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026 オーブニルの花嫁

 

「僕って、あんまりネーミングセンスが良くないんだよね」


 少年はそう言って困ったように笑った。

 か細い明りだけが頼りの、暗い地下室でのことである。


「だから、まあ、何だ。あんまり良い名前は期待しないでくれよ?」


 それで構わない、と彼女は思う。

 前の名前に、思い出は無い。

 あったかもしれないが、無くなった。

 だから彼に礼を述べると、まず新しい名前を願ったのだ。

 過去と現在は断線し、自分を自分と思えない。

 穢され、傷つけられ、壊され、貶められ、かつて人間だった残骸に堕した塵芥。

 そんな物から作られた人形が彼女だった。

 今更彼女に、人がましい名前などしっくりこない。

 だからどんな名前でも良い。

 再生された彼女には、この身体とこの心で生きる為の、新たな名前が必要だった。

 彼は短く考えてから言う。


「じゃあ、こういうのはどうだろう?」


 君が僕の一号だから、一に因んだ名前が良いと思う――。

 そんな枕を付けて提案された名前は、穴だらけの心の中心にピタリと嵌り込んだ。

 それは古い言葉で、『統一』だとか『単一』だとか……そんな意味を備えている。

 統べて一つに。

 単に、一つに。

 短く柔らかい音にシンプルな意味を込めた名前は、成程、この身に沿った名付けである。

 砕かれた破片を一つに戻して蘇らせた、今の彼女には相応しい。


「――? ――。――……」


 与えられた名前を、何度も呟いた。

 舌と耳とに憶え込ませるように。何があっても決して忘れないように。

 拙い発音が、冷たい壁に反響する。


「どうかな? 嫌なら別のを考えても良いけど」


 そう言う彼に、首を横に振って否定を示す。

 唇を震わせて、良い名前だと思います、と賛意を口にした。

 そのつもりだが、それはきちんと発音されただろうか。


「そう? 気に入ってくれたようで、嬉しいよ」


 果たして、彼はニコリと微笑んだ。

 優しい笑顔だが、眼の色は熱っぽくもひやりと冷たい。

 人として破綻した矛盾を抱えている目だ。壊れた彼女と、同じくらい狂っている。

 かつて彼女だった人間の残滓がそれを恐れ、今の彼女である人形はそこに惹かれた。


「じゃあ、行こうか。屋敷の皆にも君のことを紹介しないとね」


 言って彼は彼女に手を伸ばす。

 壊れて蘇った少女は、蘇って狂った少年の服の袖を恐る恐る摘まむ。

 彼の足取りに覚束無い歩みで従い、彼女は地上への階段を上がる。


「……っ」


 地下から出ると、眩い日光が網膜を焼いた。

 生命の光だ。

 中身が零れた空っぽの心に、生の実感が再生される。


「ああ、それにしても生きてるって素晴らしいね。君もそう思わないかい?」


 振り返り、逆光の中に笑顔を溶かす少年へ、少女は小さな高鳴りを隠して肯いた。


 或いはそれが全ての始まりだったのかもしれない。

 本当の端緒は、彼が生まれ変わったことではなく、彼女が生まれたこと。

 それは単なる狂った人喰いが、壊れた比翼をその背中に得た日――

 そして壊れて狂った人形が、彼女の永遠に恋をした日――




  ※ ※ ※




「それにしても、こうしていると昔を思い出すね」


 馬蹄と車輪の刻むリズムに身を任せながら、僕は努めて呑気にそう言った。

 その言葉に、同乗者の一人が呆れたように返してくる。


「昔だァ? たかだか一年前だろ。懐かしむほどのことでもねェ」


 ドゥーエだ。彼は何処となく不愉快そうである。はて? 馬車での道行きに何か嫌な気分を覚えることでもあっただろうか?

