029 十一年目の亡霊<後篇>
※100万アクセス記念、3話連続投稿の2回目です。間違ってこちらを先に開かれた場合は、前のお話にお戻りください。
オーブニル邸の応接間に所を移し、トゥリウスとカルタン伯の会見が始まった。立会人はラヴァレ侯爵だ。仮にも仲人が新郎新婦を放り出してまで立ち会ってくれるとは、有り難過ぎて涙が出てくるというものだ。
どっかりとソファーに腰を下ろしたピエール・カルタン伯爵は、対面のトゥリウスの背後に立とうするユニに向かって声を上げた。
「何をしている、アンリエッタ? 私の隣に座りなさい」
「伯爵様。重ねて申し上げますが、私は――」
断りを入れようとしたユニを、トゥリウスは手を遮って止めた。
「僕は子爵。彼は伯爵だよ」
つまりは爵位に劣るトゥリウスが目下だ。彼女が本当にカルタン伯の言う生き別れの娘かは分からないが、身分の上では彼が上位である。
その彼がトゥリウスの奴隷に命じたということは、それはそのままトゥリウスへの命令である。
「……浅慮でございました、ご主人様」
トゥリウスに頭を下げ、あくまで自分は彼の奴隷だと示すユニ。
その姿にカルタンは目を剥き、次いでトゥリウスを親の仇を見るように睨みつける。
いや、子の仇か、とドゥーエは思い直した。
彼の言が正しいなら、トゥリウスは伯爵の娘を奴隷として侍らせていたことになる。
その上、伯爵が知っているかは不分明だが、冒険者として危地に送り命の危険にまで晒させていたのだ。
出来得ることなら自らの手で八つ裂きにでもしたい思いだろう。もしそうなったらユニは身を挺してでも止めるだろうし、ドゥーエも頭に仕込まれた命令に従って庇わねばならないだろうが。
ユニが大人しく伯爵と同席すると、ようやく剣呑な視線が収まった。代わって浮かぶのは、慈愛と憐憫を湛えた、娘を見る父親の目だ。
「カルタン伯」
二つのソファーの窺える合間に置かれた安楽椅子。そこに腰を落ち着けながら、ラヴァレ侯爵が口火を切った。
「トゥリウス卿も事の成り行きに戸惑っておられる。貴公の口からあらましを語ってくれぬかな?」
全てを仕組んだ張本人の口から聞くと、何とも図々しい言葉だった。どうせ全てを知っているのなら、自分自身で説明すればいいと、そう思ってしまう。
「失礼。承知いたしました……」
カルタンは渋い表情で肯いた。
そしてポツポツと語り出す。
「事の始まりは十一年前の事――」
貴族らしく、また年寄りらしい長い話だった。
掻い摘んで言えば、このような話である。
カルタン伯は、元をただせば男爵家の庶子であった。ルベールと似たような出自という訳である。だが、ピエール・シモン・カルタンにはルベールには無い才能があった。魔法の才能があったのだ。
宮廷魔導師となり、辣腕を振るい、王宮から相談に与るなどして着実に功を立てた彼は、やがて伯爵の位を賜る。
大出世である。大概の貴族は魔法の才を持って生まれたとしても、そこに至るまでに挫折し脱落する。宮中の権力闘争は熾烈なのだ。小身の成り上がりが生き抜くには、厳し過ぎる環境である。それを思えばカルタンは奇跡的な成功者と言って良かった。
己を輩出した家をも大きく上回る地位と権力。自分へ散々に威張り散らしていた長兄をも、逆に顎で使えるまでになったのだ。正に我が世の春である。だが、そんな彼にもままならないことが一つあった。
子どもである。
苦労に苦労を重ね、ようやっと掴んだ伯爵の地位。出来得るならば、自分一代で終わらせずに子に継がせて次代へ繋ぎたいと願うのが人情というものだ。
しかし、位低き頃より添っていた糟糠の妻とは、長らく子が出来ないまま互いに年を重ねていくばかり。このままではカルタン伯爵家がただの一代で潰えるのは時間の問題だった。いざとなれば親戚筋からでも養子を貰う手もあるが、折角己の手で建てた家である。継がせるなら自分の子でなければ嫌だった。
もしや肌が合わないのでは――そう考えたカルタンは、密かに別の女を囲った。身分の低い平民の女だ。
