002 マイ・ファーストレディ<後篇>
一ヶ月が過ぎた。
「ご主人様。ご起床の時間です」
「う、うぅん……」
腫れぼったい瞼を持ち上げて目を覚ますと、粗末なワンピースに白いエプロンを掛けた女の子が僕を見下ろしていた。言うまでも無いがユニである。
屋敷のメイドから作法などを学んでいる彼女は、メイドの見習いと言っても過言ではない。当然、格好もそれ相応の物になるが、奴隷という身分もあって着衣の質はお察しだ。このオーブニル家は伯爵家という中々の身代。その使用人となると平民の中でも貴族に近しい者か下級貴族の子女が登用される。奴隷であれば彼らより数ランク劣る着衣しか許されないのが普通なのだ。
「おはよう、ユニ」
「おはようございます、ご主人様」
身体を起こして朝の挨拶を交わす。この子を屋敷に引き取ってから半年近く経った。毎日の教育の成果か、ユニの言葉からも幼児らしい辿々しさが抜けつつある。父から借りた使用人たちの教えも、熱心に受けているらしい。
良い傾向だと思う。初めは形から入るにしても、徐々に人に従う成り振る舞いを身に着けていけば、反抗心を抱いても抑圧しやすくなる。身体に染みついたことはそうそう忘れられない。僕に頭を下げ、尽くすことを喜びとするよう教育していけば、大人になる頃には高い忠誠心を抱くことが期待できるだろう。
起き上がって、うーんと伸びをする。
「昨日はちょっと夜更かししちゃったかなあ……面白い資料が手に入ると、どうにも根を詰めすぎちゃって」
「どうかご自愛下さい。お身体を壊されては、元も子もありません」
「そりゃそうだ。不老不死の本懐を果たす前に、早死にしちゃったら堪らないよね」
他愛も無い会話に興じながら、ベッドから降りて着替えを始める。ユニは甲斐甲斐しく寝間着を脱がしたり、シャツに袖を通すのを手伝ってくれた。年下の女の子に着替えを手伝いさせるのは気恥ずかしいが、こうした日常の事々に使用人の手を掛けるのも貴族の義務の範疇らしい。
確かに雇用の創出には繋がりそうなことだけど、ユニは基本的に無給の奴隷である。余り経済的だとは思えないが、まあ、これも奉仕心を養う教育の一環だと考えておこう。
「新しい資料を手に入れられたとのことですが、本日のご予定に変更はございますか?」
一通りの着替えが済むと、彼女はそう聞いて来た。
資料を手に入れて、どうして予定を変更するのかって? 新しい実験をするからに決まっている。
ただ今回はそうはいかない。
「んー、古い文献だから解読にちょっと時間が掛かっているんだよね。当面は現状の実験を続行するよ」
「かしこまりました。では、そのように取り計らいます」
言って、スッと自然な動作で頭を下げるユニ。礼をする仕草は中々に様になってきている。本職に仕込まれるとやはり覚えが早い。彼女の順調な成長に目を細めながら、今日は良い日になりそうだなと僕は思った。
半年が過ぎた。
「ぐはっ!?」
鳩尾に訓練用の木の棒を強かに突き込まれて、男は草むらに崩折れた。幼児の身で大人一人を打ちのめすという偉業を達成したユニは、いつもの感情が窺えない顔でそれを見下ろしている。
身体能力の向上を企図した訓練を開始して一年近くが経つ。例の一代騎士の男が、かつては戦争で手柄を立てたこともあるとか言っていたので、ついでに剣も習わせてみたのだが、その結果がこれだ。
大の大人、それも手ほどきを施してくれた相手を倒す七歳(推定)の少女。いやはや、末恐ろしいにも程がある。
「本日もご指導、ありがとうございました」
「な、何がご指導だ……」
生まれたての小鹿のように足を震わせながら、たっぷり一分近く掛けて立ち上がる騎士の男。ユニの一撃が相当に堪えているのだろう。
何しろ、彼女の筋力は僕が調合した薬剤のお陰で大幅に向上している。骨格の成長を阻害しないよう、筋肉の量ではなく質を高める薬を探し出すには苦労したものだ。その過程で奴隷を五人ばかり無駄死にさせてしまった。いずれも最安値の、下手をすれば玩具やお菓子より安い奴隷だが、処分の手間が掛かったのは頂けない。一度など死体の火葬を見咎めた父にこっ酷く叱られ、教会にまで説教の為に連れて行かれたこともあった。
