表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/91

034 しゃべり過ぎた父、笑わない娘<後篇>

 

 法廷内はどよめきに包まれていた。

 原告側の証言台に立つのは、麗しい容姿をメイドの装束に包んだ少女。高等法院管下の審理の場にメイドが現れるのもあり得ないが、それに輪を掛けているのが彼女の主張である。


 ――自分の身分は奴隷であり、伯爵家令嬢ではない。


 正に前代未聞である。

 自分を貴族の係累だと主張する平民はいないでもない。だが、伯爵家の娘と名乗る機会を得ながら、なおも自分は奴隷であると声高に叫ぶなど、どう考えても尋常ではなかった。

 一体、どこの誰がそんな馬鹿げたことを言うのだ。

 そう問われれば、この裁判に立ち会った者はこう答えるしかない。

 アンリエッタ・ポーラ・カルタン、または自称ユニ、と。


「彼女、本当にトゥリウス卿の下へ帰りたいのね」


 シモーヌ・メリエ・ポントーバン――否、オーブニルは思わずそう呟いていた。

 伯爵家家中という富貴に浴することを拒んでまでの、帰参の願い。裁判中、見たところ彼女の表情はほとんど変わらなかったが、主人であるトゥリウスを見る目には、明らかに只ならぬ情を感じる。


「まったくもって理解出来んな。主が主なら、奴隷も奴隷だ」


 そう毒づくのは、シモーヌの夫であるライナスだ。どうやら彼は、自身の弟だけでなく、その奴隷にまで憎悪を抱いているらしい。

 彼女としては、夫のこの感情こそが理解不能だ。確かにトゥリウスはかつて、奴隷を虐げ殺す狂った貴公子として悪名を馳せていた。だが、二十歳を前にした現在では、兄に任された領地を恙無く運営する領主に過ぎない。シモーヌの目には、過去の悪行からはすっかり足を洗ったように見える。

 ところがライナスは、それは擬態に過ぎないと主張していた。証拠は無いが、絶対に何か悪事を企んでいると言うのである。まるでお話にならなかった。

 そんなに怪しいと思うのならば、それこそ高等法院にでも査察させれば良いのである。だが実際行われた調査でも不審な点は無かったらしい。田畑を良く耕し、雇った官吏を上手く手懐け、新たに起こした鉱山も順調に操業しているという。村々の水利争いなどの細かな減点はあるが、おおむね花丸の出来である。

 これでは夫が潔白の義弟を遮二無二に罪に落そうとしているとしか思えないのだ。

 あまつさえ、その奴隷だった女性にまで憎しみを向けるとなると、これはもう八つ当たりである。大人気無いことこの上無かった。


(本当、この人とは合わないわ……)


 シモーヌはしみじみとそう思ってしまう。

 確かにライナスには品格も教養もあり、能力的にも十分である。顔立ちだって見事な美男子と言って良い。だがどうにもガツガツとしたところがあるというか、上昇志向が強過ぎ、また家中の何事にも自分の手を及ぼそうというきらいがある。そして弟に対する異常なまでの敵愾心。はっきり言えば、話していて疲れる男だった。


(これではトゥリウス卿の方が大分ましね)


 口に出せば確実に厄介事になる感慨を、胸の内で呟く。

 実際、彼女が見たトゥリウスは、過去のおぞましい悪評が嘘のような穏やかな青年で、新婚生活への愚痴も和やかなままに聞いてくれた。女の長話にも辛抱強く付き合ってくれるその姿を、何かにつけ神経質な彼の兄とつい比べてしまう。それに何かとライナスの頭を押さえているラヴァレ侯爵、それを向こうに回して張りあって見せたのも胸が空く思いを感じた。しかも奴隷とはいえ、長年連れ添った女性を取り戻す為にである。痛快さも一入というものだ

 いっそのこと、結婚するならこちらの方が良かったのでは、と思うことも、一切無いではない。

 ……もっとも彼女といえど、トゥリウスの本性と今なお続くその所業を知れば、そんな好感は瞬く間に消し飛んでしまうだろうが。


(あの子の気持ち、少し分かる気がするわ)


 意識を証言台に立つユニへと戻す。

 ライナスとカルタン。年齢などの違いはあれど、共に伯爵家の当主である。そこから逃げ出したいという思いには、痛いほどの共感を覚えてしてしまうのだった。

 隣に立つライナスに問う。


「ねえ、どうなると思う?」


「ふん。カルタン伯は思ったより不甲斐無いが、ラヴァレ侯爵の顔を見ろ。あの余裕、何ぞ切り札でも隠しているのだろうよ。どう転んでも、トゥリウス如きの思うようにはならんさ」


 吐き捨てるようにそう言い、実の弟の敗北を願う夫。その姿に嘆息しながら、シモーヌは人知れず祈った。


(神様、そして人の救い手たる聖王様……どうかトゥリウス卿と彼女にご加護を。あの二人が、薄汚れた陰謀などで引き裂かれるなんて、悲し過ぎるとは思われませんか?)


 定例の礼拝でもしたことが無い程、切に真摯に祈る。

 ……だが彼女は知らないだろう。

 その祈りで加護を受ける主従が、その犠牲となった多くの者から悪魔と呼ばれていたことを。




  ※ ※ ※




「これはこれは。トゥリウス卿は己の奴隷に全てを委ねると、そう申したのかの?」


 ラヴァレ侯爵が皮肉げに笑う。

 その腹立たしい表情と、主を玩弄する悪意とに殺意を煽られながらも、ユニは懸命に自制した。あの日、感情を制御出来ずに動揺を抑えられなかったからこそ、今日の窮地があるのだ。それを思えば、彼女は幾らでも冷徹になれる。


「それは私がアンリエッタ・ポーラ・カルタンではないと。そうお認めになったと、解釈してよろしいのでしょうか?」


 そう言ってやると、ラヴァレはさも心外そうに肩を竦めた。


「いやいや、そうは言っておらん。あくまでトゥリウス卿が貴女を奴隷と呼んでおるからの。その認識に合わせて分かり易く言ったまでよ。儂の本意ではなくとも、な?」


 要するに、トゥリウスがカルタンを陥れた論法を、そっくり真似たと言うことだ。

 年寄りらしい当て擦りである。


「そうですか。ではどのようなご了見でしょう、侯爵様」


「先程まで熱心に弁を振るっておった若者が、今になって全てを他者に任せる。これが得心出来ぬ。不思議に思うても無理は無かろう」


「無理があるのはそちらの弁ですね」


 席に腰を下ろしたまま、トゥリウスは言った。


「さっきも言いましたが、元々僕は急な召し出しに応じてここへ参ったのです。訴追の張本人はジョゼフィーヌ夫人でしょう。その彼女が、ユニを証人席に座らせたのです。この子の証言にも、裁判を左右する要素があるとお考えなのでしょう。だから証言させます。問題ありますか?」


「そうかね? では、結構」


 含み笑いをしつつ、席に戻るラヴァレ。

 それと同時に、裁判長が木槌を振り下ろした。


「では原告側証人。訴えを述べたまえ」


「はい」


 ユニは深く頭を下げてから切り出す。


「……訴えを申し奉る前に、自己紹介をさせて頂きます。私の名前はユニ。見ての通りのメイドであり、また故あって首輪はありませぬが、身分は奴隷です」


 その言葉に、傍聴席が揺れた。


「奴隷? 奴隷とな?」


「とてもそうは思えぬ……」


「誠のことだとしたら、ぜひ手元に――いや、なんでもない」


 毎度のことではあるが、自分が奴隷であることに、どうしてこうも大袈裟な反応が返ってくるのか。敬愛する主人の奴隷であり続けることに、何の不自然、不都合があるというのだろう。ユニはいつもそう思う。

 彼女は慣れた呆れを噛み殺して続けた。


「事の起こりはさること一週間前でした。私の所有者であるトゥリウス・シュルーナン・オーブニル卿が、兄君であらせられるライナス・ストレイン・オーブニル伯爵のご婚儀、その披露宴に出席された際です。同じく披露宴にご出席されていた、ピエール・シモン・カルタン伯爵様に――」


「やめろアンリエッタ……そんな他人のような口の利き方など……」


 意見とも言えぬカルタンの呟きは、当然の如く無視する。


「――伯爵様に出会いました。そして私が、伯爵様のかつてのご愛妾と瓜二つであると仰せになられ、畏れ多いことですが生き別れになられたご息女ではないかと、お間違いを抱かせてしまいました」


