033 しゃべり過ぎた父、笑わない娘<前篇>
高等法院管下の裁判所では、急な開廷にも関わらず、物見高い貴族が幾らか傍聴席を埋めていた。貴族というのは噂に目の無い生き物である。またそうでなくては生き残れないという悲しい習性を持ってもいた。何しろ社交界に張り巡らされた情報の糸を逐一把握していなければ、己の立ち位置すら容易に見失ってしまうからだ。
ユニにそれを浅ましいと思う気持ちは無い。寧ろ有り難いとさえ感じている。
何しろ彼女と主の勝訴の暁には、彼ら全員がそっくりそのまま証人となってくれるはずなのだから。この裁判の結果は彼らの口の端を通じて、瞬く間に王都中の貴族たちが知るところとなるはずだった。故に、この審理には絶対に勝たなくてはならない。
開廷を待つ間、彼女は出廷した面々の顔を見渡す。
被告席。カルタン伯爵はその中心となる席に腰を降ろし、落ち着きの無い様子で辺りを見回していた。彼女と目が合うと縋るような、或いは信じ難いものを見るような視線を寄越してくる。急な呼び出しで被告人とされた上、自分の娘だと信じていたユニが、こうしてメイド姿で反対側の席に座っているのだ。それは混乱もするだろう。
何事かを囁くようにしてそれを窘めているのは、被告側の証人として出廷しているラヴァレ侯爵だ。見た目は伯爵を気遣う好々爺を演じているものの、時折苛立たしげな目をこちらに向ける。完璧と思い上がっていた計画に、こうして思わぬ罅を入れてやったのだ。内心ではさぞかし腹立たしく思っている筈だった。
原告席。こちらの中心となっているのは――ジョゼフィーヌである。その顔色は悪い。これから夫を弾劾することに、今更気が引けているのか、それとも少々説得が効き過ぎたのだろうか。体調は思わしくなさそうであるが、今日を乗り切れればそれでいいと彼女は思う。
そして何より重要なのは、
「や。一週間振り」
そう言い、気安く声を掛けて隣に腰を下ろす青年。
トゥリウス・シュルーナン・オーブニル。ユニの最愛の主人。
(ご主人様……!)
目元が潤んで、上ずった声が喉元まで出かかった。だが、それを懸命に堪える。まだ彼女は、彼の元へ侍ることを許された身ではない。
全てはこの審理で勝利を得てからのことなのだ。
ユニは無言ながら、詫びるように祈るように、深く頭を下げた。
※ ※ ※
まさかこんな手を打ってくるとは、とライナスは苦虫を噛んだような渋面を浮かべる。
トゥリウスが法院に召喚されたとの通報を受けた彼は、駆け付けたシモーヌを連れてこの裁判の傍聴に来たのだった。
裁判。
本当であれば、三日後にはアンリエッタ・ポーラ・カルタンの帰参を認める為に審理が開かれ、それを経てから彼女をトゥリウスの首に着ける鈴とするはずだった。
だがまさか、その前に当の父親、ピエール・シモン・カルタン伯が訴えられてしまうとは。
正に寝耳に水である。
「この裁判、一体どういうことなの?」
シモーヌが困惑も露わに言うが、ライナスとて知っている訳ではない。何しろ、弟が呼び出されたと聞いて、即座に後を追って来たのだ。情報を仕入れる暇すら無かった。
「さて、な。原告として訴えを起こしたのが正夫人である、ということから、カルタン伯爵家御家中の問題であると思うが」
「それなら、どうしてトゥリウス卿が証人に……」
そこが不分明である。トゥリウスとカルタン伯を繋ぐ線は、奴隷のユニとしてアンリエッタを確保していた一事のみ。それでどうしてカルタン伯爵家内部の問題に首を突っ込み、かつ夫人の側に立っているのか。
ライナスがまんじりとしない気持ちで疑問を持て余していると、一際派手やかな法服を纏った老貴族が入廷する。その貴族は判事席の一際高い位置に設えられた椅子に座った。
裁判長だ。彼が居住まいを正し、大きく咳払いをすると、法廷内の話し声がピタリと止まる。
「本日の開廷を宣言する」
王国の法曹を司るに相応しい、威儀に満ちた声だった。
裁判長は自分の言葉が被告、原告、傍聴人の全てに行き渡ったのを確かめるように時間を置いた。それから原告側の法官に向かって促す。
「訴追状を読み上げよ」
「はっ」
年若い法官が、羊皮紙を広げた。
「王国伯爵、ピエール・シモン・カルタン卿。伯爵位の重鎮を担いながら、近年誠に乱行甚だし。殊に家中の風紀紊乱なること、麻の乱れるが如き也――」
要するに責任ある身でありながら遊び呆けているということだ。
政治的に立場の悪い貴族を追い落とす際の常套句である。何しろ夜会や園遊会など、外に遊ばねば人脈を築いていけないのが貴族だ。それを理由に立場から追われるのは、余程政治的影響力に難のある貴族だけである。そして一代の成り上がりで醜聞という瑕疵も持つカルタン伯は、それに該当する。
だがライナスが解せないのは、そう訴えたのが伯の夫人である点だ。些かどころでなく悋気が過ぎるものの、糟糠の妻として伯を支えてきた古女房である。それがどうして夫を訴追するというのか。
「またカルタン伯、さること一週間前、マルラン子爵トゥリウス・シュルーナン・オーブニル卿の下より、奴隷を略奪せり」
ざわ、と傍聴人が色めき立った。
被告席のカルタン伯は、怒りからか、心外であると言わんばかりに顔を紅潮させている。自分は娘を取り戻しただけである。どうしてそれを衆人環視の下で指弾され、略奪とされなければいけないのか。伯はそう思っているだろうし、ライナスとしても腑に落ちない。
あの奴隷の娘は、性根はともかく血筋は確かに伯爵の子なのだ。今なお信じられない思いであるが、ラヴァレ侯爵の調査書類は何度も検めている。であれば、妾の子とはいえれっきとした貴族の令嬢が不当に奴隷に落とされたということだ。返還を要求する権利は、カルタン伯が有するはず。
その疑問には、訴追状の続きが答えた。
「――更には、その奴隷を実子と偽り、子爵の返還要求を拒否せん為の手管とす。これ、誠に王国の法度に背くこと甚だし」
(なんだと!?)
ライナスは思わず目を見開いた。シモーヌも瞠目するが、彼女は単に驚いただけだろう。しかし、事の真相を熟知する彼は、それだけでは済まなかった。
奪った奴隷を、実子と偽った?
