足が常より遠い理由が知りたいのだろう。
とはいえ、ニコラにその訳を知る由は無い。
「さァ……私にもとんと心当たりが無いね。今日は特に変わったことがあった訳でもないし」
そう、今日は何でも無いありふれた一日だった。
都を上げてのお祭りも、街中が喪に服すような悲報も無い、ごく普通の日常だ。
「そちらの方こそ、何か変わったことは無かったのかい?」
幾らニコラが酒飲みで、注文する品が決まって安いといっても、年がら年中この店で飲んでいる訳ではない。ここ数日は寂しい懐具合もあって、麦粥と少々の野菜しか口に入れていなかった。客が急に少なくなった理由は、寧ろクロエの方にこそ心当たりがありそうである。
そう思って水を向けると、クロエは少し考え込んだ。
「う~ん、もしかして、なんですけど――」
と、前置きして彼女が語り出したのは、少し前に起きた奇妙な出来事についての話であった。
最近のブローセンヌでは、活動家などと呼ばれる連中が目立っている。ニコラも何度かお目に掛かったことはあった。街の辻々で貴族の失政や重税を声高に批判し、平民の地位向上だの政治の改革だのを景気良くぶちあげている輩である。要するに、声の大きな不平屋どものことだ。
そうした連中は大抵、警邏の兵に取り締まられ、屯所の牢に世話になることとなる。罪を咎められて奴隷に落とされる、とまではいかない。暴力を振るった訳でも反乱を起こした訳でもないからだ。数日頭を冷やしたら、釈放である。
それでも捕まる際には組み伏せられたり殴られたりと、痛い目を見るのだ。加えて、短い期間とはいえ冷たい飯を食わされる。ニコラはしばらくすればそれに懲りて収まる、一時の流行りと思っていたのだが、どうもそうではないらしい。
『我々は権力の横暴には屈しない。確かに、この身体は棒で打ち据えられ、獄を抱かされた。しかし、我々の精神は自由なのだ! そして、その自由を地上に表すまで、活動が終わりを告げることは無い!』
牢から出された活動家は、物見高い野次馬たちへと出し抜けにそう言ったという。
以来、活動家たちの行動は、過激化の一途を辿ってるようだ。先日などはついに貴族の宅地が並ぶ地区にまで押し寄せ、その腐敗を糾弾したとも噂されていた。
そして数日前、巷間の耳目を集める活動家先生とやらが、とうとうこの店にも現れた。
『聞け、労働者諸君!』
不精髭の生えた顔と血走った眼に、危険な陶酔の色を湛えた男は、乱暴に店の戸を開けるなりそう叫んだのである。
時刻はちょうど、今と同じ頃。その日の仕事を終えた勤め人が飲みに来る時間帯であった。成程、平民の労働者たちに向けて有り難いオハナシをして下さるには、良い頃合いと言えよう。
『諸君らが桎梏から放たれる日は近い! 貴族を名乗る謂われ無き僭主たちから開放され、自由を得る日は近いのだ! 怒りの日、来たれり! 手にしたツルハシと鍬鋤とを、圧政者へと向けよ!』
その活動家が説いたのは、今までに伝え聞いたよりも、かなり過激な内容であった。これではまるで一揆の檄文である。無論、そこそこ大きな都市に生まれ、今は王都暮らしであるニコラには、一揆など想像もつかない地平の出来事なのだが。
クロエが言うには、当初、酒場の客たちも白けた顔をしていたという。それもそうだろう。酒の肴にするにしても、内容がいささか突飛に過ぎる。座興というものは面白おかしくあるべきであって、頭がおかしいような代物はお呼びではない。
だが、
『ふんっ。……そうだ、その通りだ』
一人の酔狂な客が、立ち上がって活動家への賛意を示した。頭からすっぽりフードを被り、容姿が判然としないが、声からしてどうにも女性であったようだ。
『労働者たちは、彼に賛同するべきだ。そして、骨惜しみせず協力しなければならない』
そして、居並ぶ客たちの顔を見渡しながらこう言った、らしい。
途端、今まで興味なさげにしていた連中も、何かに憑かれたように立ち上がった。
『ああ、そうだ……』
『俺らが貧乏なのも、貴族どもの所為だ……』
『あいつらさえいなければ……俺たちは、自由?』
奇妙に生気の欠けた表情で、うわごとじみて呟く酔客たちに、活動家であるらしい男は一層声を高くして訴える。
『その通りだ、諸君! かつて神代の頃、万民は平等であり自由であった! だが、今はそうではない……何故か!? 自由も平等も、貴族を名乗る盗賊どもに奪われているからだ!』
『うば、われている? ……ゆ、許せねえ!』
『そうだ、許すな! 怒れ! 昨日までの諸君らは柵に押し込められ、管理される羊に過ぎぬ。だが、今日この時より怒れる羊となった! 搾取を拒み、柵を打破し、立ち上がるのだ!』
『『お、おおぉおおぉおおおっ!!』』
それからはもう、単なる怒号の合唱だった。進歩だの打破だの革命だの、それらしいフレーズを連呼するだけの意味不明なメドレー。酒以外の何かに酔った客たちと活動家の男は、騒ぐだけ騒ぐと夜の王都に繰り出して行った……。
「――と、いう訳なんですよ」
「ははあ……それは何とも奇妙な話だね」
未練たらしくジョッキの底に残ったエールの雫を乾しながら、ニコラは相槌を打った。何もかも奇抜で突飛で、作り話にしては出来が悪い。かと言って実話と思うにも現実味が無い。奇妙な話と言う外なかった。
「そういえばウチの常連さんも何人か、あの晩に飛び出して行ったきり店に来ないんですよね……。今頃、どこで何をしているのやら」
「大方、警邏の詰め所にしょっ引かれているんだろうさ。もう二、三日くらい酒を抜いたら、また悪酔いしに戻ってくると思うよ」
「もうっ、ニコラさんったら全然信じてないでしょう? 本当にあったことなんですからねっ」
と、ぷりぷりと怒って見せるクロエ。そんな姿も可愛らしいな、などと考えてしまい、思わず苦笑を浮かべる。
「まあまあ、落ち着いて……。機嫌を直してくれよ、クロエ」
「イーッ、です! 意地悪なニコラさんなんて、知りません! ……どうしても、って言うなら、追加でもう一品頼んで下さいね?」
「ははは……商売上手なことで」
ほろ酔いに火照った頬を汗で冷やしつつ、ニコラは財布の中を手探りに検めた。果たして、もう一品注文できるだけの残りがあったものか。
看板娘の手管に今日の稼ぎを吐き出させられつつも、売れない画家はささやかな幸福に酔っていた。
早くこんな生活から抜け出したいと思いながら、こんな一幕のある日常を尊く感じる。
単純な自分の心理を自嘲しながら、ニコラは追加のジョッキを傾け続けた。
……彼の運命が変わってしまう、その瞬間まで。




