032 逆転へのカウントダウン
「私と取り引きいたしませんか?」
「取り引き、ですって?」
彼女がそう切り出すと、老いた女は目を丸くし、次いで嘲るような笑いを顔に浮かべた。
「ふんっ、何を言うかと思えば……言うに事欠いて取り引きですって? いよいよお前も化けの皮が剥がれてきたわね。この私を脅して、己の利分を図る魂胆ね?」
固陋さも露わな老女の言を聞き流して、彼女は反駁する。
「誤解なさらないで下さい。私の願いはただ一つ。全てをあるべき場所へ戻すことですよ」
「あるべき場所……? まさか、不遜にも当主の座を――」
「思ったよりも誤解が大きいようですね……」
今まで無表情を保っていた彼女の顔に、初めて明らかな感情の色が浮かぶ。
呆れ、だ。
猜疑心が強いとは聞いていたが、これではほとんど被害妄想である。
説得の困難さに溜め息を吐きつつ、少女は続ける。
「取り引き、と申したからには、貴女様にも利がある話であると自負しております」
「回りくどいわね……さっさと本題をお言い」
その本題から遠ざかっているのは誰の所為だ、とはおくびにも出さない。そんなことを言ってまた話を拗れさせるのは無駄であるからだ。
彼女は率直に相手好みの言葉を投げ掛けてやることにした。
「十一年前の亡霊を、墓場に叩き返すのですよ」
「何ですって?」
「それに悩まされているという点では、私と奥様は共通しているはずです」
言いながら、彼女は老女に近づく。
互いが身に振りかけた香水の匂いを嗅ぎとれる距離にまで。
「――私にも、アンリエッタは邪魔なのですよ」
※ ※ ※
ここ十年近くあり得なかった事ではあるが、ライナスは弟トゥリウスの顔を見ることが出来て上機嫌だった。何しろ、この王都へと留め置かれている愚弟ときたら、日に日に薄笑みを消して心中の苛立ちを露わにすることが多くなってきているのだから。
ラヴァレ侯爵が手を回し、自分と弟の二人を同時に催しごとへと招待する。それが連日だ。婚儀の席でこそ恙無く取り繕っていたトゥリウスも、流石に何度も格式ばった場へと足を運べばボロを出す。普段なら周囲の失笑を買っても平然としている厚顔だが、今度ばかりはずるずると王都滞在を伸ばされている最中だ。そこへ来て身を守るもの無き単身に等しい状態では、同じ痛手であっても効き方が違うというものである。
行事の最中は取り澄ました顔をしているが、屋敷に戻れば嘆息しつつげっそりとした表情を晒す。同行する家臣に不平を漏らす姿も何度か見れた。
……堪らなく良い気味だった。去年までは、自分が彼の為にさせられていたことだ。積年の鬱憤も少しは癒えようというものである。
無論、トゥリウスが失態を晒す度にオーブニル家の評判は落ちるが、それももう少しの我慢であるとライナスは考えていた。もう間も無く、ラヴァレ侯爵の次の手が動き出す。それさえ決まれば、トゥリウスの首には高位貴族の舅という新たな鈴が着けられる。そしてその鈴は侯爵の手へと延びる紐付きで、鳴らしたい時にいつでも鳴らせるのだ。
もう間も無く、あの忌み子を始末する為の包囲網が完成すると思えば、多少の汚名も必要経費と割り切れた。それにトゥリウスが見苦しければ見苦しいほど、相対的にライナスの株も多少は上がるというものである。
今日はあの侯爵も訪れてはいない。テラスで喫する茶も美味く感じようというものだ。
ただ問題は、
「……まさかここまで大人げない人だとは思わなかったわ」
日々冷たさを増していく、新妻シモーヌの視線くらいだろうか。
だが、それも大したことではない。ライナスは妻の非難に鼻を鳴らして答えた。
「何を言うか。兄である私としては、手ずから付き合って弟が王都のお歴々との顔繋ぎするのに力添えをしているのだぞ? それを大人げないとは心外だな」
「物は言いようね」
シモーヌも負けじとこれ見よがしの溜め息を吐く。
「卿ご本人が望まれていない連日のパーティーに、せっせと招待状を回しているのは、何処の誰の差し金かしら?」
これにはライナスも鼻白んだ。