「伯の勘違いであると?」


「はい、僭越ながらそうであると申し上げさせて頂きます。……私は何度か、自分はユニという名の奴隷であること、御方が仰るアンリエッタ・ポーラ・カルタン様とは別人である旨を申し上げました。しかし、伯爵様のお考えを変えること叶わず、御方に連れられ、カルタン伯爵家のお屋敷へと身柄を移されたのです」


 ちらりと被告席に目を走らせる。

 特に動きは無い。カルタン伯は異議を唱えるどころでは無く、ラヴァレ侯は不気味にこちらを窺っているままだ。

 ユニは続ける。


「お屋敷に伺わせて頂いてからも、伯爵様の私をご息女と扱われる態度に、お変りはありませんでした。また私がアンリエッタ様の如く振舞われることをご希望されもおいででした。ですので今日までの間、已むを得ず伯爵家ご令嬢の振りをして過ごしていたのです。その節に、ご家中の方々を謀ってしまったことは深くお詫び申し上げます」


「おや? それでは貴女が奴隷であったと判決が出れば、貴族を騙り伯爵家を騙した詐欺に当たることになってしまうが?」


 侯爵が厭味ったらしく口を挟む。

 が、ここでトゥリウスも動いた。


「異議あり。裁判長、ラヴァレ侯爵の言は恫喝に当たるのではないでしょうか? 原告の有利に裁判が終わった場合の証人の不利益を仄めかしております」


「異議を認める。侯爵、軽挙妄動は慎まれるように」


「ふむ……分かりました、裁判長」


 ラヴァレは素直に引き下がった。これは軽い牽制といったところだろう。元より本気で突く気など無かったのである。


「加えて言うなら、この主張が容れられた場合は、罪は彼女にアンリエッタ嬢の振りをするよう命じられた、カルタン伯爵に帰するところでしょう。まあ、彼女の主である僕にも責任が及ぶかもしれませんが……マルランにも、賠償金を支払うくらいの蓄えはあります」


 バックアップはするから問題無い、ということだ。

 主からの心強い激励を胸に、ユニは再び口を開く。


「……続けさせて頂きます。そして本日、ジョゼフィーヌ伯爵夫人がご乱行のかどで伯爵様を訴えられる故、証人の端くれとして同席させて頂きました。この通り、私は見間違いの為に連れられたただの奴隷であり、決して伯爵様のご息女ではありません。訴えを認められた暁には、本来の主の下への帰参が成りますよう、お取り計らいを願う次第です。以上で陳述を終えさせて頂きます」


 長い陳述が終わった。

 元々言葉少ななユニは、長話は好きではない。一区切りが付いてホッとしたいところだが、これは本当に一区切りでしかない。これからラヴァレ侯爵が、あれこれ仕掛けてくるだろうと思うと憂鬱だった。だがこれも主人の下へ帰る為。全身全霊を懸けてこれと相対しなければならないのである。


「結構。では被告側、反論を」


「ふむ。……カルタン伯は気分が優れぬ様子。儂から反対尋問をさせて頂いても?」


「構わない。ラヴァレ侯爵、前へ」


 飄々と被告側の証言台に立つラヴァレ。

 薄笑みを浮かべた老人は、開口一番に言う。


「よろしいかな? アンリエッタ嬢」


「異議あり。私の名前はユニです」


 すかさず言い返しておく。ここで「はい、なんでしょう」などと返事をすれば、それをもってして彼女をアンリエッタであると強弁しかねなかった。

 緻密な策を巡らすことで知られるラヴァレに限って、そんな力業に訴えるとは思えない。だが目的の為に手段を選ばないことは策謀の基礎だ。いざとなればどんな陋劣な手でも用いるだろう。


「異議を却下する。この審理にて貴女が『どちらであるか』を決めるのだ。どの名で呼ばれても、返事はするように」


「はい、裁判長。失礼致しました」


 裁判長の判断に、頭を下げて従う。業腹ではあるが、円滑な裁判の為である。それにこれで向こうも、名前を梃子に無理押しは出来ないだろう。

 ラヴァレ侯爵は軽く鼻を鳴らすと続けた。


「では、儂らは変わらずアンリエッタ嬢と呼ばせて貰うが、よろしいかなアンリエッタ嬢?」


 許可が出るなり、アンリエッタと連呼してくる。本当に嫌味な老人だ。

 名前を違えられる苛立ちは顔に出していないはずだが、それでも言葉尻から感情を読み取るくらい、この陰謀屋にはお手の物かもしれない。言動には一層気を付けねばならないだろう。

 とりあえず、了承はしておいて先を促す。


「よろしい。……聞くがアンリエッタ嬢、貴女がトゥリウス卿に身請けされたのはいつになるかね?」


「十一年前になります、侯爵様」


「アンリエッタ嬢が行方不明になった時期も十一年前、貴女が彼に拾われたのも十一年前。この符合をどう思うかね?」


「偶然であると判断します」


「伯の娘も貴女も、黒髪に緑の瞳。年の頃も同じであるが、偶然かね?」


「はい、同じ特徴を持つ女性は、このブローセンヌだけでも沢山おります故」


「加えて、高い魔力もお持ちのようだ。これぞまさしく、宮廷魔導師でもあったカルタン伯の娘である証拠に相違無いと思うがの」


「そうは思いません。高い魔力を持って生まれる子どもは、時折平民からも生まれますれば」


 生まれる子どもが魔力持ちかどうかは遺伝によるところが多いが、突然変異的に魔力を持たない両親から生まれることもままある。量産型改造奴隷も、そうした在野の原石が市場に流れたのを拾ってきたものが大多数だ。

 よって、それだけでユニがピエール・シモン・カルタンの娘であるとは決められない。


「しかし、これだけ貴女と伯の娘に一致する特徴があって、それで赤の他人とな。斯様な偶然があり得るのかのう?」


「あり得たからこそ、伯に要らぬ誤解を与えてしまったと愚考します」


 侯爵の尋問はのらりくらりとしたものであった。じりじりとこちらの隙を窺うような攻め口である。

 やはり何か、一気に勝負を決める切り札を抱え、それを切る時機を見計らっているのか。


「――では、質問を変えようか」


 スッと、侯爵の目が細まる。

 こちらに向ける敵意が、一段階上へとシフトした。


「貴女は主人であるトゥリウス・シュルーナン・オーブニル卿を、どう思われておいでか?」


「敬愛する、我が唯一の主人です」


 反射的に即答してから訝しく思った。

 この切り口は何だ? 何故、ここで彼女と主の関係を訊ねてくる?


「こう言っては何だが、トゥリウス卿は些か風評の面で芳しくない貴族であるが、それでもかね?」


「――っ!」


 にやりと笑ったラヴァレ侯爵の表情で、意図が読めた。

 ユニが自分はアンリエッタではないと言い張っているのは、伯爵家令嬢であるよりも、彼の奴隷であった方が幸せだからである。彼女にとっては不思議なことに、それが一般的な貴族には理解し難い思考であるからこそ、奴隷のユニと令嬢アンリエッタは別人であることに、一定の説得力があるのだ。

 この侯爵の狙いは、正しくそこである。


(私がユニであろうとアンリエッタだろうと関係無く、ただご主人様の下へ帰りたいということを印象付けるために……!?)


 ユニが彼への忠誠を示せば示すほど、彼女が単にトゥリウスの奴隷でありたい願望を抱き続けることを露呈していく。そこへユニがアンリエッタと同一人物であると思わせる証拠が出たら?

