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028 十一年目の亡霊<前篇>

※100万アクセス記念、3話連続投稿の第1回です。

 

「ルベール。スピーチの原稿、本当にこれで大丈夫かい?」


 あくる日。割り当てられた居室、新郎の弟にあてがうにしては殺風景過ぎる部屋で、トゥリウス・シュルーナン・オーブニルは言った。彼の手には数枚の羊皮紙がある。親族代表としての挨拶に用いる原稿だ。彼はそれを弄ぶようにぺらぺらと空を扇がせる。

 ドゥーエは壁際に佇んで暇を持て余していた。表向きは武官代表として、裏向きでは主に逆らうことのない戦闘兵器として、護衛の為にこの部屋に詰めているのだ。

 しかし、今のところドゥーエの仕事が回ってきそうな気配は無い。この部屋で一泊する前に調べたところ、何らかの礼装や仕掛けの存在する可能性はゼロ。屋敷内で見かける武人体の者は、ほとんど賓客の護衛らしく刺客の気配すら無かった。こうなると、単純な切った張ったしか能の無い彼は無用の長物となる。

 なので、周囲の気配を警戒しつつも、ぼんやりと主の挙動などを眺めている訳である。

 主に呼び付けられたルベールは、自分の身だしなみを整えつつも返事を寄越す。


「問題ありませんよ、閣下。細かい言葉遣いには朱を入れましたが、大略としては無難な挨拶になっています。……まったく。普段は全然貴族らしくないってのに、どうしてそんな草稿なんて作れるんですかね?」


 青年貴族の物言いは無礼だが、ドゥーエとしても実際同感だった。

 トゥリウスときたら、普段は一言目に効率、二言目には手間、といった具合で、貴族の格式などまるで知ったことではないと言った風なのである。それがどうして結婚式の挨拶に限って、文句のつけどころの無い代物をこさえたものか。


「自分でやったことは無いけど、見た経験は何度かあるからね」


「へえ? 領主閣下が結婚式へご出席されたことがあったなんて、寡聞にして知り及びませんでしたよ。どちらの式に呼ばれたことがお有りで?」


「言っても分からないさ。何せ前世のことだからね」


 挙句、そんな冗談まで飛ばすトゥリウス。

 どこが面白いのか分からないジョークを、言った本人だけがくつくつと笑う。


「前世、ねェ……アンタみたいな極悪人に、そんなものあるのかい? 生まれ変わるのも許されないで地獄行きになるんじゃないのか、普通」


「僕がこうなったのは、この世界に生まれてから……いや、一度死んでからさ。だってそうだろう? 一度死んでみなくちゃ、あの恐怖は分からない」


 冗談にしては、いやに引っ張る。或いは本当のことを言っているのかと考えてしまい、ドゥーエは慌てて頭を振った。

 馬鹿な。生まれ変わりなどありえない。そんなものが存在するのはおとぎ話の中だけだ。

 もしかすると、あの吸血鬼と組んで行っているイカレた実験の果てには、そんな現象も操れるようになるかもしれないが。


「冗談はそのくらいにしておいてくださいよ。それより閣下。挨拶の方は妙なアドリブが無ければ大丈夫だと思いますけどね、ナイトパーティーでのダンスはどうするんです? 簡単な社交ダンスくらい出来ないと、物笑いの種ですよ」


 そう言い、話題を変えるルベール。

 確かにそれも気になる。普段はラボに籠るか、ヴィクトルらにせっつかれて政務を執るかしかしないトゥリウスだ。身体を動かすことは、あまり得意そうに見えない。

 果たしてトゥリウスは「本当なのになあ」などとぼやきつつも答える。


「まあ、嗜む程度にはやっているさ。上手くはないけど、恥晒しにはならないと思う」


「出来るんですか!?」


「マジでか!?」


 驚愕する二人に心外そうな表情を見せる主人。


「あのねえ……僕がいくら貴族らしくないからって、何から何まで出来ない訳じゃあないんだよ? してなかったのは、面倒な帝王学とかその辺だ。他の一般教養くらいは教えられているさ。テーブルマナーだって、そんなに悪くは無かっただろう?」


 思い返してみれば、確かに食事の席で無様を見せたような記憶は無い。もっとも、普段のトゥリウスは、もっぱらサンドイッチなどの作業しながら片手で摂れる軽食を好んでいるので、格式ばった食事の場面などそうそう見なかったが。


「そう仰るんでしたら、だらしなく廊下を歩きながら紅茶を呑んだりなんか、しないでくださいよ」


「良いじゃないか、客人の前でやった訳じゃないんだし」


「客人の前で立派なお振る舞いが出来るなら、それで納得するんですがね」


 遠慮無く苦言を呈するルベールに、トゥリウスは「むう」と口を曲げる。

 ドゥーエは言った。


「それにしても意外じゃねェかご主人。ダンスの練習なんて、真面目にやってたなんてよ?」


「僕だって、運動不足が身体に悪いことは知っているからね。家で手軽に身体を動かせるから、そこそこは真剣に取り組んでいたんだよ」


 いかにもトゥリウスの言いそうなことだった。身体に良いことをしないと長生きは出来ない。不老不死を目標とし、死を何よりも恐れる男である。些少な運動で寿命が延びるならするであろうし、ダンスなら屋敷内で出来る上に熱心に取り組んでも不審ではない。