シモーヌはどういう訳かあの愚弟に同情的であった。初対面時に思ったよりまともな挨拶を交わせた所為だろうか。それとも同じく中央集権派の陰謀に巻き込まれた者同士の同情か。
いずれにしても見る目の無いことだ、と思う。
ライナスとてラヴァレの如き妖怪率いる派閥など、出来得るものなら与したくはない。だが、それでもトゥリウスが一分一秒でも野放図にしていられるよりはましなのだ。中央集権派は自分の信条とは相容れない形とはいえ、この国の今後を思っているが、あの狂人は自分の研究とやらしか頭に無いのだから。たとえその為にどれほど奴隷の屍を積み上げ、栄えあるオーブニルの家名に泥を塗ろうと、である。
今のところは、実の兄と狒々爺との陰謀に振り回される可哀そうな青年に見えるだろうが、本性はあちらの方こそ下劣である。それを誅するにこの手管の陋劣さを忌むのは、百歩譲って分かるとしよう。だがこの女性はトゥリウスを殺すことすら嫌悪しているように見えた。
理解不能である。彼女とてあの残忍で身の毛もよだつような逸話を聞き知っているだろうに、どうしてその張本人へそんなにも親身になれるというのだろうか。
「なに、そう気色ばまずとも良い。この馬鹿騒ぎもそろそろ落ち着く頃だろう」
「ええ、ええ。それはようございました。お陰で新婚だって気分が全然しなかったんですものね?」
言って肩を竦めるシモーヌ。夫は初夜から謀議の為に呼び出され、以来工作の為に掛かりきりだったのである。皮肉の一つや二つ出るのは仕方無いことではある。
「……つまりは義弟に早くも婚約者が見つかった訳ね。ラヴァレ侯爵も仲人稼業に精が出ること。それで? あの御老体の手駒にされる哀れな花嫁は、一体どこのどなたなのかしらね?」
流石にこの女性も、そこまであの老怪の手管は読めなかったらしい。
ライナスは若干の優越感と共に、それを仄めかしてやることにした。
「それが案外、愚弟の花嫁は幸福な顛末を迎えるやもしれんぞ? 何しろ……満更知らぬ仲でもないのだからな」
「あら。トゥリウス卿にそんな女性がいたなんて、寡聞にして知らなかったわね」
「いたであろう? 貴女も知っている者が、一人な」
「まさか……」
答えを直感してか、シモーヌは眉を顰めた。
「そう、アンリエッタ・ポーラ・カルタン嬢だ」
ライナスはその答えを口にした瞬間、愉快で堪らなくなった。
あのトゥリウスの忌々しい切り札が、一転して奴の死命を制する鬼札に早変わりである。オーブニル家最大の憂患とその右腕が、互いに寄り添って地獄へ落ちるのだ。その光景を想像するだに、痛快至極である。
「流石の侯爵も多少、お父上の説得に手間取っているようだが、時間の問題だろう。来週には具体的な話が持ち上がるであろうさ。トゥリウスも果報者だと思わぬか? 長年仲好く連れ立った相手、それもあれほどの器量良しと添うことが出来るのだからな」
ライナスとて貴族らしい審美眼くらいは持ち合わせている。あの薄気味悪い小娘が、姿形だけなら傾国の美貌を持っていることくらいは認めないでもない。内面はと言うと、あの狂人に手を貸してこの家を傾けた悪魔の片割れであるが。
その言葉を聞くシモーヌの表情は、刻一刻と冷たさを増していく。
「……ここまで見下げ果てた方とは、思わなかったわ」
「ふん。何をそう目くじらを立てる必要がある? トゥリウスはともかく、あの娘にとってはまたと無い良縁だ。何しろ十一年も供奉して応えられなかった相手を、こうして射止めることが出来るのであるからな。シモーヌ、貴女も弟の彼女への扱いには業を煮やしていたはずだが?」
「結局はそれも謀略の道具とするつもりなのでしょうに……事が貴方がたの目論見通りに進んだら、その後のユニさん、いえアンリエッタさんはどうなると思っているの?」
彼女が危惧しているのは、トゥリウス処断という用が済んだ後のアンリエッタの処遇だろうか。確かにトゥリウスを始末した後に残るのは、彼と契って間髪入れずに未亡人となった伯爵家令嬢だけだ。カルタン伯も娘の経歴にそんな汚点を残したくは無いだろう。ただでさえ元奴隷という前歴があるのだから。