アンナマリー、というその女は、大層な美貌の持ち主であったらしい。平民という出自とは思われぬ気品のある顔立ち、伯の神経を疲れさせた貴族たちとは似ても似つかぬ、慈悲深く穏やかな気性。子を為す道具であったはずの彼女に、カルタンは忽ちの内に夢中になったという。
彼女へ与えた別宅へ足繁く通い、蜜月の時を過ごし……やがてアンナマリーは一人の女の子を産んだ。
それがアンリエッタ・ポーラ・カルタン。伯の初子で、彼曰くユニの本名――らしい。
カルタン伯は狂喜乱舞した。白髪の目立ち始めた年になって、ようやく出来た子ども。それも母に似て大変に愛らしい娘である。当然、溺愛した。目に入れても痛くないほどに可愛がった。
出来れば本宅へと迎え入れ、手元で養育したかったという。だが、折悪くもそうはいかない出来事が起こった。
彼女が産まれた頃に、なんと本妻であるジョセフィーヌ夫人も懐妊が発覚したのである。当時既に四十代も半ばに差し掛かろうというのにだ。伯爵がアンナマリーとの逢瀬で回春した影響か、それとも夫人の執念がようやっと実ったのか。いずれにしても奇異なことである。
伯は泣く泣く妾と娘を別宅に留め置いた。高齢での出産を控えた妻を刺激することを避ける為だ。自分が苦心の末にようやく孕んだところに、若く美しい別の女が、愛らしい赤ん坊を連れて現れたら、どうなるか。高い確率で血が上り、早産や死産の恐れさえ出てくるだろう。母子ともに命を危うくすることとなる。
それにジョセフィーヌは、情のこわいところのある女性だという。無事にお産が成ったとしても、迂闊にアンナマリーとアンリエッタを近づける訳にはいかなかった。
やがてジョゼフィーヌも子を産んだ。今度は男の子だ。カルタン伯は安堵した。本妻が男児を産んだとなれば、これは嫡男である。母であるジョゼフィーヌの地位も安泰だ。そうなれば妾とその娘が現れた程度で動じはすまい。この子が恙無く育ってさえくれれば、いずれ折を見てアンナマリーらと穏健に引きあわせることも出来るだろう。
が、そうはいかなかった。確かに子は妾腹の姉、正嫡の弟ともに健康に育った。だがジョゼフィーヌの性情は、出産を経ても穏やかになるどころか、より強硬なものへと変貌したのだという。老いらくの子への可愛さ余ってか、過保護で神経質な母となった。長じて妻としては妬心と猜疑の塊だったらしい。
伯爵がメイドと口を利いただけで真っ赤にのぼせ上って不義を疑い、酷い場合には他家の夫人へも嫉視を向ける。無断でメイドに暇を出されたことも一度や二度ではなかったし、酷い時には一生残る程の傷を負わせて叩き出したこともある。これではとてもではないが、妾と娘について話を持ち出せたものではない。
事を言い出せないままにずるずると時を消費し、アンリエッタが六歳になった頃……事件は起こった。
「妻がな、私が別宅に通っていたことに気付いたのだ」
苦衷に満ちた声で、伯爵は言った。
よくもまあ六年も、いや懐妊までの時間を考えればそれ以上、度を過ぎた悋気を抱えた妻を欺き通せたものである。ドゥーエとしては、奇妙な感心すら抱いてしまう。
「妻は私を詰ったよ。不実を責めるのは序の口。付き合いのある貴族から悪い癖を移されただの何だのと……しまいには軽輩の頃の逸話まで持ち出すわで手に負えなかった」
こういう時、男は女に口では勝てない。別して脛に傷持つ場合は特にだ。
「それでも私に非があることだ。妻は子を為すこと能ったというのに、それを信じられずに別の女を当て込んだのが発端であるからな。だから黙って文句を聞き、終わるまで耐えた。一晩中続くどころか、翌日の昼まで掛かるとは思ってもみなかったが」
冗談のつもりかもしれないが、誰も笑わなかった。室内の空気がそれを許さなかったのだ。
……それでもその場はひとまず収まった。
伯は貴族であり、ジョゼフィーヌ夫人も下位とはいえ同じ出身である。
血を遺すこと、家を保つことに腐心する思い故だと、そう分かってくれたと思った。
