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031 蘇る銀狼

 

「失礼致します。……お目覚めでしたか、お嬢様」


 慣れない呼称で声を掛けられて、彼女は振り向いた。

 見れば、メイドが一人部屋の扉を開けて、おずおずとこちらを窺っている。


「……何か御用でしょうか?」


 声音だけはいつも通り平坦に、彼女は問い掛けた。

 メイドはその言葉に大袈裟に恐懼する。


「えっと、お嬢様? 私ごとき使用人に、そのような畏まったお言葉は不要です、はい。もっと気安くお呼び付け下さいませ」


「……」


 そう言われたものの、彼女の自己認識は今もって、自分は目の前の相手と同じメイドで――更にはそれより下の奴隷でもある、となっていた。

 その筋から言えば、こちらこそ畏まった対応を受ける謂われは無いのだ。

 だが、敢えてそれは口にはしない。それが自分の主人への不利益になりかねないと、一晩の時間を置いたことで理解出来ているのだから。


「……では、お言葉に甘えて。用件は何です?」


「はい。ご起床の時間を告げ――る前にお目覚めでいらしましたね。お着替えの手伝いに参りました」


「一人で出来ます」


「いや、そう仰られても……」


 メイドは困ったように苦笑を浮かべる。

 それもそうだろう。恐らくは執事かメイド長でも通して、カルタン伯から色々と言い含められているに違いなかった。

 若干の煩わしさを覚えつつも、彼女は相手に任せることにした。


「何かお召し物にご希望はございませんか?」


 正直に言えば、自分のメイド服を返して欲しい。出来ればチーフメイドの証の腕章もだ。

 普段の着衣であるそれは、このカルタン伯の屋敷に連れ込まれた際に、寝間着と交換するようにして取り上げられている。

 一生の不覚だった。

 あれは主人が腕によりを掛けて鋳造した一級の礼装だ。この身体はたとえ腑分けされようと一片の手がかりも遺さないよう出来ているが、装備品は別物である。下手に人目を引くことを避けて低級な素材を用いているが、見る者が見ればその作り込みの程は明らかなはずだ。もし分析を受ければ、主人の保有する技術力を敵に類推される恐れがある。

 それに――あのメイド服は主から下賜された大事な物なのだ。予定を繰り上げて十歳でクエストに投入されるのが決まった時に、自ら希望してエプロンドレスを防具としたのである。戦いの場であっても、自分が主に仕える為の存在だと全身で感じ、また主張したい、と。嘆願を聞いた彼は流石に驚いていたが、すぐにデザインまで手ずから下ろして、素晴らしい逸品を仕立ててくれたのだった。以来、彼女の背が伸びる度に、再設計された新しいものを与えられている。

 主に通した数少ない我儘の所産で――彼との思い出の証だった。

 愛着も未練も山となるほど積もっているが、恐らくもう袖を通すことは出来まい。


「お嬢様?」


「……何でもありません。特に希望は無いので、貴女にお任せします」


 感傷に耽っていた所為か、あまり感心出来ないことを言ってしまった。

 着替えの手伝いを担当する者に全てを任せるということは、相手の見立てに全ての責任を押し付けるということでもある。

 彼女も主にそう言われて、困らされてしまった憶えが何度かあった。それでも、出来ません、などとは口が裂けても言えなかったので、貴族の男性にさせるべき装いを必死で勉強したものである。最近では折に触れてヴィクトルらから、当世の流行などを仕入れていたのだが――

 そこまで考えて、ハッと我に返る。

 また思考がずれている。頭が目の前の現実と折り合えていない。

 既に自分はメイドでも冒険者でも、ましてや奴隷でも無いというのに、それを認めることがどうしても出来なかった。徹底して仕込まれた教育の成果に微かな満足を覚える一方で、このままではそれを施した主に迷惑が行くとも思う。

 自分がカルタン伯らを満足させる振る舞いが出来なければ、それを理由に彼女を救い育ててくれた彼が、責めを負わされる口実となるのだ。


「失礼、我儘でした。前言を撤回します」


 すっかり困惑している目の前のメイドに、頭を下げる。あまり深く下げ過ぎると、またぞろ相手を恐縮させてしまう。丁度良い塩梅を計るのには少し苦労した。まったく、貴族の頭という物は無駄に重過ぎる。


「……何があるか、見せて貰っても構いませんか?」


「それでしたら、こちらのクローゼットに仕舞われてございます」


 見るからに安堵した様子で、メイドは部屋の奥の大きなクローゼットへと彼女を案内した。

 戸を開けた中には、彼女くらいの年頃の令嬢が、一年着回すのに過不足無いだけの衣装が収められている。

 試しに一着を手に取り検めてみると、サイズはほぼ問題無いようだった。


「私は昨晩、この屋敷に来たばかりのはずですが……」


「ああ、これらは全て、お嬢様のお母上の遺された物だそうです」


 抱いた疑問に、すぐさま答えが返ってくる。

 母。アンナマリーの持ち着だったのか。大方、伯がこっそり保管していたのだろう。よくよく見れば多少流行遅れの感のある見た目であるし、正統な令嬢、貴婦人が袖を通すには地味ともとれる仕立てだった。それも人目を憚る身であったアンナマリーの持ち物であったのなら納得がいく。

 それにしても、よく正妻ジョゼフィーヌに捨てられなかったものだ。アンナマリーに濡れ衣を着せて追い出した上に、ならず者を雇って襲わせた、嫉妬、執念共に深い女。更には娘までをも手篭めにさせた上で、顔を潰して奴隷に落とした残忍な性情。そこまでの女を相手に愛人の私物を大量に隠し持つとは、カルタン伯爵の入れ上げようも尋常ではない。


「……」


 さておき、と彼女は大量の衣装を前に暫し考える。

 果たしてどれを着衣に選んだものだろうか。

 昨晩に慌ただしくここへ連れ込まれ、ほとんどの家人と会わなかったことを思うと、実質的に今朝が彼女の『お披露目』となる。色々と思うことが無いではないが、多少はめかし込んで見せた方が良い方に働くだろう。だが、あくまでも多少だ。余りにも派手派手しいものは、ジョゼフィーヌや名も知らぬ後継ぎの男子にも印象が悪いだろうし、何より教育の不備を露呈して非難の材料にもなる。かといって控えめに過ぎると、今度は娘を良く見せたい伯爵がへそを曲げる。匙加減の難しいところだった。


「これはどうでしょう?」


 短い逡巡の末に手に取ったのは、銀朱色のワンピース。

 少し華やかな部屋着としても通用するデザインであるし、肌の白い彼女は余り落ち着いた色を選ぶと印象が冴えなくなる。いつもならば主の後ろに控える者としてそれで良かったのだが、今回は不本意なことに主役が回って来ていた。それを思うと目を引く赤系統で、それでいて華美に過ぎないこの色が良いと判断したのである。