 彼女が『どちら』であろうと、トゥリウスの為に裁判を戦っていると判事らに心証づけられてしまう。

 つまり、裁判が侯爵有利に展開した場合、周囲からはこう思われるのだ――アンリエッタ・ポーラ・カルタンは十一年の奴隷暮らしで、すっかりトゥリウス卿に手懐けられてしまった、と。

 それは確かに事実ではある。ユニは確かに元々アンリエッタだったのだから。彼女は十一年前の精神崩壊とその後の再生を契機に、過去と現在の自分を別人だと認識している。だが、それは彼女個人の哲学的、或いは心理学的問題に過ぎないのだ。

 それが読めても、


「……勿論です、ラヴァレ侯爵様」


 ユニは怯むこと無く答えを返した。

 問いに対して返しに詰まれば、それはそれで心証を悪くする。要するにラヴァレの心証誘導策は絶対に避けられないのだ。ユニがかつて、アンリエッタであった限りは。

 ならば臆さず受ける。受けて立って、ラヴァレが用意している切り札を逆に切って捨てる。それが最善最効率の道だった。


「他のお方に何と仰られようと、主は主です。寧ろ不備不足があれば、備わった微力を尽くしてお支えするのが私の役目であると存じます」


「……ほほほっ!」


 侯爵は嬉しそうに笑う。ユニが自分の策へ無防備に突っ込んで来るのが可笑しいのだろう。策の読めない馬鹿と思ったか、読めても突っ込むしか知らない馬鹿と思ったか。いずれにせよ、馬鹿にした笑い方だった。


「いやいや、見事な忠誠心であるなあ? 女性ながら、今時の若い男にも見られん心意気じゃて」


「……お褒めに与り光栄です、侯爵様」


「それ程、トゥリウス卿は仕え甲斐のある主であったか?」


「はい、私の最高のご主人様です――」


 ユニは言い切った。

 そんなに自分が主へ忠義を捧げる言葉が聞きたいなら、幾らでも聞かせてやろうと思った。

 そして後日思い出せば良い。これだけ主を思っている彼女が、彼を害する存在など許す筈が無いと。


「――たとえ今日明日死を賜ったとしても、私は主に仕えられて幸福です」


 ……それが自分自身であったとしてもだ。


「……ユニ」


 トゥリウスが小さく呟く声が聞こえた。

 彼は言外に込めた意味を正確に悟ったのだろう。

 この裁判の行く末は、ラヴァレ侯爵の切ってくる奥の手次第だ。それを潰せるか否かで、ユニが彼の下へ帰れるかどうかが決まる。

 負けるつもりはさらさら無いが、それでも敵わなかった時は……予定通りに、自分を置いて行って欲しいと、そしてきっちりと死んでみせると、改めてそう告げたのだ。


(ご主人様には、言うまでも無いことでしょうが)


 トゥリウスの抱く死への忌避と永遠への焦がれは、誰よりもユニが知っていることだ。為に彼はリスクを嫌い、何が何でも避けるのである。言われなくても、ユニが負けたら即座にプランDを発動して脱出するだろう。そしてユニはその影響下で自ら命を絶つ。それが敗北した場合の予定なのだ。今更確認の必要は無い。

 それでも自分の口から言っておいた方が後腐れが無いのである。

 何より、それでも自分は幸福であると、彼にはちゃんと知っていて欲しかった。

 言いたいことは言い終えた。だから、彼女は先を促す。


「……それで侯爵様、この問答にどのような意味がお有りなのでしょう?」


「くっ、ふっ、くくく……」


 ラヴァレ侯爵は笑っていた。今、彼女が何を思って言葉を口にしたのか、果たして解しているのかいないのか。どちらにせよ、下品で下劣な笑い方だとユニは思う。これで仮にもトゥリウスより二つ上の爵位、侯爵の位というのだから笑えない。この低俗で下卑た性根で、何度も何度も主を虚仮にし阻んできたかと思うと、八つ裂きにしても飽き足らない気分だった。


「――裁判長、この女性の信条はご覧の通り、トゥリウス卿への忠誠が第一と見える。余程、十一年に渡る教育の成果が出たのであろうなあ?」


「被告側証人、発言内容が迂遠に過ぎる。率直に存念を申せ」


「つまり彼女は、十一年も掛けてトゥリウス卿を己が身命より上位とするよう教育されておる訳です。元がアンリエッタ嬢であろうと、ただの奴隷であろうと……」


 得意げに笑いながら、老いさらばえた毒蜘蛛は言を弄ぶ。


「儂は判決を左右されるお歴々に、アンリエッタ嬢がどのような人物か、周知して頂きたく思っておったのですじゃ。それで……此方の用意した証人の証言、その信憑性が変わる故」


「被告側の、証人とな?」


 ユニは怪訝に思った。

 被告側の証人。そんな物を用意する時間があっただろうか?

 この裁判は、彼女の持つ洗脳の香水とジョゼフィーヌが彼女らを追い出した時に使った法院へのコネを利用し、迅速に整えた舞台だ。そこに被告側が準備をする余地など無かったはずである。


「はい。アンリエッタ嬢の身の証を、これ以上ない程に立てて下さる証人です。ですがこうやって嬢の性情を知悉しておられんと、ほれ……またぞろ自分は奴隷ですなどと言い張られては、結審の際に誤解が生じましょうぞ。故に、先立って証明しておいた次第。そう――」


 そして、愉悦と悪意の滲む笑顔をユニに向ける。


「――この娘は、トゥリウス卿の為なら何でもする女子であると」


 法廷内がまたぞろどよめきに包まれる。

 ユニに動揺は無い。この老人の思惑が、こちらへの心証を操作することにあったことなど、とっくのとうに承知の上だ。彼女の意識は既に、ラヴァレが用意したという証人に向いている。

 裁判長は、またぞろ蓄えた髭の先を弄った。


「それを云々するのは、貴殿の用意した証人の証言を吟味してからになるな」


「では、証人の出廷のご裁可を?」


「無論、出そう。連れて参るがいい」


 裁判長の指示に、法官の一人が被告側控室に走る。

 予感があった。

 思えば今回のラヴァレ侯爵の策略。そしてその根幹を為す情報。果たして彼はどうやって、ユニがかつてはアンリエッタであったことを知ったのか。誰がそれを――侯爵に教えたのか。

 あの披露宴の夜、ジョゼフィーヌ夫人はユニの姿に十一年前の亡霊を見た。だがそれは、亡霊は、本当に彼女のことだったのか。

 ……扉が開く。

 そしてその女は、幽鬼じみた姿と足取りで入廷してきた。


「あれ、は……」


「まさか……!」


 トゥリウスに打ちのめされていたカルタンと、ユニの薬で参っていたジョゼフィーヌが、同時に顔を上げる。二人の目は入廷してきた痩せた女を凝視している。

 白髪の混じった黒髪と、疲弊に淀んだ緑色の瞳を持つ女を。

 痩せこけ、肌が荒れ、大きく容色を損なっているが、往時には大輪の美貌を誇っていただろうと偲ばせるその顔立ち。ひょっとするとかつてのそれは、どことなくユニに似ているものかもしれない。


「……彼女は?」


「儂などより、カルタン伯の方がご存じじゃろう。或いは、原告席の女性二人も、な」


 裁判長の問いに含み笑いを漏らしながら答えるラヴァレ。

 それに呼応したかのように、カルタンは叫ぶ。


「あ、アンナマリー! い、生きていてくれたのかっ!?」


 今が公判中であることすら忘れたような叫び声に、女はのろのろと顔を上げた。

 そして何事か唇を動かす。

 ユニのように読唇術の心得があるのなら、女の言わんとした言葉が分かるだろう。


「……ピエール様」


 と。

 カルタン伯を、そのファーストネームで呼ぶ黒髪緑目の女。

 今まで余程荒んだ生活を送ってきた所為だろうか、年齢は判然としないが、間違いない。

 ……伯の言う通り、アンナマリーだ。


(生きて、いた……)


 予感があったとはいえ、ユニは驚きを禁じ得ない。

 あの惨劇の日の記憶。ジョゼフィーヌの引き連れてきた取り巻きの男どもに蹂躙される中、アンナマリーは確かに、頭を強く打って動かなくなったはずだ。それでジョゼフィーヌは、その分の鬱憤をアンリエッタにぶつけたのだ。

 それが、生きていたとは。


(素直に、お亡くなりになっていれば良かったものを……)


 おそらくは気絶していたか、仮死状態か何かだったのだろう。命冥加にも程がある。

 あの場で死んでいれば、その姿から偲ばれるような過酷な人生も無かったろうし、何より自分の邪魔にはならなかったろうに。

 忌々しさを懸命に押し殺したユニの――実の娘の視線を浴びながら、アンナマリーは覚束ない足取りで証言台に上る。


「生きていた……そんな……親――」


「ジョゼフィーヌ夫人」


 危うく要らぬことを口走りかけたジョゼフィーヌを、トゥリウスが制した。親子揃って云々、などと言いかけたのだろう。……薬が足りなかったか、とユニは反省の念を新たにした。

 ラヴァレ侯爵は、横に並んだみすぼらしい女をさも自慢げに紹介する。


「カルタン伯の申された通り、彼女こそ彼のかつての愛妾であり、アンリエッタ嬢の実の母――アンナマリー殿である。嬢の身の証を立てるに、これ以上ないほどの証人であろう?」