だがそれも、婚姻を実際に結んだらの話。ただの婚約の段階でもトゥリウスを陥れるに十分な厄介事を、あの娘は抱えている。
「……」
そこまではシモーヌに話すつもりは無い。或いは結婚後に始末を着ける以上に、この女性の逆鱗に触れる行いだろうから。
計画書に記されていた調査報告を思い出す。
(侯爵の調べが確かであれば、あの娘――既に汚れ無き身ではない)
あの悪妻の仕出かした、当時六歳の子どもに仕出かした惨い仕打ち。愚弟の所業の所為で否応無く俗悪な醜聞に慣らされたライナスとしても、胸の悪くなるような話であった。だがそれが確かなら、
(それを為した罪をトゥリウスに着せ、無理に婚前交渉を迫ったとでもカルタン伯から訴えさせれば良い、か。ふん、侯爵も次から次へと良く考えるものだ)
つまりはこういうことだ。十一年前にジョゼフィーヌ夫人が行ったことが明るみになれば、カルタン伯爵家の名誉は更に傷つく。正妻が庶子を残忍無惨な手段で痛めつけていたのだ。その障りは、回り回って正嫡の世継ぎにまで及ぶだろう。そうなる前に、元々悪名高いトゥリウスにその汚名を被って貰えば良い。
何しろ、婚儀前夜の発言が確かならば、トゥリウスはあの娘に手を着けていないのだ。それが初夜の褥で血を流さなかったとなれば、それを材料に反撃するくらいはあのうつけでも出来るだろう。だが奴に罪を着せるこの策であれば、非が完全にトゥリウスのものである内に始末を着けられる。カルタン伯の心証は未知数だが、あの御家が負うリスクはこちらの方が圧倒的に少ない。後は娘の扱いが未亡人と傷物、そのどちらになるのがましと取るかだけだ。
ライナスとしては家を傾けた奴隷殺しの片棒を担いだ女など、どうなろうが知ったことではないが。
「何をそうムキになるのだ、シモーヌ? 貴女にとってトゥリウスも、あの奴隷――いや今は伯爵令嬢だったか。何にせよ、碌に知りもしない相手ではないか」
「ええ、そうね――」
シモーヌは吐き出すように言う。
「そして貴方のこともよく分からないわ、ライナス」
言葉に含まれた毒に、思わずたじろぐものを感じた。
ライナスと彼女が出会ったのはほんの一月前。以後、彼女のことを放置して政務に陰謀にと没頭して来たのだ。彼女にとっては、ライナスもトゥリウスも印象の面から言えば大差無い。寧ろ陰謀の被害者側である弟の方が、まだ親近感を抱ける対象であるのかも知れなかった。
(何を馬鹿な……)
浮かんだ考えに頭を振る。
仮にも貴族が、あの【奴隷殺し】に気を許す? あり得る訳が無い。ましてや真っ当な貴族であるライナス以上に近しく思うなど、言語道断である。
「……私のことは、追々知っていけば良い。時間は十分にあるのだからな」
絞り出すようにそう言うのが精一杯だった。
対するシモーヌの返事は冷笑である。
「どうかしらね。血の繋がった弟さんにも与えられなかったものを、外様の私がどうして得られるというのでしょう?」
「奴には機会も時間も十分に渡した!」
派手な音を立てて、カップがテーブルに叩き付けられる。冷めた紅茶が卓上に飛び散った。
シモーヌは目を瞠るが、ライナスにそれを斟酌し堪忍する余裕は無い。
「アレが奇行にのめり込んでから十一年だ! その間、私がどれほどアイツに改心を促してきたと思っている!? それを無碍にし続けてきたのは、他ならぬトゥリウス自身であるのだぞ!? これ以上は……最早我慢ならんのだ!」
目が据わっていくのがライナス自身にも分かった。だが、止めようがない。どうして今更、弟に堪忍せよなどと言われねばならないのか? あれが為に自分はどれ程の物を失ってきたと思っているのか? それをこの新妻は全く理解しようとしない。
それは何度もトゥリウスの所業を噛んで含めて聞かせて見せても同じだった。のみならず、繰り返す毎にライナスへの視線は冷たくなっていく。
理不尽だ。何故、自分がこんな目に遭わねばならない?