 ただドゥーエには、淑女をリードして優雅にステップを踏むトゥリウス・オーブニルという絵図は、どうにも想像しづらかったが。


「慣れない内は、なんか恥ずかしかったけどね」


「恥ずかしい? ダンスがですか?」


 主人の回顧に、怪訝そうな声を返すルベール。

 貴族の感性からすれば余程無作法でも無い限り、社交ダンスくらいは涼しい顔でこなすべきもののはずだ。それを恥ずかしいとは、何とも奇妙な発言である。ドゥーエのような平民上がりでもあるまいし、それにこの悪魔じみた青年に、恥という概念が備わっていたのも驚きであった。


「……女性と手と手を取り合って、時には身体まで摺り寄せるんだよ? 普通はさ、気恥かしいくらいには思わないかい?」


「案外、ませた子どもだったんだなご主人。ダンスの作法だの何だのを仕込まれる時分から、そんな事を気にしていたのか?」


 ドゥーエがからかうようにそう言うと、「むう……」などと不服げな声を漏らす。


「しょうがないだろ。前世じゃ普通の日本人だったんだから……ダンスなんてフォークダンスくらいしか経験無かったんだぞ?」


 しまいにはそんなことまで独り言ちる。そのジョークはまだまだ続いていたらしい。それにしても、ニホンジンやらフォークダンスとは一体何のことなのやら。


「そう言えば、僕のダンスパートナーって、誰がやるんだろうね? 相手に心当たりが無いんだけど……」


「うーん、仮にも新郎の弟君でいらっしゃるなら、誰ぞ適当な令嬢でも宛がわれるのでは?」


「嫌がらせに、変な相手でも押し付けられそうだな。大丈夫かねェ?」


「流石に伯爵といえど、婚儀の席でまで意図的に恥を掻かせようなどとは思わないでしょう。ご自分の名誉にも関わりますからね」


「それもそうか」


 それにしても、とドゥーエは思う。ダンスの相手にまで気を回さねばならないなど、貴族同士の暗闘は神経が参って困る。さっぱりと腕っ節で決着が付けられれば、自分も気が楽なのだが、と。

 ドゥーエが物騒な考えに耽っていると、トゥリウスは心底面倒臭そうに溜め息を吐いた。


「どっちにしろ、嫌な話だよ。知らない女の人に気を使って、息を合わせるだなんてさ。僕はいつでも自分のことで手一杯だってのに。いっそのことユニが踊ってくれるんなら楽なんだけど」


「何を言ってるんですか。出席しての近侍を許されたことだって奇跡に近いんです。この上、ダンスの相手だなんて、例え伯爵が閣下を憎んでいなくても無理ですよ。ねえ、チーフメイド?」


 呆れ顔のルベールが、先程から黙ってばかりのユニへ水を向ける。

 トゥリウス・オーブニルの居る場所に彼女が居ないことなど、他ならぬ主が用事を言付けない限りありえないことであった。

 ただドゥーエが気に掛かるのは、先程から彼女が妙に言葉少なな点であった。無口で鉄面皮な女性であるが、ここまで黙りこくっているというのも不思議である。何せ、先程から数回、ドゥーエはトゥリウスに向けて際どい冗談も発しているのだ。普段の彼女なら、忠犬よろしく注意の小言くらいは飛ばしてくるはずである。


「……。ええ、そうですね。ご主人様、流石に私も格式が問われる場で目立つのは、如何なものかと」


「でしょう? まったく、閣下も往生際が悪いんですから」


「僕ほど往生際が悪い人間なんて、そうそういないけどね。……にしても残念だなあ、ユニが相手なら勝手知ったるものなんだけど」


「……ちょっと待った。ユニが相手なら? それってつまり、アンタも踊れるってことかい?」


 思わずユニに向けて訊く。彼女はいつもの平坦な口調で答える。


「ええ。ご主人様の主な練習相手は、私でしたので」


「年の近い子で、練習に付き合ってくれる相手はユニしかいなかったからね。ダンスの先生は苦い顔をしていたけれど」


 それはそうだろう。仮にも伯爵家の子どもが、メイドで、しかも奴隷しかパートナーを見繕えないなど、幾らなんでも聞こえが悪過ぎる。いつものことだが、本当に人付き合いの薄い男であった。 

 ついでにドゥーエにとって都合の悪い事実も浮かび上がってきた。


「てことは、アレか? この中でダンスの嗜みが無ェのは、俺だけか?」


「ああ、そう言えばそうですね」


「見るからに護衛って見た目したドゥーエを誘う女性、ってのもあんまり考えられないけどね。まあ、いざという時は足だけ踏まないよう頑張りなよ。今更、踊りが出来ない家臣がいたくらいで僕の評判が変わったりはしないだろうさ」


 何ということだろう。よりにもよって、トゥリウスから宴席での振舞い方を講義されるとは。

 思わず額に手をやるドゥーエに、トゥリウスが愉快そうに笑う。


「何なら、マルランに戻ったら練習を始めてみるかい? 君にだって格好のパートナーがいるだろ?」


「……冗談キツイぜ」


 主が指す相手とは、十中八九あの女のことだろう。本当に酷い冗談であった。ドゥーエにとっては、今もってどう接すればいいか分からない相手だというのに、よりにもよってダンスに誘えなどと。