だが、そうはならなかった。
「ほとぼりが冷め、苦心してアンナマリーらとの引見の手はずを整えていた時のことであった」
そこで伯爵は少し口を噤んだ。
ちらりと視線をユニの方へと向ける。
彼女は伯から身体一つ分を開けた距離に恭しく座っていた。
「お構いなく、どうぞ」
そして他人行儀に先を促す。
その言葉に溜め息を吐きつつ、伯の独白は再開した。
余程彼女に聞かせたくない事なのだろう。表情は更に重苦しいものとなる。
「……ある日、ジョゼフィーヌは勢い込んで私に言った。アンナマリーに不貞の疑いあり、とな」
伯爵の口振りは憤然としていた。
恐らく、それを事実とは思っていないのだろう。
嫉妬深い妻の捏造であると、今なお信じているような顔である。
「間男の身柄も既に押さえている、とも。それを彼女と引き会わせれば、事実が明るみに出るはずだと、嬉々としておったわ。驚愕に青褪める私を慮りもせんでな」
虫の良い事を言う、とドゥーエは呆れた。先に他の女に手を着けておきながら、自分を思いやれなどとは勝手過ぎはしまいか。こちらも品行よろしからぬ身ではあるが、どうにも伯の言い分には同意できなかった。
「それで如何なされたので?」
トゥリウスが催促を飛ばす。この男のことだ、大方妻への愚痴などで話が脇道に逸れるのを嫌ったのだろう。今でも十分に長い話ではある。同じく聞く身としては、さっさと終わらせるにしくはないが、語り手の方はどう思っただろうか。
カルタンは苛立ちも露わな視線を飛ばしてから、続けた。
「会わせてみたさ。気は進まなかったがな。本宅に呼び出されたアンナマリーは……おお、可哀そうに! やつれて憔悴しておったのが、見る目にも明らかだった。あれは断じて不貞などに励んでいた女の顔ではない。彼女の身に起こっていたのは、もっと別の……ああ、口にするにも憚られることだったのだと確信したよ」
言いながら顔を覆う伯爵。
どうにも嫌な話になりそうな流れを勘付いて、顔が自然と渋くなるのを感じた。
都合良く本妻に押さえられた間男の身。
憔悴も露わな姿で呼び出された愛妾。
繋げて考えれば、反吐が出るような構図しか浮かばなかった。
だというのに、
「口にするにも憚られる、と仰られてもですね」
この男は、トゥリウスは一切の斟酌も無かった。
「具体的な話をお伺い出来ませんと、何とも申し上げられませんが?」
「――口を慎め、小僧っ!」
案の定、伯爵は激怒してやおら立ち上がる。
このままテーブルを挟んだ向こう側へ飛び掛かり、トゥリウスの襟首を締めあげかねない勢いだった。
それを制したのは、
「伯爵様」
他ならぬユニだった。
「どうか御心を平らかに」
平坦な声で窘められるのに、カルタンは酷く心外そうな顔をする。
それもそうだろう。彼が話を躊躇したのは、何よりも娘――だと信じている女――への配慮だからだ。
「し、しかしだな、アンリエッタよ――」
「良いではないか、カルタン伯」
今まで静観の構えを見せていたラヴァレ侯爵が口を挟んだ。
「見れば貴公がご息女という少女も、未だに得心がいかぬ様子。ここは正直に存念を述べた方が却って功を奏すやもしれぬ」
「侯爵閣下まで、何を仰られる!?」
「伯爵」
静かで、そして凄みのある声あった。
「話を進めよ。埒が明かぬぞ?」
「……失礼を致しました」
憤懣を抑えかねると言いたげな表情で、渋々と肯くカルタン。
彼は重々しく続けた。
「……間男と引き合わされたアンナマリーは、大層仰天しておった。あまりに仰け反るので、座らされた椅子ごと床に倒れ落ちるほどにな。それを見て、ジョゼフィーヌめ……やはり平民の女は無作法だ、などとのたまいおった! 挙句にその露わな動揺こそが不貞の証拠と、一方的に決め付けたのだ。アンナマリーは口も利けずにおったよ。私が見るに彼女の怯え方は、姦通の罪を裁かれることを恐れているというより、もっと直截な脅威に震撼しているようだった。なんだ……身の危険、と言うべきか――」
「ああ、成程」