「……付き合いきれないわ」
そう言ってシモーヌは踵を返した。妻でありながら、夫のすることに付き合ったことなど数えるほどしかない癖に。
「ああ、結構。……こちらとしても付き合って貰う必要は無い」
ライナスも視線で追うことなどせず、黙って外の景色に目を向けた。
全く理解できない女だった。普段は賢しらぶる癖に、どういう訳だか弟を除く段になると愚劣さが顔を覗かせる。
だがどうでも良い。自分がシモーヌに求めた役割の半分は既に済んだ。婚儀の招待でトゥリウスを王都に呼び、この地に足止めするという策。その為に必要だった伴侶である。それが済んだ以上、残った役目はライナスの子を孕むくらいしか無い。
そんな女にかかずらっていられる程、暇な身分ではないのだ。代官に任せている伯爵家領、そこから上がってくる書類の決裁も必要であるし、嫌なことではあるが中央集権派の諸侯とも顔を繋がなくてはならない。ただでさえ自分はラヴァレに近づき過ぎている。他の貴族とも連帯を持ち派閥内での存在感を維持しなくては、いずれあの老い耄れに切り捨てられる。いつかは抜け出る予定の派閥だが、家と自身とを保つ為だ。それまでは精々、模範的な愛国の志士を取り繕わなければ。
「ああ、糞っ!」
考えるだに嫌になる。最近のトゥリウスの苦境に立つ姿で少しは癒えていた鬱憤が、またぞろ積り始めている。仕事のことも辛いが、それ以上に家庭のことを思うのは苦痛だった。自分は家族のことで苦労ばかりしている、とライナスは思う。最初は父、そして最悪な弟、その次は妻。流石にあの奇天烈な怪人ほどの影響力は無いが、それにしても気が滅入る相手である。閨でのことが苦痛になるような容貌ではなく、寧ろ美人であるのが救いだが、日常での会話ではそれが却って辛かった。
最初はもっと聡明な女性かと思っていた。そこに愛は無くとも、共に家を守り育てる貴族の義務を果たせる相手ではあると考えていたのだ。だが、弟が顔を出してからおかしくなってしまったのである。元々陰謀に使われることに反感を持っていたが、その傾向がより顕著になってきているのだ。自分と共にこの家を栄えさせるのが妻の義務であるというのに、その家の最大の憂患に同情を示して良い訳が無い。
苛立ちが募る。先程まで茶を啜っていた時の上機嫌は何処へ消し飛んだものか。目に入った者は誰彼構わずぶん殴ってやりたい。何かにこれをぶつけてやりたい気分だった。
「あ、あの……」
声を掛けられ、思わず振り向く。一瞬、シモーヌが己の不覚を詫びにでも戻ったかと思ったが、違った。そこにいたのは、ライナスが傍に置いている女奴隷。いつも彼が、使っていた女だ。
「何の用だ?」
思わず唸るような声が出た。憤懣の捌け口を求めていた矢先にそれが現れたことに、心中を見透かされたような気分を味わう。つまりは不快だった。
「お、大きな音が聞こえて、お、奥様が出て行かれたので……」
奥歯に物の挟まったような言い方が、また癇に障る。殴られたくてわざとやっているのかとすら思う程だ。しかし、かといって自制を利かせられる訳でもない。それをする理由がまた一つ増えただけだ。
「それで? 私が相手を求めているとでも?」
「ひっ、あ、あの……」
「首輪付き風情が貴族を量るな。僭越であるぞ」