 やり込められた気分になって顔を背けると、トゥリウスは今度はユニに水を向ける。


「で、ユニ。ここのところ口数が少ないけど、何か考えごとでもあるのかな?」


 野暮天の自分から見ても、直截に過ぎる聞き方だった。

 確かに行きの馬車の中からユニの様子はおかしかったが、もう少し段階を置いて柔らかく訊ねられないものだろうか。


「……お察しでしたか」


「長い付き合いだからね。ちょっとくらいの問題なら君自身で解決出来るだろうけれど、何日も考え込んでいるところを見ると、どうにも手に余ることを抱え込んでるんじゃないかってさ」


 どうにも乾いた物の言い方である。

 脳まで弄った奴隷とはいえ、仮にも長年連れ添った女だ。悩みを聞くにももう少し優しさを見せるべきではないかとドゥーエは思う。

 トゥリウスは時々気まぐれな施しを配下に見せることがあるが、本当に時々だ。己が生きながらえることしか眼中に無いこの男は、本質的に自分にしか優しくない。偶さか見せる人情めいた物は、自分の一部と化した存在へと向ける、形を変えた自己愛に過ぎないのだろう。一年に渡る付き合いで、ドゥーエはそう感じていた。

 やはり、こんな男が他者へ情けなど掛ける訳が無いか。心底そう思っていると、ユニは無いことに言いづらそうにしながら下問に答えた。


「……ふと、思ったのです」


「何を?」


「今回の御兄君の御成婚が切っ掛けでした。ご主人様も、そろそろ奥をお迎えになる年頃となられたのでは、と」


 言って、彼女は目を伏せた。

 気にしていたのはやはりそこか、とドゥーエは得心する。この血も涙も無い鉄で出来たような女も、年の方は二十歳前のトゥリウスより更に下だ。信じられないことだが、量産型奴隷と違って感情面にはほぼ手を着けていないこともある。長年仕えた主であり、忠誠を誓った相手は年の近い男。それに対して並々ならぬ思いを抱いていても何ら不思議は無い。

 どころか、トゥリウスが戯れに見せる情に、最も喜びを見せていたのは彼女であるように思う。それは氏族への感情を彼への忠誠心に摩り替えられたドライと比べてさえ、顕著だった。

 なのに、


「あー、そう言えば馬車でドゥーエと、そんな話をしたのが切っ掛けだったっけ?」


 などと、トゥリウスは自分の従者の感情を何ら斟酌しないで続けた。


「けど、確かにそれも問題だね。兄上が結婚したってことは、一応子爵である僕にもお鉢が回ってくることもある。いや、兄上を派閥に取り込む為にこの件を仕組んだだろうラヴァレ侯爵なら、僕にもその手を使ってくることもあるか」


「でしょうね。自家薬籠中の物としてから、じっくり料理するというのもやりかねないでしょう」


 呆れたことに、ルベールまでトゥリウスに同調した。


「今のマルランは急速に再生し、鉱山まで整備されています。現状の収益高は高が知れていますが、将来性は有望です。中央集権派としては、婚姻でこちらに鈴を着けた後、美味しく肥えたところで閣下を誅して天領に、などという筋書きも頭をちらついている頃でしょう」


「酷いなルベール。そこまで読めていて鉱山を掘れってせっついたのかい?」


「閣下こそ人聞きの悪い。兄君である伯爵の結婚と、チーフメイドの提言があって初めて見えた絵図です。何しろオーブニル家の評判は最悪でしたからね。こうも早く御当主が結婚して、閣下にも婚姻政策を仕掛けられるようになるとは、思ってもみませんでした」


 最早二人は、侯爵派の陰謀とその対策に熱中していた。


「それで、もしそうなったらどうします?」


「うーん、いざとなったら婚姻相手を通じてその実家も洗脳しちゃえば済みそうだけれど……いくら何でも、それは虫が良い気がするね」


「ええ。侯爵も悪名高い策謀家です。そろそろ閣下が人心を籠絡する何らかの術を持っていると、気付き始める頃でしょう。迂闊にマルランに近づかないような、王都に居を構えていてそれも簡単には動かせない大身の貴族家を用意すると思われます」


「おいおい、それじゃあ男爵家の娘を宛がわれた兄上の立場が無いじゃあないか。……まあ、ヴィクトルから散々言われている、あの侯爵のことだ。伯爵とはいえ若造貴族の面子なんて、屁とも思わないだろうけどさ」


「ご賢察ですね。それに理屈ならどうとでも付けられます。例えば……『ライナス卿からも弟御には何とぞ良き縁を、と頼まれた。出来れば慎みに欠ける弟を善導出来得る、しかるべき筋をとも言われている』などとね」


「うわあ、如何にもありそうな言い回しだ。会う前から嫌になってくるね、その爺さん」


 頭痛を堪えるように頭を押さえるトゥリウス。


「その筋書き通りになると、僕は兄上の他にも妻の実家という、憚りのある相手を抱えることになる訳だ。で、僕を排除したくなったら、その実家から讒訴でもさせれば良いと。行動を掣肘される上に、オマケで殺しに来る口実まで与えちゃうなんて最悪だな」


「僕としては、式に顔を出して最低限の義務を果たし終えたら、早めにマルランへと戻られるようにお勧めしたいですね。現在中途の派閥工作さえ完了すれば、かなりの確率で防げる手ですし……最悪の場合を想定すると、王都に居る間に侯爵が無理やり縁談を捻じ込んでくる恐れすらあります」


「まったくだ。ここに足止めされたって、得る物は厄の種ばっかりだからね。事前に協議しておいた通り、早期脱出用の策を準備しておこうか。場合によっては、策定されたプランで最も危険な案も辞さない方向で」