だけどその甲斐あってか、ユニの身体能力は相当に強化出来ている。おおよそ七歳でこれだけ戦えるなら、想定より早く探索の仕事に就かせられるかもしれない。
明るい未来を思い描いてホクホクする僕に、家臣の騎士は渋い顔を向ける。
「坊っちゃん……この娘の相手は今日限りにさせてくだせえ」
その声は痛みとは違う何かで震えているように聞こえた。
「はい? なんで?」
「正直、あっしじゃあこれ以上教えるもんが無ェです。それに毎日これじゃあ身が持ちませんや」
言いながら、何度も打たれた腹や手首をさすっている。顔にも青痣を幾らか拵えていた。確かにユニは彼より強くなった。既にこの男から学べるものは特に無い。それに彼も、自分の鳩尾にさえ届かない子どもにここまでされては、騎士の面目が立たない。そこを慮ると、切り上げ時ではある。
まあ、一代騎士になれたのは戦功よりも傍仕えを評価されてのことと聞いている。この世界の戦闘要員の平均レベルがどれ程かは知らないが、彼はそう高い位置にいるものではないだろう。ユニにももっと高水準の教材が必要な時期かもしれない。
僕が肯くと、男は這う這うの体で帰っていった。
「さて、明日からどうしようか? 冒険者でも雇って、魔法か探索の技能でも教えて貰うかい?」
「……よろしいのでしょうか。それでは、実験台や素材の購入に掛かるお金が――」
殊勝にもそう言うユニ。だが、それは気の回し過ぎというものだ。
「君が早い段階で物になれば、そんなの幾らでも取り返しがつくよ。寧ろ早いところそうなった方が、最終的には得ってものさ」
素材の入手に金が掛かるのは、わざわざ人から買っているからだ。自前で素材の採集が出来るようになれば、その方面のコストがほとんどゼロになる。
「ま、新しい教師役の手配が済むまでは、町外れで動物かモンスターでも狩って訓練の代わりにしよう。出来るね?」
「はい。街の近くに現れるゴブリン程度には後れを取りません。その自信はあります」
ユニは平然とそう言ってのけた。実際、この野原で出くわしたモンスターは主に彼女が倒している。僕やさっきの騎士が手を貸したのは、最初の一ヶ月程度だ。これなら近場の森での探検程度なら出来そうだが、何が起こるか分からないのが実戦である。一度に大きな群れを相手取るかもしれないし、連戦となると疲労や傷で不覚を取る恐れもあるのだ。本格的に探索に出すのは、もう二、三年ほど訓練に当ててからでも十分である。
これでも当初の予定を大分繰り上げてのことだ。それも予想を上回る彼女の成長ぶりが原因というプラスの要素によってのこと。
焦ることはない。丹念に丹念を重ね、じっくりと行こう。彼女ほどの逸材は、他にはいないのだから。
三年が経った。
「相手も流石は冒険者だね。ユニでも無傷とはいかなかったとは」
身体のあちこちに怪我を負った彼女に、僕は手ずから治療を施しながら言った。
このくらいの怪我程度ならユニ自身でも回復魔法で治せるだろうが、傷痕などが残ると後々面倒になる。その点、僕なら痕を残さず治療する術には人後に落ちないと自負している。何せ、あの悪意に満ちた手酷い傷すら治せたのだ。今更、戦傷程度を治せない道理は無い。
「……ご迷惑をお掛けします」
「いやいや、こっちこそ無理な仕事を頼んだんだ。君が謝ることじゃあないさ」
ほとんど表情を動かさないまま頭を下げる彼女をそう慰める。何年経っても感情表現に乏しいが、そこは長年の付き合いだ。彼女の心底は兎も角、しょげていることくらいは分かる。
「それにしても先生方にも困ったものだね……。僕からユニを取り上げようなんてさ」
「はい。そのようなことを企まれなければ、もっと穏当な方法で卒業できたかと」
まったくだね、と僕は肯いた。