「い、異議あり!」


 そう言って席を蹴立てたのはジョゼフィーヌだ。


「こ、この女が真実あの泥棒猫――いえ、アンナマリーとは思えませんわ! だって、ねえ? こんな流民のような姿をしたみすぼらしい女、もしかしたら赤の他人が買収を受け――」


「……無駄です、奥様」


 呆れを胸中に、ユニは彼女を止める。


「異議を却下する。まずは証言を聞き、吟味してから判断することだ」


 そう、今になって分かったが、これもラヴァレの布石の一つだ。

 先程、こちらが解雇した元メイドである平民の女たちを証人に立てた時、侯爵はわざと却下が濃厚な異議を唱え、逆に証人の身分に関係無く証言を検証するという言質を得ていた。

 それも全て、アンナマリーという特大の切り札を有効に機能させる為に。

 そのアンナマリーは、地獄の底から這い上がってきたような妄念と憎悪を込めて、ジョゼフィーヌを睨みつける。


「ジョゼ……フィーヌ……っ!」


「ひっ!?」


「貴女……よくも、よくものうのうと……っ!」


 全ての元凶を呪う声は、正しく亡霊そのものだった。

 無理に張り上げた掠れ切った声は、決して大きな声量ではない。なのに耳にした途端、鼓膜に張り付いて離れなくなりそうな程に執念深い響きだ。

 まともにそれを聞いたジョゼフィーヌは、忽ち後退った脹脛を椅子にぶつけて転倒した。どこかで聞いた話を思い出す光景である。


「かえして……わたしの、わたしの娘……! アンリエッタを、かえして……っ!」


「ひぃいぃいぃっ!? く、来るなっ! 来ないでぇ……っ!!」


 証言台の木柵を乗り越えんばかりのアンナマリーに、ジョゼフィーヌは頭を抱えて震える。

 突如として始まった女同士の愁嘆場に、法廷中の男たちは動きを止めていた。あんなにアンナマリーに焦がれていたカルタンも、その凶相に怯んだように固まっている。ラヴァレ侯爵もここまで乱れると思っていなかったのか、呼び出した当人のくせに呆然とする姿を晒す。裁判長も木槌を振り上げたままの姿勢で硬直していた。


「あの子を……返しなさいよぉ……っ!」


 返せとは何だ、とユニは思う。

 自分はトゥリウスの物で、そしてトゥリウスだけの物だ。今更、親兄弟など関係無い。彼の役に立てる素体として過不足無く産んでくれたことには感謝するが、その後のことにまで干渉を受ける謂われは無い。

 彼女が彼の下へ戻る邪魔をするなど、以ての外だ。

 それにそもそも、ユニに呪いめいたバグを埋め込んだ張本人でもある。結婚というキーワードに動揺を覚えるような記憶を仕込まれなければ、今回の敵の仕掛けにみすみす落ちることは無かったはず。そう思うだに、余計なことをしてくれたと苛立ちが募る。

 無表情を保っていた顔に僅かに忌々しさが浮かびかかった、その時、


「こらこら、駄目だろユニ」


 法廷中を凍りつかせる狂女の呪詛を物ともせず、トゥリウスはユニの横に立った。

 そして彼女に言う。


「知らない人にそんな目を向けるなんて、感心出来ないね」


「…………えっ?」


 思わず、呆気に取られる。

 主は何を言っているのだろう。知っているからこそ、この自分と血の繋がっているだけの狂った女が忌々しいのではないだろうか。

 彼女が立ち竦む中、トゥリウスは再び証言台に上がって手を上げる。


「異議あり――裁判長、これでは証人の体を為しておらず、(いたずら)らに原告ジョゼフィーヌ夫人を精神的に苦しめているばかりであります。このアンナマリーという女性を退廷させるか、でなくばお早めに証言をさせて頂けませんか?」


「う、うむ。静粛に、静粛に! 被告は速やかに証人を落ち着かせ、証言をさせよ!」


 正気付いた裁判長が木鐸を打ち鳴らし、ラヴァレとカルタンが二人がかりで取り押さえて、やっとアンナマリーは引き下がった。それでも憎悪と怨恨に満ちた目をジョゼフィーヌに向け続けていたが……ジョゼフィーヌに?

 ここでユニも気付いた。

 もしかして、アンナマリーは――と。


「……トゥリウス卿は、まことに律儀な若者じゃな。よもやこちらの証人を落ち着かせるよう取り計らってくれるとは」


「いえいえ。これも円滑な裁判進行の為です。僕は無駄が嫌いですし、いい加減この裁判も長引き過ぎですしね」


 言って軽く欠伸をすると、涙でも滲んだのか左目を擦る。左目を、何度も。

 それを後目に、アンナマリーの供述が始まった。


「私は……十一年前にピエール様――カルタン伯の側妾の地位を追われ……娘と生き別れた後……貧民窟で、何とか今日まで命を繋いでおりました……」


「そこをラヴァレ侯爵に拾われたんですね?」


 トゥリウスが促すと、アンナマリーはこっくりと肯いた。


「それで十一年前の事情を侯爵閣下にお話になり、それで今日までは侯の庇護下に居られた、と。いやラヴァレ閣下もお人が悪い。アンナマリーさんがお手元にいらっしゃったなら、伯と引き合わせても罰は当たらなかったでしょうに。ねえ? 伯爵」


「そ、そうですよ侯爵閣下……」


「ほほほ。まあ、何だ。ジョゼフィーヌ夫人との確執もあるし、それに折角であれば、生き別れのご息女とも一度に対面させた方が、喜びも大きかろうと思うてな? それがこんな場になるとは思わなんだが」


 面の皮も厚く、他意の無い旨を述べる侯爵。

 ぬけぬけとよくも言う。アンナマリーの存在を敢えて伏せていたのは、恐らくトゥリウス側が何らかの反撃に出た際に、これを叩き潰す為。その際の打撃の威力を増幅し、二度と逆らえなくなるようにと意図してのことだ。そこに悪辣で陰険な害意はあっても、親切ごかした善意など何処にもありはしまい。

 ともあれ、ラヴァレの言葉にアンナマリーは勢いづく。


「そう……そうです! 侯爵様は、私に約束して下さいました……っ! アンリエッタに……愛しいあの子に会わせて下さると……っ! そして……それは今日この日だと……っ! ここであの子に会えるのだと……っ!」


 罅入るように皺の刻まれた、実年齢より老いて見える顔を紅潮させた。

 女の上げる欣求の声に、ラヴァレ侯爵は笑みを深くする。恐らく勝利を確信して。

 だが、




「それで……アンリエッタはどこにいるのです……?」




 言って、アンナマリーはきょろきょろと視線を彷徨わせる。

 その目は、すぐ近くにいるユニの姿を素通りしていった。


「……は?」


「あ、アンナマリー? 何を言っているのだ? アンリエッタは――」


 目を丸く見開く侯爵に、信じられないものでも見たように声をわななかせる伯爵。

 それに頓着すること無く、アンナマリーは目を皿のようにして自分の娘を探し、法廷内にそれが見当たらないことに気付くと、


「ジョゼフィーヌ……っ! お前ね……っ! この悪女……っ!」


「……へ? は? え?」


「お、お、お前だ……っ! お前がアンリエッタを隠しているんだ……っ! 言いなさい……っ! どこ? あの子はどこなの……っ!?」


「あ、あ、貴女こそ何を言ってるのよっ!? アンリエッタなら――」


 悪霊めいた女の鬼気に押され、あらぬことを口走りかけたジョゼフィーヌ。

 ユニは止めようとしたが、その前に、


「そんなメイドを替え玉に立てても、私は騙されない……っ! 目の色、髪の色を揃えようとも、お腹を痛めて産んだ子を……決して見間違えるものですか……っ! 本物のアンリエッタを連れて来なさい……っ!」


 アンナマリーは落雷めいた怒声でそう叫んだ。

 ラヴァレ侯爵も、カルタン伯爵も、ジョゼフィーヌも、裁判長ら法曹も、傍聴席に至るまで呆気に取られてしまう。

 そんな中でトゥリウスと、彼の示唆で仕掛けに気付いたユニだけが冷静だった。

 トゥリウスは肩を竦める。


「――アンリエッタ・ポーラ・カルタンなんて、知りませんよ」


「何ですって……っ!?」


 絶望と憎悪に塗れた狂気を叩き付けられても、トゥリウスは平然としていた。狂人なら、彼も彼女も普段から見慣れている。オーパス04が良い例であるし、ユニもユニで自分が狂っていることくらい承知の上だ。主の為なら、何処までも狂えようというものである。

 その彼は、ポンとユニの両肩に手を置いた。


「ここにいるのは、僕のユニです。……貴女には、この子が自分の娘に見えますか?」


 あ。

 駄目だ、と思った。

 ユニはもう、自分の内側から湧き上がる幸福感を抑え切れない。

 『僕のユニ』。そう、彼は言ってくれたのだ……! 肩に両手を置いて、これが自分の物だと示すように、見せつけるように……!