そこでトゥリウスは合点したようだった。
身の危険。つまりは身体的な危害。そして不義密通の濡れ衣。
これだけの材料が揃えば、大体の想像は誰にでも付くだろう。
要するに、だ。不貞を糾弾したい相手に間男がいないなら、無理矢理にでもその事実を作ってしまおう、と。ジョゼフィーヌ夫人がそう考え、そして実行したのだと、伯爵は主張しているようだった。
それが真実かどうかは判らない。何せ十一年も前の、知らない家庭の話だ。だがカルタン伯爵の夫婦関係が、伯にそう信じ込ませてしまう程のものだったのは確かだろう。
「すみません、口幅たき儀を無理にお尋ねしました。それでその場はどうなりましたか?」
「ああ……ジョゼフィーヌのヤツ、如何なる伝手か法院の役人を抱きこんでおってな。その始終を見せつけて、非はアンナマリーにありと言わせたのよ」
「……法院? 法院というと、あの高等法院ですか?」
トゥリウスが素っ頓狂な声を上げた。
随分と大仰な組織が話に出て来たものだと、驚いたのだろう。ドゥーエはそう思った。
高等法院とは、アルクェール王国の法官を束ねる機関の名だ。主として司法を担当し、立法に当たっては建白書を上奏する権利をも持つ、云々。
正直、剣一本で生きて来たドゥーエには縁遠い、貴族や文官どもの集まりだ。以前に誰かから聞かされた概略を思い出すだけで、頭のつむじの辺りが痒くなる気分にさせられる。
何にしろ、どの程度の位階の役人かは知らないが、そんなところの人間まで引っ張ってくるとは、夫人の形振りの構わなさも尋常ではない。
伯爵はジロリとトゥリウスを睨んだ。
「……話の腰を折らんで貰いたい」
「これは失礼」
トゥリウスは素直に詫びた。話の先を促しておいて脱線するとは、確かに礼を逸する行いだろう。カルタン伯が気を取り直すようにして話を続ける。
「私がいくら彼女の無実を訴えても、愛人可愛さから無理押しに庇っているとされ、まともに取り合われることは無かった。周囲も御家の正統を確かとする良い機だと囃し……結果、アンナマリーは地位を追われた。アンリエッタも連座して、な」
惨い話である。恐らくは夫人が役人に金を掴ませて、より重い罰が下るよう図ったのだろう。それとも六歳になる娘まで不義の子であるとでも言い抜けたか。どちらにせよ、胸の悪くなる想像であった。
「アンナマリーの罪を晴らすのは難しかった。しかし娘まで咎を負う謂われは無かろうと、せめてアンリエッタだけは救おうと思った。だがその後しばらく経ち、私が事態の収拾にようやく目途を付けるところで、聞いたのだ。……アンナマリーは治安の劣悪な貧民窟へと追われ――」
伯はそこで目頭を押さえる。何度も濡らしたハンカチに、新たな染みが生まれた。
「そこで娘ともども暴漢の手に掛かった、と……」
アンナマリーの娘・アンリエッタの成れの果てが、真実ユニなのだとしたら、その後、奴隷市場に売られたのだろう。
そしてトゥリウス・オーブニルに買われた。
話の筋は通っている。
「母子ともに身罷ったと思っていた。二度と会えないと思っていた……それがこうして生きていてくれて、今日この日、奇しくも再会を果たすことになるとはな……」
伯爵は堪らなそうにユニへと目を向けた。
彼女の顔を通して何を見ているのか。子に面影を残して去った恋人との甘い記憶か、僅かな時間しか持てなかった娘との温かい思い出か。それともこれからに思いを馳せているのか。
いずれにせよ、長い話はようやく終わった。
トゥリウスは言った。
「それで、カルタン閣下は彼女をどうなされたいので?」
「無論、引き取る。正式に我が娘として然るべき身分も与えよう」
断固とした意思を覗かせつつ、伯爵は答えた。
これまでの回顧とユニへと見せた情から見て、当然の答えではある。
「それはまた……奥方が騒ぎそうですね」
「アレには何も言わせん。いざとなれば、心苦しい決断の一つもせねばなるまいが」