 雲の上の話である陰謀談義から、自分にも他人事では無い方向に話題が移った。

 敵の足止め策を封じる為の、王都早期脱出計画。ドゥーエやユニも身体を張ってこれを遂行する必要のある実力行使である。

 プランは幾つか用意されているが、トゥリウスが口にした『最も危険な案』は、考えるだに気が滅入る最悪の作戦だった。率直に言って、ラヴァレ侯爵がいっそ可愛く見える程の悪魔めいた策略、いや暴挙。

 なのに、


「それも仕方無いでしょうね」


 信じられないことに、ルベールは消極的にとはいえそれを支持した。

 思わず目を剥いてしまう。


「お、おいルベール……? お前、その計画がどういうものだか忘れちまったのか?」


「しっかり憶えていますよドゥーエ殿。発案は閣下ですが、僕もヴィクトルも協議に参加した代物ですからね」


 そうであった。こと錬金術の研究に関する行動は自分たちオーパスシリーズが使われる。だが政治や謀略の類は、常に彼ら二人を通してから物事を決めていた。

 だが、用意されていた策は、あくまでも万が一の危難を避ける為に考えられていたはずだ。それ以外では使うことすら考えないようにと、ヴィクトルも釘を刺していた程の悪辣な策だ。それをどうして、すんなりと支持できる?


「……理解出来ねェぜ。どうしてそんな物を、使おうって気になれるんだ、だってお前も――」


「そりゃ、貴方には理解出来ませんよ」


 王都が生まれ故郷だろうと、そこまで言わせずに遮って、ルベールは肩を竦める。


「言葉を返すようですが、お忘れですか? 僕もヴィクトルも、受けた手術はドライ殿と同世代のものです。元の人格と知性を出来得る限り維持したまま、価値観を摩り替えて閣下の事を最優先とする、ね。だから反逆の意思を摘み取り、服従を埋め込んだだけの貴方とは、考え方に差異があって当然でしょう?」


 ドゥーエが、【両手剣】と二つ名を贈られたほどの戦士が、気圧されたように息を呑んだ。その気になれば指先一つで殺せるような貧相な貴族相手に、圧倒されたのだ。

 ……忘れていた。トゥリウス・シュルーナン・オーブニルが傍に置く者は、全て彼の道具なのだ。日頃しつこく諫言を繰り返すルベールらも、結局のところは頭を弄られた傀儡に過ぎない。主へと反対の意見を述べるのも、トゥリウスからすれば自分のミスや知識不足を補うため、意図的に残した単なる機能なのである。

 滔々と説くルベールの表情にも、声にも、一片の悪意も無い。躊躇の色さえ淡くて薄い。それが恐ろしい。改めて、自分を道具に仕立てた錬金術師の才腕と外道ぶりを実感した。


「ヴィクトルのケースは、ちょっと予想外だったけどね。価値観を弄って僕を上位にするようにしたら、抑圧されていた侯爵への敵愾心が過熱しちゃったから。……まあ、それは兎も角として、だ」


 トゥリウスは出来の悪い生徒を見る教師のような目をドゥーエに向けて来た。


「君が気乗りしないのは分かるよ? 僕だって派手な動きはしたくないからね。でも、王都に留まり続けるのはやはり危険過ぎるし、侯爵ら中央集権派一派には、ここいらである程度の打撃を与えておかなくちゃならない。それを思うと、この策は最上だと思うけど」


「……それがアンタの目的にとって、最も効率的な方法だから、か?」


「何だ、分かってるじゃないか」


 言って、薄く笑うトゥリウス。

 ドゥーエとしては気乗りしないどころではない話であるが、かといってそれを退けることも出来ない。主人に翻意を迫れる程の対案は思いつかないし、何より止めたくても止められない。自身は既にそう改造されているからだ。


「それに『場合によっては』って言ってるじゃないか。あくまで検討の俎上に乗せただけだよ。ねえ、ルベール?」


「ええ。僕も出来得る限り使いたくない策ですよ。リスクが高いですし、後ほど別案も改めて話し合いますから」


「……チッ」


 結局、不服げに舌打ちを漏らすのが精々の抵抗だった。勿論、面の皮の厚い外道には、何ら痛痒を齎せない程度の物であったが。

 そのトゥリウスは、いやに上機嫌な顔でユニの方を向いた。


「しかし、なんだね。ちょっと調子が悪いようだけど、やっぱりユニはユニじゃないか。こうしてちゃんと、僕の為になるアイディアを出してくれる」


「……過分なお言葉です。それに私の発言など、切っ掛けに過ぎません」


 そう言うユニの顔は、普段通りの鉄面皮のメイドの表情だ。己は主へ仕える従者であり、それ以上でもそれ以下でもないという顔だった。

 ……本当に?

