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030 彼女のいない居室

※100万アクセス記念、3話連続投稿の3回目となります。先に前の2話をご覧ください。たくさんの方々のご愛読、本当にありがとうございます!

 

 夢を。

 夢を見ていた。

 ――遠く、余りにも遠く隔たった日の夢だ。

 目の前にあるのは、小作りながらも瀟洒な外観の家だった。

 玄関をくぐる。廊下を進む。ドアを開ける。

 暖炉の傍に、針仕事をする女がいた。


「うぇ……ぐすっ……おかあさァんっ!」


「あらあら、どうしたの? 可愛いお顔が台無しよ?」


 若く美しい女は手を止めると、泣きながら帰って来た我が子を優しく出迎えた。

 万一にも娘を怪我させないよう、裁縫道具を脇に置いてから、柔らかくその胸に抱き止める。

 緑眼に湛えられたのは慈母の情と憂いの色だ。

 そんな母に向けて、その子どもは啜り泣きながら訴える。


「あのね……みんなみんな、いじわるするの。あそぶの、やだっていうの」


「まあ……お友達と喧嘩したの?」


 母親の言に、子どもはふるふると首を横に振った。

 やや置いて、言い辛そうに告げる。


「……おともだちに、なってくれないの」


 いない者と喧嘩など、出来る筈が無い。

 その子どもには、ただの一人も友人はいなかった。

 目を合わせる母親の眉が物憂げに下がる。

 きっと、彼女にも心当たりがあるのだろう。

 果たして子どもは、母の傷心に気付いた様子もなく訴える。


「『おまえのおやはずるい』っていってた。『きぞくとなかよくして、ずるい』って。『おとなは、みんないってる』って……」


 成り上がりが嫌われるのは、平民の世界でも同じことだ。

 目の上の瘤である貴族にすり寄っての場合は特にである。

 別して、この親子の場合は、


「それと……『【めかけ】のことあそぶと、びょーきがうつる』って。『きっと【しょうふ】みたいに、はずかしいびょーきをもらってるぞ』とかも……おかあさん、びょーき、なの?」