言いながら手を伸ばし、奴隷の髪を掴んで乱暴に引き摺る。従順にそれに従う感触に慣れを見出し、またぞろ舌打ちが漏れた。室内へ戻ると同時に鍵を閉める。
ないことに、ライナスはシモーヌを相手にする時以上の昂りを覚えていた。
※ ※ ※
「ああ、もうっ! 貴方のお兄様は最低ねっ!」
「そう言わないでください義姉上。僕に仰られても困りますよ」
部屋を訪ねるなりそう切り出すと、義弟は本当に困ったような苦笑を浮かべながらそう応じた。
シモーヌにとって素直な愚痴を零せる相手は、奇妙なことにこの悪名高い次男坊、トゥリウスしかいなかった。確かに会う前はどんな大悪人かと畏れ戦いていたものだが、実際に話してみると思ったより穏やかな人となりであり、滅多に人を怒るようなことも無いのである。それにどうも噂と違って奴隷遣いが優しく、連れて来たメイドもそんなに酷い仕打ちを受けているようには思えなかった。
あのユニ――正確にはアンリエッタか――にしても、余りにも身綺麗で教養も十分であったことから、思わず愛人の類かと邪推したものだ。ところが彼女が連れ去られて、代わりに屋敷に入れた新たな奴隷も、清潔さは彼女と同じ程度を保っていた。メイドだけでなく、酔狂にも執事服を着せた男奴隷もである。これでは王都を震え上がらせた例の噂が真実かどうか、まるで分かったものではない。
「それにしても、新婚早々義弟の部屋に入り浸るというのも感心しませんね? 良くない噂が立ちますよ」
トゥリウスは気遣わしげにそう言うが、今更なことである。
「噂ならこの家に嫁ぐことが決まってから、瞬く間に広がったわ。どういう経緯であのオーブニル家に行くことになったのか、ってね。ご丁寧にあることないことを色々と交えてまで」
「はあ、それもそうですね……いや、申し訳無い」
素直にぺこりと頭を下げる姿からも、やはり噂で聞くような恐ろしげな雰囲気は無かった。寧ろ人を人とも思わぬ策に嬉々として加担するライナスの方が、彼女としては空恐ろしい。
「それに別に貴方と二人っきりという訳でもないでしょう?」
言いながらチラリと部屋を見回す。ルベールという下級貴族の青年と、ドゥーエと名乗っていた護衛の武官が、居心地悪そうに壁際に佇んでいた。メイド服と執事服の奴隷も、男女一組で床に平伏している。本当に教育の行き届いている奴隷たちである。
「ああ、別に立たせてもよろしくてよ? 楽にさせてあげて頂戴」
「お気づかい頂きすみません。……だってさ、業務に戻っていいよ。バルト。エミリー」
「「有り難き幸せ」」
許可を出してやると、奴隷二人は平伏の姿勢を解いて作業に戻り始めた。
「何かさせていたの?」
「お茶の準備ですよ。そろそろティータイムの時間でしょう。よろしければ義姉上も如何です? 流石に兄秘蔵の茶葉には劣るでしょうが……」
そういえば先程、ライナスとも茶を飲みかわしたばかりだった。といっても、不愉快な会話に終始して中座したので、碌に楽しむ暇も無かったのだが。
「頂くわ。話し続けていると、喉も乾くでしょうしね」
「ははは。どうやらまたまた愚痴が溜まってらっしゃるご様子で。いやはや、意外ですね。兄上なら、貴女のような方とこそ上手くいくと思っていたのですが」
「……冗談でしょう?」
思わず冷たい声が漏れた。トゥリウスが目を瞬く。そんなにも……意外だったろうか?