確かにそれなら、カルタン伯爵の正統性は失われるだろう。だがユニの正体は確かにアンリエッタ・ポーラ・カルタンなのだ。伯爵の実子のはずなのだ。
その事実が偽りなど、それこそ嘘八百でも無ければ有り得ない。
見れば被告人席のカルタン伯爵は怒り心頭であった。顔色は最早、紅潮を通り越して赤紫色である。これでは審理が終わる前に、脳の血管でも切れて倒れかねなかった。
「既に正嫡ある身でありながらの、この蛮行。伯の人品、その任に能うや甚だ疑問あり。よって同伯爵家正夫人として、夫君の退任を求め訴えるものなり。訴追人、ジョゼフィーヌ・ルイーゼ・カルタン伯爵夫人。――以上であります」
「ふざけるな!」
案の定、訴追状の読み上げが終わると同時に、伯は席を立って怒声を上げた。当然だろうとライナスも思う。訴えの内容はほとんど言い掛かりに等しい。奪った奴隷を実の娘と偽ったという下りなど笑止千万である。確かにユニとかいう奴隷が貴族の落とし子であるなど、ライナスとしても意外であった。だが確かにあの奴隷はアンリエッタと年齢も特徴も一致する。その上、令嬢が消息を絶った時期とトゥリウスが奴隷を買った時期も同じだ。
これだけの符合があるのだ。伯の行動を娘を取り返す為以外に理由があるとするなど、不可能である。それ以外のどんな動機があり得るというのだ。
裁判長が木鐸を叩く。
「被告人は静粛に」
「くっ……」
不服げに唸る伯爵。だが席には戻らなかった。どうせ次は被告人の意見陳述である。
裁判長もそれを咎めずに続けた。
「では、被告人。意見があれば申し立てるように」
「はい。裁判長」
カルタン伯爵は着衣の襟元をしきりに正すと、席から前に進み出た。
「この訴えは事実無根であります!」
「事実無根とは、訴追状のどの部分であるか?」
「――全てです!」
老いた伯爵は喚くようにそう言って、原告団の中心に坐す妻を睨む。
流石に自ら夫を告発したのは堪えたのか、ジョゼフィーヌ夫人の顔色は悪い。それにしても、あれだけ夫に執着を見せていたのに、よくもまあこのような訴えを起こす気になれたものだ。
(十中八九、トゥリウスが糸を引いていようが……)
ライナスはジョゼフィーヌの隣に座り、微かに頬を吊り上げた表情を晒す弟を睨んだ。
あの披露宴以来、ライナスは常にトゥリウスを監視下に置いてきている。普段は屋敷の中で見張りを張り付けて軟禁し、外出は自身が連れて行く社交があるのみ。間違い無く、伯爵夫人と接触する機会は無かったはずだ。法廷で席を同じくしていることからも、この二人が組んでいることは明白である。だが、どうやって?
(それにしても……)
視線はトゥリウスの更に隣、奇態なことに法廷へメイド服で現れたユニへと移る。
自身と母親の仇がすぐ傍にいるというのに、彼女は平然としていた。よくよく、あの元奴隷も面の皮が厚い。きっと主人に似たのだろう。
それにしても高等法院からの召喚に際してメイド姿とはどういうことか。酔狂にも程がある。
(あれではまるで、メイドに戻りに来たと言わんばかり――待てよ?)
瞬間、絵図がはっきりとライナスの脳裏に浮かんだ。
「それにしても、どうしてジョゼフィーヌ夫人はこんな訴えを――」
「……それはだな、シモーヌ」
疑問を口にした妻に、それを答える。
「あのメイド……よりにもよって伯爵夫人と組んだのだ」
「彼女が? そんなまさか」
シモーヌは笑った。ジョゼフィーヌ伯爵夫人はアンリエッタ嬢からすれば、親と自身を追い出した仇である。シモーヌは知らないことだが、ラヴァレ侯爵の調べが確かなら、その上に口憚る惨い仕打ちまでされているのだ。そんな相手と組もうなどと、考えられることではない。
だがライナスは首を横に振る。
「分からぬのか、シモーヌ? 十一年前の事件さえ度外視してしまえばな、あの二人には利害が一致している部分があるのだよ」
「……何ですって?」
「まあ、聞け」
戸惑う妻に対し、噛んで含めるように聞かせた。
「第一に、ジョゼフィーヌ夫人は自分の息子を、要らぬ介入を受ける前に、カルタン伯爵家当主として立てられる」
カルタン伯爵の息子は、噂を聞くだに盆暗である。そんな子どもしか世継ぎのいない家に、新たに適齢期の隠し子である娘を抱え込めば、どうなるか? 御家騒動の種だ。男ほどではないが娘でも十分に厄介である。下手な婿を取れば、庇を貸して母屋を取られるなどということもありうる。またカルタン伯の常軌を逸した入れ込みようからして、いざとなれば女伯爵として直接彼女に後を継がせることもあるかもしれない。
ラヴァレ侯爵は、それを避ける為という口実で彼女をトゥリウスに押し付け、首に着ける鈴ともする策を用意していた。だがその話は、ジョゼフィーヌには通されていない。彼女にはあの婚儀の席で心底驚いて貰う必要があったし、あれ程我の強い女を陰謀に噛ませれば、引き換えにどんな要求をされるか分かったものではない。ともあれ、事情を飲み込めぬまま、息子が御家騒動に巻き込まれる可能性を悟った夫人は、さぞ動揺したことだろう。
ジョゼフィーヌは妻であると同時に母親だ。腹を痛めて産んだ息子、それも老いらくの子である。その危難となれば、執着していた夫を切ってでも息子の為に動いたとして、然程おかしくない。危機を招いた張本人が当のカルタン伯なら、尚更だ。
「加えて言えば、自己の保身もな。何せ十一年前に自ら追い出した小娘が、当主の一声で返り咲いたのだ。夫人の家中における権威は大きく傷ついただろうし、生き別れの娘に入れ上げているカルタン伯なら、娘の地位を守るために夫人の非を鳴らして離縁、ということもあり得る」
老いに差し掛かった女が離縁されれば、その先に愉快な未来など待っていはしないだろう。生活の規模を縮小するだけでなく、社交界からの蔑みを買うのは必至。伯爵夫人ジョゼフィーヌは気位が高いと聞くし、夫と共に成り上がりで今の地位まで上って来たということもある。今更になってそんな境遇に落とされることには耐えられまい。
「第二に、あのメイドのトゥリウスに向けた忠誠心は異常だ。伯爵令嬢などと言う降って湧いた地位と生き別れた父親、そして母の仇。それらを一顧だにせず投げ出してまで帰参を願ったとしても、不思議ではない程にな」
何しろ、あの【奴隷殺し】の所業に十一年間も手を貸し従い続けて来たのだ。いくら奴隷服従の魔法があるとはいえ、望まぬままにあんな行いに手を染め続けて、心を病まないはずがあるまい。実際にオーブニル家の家人の大半は、トゥリウスの実験、その片鱗に触れた程度で神経を参らせて辞めていったのだ。それに間近で関与しながら平然としている、ユニこそが異常なのである。
どれほど外面を美しく取り繕おうと、あの奴隷の本質は弟の狂気に追従するもう一人の殺人鬼だ。調べたところによると、トゥリウスを侮辱した相手を始末した事例は一度や二度ではない。そんな狂女なのだ。仇敵と一時手を組み、父を伯爵家当主の座から引きずり下ろしてでも、主の元へ帰ろうとする。それが自然な帰結だろう。