 ドゥーエは疑問に思う。トゥリウスにも婚姻の話が持ち上げるかもしれないという懸念。それは本当に、この暗闘に深く関わると察した故の発言だったろうか。そんなことを口にするのに、この女が今更何日も躊躇いを抱き続ける訳が無い。


「いやいや、謙遜することは――」


 トゥリウスがそう言い掛けた時だった。


 ――トントン。


 軽く、部屋の扉がノックされる。


「失礼します。間もなく開宴のお時間ですが……」


 扉の向こうから聞こえて来たのは、この屋敷の使用人の声だった。

 トゥリウスは珍しく不機嫌そうな顔で指を鳴らす。外側に密談が洩れないようにと張っていた、音に干渉する結界を解いたのだ。


「ああ、準備は整っています。今行きますので」


「左様にございますか。では、失礼」


 そして足音が遠ざかっていく。


「時間だ、行こうか」


「はい」


 主が促し、侍女が応える。

 その間に家臣が入って、部屋を出た。

 会場となるホールに向かう最中、ドゥーエは微かに胴震いを誘うような寒気を覚える。

 原因は部屋の中で交わした密談の後ろ暗さか、それとも――


(……どちらにしろ、俺が考えたとしてもどうしようもないか)


 頭を振って悪寒を追い払う。

 それは単なる思考停止に過ぎなかったが――確かに、彼が何を考えたとしても、どうにかなる訳ではなかった。




  ※ ※ ※




「――兄は年の離れた僕から見ても、誇らしい方でありました」


 ライナス・オーブニルは、耳が腐りそうな思いでその言葉を聞いていた。

 晴れの婚儀の席、その披露宴の夜会で、あのトゥリウスが親族を代表して挨拶を謳い上げている。会場であるオーブニル邸大広間に設えられた演壇上で、如何にも不慣れそうに顔を赤らめながらも、淀み無く言葉を発し続ける姿。傍目には兄の婚儀を精一杯寿ぐ、人の良いお坊ちゃんとしか見えないだろう。

 だが、違うのだ。

 その本性は己の為なら家を傾けようと一顧だにしない、母の胎に宿った折りに悪魔とでも取り違えられたような鬼子なのである。


「――栄えある王国貴族の一員として、常に研鑽を惜しまず精進して来られたお人です。不肖であるこの身には厳しい兄でありましたが、誰よりもご自分に厳しい男性であったと、幼心にも感じられたものです」


 それが上辺だけ取り繕って、散々振り回された自分を褒め称える言辞を口にする。吐き気を催す欺瞞であった。


「――その兄が、ラヴァレ侯爵閣下の覚えも目出度く、美しい花嫁として義姉上を娶られることは、正に天の配剤であることでしょう」


 馬鹿を言うな、と叫び出したい気分だった。侯爵と近づいたのは、元はと言えばトゥリウスが下手な策を捏ね繰り回して、あの爺に目を付けられた所為である。シモーヌと娶すことになったのが侯爵の発案なら、その元凶こそトゥリウスだ。それを言うに事欠いて『天の配剤』? 烏滸がましいにも程がある。


「――誠に目出度いことです。兄上と義姉上が幸福な家庭を築かれることを、そしてオーブニル家の誉れと伝統の弥増(いやま)されることを、僕は心より願い、また信じております。繰り返しになりますが、この度は御成婚、誠におめでとうございます。……以上をもちまして、僕からの挨拶を結ばせて頂きます。御清聴、ありがとうございました」


 ライナスは耐え難い目眩に片手で顔を覆った。まるで弟の言辞に涙を堪えるような仕草だったが、泣けるものなら泣きたいほど情けない思いである。

 あの愚弟は今、何と言った? オーブニル家の誉れと伝統の弥増されることを、だと? それはつまり、自分が好き勝手に穢し貶めた物の始末を、この兄夫婦に押し付けるとでも?

 演壇を降りる愚弟に対し、聴衆は拍手を送ったが、何割かは苦笑を交えていたのをライナスは見逃さなかった。可笑しいだろう。滑稽だろう。彼らもライナスと同様の感慨を抱いたはずだった。何せ、トゥリウスがオーブニル家に塗りたくっていった汚名は、王都に居する貴族なら知らぬ者はいないのだから。

 思わず切歯する音が漏れた。シモーヌが窘めるように袖を引く。


「……すまん」


「そう思うのなら、その手を退けるまでの間に表情を取り繕ってくださいな」


 ライナスは目元を覆ったままの右手で、自分の顔の強張りをほぐす。指に伝わる感触は固く、熱い。きっと地獄の悪鬼が如き、憎悪を滾らせた表情をしているのだろう。悪鬼と言うなら、たった今いけしゃあしゃあと空々しい演説をぶった男の方だというのに。


(だが、もうすぐだ……)


 そう思うことで、何とか心を鎮める。

 間も無く、あの侯爵が披露宴に仕組んだ仕掛けが効果を表しだすはずだ。

 何とか人に見せられる表情を取り戻して、席へ戻るトゥリウスを視線で追う。

 侯爵の絵図面通りに事が運んでいるのだとしたら、このタイミングで事は起こるはずだった。


「お疲れ様です、ご主人様」


「ちょっと人前で話しただけさ。大したことじゃあないよ」


 図々しくも奴隷の身でこの披露宴にまで踏み込んだ、あの忌々しいトゥリウスのメイド。あの女が主の為に椅子を引く姿が、ライナスの新郎席からも良く見えた。ドゥーエとかいう冒険者上がりの男が呆れとも感心ともつかぬ表情を浮かべ、ルベール家の四男が何事か言う様まで見てて取れる。

 きっと会場中の注目を浴びているだろう。あれ程に厚顔無恥な挨拶を行った男の着席だ。自分の席に戻ってどんな面を晒すか、噂好きの来客どもの耳目を一身に引きつけているはずである。