ユニに怪我をさせたのは、彼女の師匠たちだ。基本的に屋敷の外で指導を行っていた彼らだが、どういう訳か僕の人体実験に勘付いたらしい。その矛先がユニにも向けられるかもとかいう理由で、彼女の身柄を引き取りたいとか言い出したのだ。
貴族の奴隷といえど、主も子ども。その親に掛け合えば、金銭での取り引きで身請けすることも出来る、と。
そんなことをされたら、僕は当主である父上には逆らえない。ただでさえ彼の本意ではない錬金術の研究に血道を上げているのだ。一も二も無くユニを手放す羽目になっただろう。
勿論、僕に直接言った訳ではない。訓練を施す最中に、さりげなくユニに事を図ったのである。
で、彼女から密告を受けた僕は、すかさず暗殺を指令したのだった。嫌がるようなら服従の魔法を使うことも視野に入れていたが、拒絶は無かった。恩があり情も掛けて貰っている師を、遅疑すること無く殺しに行くとは。そう育てたのは僕だが、まったく恐ろしい子である。
彼らは二人ともそれなりに腕の立つ冒険者だったが、まさか助け出そうとしている当人に殺されるとは思ってもみなかったのだろう。パーティを組まない、所謂ソロの冒険者だったので、一人ずつならば成長途上のユニでも十分に始末出来た。魔法を教えていた魔導師の女性は、不意打ちに背中を一突きしたらそれで終わりだった。だが、問題は探索に必須のレンジャー技能を教えていた野伏――斥候だの鍵開けだのの専門家――の男性の方である。流石に斥候の匠だけはあって、巧みに殺気を感知すると猛反撃を見舞ってきたらしい。
しかし、それも幾許かの傷を与えるのが精々だった。逃走されずに済んだのは僥倖だろう。ユニの報告によると、念入りにトドメを刺した上で墓地に埋めて来たそうだ。この世界の死者はアンデッドになって蘇る恐れもある。なので定期的に供養が行われる墓場に埋めないといけないのだとか。死体を徹底的に破壊すればゾンビやスケルトンにはならないが、恨みが強過ぎるとゴーストになる危険があるのだ。ファンタジーな世界というのも善し悪しである。死人に口無しとするにも更に一手間が要るとは。
ちなみに、実験で消費され火葬した奴隷たちにも何体かゴーストになって出て来た連中がいたが、魔法で退治すると同じ個体は二度と出て来なくなった。きっと、僕が生まれ変わる前に予感したように魂まで消えたのだろう。
それはさておき、
「卒業、ね。確かに不意打ち混じりとはいえ、師匠を二人とも倒せるレベルにはなったんだ。そろそろユニも探索に出て良い頃合いかな」
「……お許しを頂けるのですか?」
顔を上げたユニの瞳は、まじまじと僕を見つめていた。ご褒美をぶら下げられた時と同じ顔だ。美味しいお菓子や、ちょっとした礼装を与えられた時の仕草である。そんなに冒険に行きたいのだろうか?
粗方の治療を済ませ、椅子に腰を降ろしながら提案を続ける。
「良い感じに仕上がって来たし、家庭教師に支払うお金が浮いて新しい実験が出来るからね。やれるんだったら是非ともやって欲しい」
「ぁ……あ、ありがとうございます、ご主人様!」
ガバッと衣服が翻る音をさせつつユニは床に平伏した。
「必ずや……必ずや、今まで以上にお役立ちすることを誓いますっ!」
「……あ、うん」
び、ビックリした。
いつも物静かなこの子が、まさか語尾にエクスクラメーションマークの付くような声を張り上げるとは思ってもみなかった。
僕が呆気に取られたのに気付いてか、彼女は一瞬上げた顔を床に伏せる。
「……はしたない振る舞いでした。お許し下さい」
「いや、怒ってないから。それと、いちいち大袈裟に土下座とかしなくて良いよ。他の人が見てる訳じゃないんだし。……ほら、立って立って」
小さく嘆息しつつ許しを出した。