 今、僕らは馬車で一年前にかつて来た道を、今度は逆に走っている。

 発端はと言うと、僕の服の胸ポケットに収まっている紙切れだ。

 兄上からの結婚式の招待状、である。いやいや、あの兄上に婚約者がいたとは、寡聞にして知らなかったな。確か最初のフィアンセは、僕の噂に恐れを為して兄から逃げたと聞いているのだが、いつの間に新たな相手を見繕ったのやら。

 そんなことを考えながら、僕は再び口を開く。


「シチュエーションが似ているもんだからね。同じ思い出すにしても、多少は感慨めいた物があるのさ」


 何せ去年は兄上に追い出されて来た道を、今度は呼び出されて行くのである。加えて言うなら、奇しくも同乗している者も同じだ。

 僕の他には、護衛であるドゥーエといつも傍で仕えてくれているユニだった。


「確かに、妙な取り合わせだぜ。おい、ご主人。まさか図ってこの組み合わせにしたんじゃないだろうな?」


「勘繰りは無用です」


 と、ユニ。


「単にオーパスシリーズの中で、適任であるのが私と貴方だったという話ですから」


 そういうことだ。

 ドライは魔眼持ちのダークエルフ。存在からして目立つ上に、能力が割れるとそのまま僕の派閥工作の種まで露見してしまう。シャールは論外。ヴァンパイアロードを王都に連れ込むなんて、国どころか世界を相手に喧嘩を売っているようなものである。フェムも、シャールほどではないが危ない。あれだけ高性能なゴーレムは、この世界では幕末の黒船、現代の核兵器が如きものだ。先方を刺激し過ぎるし、何より幻の金属オリハルコンで出来ているというオーパーツでもある。やはり連れてはいけない。

 となると、『作品』たちの中では古くから僕の傍仕えであるユニと、元冒険者で現在は家臣団の武官という表の身分があるドゥーエくらいしか、王都に随行出来ないのだ。まあ、それにしたって僕一人の身を守るには過剰戦力であるが。


「それに君は最近、ストレスを溜めがちだからね。折角田舎を離れるんだ、花の王都でゆっくり羽を伸ばすってのも悪くないんじゃない?」


 冗談めかしてそう言うと、ドゥーエはやはり不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「馬鹿言え。色街に行くにしてもアルクェールの……特にブローセンヌの女は、香水がキツ過ぎらァ。腕試ししようにも、近衛のお膝元の王都じゃ、歯応えのある鉄火場なんぞありはしねェ」


 まあ、一理ある。アルクェール王国は『大地と芸術の国』などと称するように、ファッションの最先端でもある……らしい。僕はあまり詳しくないが。なので、香水のモードもその首都である王都ブローセンヌから始まるのだ。嗅ぎ慣れない香水、というのは男の身にはちょっと辛い物がある。無ければ無いで、入浴という習慣がそれほど普及していないため、酷い目を見るのだが。

 それにドゥーエが満足するような強者がいても、存分に立ち会える場には、そうそう出くわせないだろう。彼の言う通り、王国最精鋭の近衛騎士団に護られた街だ。治安も良いし、周辺にあるダンジョンの危険度も高くない。あれだけ大量のクエストをこなして暴れ回ったユニがC級評価どまりだったのも、それが一因だ。

 さっぱりとした気性の女性を好み、修羅の国ザンクトガレンの生まれでもあるドゥーエにとっては、あのオムニアの次くらいには退屈な滞在先だろう。

 ん? なんでドゥーエの好みが分かるかって? 僕も木の股から生まれた訳ではないし、木石という訳でもない。それくらいのことは、彼の振る舞いを見ていれば理解できる。


「おっと、悪い。そういや、あんたもブローセンヌ育ちの女だったか」


 などと、思い出したようにユニに詫びるドゥーエ。

 が、彼女はと言うと、


「? 私はご主人様の奴隷ですが?」


 と、不思議そうに小首を傾げて見せたりする。


「ああ、うん……そうだな……」


 流石のドゥーエも、強張った苦笑いを返すのがやっとだった。

 女である前に、奴隷で道具。一年も行動を共にしていれば、彼女の考え方くらい分かっても良いと思うのだが。

 まあ、ユニにも誰かさんのセクハラに怒るくらいの感性はあるので、誤解も無理は無いか。

 彼は気まずそうに話題を変えようとする。


「しかし、だ。アンタの兄貴もどういう風の吹き回しだろうな」


「結婚式に僕を招待することがかい? それなら何かの陰謀に決まっているって、ヴィクトルたちも言っていたじゃないか」


 手紙が届いた時にその辺りのことはしっかり相談しているのだ。兄がこの時期に僕を呼び付けるなんて、例の派閥構築の妨害か、それと並行しての何らかの企みを目的としているとしか思えない。それくらいは言われるまでも無く分かる。