「つまりは遺恨さえ水に流せれば、あの二人が手を組み、カルタン伯を陥れようとするのも、十分にあり得ることなのだ」
あのラヴァレ侯爵さえ見落としていた盲点である。まさかジョゼフィーヌに遺恨を捨て、夫を切り捨ててまで、息子の将来を安堵しようという一面があったとは思わなかった。幾ら自分の尻にも火が着いていようと、だ。
それにあの言葉少なな奴隷メイドが、狷介な貴族の老女を口説き落とせる手腕を備えていたなど、想像の埒外ですらある。
「確かに筋は通っているわね」
「ああ、筋はな」
シモーヌの反駁に、ライナスも肯く。
ユニとジョゼフィーヌが手を取り合う可能性があるのは分かる。だが、それと裁判に踏み切るほどの勝算がこの訴えにあるかどうかは別問題だ。
訴追状に記されていたのは事実無根も良いところの出鱈目だ。これで勝てると思ったのなら、それこそ女の浅知恵も良いところである。
果たして、被告人席のカルタン伯は、憤激を見事に抑えて整然と反論を繰り出していた。
「まず、私は家中の風紀を乱すような乱行をした憶えは無い! もしも十一年前の件を言っているのであれば、私がアンナマリーを妾として囲ったのは、世継ぎの為である。事実としてアンリエッタが生まれたのは、ジョゼフィーヌが息子を産む前だ。それに子が幼弱である内は、万が一に備えて庶子を複数儲けておくことも当主の責務の内であろう? その為に十一年前まで彼女を囲っていたとしても、罪には当たらん!」
その通りである。元を正せば、ジョゼフィーヌが四十の大台を越すまでに子をもうけられなかったが為、カルタン伯は他の女を試したのだ。それに熱中したのは、余禄でしかない。また貴族の子として恵まれた環境下にあるといっても、乳幼児は死に易い。それを思えば、正妻が嫡子を産んだ後も、初子を産んだ妾を留め置いていても問題はあるまい。
だが、
「異議あり」
ジョゼフィーヌは挙手しつつそう言った。
「原告代表、異議を述べることを許可する」
「ありがとうございます、裁判長。では、異議を申し立てます……被告人は問題を摩り替えようとしておりますわ」
「何だと!?」
夫人の言に、伯爵は眦を決した。
それに対して、裁判長は手にした木槌で木鐸を軽く叩く。
「被告人。原告の異議はまだ終わっておらぬ」
「……はっ。失礼をば」
伯爵は素直にその命に従った。無論、引き下がる瞬間に夫人へと憎々しげな視線を送ることは忘れなかったが。
ジョゼフィーヌは、それに何の感慨も持たないように平然と続ける。
「では、続けます。実のところ、夫の目に余る行いは、今現在に至るまでに続いているのです」
「何と」
裁判長は軽く眉を跳ね上げた。一方、被告である伯爵は小さく嘆息をする。何を馬鹿なことを言っているのだ、とその表情は語っていた。
「我が伯爵家では、恥ずかしながらメイドの入れ替わりが激しゅうございます。……その原因は、なべて夫のピエール・シモンに帰するものなのです」
夫人は更に馬鹿なことを言い出した。その言葉に傍聴席がざわつく。
「聞かれたか?」
「ああ。まるでカルタン伯がメイドに手を着けているとでも言いたげな……」
「滅多なことを申すな。それに噂では――」
「……異議あり!」
今度は被告側が異見を唱えた。
「当家でメイドに暇を出していたのは、そこなジョゼフィーヌの悋気が全ての原因である。それも下衆な勘繰りによる、見当違いのなっ!」
まくしたてるカルタン伯爵。ライナスの知る限り、正しいのはカルタン伯である。ジョゼフィーヌの異常な嫉妬深さは、トゥリウスの悪名ほどではないが有名な話だ。聞いた話だけでも、夫と口を利いただけのメイドに花瓶を投げつけ額を割っただの、酷い引っ掻き傷を負わせて家を追い出しただの、そんな例が幾らでも出てくる。
それは傍聴席の貴族たちにも周知のことだ。
だが、
「裁判長」
ここで、よりにもよってトゥリウスが手を上げた。
「これではやった、やらなかったの水掛け論で時間を空費する恐れがあります。裁判を無駄に長引かせるのも、良くないですよね?」
「で、あろうな」
「なので、ここは事を言い出された伯爵夫人に、論拠となる証拠の提出を求めるのが筋かと。このような場合は、言い出した側に証明の責任が帰されると記憶しておりますが」
ライナスは失笑する。
いけしゃあしゃあと、よくも言えたものだ。夫人と同席する原告陣営でありながら、まるで他人事のような物言いである。これで夫人が何ら証拠を出せなかったら、墓穴を掘ったも同然の行為ではないか。手放した元奴隷に全てを任せて、屋敷に閉じ込められてばかりいた男の言うことではない。やはり愚弟は愚弟だった。
「確かに、卿の申す通りである。では原告代表、論拠となるものを提示出来るか?」
果たして夫人は、
「はい。控えの間に証人を数名、呼んでおりますわ」
そんなことを平坦な語調で口にした。
「馬鹿な」
カルタン伯爵は憤慨する。
「私は誓って、屋敷のメイドに手を出すような真似をした憶えは無い!」
「それは証言をお聞きになった判事の方々がご判断なさることでは?」
抜け抜けとそう言うトゥリウス。
この男の態度は、一体何なのだ? ライナスは疑問に思った。彼とジョゼフィーヌに連携は無い。あるのはあくまでアンリエッタ――いや、ユニである。トゥリウス自身には、伯爵夫人と連絡を取る余地は無かったはずだった。
それがどうして夫人の用意した証人に、全幅の信頼を置いているかのような態度が取れるのか。
疑問を余所に、裁判は進む。
「では、原告側の証人から証言を取る。入れたまえ」
「はっ」
促されて入廷してきたのは、六人ほど。いずれも若い女だった。年の頃は、最年長が三十前後で最年少が十代後半。おおよそ二十代。それなりに見目良い女性ばかりであるが、服装は草臥れている。おそらく平民であろう。目を引いたのは彼女らの中に、顔に大きな傷をこさえた者が二人程いたことであった。
「原告に問う。貴女が呼び立てた証人たちは、何者であるか?」
裁判長の問いに、ジョゼフィーヌは幽鬼めいた青い顔で答える。
「いずれも主人と不貞を働き――私が屋敷から追放した元メイドにございます」
「何と!?」
老夫人の告白に場内がどよめく。
「これは異な……密通した当人たちに、夫への弾劾の助力を求めるとは」
「しかも、あのジョゼフィーヌ夫人がであるぞ?」
「噂通り、顔に傷を負わされた娘もおるではないか。よくもまあ、証人の役を承知させたものよ」
傍聴人たちは戸惑いを隠せない様子で囁き交わし合う。証人として集められた女性は、ユニほどではないが皆、ジョゼフィーヌによって辛い憂き目を見た者ばかりのはずである。それが夫人の側に立って証言を行うとは、どういうことか。少しでも事情を知る者なら、誰もがそう思い混乱を覚えるだろう。
そしてこうも思うはずだ。
――夫人の被害者までが弾劾に立つのだ、伯爵の乱行も或いは事実やも?