作法を教えるのを任せた使用人が厳しかった所為か、どうにも彼女は感謝や謝罪の仕草が大仰なところがある。確かに奴隷は貴族の下の平民より更に下、最底辺の身分だから、貴族相手にはコメツキバッタの如く振舞うのが正しい。それがこの世界の常識だ。が、毎日顔を合わせる僕に対してもこれでは、こっちの方が息が詰まってしまう。忠誠心に溢れるのは望むところだが、過ぎたるは及ばざるが如しだ。もっと楽にして欲しい。
ユニが立ち上がったのを見届けてから、僕は話題を変える。
「まあ、ユニが張り切ってくれるのは僕も嬉しいね。そう言う訳だ。これからしばらくはユニの冒険者デビューに向けて、準備と行こうか。来月の頭くらいには、ギルドまで登録に行こう」
面倒ではあるが、必要な手続きだ。
冒険者になれば、一般人では立ち入りが規制されている危険地帯へも行けるようになる。一応、冒険者ギルドへの登録を行わないモグリ冒険者――重たい前科持ちだとか、現役の犯罪者だとかの後ろ暗い連中――は、そんな決まり事を無視して掛かっているらしい。しかし、それは余計な揉め事の元だ。バレたら罰金が取られるのは序の口。探検の先で正規の冒険者と出くわしたら喧嘩にもなるだろうし、密猟などで訴えられる恐れもある。目に余るほど悪質な真似を仕出かした場合は、モンスター同然に討伐の対象にされることもあるとか。そんなトラブルは僕の好むところではないので、ちゃんと登録は行う。
「とりあえず、装備品の類はキッチリと用意しておこう。何か要望はあるかい? 使うのはユニなんだから、遠慮せずに意見してくれ」
「では、ご主人様――」
気楽な口調で促すと、彼女はどことなく躊躇いがちに口を開いた。
「戦闘に耐えうるメイド服というのは、如何でしょうか?」
……。
え、なんだって?
「……メイド服?」
思わず耳を疑ったので、問い直す。すると彼女はこっくりと肯いた。
「メイド服です」
どうやら僕の聴覚は正常らしい。
後ろめたげに目線を逸らしてはいるが、確かに彼女はそう言ったのである。
一体どこをどうすればそんな要求が出てくるのやら。確かにメイド服は彼女が着慣れた着衣であるし、動き易くもあるだろう。かといって、それを着て冒険に出掛けようとはどういう意図なのだろうか。
ひょっとしたらユニ一流の冗談なのかもしれない。そう思ってまじまじ見つめるが、彼女は、
「……駄目でしょうか?」
不安げに上目遣いでそう聞いて来た。
この子、本気だ。僕は確信する。
いや、もしかしたら自分の師に当たる人物二人を、その手に掛けたショックで錯乱しているのでは? 深刻な危惧が浮かんだが、手当の際にチェックしたバイタルは脈拍も発汗も正常そのものだった。なら、間違い無く正気で言っているのだろう。
思わずこめかみに手をやってしまう。ユニに手を煩わされた経験はほとんど無い。彼女は僕の指示によく従っている。首輪に掛かった魔法も、反逆防止の諸措置以外に使ったことが無いくらいにだ。それに訓練の成果はご覧の通り。期待値を遥かに超えている。そんな優秀な子が、どこをどう間違えれば、装備品の希望を聞かれてメイド服と回答するのか。
僕は戸惑いながらも言った。
「……まあ、善処するよ」
多分、顔は盛大に引き攣っていたと思う。
しかし、突飛な答えが返ってきたが、自分で切り出したことだ。それに、滅多に自分の欲求を口にしない子の、たっての願いでもある。やって出来ないことではないし、この程度で彼女の要望を満たせるのならお安い御用だろう。そう思うことにした。
果たして、彼女は深々とお辞儀を返す。
「差し出がましい申し出をお聞き入れ頂き、感謝に堪えません。……一層の奮起を誓います」
「ああ、うん。……頑張ってね」
僕としてはそう言う外に無かった。そして答えながら思案を巡らす。
メイド服、か……。ホワイトブリム――頭に着けるアレ――やエプロンを礼装に仕立てれば、十分に戦闘と冒険に耐えうる物は出来るだろう。それに何より、彼女の普段着と同種の着衣でもあるので、日常生活での隠蔽性も高いとも言える。そう考えるとユニに与える防具としては悪くない案ではあった。
ひょっとして、その辺も考慮に入れての選択だろうか?