 分かるのだが……結婚とはピュグマリオンでもない限り一人では出来ない。なので、その相手をどうやって見つけたのか。この辺りがどうしても分からなかった。恐らくはラヴァレ侯爵辺りが手引きした政略結婚だろう。が、向こうの派閥も人間の集まりで、一人一人にそれなりの思惑があるのだ。その中にオーブニル家に嫁ぐことがメリットになる家が、果たしてどれほどあるのだろう?


「いや、そういうことじゃなくてな。結婚なんて人生の一大事をダシにしてまで、ご主人を排そうって考え自体が引っ掛かってな……それこそアンタみたいな効率一点張り、ってんなら分かりやすいんだが」


「失礼なことを言うなよ。無駄が嫌いなことは確かだけど、僕にだってロマンを解する心くらいはある」


 僕はそう反論する。

 フェムなんて僕の趣味の塊みたいなものだし、ユニやMシリーズの着ているメイド服も、一般的なデザインがあんまりに野暮ったいから手ずからデザインしているのである。Bシリーズの執事服だってだ。僕は機能だけでなく造形にも手を抜かない男だと自負している。効率一点張りと言うのは、日々の食事さえ単なる栄養補給と割り切る、あのグラウマン教授みたいな人を指すのだ。僕はアルクェール王国一無駄の嫌いな男ではあるだろうが、流石にイトゥセラ大陸一を名乗れる程のものではない。


「じゃあ、ご主人。アンタは結婚相手に何を求める?」


「え? そうだな……食事、はメイドが作ってくれるし、財産も今のところそんなに必要じゃないな。武力? いやいや、それこそお嫁さんに求めてどうするんだ。うーん、僕の不老不死への思いに共感してくれて、でもってそれを実現してくれるような人かな。別に邪魔さえしなければそれで良いけど。今の身分とそれなりに釣り合う家柄なら、尚良しってところで」


「結局、効率主義じゃねェか」


 と、ますます呆れ返るドゥーエ。


「そうは言うけどね、ドゥーエ。貴族の結婚なんて、結局は効率だよ。家柄は釣り合っているか、貴族らしい教育をキチンと受けているか、子どもはちゃんと産めるのか……愛だの恋だの、そういう物の前に諸々の条件が付く。恋愛なんてものは、御家を存続する責務を果たしてからお妾さんとするものさ。その辺は兄上だって弁えていることだよ。ビジネスライクで、とことんドライな作業さ。まあ、だからこそそれを呑めない若いうちは、ロマンスなんて幻想に逃げ込むんだけどね」


 これは何も僕独自の哲学と言う訳じゃない。この世界の貴族全体が共有するメソッドの一つだ。どうにも女性に選択権の少ない、マチズモ全開の考え方だが、社会そのものが御家大事の封建制だから仕方が無い。これを覆そうと思うなら民主化と人権思想の啓蒙が必須である。が、僕には興味の無いことだし、それなりに貴族の特権を活用している身としては賛同しかねる話だ。もし女性や平民に生まれていたら、何とかしようと躍起になったかもしれないが。


「それに平民だって似たようなものだろう?」


「そりゃ、な。貴族の嫁なんざ、うだつの上がらねェ下々の者には過ぎたもんだし、農民なんかはどれだけ子を産めそうかで相手を決めるしな。商人なんかも、貧乏人とは結婚したくないだろうし、娘をやりたくもないだろうよ」


 結局はどの身分もこれだ。大事なのは建前と実利で、感情は二の次、三の次である。

 この世界では結婚の自由、なんていうお題目は、初めから絞り込まれた相手の中から選ぶ、限られた自由でしかない。場合によってはそんな自由さえ無い。絞り込みの条件から外れた相手と無理に添おうとした先は、良くて失恋、悪くて悲恋だろう。碌な結果が待っていない。だから大抵の貴族は愛人なんてものを作って、結婚を度外視した道ならぬ恋愛に走るのだ。それはそれで大小の悲劇の元であるのだが。