 貴族の側妾と、その子。

 平民の連帯の内にも加われず、貴族の権威にも守られない、中途半端な存在。

 権無く財貧しい庶民たちにとって、鬱憤をぶつけるにこれほど格好の相手もあるまい。

 自分たちを抑圧する者に身体を開いた女と、憎らしいそれらの間に生まれた子どもだ。

 さぞ軽蔑し、頻繁に陰口を叩いていることだろう。子どもたちも、聞き覚えるほどに。


「っ……」


 その母親は、堪りかねたように我が子を抱き締めた。


「おかあ、さん?」


 子どもは不思議そうに母の顔を見上げる。


「ごめんね……ごめんなさいね……! 私の所為で、貴女にも辛い目を……!」


 ぽたぽたと、頬に熱い雫が滴った。


「おかあさん、ないてるの? どこか、どこかいたいの!?」


「ううん、平気。私は平気よ……でも、貴女が辛いのが、悲しくて――」


 母親はわななくように言葉を詰まらせた。

 全ては自分が悪いのだと、思っているのだろう。

 娘を真っ当な貴族の子として産めれば、平民の子どもたちから苛められることは無い。

 娘をごくありふれた庶民として産めれば、平民の子どもたちとも友達になれたはずだ。

 そんなことでも、思っているのだろう。


「――私が駄目な親な所為で、娘である貴女にまで苦労を掛けて……」


「やだよぉ……おかあさんまで、ないちゃやだぁ……」


 母の涙に、腕の中の娘はむずかるように身を捩った。


「それにおかあさん、だめじゃないよ? わたしがしってるおとなで、おかあさんがいちばんりっぱでやさしいもんっ」


「ぐすっ……ふふっ、貴女はそう言ってくれるのね……」


 子どもらしい稚拙な慰めに、それでも母親は気丈に笑い返す。

 そして優しく頭を撫でてやった。

 母の手の感触に、子どもは安心したようにうっとりと目を細める。


「わたし、おかあさんのこと、だいすき! だから、おとなになったら、おかあさんみたいになりたいっ!」


 その言葉に、若い母親の笑みの質が変わった。

 どこか痛みを堪えながら浮かべるような、そんな笑い方だ。


「それは駄目よ。だぁめ」


 精一杯に冗談めかせた否定。

 子どもはそれに目を瞬く。


「えっ? どうして?」


「貴女なら、きっと私より立派な大人になれるから」


 そう言う母親の顔は、祈るようでも夢見るようでもあった。


「平民である私とは違って、貴女は貴族のお父様の血を引いているのだもの。きっと、素敵な淑女になれるわ」


「おとうさま?」


「ええ。貴女も大好きなお父様」


 微かに顔を赤らめながら、母親は語った。


「あの方は立派なお方。そして優しいお方でもあるわ。今はまだ奥様が落ち着かれないからと仰っていたけど、いずれ貴女をおうちに迎え入れて下さるわ」


「わたしをつれてくの? ここにくるんじゃなくて?」


「ここより立派なお屋敷よ。そうしたら、きっと今までより構って下さるわよ?」


「ほんとう!? おとうさま、わたしともっとあそんでくれるの!?」


 子どもは嬉しそうな声を上げる。

 余程父親が好きなのだろう。聞くだにその声は弾んでいた。

 母親は無邪気な答えに苦笑を漏らす。


「その分、お勉強や習いごともしなきゃいけないわよ?」


「う~……あそぶだけじゃだめなの?」


「そう、駄目なの。しっかりお父様の言いつけも聞かないと」


 子どもはしばらく不服げに唸っていたが、やがて何かに気付いたように視線を上げた。


「……おかあさんは?」


「え?」


「わたしがおとうさまについていったら、おかあさんはどうするの?」


 子ども心に母が自身について語っていないことを察したらしい。

 その声には打って変わって不安が滲む。

 母親も表情を曇らせた。


「……私は、きっと行けないわ」


「どうして……?」


「奥様が、お怒りになるから」


 ぎゅっと、子どもをあやす手に力が込もる。


「いたい……」


「あっ!? ご、ごめんね? 私ったら、つい……」


 またぞろ涙を浮かべる子どもを、母親は必死に宥めた。

 どうにか娘が癇の虫を収めた頃合いに、母は続ける。


「……お母さんが行けないのはね、お父様のちゃんとしたお嫁さんじゃないからなの」


「おかあさん、およめさんじゃなかったの? おとうさんとなかよしさんなのに? えほんとちがうよ?」


 好き合う男女はやがて結ばれ、女は花嫁となって男と幸せな家庭を築く。

 いかにも子ども向けの絵本にありそうな御伽話である。

 母親は、悲しげにゆっくりと肯いた。


「ええ……お母さんがお嫁さんじゃなかったから、貴女にもこんな苦労を――」


 言いながら、再び娘を抱き締める。


「貴女は、こんな女になっては駄目。自分の子どもを泣かせるような母親にはならないで。しっかりとお父様の仰る通りにして、立派なレディに育って。それでいつかは……ちゃんと綺麗なお嫁さんになって頂戴ね?」


「わたしがおよめさんになったら、おかあさんはうれしいの?」


「勿論よ、きっと嬉しいわ」


 母の手が、子どもの髪を優しく梳った。


「だからお母さんと約束してね。いつか私やお父様と同じくらい好きな人が出来たら、ちゃんとその方のお嫁さんになるのよ?」


 自分のように、妾として蔑まれないように。

 恐らくは、言外にそんな意図を孕んでいるはずだった。


「すきなひとの、およめさん……」


 子どもは母親の言葉を拙くなぞる。

 小さな子どもだ。きっと、恋の意味も愛の重みも知りはしまい。

 それでも母の願いに宿る、その切実さだけは悟ったらしい。


「……うんっ、やくそくするっ! ぜったいに、りっぱなおよめさんになるよっ!」


 高らかに、そう宣言する。

 きっと、満面の笑みで言ったのだろう。母親は眩しそうに眼を細めた。


「ええ。絶対によ? ――アンリエッタ」


 母も、百合の蕾が綻ぶように笑った。

 ……そうして、母の願いは子の胸に刻まれる。

 立派な淑女になると。

 素敵な恋を遂げると。

 綺麗な花嫁になると。

 母から託された、無垢で無邪気で、夢のような望み。

 きっとそれが――







「――それが私のバグなのですね」


 夢から覚めた彼女は、現実の唇をそう震わせた。




  ※ ※ ※




 今更初夜に薄甘い幻想を抱く身でもないが、それにしたってこれはないだろう。

 ライナス・ストレイン・オーブニルはそう思って憂鬱になる自分を感じていた。


「勤めを果たして疲れているところ、あいすまぬのう」


 そう言って笑うのは、毎度のことながらラヴァレ侯爵である。

 宴席用の礼服をだらしなくない程度に寛げ、ソファーに腰掛けて悠々と茶を啜っていた。

 対するライナスはというと、下こそ部屋着のズボンを履いているものの、上半身は素肌の上にそのままガウンという格好。とてもではないが客に、それも爵位で上回る相手に会う格好ではないが、この時ばかりは仕方無かった。何しろ房事を終えてすぐに湯を使い、急いでこの会見に駆け付けたのだから。