 頭が内側から爆発しそうな感情の奔流に、鉄面皮の堰が切れる。

 それでも見苦しくないようにと堪えられた所為か、それは小さな笑みという形で以って表出する。


「あれが、本当に奴隷か?」


「生みの親が否定したのだ。令嬢ではあるまいが、それにしても……」


「……何という堪えられない微笑みを浮かべているのだ」


「ふはぁ……」


 最早、傍聴席から聞こえてくる雑音も耳に入らない。

 肩に感じる掌の温度。髪に掛かる息遣い。耳に残る、己を彼の下へと縛り付ける言葉。

 ここは何と幸せな境地だろう。

 後少し、後ほんの少しだけ、このままでいたい。

 だが、ユニの願いも虚しく、


「……そんな訳はありませんっ!!」


 耳を聾するばかりの金切り声と共に、彼女は現実に引き戻された。


「あの可愛いアンリエッタが、そんな人形めいた娘に育つはずがありません……っ! 私には分かります……っ! 分かるんです……っ! あの娘の母親ですもの……っ!」


「ええ、ええ! そうでしょうそうでしょう!」


 言いながら彼は手を離す。

 それに名残惜しさを感じながら、彼女は生みの親の狂態に目を向けた。

 連れて来たラヴァレ侯爵ですら戸惑うばかりのこの狂気。恐らく、この女の精神は既に破綻しているのだろう。

 しかも今日まで身柄を押さえていた張本人ですら知りえなかったとなると、原因は十一年前の事件でもその後の荒んだ生活でもあるまい。

 ――洗脳である。

 トゥリウスは一度欠伸をして見せた時、しきりに左目を擦っていた。そう、左目である。それは彼女の仲間であり、同じ彼の『作品』でもあるドライの、魔眼の場所なのだ。


『くくっ。貸し一だな、ユニ』


 不意にそんな声が脳裏に響く。

 幻聴ではない。魔法による念話だ。

 王都早期脱出計画最過激案、プランD。その要となるのはドライである。

 あのダークエルフの女性も、この王都に来ているのだ。そしてプラン遂行の為の下準備の傍ら、恐らくトゥリウスの命令に応じてアンナマリーを探索し、自慢の魔眼で洗脳しておいたに違いない。

 そして魔眼は香とは違い、込められた魔力によって強制力が上がる。被術者に後遺症が現れるリスクを度外視すれば、かなり無理な命令も聞かせられるはずだった。

 ユニも頭の中だけで功労者に礼を述べる。


『……助かりました、ドライ。貴女に感謝を』


『なに、そう堅苦しくなるな。私は仲間には優しいのだ』


 言い置いて、念話を繋ぐラインが切られた。

 意識を、目の前の風景に戻す。


「――皆さんお聞きになられた通り、アンリエッタ・ポーラ・カルタン嬢の母親であるアンナマリーさんは、彼女が自分のお子さんではないと証言されました。いや、流石は侯爵閣下。事前に宣言された通り、これ以上ない程に彼女の身の証を立てて頂けましたね?」


 トゥリウスは愉快そうに言う。

 本当に楽しそうな声だった。思えばこれはユニが知る限り、彼が初めて行う復讐である。応報の快感はさぞや甘美なことだろう。ユニも自分のことのように嬉しくなってしまう。この御老体は彼女にとっても主との仲を引き裂こうとした憎い敵なのだ。

 ……ライナス? あれはただの障害だ。ラヴァレのような敵ではない。

 そのラヴァレ侯爵は、流石にカルタンのように顔色を変えるような無様は晒さなかった。表向き表情は静謐を保ち、トゥリウスの言葉に耳を傾けている。ただ握りしめられたその手は、受けた屈辱の程を表すようにぶるぶると震えていた。


「これでお分かりでしょう! 一週間前から繰り返し申し上げ、この場でも何度も口にした通り! ユニとアンリエッタ・ポーラ・カルタン嬢は全くの別人! 共通点が多いだけの他人です!」


「異議あり! アンナマリー殿は、仇敵であるジョゼフィーヌ夫人の姿を目にして血が上っておる! 今のは冷静な証言では――」


「おや! 異なことを申されますね侯爵? ……彼女は貴方が連れて来た証人です! ジョゼフィーヌ伯爵夫人が起こした裁判への召喚状を、お受け取りになったはずの貴方がです! それが冷静な証言が出来ないとは、どういうことです?」


「……くっ」


「証人が被告に不利な発言をしたとして、何が問題なのですか! 証言とは誰かの為にあるものではない。神聖なる法廷で、真実を詳らかにする為にあるのです! ……裁判長、原告の側に立つ一員として、異議の却下を求めます」


「原告の要求を認める。被告側の異議は却下としよう。用意した証人が被告側に不利益な発言をしたとはいえ、それを貶める発言は許されん」


 ラヴァレ侯爵は大人しく引き下がった。だが、それで済ませない者もいる。


「い、異議ありっ!」


 最愛の人との思わぬ再会で、何とか精神的に立ち直ったらしいカルタンだ。


「父である私が彼女をアンリエッタであると認めている! 母であるアンナマリーが否定したといえど、アンリエッタの身許に関わる審理だけはまだ対等である! 一対一っ! まだ一対一だ!」


 もっとも、それは最愛の人とやらを傷つけるだけの発言だったが。


「ピエール様……貴方は私を信じて頂けないのですか……?」


「あ、いやっ。あ、アンナマリー……これは――」


 傷心と憎悪に燃えるアンナマリーの視線にたじろぐカルタン。

 ……見苦しい。

 ユニはその姿に対し、率直にそう感じた。

 だが、まあ良いと思い直す。このままでは自分は、結局窮地をただ助けられ、主の手を煩わせただけで終わってしまうところだった。効率の面から言えばそれが最上だが、流石にそれは従者としての節度に関わる。

 ここは自分ももう一働きしよう。そして今後の対中央集権派対策の為にも、精々向こうの傷を大きくするべきだ。

 彼女はそう判断して口を開く。


「……では、アンリエッタ嬢の父である伯爵様にもご納得して頂きましょう」


「な、に?」


 その言葉にカルタン伯はポカンと大口を開けた。ここでまさか、ユニが追撃してくるとは思わなかったのだろう。お目出度いことだと思った。

 元々、向こうにアンナマリーがいたことが想定外なのである。ならば本来は、こちらにも事前にこの問題に対する策も用意してあると考えるのが当然だろう。

 ユニはこれからそれを使う。ただそれだけのことなのだ。


「では、その前にアンナマリー様をお下がらせください」


「理由は?」


「これからジョゼフィーヌ様に十一年前の件について、より詳しいお話を伺うからです」


 本日何度目かのどよめきが、傍聴席を満たした。十一年前の醜聞騒動、その内アンナマリーが側妾の地位を追われた経緯については知っている者もいよう。だが、更に裏の話となると事情が異なる。それが開陳されることに好奇でもくすぐられているのだろうか。

 彼女は後ろを振り向く。見れば、ジョゼフィーヌはこの世の終わりが来たかのような顔でユニを見上げていた。トゥリウスはと言うと、ユニがこれから何を始めるのか興味深そうに眼を輝かせている。勿論、彼女の感銘を誘ったのは後者である。


(……今度は必ず、ご期待にお応えします)


 そう思って自身に奮起を促し、ジョゼフィーヌに声を掛ける。


「では、奥様……証言台にお立ちになり、アンリエッタ・ポーラ・カルタン嬢に何をなさったのか、ご開陳くださいませ」


「そ、それは……」


「ここが正念場なのですよ奥様。お世継ぎの将来を案じておられるのでしたら、今が勇気をお出しになる時でございましょう」


「え、ええ……分かっているわ……」


 多少の躊躇いはあったが、少し強めに言い聞かせると忽ち暗示の効果が出た。しかしこうまでしないと口を開かないとは。この猛女といえど、流石にあの酸鼻な事件を告白するには恐れがあるらしい。