 そう考えると、一番自由に相手を選べる身分階級とは、やはり冒険者なのだろうか。彼らは相手の身分に拘らなくても成り立つ腕一本の稼業だし、一部の凄腕はこのドゥーエのように貴族に召抱えられることもある。流石に王家の姫君を娶るとまでは行かないだろうが、それでも他に比べると最低ラインと最高到達点の幅広さは圧倒的である。


「おっと、話が逸れちゃったね。そろそろ話題を戻そうか。ところで、ユニはどう思う?」


「……あ、はい。何でしょう?」


「兄上の結婚についてさ。話した通り、僕なら結婚すら謀略の一環に盛り込むのに躊躇いは無いはずだと思うんだけど」


 話を振られたユニの反応は、どうも思わしくない。普段なら打てば響くような答えを返してくれているところなのであるが。


「そうですね。ご主人様が正しいと思います」


「そうかねェ……あのプライドの高そうな伯爵殿だぜ? 婚儀なんていう人生の大事な節目を謀略で穢すなんて手段、好んで取るとは思えないんだが」


「好んで取らないということは、裏を返せば切羽詰まったら取るってことだよ。何しろ僕が守勢から転じて攻勢に移る気配を出しているんだ。僕を嫌い抜いている兄上が、逆にこっちから手を伸ばされると感じたんだよ? どんな手段を選んだとしても、僕は驚かないさ」


「言われてみりゃそんな気もするが」


「それに兄が嫌がっても、ラヴァレ侯爵の方から焚き付けたかもしれない。彼なら兄上を完全に自派閥へ取り込む為の政略結婚もしたがるだろう。三十路にも届かない若造一人、口車に乗せて婚儀に同意させることも、そんなに難しくはないはずさ」


 ヴィクトルらから聞いただけでも、その程度の謀はやってのけそうな爺さんである。

 ちなみにそのヴィクトルは、今回はマルランで留守を預かってもらっている。彼は侯爵に近過ぎる。脳味噌を弄られているので反逆の心配は無いだろうが、彼の端々の態度から何かを気取られる恐れもあった。なので今回は彼を残したのである。別の馬車で随伴しているのはルベールを中心とした数人の幕僚たちだ。いずれも侯爵との繋がりの薄い者から選別してある。逆にそこから作為を疑われる可能性もあるが、向こうとしても僕がのこのこと元侯爵陣営の者を伴うとは思っていないだろう。


「…………」


 それにしても、ユニときたらどうしたんだろうか。何だか急に口数が少なくなってしまった。確かに無口な子ではあるが、必要なことや疑問に思ったことは遠慮無く言ってくれるはずなのだが。

 何か不調を来たすようなことでもあったのだろうか?

 一年前のことを思い出す。この道を馬車で下ったあの日も、メイドの一人が様子をおかしくした。それが量産型だったから大した問題にならなかったものの、今回はユニだ。替えの利かない存在であるし、何よりメンテナンスする設備にも乏しい。これから敵の本拠地同然の王都に向かう矢先でもある。彼女の不調は困った事態を引き起こしかねない。

 だが、


(ま、大丈夫だろう)


 僕はそう楽観していた。

 何てたって、彼女は僕の最高傑作だ。細かいエラーの発生は不可避であるが、大略を狂わすような問題は起こすまい。起きたら自分で何とかするか、手に余れば素直に言ってくるはずである。