そんなことを考えながら、僕は脳裏に図面を引くのだった。
二年が過ぎた。
「――じゃあ、最終試験だ。手に持った物で自害しろ」
僕が命令を下すと、両手にロープの端を握った奴隷は遅疑すること無くそれを引き絞った。そのロープが自分の首に巻き付いているというのに、だ。
「ぐ、げ……っ」
生きながら蛇に絞め殺される蛙のような声が上がる。
首締めは苦しい。呼吸をせき止められ、血の巡りさえも阻害されて気が遠くなっていく。何分も藻掻き苦しんだ挙句に、緩んだ下半身から糞尿を垂れ流して死ぬのだ。自殺の方法としては下の下だろう。実際、首を吊っても苦しみに暴れて縄を切る者もいるのだ。ましてや手の力を使っての自殺なんて、余程の決心が無ければ達成できまい。
だが、僕に命じられた奴隷は両腕の力を歪めること無く、ロープでの自害を続けている。
服従の魔法を使ったから? いや、違う。
「ユニ、魔法は作動したかい?」
「いいえ。魔力の放出、術式の稼働、いずれも検知されておりません」
「よし、なら問題無い」
僕が満足も露わに肯くと同時、被験者の奴隷はガクリと震えたかと思うと手術台の上に倒れ込んだ。そして鼻を摘まみたくなるような悪臭が地下室に立ち込める。
死んだのだ。魔法での強制ではなく、あくまで口頭での命令のみで。
「被験体のバイタル停止を確認しました。実験、成功です」
ユニの静かな声が、僕の研究の大いなる前進を告げる。高笑いして小躍りしたい気分だったが、止めた。実験台が最期に漏らした物の所為で、とてもではないが激しい呼吸が必要な行為を行いたい環境ではなくなっている。
「……長かったなあ。脳改造での完全服従、その実現までは」
そう、脳改造なのである。
何度も言った通り、奴隷の首輪での服従強制は、相手の魔力次第で解除される恐れがある代物だ。それを完全に克服するには、脳味噌からして僕に従うよう改造する必要があった。メスで頭を開き、脳を弄って、あくまでも外科的に反逆の意思を取り除き、あるいは服従の意思を埋め込むのである。その手法は、何処かの誰かがかつてユニの顔にした事、そして僕が彼女にした治療の応用だ。望んだ部位を一旦破壊し、望んだ形へと再生させるのである。
この処置の味噌は、単純な魔法での洗脳解除が不可能だという点にある。何しろ術後の被験体の脳は健康そのものなのだから、回復魔法では治しようが無い。治そうとしたら一旦洗脳の効果を発揮している個所を壊し、正常な形に治すしかないだろう。同じ手術をもう一度繰り返す必要がある訳だ。
洗脳魔法を解除しようにも、魔法で操っている訳ではないので解除する対象すら無い。敢えて穴があるとすれば、本物の洗脳魔法で操って命令権を上書きされるリスクがあることだが……そんな物の使い手はそうそういないし、致命的な魔法攻撃なのだから、対処法も僕が考えるまでも無く研究され尽くしている。
要するに、現状望みうる最良の形での反逆防止措置なのだ。
「おめでとうございます、ご主人様」
ユニは恭しく頭を下げて、実験の成功を寿ぐ。ないことに、その頬は微かに紅潮していた。或いは僕よりも彼女の喜びの方が大きいのかもしれない。
「この手術を受けた暁には、より完璧なご主人様の奴隷になれるのですね……」
どことなく熱っぽい溜め息と共に呟かれた、この言葉が理由だ。
以前から彼女は、僕がどこかで一線を引いた対応をしていたのが、大いに不満だったらしい。
僕はユニを手に入れたその日から、首輪の力だけで奴隷を服従させられるか疑問視していた。ユニの魔力は人並み外れて強いし、実験で得られた霊薬を投与して、更に強化もされている。なので今日までは、常に反逆を警戒しながら彼女に接していた訳だ。実験中も、食事中も、寝ている時もである。定期的に特定の行動を規制する命令を下したり、就寝中も防御用の礼装を手放さなかったり……まあ、そんなことをずっと続けていたのだ。
買われた時からずっと忠誠心を持つよう教育されて来たのに、それを疑われ続ける毎日。僕だったら一日目で音を上げるだろう。実際にユニと同様の目的で買った奴隷たちは、当の本人以外全員、耐え切れずに使い物ならなくなってしまった。その内訳は自殺が二割で精神崩壊が一割、残りの七割は密かに反逆を目論んだので始末されている。全員魔力持ちでそれなりに値段が張る奴隷だった。勿体無いことこの上無い。