 そしてジョゼフィーヌは語り始める。証言とも自供ともつかない、長い告解を。

 当時僅か六歳だった少女を男どもに襲わせ、蹂躙した挙句、更にはその顔を潰し、とどめには骨をわざといびつに治療して歪めた罪の記録。

 それを耳にしたカルタン伯爵は、悪妻の想像を超えた所業に顔色を無くす。結局退出しなかったアンナマリーは更に狂乱した。だから下げさせろと忠告したというのに。ラヴァレ侯爵は静かに聞き入っている。

 ユニは今更何とも思わない。アンリエッタであった時の記憶に対し、感情を動かされることは無いのだ。ただ出来れば主に奪って欲しかった物を無為に散らされたことだけは、少し悲しかった。


「……以上、です」


 話を終えたジョゼフィーヌは憔悴していた。公の場、しかも法廷で自身の犯罪を語り聞かせたのである。消耗し切ったその顔は、アンナマリーと大差無い亡霊の風情である。


「お疲れ様でした、奥様」


「貴女……どうしてこの話を聞いて、そんなに平然と――」


「何を仰るのです? 私はアンリエッタ嬢ではなく、ユニです。……赤の他人に、何を思うことがあるのでしょう?」


「この、こんな話に、何の意味が――」


「すぐに分かります」


 言い捨てると、ユニは再び被告席に向き直る。


「さて、このお話を聞いてどう思われました?」


「……儂としては、ますます貴方がアンリエッタ嬢のように思えるのう」


 ラヴァレは警戒がありありと見える口調で述べた。


「十一年前、トゥリウス卿に買われた際の貴女は、顔に酷い怪我をしておったと聞いておる」


「ええ、そうですね」


 この侯爵からしてみれば、こちらがわざわざ自らの不利となる証言を出したように見えるだろう。ユニの顔が潰されていたことなど、オーブニル邸では周知の事実だ。ライナス辺りからも聞けることであるし、当時を知る使用人――多くは頭に『元』が付くだろうが――からも聴取できる。そしてそれを知ったからこそ、ラヴァレ侯爵はこの企みを仕組んだはずである。


「どちらも顔に怪我をしておったとは、またぞろ新しい符合が出てきて――」


「違いますね」


 ユニはすかさず否定する。


「お忘れですか、侯爵様? ……アンリエッタ嬢のお顔は決して治らないように、わざといびつに回復するよう魔法を掛けられていたのですよ?」


「な――」


 老侯爵の顔に、焦りの色が浮かんだ。

 ユニはそれを確認すると、再び言葉を紡ぐ。


「従軍などをご経験された方は知っておられると思いますが、回復魔法とは存外融通の利かないものなのです。骨折を治す際に、元の形状を考慮せずに焦って魔力を注ぐ。そうすると骨が歪んだ形に治ってしまうのです。そうなると、もう元には戻せません。――最近、ザンクトガレンで治療法が発見されましたが」


「ああ、僕が論文を発表したヤツだね。ちなみに成功例の第一号は、僕がアカデミーを叩き出された決闘騒ぎで怪我させた人らしいよ? 風の便りじゃ、執刀医はグラウマン教授だってさ」


 そうトゥリウスが補足する。


「ありがとうございます、ご主人様。……ついでのようで申し訳ありませんが、ご主人様は十一年前、お幾つでいらっしゃいましたか?」


「今が十九歳だから、八歳だね」


「重ね重ね、お手を煩わせました。……この通りにございます。主が如何に才幹に優れた錬金術師とはいえ、御年八歳で近年に確立された治療法を実行出来るでしょうか?」


 実際は実行し、成功した。それがあって今のユニがいるのだが……それは余人には分かるまい。一体どこに、そんなことの出来る八歳児がいると信じる人間がいるものか。オーブニル本家の家人といえど、当時の彼女の負傷の程度を正確に見積もったものなど、存在しないのだ。

 唯一の例外は、トゥリウスと共にユニの負傷をじっくりと検分した一代騎士の男だが、彼は既にこの世にいない。例の相続調査の件で調書に名前があったのを機に、主が屋敷から辞していた彼に酒を振舞っているのだ。曰く、天にも昇る気持ちを味わえる美酒らしい。あの騎士は酒好きであったから、きっと本望だったろう。


「つまり当時の私が顔に負った傷は、八歳であらせられた主でも治療できる程度のもの。十一年前に治療法の存在しなかった症例のアンリエッタ嬢とは、別人です」


「……トゥリウス卿ほどの神童であれば、八歳の(みぎり)であっても十分に出来そうなことじゃがのう? 現に治療法についての論文を記したのは、彼なのじゃからな」


 ラヴァレ侯爵はねちっこく絡んでくる。確かに事実を言い当ててはいるのだが。

 勿論、それに対する反証は十分に用意している。


「これは補足ですが、侯爵様。主の最初の奴隷は私です。それ以前には人体実験の検体は存在しませんでした。事前の実験も無しに、この難事を成功させられるとお思いですか?」


 実際にはマウスなどの動物実験で、十分に技術を成熟させた上での施術だったらしい。

 それにしても初回の人体実験であそこまでの成功を見る辺り、やはり主の才能は素晴らしいと改めて思わされる。

 果たしてラヴァレ侯爵は言葉に詰まった。この程度のことは奴隷市場に照会して調べればすぐに分かることであるし、実際ラヴァレも策の裏付けの為に調査済みだろう。

 ちなみに、それでユニがアンリエッタであるという証拠は出ない。彼女が買われたのは奴隷が何処の誰だかも記録されない、最下層の売り場。子どもの小遣いで買える程度の奴隷に、関心など払われない。買った人間の記録は残るが、買われた人間についてはノータッチである。


「それでもお疑いなら……お隣には魔法の専門家がいらしゃるのではないのですか? そのお方にお訊ねされては如何でしょう」


「ああ、成程! それならくだくだしい論議は不要だね」


 すぐさまこちらの意図を了解して、主が立ち上がる。

 そして――その専門家に向けて問いを投げ掛けた。


「元宮廷魔導師、ピエール・シモン・カルタン伯爵にお訊ねします。……当時八歳であったこの僕に、ジョゼフィーヌ夫人がお話になったような症例を、治療できると思われますか? 是非とも高名な魔導師としての、貴方の知見をお聞かせ願いたい!」


 魔導の道に学び、その業を振るうことで爵位まで得た男。ピエール・シモン・カルタン。この問題において、彼以上に被告側の証人として相応しい存在はいない。

 そしてその証人は、


「……不可能に決まっている! 出来る訳が無い!」


 トゥリウスの尋問には、必ず正直な答えを述べるのだ。


「貴重な証言、ありがとうございます。カルタン伯爵閣下」


「ぐ、ぬ……っ!」


 彼の恭しい礼に対して、伯はまたも失言したのを悟って顔を赤らめる。

 きっとカルタンは、どうして自分が今日に限って口が軽いのか、胸中に疑問と不安を渦巻かせていることだろう。

 だが、おそらくそれもこれで終わり。もう彼に失言をさせる必要も無い。

 ユニは裁判長に向かって深々と一礼する。


「以上が私の提出する『証拠』です。被告本人の言であり、その経歴も併せると、確度の程は高いものであると自負しております」


「結構。その『証拠』の有用性を認めよう」


 そして、カンカンっと木鐸を鳴らす。

 裁判の――十一年前の亡霊に足を取られた、長い回り道の終わりを告げる音だ。

 同時に、崩れ落ちるようにドサリと床に膝を突くカルタン。最早席に座り直す気力すら無いらしい。娘を取り戻す最後の機会すら失した彼の表情は、抜け殻のそれだ。血が上って紅潮していた顔色も、生気の無い白蝋じみている。

 それを後目に、裁判長は強い語気で告げた。


「――では、これより結審に移る」




  ※ ※ ※




 裁判は原告の全面的な勝訴に終わった。

 原告代表のジョゼフィーヌこそ十一年前の罪を咎められ、後日に席を被告の側へ移して別の裁判を受けることになるだろう。が、カルタン伯爵家は現当主ピエール・シモンを引退させ嫡子が相続することとなった。裁判の眼目は見事達成された訳である。

 そしてユニはアンリエッタ・ポーラ・カルタンとは別人である旨を認められ、晴れて(?)奴隷に逆戻りだ。余人には理解の及ばぬ価値観であるし、シモーヌにも正直ピンとこない考え方であるが、彼女はそれで幸せなのだろう。二十歳にもならぬ女で、奴隷の身でありながら、あのラヴァレ侯爵をも相手にして見せた大立ち回りを思うと、そう考えてしまうのだ。