 果たして、着付けのメイドは表情を綻ばせた。


「大変よろしいご判断かと。流石にやんごとなきお血筋の方でいらっしゃいますね?」


 余計なお世話である。その血筋とやらの所為でこんなことになっているのだ。主がかつて、あれほど韜晦して権力の座から逃げ回っていた気持ちが、今なら良く理解出来る。気を配らねばならないこと、やらなければならないことが、余りにも多過ぎるのだ。

 とはいえ、このメイドに悪意が無いのは分かる。あの伯爵が連れ戻したばかりの生き別れの娘に宛がうだけはあって、中々に気立ての良い女性だ。魔力持ちで無いのがマイナスだが、連れ帰った上で改造し、部下にしたいくらいである。

 そんな出来もしないことを想像しながら身を任せていると、手慣れた手つきで瞬く間に着替えさせられる。

 鏡の中には、見慣れた顔が見慣れない格好で緑色の瞳をこちらに向けていた。


「わあ、お綺麗ですよ! 正に四カ国一の手弱女です。ご当主様も、きっとお鼻を高くされるでしょう」


 大仰な褒め言葉を聞き流しながら、じっと鏡に見入る。

 その姿は、微かに記憶に残るアンナマリーの正に生き写しだった。ジョゼフィーヌ夫人が亡霊と見紛ったのも無理は無いだろう。髪型の長短や細部の造り、何より表情に違いはあるが、一見したところでは悪い冗談のように瓜二つ。寧ろ生気に乏しい鉄面皮は、十一年前の死人が蘇ったと錯覚させるのに、一役買っているのではとさえ思わされた。

 アンナマリーの亡霊というのも、あながち伯爵夫人の妄想の産物とは言えないかもしれない。鏡に映る彼女の姿は、無念の裡に没した女の執念すら感じさせるものであった。


 ――そんなに、アンリエッタ・カルタンを伯爵家に入れたいのですか?


 思わず悪態が喉元まで出かかったのを、何とか押し殺す。

 ……本当に不調だ。普段の彼女であれば、そんなことは思った瞬間にはすぐに忘れて、十全に機能するはずであるのに。

 だが今はこの無様な状態のままであっても、何とか大過無く過ごさねばならない。

 少なくとも、プランDが発動されるまでは。




  ※ ※ ※




「――朝食の前に、私から紹介したい者がいる。……入りなさい」


 扉の向こうから聞こえて来た声に合わせて、カルタン家のメイドは食堂の扉を開いた。

 昨夜より彼女の直属の主となった少女は、楚々とした足取りで入室を果たすと、流れるような所作で一礼を決める。


「我が娘、アンリエッタである」


「……ご紹介に与りました、アンリエッタ・ポーラ――です。お見知りおきを」


 そして伯の紹介に合わせて改めて再度、深々と頭を下げた。

 涼やかな声、背後から見ても優雅な身のこなしに、メイドの少女は深い満足を覚える。

 昨晩、突如として当主ピエール・シモン・カルタン伯が、生き別れになっていたという娘と再会し、引き取ってきたと聞いた時には、大層驚かされたものだった。その上、自分を彼女付きのメイドとすると出し抜けに言われた際など、余りの衝撃に「……は?」などと無作法に問い返したものである。そして何より度肝を抜かれたのは、引き合わされた少女の美しさである。

 肌理の細かい白い肌に、翆玉を思わせる大きな瞳。形良い桜色の唇とスッと整った鼻梁を備えた顔立ちは、生きた人間というよりも、絵画の中から抜け出たか彫像が魂を得て動き出したかと錯覚するほど整っている。昨夜は憔悴の色が濃く表れていたが、疲労から回復し薄っすらと化粧を施された今日、その容色は正に輝かんばかりだ。


(お妾さんとの間にお産まれになったとは聞かされていたけど、いやはや、お母上もよっぽど綺麗な方だったんでしょうね)


 娘の顔立ちから見ても、母親の造作は窺い知れようというものである。嫉妬深い正妻の目を掻い潜ってまで囲っていただけのことはあるのだろう。

 見れば執事や給仕、あろうことか半弟である嫡男までもが、呆然とした表情を晒して見惚れていた。自分以外のメイドも同性としての悔しさを感じる以前の問題らしく、恥じ入るように顔を伏せたり、目に憧れめいた色を浮かべている者までいる。

 唯一の例外は、


(うわ……やっぱり奥様は駄目かあ……)


 青褪めた顔で、がたがたと震えているジョゼフィーヌ夫人。昨晩はアンリエッタ嬢を伴って来た伯とは、遅れて別の馬車で帰り着いたと聞く。妾の子との再会に浮かれ切った夫に、置いて行かれたのだ。その屈辱たるや、想像するに余りあるものだろう。加えて、十一年前の醜聞騒動で母子を追い出した張本人でもあった。その程度のことは屋敷に勤める使用人なら、誰でも耳にしている事実だ。


「知っている者もおると思うが、彼女は哀れにも母の罪に不当に連座した者でもある。しかし近々、高等法院が再度の審理を行って潔白の身とし、その後正式に当家へ迎え入れる手はずだ。気の早い事と思うだろうが、是非ともこの子にはよろしく便宜を図るように」


 カルタン伯の言葉は、まるで夫人への追い打ちである。お前のした仕打ちは間違っている、この自分が認めないと、家中満座の中で宣言したに等しい。正妻の権威と矜持は深く傷つけられたはずだ。こんな無神経なところがあるから、ますます夫人の悋気が過熱するのだとさえ思う。


(このとばっちりが、お嬢様に向かないと良いのだけど)


 そう願うが、まず無理だろう。ジョゼフィーヌは彼女の母を追い出す際、人には聞かせられないような手で姦通罪をでっち上げたともいう。そこまで憎んだ女の娘で、しかも若さと美しさを兼ね備えた女性だ。嫉妬心の塊のような夫人に、どこまで我慢が利くものか。

 アンリエッタ付きとなった自分としても、他人事では無い不安である。


「さて、いつまでも立っているのも何だ。座りなさい、アンリエッタ」


「はい。……お父様」


 その返事を聞いた途端、伯爵の顔はだらしなく脂下がった。

 年甲斐の無いことだと思う一方で、これだけ可愛い娘にそう呼ばれたことを考えると、仕方無いとも感じる。何しろ子離れする以前に引き離されたのだ。多少、相好を崩すのもむべなるかなである。