「トゥリウス卿は、お兄様がどんな女性を好んでおられるかご存知?」
「そりゃあ……気品と品格が第一なんじゃないんですか? あの人、昔から礼儀だの格式だのにはうるさかったですし」
「確かにそれも大事よね。でも、気品や品格が問われるのはオーブニル家の正妻にであって、ライナス・ストレインの伴侶にではないと思うの」
「ほほう?」
奴隷たちが手際良く茶の準備を整える音を聞きながら、シモーヌは語って聞かせる。
「だって、そうでしょう? この家に嫁ぎ、彼の子を産み育てるのはあくまでも正妻の仕事。彼と心を通わせなくたって出来ることですもの」
「新妻の仰ることではありませんね」
「新妻だから言えるのよ。……私、はっきり分かったわ。ライナス様と私は、合わないってね」
それが今日までの交流で分かったことだ。ライナスは彼女を求めていない。シモーヌがこの家にいるのは、彼女が良かったのではなく都合が良かっただけのことだ。結婚の必要が生じた時に偶々紹介されただけの女がシモーヌであると。
勿論、貴族の婚姻とは概ねそういうものだ。愛などというものは、結婚してから育んでいけばよろしい。それが適わなくとも平民には生涯手に入らない安泰な暮らしを送るのだ。義務の内として我慢するべきである。それは分かる。
だが、ライナスには貴族の義務を履行する為のパートナーとしての、最低限の敬意さえシモーヌに示しはしなかった。口にするのは全て自分の都合ばかりで、彼女の事情など斟酌すらしない。口ではこちらを重んじるように言いながら、その手の冷たさは道具を扱う時のそれだ。
挙句、一番の関心事は弟への陰謀だというのだから笑わせる。残された唯一の肉親を貶めながら、それで自分に同意しろなど片腹痛い。そんな情の薄い男に心を開ける女などいるものか。
トゥリウスは頬を掻きながら言う。
「参考までに聞きますが、じゃあ兄上にはどんな女性が合うとお思いで?」
「あら、それこそ新妻に聞くには憚りのあることじゃなくて?」
「すみません、不調法でした」
「冗談よ。別に構わないわ。貴方のそういう遠慮の無いところ、結構気に入ってるのよ?」
そう言ってやると、彼は戸惑いも露わな顔を見せる。年齢はシモーヌと同じか一つ下辺りのはずだが、そうした表情は酷く子どもらしかった。
「そうね。彼に合うとしたら……私と正反対の女性なんじゃないかしら?」
「義姉上と正反対、ですか」
「ええ。たとえ貴族らしい教養が無くっても、大人しく彼を立てて文句も言わない女。慎みといじらしさでもって、夫の陰で尽くす妻。正直、男にとって都合が良過ぎて、同性としてはどうかと思うけれどね」
「慎みでしたら、義姉上も十分に備えていらっしゃるのでは?」
「私の慎みは、あくまで礼儀だの伝統だのに対して向けたものよ。あの人が求めているのは、自分に対しての慎みね。私だと『自分は立派な妻として振舞っております』、ってどんどん前に出ちゃうところがあるから」
「ははあ。それが元で男に気後れを感じさせてしまう、と。ちょっと分かる気がしますね。僕にもそういうところがありますし」
確かにこの温順そうな御曹司にはそういうところがありそうだ。こうしていると実に人畜無害に見えるのだが、こんな彼がどうしてあんな噂を立てられたものか。
「……気後れ? ご主人が気後れしているところなんて、見たことあるか?」
「あんまり無いですね、僕も」
家臣が二人が何かを囁いているが、良く聞こえない。
何を話しているのかしらと耳をそばだてようとした瞬間、
「……お茶が入りました」
バルト、と呼ばれていた男奴隷が静かにカップを置く。
「ありがとう」
礼を述べると、執事服の男奴隷は無言で最敬礼して一歩下がった。
トゥリウスもメイド服の奴隷からカップとソーサーを受け取っている。
見れば、カップの中の液体は赤と言うより薄い黄色。匂いも少々独特な甘さがあった。
「これは?」
「所謂ハーブティーです。今日はローズヒップをご用意させて頂いています」
茶以外の香草を煎じて飲むものだ。高級茶葉を好む大貴族の間では『代用茶』などと陰口を叩く者もいるが、シモーヌは実家で暮らしていた頃、勉強の合間などに良く飲んだものである。ローズヒップは使ったことが無かったが、何となく懐かしい気持ちになった。
「少々酸味がありますからね。蜂蜜やジャムなどを足すと口当たりもまろやかになるので、お好みでどうぞ。僕は薄めに淹れたのをストレートで、というのが好みなのですが」
「そう? じゃあまずは貴方と同じで」
口に運ぶと確かに酸い物を感じるが、きついと言うほどではない。甘さを連想させる香りとのギャップは多少あるが、これも癖の内だろう。悪くないと思う。
一方でトゥリウスは口に入れた瞬間、多少顔を顰めた。
「うわ、濃い……」
口の中で小さくそう呟いている。どうやら彼の好みからすると濃く淹れ過ぎたらしい。
「申し訳ございません、ご主人様」
「いや、良いよ。茶の給仕は急に回した仕事だし……」
頭を下げるメイドに、彼は鷹揚に手を振って赦しを出す。だが目が何か遠くを見つめているように見えたのは、果たして湯気に透かした先故の錯覚だったろうか。
急に回した仕事、と彼は言った。では、普段それを受け持っていたのは?