「すまぬと仰せなら、せめて朝までお待ち頂ければよろしかったでしょうに」


 ライナスはしかつめらしい顔を隠しもせずに言う。


「ただでさえ披露宴にて一騒動あったのです。この上、新郎がそそくさと寝室を抜け出さねばならぬなど、他の客に見られでもしたら如何なさるおつもりですか?」


 何しろ全てを終えて微睡んでいるところに、この呼び出しであった。後であったから良かったものの、もしも事の最中に声が掛かったらと思うと、気が気でなくなりそうである。


「シモーヌを窘めるのにも苦労させられました」


「であろうな。それ故、使いには半刻待つと言わせた」


 侯爵は悪びれもしない。

 ライナスはこの皺だらけの顔を叩き潰してやりたい衝動に駆られた。


「そのような顔をするでないぞ伯爵。男振りが台無しじゃて」


「……夜分でもあります。ご用件はお早めに」


 逆撫でされた神経を必死に鎮めながら、話を促す。

 ふざけてはいるが、この急にも程がある呼び出しだ。恐らく、速やかに協議すべきことがあるはずだった。


「用件は他でもない。貴殿の弟御のことよ」


 だろうな、とは思っていた。

 ライナスも名実ともに中央集権派に組み込まれた身だ。侯爵と会見を持つ用は多々あるが、この晩に叩き起こされてまで話すことなど、トゥリウスの件以外に無いだろう。


「アレが如何されましたか? 事は上首尾に終わったと見受けますが」


 少なくとも、ライナスの目にはそう見える。

 トゥリウスは手足に等しい最初の奴隷を、為す術無く奪われた。それも伯爵家の落胤というお墨付き入りの箱に仕舞われて、である。王都への政治的影響力を持たず、また悪名から嫌忌される彼には、決して開けられない仕組みの鍵が掛かった箱だ。

 事は侯爵が思い描いた通りに運んでいる。

 だというのに、侯爵は何をまだ気に病むというのか。


「思ったより、堪えた様子が無かったでな」


 そんなことか、と嘆息を漏らす。


「見た目だけですよ。アレはそう簡単に己の腹の内を見せる男ではないのです。故に心中穏やかならぬ時ほど、ニコニコと薄ら笑いを顔に張り付けている。それだけのことでしょう」


 ライナスの見たところ、トゥリウスにも相当に打撃はあった。確かに披露宴の会場に戻ってからも、如才無い笑顔で取り繕ってはいた。だが事の経緯に彼を上機嫌にさせるような物は何一つない。それでも笑うというのは、つまるところ愚弟一流の強がりである。

 要するに、怒りや焦りを見せる程のことではないと、寧ろ必死にそう主張する為の仮面だ。


「ほっ! 良く見ておる。そこは流石に兄弟かね?」


「……冗談はお止め下さい。それに、このくらいのことは侯爵閣下こそお見通しでしょう」


 トゥリウスの人生、その二倍近い時間を謀略の中に過ごしてきたのが、ラヴァレという男である。政治に携わってまだ一年の若造、その虚勢など、それこそ手に取るように理解出来ているはずだった。


「まあ、の。だが……」


 そのはずであるのに、珍しく侯爵は口籠った。

 大概の場合はずばずばと言いたいことを言うか、そうでなくば言を左右にしてこちらを弄ぶのが常であるというのに。


「如何なされたのです?」


「……あの小僧。確かに怒りや苦衷、焦慮を押し隠した目はしておった。敵意をも滲ませておったよ。目は口ほどに物を言う、であるな。だが――」


 言いながら、ラヴァレは髭を手で撫でつける。


「迷いは、無かった」


「迷いが無い、ですか?」


 鸚鵡返しの問い掛けに、侯爵はちらりとこちらを見た。


「そうさの。弟御は我らの策に掛かり、最も重要な手駒と思われる存在を手中より失った。ならば、今後の対処に考えを巡らせるのが筋であろう?」


 言われてみればその通りである。

 何度もこの老怪にしてやられた自分の経験に照らしてみる。罠に掛けられたと気付いた時には、すぐさま及ばされる影響の把握と善後策に思考が向かったはずだった。そしてそこには必ず逡巡が――迷いが生じる。またその迷いを見計らって更なる策を捻じ込むのが、ラヴァレのいつものやり口だ。

 だがトゥリウスは敗北を悟るやすぐさま追従を示し、淀み無く笑顔の仮面を被ったのである。それはカルタン伯から要求される前に、奴隷の首輪を外してのけたことで端的に表れていた。

 余りにも行動に迷いが無さ過ぎる。まったく対応を用意できていなかった策略に掛かったというのに、だ。確かに尋常の反応ではないと、ライナスは唸る。


「つまりはこう仰りたいのですか? トゥリウスにはこちらの仕掛けた策に嵌った後も、明確な行動の指針となる何かがあるはずだ、と」


 たとえば挽回の為の打つ手などが。

 であれば、敗北を悟った途端に迷わずそれに縋るはずだ。


「それが一番ありうる解釈じゃな」


 侯爵は肯いた。


「そして、弟御は自ら奴隷を――アンリエッタ嬢を自ら手放し、首輪さえ外してみせた。つまりは奪還を目論んでおる可能性は低い。となると、他に考えそうなことは……分かるであろう?」


「……次の仕掛けを逃れようと、足止めを喰う前に王都を離れる」


 ライナスは呻くように答える。

 冗談ではなかった。トゥリウス謀殺の布石を整える機会は、今を置いて無い。少人数の共しか連れず、本拠地を離れている現在が好機なのだ。なのにここで逃げられては、またぞろ辺境のマルランで穴熊を決め込まれてしまう。そうなると、また派閥工作を再開され、今度はより手出しし難くなるのは簡単に予想できる。

 それにしても予想外だった。あの買った奴隷を片端から皆殺しにする悪魔が、生かして常に傍に置いていた数少ない例外。それも最古参であり何くれと世話まで焼かせていた存在を、見切ってでも逃げ出すというのか?