 ただ、途端に今まで顔を青くしていたジョゼフィーヌが、サッと紅潮して眦を決したのを、見て見ぬ振りを出来るなら、だが。

 恐々とした思いを隠しつつ、椅子を引くなどしてアンリエッタの着座を手伝う。


「朝食の席故に、酒杯を掲げるとはいかぬが……我が娘の帰参を祝って――」


 カルタン伯の言葉を合図に、朝食が始まった。

 常に無く静かな朝食だった。この家の恒例である夫人の愚痴る声も、主人の咳払いをする音も無い。伯爵は食事をとる娘の姿を面映ゆげに眺めているし、ジョゼフィーヌは何事かを言う隙を探すかのように目をぎらつかせている。

 大方、アンリエッタに何か無作法があったら即座に嫌味でも飛ばす気なのだろう。しかし生憎、彼女は恙無く食器を繰り、飲み物を口に運ぶ際も全く音を立てなかった。

 父娘が再会する前は、貴族のメイドとして働いていたらしいが、マナーもその際に見憶えたのだろうか。心憎いまでに完璧な振る舞いである。

 寧ろ、次期当主として教育されて来たはずの嫡男の方が、カチャカチャとフォークで皿を鳴らし、冷製のスープを派手に啜り立てる始末だった。


「……ゴホンっ」


「す、すいません、父上っ」


 挙句、折角の上機嫌に水を差された父の咳払いに恐懼する。これではどちらが引き取られたばかりの子か分からないくらいだ。

 やはり遅くに出来た子として甘やかされたのが良くなかったのかしら、などと思ってしまう。彼の養育を担当したのは、主に母であるジョゼフィーヌであった。過保護かつ神経質な夫人は、息子の教育係に度々難癖を付けては替え続け、しまいには誰もがその役を受け持つことを拒むまでにしてしまったのである。

 熱心な教育の成果が如実に表れた光景。それに普段夫人にいびられ続けていたメイドたちの多くは、笑みを漏らしはしないまでも、良い気味だと言わんばかりの目をしていた。

 だがアンリエッタ付きとなった彼女はそれどころでは無い。夫人の屈辱と鬱憤の捌け口は、自分が仕えるこの新参のお嬢様に決まっているのだから。

 果たして食事も終わりに差し掛かった頃合いに、ジョゼフィーヌは口火を切った。


「……アンリエッタさん」


「はい、何でしょうか奥様」


 上手い、と思った。今の彼女は、まだ再審理によって潔白を得る前だ。伯爵家の正妻を迂闊に『お義母様』などと、許しを得る前に呼べる身分ではない。良く弁えた受け答えだが、しかしその賢しらさこそ夫人の神経を逆撫でするのだろう。

 かと言って、ジョゼフィーヌを喜ばせる訳にもいかない。この初老の夫人が求めているのは、彼女を貶める為の材料なのだから。

 案の定、眉毛をひくつかせつつも続きが始まる。


「随分とお上品でいられること。正直、意外だわ」


「恐縮です。しかし、意外、ですか?」


「ええ。……お顔と違って、礼儀の方は母親に似ずご立派だこと。彼女ったら、椅子の座り方も心得ていないようでしたからねえ?」


「……ジョゼフィーヌっ!」


 悪意をたっぷりと含んだ言に、堪らずにカルタン伯が割り込んだ。

 ジョゼフィーヌの言っているのは、例のアンナマリー追放騒動の際の一幕だろう。夫人が間男と主張する男に引き合わされたアンナマリーは、驚きのあまりに椅子から崩れ落ちたと聞いている。もしも事件に関して噂される夫人の所業が事実であれば、椅子から落ちる程度で済んだのは軽い方だろう。自分だったら、そのまま失神するか心臓が止まってしまうかもしれない。

 それにしてもジョゼフィーヌの嫉妬深さと驕慢さも筋金入りだ。まさか追放した女の娘とはいえ夫の子に対して、家に引き取った昨日の今日でこれである。いくら自分が正夫人であるという確信があるとしても、伯爵の前ですら堪え切れないとは。

 だがアンリエッタも大したものだった。母親を公然と侮辱されても顔色一つ変えずに、


「母の名誉の為にも、慎んで御家に貢献したく思います」


 この返しである。謙ってみせ、同時に母を庇ってもみせ、またその名誉への侮辱に反撃してみせと、一つの返事に三つの含みを持たせてのけたのだ。

 ほう、と食堂の各所から感嘆の溜め息が漏れる。多くの家人は、この一事だけでも彼女が単なる私生児ではなく、高い教養を持った女性と見直したことだろう。

 かくいう彼女付きのメイドも目を瞠っていた。

 昨晩に引き合わされた際には、何があったのやら憔悴しており、会話らしい会話も無いまま寝室に籠られたのである。こんなに気弱そうな娘さんでは、あの奥様には太刀打ち出来ないだろうな、と思いきや、こうも見事に向こうを張ってのけるとは。昨夜に抱いた心配はどこへやら、今朝方から感心することしきりであった。

 ともあれ、これで引き下がってくれれば良いのだが、そうはいかないのがジョゼフィーヌである。カルタン伯爵家の屋根の下、同じ女であれば常に妻としての威で押さえ込んで来たのが彼女なのだ。また一度目を着けたのなら、どうあってもひれ伏させねば気が済まない気性の持ち主でもある。


「……言葉遣いも中々に達者じゃないの」


「ありがとうございます」


「これも前にいた家での御薫陶かしら? ……オーブニルの御次男の」


 彼女の口にした名に、ざわ、と周囲が色めき立った。


(お、お、オーブニル!? それも……次男っ!?)


 アンリエッタ付きのメイドも、声を上げそうになって口元を押さえる程のものである。

 オーブニル家の次男。それは王都の貴族なら誰もが知っている悪名だ。当然、平民であっても貴族の屋敷に供奉する者なら、その噂を耳にする機会は多い。彼女もそのくちである。

 かつて耳にした噂を思い出す。

 トゥリウス・シュルーナン・オーブニル。人呼んで【奴隷殺し】、或いは【人喰い蛇】。十の砌を迎える前から、奴隷を買っては残忍な方法で殺し、死体を中庭で焼いては残った骨をも砕いていたという悪鬼。その所業を寝物語に聞いただけで夢に出てきそうな、悪趣味な怪談の中の存在だった。

 そんなものは断じて、食事中に出して良い名前ではない。

 見れば気弱な嫡男などは、顔を青くしてナプキンを口に当てつつ、半姉の方を凝視している。それもそうだろう。ジョゼフィーヌの言う通りなら、アンリエッタはその怪人物の下で暮らしていたということになる。聞くだに身の毛のよだつ話の渦中にいた訳だ。とてもではないが、耳目を集めずに済むはずが無いのである。