で、そんな生活に文句も言わずに耐えてきた彼女も、この間にポロリと漏らしたのだ。
「どうか私を、より完全な奴隷にして下さい」
と。
その言葉を聞いた時は、余りにも嬉しくって小躍りせんばかりだったのを憶えている。長年の教育の成果が実を結んだ瞬間だったのだ。ヘレン・ケラーが「Water」と口にした瞬間のサリバン先生は、きっとあの時の僕と同じ思いだったことだろう。
無論、こちらを油断させる為の甘言である可能性もあるので、今はしっかりと気を引き締め直しているところだが。
そう言う訳で、僕は相変わらず油断無く彼女を観察しながら言う。
「まあ、まだ初めての成功例を得たに過ぎないからね。ユニに同様の手術をするのは、もう何件か成功させてからになると思うよ?」
「……はい。心得ております、ご主人様」
ユニは微かに眉を下げる。見慣れない人には無表情に見えるだろうが、僕には酷く残念そうな顔に見えた。そう見えるだけなのかもしれない、という可能性があるのであるが。
「でしたら、提案が一つございます」
「ん、何だい?」
彼女はハンカチを差し出しながら言う。
「次回からはこの最終試験に入られる前に、せめて被験体にオムツを穿かせて頂けませんか?」
「あ゛」
僕は思わず大口を開け――そこに飛び込んできた臭気にえづいた。人体実験なんて繰り返していれば多少の臭いには慣れるが、不快感が完全に消せる訳ではないのだ。
さておき、確かに同じことをする度に毎度ラボを汚されるのは勘弁願いたい。ここで研究する僕だって辛いし、後始末を担当するユニはもっと辛いだろう。それもオムツ一つで大分軽減される。
「何てことだ、こんなことにも気付かなかったのか僕は!?」
後悔と自己嫌悪で、頭を抱え込んでしまう。身体機能に不具合を抱いた実験台の為に、オムツくらいは常備してあるのだ。それをすっかり忘れていたとは!
何とも情けないイージーミスに、実験成功の喜びも薄らいでしまいそうだ。
「……私も只今気付いたところです」
ユニはそんな僕を慰めるように言った。
まったく、何年も実験しているのにこんな簡単なことを見落とすとは。
だが、まあ、これも弛んでいた気持ちを正す良い機会だ。
「好事魔多しだね……折角この実験も詰めの段階に入ったんだ。後始末が終わったら、他にも問題が無いか洗い直そう」
「了解いたしました」
僕らは気の進まないこと甚だしい後片付けを終えると、改めて実験の問題点をチェックに掛かった。
他に問題は、何も無かった。
一ヶ月が過ぎた。
「く、来るな……来るんじゃない! 頼むから来ないでくれえっ! で、出ていけえっ!!」
「はあ……分かりましたよ、出れば良いんですね?」
裏返り切った悲鳴に背中を押されるようにして、僕はその部屋を出た。
扉が閉まっても、向こうで叫ぶ声は引っ切り無しに聞こえる。
父は最近、すっかりこんな調子だ。僕の顔を見る度に奇声を上げて追い出そうとする。どうにも神経が参ってしまっているらしい。身体の方も病み付いているというのに、僕の治療はおろか診察すら受ける気が無いようだ。
寝室に籠りっきりで、わざわざ見舞わなければ顔を合わせることが無いのが、救いと言えば救いか。もしも食事の席なんかであんなに喚かれたりしたら、堪ったものじゃない。
「哀れなものだな」
そう声を掛けて来たのは、僕の兄であるライナス・ストレイン・オーブニルだった。部屋の外でずっと様子を窺っていたらしい。
成人を迎えた彼は一層男振りを上げ、今や絵物語にでも出て来る白面の貴公子そのものだ。ただ近頃は眉間に皺が寄りっぱなしで、如何にも近寄りがたい雰囲気であることが珠に傷か。
「ええ、本当に。せめて気持ちだけでも落ち着かれれば、教会で治癒を受けることも出来るでしょうが」
このままでは長くなさそうな父の様子に嘆息する僕を、兄はふんっと鼻で笑った。
「私が言っているのはお前のことだよ」
「えっ、僕ですか? どうしてまた」