 ……逃げるだろう。何しろ、自分の貴族としての立場、ひいてはそれに守られている命が掛かっているのだ。どれほど見目良かろうが強かろうが、最早、奴隷一人にかかずらってはおられまい。それに彼女を取り戻そうとすればカルタン伯との争いになる。十中八九、いや必ず敗れる争いである上に、時間も掛かるだろう。我が身が可愛いなら、そんな無駄な事はしない。

 無駄な事はしない。そう言えばそれが奴の信条だったか。


「であれば、小僧――弟御は明日にも逃げ出す恐れがある」


 成程、それが侯爵の危惧か、と唸る。

 確かにその恐れがあるのなら、喫緊の用事であった。深夜、それも婚礼の終わった初夜の召し出しも当然であろう。快く受け入れられるかは別としてだ。


「では、奴の監視を密にするよう、手の者にも命じておきましょう。併せて手紙の類も、当主としての権限で私が先んじて検閲します」


 脱出の口実には、国許からの連絡を理由とするのが一番手軽である。折しも麦の収穫が近いこともあった。この時期に領民の態度が不穏である、などと報せが舞い込めば、トゥリウスはそれを口実に、嬉々として王都から逃げ出すだろう。後で追及されても、話し合いで解決したのでご安心を、の一報で済ませば良い。

 それを防ぐ為には、上役である自分が手紙を手元に置いて、奴に読ませないようにすることが肝要である。

 最悪、手紙を偽造される恐れもあるが、常に彼を監視して、いつ、誰と会ったかを全て控えておけば良い。そうすれば手紙を取り出したところでその出所を突くことも出来る。

 ラヴァレも同意見のようだった。


「それがよろしかろうな。儂の方からも陰働きに長じた者を回そう」


「……御助力、忝く思います」


 忌々しい思いを押し隠して、ライナスは頭を下げた。侯爵の密偵を屋敷に招き入れるなど、とてもではないが歓迎できる事ではない。だが、それでトゥリウスを追い詰められるのであれば、躊躇う理由にはならなかった。


「では、後のことは予定通りにの」


「はっ。必ずや奴の滞在を長引かせ、次の手が打たれるまで留め置きます」


 トゥリウスを足止めしてその隙にマルランを探り、構築中の派閥に離間を仕掛け、更には王都に留め置いた奴へと更なる策を撃ち込む。

 あの人形じみたメイドの存在が、足枷にもなりそうにないのは計算外だが、事はほぼ思い通りに進んでいた。

 アンリエッタ・ポーラ・カルタン。いや、【銀狼のユニ】。

 以前に調査に送った『緑の団』とかいう冒険者らは、既に脅威ではなくなったなどと報告を上げていたが、どこまで信用出来るか分かったものではない。何しろ首輪を嵌められたままであの【奴隷殺し】の傍に居ながら、十一年の長きに渡って生き延び続けた怪物である。韜晦の術は十二分に心得ているだろう。あの盆暗どもは、まんまと騙されたに違いなかった。

 永年、トゥリウスの陰働きの大部分は十中八九あの女が務めていただろうし、二つ名持ちの冒険者が並々ならぬ実力者である程度はライナスにも分かる。

 それを相手から取り上げられただけでも上々だ。後は片翼を失い敵地に孤立した獲物を、じっくりと料理していけばいい。

 ライナスは初夜に水を差された鬱憤を晴らすように、勝利の予感に酔う。

 ただ、


「……努々油断されぬようにな」


 ラヴァレが最後に漏らした呟きが、その陶酔に瑕疵を残した。




  ※ ※ ※




 時間はやや前後する。

 宴席が終わり、大方の賓客が屋敷を後にし、泊まっていく者は部屋へと引き上げる頃合い。

 トゥリウスは、披露宴の終了とほぼ同時に部屋へと引き返していた。

 そして旅支度の荷物の中を漁って、何やら作業に没頭している。その背から感じる鬼気迫る圧力に、ドゥーエとルベールはしばらく無言を守っていた。


「……よし」


 トゥリウスが手早く組み上げたのは、水晶を頂いた台座。金銀で豪奢に飾られたそれは、さながら異教徒が人目を隠れて崇拝を捧げる小さな祭壇のようにも見えた。

 その正体は、長距離通信用の魔導礼装である。

 そうした礼装は本来、通信に用いる距離に比して嵩張っていくものであるが、これは高価な素材を惜しげも無く投じ小型でありながら性能を増している。その上、解体し、旅行鞄のかしこに仕込むことで携帯を可能とした代物だった。前回の魔物狩り、並びにエルフの里襲撃に赴いたドライに渡した物と同一の物である。