 ジョゼフィーヌの表情に、驕慢な勝利の陶酔が浮かび上がった。周囲の人間のアンリエッタを見る目は、上品で利発な令嬢に向けるそれから、嫌忌と好奇に満ちたものへと変わっている。ジョゼフィーヌが出した名には、それ程の効果があったのだ。


「ええ。その通りです奥様」


 だが、アンリエッタは事も無げにそう言った。

 伯爵夫人の余裕は虚を突かれたように消え、他の家人も目を瞬く。カルタン伯などは、ないことに食器を取り落とし、皿の上で派手な音を立てていた。

 彼女はつるりとその顔を撫でてから続ける。


「ご――いえ彼のお陰で、こうして傷一つ無く命を繋いでもおります」


 その言葉に対する、夫人の反応は激烈だった。

 食器の鳴る音、グラスの倒れる音が、テーブルの各所で立てられる。食卓上に敷かれたテーブルクロスが、大きくずれたのだ。ジョゼフィーヌが思わず両の拳を握り締めたが為に、巻き添えになって掴まれ、引き込まれたのである。

 しん、と耳に痛い静寂が辺りを包んだ。


「如何なされました、奥様? お加減がよろしくないように見受けられますが」


 彼女の言葉通り、ジョゼフィーヌの顔色は大きく様変わりしている。だらだらと冷や汗を流し、目を見開いて赤黒く逆上せた表情は、まるで蝦蟇蛙だ。邪悪な蛙の魔物が魔法で伯爵夫人に身を窶していたところを、アンリエッタが一言の下に術を解いたとさえ思える。


 ――傷一つなく、命を繋いでいる。


 たったこれだけの言葉に、一体どのような意味があったというのか。

 いや多少なりとも夫人の人となりを知る者なら、簡単に類推出来ることだ。

 アンナマリーと彼女は、囲われていた別宅を追い出された後に治安の悪い地区に居を移し、そこで凶事に見舞われて消息を絶ったという。恐らく追放劇だけでなく、その事件にも夫人が関与していたのだろう。でなくば、ただの一言がここまで効果を発揮することは無いはずだ。それにこの妬心に取り憑かれた女性なら、愛妾とその子を夫の傍から引き離すだけでなく、更に惨い追い打ちを掛けても、何ら不思議ではない。

 カルタン伯も流石にその意を悟ったようで、明確な不審の目を妻へと注いでいる。


「ジョゼフィーヌ、お前……」


 伯の唸るような声に、夫人はビクリと肩を震わせた。

 見れば、周囲の人間も彼女の動揺に疑わしげな視線を寄越している。皮肉な事に、彼女の子であるはずの嫡男もだ。母の性情は子も熟知していたということである。

 今やアンリエッタに注がれていた悪感情は、完全に夫人の方へと跳ね返されている。オーブニル家の次男、という社交界のタブーすら持ち出した攻撃すら、見事に切り返された形だった。


「……き、気分が優れません。部屋に、戻ります……!」


 夫人は席を蹴立てるようにして、食堂から出て行こうとする。

 乱暴に退けられた椅子は、派手な音を立てて床に倒れた。動揺の余りとはいえ、先程アンナマリーの行儀を皮肉るのに用いた椅子。その扱いの無様さを露呈してしまったのだ。


「ふ、ふんっ……!」


 最後にアンリエッタに鋭い一瞥をくれてから、ジョゼフィーヌは去った。

 残されたのは、耳に痛い静寂に気まずい雰囲気、それと荒れ果てた食卓である。

 伯が溜め息を吐き、嫡男は所在無さげにナイフとフォークを握ったまま途方に暮れていた。見れば、彼が食べていた料理の皿は床に落ちて割れている。そんな中、アンリエッタは立ち上がると深く頭を下げた。


「申し訳ありません、皆様。お招き頂いた朝餉にて、とんだ不調法を」


「お、面を上げなさい、アンリエッタ。それに招かれたなどと他人行儀な。ここはもうお前の家だ。な? そうであろう?」


 カルタン伯は猫撫で声を出した。仮にも伯爵であるとは思えない声だったが、娘を迎え入れた初めての食事でこの有様である。娘の気持ちを慮ると、どれだけでも下手に出ようとするだろう。

 彼女はそれを酌んだかのように素直に顔を上げた。


「はく――お父様の御配慮は忝く思います。ですが奥様のお気持ちをいたずらに乱してしまいました。後ほど、改めましてお詫び申し上げに参りたく――」


「あ、いや、結構。あれの悪い病気が出たまでだ。妻には私から、お前の謝意を伝えておく。その方が角が立たぬであろう」


「……重ね重ね御手煩わせてしまい、恐縮です」


 そして再度ぺこりとお辞儀をする。

 これで彼女は奥方へ、伯から直々に寛恕を求めさせることに成功した訳だ。度々悋気をぶつけられる夫とはいえ、彼女自身が出向くよりは余程上策だろう。狙ったかどうかは分明でないが、大した韜晦の術である。

 アンリエッタは次いで、嫡男の席の方へとツカツカと歩み寄った。流れるような所作で、誰もが見惚れたように声を掛けられない。

 彼女は床に落ちている割れた皿の破片を拾うと、


「……≪錬金≫」


 時間を逆に戻したかのように、元の形へ戻してしまった。


(ま、魔法!?)


 メイドは驚いた。確かにカルタン伯は、元は宮廷魔導師として功成り名を上げた人物だ。その娘であるアンリエッタが魔法を使えても不思議ではない。しかし、ほとんど詠唱も無しに、見事に破損物を直してのけるとは。


「形だけ整えて直した故、以前より薄く割れやすくなってしまいましたが……」


 卓の上へ音も無く静かに皿を置きつつ言う。

 その姿に、嫡男は目を輝かせた。


「す、凄いです、姉上っ! 謙遜なさらずとも良いではありませんか、見て下さい、絵柄も割れる前と同じだあ!」


「いえ、差し出がましい真似をしたと思います。お父様は元宮廷魔導師ですから。私などより上手にお直しできるかと」


「い、いやいや、そう謙遜することは無いぞ?」


 伯の顔は少し引き攣っていた。恐らくだが、彼でもこれほどの手際で壊れた物を修復は出来ないのだろう。

 アンリエッタはちらりと無邪気な半弟の姿を見やると、背後に控える家僕たちへと手を叩いた。


「な、何でございましょうか、アンリエッタ様?」


「皿が落ちた折に中身が散って、弟の召し物が汚れています。……早急に拭いて差し上げるか、替えを御持ちして下さい」


 透き通るような美声、穏やかな言葉であったが、その裏に有無を言わせぬ迫力がある。

 上品さを損なわないまま、目下の者の背中を押してのける命じ方だ。使用人という人種を使い慣れた者の態度だった。

 命令された家僕は、ハッとしたように目を瞠った。


「も、申し訳ありません、お嬢様」


「謝罪は弟へお願いします。それと伯爵家の御世継ぎに、いつまで汚れた服をお着せしているつもりなのですか?」


「た、直ちにお清めをば!」


 その家僕は恐縮しきった体でハンカチを取り出し、嫡男の服から汚れを拭う。

 少年は、困惑した表情を異腹の姉へと向けた。


「あの、その……厳し過ぎませんか、姉上? これくらいなら、自分で拭けますし」


「……私はそうは思いません」


 断固とした口調でアンリエッタは言う。


「奉公人たる者は、率先して主の面体を保つよう心掛けるべきです。着衣の汚れを放置して呆けているなど以ての外。ましてや彼らは伯爵家のしもべ、仕える御家の家格に相応の働きを示さねばならないでしょう」