思いも掛けぬ言葉に目を瞬くと、これ見よがしに溜め息などしてくる。何がしたいんだ、一体。
「分からぬか? 卑賤の業に入れ上げ、御家の格式に泥を塗り、遂には父上の寵も尽き果てているのだよ。その様を哀れと言わず、何と言う?」
どうやら嫌味の類を言いに来たらしい。元々そんなに仲の良い兄弟ではなかったが、数年前からは顔を合わせる度にこれである。人の顔を見て、ゴキブリにでも出くわしたみたいに騒ぎ立てる父も相当だが、近頃の兄が僕を見る目は時として憎悪すら感じさせる。
「ああ、成程。そういう見方もありますね」
こういう手合いには真剣に付き合っても、びた一文の値打も無い。僕は何の気無しに肯いた。
言われてみれば、酷い様だ。子どもの頃は父にチヤホヤされていた僕も、気付けば彼から嫌忌される対象になっている。親からの愛を失った子どもは、確かに不幸だろう。
父はどうにも、僕が奴隷を実験台として殺し過ぎるのが気に入らないらしい。
妙な理屈である。この国では、自分の物であれば奴隷を幾ら殺そうとお構い無しとなっているはずだ。研究を安全に行う為に、何が違法行為に当たるのかくらいは事前に調べているのである。それに父にしろこの兄にしろ、勘気を発して奴隷を手に掛けたことは一度や二度ではないのだ。なのにどうして僕だけが非難されるのか。そこがどうにも理解出来ない。消費するペースが早過ぎるのには違いないが、そんなに目くじらを立てることだろうか?
まあ、僕は父が何を思おうがどうでも良い。こちらの不利益にならない限り、愛してくれても憎んでくれても構わないのだ。既に研究資金はポーションの売買で賄われているし、ユニが冒険者として稼いでくれてもいるので、小遣いも必要無い。
問題は血迷った挙句に勘当されることだが、僕は犯罪を行っている訳でも――行っているが露見はしていない――社交の場で非礼を働いたことも無い。というか社交の場にはそもそも出ていなかったりする。なのでそんなことをする正当性は父には無いのだ。
僕の返事が気に入らなかったのか、兄はピクリと頬を引き攣らせた。
「……フン。どうやら身に徹しての理解は適わぬと見える」
「かもしれませんね。で、お話はそれだけですか? なら僕は失礼しますけど」
言いながら身を翻す。正直、兄との会話は疲れる。会う度会う度、口にするのは嫌味か研究中止の命令だ。不老不死の研究を完成させないと、僕はいつか死んでしまうというのに。この人は僕が死んでも構わないのか?
結果の見えている話を、いつまでも続けるなんて無駄だ。僕は自分が死ぬことの次くらいには無駄が嫌いなのだ。
さっさとラボに戻ろうと歩き出すが、
「そう言えばトゥリウス――」
兄はまだしつこく声を掛けて来た。
「貴様のあの奴隷はどうした? ここしばらく、姿が見えんが」
彼が聞いているのはユニのことだろう。僕の奴隷は全て実験台である。大抵は実験の影響で死ぬか、情報漏洩防止の為に処分している。なので、わざわざ『あの』なんて言葉を必要とするのは、長年生きている彼女くらいだ。
「何ですか兄上。ユニが気になるんですか? たとえご所望されても、あげませんよ」
仮にこの国の王様に譲れと言われても、僕はノーと答えるだろう。膨大な時間とコストを掛けて、ようやく満足のいく水準に仕上がって来たところなのだ。それを錬金術の『れ』の字も知らないような連中に渡す気は無い。精通しているような輩には尚更だ。
肩越しに振り返ると、兄はさも心外そうに顔を顰めていた。
「同類の腸の臭いが染み付いた奴隷など、こちらから願い下げだ。単に不審に思っただけだ」
何て失礼なことを言う人だろう。僕らは常に衛生環境には気を配っているのだ。自分にも助手である彼女にも、そんな不潔な臭いが取れなくなるような不首尾は無い。こまめにお風呂には入れるようにしているし、着替えだってちゃんとさせている。奴隷の清潔さを保つことにかけては、この王都――いや、世界で一番だと自負しているのが僕だ。
何しろ雑菌の類は実験の狂いの元である。殺菌処理に関しては死体の処分と同じくらい気を回しているんだ。消毒液の臭いがキツイと言うなら分かるが、腸臭いなどとは心外にも程がある。