と。
「……異議あり!」
風向きが完全に変わる直前、ラヴァレ侯爵が手を挙げた。
「裁判長。見れば今入廷した証人たちは皆、生活に窮しておると見受けられる平民。被告の側に立つ身としては、証言の信憑性に対して些か危惧を覚えざるをえませんな」
「彼女らが原告から買収を受けているとでも?」
「左様」
我が意を得たり、と肯く侯爵。
確かに、生計が立たぬ中で金子を差し出されたとなれば、憎い相手の手を取ることもありうる。実際、己の目的の為に、自分と母をゴロツキどもの贄に供した夫人と結託した娘が、すぐそこにいるのだ。
だが、
「異議を却下する」
「何と?」
裁判長は、それを退けた。
「平民である故、貧しい故……確かにそれは買収の温床となりうるであろう。だが、それは貴族も同じことではないか。爵位、序列、格式、由縁、利害……証言を枉げさせる術は幾らでもある。それにかかずらい、証言台に立つことすら拒んでいては、審理は成り立たぬ」
正論である。偽証、買収の疑いは、証言と事実に矛盾などが見られてから初めて検証されるべきで、実際そうしなければ裁判は二進も三進も行かなくなるのだ。
あのラヴァレ侯爵が、そんな初歩的な理屈をここで違える訳は無い。
(何を考えている、妖怪め……)
立場上味方であるはずのライナスも、困惑した。
勿論、これがただのミスであるとは思わない。何か隠避で深甚な考えがあるはずだ。だが、それが読めないのである。
侯爵は深く嘆息するが、それがわざとらしく見えるのは、あの老人の性根を知っている所為だろうか。
「裁判長は証人の出自ではなく、あくまで証言の内容を以って此度の訴えを裁かれると?」
「左様」
「……承知しましてございます。いや、言われてみれば至極もっとも」
形ばかりの抵抗を示して、席に戻ったラヴァレ。
それを見る裁判長の目に、微かな愉悦の色が浮かんでいた。恐らくはラヴァレに隔意を抱いていただろう。王国の法典と権威で以って貴族をも裁く高等法院は、中央集権派にとって地方貴族を粛清する格好の道具だ。今までにも散々こき使われてきたことだろう。時にはラヴァレの指図で、意に沿わない判決を出したこともあったかもしれない。それが今や、そのラヴァレが被告側に座って弁護に奔走しているのだ。正論とこの訴えを裁く立場とでやり込めることが出来、嬉しいのだろう。
(あの爺もよくよく嫌われている)
勿論、あの愚弟ほどではないだろうが、とライナスは口の中だけで呟いた。
「では、原告側証人。順番に証言を」
「は、はい……」
裁判長に促されて、証人の元メイドたちが順繰りに証言を始める。
その内容は、
「やだっ……」
とシモーヌが顔を赤らめるほど、赤裸々なものであったとしかライナスには言えない。
当然、証人も素面で諳んじられるような代物ではなかった。証言台に立つ元メイドの女性たちは、自身も赤面したり、或いは大罪を告解するように青褪めたりしながら、途切れ途切れに語ったのである。
伯爵がメイドにした行いが、如何に破廉恥で無体であったかを。
「じ、事実無根だ! 私は、私はそのような――!」
「静粛に! 静粛に!」
己の潔白を喚いて訴えるカルタンに、裁判長は何度も木鐸を叩いて命じた。
法廷内のカルタンを見る目は、加速度的に冷たくなっていく。
傷物にされたという女性が、これ程の内容を包み隠さず語ったのである。これでは伯の私生活に目に余る乱行があったというのも、あながち嘘とはいえぬのでは? と。
そこで、今まで黙りこくっていたユニが動いた。
「奥様。旦那様はまだご自分の非をお認めになられないようです」
「……ええ、そう、……ですね」
それに応じる伯爵夫人は、ますます顔を青くしている。やはり長年連れ添い、しかもあれ程に執着した夫を訴えるのは辛いのだろう。だったら余計なことをするな、とライナスは思ったが。
裁判が終わる前に倒れそうな老女に対し、鉄面皮のメイドは更なる要求を口にする。
「斯くなる上は、更に証人をお呼び立てすべきと愚考しますが」
更なる、証人?
辛うじてそれを聞き咎めたライナスは、目を瞬いた。
ただでさえ元メイドの女性たちの集中砲火だというのに、まだ証人がいると言うのか。
伯爵夫人は、死人のような顔、人形じみた挙措で首肯する。
「そう、ね。……裁判長。他にも屋敷の家人を、連れて参っております。……彼らからも、証言を、させましょうか?」
屋敷の人間。
そういえばこれは、カルタン伯爵を当主から引きずり下ろす為のものだった。不義や乱行の立証はその手段に過ぎない。当主交代を目的としているならば、その影響を直接に受けるだろう者たち――伯爵家の家臣や使用人の協力を得ていない筈が無いのである。
そうでなければ、この動きが密告などでカルタン伯が事前に知るところとなるし、成功しても巻き返される恐れもあるのだから。
「認めよう。原告側から、更に証言を」
裁判長の許可の元、入廷して来たのは執事などの屋敷に仕える男たち。
彼らが元メイドたちの証言を追認するに至り、カルタン伯はこの世の終わりでも来たかのように青褪めて、身体を傾がせた。
※ ※ ※
今のところ、全てが順調に推移していることに、ユニは軽い満足感を覚えていた。
屋敷を解雇された元メイドや家人の証言に、そして何より夫人の訴追。
その全ては言ってみれば彼女の仕込みである。
――洗脳の魔香。
魔眼を移植された『作品』であるドライを手に入れる以前から使っていた、馴染みの道具だ。即効性と強制力では魔眼に劣るものの、生半な人間には抵抗出来ない強力な洗脳手段である。
無論、身一つで伯爵家に拉致――彼女の主観では――された際には持っていなかったものであるが、ここは長年冒険者として活動してきたブローセンヌの街だ。
ダークエルフであるドライをして「人間とは思えぬ」と言わしめたユニほどの魔力なら、街の周囲にあるダンジョンに直接転移して、調合に必要な素材を狩り集めるのはそう難しくない。
彼女にもラヴァレ侯爵の手の者と思しき監視は着いていたが、それらがいたのは屋敷の外だ。夜間にカーテンを閉め切った部屋で≪グレーター・テレポート≫を用いれば、まず捕捉されない。戦闘用の『作品』かそれに近い実力者でもなければ、殺気すら感知させないというユニの隠蔽能力。それを以ってすれば、大魔術の行使すら隠してのけられるのだ。
そうして素材を集め、伯爵家の調合室を使って香水の調合を行った。このプロセスが一番大変だったと彼女は思う。何しろ設備がこじんまりとしている上に器材が古く、何かと不便であったのだ。あれではオーブニル本邸の旧地下室の方がましだった、という最初の感想は正しかったのである。
苦労して調達した香水は、惜しみなくふんだんに使った。屋敷中の人間を洗脳して回り、解雇されたメイドの行き先を調べてそこへも向かってまた洗脳。そうやってこの状況を整えたのである。
一週間という短期間、単身でそこまでするのは流石にユニも骨が折れた。だが、その成果がここに表れているというのに、横に座るトゥリウスに深い感銘は見られない。
(ご主人様は、私ならばこれくらいは出来て当然とお考えでいらっしゃる……)
その認識に、頭の芯がカッと熱く痺れた。
そこに主人からの、全幅の信頼と無謬の理解を感じたが故に。