 そうでなくても――仲人として訪れている侯爵が、それを見るように促すはずであった。

 その招待客は、必ずトゥリウスとそれに従うあの女を目にする。


「ひっ……!?」


 短い悲鳴と共に、ガシャンとグラスが床に落ちて割れる音が聞こえた。

 賓客たちの視線が、一斉に音を立てた不作法者に注目する。

 それに合わせて、ライナスもさりげなくその方向を窺い、ほくそ笑んだ。

 視線の先では、ラヴァレ侯爵がさも意外そうな表情を作って初老の夫人を窘めていた。


「おやおや、如何なされたカルタン伯爵夫人? 何やらお顔が優れぬが?」


 よく言う。ああも巧妙に葬られていた事実をほじくり出して、この場を調えた張本人が、よくこうも親切ごかせるものだ。

 カルタン伯爵夫人、と呼ばれた女は、侯爵の声も聞こえなかったかのように凝然とトゥリウスを――その後ろに控える女奴隷を見ている。青褪めてぶるぶると震え、際限無く冷や汗を流し、まるで亡霊にでも出くわしたかのような顔をしていた。

 それもそうだろう。彼女が遭遇したのは、正に過去の亡霊だ。いや、あの悪魔が蘇らせた死に損ないと言った方が正しいだろうか。


「ありえないわ……第一、あの女は……」


「どうしたというのだ、ジョゼフィーヌ? 侯爵閣下のお窘めも聞かずに……」


 夫人の夫、カルタン伯爵もつられたように向こうを見ようとする。

 だが、それは他ならぬ伯爵夫人が遮った。


「い、いけませんわ貴方! 見てはいけませんっ!」


「な、なんじゃジョゼフィーヌ!? これ、落ち着かぬか!」


 目出度い席であるというのに、悲鳴じみた甲高い声を上げて夫を止める夫人。忽ち、招待客は騒然とし始める。

 トゥリウスは、流石に謀略の的となっている自覚があると見えた。常に太平楽な表情を浮かべていた顔を引き締め、カルタン伯爵側の成り行きを見守っていた。

 だが、遅い。

 その時には既に、侯爵が最後の一押しを施していた。


「何事であろうな、カルタン伯。ご夫人は向こうを見て、何やら大層驚かれたようであるが?」


「さ、さて。私としても見て見ぬことには……」


 自分より爵位の高い相手に促されて、見て見ぬふりは出来ないだろう。

 侯爵は夫人の身体を安心させるように抱き締め、その実、邪魔とならないよう身動きを封じて、トゥリウスらの方へ顔を向ける。

 そして、カルタン伯爵もそれを見た。

 銀色の首輪に戒められた、呪われた娘の姿を。


「……アンナマリー?」


 目を丸くしながら呟かれた名前に、腕の中の老夫人が強張るのが見えた。


「じょ、冗談はお止しになって、貴方……あ、あの女とは、ね、年齢が違い過ぎますわ……」


 震えた声は、隔たりのあるこの席までは聞こえなかったが、大方そんな事を言ったのだろう。

 何にせよ愚劣な言い訳だ、とライナスは笑う。

 それは見出した相手の正体に思いめぐらす夫へ、格好のヒントを与えたのと同義なのだから。


「では、あれは……あの子の娘……アンリエッタでは……!?」


 そう言うカルタン伯爵の表情は、驚愕と歓喜が交々としていた。


(勝った……!)


 ライナスは声を堪えるのに必死だった。

 腹筋が引き攣り、横隔膜が笑気を喉まで押し上げてくる。

 だが、ここで爆笑する姿を晒しては全てご破算だ。

 貴公子らしく冷静さを保ち、それでいて貴族社会の一員らしい気遣いを見せねばならぬ。


「貴方」


「分かっている。……誰ぞおらんか?」


 不審げな視線を寄越すシモーヌに返事をしつつ、近侍を呼びだす。

 果たして困惑しきった風情の家僕がすぐさま駆けつけた。


「如何なさいましたか」


「見て分からぬか? カルタン伯のご夫人が体調を崩された。お心持ちも乱れておるだろう。……別室に案内して差し上げろ」


「はっ!」


 家僕は遅疑せず指示に従った。多少は怪しく思っただろうが、ここはオーブニル邸であり、彼はそこに仕えており、そしてライナスはその主人である。

 己の権威が正しく機能する様に満足しつつ、ライナスは事の成り行きに視線を戻した。


「……何が分かっていると仰るのでしょうね」


 新妻の嘆息に、耳を塞ぎながら。




  ※ ※ ※




 ドゥーエには事の成り行きがまるで理解出来なかった。

 主が恙無く式辞を述べて席に戻ったと見るや、初老の貴婦人が何やら騒ぎ出し、それが守衛に連れ出されたと思うと、今度はその夫と思しき貴族の男が近づいてくる。

 式次第も何もかも、目茶目茶である。なのに、誰よりも体裁に拘るはずの新郎は落ち着き払っており、まるで動じていない。ライナスと侯爵による、何らかの仕掛けであることは明白だった。

 この婚儀にかこつけて謀略を仕掛けられるとは知っていた。だがまさか、よりによって披露宴の最中にそれが行われるなど、前代未聞である。


「……マルラン子爵、トゥリウス・シュルーナン・オーブニルです。ご尊名を伺えませんでしょうか」


 トゥリウスは覚束ない足取りで現れた老貴族に、機先を制して席を立ち、挨拶してみせた。

 ルベールに肘で小突かれ、ドゥーエも慌てて彼に倣い、老貴族に礼を示す。

 奴隷として椅子も無く立たされていたユニなどは、主の挨拶とほぼ同時に床へ額づいているという手際の良さだった。


(何だ……?)