あの少女以外にあるまい。
ユニ――いや、アンリエッタ・ポーラ・カルタン。
カルタン伯爵の生き別れた隠し子として連れて行かれた、元奴隷の娘。
トゥリウスは彼女とは男女の仲にはないと言った。だがそれは決して、あの少女の存在を軽んじていることと同義ではないのではないか。好みの濃さではないハーブティーを、我慢するような表情で啜っている彼を見ていると、そう思ってしまう。
「ねえ、トゥリウス卿」
「何です?」
「元々それを淹れていた人のお茶は……美味しかったの?」
好奇の虫が疼くままに発した問いに、トゥリウスは、
「……ええ、とても」
遠い目をしながら、そう答えた。
少し湿ったその声に含まれた情感。それはざらつくように乾いた夫婦関係に疲れた胸を、容赦無く突いた。
やはりトゥリウスにとってあの少女は、ただの奴隷に収まるような存在ではないのだ。でなければ十一年もの長きに渡って傍に置くはずは無いし、確執のある兄に頼み込んでまで婚儀前の屋敷にまで伴うはずもまた無い。
男女の契りとはまた違った、だが同じくらいに尊い関係。そんな物が二人の間にはあったのではないだろうか。
それを無理に引き剥がす片棒を担いだのは、他ならぬシモーヌだ。今の夫とあの侯爵の企んだこととはいえ、トゥリウスを王都へ呼び、例の披露宴での騒ぎを起こさせたのは、自分にも大きな責任がある。
思わず胸が痛くなった。彼にとって、こんなにも負い目があるはずなのに、どうして自分はあんな無思慮な問いを投げたのか。
トゥリウスは薄く笑う。
「お気になさらず。義姉上は何も悪くありませんから」
「でも」
「僕も気にしていませんので。……それにあの子は優秀ですしね。僕の手を離れても、きっと上手くやっているでしょう」
そう言うと、表情を誤魔化すように茶を呷った。濃過ぎると評したその茶をだ。
カップから口を話したその顔は、ほろ苦い物を堪えるようである。
「優しいのね、貴方は」
「無駄に相手を不愉快にさせる趣味は無い、というだけです。僕が優しいなんて言ったら、普段扱き使われてる連中が仰天しますって。ねえ、ドゥーエ?」
話を振られた武官の男は、乾いた苦笑を浮かべて肩を竦めるのを返事とした。
――その時である。
「……困ります……ことは……当主様を……」
「退かれよ! 緊急……である……」
廊下の方から、何やら争うような声が聞こえてきた。
トゥリウスは現在、ライナスらの監視の下にある。足止めを目的とする社交行事の為に何度か外出はしているが、実質的には軟禁状態にあると言って良い。その為、トゥリウスに会うにはまずこの屋敷の当主であるライナスの許可を得なければ――シモーヌにとっては知ったことではない――ならないのである。
だが、どうやらそれを押してでもトゥリウスに会いに来た客がいるようである。
やがて、乱暴にドアが押しのけられ、法服を着た役人風の男が顔を見せた。
「マルラン子爵トゥリウス・シュルーナン・オーブニル卿のお部屋か?」
権高であり居丈高でもある声に、トゥリウスは然して動じた様子も無く応じる。
「ええ、間違いありませんよ。僕がトゥリウスです」
「……高等法院からの召喚である。至急、応じられよ」
現れた役人の言葉に、シモーヌは思わず目を瞬いた。
高等法院。貴族間の争いを調停する、王国の司法機関である。その権威はもって王家に由来し、彼らによって下された決定には、大貴族といえど従わなければならない。
そんなところに呼び出された? トゥリウスが? 何故?