「は、はァ……」


「次があれば、貴方からもお叱りの言葉を。寛容と融通は貴種の徳ですが、下々の者への善導もまた高貴な義務でありますので。……もっとも、彼らも私などより長くお屋敷にいる身。二度とあることは無いと信じておりますが」


 耳に痛い正論だった。

 流石は昨日帰参するまでメイドをしていただけはある。元同業には手厳しい。


(わ、私も気を付けよっと)


 アンリエッタ付きのメイドはそう肝に銘じた。

 何しろ、彼女が最も仕事振りを目に入れる使用人は、お付きである自分。また立場上、叱責の権利と義務もアンリエッタに属しているのだ。粗忽な真似を見せれば、今聞かされた以上に遠慮の無いお叱りが飛んでくるに違いないのである。

 その美しくも恐ろしい新たな主人は、屋敷の当主へと丁重にお辞儀した。


「……新参であり、また未だ公儀のご容赦を受けていない身でありながら、僭越なことを申しました」


「は、ははは……」


 カルタン伯は声を上げて笑う。

 驚きと困惑、そしてそれ以上の喜びを滲ませた声であった。


「いや、見事! お前の申すことは、いちいちもっともである。うむ、私としても鼻が高いぞ」


「勿体無きお言葉です」


 完璧だ、と思った。

 彼女に仕えるメイドから見ても、このご令嬢は文句のつけどころが無い。

 食事のマナーを心得て、相手に負い目はあれど正妻に拮抗してみせ、正嫡の弟を教導しながら、使用人たちに威儀を示す。元宮廷魔導師の子らしく、魔法の腕前も達者だった。

 そして何より、その全ての行動を彼女ならば当然のことと思わせるような品格のある容姿。

 これ程の佳人は、恐らく王宮にさえいないのではないかとすら感じる。


(……凄い人に仕えることになっちゃったなあ)


 ともすれば父であるカルタン伯さえ圧しかねない輝きに目を細めながら、心底そう思うのであった。




  ※ ※ ※




 朝食を終えて部屋に戻ると、彼女は軽く息を吐いた。

 貴族として振舞うのは肩が凝る。着衣は動き難い上に頼りない。そして何より――首元が寂しい。

 身に馴染んだ銀の感触が恋しかった。隷属の証、契約の印、彼との十一年の思い出の品。

 それは主自身の手で砕かれてしまった。原因は彼女の不始末だ。自分がはっきりと十一年前より以前のことを思い出していれば、そのことを主に伝えて今回の件を予防することも出来たはず。彼女はそう思っている。

 アンリエッタ・ポーラ・カルタン。現在の彼女と断線している、過去の亡霊。

 今となってはハッキリとその頃を思い出せる。母との暮らしも、時たま訪れた父の笑顔も、そして徹底的に壊されたあの日の事もだ。







 ある日、彼女と母は、暮らしていた家から追い出された。当時は何も分からずに混乱していたが、恐らくそれがジョゼフィーヌの姦計だったのだろう。母アンナマリーを雇ったごろつきに襲わせ、それを以って不義密通として非を鳴らし、側妾の座から追放する。何も知らないアンリエッタは、その日まで呑気にも母が落ち込み気味であること以外、気付きもしていなかった。無論、何を察していようと六歳の童女に出来たことなど、たかが知れているだろうが。

 そうして叩き出された先のスラムのあばら家。不便で荒んだ新たな暮らしに慣れる間もなく、ジョゼフィーヌが現れた。取り巻きとして、いかにも品の悪い男たちを連れて。

 あの猛女は、濡れ衣と汚名を着せて追放した程度で愛人母子を赦す気など、毛頭無かったのだ。あの女は言った。売女はどこまでいっても売女だ、と。生きている限り、また男に取り入って返り咲こうとするであろう、と。故にそんな所業を許す心根と、それを養う浅ましい面の皮を奪うのだ、と。

 そうして彼女たちは蹂躙された。ジョゼフィーヌの嗾けた男どもの人波に呑まれ、獣じみた狂宴の贄と供された。

 男たちに思う様穢し尽くされたと思うと、今度はジョゼフィーヌの番だった。アンナマリーが乱暴に耐え切れず、ピクリとも動かなくなったと見るや、その娘に対して執拗な暴行を始めたのである。

 まかり間違って事切れることのないよう、慎重に丁寧に顔を潰された。骨が潰れたらわざと下手に掛けた魔法で歪に治し、見る間に見れたものではない肉塊に仕立てられた。そうして出来上がった失敗作の顔を、手鏡でもってとっくりと彼女に見せつけたのである。鬱血して腫れ上がった瞼を無理に抉じ開けてまで、見せつけたのだ。

 アンリエッタ・ポーラ・カルタンが死んだのだとしたら、恐らくはその瞬間だろう。行為の意味を解することなく穢された時でも、母がだらりと弛緩して動かなくなった時でもない。

 立派な淑女になると。

 素敵な恋を遂げると。

 綺麗な花嫁になると。

 母から託された、無垢で無邪気で、夢のような望み。

 幼い少女が漠然と抱いていた人生の指標。

 きっとそれが――二度と叶わぬことだと悟った瞬間、彼女は自分が人間だと考えるのを止めたのだ。

 気が付いた時には、屠殺した豚を投げ売るように奴隷市場に送られていた。

 そして、彼と出会ったのだ。







『――君、名前は?――』


 意識が朦朧としている中で、知らない男の子にそう聞かれた時、困ってしまったのを憶えている。アンリエッタは人間の名前だ。決してこんな薄汚れた肉塊のことではない。だから素直に、わからないと答えたのである。