 ドゥーエは老貴族の表情に違和感を覚えた。いや、正確には視線の方向に、だ。

 この老いた男の目は、恭しく頭礼するトゥリウスを素通りし、その背後の床に注がれている。

 彼は、ユニのことを凝視していた。

 思わず目を疑うような光景であった。貴族が、同じ貴族の挨拶を無視してまで、奴隷の女に注目する? 確かにこんな目出度い席に奴隷は珍しかろう。だがその奇異さは、決して礼儀より優先してはならない。それが貴族の社会だ。

 では、この例外の意味は何だ?

 ドゥーエの逡巡を余所に、老貴族はトゥリウスへ向き直った。その視線には嫌悪感と不信感がありありと見てとれる。まるで盗人を見るような顔だった。今まで主が他家の者に侮られる様は何度か見て来たが、ここまで酷い目付きで彼を見るのは、それこそライナスくらいのものだ。

 果たして老貴族は名乗った。


「……ピエール・シモン・カルタン伯爵である」


 端的で愛想も礼儀も何も無い名乗りである。貴族としての教養が無いというよりも、身に付いたそれを相手に使う気は無いとでも言っているようだった。

 背後でぞっとするほど冷たい殺気が膨れたのを感じる。

 ユニだ。トゥリウスに隔意を覚えているドゥーエですら、腹が立つような挨拶である。主人を最優先とするこの奴隷からすれば、殺意にすら達する程の怒りを抱いても不思議ではない。

 それにしても、良く制御されたものだ。この彼女の殺意を感じ取れたのは、ドゥーエのような心得のある者だけであろう。事実、ルベールなどは気付いた風も無く、呑気にカルタンと名乗った伯爵について考えを巡らせている様子だ。それ程の隠蔽である。

 カルタン伯爵も、ユニの気迫に気付いた気配も無く言葉を続けた。

 それも、よりにもよってそのユニに向けてだ。


「……君、顔を上げなさい」


 死ぬ気か、とさえ思った。

 主の面子を蔑ろにされて苛立っているユニに、あの【銀狼】に、事もあろうか主の頭を越したまま話し掛けるなど。これでは彼女の為に、主の立場が踏み躙られたも同然ではないか!

 ドゥーエはユニほど狂的に忠を尽くす存在を知らない。自分は命令だけ聞くようにされた身で、ドライやシャールは忠誠を抱くように改造された。フェムは最初からそう作られた。だが聞いた話が事実なら、この奴隷は忠誠の為に自分の脳味噌まで差し出した、天然自然の狂人である。ある意味でトゥリウス以上に狂っているとさえ思う。そんな化け物が、自分をダシに主を軽んじられて、それをした相手をただで済ますはずが無い。【銀狼】にとって己の飼い主とは、竜にとっての逆鱗、虎にとっての虎穴の虎児も同然だ。

 無論、この場で見境を無くすほど彼女も短慮ではあるまい。報復が却って主に害を為すと判断すれば、それを抑えることが出来るのも知っている。表向きには表情一つ変えていないかもしれない。が、確実に恨みを買ったはずだ。トゥリウスの判断如何では、この貴族は相当に惨たらしい末路を迎えることになるだろう。


「しかし、卑賤の身には畏れ多く――」


 ユニの返事は、昨日シモーヌにしたものと同じだ。だが、孕んでいる感情はまるで違う。声も微かに震えている。

 今度はルベールも顔を青くした。殺気を感じる能力は無くとも、ユニの性格は知っているはずだ。彼女が声を震わせるのは、トゥリウスに関わる吉事があって喜んでいるか、トゥリウスに関わる凶事があって怒っているか、どちらかしかない。この場合は明確に後者だった。

 だというのに、カルタンとかいう貴族は察する気配も無くユニに近づく。


「良い、面を上げよ」


「あの、伯爵閣下?」


 流石のトゥリウスも困ったような声を出した。

 しかしカルタン伯は取り合わない。あまつさえ、押し退けるような手ぶりで彼を制する。

 邪魔をするなとでも言いたげだった。

 ドゥーエとしては、ユニが今どんな表情をしているか、想像するだに恐ろしい。

 果たして彼女は顔を上げた。


「おお……っ!」


 ユニの顔を見て、カルタン伯はわなないた。

 何だ、今更この怒気に気付いたのかと思ったが、どうにも様子が違う。

 伯爵は涙を流していた。泣きながら微笑んでいた。随喜の涙である。

 震える手で彼女の肩を掴み、身を起こさせた。

 思わず目を疑う。

 仮にも伯爵という高位貴族が、宴席の場で卑しい存在とされる奴隷の身体に触れたのだ。礼儀に疎いドゥーエでも非常識と分かる程の目に余る所業だった。そんなことをやってのける貴族など、それこそトゥリウスくらいだろう。

 伯爵は涙声で言った。


「その声、そしてその顔……やはりアンナマリーの生き写し……」


「カルタン伯? アンナマリー?」


 ルベールが訝しげに呟く。

 そう言えば、この男には貴族たちに纏わる噂を集める趣味があった筈だ。

 もしや、この状況に何か覚えがあるのでは。

 だが、ドゥーエが彼を問い質す暇も無く、事態は進む。


「失礼ながら伯爵様。この身にいかような御用がおありでしょう?」


「アンリエッタ――」


 刃物のように無機質な声で問うユニを、伯爵は何処の誰とも着かぬ女の名前を呼び、


「――君は、私の生き別れの娘だ……!」


 そんな言葉と共に、抱き締めていた。


「……はっ?」


 ドゥーエは思わず間の抜けた声を上げてしまう。

 この貴族の生き別れの娘?