すわ、夫と侯爵らの新たな陰謀かと固唾を呑むシモーヌに、トゥリウスは屈託無く微笑んだ。
「ご心配は無用です。見立てが正しければ、僕の不利とはならないはずですから」
「見立て? トゥリウス卿、貴方は何を――」
「失礼、至急のお召しとのことですので、仔細は後ほど。……着替えにお時間を頂きたいのですが、よろしいですかね?」
手短に会話を切ったトゥリウスは、現れた男に向き直って言う。
男は蓄えた髭を弄りつつ、少し考えて、
「よかろう。平服のままでは神聖なる審理の体裁が整わぬ故、許可する。ただ表には馬車を待たせてある。努々急がれよ」
そう許可を出した。
「それはもう。承知しておりますとも!」
答える彼の声は陽気に弾んでいる。
まるで――これから恋焦がれる相手にでも会いに行くかのように。
シモーヌには、まるで意味が分からなかった。
※ ※ ※
――まるで意味が分からなかった。
カルタン伯爵家に仕えるそのメイドは、現在混乱の極みにある。
原因は一週間前に自分が供奉することとなった、伯爵のご落胤という令嬢である。今日までは聡明な立ち回りを見せていたというのに、これは一体どういうことか。彼女は発狂してしまったのか?
思わずそんな非礼な発想さえ浮かんでしまう光景が、眼前で展開されていた。
「……やはり、この格好が一番落ち着きますね」
そう言う令嬢――アンリエッタが身に纏うのは、メイド服だった。臙脂色のワンピースに純白の前掛け。とどめに頭にはホワイトブリムまで頂いた、紛うこと無きメイド姿である。確かに凛々しく楚々とした装いはこの少女に似合った物であったが、断じて伯爵家令嬢のして良い格好ではない。
「そ、そのメイド服は、ど、どこからお持ちに?」
「伯爵様にお預けしていた物を返して貰っただけです」
堪らず漏れた問いかけに対する答えがこれである。
伯爵様? 何なのだろう、この他人に対するような言葉遣いは。
いや、それよりも問題は、
「お止め下さい、お嬢様! 高等法院からのお召しなのですよ!? ちゃんとご自分の身分にあった装いが必要なのです!」
そうなのだ。アンリエッタは高等法院からの呼び出しに応じるのに、こんな格好をわざわざ選んだのである。厳正なる審理の場に赴くのに、伯爵家の娘がメイド服? 正気の沙汰ではない。
なのに彼女は平然と言った。
「ならば問題無いでしょう」
と。
「私はちゃんと、自分の身分に相応の装いに袖を通していますよ」
「ど、どこがですかぁ!? 一体どこの国に、そんな格好で法曹の方々にまみえる令嬢がいるというのですかっ!」
混乱の余り、メイドの分を超えた怒号が口を突いて出た。
アンリエッタはそれに怒る様子も無く、さりとてニコリともせずに言う。
「その通りですね」
「はぁ!?」
「そんな令嬢はこの世のどこにもいません」
メイドは頭を抱えた。そうは言うが、それが目の前にいるから困っているのだ。
だが、目の前にいるメイド服を着た何かは嘯く。
「それと貴女方には謝罪したいことがあるのです」
「謝られるのは結構ですから、その前にちゃんとしたお召し物を――」
その反駁を遮るように、彼女は深々と頭を下げる。
伯爵家のメイドは思わずブーッと吹き出しそうになった。
それは断じて、貴族の娘が使用人に対してする叩頭の深さではない。
これではまるで、奴隷が平民にするような礼ではないか。
メイド服の女は続けざまに口を開く。
「今日まで偽りを申し上げておりました――」
その馬鹿丁寧を通り越して卑屈な言葉遣いに、何かが崩れ始める音が聞こえる。
この言葉を切っ掛けに、重大で甚大な崩壊が起こる気がした。
「――私はアンリエッタ・ポーラ・カルタンなどではありません」
「…………え?」
目の前の人物は何を言っているのだ?
メイドは更に混乱した。
メイド服の女は続けた。
「私の名前はユニ。職業はメイドで、身分は奴隷なのです」