 前回は国外からもマルラン郡の地底ラボにまで声を届けた程だ。まして今回は同じ国内、通信には全く問題が無いだろう。


「マスターより、中枢部へ応答願う。繰り返す。マスターより、中枢部へ応答を願う」


『……こちら中枢部、オーパス03。通信感度、極めて良好であります。存分にご指図を、ご主人様』


 術式を込めたクリスタルが振動し、部屋の中にドライの応答の声を響かせる。無論、それが外に漏れないよう、結界は既に張られていた。

 トゥリウスはニコリともしないまま、通信の向こう側にいるドライへ指令を送る。


「緊急事態が発生、プランDを発令する。オーパスシリーズはその全てを動員しろ。オーバー」


『プランD……』


 ドライが息を呑んだ。彼が口にしたのは、事前に策定していたプランの中でも、最も過激とされる例の作戦である。エルフの里を丸々一個叩き潰して平然としているドライですら、微かな抵抗を覚えるほどの策。

 トゥリウスはそれに、『作品』たちの全てを動員してまで当たれと命を下したのだ。


「復唱は? 03」


『は、はっ! 失礼致しました! 緊急事態の発生に伴い、プランDを発令。オーパスシリーズの全てを動員して事に当たります。オーバー』


「結構。では、何か質問は?」


 淡々と命令を下すトゥリウスは、あのユニもかくやという程の冷徹さだった。

 兎に角、効率的に事を進める。それ以外は念頭に無い。

 そんな機械的で非人間的な口調である。


『04の動員は危険だと考えます』


「下手な【外食】は許可しないと言い付けろ。いざとなったら【よく顔を見て】命令すればいい」


『了解しました。他にも05は目立ち過ぎる気もしますが?』


「【おめかし】は問題無い。後は【アクセサリー】で何とかしろ」


 万が一の盗聴に備えての隠語を交えた指令。

 ドゥーエの見たところ、トゥリウスは冷静さは失していないように見えた。

 ただし、冷静に怒り狂っている。でなければ、オーパスシリーズの全てを動員するなど言い出す筈が無いのがトゥリウス・シュルーナン・オーブニルだ。自分たちが留守にしているマルランにも、ライナスと侯爵の干渉があり得るのだから。

 それにはヴィクトルと量産型の『製品』たちで対処に当たれるとしても、普段のトゥリウスなら決して取らない選択である。


「他に質問は?」


『……最後に。我らへの【路銀】の援助は?』


「無い。だから最初に緊急事態と言った。既定の通り【旅程】の全てはそちらの独力で行え」


『なんと……!? あ、いえ、失礼……。ご指令、全て承りました。オーパス03は必ずや主命を実行します。オーバー』


「期待する。オーバー」


 動揺を覗かせたドライを慮る言葉すら無く、トゥリウスは通信を終えた。

 間違い無く、苛立っている。

 部下との会話に軽口の一つも挟まない、というのは、常のトゥリウスならあり得なかった。

 礼装を解体して再び鞄に収納する主に、ドゥーエは声を掛けた。


「ホントにやっちまうのか、ご主人よ?」


「通信は聞こえていただろう?」


 手を止めることも無いまま返事が返って来た。

 通信の際と同じ、冷たく切り付けるような声である。


「チーフメイドを放置していても、大丈夫なのですか? 最悪、巻き込まれますよ?」


 ルベールも危惧の意を述べた。

 プランD――脱出計画の最強硬案は、下手をすればトゥリウスから引き離されたユニまで巻き添えを喰らいかねない、そんな危険な手段なのだった。

 だが、主の答えはにべも無かった。


「……だから?」


 それがどうしたと言わんばかりの、冷たい声である。

 これにはドゥーエも、頭にカッと血が上るのを抑えきれない。


「アンタ……!」


 無意識に踏み出した足が、ピタリと不自然に停まった。

 手術で仕込まれた命令だ。どれほど嫌悪し、憎悪しようと、主に手は上げられない。

 その効果は、こうして今も十全に発揮されている。


「ユニは、あの女は……誰よりアンタに尽くしてきたんじゃなかったのか……!?」


 絞り出すようにそう言う。言わずにはいられなかった。

 ドゥーエはユニの事など好いてはいない。主とどっこいの狂い具合を考えれば、寧ろ嫌いな部類に入るだろう。だがそれでも、彼女が主人に命すら差し出しても惜しくはないと、全力で忠誠を捧げ続けて来たのは知っていた。それを思えば、トゥリウスから引き離され、あまつさえ彼自身から手放されたことに、同情を禁じ得ない。

 なのに、彼女をそこまでの存在に仕立てた張本人は、


「そうだね。でも、それが?」


 意に介した様子も無く、そう言ってのけた。


「寧ろ、彼女なら僕の脱出の足枷になるなんて望まないだろう?」


「今までのアイツならな……!」


 だが、現在の彼女は主に捨てられた身だ。取り乱して、泣いて、縋り付こうとしても縋れずに、何も出来ないまま連れて行かれた哀れな娘である。

 そんな娘が、今までの通りに主の為に死ねるか?