みすみす敵の姦計に落ち、役立たずどころか足手纏いにまで堕した自分を、そこまで信じていてくれたのだ。彼女なら挽回出来ることであると、正確に解っていてくれたのである。
湧き上がる喜悦にドロリと溶け崩れそうになる表情を、懸命に常通りのものへと保つ。傍から見れば毛筋ほども動かない顔の下では、溶岩めいた熱情が渦を巻いていた。
(……いけません。裁判に集中しなくては)
ユニはそう思って、精神を引き締める。
主人に仕える日々がこの手に戻ってくるかどうかは、この裁判に懸かっているのだ。そしてそれは、決して油断の出来る勝負ではない。現状はこちらが有利であるが、相手にはラヴァレ侯爵という熟達の陰謀家が付いている。いざとなったらどんな手を繰り出してくるか、分かったものではないのだ。
「カルタン伯乱行の事実については、この辺りで良かろう」
「裁判長……! こ、抗弁の機会をっ!」
「何ぞ、証拠や証人に心当たりが?」
「うっ……」
裁判長の一睨みに、伯爵は言葉を詰まらせる。
無論、そんな物に心当たりがある訳は無い。本来であれば彼の潔白を立証してくれる筈だった家臣たちは、ジョゼフィーヌ側で証言台に立ったのだ。
家中の事情に通じた者たちの言葉を覆すだけの証拠など、そうそうありはしない。
「無いようだな。では、却下。証人、物的証拠共に被告側は備えていないと判断する。審理を次へ進める」
カルタン伯の嘆願を無視して、裁判は進んだ。
訴追状の内容は、まず伯爵が家中の風紀を乱したこと、次にトゥリウスからユニを奪ったこと、最後に奪ったユニを娘であると偽ったこととある。この三つの訴えの内、まずは一つを認めさせることに成功したのだ。だが、この三本勝負は勝ち越した側の勝訴と言う訳でもない。
トゥリウス側の勝利条件は、プランDの発動期日の前にユニを取り戻すこと。つまりこの裁判が後日まで長引けば、その段階で負けである。後は彼女を置いて逃げ出すしかなくなる。
それを避ける為には、この審理で完勝を収め、今日の内に審理を決着させる他ないのだ。
裏で糸を引き、またプランDの存在を知らないラヴァレとライナスにすれば、裁判が長引いてトゥリウスが王都に留まる事態は歓迎しているだろう。計画に若干の変更を加える必要はあるだろうが、彼がここにいる内に婚姻を結ばせる策は十分に使えるからだ。その相手は、何もユニでなくても良い。策に用いるのに好条件であるカルタン伯爵家に拘泥しなくとも、婚姻に使うだけなら、貴族の娘は他に幾らでもいるのだから。ラヴァレも鶏肋を切り捨てるに、今更躊躇いを覚えるような性格でもないだろう。
訴えの渦中に置かれたカルタン伯なら兎も角、ラヴァレ侯爵陣営にとってこの裁判は、三本ある内の一本でも取れば勝ちと言える勝負。端からこちらが不利なのである。
……だが、ユニとてその勝負に勝てると踏んだから、この手を取ったのだ。
「続いての審理は、トゥリウス卿の下からの奴隷強奪についてである。原告側は意見を陳述せよ」
「あ、はい」
裁判長から促されて立ったのは、トゥリウスである。この訴えでは彼が奴隷を奪われた被害者であるから、当然であった。
のんびりとした歩調で証言台に向かう主を、ユニは眩しいものを見るように目を細めて見送った。
「えー、さる一週間前、当家の本邸において我が兄、ヴォルダン伯爵ライナス・ストレイン・オーブニルの結婚披露宴が催された際のことです」
トゥリウスはそう切り出した。
おそらく、この裁判を傍聴しているだろうライナスは、名前を出されてさぞ顔を顰めているに違いなかった。
「カルタン伯は、ジョゼフィーヌ夫人が僕の奴隷、ユニの特徴が――」
僕の奴隷。主が自分を指してそう呼ばうことに、ユニは至福を感じた。鼓膜から脳に至った振動が、シナプスに多幸感を叩き込みながら頭の中を攪拌していく様を幻視する。
「――伯のかつての側妾アンナマリーさんと同じ、黒髪緑眼であることに、大変驚かれたそうです。それを切っ掛けに、伯も彼女を認めると同時に見初め、ユニの所有者である僕へと――」
更には『所有者である僕』と来た! 居並ぶ王国貴族の前で、自分こそがこの卑しい奴隷の唯一無二の主人であると、高らかに宣言したのだ!
ユニはもう、感動で頭がどうにかなりそうだった。いや、これは既に感動を超えて官能の領域にすらある。腹の奥が切なく窄まり、胸の鼓動と同期して脈打っているようにすら感じられた。
勿論そんな反応は、表にはおくびにも出さない。高等法院の審理の場で、不審な挙動や表情を晒す程の愚は無いからだ。
彼女は無表情を保ったまま胸に手を当て、内心の興奮を鎮めた。
「――身柄を引き渡すよう、要求なさいました。その際、要求の正統性を担保しようとお考えになられたのか、彼女がご自身の実子であると虚偽を述べられてもおいでです」
「異議あり! アンリエッタは、真実我が子である!」
カルタン伯が、見苦しくも割り込んだ。折角の主のお言葉に何と無粋な、と彼女は不快に思う。
裁判長も呆れたように二度、手にした木槌を振り下ろした。
「異議を却下する。今現在はその事について問うてはおらぬ」
「ぐぬ……!」
「ありがとうございます、裁判長。……では、続けますね。そして僕は、伯爵がなさった要求を拒めませんでした。何しろ、あの場にはそちらのラヴァレ侯爵もお出でであり、カルタン伯の主張に同意なさってもいました。若年であり軽輩でもある僕に、拒む術があったでしょうか? なので、嫌がる彼女を泣く泣く手放し、いずれ法理に照らして返還がなるまで、閣下の御許へお預けすることとしたのです。……以上であります」
トゥリウスの意見陳述が終わる。
何度思い返しても悲しい出来事であった。あの時に砕かれた首輪は、十一年前から肌身離さず身に着けていた大切な物だ。魔法の力を帯びた首輪は、装着者の体格の変化に応じて大きさを変え、常にその身を戒め続けるのである。だからあれには、彼女の成長と彼との思い出が刻み込まれていたのだ。
それを主自身の手で破壊せねばならないまで追い込むとは――本当にラヴァレとカルタンには恨み言が尽きない。
ユニの黙考を余所に、裁判長はカルタンの方を見やる。
「被告人、訴えに対して反論は?」
「……はいっ! 裁判長!」
伯爵は気力を振り絞って返事をした。
先程、あんなに打ちのめされていたと言うのに、呆れた立ち直りの早さだった。自分の魔法の素質と諦めの悪いところは、成程、確かにこの男に似ているかもしれないと思う。
血の繋がった娘に倦厭されているとは露知らず、カルタン伯は胸を張って反論を述べる。
「原告、トゥリウス・オーブニルは偽りを述べております!」
「被告人。原告の述べた偽りとは何か?」
「私が彼女が我が実子であるという訴えを、偽りと断じたことです! この男はあの日、確かにアンリエッタを我が娘であると認める言葉を口にしました!」
二本目も貰った、とユニは思った。
伯にその言葉を言わせることこそ、この訴えの狙いだ。そうなるように最初から仕組んである。
彼女がしたことではない。
彼があの日から仕込んでいた策だ。
「異議あり」
そのトゥリウスは、伯の反論に真っ直ぐと挙手する。
「僕はそのような言葉を、一言たりとも口にした憶えがありませんが?」