その言葉で仄めかされたのは、離縁の意思だ。妾腹とはいえ娘が奴隷に落とされるような事態となったのである。それを思えば、糟糠の妻が相手といえど、断固たる処置を取らざるを得ないだろう。
「伯の言うアンリエッタ嬢には一度、高等法院から追放の沙汰が下っておりますが」
「そこは儂が何とかして見せようかの?」
言って割りこんで来たのは、ラヴァレ侯爵だ。
「伯とは満更知らぬ仲でもない。それが生き別れの娘との再会に、こうも喜んでおるのだ。思いも掛けず立ち会ってしまったこともある。儂のような老骨としても、この慶事に些少な手助けをしようという情くらいは……なあ?」
何を言いやがる、というのがドゥーエの偽らざる感想だった。
全てを仕組んだのは、このラヴァレ侯爵だろうに。
ようやく理解出来た。今回の策謀はトゥリウスから手駒を――それも最大級の戦力にして最古参の側近を奪うことにあるのだと。
ユニの真の実力は部外者であるラヴァレらには伏せられていることであるが、少なくとも二つ名持ちの冒険者であることは調べれば分かる。トゥリウスの手駒としておくには、それだけでも危険過ぎると向こうは思うはずだ。
長年トゥリウスの下で働いていたこともある。彼に関する情報は誰よりも持っているだろう。まさかユニの口を割らせることなど出来はしないだろうが、その可不可は手中に収めてから侯爵らが判断することだ。策謀の定石を心得る者なら、まず身柄を押さえておきたい対象である。
最悪なのは……この状況に置かれた時点で、トゥリウスがこれを阻む術は無くなったということだ。武力や洗脳で打開を図っても、目撃者の数が数である。少なからず不自然な痕跡が残り、そこから追及を受けるのは目に見えていた。
「ああ、肝心な事を忘れていましたが……彼女が真実、アンリエッタ・ポーラ・カルタン嬢であるという証拠はお有りですか?」
トゥリウスは喰い下がるが、無駄だろう。
「トゥリウス卿……父親である私が、実の娘を見紛うとでもお思いか?」
伯爵は傲然と反論した。
「この黒髪、翡翠か緑玉かという宝石の如き眼……アンナマリーの生き写しであり、過日にアンリエッタが備えていた物でもある」
「黒髪緑眼の女性は、貴方が愛された母娘だけでもないでしょう」
「まだ言うか!? 私だけでなくあのジョゼフィーヌも顔を見て、すわアンナマリーの亡霊かと思い違えた程であるのだぞ! これがこの娘こそ彼女の子で、そして私の娘であるという証拠だ!」
「いや、具体的な証拠をですね……たとえば背中に同じ形の痣があるとか」
トゥリウスの言に、ラヴァレ侯爵がぎょっとする。大方、ヴィクトルからでも聞き出しておいた、父子の共通点なのだろう。だがそれは、老陰謀家に対する捨て台詞以上の効果を発揮したりはしなかった。
カルタン伯がじろりとトゥリウスを見る。
「卿……こちらからも問うぞ。貴殿がこの娘を手中に収めたのはいつだ?」
「……十一年前であります、カルタン伯爵」
躊躇いがちに発されたのは正直な答えだった。
仕方のないことではある。調べればすぐに発覚することだろうし、ラヴァレならこの件の下調べくらいは付けているだろう。偽りを言えば、それを以ってトゥリウスの非を鳴らし、更なる謀議の種とするはずだった。
答えを聞くと、カルタンは鼻を鳴らす。
「私が娘と生き別れた年と同じであるな」
「これだけの符合。儂の目からも、このお嬢さんこそがアンリエッタ嬢と思えるのォ」
動揺から既に立ち直っていたか、逃げ道を塞ぐように言うラヴァレ。
「それにこの騒ぎは、多数の客人にも見られておる。彼らの中には……ご母堂、アンナマリー殿のお顔を見知っておられる方もおるのでは? 見比べて母子と判ずる者は、如何ほどおるかのォ」
証人はいくらでもいる。特に侯爵側に有利な者は――ということだ。
だからこそ、披露宴の真っ最中などという忘れようの無い状況で事を起こしたのだろう。満座の客の前での生き別れの父娘の再会だ。話題に飢えた都雀は、頼まれずともこの事実を王都中に……下手をすれば国中に広める。