「糞っ、あの爺め……何をしておるのだ!」


 隣に立つライナスは、忌々しさを隠そうともせずにそう呟く。周囲に気取られぬよう小声で言う分、自制はされているのだろう。だがそれにしても、弟の立った側が勝った裁判の直後に、この世の全てを呪うような顔を晒すのはどうかと思う。

 そんな彼の横を、帰路につき始めた他の傍聴人たちが擦れ違って行く。


「しかし、カルタン伯爵の醜態と言ったら、見ておられんかったわ」


「まったくですな。王国貴族の格式を何と思っているのやら。所詮は一代の成り上がり者ということでしょう」


「いや、それよりラヴァレ侯爵こそ、噂よりは大したことの無い」


「寧ろ、それを為したオーブニル子爵こそ大したものでは? 世評は悪いが、やはりかつては兄をも凌がれると――」


 ギチリ。

 そこでライナスの噛みしめた歯が、大きく軋る音を立てた。


「――し、失敬。卿も傍聴しておられましたか」


「いえ……こちらこそ愚弟の起こした騒ぎがお耳汚ししたようで」


 ぎこちない愛想笑いの裏の鬼気に、その傍聴人は最低限の謝辞を述べると足早に立ち去る。


(結局のところ、あの子が気に入らないだけじゃないの)


 シモーヌはつくづくそう思う。口では何のかんのと言うが、ライナスの主張の根源には常にトゥリウスへの劣等感が透けて見えるのだ。

 その為に中央集権派に取り込まれ、ラヴァレ侯爵の走狗に堕し、……挙句は自分を巻き込んで、愛どころか、する必要すら無い結婚を遂げた。そんなことをしなくても、ただ単に弟のすることに目を瞑るだけで、この若い伯爵はもっと気楽に生きられるはずなのに。


(そう言ったらきっと、『アイツがいなければもっと話は早いのだ!』とか答えるんでしょうね)


 まったく難儀な性分である。

 こんな人物を夫に持ち、死に別れるか、何かの拍子に離婚するかまで連れ添わねばならないと思うと、酷く憂鬱な気持ちになった。

 気晴らしに、改めて結審の終わった法廷を眺める。

 ラヴァレ侯爵は全てが終わると足早に退廷した。恐らく次の策謀だの何だのの準備に取り掛かるのだろう。あの御老体も飽きないものだ。

 カルタン伯爵もとぼとぼとした足取りでここを去っている。公の場、それも裁判の席でここまでの醜態をさらした以上、貴族としては再起不能だ。それでも諦め悪くラヴァレに尻尾を振りに行ったのか、或いは結審中に狂乱が限界を超えたアンナマリーを見舞いに行ったのか。それは定かではない。

 ジョゼフィーヌはというと、こちらは半死人の青白い顔で、法服貴族に連れられて去っている。恐らく、次の裁判まで自宅で蟄居されるのだろう。

 そしてトゥリウスとユニは――


「ユニ、もう良いよ。頭を上げなって」


「いえ、此度は私の愚かさの為に、大変なご迷惑を――」


「そうやってるのも立派な迷惑だってば。僕が良いって言ってるんだから立ちなよ」


 見れば、床に額づいて陳謝するユニを苦心して立たせようとしているトゥリウスの姿があった。とても審理中にしたたかな舌戦を繰り広げた二人とは思えない振る舞いである。その微笑ましさに、シモーヌは思わず口元を綻ばせてしまう。


「……お助け頂いたことには、深甚なる感謝を覚えております。ですが、私のようなものなど幾らでも替わりが――」


「馬鹿言っちゃいけないよ。ユニの替わりなんて、そうそういるもんじゃない」


(……少なくとも、彼の好みのハーブティーを淹れられるのは、あの子しかいないわね)


 柵を隔てた遠い言い合いに聞き入りながら、そんなことを思った。

 この裁判に呼ばれる前、普段より濃い味のローズヒップを我慢するように啜っていたトゥリウス。湯気の向こうに霞んだその顔は、彼女の帰りを待ち侘びているようにも見えたのである。

 そしてそれは、見事に叶ったのだ。

 シモーヌとしては、次に茶の相伴に与る時にでも寿いでやりたい。ついでにあの陰謀爺にも一泡吹かせてやったことも爽快だった。

 とつおいつ眺めていると、トゥリウスは懐に手をやり何かを取り出す。

 ――首輪だ。

 一週間前に失われたそれに代わる、新しい首輪。彼はそれを授け、彼女は望んで再びそれに繋がれようと言うのである。


「それなりに骨を折って取り返したんだ。もう簡単に手放されるなんて思わないだろうね?」


「……はい。思いもよらないことです、ご主人様」


「分かったなら、首を出して」


「あの、その前に――」


 首輪を差し出す彼の前に、彼女は跪いた。


「改めて、私から隷属を誓わせて頂けませんか? そうすれば、二度と首輪を失わないよう奮起出来ますから」


「ん、良いけど……まあ、手早く頼むよ」


「ありがとうございます。では――」


 主の許しを得て、ユニは切々と言葉を紡ぐ。


「――貴方の奴隷ユニは、決して御身に背かず、離れず、護り、奉仕し……必ずや主が本願を果たされる為の礎とならんことを、身命と魂魄とを捧げて誓います」


 大きな声ではなく、寧ろ静かに口ずさんでいるというのに、その言葉は何故かシモーヌの耳にも届いた。

 拝跪し、両手を合わせて指を組み、長い睫毛に飾られた目を伏せた、その姿。

 それに想起させられるのは、一心に祈る尼僧か、それとも或いは――


「うん。受け取るよ、その言葉」


 トゥリウスは受諾に合わせて、そっと伏せた左手を差し出す。

 申し合わせたように、ユニはその手の甲に口付けた。

 そして名残惜しむように唇を離さない彼女の首に、銀の円環が嵌められる。


 ――カチリ。


 固い音と共に最後のパーツが埋まり、一週間前の彼女が再生された。

 結審後の法廷で行われたとは思えない、常軌を逸したその儀式。あの二人が余りに自然にそれをこなした所為だろうか。シモーヌには、まるで当たり前のことをしただけのようにすら思える。


「……まるで結婚式ね」


 我知らずそんなことを呟いてしまう。

 唇を離し、どこか陶然とした目で銀の感触を指先でなぞるユニ。

 身に纏うのはメイド服で、嵌めたのは首輪であるのに、その姿はさながら愛情と幸福とに酔い痴れる花嫁のようだ。


「非常識な。神聖な法廷を何と心得ている」


 呟きへの答えなのか違うのか、憤然とそう漏らすライナス。

 シモーヌに言わせれば、そう言う彼こそ神聖な婚儀を策略で穢した男である。

 呆れと諦観を覚えながら、自分の左手を顔の前に翳す。

 薬指に光るのは、白金の結婚指輪だった。

 白金と銀。指輪と首輪。兄と弟。花嫁と奴隷。

 似た色と似た形、されど異なる契りで同じ家に繋がれた、二人の女。


 ――果たして、どちらが幸せなのだろう?


 それは自分だと断言できない己に気付き、シモーヌは今日何度目かの溜め息を吐いた。




  ※ ※ ※




 主人に連れられ、真新しい首輪を銀色に光らせながら、その女は帰って来た。


「恥ずかしながら、只今帰参いたしました」


「やあ。お帰りなさい領主閣下、チーフメイド」


 ルベールは笑みを浮かべながら声を掛ける。

 ドゥーエはと言うと、


「……おう」


 そんな気の抜けた返事と共に、片手を上げるのが精一杯だった。

 そのドゥーエの表情に、トゥリウスは怪訝そうに片眉を上げる。


「随分と不思議そうな顔だね、ドゥーエ。ユニがこうして戻ってきたのが、そんなにおかしいかい?」


「それもそうだけどよ。どっちかと言えば、アンタの頭の方がおかしいと思うがね」


「いきなり失礼なことを言うなあ……」


 言いながらトゥリウスは、客室のソファにどっかりと腰を下ろす。彼の姿はこの一週間の内でも、いつになく寛ぎ切っているように見えた。

 その原因と思しき女奴隷は、命じられる前から音も無く動いて、あっという間にハーブティーを淹れる。


「お気を張られる場の後です。リラックスの為に、カモミールを選んでみました」


「ありがと、ユニ。うん、やっぱり僕のお茶は君が淹れてくれないとね」


「……勿体無きお言葉」


 一週間前の、そして今日の騒動などあって無きが如き振る舞いの二人に、ドゥーエは短く嘆息した。

 正直な話、ドゥーエとしてはこの成り行きに納得しかねるものがある。トゥリウスはユニの帰還する確率を八割と読んでいたが、こんな事態が八割で起こるなどと、どこをどう捻れば考え付くのやら。そう考えると、到底納得出来なく思うのも無理は無いだろう。