 ましてや彼女に施された手術は、ドゥーエと同世代のもの。叛逆心を取り除き、命令への服従を埋め込んだだけで、他の感情は手付かずなのだ。トゥリウスから引き離された状態で、何を思うかは全くの不明である。


「そんなにユニが心配かい? あの子なら何とか出来てもおかしくないだろうに」


「あんなに動揺していても、ですか?」


 そう言うのはルベールだ。

 ドゥーエも同感である。ユニの自失の体といったら、酷いものだった。たかが魔導師上がりの老貴族に、碌な抵抗も出来ずに引っ張られていったではないか。あの状態では、普段の半分の実力も出せるかどうか怪しい。それでも並の暴漢くらいには片手で対処出来るだろうが、プランDの齎す混乱にどこまで適応出来たものか。


「さて、ね……決行までの間に、落ち着きを取り戻すだけの時間は十分にある。八割方は、大丈夫だと思うけど」


「八割……まあ、生き残る確率の方が高いですけどね。ですが、このまま彼女を放置しておいて良いかは、また別問題ですよ?」


「情報が漏れる恐れがあるって? それこそ無用の心配だよ」


 トゥリウスは礼装を片付け終えると、設えられた椅子にどっかりと腰を下ろした。


「――脳を弄られて僕の不利益になる行動を意図的に取れない、ということは、拷問にも口を割らないってことさ。そうなると後は、ユニ自身の身体から、僕に何をされたかを調べるしかない。だけど、この国の錬金術師に何が出来る? ガレリン魔導アカデミーでも、問題無しとしか出なかったのに」


 ガレリン魔導アカデミー。こと魔法に関わる研究では、世界の最先端を行くとされる、ザンクトガレンの魔窟。そこでも分からなかったことが、旧態然としたアルクェール王国の調査で掴めるはずは無い。


「たとえ解剖したって、何も分かりっこないよ。何せ僕の脳手術は見て分かるような痕跡なんて残さない。脳はデリケートな器官だからさ、そんな目に付くほど大きい痕を残したら機能に何かと支障が出る。ましてやユニの身体で外科的に弄った部分なんて、脳味噌と顔の傷を治したくらいだもの。真っ当な検証じゃあ手掛かり一つ残らない箇所だよ」


 ――第一、折角愛娘を取り戻したカルタン伯がいる。彼なら拷問、ましてや解剖になんて同意しないだろうけどね。

 トゥリウスはそう結んだ。

 ……反吐が出るようなご高説だった。これが、今の今まで自分を支えてきてくれた娘の、その今後を語る口か? この男はユニを、たとえ腑分けされても問題無いとまで言ってのけたのだ。まともな人情など備えていないとは思っていたが、まさかこれ程とは。

 さしもの冷血漢ルベールも顔を顰める体のものである。


「……では、閣下からはチーフメイドの奪還に動かれないのですね?」


「ああ、僕らは動かない。今は王都からの脱出が最優先だ」


 結局、その結論は動かないのだった。

 トゥリウスは椅子の背凭れに深く身を預ける。


「それに身柄だけなら、後で僕のところへ戻ってくる可能性はあるね」


「身柄?」


 出し抜けに言われた台詞に、思わず目を瞬く。

 何を言っているのだ。カルタン伯は愛娘を取り戻したばかりであると、さっき言ったではないか。


「ルベールなら、分かっているだろう?」


「まあ、これくらいは読めますよ」


「おい、二人だけで何を分かった気になっているんだ。ちゃんと言えよ」


 そう求めると、腹の黒い二人は揃って出来の悪い生徒を見るような眼をドゥーエに向けた。


「披露宴の前にも話したでしょう? 政略結婚ですよ」


 ルベールは溜め息混じりに言う。


「王都にいる高位貴族で、ラヴァレ侯爵が言うことを聞かせられて、マルランに迂闊に近づかないくらいトゥリウス閣下に敵愾心を抱いていて、極めつけに閣下と即座に結婚出来る娘を持つ。そんな相手って、どこにいると思います?」


「ンなことを言われてもよォ……」


 こちらは貴族の常識に疎い身だ。そんな話を聞かれても分かる訳が――否。


「――って、まさか……!?」


 分かった。分かってしまった。

 思わず目を剥くドゥーエに、トゥリウスは面白くもなさそうな顔で、空々しく拍手を送った。


「ご明察。そう、……カルタン伯、その人だよ」


 確かにカルタンは王都に居を構える伯爵で、ラヴァレの言うことも素直に聞いていた。トゥリウスのことは娘を奴隷にしていた男として毛嫌いしているから、マルランに招待しても決して来ることは無いだろう。何より、彼の娘はユニだ。トゥリウスの下に帰れる、となったら喜んで結婚に応じる――かもしれない。

 実際には、それがトゥリウスの死命を制する謀略と見抜いて、出来得る限り引き延ばすことくらいはするだろう。しかしその間に見繕った適当な娘をトゥリウスに娶わす、などと匂わせば、それも危うい。他人の婿となるくらいなら、いっそ自分が――そう思い詰める可能性もあった。