自信満々な断言だった。
満天下に恥じること無いと言うような言い切り方である。
きっと、静謐でありながら晴れがましい表情をしているだろう、とユニは察した。席に着いたままでは、立って前に進み出た彼の顔を見れないのを残念に思う。だが、すっと伸ばされた背中の凛々しさも、それはそれで彼女の目を満足させたのであった。
それはさておき、カルタン伯はその異議に激昂した。
「何を馬鹿なことを言う!? 貴様、自ずから首輪を外して娘を引き渡したではないか!」
(本当に怒りっぽい御仁ですね……)
ユニは呆れると同時に、自分も主が絡むと度を失しやすい性格であることを省みて恥じた。共に気の短いところはやはり親子か。
「おやおや、僕があの時申し上げた言葉をお忘れですか? ねえ、ユニ?」
言いながら振り返る主に、彼女は肯いた。
仕込みの方はどうかという確認である。
勿論、ユニはカルタン伯にも洗脳を仕込んでいた。あの屋敷中の人間を洗脳して回ったのである。それでどうして、その主人を例外に出来ようか。それにこの男をどうにかしない限り、彼女は主の元へは帰れないのだから。
彼女が伯に施した洗脳は、
「……お、憶えておるとも」
「では、諳んじることもお出来になりますね?」
「無論だ。貴様はこう言った……『斯くなる上は、僕が手ずから外した方が穏便に事を運べると思いまして』と」
――『トゥリウスの質問に、正直に答えること』だ。
カルタン伯は腐っても元宮廷魔導師で、ユニにその素養を受け継がせるほどの魔力を持つ。それが抵抗力となる為、洗脳の効きは弱く、トゥリウスに対する敵意と娘への執着から、ジョゼフィーヌらにしたような無理な暗示は仕込めない。
だが、質問に答えさせる程度ならば。嘘を吐くという罪悪感から逃れられるという、行動の正当性を保証してやれる内容ならば。
……暗示は、問題無く通る。
トゥリウスは、得たりと笑った。
「その通りです。僕はそれが事を穏便に済ませられる手段であるから、彼女の首輪を外したのですよ。何故なら事は披露宴の真っ最中で起きたのですから。カルタン閣下は、新郎である僕の兄と同格の伯爵であり、年功においては僕ら兄弟を合わせた程に勝っておられる御方。そんな方が『娘が奴隷にされている』などと騒ぎ立てては、大変なことになるではないですか!」
そしてカルタンの背後に座すラヴァレ侯爵に視線を向ける。
「ねえ? そんな事態は避けたいと思いますでしょう? あの婚儀の仲人を務められたラヴァレ侯爵閣下?」
「……確かに、晴れの披露宴でそのような騒ぎとなれば、貴卿の兄君の面体も危ういかものう」
ラヴァレは微かに鼻を鳴らしながら言った。媒酌人としての立場上、そして有職故実に通じ格式を守る高位貴族である以上、こう聞かれたらそう答えるしかない。
そして、トゥリウスにその言を許すに至る失言をしたカルタンへ、忌々しそうな視線をくれる。
この老政治家は、カルタン伯が若造の挑発に乗って、迂闊に正直な答えを口にしたとでも思っているのだろう。伯が空惚けるなり何なりすれば、容易に防げたはずだと考えているに違いない。
だがそれは無理なのだ。
それをさせない為に、ユニは暗示を掛けたのだから。
「さて、そもそもの争点は、僕がユニをアンリエッタ嬢であると認めた認めないの認否でしたね? では伯爵、失礼ながらお尋ねします。……一体、どうしてそんな風にお思いになられたので?」
「貴様は……お前は! 確かにアンリエッタを伯爵家令嬢に相応しい言葉遣いをするよう、諭したではないか! そのような口の利き方はするなと! もっと気安く呼んで構わないと!」
「その通りじゃ。そして儂がそれを褒めそやしたのに、トゥリウス卿は肯いたはずであるぞ?」
ラヴァレ侯爵も、流石に失策を犯したカルタンに全てを任せはしない。すかさずそう口を挟んでくる。
しかしトゥリウスが、ユニの敬愛する主人が、一週間も前からこの展開を読んでいながら、それに備えていないはずなど無いのだ。
「えー? それは誤解なのではないですか?」
「誤解? これは異なことを言う」
「絶対に誤解ですよ。侯爵閣下は、何か思い違いをしていられる」
明確な答えを避けて敢えて間を置き、相手の苛立ちを募らせる言い方でのらりくらりと躱す。
そうすることで次の展開への不自然さを打ち消しているのだ。
焦れた裁判長が堪らず木鐸を叩こうと木槌を持ち上げる直前、
「カルタン伯爵! 僕は『そんなことはありませんよ』と言いましたよね!?」
「っ!? カル――」
「それがどうしたっ!?」
侯爵が遮る間もなく、この問答が成立すると言う展開を。
一拍遅れて、カンカンという木を叩く音が響いた。
「原告、この問答の意味するところは何か?」
「その前に裁判長、念の為にもう一度、正確な問いをカルタン伯爵に投げ掛けたく思います。……カルタン伯爵、侯爵閣下はあの時、僕の言動を彼女を自分と同格の貴族として遇しているように捉えていられた。それに対して僕は『いえいえ。……そんなことはありませんよ』と言ったはずです。違いますか?」
「確かに言った! だが、それがどうしたと聞いて――」
「……お聞きになられましたね、裁判長!?」
トゥリウスは高みにある裁判長席を振り仰ぐ。
その拍子に、ユニにも彼の横顔が見えた。
自信に満ち、機知に溢れた笑顔である。実験を終えて、手応えを得た時と同じ顔だ。彼女は何度も見た表情であるが、やはり幾度となく見返しても良いもので、決して飽くことは無いと思う。
裁判長は肯いた。
「ああ、聞いた。カルタン伯は『確かに言った』と発言したな。記録係も記帳済みだ」
「ありがとうございます。……この通り、僕はラヴァレ侯爵の言を、『そんなことはない』と否定しているのです。お相手となる侯爵が一介の子爵である僕より高位の貴族であり、また年長であり、兄に対しては婚儀の仲人であると同時にお引き立て頂いた恩人である為、否を唱える言も出来得る限り柔らかくなるよう心掛けたまでです」
そしてトゥリウスは再びラヴァレに向き直る。
「それが謙遜のように聞こえて侯の過たれる原因となったのは、この僕の無教養故の不徳でしょう。もう少し適切な言い回しがあったかもしれませんね? その点に関しては申し訳無く思っております」
「トゥリウス卿はあくまで、貴殿の奴隷がアンリエッタ嬢であると認めていないとな?」
「今度は誤解されぬよう、はっきりと申し上げましょう。……はい、一度たりとも認めておりません」
力強い断言に、老侯爵の顔が歪んだ。
「では、彼女に言葉遣いを改めるように言ったのは何故かの?」
「僕はあの時、彼女に向かってこう言ったはずです。『婢のようなお言葉遣いはよろしくありませんよ、貴女? それでは伯爵閣下が悲しまれます』、と。単にカルタン伯が、彼女が奴隷めいた口調だったことにご不快に思われたようでしたから、それを改めるよう命じたまでです」
「奴隷に命じるには、畏まった口調だが?」
「已む無き仕儀であると愚考します。何せ、カルタン伯は彼女を奴隷扱いすると大層お怒りでしたからね? そんなにお嫌でしたかね……カルタン伯?」
「当たり前だ! 何処の世界に、自分の娘を奴隷とされて喜ぶ父親がいる!?」