 ユニとは、そういう存在だ。


「……もう少し、気ィ使ってやったらどうだい?」


 ドゥーエが頭を掻きながらそう呟く。

 彼もユニの様子に気づいているのだろう。肉弾一辺倒の男に見えるが、それは彼の身体的な側面であって、内面的には案外細かいところがあるのだ。それは僕も知っている。

 けれども、今回ばかりはその心配は無用の長物だ。


「さて、何のことかな?」


 僕はとぼけて窓外の景色に目を移す。

 一年前をなぞるような道行きだが、今回は以前と違い、盗賊に出くわすことも無かった。




  ※ ※ ※




 目出度い婚儀を控えているというのに、今日も今日とて王都のオーブニル邸は謀議の場であった。

 事を仕組んだ張本人であるラヴァレ侯爵は、まるでこの家が自分に茶を供する為にあるとでも言いたげに、今もテラスに陣取っている。


「本当に侯爵様とは仲がよろしくていらっしゃるのね?」


 溜め息混じりにそう言う令嬢に、ライナスは顔を顰めて見せた。皮肉の意図が明らかであったからだ。


「そう言われるな、シモーヌ嬢。我らの婚儀にも並々ならぬ尽力を頂いた方だ」


「なら、もっと嬉しそうに仰って下さらない? それと、妻となる相手への口利きしては、他人行儀が過ぎるのではなくて?」


 ライナスの反駁をバッサリと斬り捨てる令嬢。彼女こそ、その言の通り、明日には彼の妻となる女性だった。

 僅か一月前に顔を合わせた相手。以後もそれらしい感情を育まぬまま至った結婚前夜。それに対する不満は態度の端々に現れていたが、公の場でそれを見せぬ程度の雅量はある。欲を言えばもう少し優しげな方がライナスの好みだが、顔立ちも上等の部類ではあった。多少家柄が気にならないでもないが、政略結婚の相手としては、良い物件である。

 彼女……シモーヌの実家は、娘が伯爵に嫁しても辛うじて認められなくもない、という程度の寒門だった。またそんな身の上だからこそ、この急な婚儀に花嫁役として抜擢されたのだろう。それでも身代が許すぎりぎりまで、高度な教育を受けさせた娘でもある。話が決まって挨拶に来た時、彼女の両親の笑顔は引き攣っていた。掌中の玉を、こんな悪名高い家に嫁がせたくはないのだと見えた。より爵位が低かろうと、真っ当な家に行かせたかったに違いない。

 その点もまたライナスに引け目を感じさせる。彼女の両親は、あの忌々しい愚弟に比べると実に立派な貴族であった。こちらは彼らの可愛い娘を、謀略ずくの結婚の為、猫の子のように引っ手繰っていったという負い目もある。それを思うと、反駁を漏らす口も重くなるというものだ。


「……婚儀の前日にまでわざわざお越し頂いたのだ。相応の歓待はせねばなるまい」


「では早々に行かれたらどうです? 私もあまり身の重い方がお傍に居られると、気詰まりしてしまいそうだわ」


 放胆にも派閥の領袖に対して、さっさと帰してしまえと言っているのだ。

 仕方の無いことではある。元よりこの結婚は、侯爵の無理押しがあって初めて成り立ったのであった。侯爵が手駒として――否、舞台装置として壇上に上げるまでは、この娘にも彼女自身の人生という物があったはずである。それが策略を進める為にこの有様だ。ライナスだけでなく、その裏の仕掛け人にも、さぞ飽き足らない思いを抱いていることだろう。

 あの妖怪爺を嫌っているという点では、この男女も同志であった。通じ合っているのは、その点だけしかないのであるが。


「分かっているとも。あの方とて、長居するつもりはあるまい」


 半ば願望を含んだ答えを返しながら、ライナスはテラスへと向かった。

 侯爵は屋敷の給仕を己の家臣のように使いながら、今日も悠々と茶を喫している。いつもと変わらぬ小面憎さだった。トゥリウスの事が片付いたら、さっさとくたばって欲しいところだが、この矍鑠さではあとどれだけ生きるかも分からない。下手をすると、九十、百まで生きるかもしれなかった。

 何しろ下世話な風説では、閨のことも老いて益々盛んと聞く。


 ――荒淫が祟って、ぽっくり逝ってしまえばいい。


 そんな悪罵を飲み込みつつ、ライナスは頭を下げた。


「申し訳ございません。長らくお待たせしたようで」


「シモーヌ嬢が中々放してくれなんだか? 妬けるの。ほほっ」


 冗句と共に軽い笑いを漏らしながら、眼光は冷たい。明日より夫婦となる二人が、揃って自分を嫌い抜いていることくらい、この老人はお見通しなのであろう。その上でこの振舞いなのだから、まったく面の皮の厚いことであった。


「恐れ入りますが、持て成しに足りぬ物などございませんでしたか? 何分、今は立てこんでおります故」


 この婚儀を仕組んだのは貴様であろう。耄碌しておらぬ限り、日取りも頭の中に叩き込んでいるはず。それをどうして、その前日などに来たのだ?