僕が微かに作った渋面に、兄は少しだけ愉快そうな顔をした。
「――或いは、とうとうあの娘も実験とやらに供したのかとも思ってな」
そして更に皮肉を言い募ってくる。言っちゃあ悪いが、失笑ものの発言だ。ユニで実験した? そんなの彼女を買った日から、ずっと行っていることだ。今更何を、というヤツである。
「その彼女を迎えに行くところなのですよ。……では、失敬」
不毛で実入りの無い会話を今度こそ打ち切り、僕は地下室へと急いだ。
まったく、折角の日にとんだケチが付いたものだ。今日はようやく、彼女の仕上がりが一段落するっていうのに。
まあ、良い。無理解な連中の野次など雑音に等しい。そんなことに気を取られるより、手早く処置を完了させよう。
これが終われば、ようやく僕は最初の手駒を完成させられるのだから。
地下室の手術台の上で、彼女は眠っていた。
麻酔が十分に効いているのだ。手術はもう済んでいる。開頭した切り口は癒合済みだし、いつだかとは違って髪の毛も元通りだ。僕の人体修復術も上達しているということである。
「……お疲れ様、ユニ」
僕は思わず彼女の髪を手で梳りながら呟いていた。
万感の思いが胸を衝く。六年間、僕の期待に応え、教育を受け、成果を上げ続けて来た自慢の奴隷。その彼女が一応の完成を見る日が来たのだ。これに何も感じない訳が無い。
瞳を閉じて穏やかに眠り続ける彼女は、童話の世界の御姫様のように美しい。素直にそう思った。
閉じられた瞼を飾る長い睫毛、スッと通った形の良い鼻梁。口唇も、麻酔と多少の失血で微かに色を落としながらも、なお花弁を思わせるように優美な形を誇っていた。
一流の彫刻家は原石の段階でその完成形を悟ると言うが、それが確かならば僕はその道で大成出来ないと思う。六年前、壊れ切った身体と命で奴隷市場に捨てられていた姿からは、今あるこの美貌を想像だに出来なかったのだから。治した当時でさえ、術前術後のギャップに深い感嘆を覚えたものだが、成長を経た今ではそれをも上回る感銘をそそる。きっと、これから大人になるに従い、もっと綺麗になっていくだろう。
そしてこの造形美の下には、それ以上に深甚な機能美が眠っていることを、僕は知っている。この細腕から繰り出される剣撃の強さと鋭さ。ほっそりとした足が地を駆ける速さと靱かさ。自らの気配を隠し、敵の気配を悟る技法。蓄えた技術と知識の数々。僕が彼女を見出す切っ掛けともなった魔力の程は、こうして眠りながら微かに漏らしているだけでも圧倒されるものを感じさせる。
何より、その全てが僕の為に存在し、僕の為だけに振るわれるというのが素晴らしい。
今回の手術で、ユニが僕に逆らう要素は無くなった。心にそんな物を抱く部分を、完璧に消し去ったのだ。文字通り、彼女の全ては僕の物となったのである。
「ふふふ……」
思わず頬がだらしなく緩むのを感じる。世界中の宝物を余さずこの手に握った気分だ。
不老不死の研究、その第一歩である絶対に裏切らない協力者を手に入れただけだというのに、この充実感。もしも本懐を達成する時がきたら、どれほどの喜びを味わえるというのだろう?
ああ、早くこの子が目を覚まさないだろうか。話したいことは幾らでもある。次の研究のことを、次の実験のことを、一刻も早くユニと語り合いたかった。
僕は逸る気持ちを押さえる。麻酔を解き、強制的に覚醒させるのは簡単だ。けれど、こうして穏やかに微睡む姿を見ていると、出来るだけ自然に心地よく目覚めさせてあげたいという情も湧いてくる。今まで散々苦労を掛けたし、これからも今まで以上に働いて貰うのだ。そんな温情くらいは与えてやりたい。
そう思っていると、
「んっ……」
ユニの瞼が震え、薄っすらと目が開かられる。
予想より随分と早いお目覚めだ。麻酔への抵抗力が上がって来ているのだろうか。
ぼんやりとした翡翠色の瞳が焦点を結び、翆玉の輝きを取り戻す。
朝顔の開花を思わせる清冽な目覚めだ。それに恍惚を覚えながら、僕は声を掛けた。
「おはよう、ユニ」
「……おはようございます、ご主人様」
――そして四年が過ぎた。