 ユニが?

 奴隷で、メイドで、冒険者で、あの悪魔の助手の冷血女が?

 ……一体、何の冗談だというのだ。


「何事だ? 貴公、今のカルタン伯の言葉をお聞きになられたか?」


「わ、私の耳が確かなら、生き別れの娘と……」


「馬鹿な、あの娘は奴隷だぞ!?」


「せ、静粛に……婚儀の場ですぞ?」


 忽ち、周囲の貴族が騒然としだす。

 騒げるものなら、自分も騒ぎ出したかった。事態は、明らかにドゥーエの対処できる範疇を超えている。自分は剣士だ。だが、こんな状況を剣でどうしろと言うのだ。


「……私はユニです」


 抗議するようなユニの声を、感無量の伯爵は聞いていなかった。

 涙を流し、歔欷の声を漏らしながら、しかと彼女に抱き付いている。


「成程、こうきたか」


 忌々しげなトゥリウスの呟き。

 それに答えるように、


「おやおや。これはこれは――」


 そう言いながら、年のいった痩せぎすの貴族が姿を現した。

 頭に白髪を戴き深い皺を刻んだ顔は、相当に高齢と見える。

 だが痩身を優雅かつ不自由無く動かす様は、矍鑠とした気力の横溢を感じさせた。

 そして、この苦笑で細めた眦に隠す、油断ならない眼光。

 ドゥーエは即座に相手の正体を看破した。


「お初お目に掛かります……ラヴァレ侯爵閣下でいらっしゃいますか?」


 同様の結論に至ったか、トゥリウスは相手より先に頭を下げた。

 老人――ラヴァレ侯爵は、呵々と莞爾に笑う。


「如何にも、儂がラヴァレである。ご賢察、と褒めてやりたいところではあるがな。しかし、初対面の相手の名を推量するのは感心出来ぬ。此度は当てたから良いものの、万が一外してしまっては目も当てられぬ非礼よ」


 そして口元の笑みを保ったまま、じろりと眼光鋭くトゥリウスと目を合わせる。


「これは申し訳ありません。お恥ずかしいところをお見せしたようで」


「うむうむ。素直に頭を垂れる謙虚さこそが美徳というものさな。いやあ、若者は才気走って相手に己を賢く見せようとするのが大概じゃが――肝要なのは己の度量を弁えることであるぞ? のう、トゥリウス・シュルーナン・オーブニル子爵?」


 口調は柔らかいが、言葉の裏に隠された意は辛辣だった。


 ――粋がるなよ、弱小領の小才子が。

 ――己の分というものを弁えよ。

 ――儂に楯突くなど笑止の極みであるぞ。


 そうしたことを言っているのは、ドゥーエにも分かる。


「御忠告、ありがとうございます。兄をお引立ていただいている閣下のお言葉です。いや、有り難くて汗顔の至りですよ」


 トゥリウスは恐縮の体でそう返す。

 温順そうな頬笑みを浮かべているが、口の端が引き攣っていた。

 常に余裕を浮かべている彼らしくもなく、相当に苛付いていると見える。

 そしてラヴァレの忠告に対し、『ありがたい』とは言っても『分かりました』とは言わない。


「ところで侯爵閣下。今少し立て込んでいるところなのですが……こちらのカルタン伯とはご知り合いで?」


 そう言ってユニに泣き縋る貴族を横目で見る。

 ラヴァレも表情を取り繕ったような苦笑に変えた。


「ああ、彼とは個人的にも親しい仲であるが……この晴れの宴席でこうも乱れるとはのう。いやはや、全くもって思ってもみなかったわい」


 だったら、もっと動じてみろ。ドゥーエは腹の中で毒づいた。


「しかし、こうなっては折角の兄君の披露宴にも水を差すというもの。どうかねトゥリウス卿? ここは一旦会場を出て、カルタン伯と落ち着いて話をしてみるというのは」


「……ええ、そうですね。僕も目出度い場を台無しにするのは気が引けますから」


 トゥリウスは大人しくラヴァレの提案を受け入れた。

 受け入れざるを得なかったとも言える。宴席の式次第がご破算になりかねないトラブルを起こしてしまったのだ。相手の手引きだとしても、彼の立場上、中座して一旦場を収めるしかない。

 老侯爵はトゥリウスの受諾に目を細める。勝ち誇った笑いにしか見えなかった。


「よろしい。では行こうかね。……カルタン伯! 貴殿も来るのだ。仮にも王国貴族ともあろうものが、こんな場で度を無くすでない」


「は、はっ! 侯爵閣下。……あの、この娘は――」


「当然、来て貰うとも。何せ、事の当事者――いや、発端なのだからのォ?」


 戸惑うカルタン伯爵とユニを引き連れて、一行は会場の外へと向かう。

 その道すがら、貴族たちの好奇の眼差しがトゥリウス、そしてユニとカルタンの間を激しく行き来するのを感じた。この件は恐らく、明日には王都の貴族たち全員に知れ渡るだろう。ドゥーエの頭では侯爵の策略の落着点は計り知れないが、これだけは分かる。

 この王都にいる限り、トゥリウスに逃げ場は無い。

 

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