「なあ、ご主人。この展開、いつからどの辺りまで読めていたんだい?」


「最初から九割方。ラヴァレ侯爵がアンナマリーさんを確保している可能性に気付いたのは、ドライから王都入りの連絡が入った時かな」


 聞いてみると、事も無げにこんな答えが返ってきた。


「……嘘だろ?」


 思わず口の端が引き攣るのを覚える。

 そんなことがある訳が無い。この非常識で突飛な展開を、初めから読んでいた? とてもではないが、信じることは出来なかった。

 疑いの眼差しに対し、茶を一啜りすると心外そうに鼻を鳴らす。


「何が嘘なもんかい。ドライが転移をフル活用して迅速に王都に来たもんだからさ。彼女にプランDの仕込み以外に、何か作業をさせる余裕があるな、って思ったらふと気付いたんだよ。ラヴァレ侯爵を探りに行かせる時間くらいはあるんじゃないか、とね。そうしたら侯爵が今回の件を思いついた端緒は何だろうと思い当たって――」


「閣下。ドゥーエ殿はその前段階。チーフメイドが独力で裁判を起こすまで読めたのが不思議なのですよ」


 ルベールが横から口を挟む。


「斯く言う僕も、そこが気になりますね」


「それこそ聞くまでも無いことじゃないか」


 トゥリウスはカモミールティーの湯気に顎を湿らせながら言った。


「僕は十一年間、この子を弄ってきたんだよ? これくらいのことはやれるなんて、とうの昔に把握済みさ」


 事も無げな台詞だが、この男はその真の重みを分かっているのだろうか?

 彼女は主の為に、生き別れの父を裏切り、半弟を見捨て、母の仇と手を組みまでしたのである。

 それを当然だと言い切るなど、傲慢に過ぎるのではないだろうか。

 ドゥーエはそれを言い募ろうとして……止めた。

 この女は実際にそれを実行したのである。自らの手で実父へ汚名を着せるとともに引退に追い込み、トゥリウスによって実母が狂わされたことにも眉一つ動かさず、こうして悪名高い主の下へと返り咲いたのだ。事実はただそれだけである。

 苦い諦観に胸を噛まれるドゥーエに頓着せず、トゥリウスは続けた。


「それにあの伯爵の長い昔話の中に、夫人が高等法院の役人を抱きこんで云々、なんて一節もあったからね。いざとなったら夫人を洗脳して、そのコネを活用できるんじゃないかと思ったんだ。今回やったみたいに、裁判に持ち込んだりとか。だからあの婚儀の日、僕は決してカルタン伯に言質を取られないよう言葉を選ぶようにしたのさ」


 そしてカップを傾け、唇を湿らせる。


「無論、ユニも僕の言動の不自然さには気付くだろう。何せ、自然体の僕と十一年も付き合っているんだからね。それが分かれば、僕が夫人を利用して裁判に持ち込む、という手段を視野に入れていることにも気付く筈。そして、その通りに動けるだけの『性能』を持っていることは、知っての通りだろう?」


 前半は兎も角、後半は分からないでもない。何しろユニは、強化改造を受けたドゥーエでさえ出し抜かれかねない程の野伏の達者でもあり、優秀な魔導師でもあり、長年トゥリウスの助手を務めた錬金術師でもある。カルタン伯爵邸を抜け出して秘薬を調合し、証人となり得る解雇された元使用人を探し出し、あちこち洗脳して回ることなど、朝飯前だろう。

 何しろ、洗脳の魔香さえあれば伯爵家の家人から必要な情報を得るなど簡単なことなのだから。


「……成程。それじゃあ仕方ねェな」


「……ですね」


 結局、ルベールと顔を並べて引き下がるしかなかった。


「では、カルタン伯爵にチーフメイド殿を渡すのをさんざ渋って見せたのは、浮かんだ案をまとめるだけの時間を稼ぐ為だったのですか? 閣下が裁判での証言に使った詐術は、その後に始まっている訳ですし」


「詐術、とは人聞きが悪いね。……別にその為だけじゃあないよ。多少は抵抗して見せないと怪しまれるだろうし、それに万が一こっちがゴネて諦めてくれるんなら、それが一番手っ取り早い」


 ……驚いた。その後の成り行きにも、そんな意味が含まれていたとは。


「呆れますねぇ。あんな短時間で、よくそこまで考えられたものですよ」


「時間なら十分にあったろう? 誰だってさ、カルタン伯がユニのことを自分の娘だって言い張り出した時点で、この罠は回避不能だって気付く。爵位と血縁、返還という大義名分が立てられているんだから。だから一度は身柄を奪われるものと諦めて、後は善後策を考え通しさ。相手の話を聞いて材料を集めながらね。……あたふたしたって、時間を無駄にするだけじゃないか」


「おっそろしい人だな、アンタ。あのラヴァレ侯爵より、よっぽど陰謀家らしいぜ」


 皮肉交じりに言ってみると、トゥリウスは首を横に振った。


「冗談はやめてくれよ……。反撃の策を土壇場で思いつけたのも、実行に移せたのも、こっちの手札についての情報が、相手に伏せられていたお陰なんだからさ。あの爺さんがあと少しでも僕らの手口について心得ていたら、ああも上手くはいかないって」


 そう言う口振りは、心底苦々しげですらある。相手の策を防ぎ、反撃でその面子に傷を付けてやったというのに、トゥリウスには勝ったつもりなどまるで無いかのようだった。


「何より、向こうも今回の一件でこちらへの警戒度を格段に上げただろうからね。これからは本腰を入れて、より陰険な策謀を仕掛けてくると思うよ」


 確かに、その通りではある。

 マルランに間者を送り込むような迂遠な小手調べではなく、相手の本拠たる王都での謀略を跳ね返されたのだ。今までは精々羽虫を手で払うような軽い気持ちでいたのだろうが、小癪にもその虫は己を刺す毒針を持ち合わせていた。

 ならば今度は、虫けらごときが人を刺す様な真似を二度と仕出かさぬよう、本気で叩き潰しに来るのだろう。


「……申し訳ございません。私の不首尾で、このような事態を――」


 床に額づこうとするユニを、トゥリウスは手を振って止めた。その顔には苦笑めいた物が浮かんでいる。おそらく、法廷からずっとこの調子であったのかもしれない。


「だからいいって。同じ件で何度も頭を下げる必要は無いだろう? それに今後の展開を考えれば、あの侯爵を公衆の面前で打ち負かすことが出来たのは大きいんだ。怪我の功名ってヤツさ。寧ろ、良くやった、と褒めてあげても良い。あんまり気に病む事はないよ」


 言うと彼は、片手を彼女の頭に伸ばし、髪を指で梳るようにして撫でる。


「ご主人様……」


「よしよし、良い子良い子」


 主は冗談めかした薄笑みを浮かべながら愛撫を送り、従者は微かに目を細めながら陶然とそれを受け容れている。

 数多の奴隷を殺め実の兄と相克する狂った男と、彼の為に血を流し実の家族をも切り捨てて戻って来た呪われた女。

 その歪んだ繋がり方を改めて目にして、ドゥーエは軽く頭を振った。


「まったく……お幸せそうで、何よりだぜ」


 胸の奥を焼く苦い酸味を吐き捨てるような皮肉交じりの言葉に、奴隷の女は主の手に頭を預けたまま、横顔だけを向けて答える。

 浮かべている表情は、珍しいことに微かな笑み。


「それはどうも――」


 その笑顔は童女のように無垢で、同時に堕落に誘うように淫蕩だった。


「――仰るとおり、私は世界一幸せな女です」

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] 面白い。 主人公が目的に一途なのが良い。 [一言] 面白いんだけど母親を蔑ろにし過ぎな感じが胸くそ悪いかなぁ。 生んでくれなきゃ目的も何も果たせないわけだし、書籍版も含めて母親方がちょ…
[一言] ずっと逆転裁判のBGMが脳内で鳴ってて、 ラヴァレ侯爵のイメージがカルマ検事になったww
[良い点] 文体といい豊富な語彙といい本業の方でしょうか?サイト内屈指の読み応えある作品です。これまで読んだあらゆる書籍の中でも上位の傑作です。続きが楽しみでなりません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