 だが、


「あの伯爵が、そんな話に乗るか?」


 そこが疑問だ。可愛い可愛い生き別れの娘を、よりにもよってトゥリウスに渡す? カルタン伯の主張が実は出鱈目だったということでもない限り、有り得ないことのように思う。


「もしそうだとすりゃ、この話は――」


「いや、多分だけど伯爵の言っていたことは本当だよ」


 ドゥーエの脳裏に浮かんだ推測は、一言下に否定された。

 トゥリウスは言う。


「僕が彼女を買ったのはね、身体つきからして貴族かそれに準ずる暮らしを送っていたことと、何より高い魔力があってのことだ。その中で同年代の黒髪緑眼の女の子を絞り込んだら、恐らくは件のアンリエッタ・ポーラ・カルタン嬢しか該当しないだろう」


「……ていうかアンタ、ユニの前歴は今まで気にしていなかったのか?」


「ああ、興味があったのは彼女の性能だけだからさ。それに当時はユニも色々と酷い目にあって記憶が混乱していたんだよ。だからあの子の正体を聞く機会もあんまり無くってね。多分、ユニ自身も今なお、アンリエッタだった頃なんて良く思い出せていないんじゃないかな?」


 だとすると、尚更伯爵がそんな話に加担するとは思えない。

 だが、ルベールは首を横に振った。


「乗る、いえ乗せられるでしょうね。間違い無く」


「随分と確信を持つじゃねェか。根拠は?」


「カルタン家は、元はといえばあのピエール・シモン・カルタン伯が一代で為した家です。与えられた領地は、家格に比して余りにも小さい。新設の貴族ですからね、与える土地が国に無かったんですよ。……つまりは元から大封を持つ地方貴族と敵対する、中央集権派です」


 つまりカルタンとラヴァレ侯爵との間にあるのは、単なる親交ではなく政治的な繋がりだということだ。


「加えて言うなら、彼の家は自分一代の歴史の浅い成り上がりで、過去には今回の件の発端でもある例の醜聞事件を起こしてもいる。中央集権派でも肩身は狭いだろうさ。そこに派閥の領袖ラヴァレ侯爵から、娘を婚姻の為に差し出せと言われたら? ……断れないさ。そうだろう?」


 そう言うのはトゥリウスである。

 確かに、家が大事なら断れない。そもそも妾を持とうと考えたのは、自分の血筋を残し、家を保つ為である。ユニの母であるというアンナマリーという女性にのめり込んだのは、初めから火遊びが目当てだった訳ではなく、あくまで結果論に過ぎない。折角取り戻した娘を思えば心苦しいだろうが、最終的には断腸の思いで差し出すだろう。

 それにラヴァレとしても、同じく策謀の糧とするなら、切り捨てても惜しくない相手を選ぶはずだ。推測通りにカルタン伯が派閥内でも発言力が低いとしたら、まずこれを犠牲とする。他の同志は歴史も格式もある家の貴族であるだろうし、その分命令を聞かせ辛く、よしんば聞かせたとしてもその後の障りが大きいのだ。


「娘を取り戻す為に使った権力のお陰で、その娘を元の場所に戻す羽目になるのさ。……馬鹿な話だよ、全く」


 吐き捨てるように評するトゥリウス。

 確かに馬鹿な話だ。救いの無い話でもある。

 恐らくラヴァレは、トゥリウスの首に鈴を付ける為に、彼が王都にいる内に話を纏めようとするだろう。それを考えると、事に一ヶ月も要したりはしないはずだった。

 折角の親子再会も、泡沫の夢という訳だ。


「それに伯爵個人にとっては凶報でしょうが、カルタン伯爵家という御家には朗報でしょうね。伯の話によると、彼女の直後に正嫡の後継ぎも産まれているんですから」


 ルベールが言うのは、あの恐妻ジョゼフィーヌとの間に出来た男児のことだ。お互い四十を過ぎてからの老いらくの子である。どう育ったかは知らないが、あの愚痴っぽい長話の中で聞いたことだ。夭折したり何か欠陥があったりしたら、ユニを取り戻す正当性を強調する為にも語っているはずである。それが口の端にも上らなかったということは、恐らく無事に育っているだろう。


「ああ。そこに彼女が戻ったら、御家騒動の種だ。だから伯は兎も角その周囲の人間は、急いでユニを片そうとするだろうね。下手をすると彼女に婿入りして御家乗っ取り、なんて目論む男が幾らでも出てくるから」


 伯爵家の御連枝の座に、おまけとして中身は兎も角見かけは絶世の美女まで着いてくるのだ。若手の貴族にとっては、喉から手が出るほど婿の地位が欲しいだろう。


「その前に遺産の分与などで揉めないよう、遠方に領地を持った、そこそこの貴族に宛がうのさ。例えば、王国の最果てで子爵なんてやってる、娘とは満更知らない仲でもない男とかに」