証人を立てて争うとなると、トゥリウスに勝ち目は無い。何しろ、彼ほど嫌われている貴族は他にはいないからだ。喜んで彼に不利な証言をする者はいても、その逆は皆無だろう。いかにラヴァレ侯爵が陰険な策謀家として悪名高いとはいえ、オーブニルの【奴隷殺し】程とはいくまい。
完全に、詰みだ。
「フゥ~~……っ」
トゥリウスは長い吐息を吐く。
重い、重い溜め息だった。
「……侯爵閣下のご慧眼、誠に感じ入りましたよ。若輩の身としては、恥じ入ることしきりであります」
そうして、ラヴァレへと頭を下げる。
敗北宣言だった。
少なくともこの場においては、この状況を引っ繰り返す手は無い。
侯爵の目が細められる。獲物を仕留めた嗜虐心に酔うようでも、トゥリウスの潔さを認め善哉と称えるようでもあった。どちらにせよ、勝者にのみ許される顔だろう。
「――お待ち下さい」
ユニが声を上げて立ち上がった。
表情は常と同じだったが、声は明確に震えている。
ドゥーエはまたぞろ悪寒を味わった。ユニから発せられる気配は、今にも爆発しそうな程に高まっている。鉄面皮の下には、波濤じみた感情のうねりが渦巻いていた。これは下手をすると、トゥリウスの命令でも押さえられないのでは? そんなことさえ思わされる。
「どうしたというのだ、アンリエッタ?」
だというのに、カルタン伯爵は呑気に訊ね返していた。
本当に元宮廷魔導師か、と内心で毒づく。
いかに巧妙に隠蔽されていようと、これ程の怒りと殺意だ。腕に覚えがあるというなら、自ずから気付くべきだろう。
「先程から何度も申し上げております。……私はユニです」
ユニはそんな主張を繰り返す。自分はアンリエッタ・ポーラ・カルタンではなく、ただのユニである、と。
それでは駄目だ、とドゥーエは思った。
事は既に、本人が違うと言ったから、では済まない段階に入っている。
長年奴隷として使われ続けた娘が、喉を嗄らして主の下にいたいと叫んでも、余程悪質な洗脳教育を受けたのかと思われるのがオチである。いや、事実としてトゥリウスがユニに施したのはまさにそれで、更にはあろうことか脳味噌まで弄っているのだ。
証言の信憑性の問題もある。宮廷魔導師として王国に寄与してきた実績のあるカルタンと、王家への忠を第一とする派閥の領袖ラヴァレ。この二人が組んで、更に状況証拠まで揃っているのだ。だというのに、こちらは奴隷殺しで錬金術に入れ上げる狂児トゥリウス・オーブニルとその共犯とも言うべき奴隷。裁判を行うのも貴族であれば、どちらがより支持されるかは自明であろう。
この主従が何を言おうと、事はカルタンが勝つように進むのだ。
仮にカルタン伯の言う、ユニが自分の娘アンリエッタであるという主張が、嘘八百の出鱈目だったとしても。
「労しいのう。まだそのように言われるか、アンリエッタ嬢……」
「……トゥリウス・オーブニル。可愛い娘を、随分と丁寧に躾けてくれたようだな?」
まるで彼女が無理やりそう言わされているとでも謗るように、トゥリウスを睨む貴族二人。大方の貴族は、彼らと同じ態度を取るだろう。ユニがトゥリウスを擁護すればするほど、却って立場を損なうように状況が仕組まれている。この策略と権力とに……トゥリウスは負けたのだ。
それにしても、このカルタンの気迫である。流石に元宮廷魔導師で、話が正しければユニの父を名乗るだけある。怒りに呼応してか、魔力の渦巻く様が目に見えるようであった。
……出来れば気配を察知する方面でも才能を発揮してくれ、とドゥーエは思ったが。
ユニの限界は、もうすぐそこだ。この上で主に殺気混じりの魔力など向けられたらどうなるか? トゥリウスが直に命令して、脳に仕込んだ洗脳の効果で止めない限り、見境無しにこの二人の老貴族を殺すだろう。手の込んだ自殺である。
無論、トゥリウスはここでの刃傷沙汰は許さなかった。
「――≪リリース≫」
パキン、と乾いた破砕音。
その音はユニの首元からしたものだった。
「………………えっ?」
酷く間の抜けた声だった。年相応の声だったと言っても良い。