 口にした瞬間、最後の気力が抜けて意識を失った。

 次に目覚めたのは、薄暗い地下室だった。身動きが取れない状態で、崩れた顔を執拗に弄られていた。痛みはあったが、それを相手に訴える気は無かった。自分はもう、心臓が動いているだけの死体だ。人間ではなく、かつてそうだった残骸だ。だから切り刻まれようと潰されようとどうでもいい。出来れば早く楽にして欲しい。そう思っていると、得体の知れない薬を嗅がされてまた眠りに落ちたのだった。

 そんなことが、一週間ばかり続いた。


『――やあ、一号ちゃん。今日はいよいよ包帯を取る日だよ!――』


 彼のそんな言葉に、彼女はぼんやりとしながら顔を上げた。

 言葉の意味がよく分からない。

 六年という短い年月ながらも積み重ねてきた人生は、既に粉々のバラバラだ。その時の彼女には、人間らしい反応とはどういうものか、そんなことすら失われていたのである。

 死体を運ぶように椅子に座らせられ、設えられた鏡の方を向かされる。この前、鏡に映った醜い自分に心を壊されたばかりだった。壊されていたから、特に何も思わない。黙って彼の為すがままになる。ただ、出来ればなにも見たくないので、目は固く閉じていた。


『――素晴らしい――』


 そんな言葉が聞こえたので、閉じていた目を開く。

 鏡の中からは、一週間前に失われた顔が、こちらを見返してきていた。

 胸が詰まる。

 いや、違う。自分は壊れて死んだと思っていた彼女に、最早顔などというものはどうでも良い。本当に目を奪われたのは、鏡の中で自分に並んで立つ少年の姿。今ここに、彼女がいることに全身で歓喜を示す誰か。君はここにいてもいいのだと、いてくれて嬉しいのだと、全霊で肯定を送る者。

 日々の暮らしから追われ、命を脅かされ、尊厳を奪われ、母を失って顔まで壊された残骸が、彼によって初めて息を吹き返した。

 アンリエッタの抜け殻だった彼女に、初めて生きる意志が湧く。それは蘇生ではなく、誕生である。

 地下の薄闇という子宮。哀れな少女の残骸に、彼の喜びが宿って彼女が生まれた。

 その実感に喉がわなないた。


『――ぁ、ありがと、ございます……!――』


 初めての言葉は、彼への礼だった。

 助けてくれて、ありがとう。

 喜んでくれて、ありがとう。

 ここにいてくれて、ありがとう。

 そんな拙い礼に対して、彼は彼女を抱き締める。


『――なに、僕の方こそ君にお礼を言いたいくらいだ!――』


『――本当によくここまで頑張ってくれた!――』


『――有意義な実験だったよ!――』


 温もりに包まれて、ほのかな体臭を嗅ぎ覚えながら、その言葉を脳裏に刻んでいく。

 砕けていた心が、カチカチと音を立てて再び繋ぎ合わされていった。

 その中にそっと、かつて彼女だった少女の知らない異物が紛れる。

 或いはそれは、恋、と呼べる物だったかもしれない。







 回想はいつの間にか、彼との出会いにずれ込んでいた。

 仕方のないことだと彼女は思う。

 何しろ、アンリエッタとして生きてきた時間の倍近く、彼の物として日々を送っていたのだから。

 彼を喜ばせ、彼を満たし、彼の目的を遂げる為の所有物。

 自分はそんな存在であると、彼女は自身を規定してきた。

 だが、それももう終わり。

 彼女の首に、彼の占有を示す首輪は既に無い。

 そこに寂寞と喪失を味わわされながらも、最後に聞いた主の言葉を思い出す。オーブニル本邸の、応接室を出た際に聞いた声を。


『――ええ、ええ! そうです! 戻るのなら早い方がよろしいですものね!――』


 ドゥーエなどはラヴァレ侯爵に向けて言ったものと思っているだろうが、その実、カルタンに引き摺られるようにして廊下を歩いていた、彼女へのメッセージなのだ。でなければ、温厚であり余分と非効率を嫌ってもいる彼が、無闇矢鱈に声を張り上げるはずなどない。

 戻るのなら早い方が良い。つまり自分を回収せずに、脱出計画を実行するということだ。そしてわざわざ彼女に聞かせたということは、彼女が彼の下を離れても影響がある事態、すなわちプランD実行の予告を意味する。

 その際に、惨禍の中で自決と悟られないように死ねという指令なのだ。

 それを思うと、彼女の胸はぎゅっと締め付けられる。

 ああ、自分の主はなんと――


(――なんと慈悲深い御方なのでしょう……)


 あの陰謀家の侯爵に悟られる危険を冒しながらも、無価値どころか害悪にすら堕した自分へ、自裁を赦す言葉を賜るとは。またそれを行っても、周囲に怪しまれないだけの状況を整えても頂けるのだ。

 これで彼女は無為の生を悪戯に長引かせなくて済む。死に急ぐつもりはなかったが、主の役に立てない生など、百年生きようと千年永らえようと塵芥を積み重ねるに等しい。山となるほど積もろうと、塵は塵。メイドにとっては速やかに掃除すべき対象に過ぎない。やはり主は自分を理解してくれていると、改めて感謝の念を深くする。

 不肖の身にこれだけの御恩を頂いたからには、カルタン伯が主への非難を出すような事態は、何としても喰い止めなければならない。それが自身に出来る、自死を遂げる前の最期の奉公だ。彼女はそう思い定めていた。

 首輪は外された身だが、最後に下された主命だけは必ずこなす、と。

 その為にも、


「少しよろしいでしょうか」


「あ、はいっ。何でしょうかお嬢様」


 お付きのメイドに声を掛けると、彼女は即座に返事を返してきた。


「……部屋に閉じ籠りきりというのも何ですし、少し屋敷を歩いても構いませんか?」


「ええ、ええ! どうぞどうぞ! 何もそんな遠慮なさることはありません。ご当主様が仰っていたように、このお屋敷はお嬢様の家でもありますので」


 ひとまず、問題は無いことを確認する。

 塞ぎこんでいる訳ではないと伯に見せる為にも、また事が起こった時に備えて間取りを把握する意味でも、屋敷の中を歩いておいた方が良い。それが彼女の判断である。

 メイドの娘は彼女の手を引いて扉を開けた。


「お嬢様はこのお屋敷での暮らしは初めてでいらしましたよね?」


「……ええ」


 この家に来る前に起こったのが、例の騒動だ。屋敷の敷居を跨いだのは、昨晩が初めてのことになる。


「では、不肖ながら私めが案内させて頂きますっ」


「頼みます」


 カルタン伯爵家の屋敷は、新たに興された貴族だということもあってか、爵位の割には大きくない。王都ブローセンヌといえど土地が余っている訳ではないのだ。いや、四方を城壁に囲まれている分、寧ろ狭苦しい街であるとも言える。伯爵位を賜ったといえど、新参が大きな屋敷を構えられるほどの余地は無いということか。