 特に彼女の追放を図ったおっかない正妻は、それを欣求して止まないだろう。


「……確かに、伯爵以外には良いことづくめに見えるがな。しかし今更、ユニをアンタの元に戻すかね? 折角分捕った伝家の宝刀を、すぐに元の鞘に戻してどうするんだよ」


 ドゥーエが疑問に思うのはそこだ。それだとトゥリウスは多少煩わしい諸事に追われるものの、結局手駒を失わないままではないか。

 だが、トゥリウスはそれを否定する。


「そうなると、ユニは本当に伝家の宝刀になっちゃうのさ。容易には抜けなくなる」


「は? どういうことだ?」


「分からないのかい? この経緯を経てマルランに来るのは、ユニであってユニじゃあない。伯爵家の御令嬢、アンリエッタ・ポーラ・カルタンなのさ。そんなやんごとない御方を、今までのように闘わせたりしてみなよ。カルタン伯に知れたら、烈火の如く怒って離縁を迫るだろうね。いや、それ以前に――」


 トゥリウスの説明を、ルベールが引き継いだ。


「――守るべき婦女子を矢面に立てたとして、閣下の地位が吹き飛びます。貴族の冒険者も多いですが、既婚の女性がそれをするなど前代未聞ですからね。ましてやそれが夫に命じられてとなると、風評への被害は奴隷への人体実験の比ではありません。それこそ兄君が閣下を弾劾するに足るまで貶められるでしょう」


 成程、確かに伝家の宝刀だった。いくら良く切れようが、絶対に抜けない刀である。無理に抜けば、自分自身が斬られてしまうというのもやるせない。

 今まで散々に役立ててきたジョーカーが、足を引っ張るババに早変わりという訳だ。

 成程、これではユニの使い道は、精々が錬金術の助手程度にまで制限されてしまう。


「それに、何も僕がユニを使うまで気長に待つ必要は無い。世評は再会したばかりの娘を差し出した伯に同情的になるはずだ。それを利用すれば、根も葉も無い讒訴であっても馬鹿にならないことになる。例えば元奴隷であることを良いことに家中で軽んじられているとか、閨でおぞましい行為を強いられたとか。そんな噂でも立ったら、カルタン伯の介入する口実になる」


 どの道ユニは、トゥリウスを更に追いやる為の手駒として使い潰される訳だ。

 胸が悪くなる思いだった。

 やはり、あの気狂い女といえど――いや、彼女が狂う程に主を敬愛していると知っているからこそ、この話を聞くだに居た堪れない気持ちになる。


「……酷いな。これがユニの耳に入ったら、即座に自殺しかねないぜ」


「出来ないさ。もし自殺なんてしたら、動機をあれこれこじつけられて、僕を攻撃する為に使われるに決まっている。何せ一夜にして奴隷から貴族の令嬢に返り咲きだからね。こんな幸運に恵まれた中で自ら命を断つなんて、奴隷だった頃の扱いが原因で心を壊していた、だとか思われるのがオチだろう。それが真っ当な貴族の思考だよ。ユニの頭の良さなら、幾ら弱っていてもそれくらいは察せられる」


 本当に酷い。

 死ぬことすら、許されない状況だとは。


「こうなってしまうと、プランDも寧ろ彼女への慈悲ですね」


 ルベールはしみじみとそう言う。


「あのチーフメイドのことです。ご自分の存在そのものが閣下の利を損なうとなれば、最早生に未練もありますまい。来る惨禍の中なら、命を落としても自殺と疑われることは無いでしょう」


「まあ、ね……」


 答えと共に漏らした吐息は、淡く微かに湿っぽい物を含んでいた。

 何だかんだ言いつつも、自分に尽くしてくれた最古参の手駒に、思うところが無い訳ではない、ということか。

 彼の顔に浮かぶ表情は、先程までのような怒りや焦慮ではなく、憂いであるようにも見える。それは果たして、単なるドゥーエの欲目だったろうか?

 だったにしても、トゥリウスの下した結論が碌でもないことに変わりは無い。自分が逃げ出す為に、そして足手纏いに堕した従者へ自決の機会をやる為に、この王都に特大の災いを呼ぼうというのだから。

 ……。


(……おい、待てよ?)


 ふと、ドゥーエは気付いた。

 トゥリウスの言葉に、何かおかしなところは無かったか?

 プランDを実行すれば、ユニは死ぬ。彼女自らの手で死ぬ。

 今それを既定の物のように語りながら、先程この男は何と言った?


『――八割方は、大丈夫だと思うけど――』


 八割。

 それがプランD発動後の、ユニの生存率だと言ったのである。

 自殺をしても疑われない状況を与えれば、絶対に死ぬような事を言ったにも関わらずだ。

 ……何故だ? 何故、そんな矛盾を口にする?


「……おい、ご主人」


「ああ、気付いたかい?」


 訊ねるドゥーエに、トゥリウスは微笑みを浮かべる。

 むっつりと不機嫌な顔をしてこの部屋に戻ってから、始めて笑ったのであった。

 一見すると柔和でありながら、その実不埒で不遜な、いつもの不吉な微笑みを。

 

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