ないことに、あのユニが呆然としていた。今まさに侯爵と父かもしれぬ伯爵を殺しかねないその間際。それでも無表情の裡に全てを押し隠していた少女が、呆気に取られて竦んでいた。
コロコロと固い物が床を転がり、壁にぶつかって止まる。
首輪だ。彼女の二つ名の由来、その銀色の首輪が、あるべきところから外れて落ちたのだ。
「トゥリウス卿、何をなさった……?」
「おや、カルタン伯爵閣下。元宮廷魔導師たる御身なら、この程度の魔法はご存知では?」
事の成り行きに目を瞬くカルタンに、トゥリウスは飄々と言う。
本当に呑気な男だ。トゥリウスが動かなければ今頃、実の娘だと言い張っていた相手に殺されていたところだというのに。
ただドゥーエとしても、彼がこんな手段を取るとは予想外だったが。
「奴隷契約解除の魔法ですよ。いや、僕も実際に使ったのは初めてですけれどね」
≪リリース≫。その効果はただ一つ。
奴隷を主人の下に繋ぎ留める首輪を、主人自らの意思で破壊する。本当にただそれだけの物だ。
効果が限定的な反動か、首輪の破壊は徹底的ですらある。ユニの首から外れて床に落ちた首輪は、さらさらと銀色の砂粒に変じていく。あれでは二度と元の形に戻るまい。
使った場面を見たのは、初めてのことだった。そも主が奴隷を開放するということ自体が、この世界では非常に稀だ。
「斯くなる上は、僕が手ずから外した方が穏便に事を運べると思いまして」
「ご、ご主、人様……?」
軋む音を立てそうなぎこちなさで、ユニはトゥリウスの方を向く。
何て顔をしてやがる、とドゥーエは思った。ルベールも瞠目していた。
ユニの表情は泣き笑いであった。
何かの冗談だと言って下さい、という顔だ。そうすればお望み通り、幾らでも笑って差し上げますから、という卑屈な懇願を形にした顔である。
【銀狼】とまで呼ばれ恐れられた女が浮かべるには、余りにもか弱い表情だった。
「殊勝な事だな、卿」
「いえいえ。閣下の威光に服す者であれば、この程度の心配りは当然かと」
そう言って、彼は深く頭を下げた。
飄々と、淡々と、トゥリウスは話を進めていく。
ユニを伯爵に渡す方向へ、だ。
「何故、ですか? ご主――」
「ああ、そんな仰りようはお止め下さい」
縋りつくような言葉を残酷に断ち切って、言葉だけは優しく言い聞かせる。
その口調は馬鹿に丁寧だった。相手を淑女として扱うと同時に、決して今までのように気安くは扱わない。そんな意思を感じさせる話し方だった。
「婢のようなお言葉遣いはよろしくありませんよ、貴女? それでは伯爵閣下が悲しまれます。僕ごときには、どうかもっと気安いお言葉を用いられるように」
「そ、んな……ご主人様こそ、そんな仰り方は――」
床の絨毯に、ポツポツと染みが生じた。
泣いている。あのユニが取り乱して泣いている。
それは泣きもするだろう。全てを捧げた主人から引き離され、のみならず彼はそれを止めようともしないのだから。
あれほど一心にトゥリウスに仕えていたユニである。まるで神にでも見放された気分を味わっているだろう。
だが、それ以外にどうしようもなかったのだ。
ラヴァレとライナスの仕組んだ陰謀を防げなかった以上、ここでユニを手放すしか生き残る道は無い。さもなくば晴れの披露宴を騒がせた上に本家と同格の伯爵家と揉めたとして、当主ライナスに弟を罰する大義名分を与えることになる。ならば彼女を諦めてカルタン伯の容赦を得、傷を最小限度に留めるべき。効率から言えば、それが最適な解だった
ラヴァレ侯爵が愉快そうに笑う。
「うむうむ。トゥリウス卿は子爵の位があれど伯爵家の次男、アンリエッタ嬢も伯爵家の娘であるからな。互いに同格の貴族として遇するのが相応じゃろうて。兄君からは色々聞かされておるが、中々に道理を弁えた青年ではないか!」
「いえいえ。……そんなことはありませんよ」
トゥリウスもはぐらかすように笑った。
笑っている場合か、とドゥーエは苛立つ。