暗示に従い、問いに対して素直に思ったことを答えるカルタン。
傍目には激昂してポロリと口を滑らしたようにしか見えまい。隣のラヴァレ侯爵など、温厚な老爺の仮面を保ち切れず、ハッキリと侮蔑の色を目に浮かべていた。
ユニは傍聴席の中にライナス夫妻の姿を見つける。その若き伯爵も、老伯爵の醜態に失望がありありと窺える視線を注いでいた。わざわざ急な婚儀を行ってまで実行した策。それに多大な瑕疵を付けられたことを思えば当然だろう。
シモーヌの方は、どことなく面白そうにしていたが。
「このように烈火の如きカルタン伯爵のお怒りに、油を注ぐような真似を慎んだまでです。それをユニがアンリエッタ嬢であると認めたなどと、些かならず心外に思います」
「異議あり。トゥリウス卿はカルタン伯の要求に従う態度を示してもおる。伯に従うと、頭まで下げたはずである。違うか、トゥリウス卿?」
ラヴァレは最早カルタンに任せようとせず、自らの頭脳と舌でトゥリウスに挑もうとしていた。成程、海千山千の経験を誇る老策士が相手では、如何に英邁な主人といえど分が悪い。
「……そうですねカルタン伯に、頭は下げましたね」
だから、
「では、その時のことを証言して貰えませんか? カルタン伯、僕は貴方に頭を下げたんですからね!」
――絶対に、ラヴァレの用意した土俵では勝負しない。
難きを相手取らず、勝ち易きに勝つ。それが最も効率の良い勝負のやり方だ。
だが、すかさず矛先をカルタンに逸らされたことを悟って、侯爵もそれを阻みに来る。
「伯爵、ここは――」
「侯爵閣下、僕はカルタン伯爵閣下に聞いています。……裁判長?」
「うむ。カルタン伯、貴殿の証言を開陳せよ」
それも不発に終わる。公正な審理の為には、余計な口裏合わせは慎まれるべきであるからだ。
当然、裁判長は侯爵の入れ知恵など許さない。
カルタン伯は、血走った眼でトゥリウスを睨みつけてから口を開く。
「貴様はこう言った。『閣下の威光に服す者であれば、この程度の心配りは当然かと』とな。そうして我が言を受け容れておいて、今更何を――」
「はい、それです! 皆さん、お聞きになられましたね!?」
トゥリウスはパァンと掌を打ち合わせると大仰に両手を広げ、法廷中を見渡した。
「裁判長?」
「確かに聞いたが?」
「そこの判事の方?」
「え、あ、はい。聞きました」
「ラヴァレ侯爵閣下はどうです? いや、すぐお隣ですもの、聞き逃してはおりませんよね?」
「……。ああ、聞いたとも」
ラヴァレ侯爵も肯かざるを得ない。これで聞こえなかったなどとのたまえば、老齢故に聴覚の衰えありとして、聞き知ったことを証言するに信憑性が落ちるからである。
老侯爵の苦い追認に、彼は満足げに言う。
「そう、僕は伯爵閣下の『威光』に服したのです。断じて、彼の『正しさ』に従った訳ではありません。何せ僕は子爵で、婚儀の行われているあの夜においては、揉め事を忌むべき新郎の弟ですから。爵位で上回られ、かつ披露宴の賓客である伯爵閣下には、謙らざるを得ないでしょう。だからあの場では頭を下げて見せたのですよ」
「屁理屈だ! お前は私が娘を連れ帰っても構わぬと――」
「言いましたか?」
勢い込みかけていたカルタンが、ピタリと止まる。
「い、言っておらんかった……」
「はい。僕は兄に中座の事情を説明しておくとしか言ってません。どうぞ連れ帰っても構いませんよ、などとは、一言半句も申し上げた憶えはございませんよ。加えて言うなら伯爵閣下――」
トゥリウスは覗き込むように身を乗り出した。
きっと満面の笑みを浮かべていることだろう。
それを堪能できないのが、ユニには少し残念だった。
「――あの時、僕がユニがアンリエッタ嬢であると認める言葉を口にしたのを、一度でもお耳にしましたか?」
カルタンは再び顔色をどす黒い赤紫色に変える。脳の血管が切れて倒れないか、多少心配を覚えてしまう。もしそうなったら裁判が長引くから――まあ、最悪自分が死ぬくらいで収まるだろう。ユニは恬淡とそう結論付けた。
ぶるぶると震えながら、カルタンは口を開く。
「そ、それも……い、言っておらん、かった……」
そう、彼は一度たりとも彼女を手放すような旨の発言などしなかった。
単に伯爵がそう解釈するよう誘導しただけ。
……一晩時間を置くまで、そんなことにも気付けなった自分の不明を恥じる。
主は最初から彼女を取り戻すつもりだったのに。
「ですよね、僕は一度たりともそちらの主張を認めませんでした。それなのに彼女を連れ去られるに任せたのは、閣下らが僕より高位の貴族であり、かつあの場での揉め事を避けるため。なので、後日法理に照らし合わせて返還を求めようと考えたのですよ」
「き、詭弁だ……。お、お前は私の為に、部屋の扉まで開けたではないか……!?」
掠れた声で喘ぐように言うカルタン。
確かにあの晩、トゥリウスは自ら応接間の扉を開け、カルタンはそれを通って帰った。
だが、
「あれは侯爵閣下の為に開けたのですよ。……僕は貴方にお帰り願いましたか? ご退出を促しましたか? ……そんな言葉を言いましたか?」
トゥリウスは重ねてカルタンに問う。
彼はあの時、ただ扉を開けただけだ。お帰り下さいとも、宴にお戻りいただけませんかとも言っていない。
カルタンは娘を取り戻した気分に逸って、彼を無視するように勝手に出ていったのだ。自分の手を無理矢理引っ張って。
自業自得だ、とユニは思う。
「い、言ってなかったが――」
「異議あり! 裁判長、原告側は詭弁を弄し、事実を摩り替えております!」
堪らず口を挟むラヴァレ侯爵。だが、トゥリウスはその老翁にぴしゃりと言う。
「その異議に異議あり! 僕はカルタン伯に改めて事実関係と状況を認識して頂いているだけです。それを詭弁だ摩り替えだなどと決めつけられるのは、甚だ心外であります!」
「静粛に!」
裁判長は木鐸を鳴らして警句を発した。
「現状、原告側の証言や尋問に矛盾点は無く、被告の反証の内容とも合致している。よって詭弁には当たらぬと判断、被告側の異議を却下する」
「ぐぬ……っ」
老貴族は堪らずに呻いた。
あのラヴァレ侯爵が、中央集権派の首魁、王国全土の貴族が知る陰謀家がやり込められる姿。それを見た傍聴席がざわつく。
「原告は、まだ述べ足りないか?」
「はい。最後にもう一つ」
言って、トゥリウスはまたカルタンの方を向く。
「伯爵閣下。貴方はあの日、僕と会見を持った応接室から退出なされる際……挨拶は誰となさいました?」
「ら、ラヴァレ閣下にしたが……」
「僕にはどうです? 一週間前の披露宴の日、新郎の弟で親族代表だった、オーブニル家の次男には、この僕には、ちゃんと退出の挨拶をなさいましたか?」
「して、いない……」
答えは蚊の鳴くような小さな声だった。
「聞こえません。ちゃんと大きな声でもう一度お答えください」
「……していなかったと言っておる!」
「お聞きになられましたか皆さん!?」
トゥリウスは法廷中に響く声を張り上げる。
今やこの審理は彼が主役だった。年長の伯爵をやり込め、あのラヴァレ侯爵にすら一泡吹かせる年若い子爵。誰もがその一挙手一投足に目を奪われていた。
ユニには、彼の背中が眩く後光を放っているようにすら見える。
(素敵です、ご主人様……!)