 そんな意図を込めた言を向けると、老侯爵は愉快そうに眼を細めた。


「急くな急くな。そこもとの持て成しは十分よ」


 言って、ラヴァレはまた一口茶を啜る。

 そして、ちらりと眼下の通りを眺めて……珍しいことに顔を顰めた。


「――貴族たちよ! 我々は怒りを覚えている!」


 貴族の宅地が並び、閑静であるはずの街並みに、野卑な怒号がこだましている。

 見れば、頭に白布を巻いた工夫の態の男が、大袈裟な身振りを交えながら声を上げ、街路を練り歩いていた。その背後には、十数人のくたびれた男女が付き従っている。中には『民衆にパンと慈悲を』、『貴族たちのワイングラスには、我らから絞った血が注がれている』などと書かれた、粗末な筵旗(むしろばた)を掲げている者もいた。


「我々は圧制者たちからの解放を――!」


「ああ。活動家、などと僭称する平民どもですか」


 ライナスは軽蔑も露わに鼻を鳴らした。

 近頃のブローセンヌには、あのような手合いが増えている。困窮した都市労働者や、地方から流れて来た逃散農民たちの胡乱な集合体。税の軽減だの平民の地位向上だの、立派なお題目を唱えてはいるが、所詮は食い詰め者どもが、空かした腹に詰まった空気を下品に絞り出しているに過ぎない。要するに、所と化粧を変えた一揆ばらである。それがライナスの……否、この国を動かしている貴族たちの見解だった。


「警邏の者も何をしているのやら。斯様な輩が貴族街を我が物顔で歩くなど……世も末ですな」


 或いはすぐ傍にいる老人以上に、婚儀前夜の雰囲気を損なう連中へ、新郎は不快げな吐息を漏らす。

 貴種に服すことを知らず、税も満足に納めず、無教養な自身を省みることも無く天下の政道に嘴を差し挟む衆愚ども。これでは首輪の縛りで事足りる分、奴隷の方がまだましだとライナスは嘆いた。


「然り然り。これも乱脈な統治の行く末じゃろうて。故に、この国は一刻も早く正統へ服さねばならぬ」


 ラヴァレ侯爵は、出し抜けにそう口にした。


「儂が思うに、大衆とは粘土細工のごときものよ。形のみを整えようと、その内に強固な骨組みが無くば、いとも容易く醜く崩れる。彼奴等には必要なのだ、寄り集まった巨体を支持する、確固たる柱が、の」


 要するに、それが王室の権威であると言いたいのであろう。ライナスは自分の顔が渋くなっていくのを自覚した。


「……ご高説は耳に痛く存じますが、目出度き日を控えている身でもあります。どうか御遠慮を」


 己は婚儀を控える婿であり、貴様はその媒酌人である。無粋な政談をしに来た訳ではあるまい。そんな思いを滲ませつつ睨みつけてやると、ラヴァレ侯爵は面白くなさそうに鼻を鳴らした。


「だから急くなと言うに……今日参ったのはな、ほれ、婚儀には引き出物という物があろう? 貴殿の弟御が喜ばれるかと、前々より手を尽くして探していた物が、ようやっと手に入ったでだな。良ければ主人である伯爵の手から渡してやってくれぬかね?」


「引き出物、でありますか。それはそれは……」


 ラヴァレの言葉に、ライナスは固い唾を飲み込む。

 【引き出物】――婚儀の席での仕掛けを指す符牒だった。

 何かトゥリウスの死命を制する策でも用意したのだろうか。

 我知らず期待に目を輝かせるライナスへ、侯爵は包み紙にくるまれた箱を差し出した。

 手応えからして中身は空であるかのように軽いし、その割りに包みが厚い。おそらくは包装の裏にでも計画の詳細などが書かれているのだろう。ライナスはそれを察して、包みを破かぬよう、慎重に解く。

 果たして、幾重にも撒かれた包装には、やはり裏に綿密な文章が書き込まれていた。


「こ、これは……!?」


 彼は書かれていた内容に目を丸くした。


(ありえるのか? こんなことが……!?)