 その分、王宮からの俸給は弾んでいるのだろう。家具や絵画などといった調度類は充実している。傑作だったのは、気鋭の画家に金を積んで書かせたと思しき伯の肖像画だ。その絵の隅に記された小さなサイン。その名には彼女にも見覚えがあった。写実的な人物画を書く為に、解剖学まで学んだという画家の名前である。主の蔵書の一つに、彼が挿絵を担当したものがあったはずだ。奴隷への実験を行う主を毛嫌いしていながら、それと同軸の人種に肖像画の執筆を依頼する皮肉。笑う気は起きないが、思わず溜め息が出てしまう。

 それにしても、見たところ芸術品の類に統一性が見られず、それらが飾られた廊下の雰囲気には、調和というものが見られない。ただ単に華美なだけだ。これでは高い物や流行り物を無作為に買っているだけなのでは、とすら思わされる。彼女はメイドに聞いてみた。


「……この品々、どなたが買われているのです?」


「それは主に奥様ですけど……やっぱり、お嬢様も悪趣味だと思われます?」


 納得した。ジョゼフィーヌはカルタンが伯爵位を授かる以前からの糟糠の妻である。つまりかつては男爵家の庶子に嫁ぐのが相応の身分だった訳だ。恐らくは貴族の中でも限り無く平民に近い家の出身ではないか。それが夫の出世で伯爵夫人である。芸術の趣味が成り金めいているのもそれなら納得できるし、身分の低い女へ向ける嫉妬混じりの憎しみも、近親憎悪が多分に含まれていると考えれば理解しやすい。


「私は芸術の分野には暗いもので」


 無論、そんな考えを開陳しては騒動の元だ。彼女はそう言ってお茶を濁した。


「おや、お嬢様にもお詳しくないことがおありで?」


「当たり前です。私も人間ですよ」


 実際は人間であろうとなかろうと、芸術のセンスは別問題だろう。あの貴族気取りのオーパス04には、こうした美術品に関する知識は無いだろう。フェムなど戦闘に関すること以外無知だ。二百年以上は長生きしたドライも、知悉している文化はダークエルフのそれである。そう考えると知己の中でこうした方面に詳しいのは、育ちの良いヴィクトルか……或いは主なのではないかとさえ思う。

 彼は飾ることには無頓着であったが、作る方面においては才能が傑出していた。礼装類のデザインのスケッチは、完成した実物を容易に想像できる程のものであるし、『作品』であるフェムの造作など、彼女の目から見ても入魂の域だった。

 そんな感傷を弄びながら、メイドを連れて屋敷を渉猟する。まあ、そんなに大した所ではなかった。家具や調度に手と金が掛かっているだけのただの家だ。使用人の部屋など設えている区画の規模からして、このメイドの「お嬢様が立ち入られるようなところでありませんよ」という言が、謙遜ではないことを窺わせる体である。狭い部屋に相当無理をして人数を詰めているのだろう。これではマルランの奴隷メイドたちの方が、余程良い暮らしをしているくらいだ。

 他には、他の貴族の邸宅には無いだろう設備として、簡素な調合室があった程度。元宮廷魔導師の家らしい部屋だが、それも本当にちゃちなものだ。彼女が彼に買われて間もない頃の地下室、あれの方が幾分か上等というくらいであった。ガレリンにいた頃にも思ったが、本当に世の魔導師たちというものは錬金術に重きを置かないものである。

 そんなことを考えながら散策を行っていると、


「――ですから、今からでも考え直して下さい!」


 などという、ヒステリックに喚く声が聞こえてきた。


「? 如何なさいました、お嬢様?」


 傍らのメイドが、立ち止まった彼女を怪訝そうに見る。おそらく、この娘には聞こえなかったのだろう。野伏からレンジャーの訓練も受けてきた彼女だ。聞き耳の程も常人の及ぶところではない。


「貴方は騙されておいでです! あの娘が、本当にアンリエッタかどうかなど、分かったものではありませんよ!?」


 声の主はジョゼフィーヌだった。ということは、相手はまずカルタン伯だろう。それ以外にこんな内容を訴える対象は、この家にはいないはずだ。

 果たして、カルタンの妻に反駁する声も聞こえてくる。


「お前が何を言おうと、あの子を我が家に迎え入れることは、当主たる私の決めたことだ」


「その当主たる貴方を騙しているのが、あの娘でしょう!? 黒髪緑眼の女など、このブローセンヌだけでもごまんといるでしょうに。生き別れた娘が今更になって現れるなどと、本気でお思いで!?」


「ふんっ。あの【奴隷殺し】と似たような理屈を言いおるわ」


「まあっ!? 何ですって!?」


 ジョゼフィーヌは信じられない、とでも言いたげな声を上げた。

 彼女も同感である。主に無理を言って彼女を身請けたというのに、その彼への侮蔑を隠しをしないとは。そもそも死にかけていた彼女が生きてここにあるのは彼のお陰だ。娘が可愛いというのなら、彼への感謝を示しても罰は当たらないだろうに。


「うわ……奥様と旦那様ですか」


 メイドもこの口論に気付いたようだった。それを余所に、ジョゼフィーヌの言葉は白熱していく。


「くっ……そもそも今になって庶子を認知なさるなど、御家が割れる元です! 何度も言いますがね、今ならまだ間に合うことでしてよ? 即刻、高等法院への審理の届け出を撤回なさって下さいまし!」


 家中の静謐を思えば、夫人の言こそ正しいと思う。この家の正嫡はどうも頼りない。貴族としての振る舞いに欠けるくらいならば、彼女の主のようにどうとでも繕える。が、見たところ傍の従者にも人望を得てはいなかった。下が主人の不足を補う気が無い状態で、新たな子の出現である。それが女子であったとしても、この家の未来に及ぼす影響は大きいだろう。最悪、娘の婿に身代を乗っ取られる恐れがあるからだ。

 それを避ける手の一つは、ジョゼフィーヌの言う通りにそもそもの認知を行わないことである。原因があって結果が生まれ、それが良くない結果であると端から分かっているなら、原因そのものを無効化する。

 これが最もコストの掛からない方法ではあるが、娘可愛さに目が眩んだ伯は受け容れまい。


「いい加減にせぬかっ! あまりにも強情を張るようなら、こちらにも考えがあるのだぞ!?」


「考え、ですって?」


「お前とあの子、どちらかが家にいられないと言うのなら――」


「あ、貴方っ!? なんということを――」


 ……ほら、この通りだ。これでもし、伯爵の意思が通ってジョゼフィーヌが家を追われたら、その息子である嫡男の、ただでさえ乏しい権威が傷つく。それにつけ込んで御家騒動を起こしそうな連中は、幾らでもいるのだ。