拾い物であるドゥーエやドライとは違う、幼時から付き添ったユニが奪われようとしているのだ。手放すことは仕方無いことだが、それにしてももう少し殊勝な顔は出来ないのか。
「アンリエッタは連れ帰って構わないのだな?」
カルタン伯爵が横柄に言う。トゥリウスは【奴隷殺し】、【人喰い蛇】と悪名高い男だ。そんな相手から娘を取り戻すことは、彼にとって正当な権利の行使でしかないのだろう。礼儀を払わなくても、心を痛めることは無い相手と見られている訳だ。
「おや。宴には戻らずお帰りになられるのですか?」
「……今更おめおめと顔を出しに行けと?」
「それもそうですね。では、兄には僕から事情を説明しておきます」
そうしてトゥリウスはソファーから立ち、手ずから扉を開いた。
馬鹿丁寧なまでの謙りようだった。いつもこう出来たら、ルベールやヴィクトルも苦労しないだろうに、どうしてこんな時だけそう振舞えるのか。
「では、侯爵閣下。これにて失礼致します」
「うむ。道中には気を付けるがよいぞ伯爵」
まるでラヴァレがこの場の主であるかのようなやりとりだった。
ここには、この館の当主の弟がいるというのに、だ。
それに対して異議を申し立てる者はいない。一番不服に思うだろう女は、完全に放心の体でそれどころではなかった。
ユニはこの世の終わりが来たかのような表情で、カルタン伯爵に手を引かれるまま連れて行かれていく。
その擦れ違い様、
「いつまでもそのようなご調子でいられては、困ってしまいます。どうか、ご自分の本分にお立ち返り下さい」
「……ぇ」
「心落ち着かれたら、一度ゆっくりとお考えください。ご自分がどうあられるべきか――人生は長いのですから」
トゥリウスの台詞は、まるでありきたりの、下手な慰めの見本だった。
心が籠っているのかいないのか、それさえ判然としない。
それでもユニは縋るように振り返る。
トゥリウスは突き放すように振り返らない。
二人の距離は、見る間に遠ざかっていく。
「ところで侯爵閣下はお戻りにならないので? 仲人がこうも長く席を外されていては、新郎新婦も不安に思われていると愚考しますが」
ドアを開きつつ、室内のラヴァレに話し掛ける。
その言いようはまるで、既にユニのことなど忘れてしまったかのようだった。
「ふむ……それもそうか」
去って行く従者に未練一つ見せないトゥリウスを訝りつつも、ラヴァレ侯爵も椅子から立つ。
「それにトゥリウス卿も同じ事じゃろうて。貴殿こそ新郎の弟御じゃろ?」
「ええ、ええ! そうです! 戻るのなら早い方がよろしいですものね!」
挙句にこの大仰な擦り寄り方である。
こんなに大声を上げては、却って相手に不快感を与えそうなぐらいだ。
確かにこの場においてラヴァレの策に屈した身として、今後の障りを避ける為にも相手の印象を良くしようというのは分かる。だが、これは余りに露骨過ぎはしまいか。
ドゥーエが見るに、ラヴァレは機嫌良さげに振舞っているが、目付きはやはり厳しく冷たい。
与えられた痛手に堪えた様子も見せないトゥリウスを怪しんでいる。
「これこれ……年配を慮るのも良いがな。卿も王国より封土を預かる子爵として、人の上に立つ身。妄りに腰の低さを見せつけるのは感心せぬぞ?」
案の定、侯爵はピシャリと鋭く言った。
――平身低頭して見せたところで、手心は加えぬ。
――またその理由すら感じぬ。
――そも、貴様は我が派の敵。辺境に割拠する地方貴族なのだ。
そんな意を乗せた老貴族の視線を、トゥリウスは目を細めて受け止める。
「御忠告、痛み入りました――」
その言葉と表情に、総毛立つものを感じた。
笑顔を浮かべるトゥリウスの眼に宿る光。
実験対象に向けるものではない。そんなに愉しげなものではなかった。
障害に向けるものでもない。そんなに無関心なものでもなかった。
憎悪の熱と、拒絶の冷たさが入り混じった、矛盾の光。
トゥリウス・シュルーナン・オーブニルが初めて見せる――敵へと向ける目だ。
「――次の機会には、改めて手厚く御礼申し上げたく存じます。侯爵閣下」