 それはある貴族に纏わる醜聞だった。古い話で、とてもではないがあの弟に関係することとは思えないが、……一本の線が、トゥリウスとその事件を結び付けていた。何という奇縁か。そしてそのスキャンダルを元に、相手の戦力を削ぎ落し、後の行動をも鈍らせる。そんな策の詳細な計画が記されていた。


「驚かれたかな? 儂とて、よもやこれ程の物が見つかるとは思わなんだわい。念の為に由緒も検めておった故、渡すのが遅れたわ。許されよ」


 瞠目するライナスに、侯爵はそう説明する。

 つまりは裏付けは既に取っているということだ。これ程の大仕掛けである。侯爵ほどの経験を積んだ策士が、偽報の可能性のある情報を、策の根幹に据える訳は無い。


「め、滅相も……無い」


 ライナスとしたことが、思わず口籠る。そんな反応を返さざるを得なかった。

 この策を実行すれば、下手すればある高位貴族の御家騒動に発展しかねない。王都の政情に影響する可能性もある。

 だがそれが表沙汰になったとて、ライナスに痛痒は一切無い。この生き汚い老策士、ラヴァレ侯爵が仕掛けるということは、損得を秤に掛けて見返りの方が大きいと踏んでいることであるからだ。多少の波乱が起ころうと、最終的にはプラスになると算盤を弾いているのだろう。ライナス本人にも大した関係のあることではない。逆にあの愚弟へは心理的にも政治的にも確実に打撃となるはずだ。これはそういう類のものである。

 ただ問題は、標的がこの大仕掛けの種をどこまで知っているかだった。


「この件……愚弟めは存じておるでしょうか?」


「さてな。ただ、知っておればそれ相応の処し方を施しておるじゃろうて」


 言われて少し考える。自分の知る限り、その気配は無い。つまりトゥリウスはこの仕掛けに対して無防備だ。


 ――決まる。


 この策は必ず決まる。ライナスは強く確信した。

 侯爵は逸る彼を窘めるように言う。


「ただの、この爺には若者の趣向が分からぬでな。果たして貴殿の弟御、この贈り物だけで胸を衝かれるほど喜んでくれるものかどうか……」


 策の性質上、即座にトゥリウスを追い込めるものではない、ということだ。

 だが、十分だ。この策が決まればトゥリウスは大きく戦力を減じる。少なくとも大きな動揺は見込める。そこに二の矢、三の矢と追い打ちを掛ければ、必ず討てる。

 それにしても、このような事実に気付き、これ程の仕掛けを用意するとは、やはりこの妖怪は只者ではない。あの悪魔の次に憎む相手であるが、この時ばかりは組んで良かったと思わされた。

 ライナスは、ラヴァレ侯爵に対して初めて赤心から頭を下げた。


「深甚なるご配慮、感無量であります。愚弟もきっと気に召すことでしょう」


 出来ればそのまま天にも召されればいい。

 地獄に堕ちろ、とまでは望まない。

 最早、あの鬼子が死んでくれさえすれば、どうでも良かった。


(早く来い、トゥリウス……)


 婚儀は明日。憎らしい弟は、遅くとも今日中には王都に到着するはずだった。期限はぎりぎり、余裕を持つ者たるべき貴族とは思えない行動である。だがそれが幸いして、トゥリウスにこの仕掛けを勘付かれる恐れは無い。


(今度ばかりは、目一杯に歓迎してくれよう……!)


 思いながら、テラスの外の通りを見下ろす。

 先程まで囀っていた群衆は、駆け付けた警吏たちに追われ、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っていた。

 権と威に翻弄され、為す術もないままに。

 

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