 そしてもう一つは――引き取った娘を、伯爵家を乗っ取れない、或いは乗っ取る必要の無い家に、さっさと嫁に出すこと。カルタン伯が彼女を家に迎え入れることを諦めない以上、どうしたってその顛末に落ち着く。

 彼女の推測するその最有力候補は――トゥリウスだろう。遠く僻地に領を持ち、逆に王都への影響力を持たず、家格も釣り合っている上に、何より彼女と浅からぬ縁がある。伯は嫌がるだろうが、その上役であろうラヴァレ侯爵辺りは、最初からそれを目論んでいたに違いない。自分の制御下にあるカルタン伯爵家を通して、マルランに干渉する。最悪の場合は彼女の存在を利用してカルタンに彼を讒訴させて葬る……ちょっと考えただけでも、手口は色々と思いついた。

 彼の花嫁になる機会がある、ということに思うところが無い訳ではない。いや、ともすればその考えを弄んでしまいそうな自分もいる。だが、それはトゥリウスが彼女に求めているものではない。寧ろアンリエッタ・ポーラ・カルタンなどという厄介な瘤付きなど、彼としては願い下げの相手だろう。

 だからプランDの存在を仄めかし、彼女に他殺に見せかけた自決という形で防げと命を下したのだ。


(ご安心ください、ご主人様。必ずし(おお)せてみせます)


 彼女としても、そのつもりだった。元より彼と結ばれたいなどという願望は、かつてのアンリエッタの残滓であり、今の彼女のものではない。彼女が思う恋とは――愛とは、そんな物に落ち着く程に柔なものではなかった。良い道具が良い使い手に応えるが如く、自身の全てを捧げることだ。夫婦などという同格に収まることなど望外というより論外である。

 そんなものへの未練が、彼の道具として完成しつつあった彼女を迷わせ、損ない、そして彼から引き離す原因となった。

 十一年前の亡霊は、それを生み出した夫人のみならず、その所産である彼女をも呪っていたのだ。だから、それが彼にまで及ぶ前に断ち切らなくてはいけない。


「お嬢様、大丈夫ですか?」


 メイドの声で我に返る。気付けば傍付きの娘は心配げな表情でこちらを見ていた。


「やはり無理をなさっていたのですね……」


「?」


「離れましょう。奥様がいつ部屋からお出でになるか分かりませんし」


 そう言って彼女の腕を引いて行く。一瞬、この娘が何を言っているか良く分からなかった。ひょっとしてジョゼフィーヌの発言を気に病んでいるとでも思っているのだろうか。

 誤解ではあるが、訂正する意味も理由も無い。そう思わせておいた方が都合が良いと、計算を巡らせるだけの思慮は既に戻って来ていた。

 メイドは余程ジョゼフィーヌの言が据えかねたのか、彼女を部屋に連れ戻しながらもぷりぷりと不満を鳴らしている。


「奥様も酷い仰りようです。そう思いません?」


「……」


「お嬢様のご出自を疑われるのも酷いですが……あんなの、ご当主様に物申す口振りじゃありませんよ。言葉尻だけ謙ってみせて、その実、ほとんど命令形じゃありませんか! あんなの、ただの我儘――」


「待ちなさい」


 思わず口を挟んだ。メイドは大袈裟にビクリと竦む。


「ひゃあ!? お、お嬢様? な、何か不愉快な発言でもしてしまいましたか?」


 確かに使用人としての分を超えている点がある愚痴だった。だが、それはいい。彼女が聞き咎めたのはそこではない。


「貴女、今何と言いました?」


「へ?」


「もう一度、繰り返して下さい」


 そう命じ、じっと相手を見据えて言葉を待つ。


「あ、『あんなの、ただの我儘』――」


「その前です」


「え、ええっと、……『言葉尻だけ謙って見せて、その実、ほとんど命令形』、ですか?」


 ……。

 それだ。

 気付くと共に、昨夜の風景がフラッシュバックする。主と交わした会話の風景だ。


『――いつまでもそのようなご調子でいられては、困ってしまいます。どうか、ご自分の本分にお立ち返り下さい――』


 最後の最後でプランDを仄めかす言葉を掛けられた所為か、それ以前の会話が頭から抜けていた。トゥリウスがあの時、彼女へと向けて台詞。これは……言葉尻だけ伯爵令嬢に向けたそれらしくした、彼女への命令だったのではないだろうか。

 自決を命じるだけなら、プランDを示唆するだけで十分だ。こんな長口上など不要である。そう考えるのが、トゥリウス・シュルーナン・オーブニルという人物なのだ。

 ならば、その意味は?


『――どうか、ご自分の本分にお立ち返り下さい――』


 本分に返れ。それは分かる。あの時の自分ときたら、とても見れたものではない。首輪を外されたことに動揺しきっていたし、その前からも主人と引き離される予感に気が気ではなかった。そんな精神状態では、婉曲な自決命令も解せないと判断されても、おかしくないだろう。

 だが、その次はどうだろうか。


『――心落ち着かれたら、一度ゆっくりとお考えください。ご自分がどうあられるべきか――』


『――人生は長いのですから――』


(あ……)


 人生は、長い。

 死ねと命じた相手に言う言葉では、断じてない。

 彼はまだ、自分を切り捨てるつもりは無いのだ。

 ……だとすると、自分がすべきことは死ぬことではない。また何もせずにおめおめと生き延びることでもない。一刻も早く、プランの発動より前に、彼の元へと戻ることではないか!


「……貴女は、賢いのですね」


「はい? 何です?」


 目を瞬くメイドに頓着せず、彼女は思考に沈む。

 自分は馬鹿だ、と思った。

 答えは最初から目の前にぶら下がっていたのに、問題すら目に入っていなかったとは。

 これは頭の中にバグがある、とかいう以前の問題である。帰参に成功したら、真っ先にラボで再調整する必要すらあるだろう。


(ご主人様の下へ、帰る……)


 壊れていた部品が、カチカチと音を立てて元の場所へと戻っていく。十一年前にも味わった感覚に似ていたが、それとは決定的に何かが違った。

 あの時、アンリエッタはユニになった。

 だが今は、彼女はユニに戻ったのだ。

 彼のところへ帰る。万難を排して、帰る。カルタンにもラヴァレにも邪魔はさせない。その為の条件は、刻限までに十分に揃えられる。

 この屋敷には『アレ』があるし、何よりこの街はブローセンヌである。……何年も慣れ親しんだ【銀狼】の狩り場なのだ。

 ユニは決然と顔を上げた。

 そして思う。

 今夜にでも動き出そう。何しろ今度の仕事は、本当に時間が無い中でのことなのだから、と。

 

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