思わず目を細めた彼女の視線を受けながら、トゥリウスの独壇場は続く。
「この通り、彼は僕に挨拶すらせずに帰られてしまったのです! しかも僕の奴隷を許し無く連れて! これが若輩かつ位が下とはいえ、貴族に対してする行いでしょうか? いいえ、他家の貴族、それも招かれた宴の主催者の肉親に為さることではありません。以ってカルタン伯には……王国貴族としての振る舞いが身に付いておられない!」
「黙れっ! この【奴隷殺し】がっ!」
それを遮ったのは、怒髪天を衝く形相のカルタンだった。
「貴族の遇し方だと? 振る舞いだと! お前のような男など、貴族と認められるか!?」
「勘違いしないで頂きたい、カルタン伯」
対する彼は至極冷静だった。
「この場でその身が王国貴族たるかどうか、審理されているのは僕ではなく貴方です。そもそも奥様は、それを問題にして訴えを起こされて訳でしょう? 僕がこの場に立っているのは、その為の証人として召喚されたに過ぎません。もう一度申し上げましょうか? 訴えられているのは貴方です。……その程度のこともお分かりにならないのですか?」
意地の悪い質問だった。
だが、ユニの手で暗示に掛けられたカルタン伯は、
「――そんなことはどうでもいいっ!」
トゥリウスの質問には、つまり彼が疑問形で発した言葉には、全て素直に答えることしか出来ない。
当然、聞かれれば思ったことは正直に言ってしまう。
普段なら自制出来たはずの、激昂の末に衝動的に湧いた考えも、全てだ。
「……あ? ……あっ」
咄嗟に口を手で押さえるも、文字通りの手遅れだった。
法廷内の人間がカルタン伯を見る目は、冬空の如き冷たさである。
自分の進退を取りざたされた裁判で、度を無くして『どうでもよい』と叫ぶような男など、誰が貴族、それも伯爵であると認めようか。
ラヴァレ侯爵は殺意すら窺える光を眼に宿し、足手纏いの手駒を見つめていた。傍聴席のライナスは、同格で年長の相手にも関わらずハッキリと侮蔑を表す顔で見下ろしていた。薬を効かせ過ぎたか先程から黙り込んでいたジョゼフィーヌ。彼女も夫の醜態に深い失望の色を目に湛えている。
王国貴族、元宮廷魔導師、伯爵。ピエール・シモン・カルタンを構成していた全てが、今や瓦礫めいて崩れ去っていた。
ユニは……どうでもよかった。確かに血の繋がった相手であるが、父親であるなどとは思ってもいない。彼を父だと愛し敬っていたのはアンリエッタである。その娘は十一年前に死んだのだ。ここにいるのは十一年前に生まれたユニである。彼女があえて父にあたる存在を挙げるなら、他ならぬトゥリウスだろう。母親は……彼が心得る錬金術だろうか。
しんと静まり返った廷内に、トゥリウスが朗々と吟じる声が響く。
「伯の貴族としての人品はご覧のとおりです。斯様な品性のままに、我が財産である奴隷を略取した罪を、改めて強く訴えたいと存じ上げます。ところで伯爵閣下?」
そして再びカルタンの方を向き直った。
「貴方は先程、僕を指して【奴隷殺し】と仰いましたね?」
「ああ……」
応えの声は、消え入りそうな程に小さい。
余程精神的な疲弊が著しいのだろう。
トゥリウスは頓着せずに続ける。
「貴族が自分の奴隷を殺すことは罪ですか?」
「罪、ではない……」
その通りである。
奴隷は法的には道具であり、財産だ。自分のものである限り、何をしようと自由。
この国のみならず、イトゥセラの国々では共通の法だ。
「では、他人の奴隷を奪うことはどうなんです?」
「罪、である……」
これもその通りである。
道具であり財産であるということは、他人が勝手に使ったり奪ったりしてはいけない。
人の『物』を盗ってはいけない。子どもでも分かっていなければならない理屈だ。
「結構。そこはちゃんとご理解いただけているということですね? ――僕からは以上です」
堂々とした宣言を後目に、ガクリとカルタンは膝を着いた。
予想以上だ、とユニは感嘆する。
自分が仕込んだ細工以上の物を、主は見せてくれた。
カルタン伯がユニの身柄を奪った非を鳴らすだけでなく、その人品までも貶めてみせるとは。彼女が裁判が有利になるよう、伯に暗示を掛けたまでは分かっていよう。だが彼は、その種類を看破するや伯に掛けられた暗示を最大限に利用してのけたのだ。
二本目は……期待値を遥かに超える完勝である。
――パチパチパチ。
法廷内に、乾いた拍手の音が響いた。
その主は、ラヴァレ侯爵である。
力無く座り込んだカルタン伯になど目もくれず、トゥリウスへと真っ直ぐな視線を寄越していた。
「いやはや、若いというのに見事な弁舌の冴えじゃな子爵。この老体としては感服したぞ」
「これはこれは……侯爵閣下からお褒め頂くなど、望外の至りです」
「くくくっ、そう謙遜するでない」
敵手であるトゥリウスを褒めそやすラヴァレの声には、余裕があった。
それもそうだろう。この裁判で痛手を受けるのは、あくまでカルタン伯だ。対してこの老怪が失う物は、精々が些少な風評程度。然程痛痒とは思わないだろう。
それに、
「――じゃがの、卿のご高説には一つ穴がある」
「ほう?」
「貴殿の奴隷がアンリエッタ嬢と同一人物ではないとは……証明されておらんよな?」
好々爺を装った笑みに悪意を滲ませて、侯爵は言った。
そう、ユニが主の元へ戻るには、カルタン伯の引退だけでは足りない。彼女がアンリエッタ・ポーラ・カルタンという身分のままでは、結局あの伯爵家に縛られてしまうのに、変わりは無いのだ。現当主ピエール・シモン・カルタンがいなくとも、カルタン伯爵家という『装置』があれば、いくらでもラヴァレの策は回る。
この妖怪のことだ。当主交代が成ったばかりの家など、意のままに操ることは簡単だろう。更に言えばカルタン伯爵家の後継ぎは若い上、能力に不足がある。そこへラヴァレ侯爵が後見人などに収まってしまえば、後は言われるがままだ。
侯爵は何も失わないし、逆にトゥリウスは確実にユニを失う。
しかし、だ。
「侯爵閣下もお気が早い」
トゥリウスは肩を竦めてそう返す。
そう、これで終わりと言うのは気が早過ぎるのだ。
「裁判はまだまだ続きます。訴状にはまだ項目が一つ残っておいででしょう? 何だったかな……『更には、その奴隷を実子と偽り、子爵の返還要求を拒否せん為の手管とす。これ、誠に王国の法度に背くこと甚だし』でしたっけ。合ってますか、裁判長?」
「相違無いな。手元の訴状にもそうある」
「……それを今から証明すると?」
「はい」
「ほほう――?」
その答えに、ラヴァレ侯爵は笑った。獰猛で嗜虐的な笑みである。王国随一の寝業師、中央集権派を纏め上げる老策士が、いよいよもって本性を剥き出しにしてきたのだ。
思えば、この審理の間中、この男は大人し過ぎた。専ら伯爵の援護に回り、自身が攻めに回る場面は予想外に少ない。ならば、そろそろ隠していた切り札か何かを切ってくる頃だろうか。
トゥリウスとユニにとっての最大の焦点である、彼女が彼の奴隷なのか、それとも違うのかが決まる局面で。
「よかろう、やってみせい」
「言われずともやりますとも。……彼女がね」
そして彼はこちらを振り向く。
トゥリウスの顔はいつも通りだった。穏やかな表情で気怠げな瞳を隠して、それでいてその奥には彼女への信頼がある。
「ユニ。僕の番はここまでだ。後は君に任せた」
ああ、と彼女は小さく息を吐いた。
主からの命令。任せるという信任。その心地よい重みを再び背に感じられる幸福に、彼女は一瞬だけ忘我する。
無論、あくまでも一瞬のことだ。ここで従者にあるまじき呆けた面を晒すつもりは無い。
彼女は主人に向けて恭しく頭を下げた。
「……ご命令、承りましてございます。ご主人様」




